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なんの予定もない日ほど早起きできるし予定がある日に限って寝坊する。
朝のニュースを見ていたら女児のバラバラ死体遺棄事件を報道していて、加害者宅から少量の血痕が見つかったらしく最悪な結果を想像をした。
目に映るものすべてが美しくて汚かった。
昔からだいすきで、だいすきだからこそなかなか読めない小説を久しぶりに読んだら案の定苦しくなった。閉じ込めることと閉じ込められることは緩やかな自殺だと思った。やさしい恋人は彼に似ていた。
小説を読んで泣いた後のわたしの顔は酷かった。鏡を叩き割りたくなった。テレビや窓に自分が映るのが気持ち悪かった。
可愛いひとが、よく「コンプレックスだらけでした」などと言っているけれど、そんなことコンプレックスを克服しない限りは言えないよなあと思う。
信じれば夢は叶うと言うけど、あくまでそれは叶うまで信じ続けた結果でしかない。綺麗事を言うには、汚いが綺麗になるまで磨き続ける必要がある。
世の中は細菌だらけでわたしの心も癌に犯されている。思春期ってかっこ悪い。
汚いのもばかり見ていたらさっき食べたものまで汚く思えて吐いた。どこまでいったら清潔になれるのだろう。無菌室で暮らしたい。無菌室で暮らしてすきなひととだけ会いたい。百年後の明日も、きっとわたしはあなたと出会っていてほしい。
あれから少し経った。
警察は夏目雄哉の捜索を続けたがホテルに泊まったところまでしか足取りは掴めなかった。
ホテルの浴槽に彼の髪の毛が一本落ちていただけ、という結果が生徒にも知らされた。
誰も見ていない。
誰も気づいていない。
今度こそは大丈夫だ。
未だにわたしはあの日のことを思い出すと家から出られなくなったり夜中に汗だくで起きたりすることがあるけれど、朝日の方は何事もなかったみたいに生活していた。
わたしは、と思った。
わたしは、これからどうやって生きてゆけばいいのだろうか。
きっとこれからだって嫌がらせを受けたり乱暴されそうになることはあるし、でもその度殺していたらわたしたちの方がだめになる。
警察だって馬鹿じゃない。こんな短期間に校内の生徒が二人も死んでいるんだから、もっと怪しんでもいいくらいだ。
事件から一週間が経ったとき、わたしは職員室に呼ばれた。
鼓動が速くなる。
今すぐ、と言われたので朝日と話すことも出来ず、わたしは教師のあとに続いた。
「昨日か一昨日にね、山本と行方不明の夏目が廊下で話してるのを見たって奴が来てね、今日刑事さん呼んだから、なんでもいいから話して。まあ、重要なこと知ってたらお前だってもっと早く言ってくるよな。」
「はい。」
嘘はつけない。
警察は嘘発見器みたいなものだから下手な嘘はつかない方がいい。
けれどもう夏目は死んでいる。事実を都合のいいように捻じ曲げるくらいならできる。
「失礼します。」
重たいドアを両手で開けながら言った。
わたしには力がない。
馬鹿な男ひとり殺せない。
「はじめまして。山田です。」
刑事は二人いて、新米っぽい方が挨拶をした。
もうひとりのベテランっぽい方は軽く会釈しただけだった。
「山本です。」
微笑みながら言ったつもりだったが頬が引きつった。
「それでね、夏目君ののことなんだけど」
「はい、伺ってます。」
「夏目くんが行方不明になった日、君と夏目君が一緒にいたのは何時頃かな。」
「放課後です、呼び出し、というか・・・」
「そう、前から親しかったの。」
「いえ、あの日、初めてお話しました。夏目くんの方はわたしを知ってるみたいでしたけど。」
「そう、呼び出された内容を聞いてもいいかな。」
「んなもん告白だろ。」
ベテランの刑事がニヤッと笑って口を挟んだ。
「そういう、感じでした。」
「それで君は。」
「・・・お断りしました、まだ話したこともない方だったので。」
朝日の存在は知られてはならない。
わたしにそういう相手がいるとわかったら警察が朝日にたどり着く可能性は高い。
ここからだ、大丈夫、今度こそ。
「あの、でも・・・。」
「でも?」
わたしは言いにくそうにして怯えと恥じらいの表情を作った。
「無理矢理、手を出されそうになりました。」
その場の空気が一瞬にして変わった。
被害者が加害者になったのだから。
「・・・わたしがお断りしたら、夏目君は逆上して、会議室の鍵を全部閉めて、わたしが逃げないようにして、」
気を使ったのか同伴していた女教師がわたしの肩に手を置いてきたが、今更そんなのなんの救いにもならなかった。
「そうだったか、いままで話せなかったわけだ。」
とわたしを連れてきた教師も言った。
「体を触られただけですし、吹奏楽部の音に警戒した隙にどうにか逃げ出せましたし、こんな大事になってしまって、言う程のことではないというかそれどころではないというか・・・」
「そうでしたか、話してくれてどうもありがとう、辛かったでしょう。」
わたしは何を言うでもなく、俯いて首を傾げた。
こっちのものだ、と思った。
警察も教師も、わたしの手のひらの上で踊ってるだけだ。
「どこでそれをされたんだ、君は」
ベテラン刑事が口を開いた。
「会議室です、なぜか鍵を持っていました。」
「その会議室、見せてもらえるかな。」
「どうぞ。」
と教師。
会議室に入った瞬間、あの日の音と匂いがフラッシュバックして眩暈がした。
においを感じるのはわたしだけだろうかと不安になった。
わたしはここにはいられない、と思った。
刑事はいろいろなところを触ったり見たりしていたが、わたしが女教師に気分が悪いと伝えると、今日はもう帰っていいと伝えられた。
ふらふらする体で教室に戻り荷物を持って外に出た。
もうそろそろ冬服に変えないと、と思った。
帰り道の公園に朝日はいた。
もう秋桜が咲いている。
「秋桜。」
「おかえり、なんて。」
「あの日のこと聞かれた。呼び出された理由とか。乱暴されそうになったって話して被害者ヅラしたから疑わないと思う。いま会議室見てる、わたし見てられなくて帰ってきちゃった。」
「そう、ごめんね。嘘つかせて。」
「慣れっこ、嘘には。」
「つらいね。」
「人生は荒野だから、道がないのは当たり前のことだって。苦しむのも当たり前のことだって本で読んだ。人生が厳しいと思わないひとや、人の道を外れていないひとは、ただ、他人が通ったあとの道を歩いてるだけだって。そんなのはやだと思った。」
「なるほど。柑奈は楽して生きようと思えばいくらでもそうできるのに、わざわざ苦しい道を歩いてる様に見える、そこがいい。」
「それはひーくんもでしょ。」
「うん。」
わたしたちは手を繋いで帰った。
「またあした。」
「うん、またあした。」
あしたが、きょうとたいして変わらないあしたが延々と続くとわたしたちは思っていた。生きてる訳でも死んでる訳でもないような、幸福でも不幸でもないような、目の前の霧が拭いきれないような日々をこれからも二人で這いつくばって行くんだと思っていた。
わたしががこれほど彼にに執着しているのは、たぶんあなたを自分で勝手につくりあげているせいだ。わたしは彼の正確な身長も体重も成績も過去も知らない。プロフィール、と呼ばれるものを知らない。知らないと言うか、必要なかった。名前を呼ぶこと、つまらない話をすることは口があれば出来るし、それを聞くことは耳があればできる。体があれば抱き合うこともできる。他に持つべきものも知るべきこともなかった。それでもわたしたちが手を繋いでいられたのは、わたしの中のあなたがわたしに忠実で正しくて美しかったからだと思う。
彼が殺人鬼と呼ばれても、サイコパスと呼ばれても、わたしの中では愛しく美しい存在でしかないのだ。それはきっと今日も明日もずっと変わらないことで、変わるべきではないことだ。
朝日からの連絡がない。
今日も学校を休んだ。
家にも来ないし電話も通じない。
彼との関係を隠している以上、教師に聞くことも彼の両親に聞くことも出来なかった。待つことしか出来なかった。
また一人で戦わせてしまっていることが悲しかった。
彼が学校を休んで3日経った日、わたしはまた教師に呼ばれた。
会議室に鑑識が入った結果、夏目雄哉の血と唾液が見つかったという。
ビニールシートを広げて切断したのに、どうして。
「あの日の夏目くんが、どこか怪我をしていたとか、君と揉み合いになったときに怪我をしたとかそういうのはなかった?」
刑事は言った。
「わかりません、パッと見てわかるような傷はありませんでしたけど…、わたしも必死で…。」
「そうだよね、いや、暴れまわったなら多少の怪我はするし、喋ったら唾液も飛ぶからね。ありがとう。」
「それだけですか。」
「うん、つまらないことで呼び出して悪かったね。この学校で、短期間に二件事件になってるってことでかなりマスコミも騒ぐし、事件性があると見て調査をし始めたんだ。このままじゃ、君たち生徒も不安だろうし。」
わたしは何も言えず、頭を下げて部屋を出た。
そこで今日も同伴していた女教師に呼び止められ、別室に連れて行かれた。
「これ。」
差し出されたのは小さな箱だった。開け口にロックがついている。
「なんですか。」
女教師は切なそうに微笑んで話始めた。
その話は、わたしにとって何よりも残酷な話だった。
「鈴原朝日が、あなたに渡してくれって。ほんと、大人を信頼してないのね。こんなロック付きの箱なんて。あなたたち、そういう関係だったのね。」
「朝日はどこですか。」
「やっと吐いたわね。三日間待ってたのよ。いつになったらあなたがわたしたちに彼のこと尋ねてくるかって思って。なのにあなたはなんにもなかったみたいな顔して普通にしてるんだからびっくりするわよ。必死で守ってたのね、彼を。」
知ってたんだ。
彼が学校に来なくなった日から、ずっと彼は警察から事情聴取を受けていたという。
「全部あの子がひとりでやったみたいね。」
疑うような目でわたしを見る教師。
「警察が裏を取って、彼女のためにしたことなんじゃないのかって、彼女を守るためにしたことなんじゃないのかって何度聞いても首を振るそうよ。気に入らなかったから殺しただけだって。警察はきっとまたあなたに話を聞きにくるわよ、あなたがすべてを語らない限りずっと。」
わたしは何も言えなかった。
あの日、またあした、と言った彼の声すら、はっきり思い出せなかった。
まあいいわ、と教師は立ち上がって部屋を出て行った。
わたしは箱を大事に抱えて家に帰った。
帰り道の公園にもやっぱり朝日はいなかった。
秋桜を三つ摘んで持って帰ってコップに生けた。この秋桜が枯れたら死のうと決めた。
ナンバーは考えなくてもわかる。
三つあるキーすべてを七に合わせると案の定箱は空いた。
中には一通の手紙が入っていた。
「柑奈へ。
警察にいってくるね。
多分もう嘘はつけないと思う。
柑奈ごめんね。いっぱい頑張ってくれたのに、結果的に君を傷つけることになってしまってごめんなさい。俺が柑奈をしあわせにしたかったし、しあわせにできるのは俺だけだと思ってた。でもそうじゃなかった。柑奈の周りの邪魔な人間を消し去ったとき俺は思った。次に邪魔なのは俺だ、って。罪は全部俺が被る。この手紙も読んだらすぐ燃やして欲しい。柑奈。俺はきみの手がすきだったよ。心は冷たいのかもしれないけど、いつもあったかくて華奢で綺麗な手がすきだった。それに触れるだけで俺がこの手で犯してきた罪は全部浄化されるような気がしてた。柑奈は俺の天使だった。柑奈はこの汚れた世界の中の唯一の聖域だった。ありがとう。もう死んでもいいって何回も思った。いつまでも生きたいとも思った。柑奈、俺はしあわせだったんだよ。愛してるよ。しあわせに。 朝日」
何もわかっていない。
彼は何もわかっていないと思った。
わたしには彼しかいないのに。
朝日なしでしあわせになどなれないのに。
朝日を失う位なら、二人揃って死刑台にのぼるほうがましだと思った。
もうとっくに秋桜は枯れた。
それでもわたしは死ねなかった。
死は、忘れることと道義だから。
わたしがいなくなったらこの世に誰も彼を想うひとはいなくなってしまう。
帰ってきたとき、すべてを聞いてあげられるひとはいなくなってしまう。
彼の悲しみはわたしの悲しみだった。
分かり合えないほうがいい、分かち合ったところでなんの解決にもならない悲しみは幾つもあるけれど、悲しんでいることを知ってさえいれば、抱きしめてあげられる。
朝日、わたしは大人になれずにいます。あなたがいなくなって、どうにか一人であなたとの約束を守らなきゃって思って、何度も何度もあなたからの手紙を読みました。でも、どうも今のわたしにはしあわせという概念がないらしく、なんとなく消費するように日々を過ごしています。柑奈は、ひーくんといるときだけがしあわせでした。柑奈はまだ高校生のままです。変われなかった。人を殺して、心がべたべたに汚れてもまだ、柑奈は、ラッキーセブンって学校の帰り道笑った日の柑奈です。ごめんね、柑奈は本当はあの日、朝日とふたりで死にたかった。離れ離れになるくらいなら、あなたひとりに背負わせるくらいなら、一緒に終わりたかった。手紙は燃やしましたが何度も読んだので一字一句おぼえています。柑奈は、朝日のことをずっとずっとだいすきです。あなたはわたしの太陽だったよ。どんなときも昇ることをやめない、わたしの唯一の光でした。朝日。できるならもう一度、あの日に戻って猫みたいにふたりで抱き合いたいです。だから、その日まで。またあした、って言った日から、まだわたしたちに明日は来ていません。生まれ変わったら、とかじゃなくて、いつかまた、同じ世界で同じようにであって、今度はとびきりしあわせな恋をしよう。
「おかえり。」
「ただいま。」
「雨だね。」
「濡れて帰ろうか。」
わたしたちは前世は双子だったのだ、と思った。
考えていることがすぐにばれてしまうしやることも似ている。
空白は空白のままそこにあるけれど、決してそれ自体が色褪せた訳ではなかった。
「俺たちは双子みたいだ。」
「わたしもいまそう思った。」
「柑奈はひとりで俺を待ってるってずっと思っていたよ。」
「わたしも朝日の帰る場所はわたしだと思っていたよ。」
「よかった。」
彼が余りにもあの頃と変わらない表情で微笑むから、わたしは泣きそうになった。
9
完結です。