ビデオレター
記憶で一番最初に忘れるのは声だという。
私が幼少の頃に亡くなった母の声を思い出すことができないのも、それが理由なんだろう。
生前の母の嬉しそうに幼い私を抱く写真を見ても違和感を覚える。
私にどんな声で話しかけていたのだろう。
思い出す度に記憶は不鮮明で、いつも母の写真は水彩絵の具のように現実味が薄い。
そんな私も27歳、奇しくも母が私を生んだ年齢になった。
最近、3年付き合った彼氏からもプロポーズされ、式が決まった。男手一つで私を育てた父も喜んでおり、親孝行ができたとも感じていた。
順風満帆という四字熟語がしっくりくる、この時期。
私だけが何か、取り残されていた。
幸せを望んで手に入れたはずなのに、周りはお祝いモードで私だけが冷めている。
甘い飴だと思って舐めたら、無味無臭の石ころだった。
触感だけざらざらして、すぐにでも私は吐き出したいのに。
周りは飴をもらえてよかった、と言っているので口からは出せない。
こんな妙なしこりがずっと口の中で溶けずに残っている。
「マリッジブルーなのかな・・・」
私は一人ごとを呟くと、背中から物音が聞こえた。
あっ、いつもの癖で一人ごとを呟いたが、今は長年勤めた仕事も辞めて一人暮らしのアパートを引き払い、実家に帰ってきているんだった。
今の聞こえちゃったかな・・・。
内心不安に思っていると、それは杞憂に終わる。
白髪交じりの父がいつもと変わらない無表情でお茶を煎れているところだった。どうやら聞こえていなかったようだ。
仮に聞こえていたとしてもそこまで突っ込んで聞いてはこない。父は良くも悪くも私と距離感を取って接してくる。
私と友達のように話しかけてくる馴れ馴れしさはないが、会話をする時は挨拶と「飯どうする?」ぐらいで、熟年夫婦のような必要最低限の会話だ。元々、無口な父に多くは望まないし、詮索されずに済むだけで私の居心地は悪くない。
そんな事を取り留めもなく考えていると、私の前のちゃぶ台に湯飲みが置かれる。
「ありがと」
「ん」
父は私の礼に短く答えて、自分用の焦げ茶色の湯飲みを啜りながら新聞に手を伸ばした。
小さい頃に見た父はもっと大きくて怖かった。
何を考えているのかさっぱり分からない表情で、子供の私には圧迫感があった。そんな父の手は皺が増えて、少し痩せたのか腕も細くなったように感じられた。最近、父がこんなに小さくなったことなんて私は知らなかった。
「お父さん」
「ん?」
父がこちらを見つめてくる。
私は父に向き直って話し始める。
「これってさ・・・」
悪戯をして叱られる子供のように私は身をすくませながら、黒い固まりを差し出した。
父はそれを見て、一瞬驚いたような表情を浮かべ、その後懐かしそうに目を細めた。
「残ってたのか」
「この間、物置を片づけていたら古いビデオカメラが出てきたんだ。中には『1988~』ってラベルの入ったビデオが入っているだけど・・・。これってお母さんが映っているの?」
父は小さくうなずく。
「貸してみなさい」
父は大事そうにそのビデオカメラを受け取ると、いくつかの動作確認をした後、テレビとビデオカメラをコードでつなぎ始める。
「昔は珍しらくて高価だったビデオカメラを母さんが妊娠の記録を取ると言って聞かなくてな。お前と一緒で頑固者で、三日三晩喧嘩して最終的に私が折れて、買わされてな」
父がいつになく饒舌だ。
昔を思い出して少し口元も笑っている。
思わぬものを見て、私はすこし恥ずかしくなった。
「映るといいんだが」
接続が完了し、探り探り父がカメラのスイッチを入れると、多少ノイズはあるが、映像が映し出される。
そこは9畳ほどの和室の居間で、新品のちゃぶ台とブラウン管のテレビがある。
まさに現在、私たちがいる居間である。
そして、その中心に若い女性が映し出されている。短い活動的なショートヘア、活発な瞳、薄い唇、綺麗な歯並び。多少幼い印象を持つが母だ。
母は時々、こちらを心配そうにこちらをのぞき込みながら「ちゃんと撮れてる?」と不安そうに尋ねてくる。カメラマンの男性の声も聞こえる。父の声だ。
父を見ると、久しぶりに動いている母を見るのと、若き日の自分の姿を娘に見せるのは少し恥ずかしいのか、困ったように眉毛を下げていた。
しばらくすると、母がこちらに向き直り、満面の笑みでこちらに話しかけてきた。
「やっほー! えーと、今日から我が子の成長記録を撮っていきたいと思います。現在は妊娠3ヶ月です。まだ男の子か、女の子かも分からないけど、我が子よ、愛しているよ!」
お腹をさすりながら、ハイテンションの母が話しかけてくる。
当たり前のことだが声に聞き覚えはなく、こんなバカっぽい母だったのかと残念に思うのと同時に、私に少し似ている事に腹が立つ。同族嫌悪というやつだろうか。
父も明らかに苦笑をしている。
そこから記録は1時間以上も収められており、日に日に大きくなるお腹に母は大変そうながらも『今日は検診で赤ちゃんの写真を見て感動した』とか『味覚の変化でソーダのアイスばかり食べている』とか『胸が張ってきてグラビアアイドルになれるかもしれない』とバカみたいなことを、心底楽しそうに話していた。クルクル変わる表情に飽きることはなく、気がつくとあっという間に時間が過ぎていた。
そして、出産日。
母がしわくちゃの元気な声で泣きわめく赤ん坊を抱いていた。
母はいつもの元気な表情はなく、体力を使ったのか疲れた顔であったが、それでも我が子を嬉しそうに抱えていた。
「あはは、本当に元気な子だな。よしよし、こりゃ子育ても大変そうだわ」
ようやく泣きやんだ赤ん坊は気持ちよさそうに母の腕の中で眠っている。
「うふふ、かわいい奴だ。女の子かぁ。では、ここで重大発表。この可愛い子ちゃんの名前を発表します」
自らドラムロールのBGMをつぶやき勿体ぶってから、名前を発表する。
「名前は、嘘をつかない真っ直ぐな希望を持った子に育って欲しいと願いを込めて、真希ちゃんです」
そう言って画面が、赤ん坊のアップになる。
と同時に、白地の『命名、真希』と急遽テロップが入る。
「これって?」
父を見つめると、居心地悪そうに咳払いをする。
「母さんが感動のシーンだからというから、テロップを作らされたんだ」
父も凝り性の所があるから、果たして母からの希望だったのか疑わしい所があるが。
そんな疑いの目を向けていたが、画面の母がまた嬉しそうに話し始めた。
「真希、やっと会えたね!」
赤ん坊を抱きしめる力が強かったのか、また赤ん坊が抗議の声を上げるように泣き始めて、看護師が飛んできて赤ん坊を取り上げていった。
それを恨めしそうに見つめる母を映して、画面はぷっつりと途絶えた。
「これでおしまい?」
「ああ、これ以降は子育ても忙しかったし、母さんも調子が悪くてビデオを撮れなくなったんだ」
日に日に弱っていく自分を母は記録に残したくなかったんだろう。まったくそんなこと気をつかわなくてもいいのに。
「でも、久しぶりに母さんの姿を見れてよかった。ありがとうな」
柄にもないことを話す父に私はなんて言ったらいいか分からないまま、曖昧に頷いていた。
そんな時、真っ黒だった画面が急にまた写りだした。
そこは暗く、裸電球の明かりが一つついている倉庫だった。
私がビデオカメラを見つけた倉庫だ。
画面は倉庫の映像からカメラを持ち替えたようで、カメラマンの顔のアップになる。
痩せこけた顔、カサカサの肌、しわがれた声、薄くなった髪を隠すために被ったニット帽。
母だった。
さっきまでの元気な様子から一変しており、病気が進行しているのがすぐ判別がついた。
父もビデオの続きがあったことを知らなかったみたいで驚いている。
「・・・やっほー。みんな元気している? 私はあんまり元気じゃないよ。病気も進行して、明日から3回目の入院となります」
不安そうな表情であったが、母はいつものように微笑もうと必死だった。
「みんなの前ではへっちゃらなふりしているけど、正直、めちゃくちゃ不安です」
瞳には涙一杯ため込み、それでも笑う母が痛々しかった。
「・・・私、死ぬのが怖いです。みんなと別れるのがとても辛いです」
涙があふれ出していた。
私もあふれ出る感情を抑えられなかった。
「一緒にみんなといたいよ。家族と離れたくないよ!」
嗚咽混じりの声が、しばらく続く。
父が拳を固く握りしめていた。
「そんな弱さを誰かに残したくて、誰かに聞いて欲しくてビデオに残しちゃいました。格好悪いからビデオは隠すから、見つけた人は黙って消去するように!」
そう言って、人差し指を立てて微笑む。
バカ、もうみんな見ちゃっているよ。
どうして辛いのを隠すの。
写真で残っている写真はいつも幸せそうに笑っていて、いつだって不安だっただろうに。強がらないでよ・・・。
「でも、これを見つけた人に伝えて欲しい事があるんだ。私の旦那と娘の真希に」
カメラをもう一度構え直し、母はビデオカメラを真剣な表情で見つめる。
「まずは私の旦那に。こんなお嫁さんで、ごめんね。いつもいっぱい迷惑をかけて、それでも許してくれて、あなたの一杯の優しさで私はいつも幸せでした。ありがとう、愛しています」
父が堪えきれず立ち上がり、急ぎ足で台所に向かった。
思いっきり水道の蛇口を捻り、思いっきり水を顔に浴びせる。
その背中を見るだけで父が叫びたくなる気持ちを抑えていることはよく分かった。
「そして真希。私とやっと会えたのに、いっぱい関われなくてごめんね。寂しい思いをさせてごめんね。私は・・・私は、あなたに出会えただけで幸せでした。大好きだよ、真希。愛している。またあなたを抱きしめるためにお母さんがんばるから、がんばるからね」
バカ・・・。
がんばらなくて、いいんだよ・・・。
「こんな格好悪いビデオレターは病気を治したら、みんなで見てさ。『お母さん格好悪い』とか言われて、みんなで大笑いして、笑いのネタにしてやるんだから。だからこんなのへっちゃらなのさ」
母がぐちゃぐちゃに涙で濡れた顔で、もう一度だけ大きく口を開けて笑った。
「みんな大好きだよ。みんな、愛している。だから、どうか、私を・・・忘れないで・・・」
最後は消え入りそうな声でビデオは終わった。
私はすぐ立ち上がり、父の背中に声をかけた。
「・・・お父さん、私、お母さんに会いたい」
秋の夕日を背中に感じながら、刻一刻と夕闇が近づいている。
母も命がこんな風に日に日に削られていくのを感じていたんだろうか。
私の目の前の冷たい墓石は何も答えてくれない。
線香に火をつけて、上る煙を見つめながら私は手を合わせる。
後ろにいる父も同じように手を合わせて、両目をつぶっている。
・・・お母さん。
ごめんね、私お母さんの声忘れてちゃっていたよ。
ううん、私、お母さんのことを忘れようと思っていたんだ。
だって、お母さんが死んで、私とても寂しくて、いつも泣いていたんだ。そんな自分が嫌で変わりたくて、実家を出て、お母さんのことを忘れようとがんばっていった。
・・・私、来月結婚するんだ。
私の大好きな人と幸せな家庭を築いて、子供には寂しくさせないようにがんばろうとしていた。どこかでさ、お母さんのこと意識していたんだ。
今日、お母さんからのビデオレターを見て思ったんだ。
やっぱりお母さんのことを忘れられないよ。
だってこんなにも愛してくれていたんだから。
お母さんがつけてくれた名前、私の一番大切の宝物だよ。
これからも私は、あなたの娘として精一杯がんばって幸せになるから。
だから、お母さん。
心配しなくても大丈夫、私は幸せです。
愛してくれて、ありがとう。
目を開けると、父が私を待っていた。
「もういいか」
「うん」
私は短く頷き、線香の煙を見送った。
この気持ちが天国にいる母へ届くように願う。
「帰るか」
父からの言葉に従い、立ち上がると。
「お父さん」
父の背中に声をかける。
「また来ようね」
父は少し間を空けてから。
「・・・ああ」
父は静かだがしっかりと頷いた。
お母さん、また来るから。
その時は私の旦那も紹介しますので、楽しみにしていてね。
心の中でそう呟くと、私の中にあった石のようなしこりが少しづつ溶けていくのを感じていた。
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