ついうっかり

図書館の一角の、目立たないところに日の光が適度に当たる窓際がある。図書館でさえうるさいこの大学で、その机と二脚の椅子が唯一の憩いの場だった。暇さえあれば何冊か気になる本を積み上げて読みふけったり、試験前には勉強したりととても活用していた。学部では「根暗」とよく噂されているのも承知ではあるし、自分が口下手で非社交的なのもいささか気にしているが、大学は勉強するところなので自分は間違ってはいないはずである。
しかし。
「あ、ごめんね、先に座ってた」いつものように静かに座るともう一つの椅子に座っていた向かいの相手が顔をあげた。

つい先日のことだ。いつものように放課後そこへ向かうと先客がいて、思わずぎょっと足を止めてしまった。別に占領したりしているわけではないが、いつも自分がここに居座っているのは周知の事実らしく、ここ2年ほど誰も寄り付いたりはしなかった。おかげでしゃべるのが苦手な自分が苦労することもなく、最低限の人間関係で済んでいた。しかしその机に、先客がいる。しかも女。頭は真っ白になった。しかしほかのところでは人が多くて本を読むのは無理だ。家に帰るために踵をかえそうとしたその時、さっきまで頬杖をついて本を読んでいた女の頭がこてっと落ちた。
「……寝てるのか?」少し興味がわいて、一歩一歩距離をつめて恐る恐る覗いてみる。完全に熟睡していた。おそらくさっきから瞼はとうに下がっていたのだろう。ふっと本に目をやると、「Wuthering Heights」の文字。自分もわりと好きな本で、さらに興味がわく。辞書が手元にないことからして、おそらく国際学科かなにかだろう。くーすーと寝息を立てる姿が少し薄着なのに気づく。図書館は夕方になると冷房が効きすぎることもあるし、このままだと風邪をひいてしまうなあと、気が付いたら上着をかけて立ち去っていた。そのあと相手が返しに来る時のことなど何も考えていなかった自分の間抜けさに心底腹を立てたのはその数時間後の話である。

「別に好きにしたらいい」ぽろっと口をついで出た自分のぶっきらぼうな言葉にもまた腹を立てるが、相手は「ありがとう」ととても嬉しそうににこにこしていた。気恥ずかしくなって目をそらす。
「そうそう、あのね、今日ね」あのあと上着に入っていた学生証を頼りに自分を探し当てた彼女は今と同じようににこにこしながらお礼を言い、自分が「別に」と返すのまでは想定内であったが、向かいを指して「私もここ好きなんだけど、座ってもいいかな」と言ってきたのは想定外であった。そしてそのままそのやりとりが日課になるのはもっと想定外だった。本を読み始めると同じように本を読み、目が疲れて顔をあげると同じくらいに顔をあげておしゃべりを始める。あのねあのねとしゃべる彼女にただただ相槌を打つだけではあったが、それでもなおにこにこして話しかけてくるのにとても内心安堵していた。根掘り葉掘り聞かずに簡単な質問や自分の話をするのはおそらくうまく言葉が出ない自分に対しての気遣いなんだろう。
彼女はなかなか整った顔立ちに加えていつでもにこにこしているのでいろんな人に好かれていたのだが、そこまで深い付き合いの友人は大学にいないようだった。そのことに気づいて少し優越感を覚えるこの気持ちはとうの昔に自覚しているが、彼女にとっても大勢の友人のうちの一人なのだろうし、いかんせんこんな性分なので特にこれといって進展はない。それでもほぼ毎日来てにこにこしている彼女を見ると期待してしまう。今も、今日同じ学部の男何人かにやや強引に遊ぶ約束を取り付けられて断る方法を探している、なんて話を聞きながら毎日毎日無愛想な自分としゃべっていて楽しいのかと思いつつも嬉しく思ってしまう……ちょっと待て、男だと。
「行くのか、それ」
「飲み会だっていうんだけど騒がしいの苦手だし…自分が普段騒がしいのに何言ってんだみたいな顔しないでね。それで、とっさに『ごめん無理』とは言ったんだけど…でもせっかく誘ってもらってそんな言い方なかったなとか…行ってみようかな…ちょっともう一回詳しく聞いてから考えてみる」
「…そうか」酔った男の群れの中に飛び込むということは自覚しているんだろうか。そもそも彼女は酒に強いんだろうか。…その中で誰か意中のやつがいるから迷っているのだろうか。たった三文字しか返事しなかったその内でぐるぐると考えが渦巻く。彼女自身が後悔するかもしれない、なんていうのは建前で、本音はどの男にも彼女を渡したくなかった。どうすれば思いとどまってくれるのか考えているうちに彼女が立ち上がった。
「まだみんないるかな?ちょっと行ってくるね」
「断れ」反射的に出た言葉は案外響いて、覆水盆に返らずという言葉を初めてここまで痛感した。彼女が振り返って眉を下げる。確か、困った時のくせだった。
「ど、どしたの急に」おびえたように彼女が見つめてくる。ここまでくるともうやけくそで、必死で持てる言葉すべてを総動員して話を始めた。
「そもそも酒は強いのか?襲われたらどうするんだ?そういう目的だったらどうするんだ?」
「そ、そんな人じゃないよ、多分、みんな」
「いざそんなことになったらどうする?ほそっこいお前が逃げ切れるのか?いいから絶対断ってこい」
「なんでそんなに怖い顔するの…」泣きが声に混じってきたがもう口は止められない。
「いやもう襲われるとかどうだっていい、いいからいくな、ここにいろ、ずっと」
彼女がぽかんと口を開けた。腰が抜けたようにまた元の向かいに座って、穴が開くほど自分を見つめる。口は開いたままなのを見て思考の片隅で「可愛い」と考えたところまでで自分の言ったことの重大さに気づいた。自分は今何を言った。体全体がほどなくして熱くなった。
「あ、うん、あの、その、じゃ、じゃあこ、断ってくるね」ゆでだこになって黙りこくった自分を見て動揺を隠しきれないまま彼女がもう一度立ち上がった。とてとてと去っていく足音を尻目に手で顔を覆いながら、彼女がここに帰ってきたあとどうこれを処理しようか考えながら、ふと気づいた。
彼女、断りに行ったのか。

ついうっかり

「車の中で」の夫婦のなれ初め。

ついうっかり

  • 小説
  • 掌編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-27

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