朱、一筋
ごく稀に覚えておきたい夢を見ることがあります。これはそんな夢を小説にして記録したものです。何年か前に書いたものが見つかったので、投稿することにしました。
満開の枝垂れ桜を見上げていた。いや、よく思い出してみると桜を見上げているわけではない。僕が見上げているのは桜の枝に腰掛けている女だった。
絢爛に咲き誇る花の中にあって、どこか儚げな印象を持つ女は逆に際立って見える。女が身に着けている浅葱色の着物も相俟って、さながら桜色の空を揺蕩う一頭の瑠璃蜆のようだった。
僕に気付いていないのか、女はどこか遠くへと視線を向けている。僕はその様子をじっと見つめ続けていた。何故、女を見続けるのか。僕には分らなかい。しかし、どうしても視線を逸らすことはできなかった。
どれだけ時間が流れようと、僕は見上げ続け、女は遠くを見つめ続けるだろう。そんなことを思い、それで良いと考えた。この時間が、美しく完成されたものに思えたから。
しかし、その永遠は永劫に失われてしまった。
女は、おもむろに視線を僕に向けると歌うような口調で言葉を紡ぐ。それを聞き取ることができなかった。問い返すと、女は嫋やかな笑みを浮かべ再び同じように歌うように何かを言う。
やはり、僕には聞き取ることができなかった。女の声が小さいということもあるのだろうが、それ以上に言葉として理解することができない。美しいという感覚だけがある。
一つ気が付いた。女は歌うような口調で喋っているのではなく、本当に詠っているのだ。『五・七・五・七・七』の韻律。和歌なのだろう。
女は相変わらず微笑を浮かべている。そこに何かを期待している色が見え隠れしていた。僕には、女が何を期待しているのかが分らない。
悩んでいると、女は三度口を開いた。これもまた同じ。
相変わらず理解することはできなかった。しかし、頭とは別の場所で、女の言いっていることが分るような気がした。
「挨拶なのか……」
そう思った。そうすると、女が何を期待しているのか分ってきた。単純な話である。返事を求めているのだ。それならば、答えなければ。女と同じ和歌で答えねば。
女の微笑を見つめながら、必死に返事を考えるのだが浮かばない。考えれば考えるほどに泥沼に沈み込んでいく。
思えば普通に喋れば良かったのだ。女は僕が聞き返したということを理解していたし、僕も女が言いたいことを朧げながら分っていたのだから。
しかしあの時、それに気付くことはなかった。女の微笑を見つめているのが苦しくなってきた。返事すらできない自分が情けなくて、堪らなく駄目な人間のように思えたからだ。
思わず、力の限り手を握り絞めていた。唐突に鈍い痛みを感じる。
痛みに驚き、目が覚めた。
小指から朱、一筋。
朱、一筋
数年ぶりに読んで見ましたが、その時、どんな夢を見たのか思い出せませんでした。ただ、起きてみたら怪我をしていたことだけは思い出しました。本来の夢がどんなものだったのか、気になります。しかし、もうそれは失われてしまい、その残骸がこうしてあるだけでした。