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「誰かが言う。
愛は川のようだと。
穏やかに生きる葦さえ、溺れさせてしまうものだと。
誰かが言う。
愛は鋭い刃物のようだと。
あなたの魂から、血を流すことになると。
誰かが言う、愛は飢えのようなものだと。
永遠のように思える痛みを伴うだろうと。
わたしは言う。
愛は花。
あなたはその種のひとつ。
心が傷つくことを恐れているから、いつまでも踊れないでいる。
夢から覚めてしまうことを恐れているから、いつまでも動けないでいる。
誰かに奪われると思っているから、何も与えられないでいる。
死ぬことを恐れるその心は、生きる意味を失っている。
ひとりぼっちの長い夜、ひとりぼっちでのあまりに遠い道。
そのときあなたは思うだろう。
愛は運や力に恵まれたひとのものなんだと。
けれど思い出して欲しい。
冬の凍えるような雪の下、種は、太陽の愛をその身に浴びて、やがて春が訪れ、薔薇という名の花になる。」
わたしは途中で息継ぎしながら一気に喋った。
「どうしたのよ、そんな一気に喋って。おばあちゃんちゃんと聞こえなかったわよ。」
「柑奈のすきな英語の歌の歌詞なの。自分で和訳したの。」
「そう。えらいのね。ぜんぶ覚えたの?」
「うん、ずっとひとりでぶつぶつぶつぶつ。」
「相変わらずね。あなた昔からそういうところあってね、母親に読んでもらった絵本を丸暗記したりとか。」
「ママはいつもわたしに本を読んでくれた。」
「ママのことを恨んでる?」
「恨んでない。柑奈はママがすきだから、ママを恨んだらきっともう少し楽になれるよってママ言ってたけどそれは違うと思う。すきなひとを嫌いになるって、かなしいから。」
「そう。ところで高校にお友達はいるの。片想いの女の子とはどうなの。」
わたしはその祖母の言葉を聞いて笑ってしまった。
片想いの女の子と言うのは、わたしが14歳のときの、優しくて可愛くてわたしのおすすめした小説とか音楽とかぜんぶすきになってくれただいすきな女の子のことだ。その子との交換日記の話を一度したことがあって、ずっとそれを覚えていてくれたのだった。後にも先にもわたしの友達はその子だけで、いま思い出しても悲しくなる。 わたしはその子のことがだいすきだったし願わくばずっとそうやっていっぱいいろんなこと教えてあげたかったのに、中学校を卒業するときに「もう会うこともなくなっちゃうね」って柔らかく言われて、もうなにも言えなくて、それ以来はずっと会っていない。
「よく覚えてるね。卒業してから、一度も会ってない。」
「そう、やっと柑奈に友達ができて、おばあちゃんとっても嬉しかったわぁあの時。」
こんな風にわたしが自分の話をするのは、少し離れたところにいる母方の祖母にだけだった。彼にも何度か祖母の話をしたことがあって、彼はそれを嬉しそうに聞いてくれた。朝日がわたしを守るために同級生を殺し担任を辞職に追いやった事件は、あの後なに一つ疑われることなく流れ去った。人がひとり死んだところで、この世界はなにも変わらないことを、わかってはいたけれどまた痛感した。
わたしはいままで彼の存在を誰にも話さないように細心の注意を払って生活していたが、祖母に隠し事をすることはわたしにとっては悪であって、だから初めて彼の話をした。
「あのね、おばあちゃん。柑奈ね、友達いるの。ひとり。」
「知ってるわよ。」
わたしの方を見てにこにこしながら祖母は言った。
「知ってるの?なんで?」
「なんでって、柑奈の顔をみればわかるわよ。さっき玄関で久しぶりに顔を見た時にねぇ、この子ひとりじゃないわって思ったのよ。」
本当にこの人には頭が上がらない、と思った。
どこまで見抜かれているのか少し不安にもなったけれど、流石に会ったこともない人間の罪までは暴けないだろうと思い、できるだけ事件の話題は避けながら彼の話をした。
「その子はね、男の子なの。柑奈は朝日に会って言われるまで気がつかなかったけれど、昔わたしたち一度だけ会ったことがあったの。それをずっと覚えていてくれたひとなの。ずっと、大切に思ってくれてたひとなの。」
「そうなの、そんなこともあるのねぇ。あなたは綺麗で男の子にもてるけど、そんじょそこらの男の子の手にはおえないものね、安心したわ。」
「ふふ、きっと本当にやさしいひとって朝日みたいなひとのこと言うんだと思う。うまくいえないけど。」
「よかった。柑奈よく喋るようになったものね。少し前までは、あー、とかうー、とかばかりでなかなか言葉が出なくて苦しんでたもの。あなたのそれだって本当は優しさなのよ。相手のためにできるだけ優しい言葉を使おうとしてたんだものね。だからすきなひとと話すのが苦手だって、あなた言ってたし。」
「いまでも言っちゃうの、言葉が出てこなくて。あー、とか。」
「柑奈。あなたにとって彼ってなに?」
「……。」
わたしはたっぷり黙り込んだ。
案の定あー、とかうー、とか言って頭を抱えた。
そうなっても祖母と彼だけはそれを気にせずお茶を入れたり本を読んだりしながら待っていてくれる。
「矜恃。」
「難しい言葉使うのね。」
「難しい言葉を使わないと、朝日への気持ちは表現できないから。」
「そうね。すきなひとへの気持ちほど複雑なものはないわね。」
「朝日は、誇りみたいなものだと思う。柑奈のプライド。」
「素敵ね。」
九時を回ったくらいに、わたしは電車で最寄りの駅まで帰り着いた。
空気が濁っている、と思った。わたしがこの街を受け入れられないのか、この街がわたしを受け入れられないのかわからないけど、どうしてもこの街の景色はぼんやりしていてすきじゃない。
「柑奈。」
呼ばれて顔をあげると彼が立っていた。
「おかえり。」
「ひーくん、どうして?」
おかえり、と言われることにあまり慣れていないわたしは、戸惑ってしまった。
「はやく柑奈に会いたかったんだ。帰ろう。」
「うん、帰ろう。ありがとう、寒くなかった?」
戸惑って言葉がくちゃくちゃになる。
彼は優しく微笑んでわたしのマフラーを巻き直してくれた。
「えー、じてんしゃー。」
「柑奈ちゃん、俺は自転車しか持ってないですよ。」
わたしを抱き上げて荷台に乗せながら彼は言う。
その時。
暗くなった駐輪場にピッピーという笛の音が鳴り響いてわたしは身を硬くした。
警察だ。
「君たちなにしてるの、いくつ、高校生くらいに見えるけど。」
「大学生です。」
朝日はするりと嘘を言う。
「わたし、バイトの帰りなんです。危ないからって迎えにきてくれてて。」
わたしも嘘に乗っかる。
「ああそう。自転車の二人乗りは禁止ね。」
とだけ言って警察は駅の方へ戻った。
「……びっくりした。」
「柑奈が警察を怖がる必要はない。大丈夫だよ。」
暗闇の中で彼の背中にしがみつきながら考えた。
わたしたちの愛は、花だろうか。
太陽の愛を浴びて咲ける日がくるのだろうか。
「柑奈、空見てて。」
「なあに。」
わたしは考えることをやめて空を見た。
街の明かりや街灯がなくなって路地に入った瞬間星は鮮明さを増した。
そして、流れ星。
「わぁー。」
「流れた?」
「いちにぃさんし、ご、ろーく、なな!」
「ラッキーセブン?」
「ラッキーセブン。ほらみて、ひーくんも!」
「電柱に激突してもいいなら見るけど。」
「それはよくない。」
「いいんだ、柑奈が見たものは俺の見たものだから。」
「どういう意味?」
「なんでもない、もうつくよ。」
自転車からわたしを下ろしてキスをした。
「ねぇひーくん、流れ星にお願いしたら全部叶うのかなあ。」
「そんなわけないよ柑奈。これから、そんな甘々なこと言う男に騙されちゃだめだよ。星なんて一晩にいくつでも流れてるんだからそんなので願いが叶うなら世界中のみんなはしあわせなはずだよ。」
「…相変わらず理屈っぽいなひーくんは。」
「柑奈。」
「んー?」
「きみはしあわせになりなさい。」
「きみは?」
「そうきみは。」
「朝日はしあわせにならないの。」
「俺は…」
「だめだよ。鈴原朝日、思い出せ。」
「はい。」
「わたしはもうきみがすきだから、きみがやっぱやーめたって言ったらすごく困るんだよ。」
「ごめん。ごめんね、言葉の綾だよ。」
「……お願いだから捨てないで。」
「わかった。約束の傷する。」
「柑奈にも。」
約束の傷。
わたしたちふたりがふたりでいるための約束。
事件の話をしない約束。
相手を裏切る行為はしない約束。
相手よりも大切な存在を作らない約束。
その度わたしたちはお互いの体に傷をつけてきた。
腕に傷をつける。
死んだ恋人の名前を刺青で彫るのと同じようなことだ。
「して。」
「いくよ。」
いくよ、と言って彼はわたしの腕にキスをした。
わたしの腕にあるいくつかの傷にキスをした。
「ちがう。」
悲しかった。
優しくされてこんなに悲しくなったのは初めてだった。
ちゃんとやってほしかった。
痛みの数だけわたしは彼を愛せる気がしたから。
それは彼も同じはずだから。
「ふざけんな。」
彼を睨んだらふっと笑って今度はなにも言わずにわたしの腕を切った。
一瞬冷たいような熱いような痛みがあり、その後でずきずきと疼き始める。
「ねぇ、柑奈の血、舐めていい。」
「うん。」
やった、と無邪気に笑ってわたしの腕を舐める彼を見ていると、わたしはすごくしあわせな気持ちになった。頭を撫でてあげたらまた笑って、ありがとうと言った。どうしてこんなにすきなのか、どうしてこんなに溺れているのか、どうしてわたしたちはこんなに狂っているのか、なにもわからなかった。
「他のひとにそんなふうにしないでね。」
「しないよ。柑奈にだけだよ。」
わたしは満たされた気持ちで彼の腕を切って同じように血を舐めた。
それを彼も満足そうに見てわたしの頭を撫でた。
これでいい。
こうやってどこまでもこのひとと一緒に落ちてゆけるなら、わたしたちの愛が花じゃなくてもいい。
嘘をついていても、どんなに世界が汚れていても、すきなひとの体はいつも温かくて優しい。それでいいと思った。
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