車の中で
特に何もない風景が流れる高速道路の助手席で、ぼんやり外を眺めているのを横目にアクセルを踏む。いつもならおしゃべりが絶えないか、疲れ切って寝ているかの二択なのに、今日はただただ視線も合わせず、かといってどこに目を向けるでもないようで、運転手は内心困り果てていた。怒っている…ようではないようだし、別に怒らせるようなこともした覚えがない。昨日もひっきりなしににこにこ喋っていたのに今日になってなんだか様子がおかしい。もちろん運転中なのでやすやすと顔を覗くわけにもいかない。一方的に気まずい沈黙の中、そっと口を滑り込ませてみた。
「体調でも悪いのか?」はっとしたようにこちらを向く気配がした。考え事がぱちんとはじけた音がしたような、そんな気がして少しおかしく思う。
「いや、別に、大丈夫なんだけど、うん」そう言いながら座りなおすしぐさは確か、何か言いあぐねている時のくせだったはずだ。またゆっくりと思考を巡らせる。
目の前の電子板が2キロと少しの渋滞と、助手席に座る子供―高校生はまだ子供と言えるだろうか―を攻略する猶予をくれた。のろのろ進んでいく車。ここで「トイレか?」と笑わせたいところだが、どうやら相手の今の様子では笑ってくれなさそうだ。もともと話すのがあまり得意でない自分が遠まわしに話して察することが成功するなんてことも信じがたい。そもそもぺらぺらしゃべる気概は20年ほど前に置いてきている。そんなことを考えているうちにだんだん馬鹿らしくなってきて、とうとう、短く口を開いた。
「何か言いたいことがあるなら言いなさい」そしてかなり後悔した。命令形じゃなくて疑問形の方が良かったなと思ったが時すでに遅し。車間距離に気を付けながらそっと横の様子をうかがうと、決まり悪そうにしょげかえっていた。怒られたと勘違いさせたようだ。攻略は失敗かとこちらも内心落ち込んでいると、相手が重い口を開いた。
「あのね、今から行くでしょう」
「そうだな」何をいまさら、とは思わなかった。
「それでね、昨日は用意とかにバタバタしてたから全然さみしいなんて思わなかったんだけど、やっぱりなんかね、半年もお母さんのごはん食べられないのかあって思いながら朝ごはん食べてて…お父さんともしばらくこうして車で遠出することもないんだなって思ったら、後悔はないんだけど、」そのあとは涙で消えたようだった。
「…そうか」おそらく母親ではなく自分に言ったのは、心配させたくなかったからだろう。泣かれたとうろたえる一方で、自分にまだ甘えてくれることに少し安堵を覚えた。
「む、向こうでも、やっていける、かな、わ、わた、わたし」どうやらこれが一番言いたくて、でも言えなかった一言のようだった。
相手―娘は昔から妻に似ておしゃべりで、おそらく自分に似て本が好きな子だった。中学に入って英語を勉強するようになるとたびたび洋書にも手をつけるようになった娘は、つい数か月前、いつの間に申し込んだのやら、奨学生として半年間海外に渡る権利を勝ち取っていた。何も知らない妻と自分は担任教師からの電話で知り、帰ってきた娘を一体どういうことだと問い詰めたのが昨日のことのように思う。そんないつだって突拍子もない娘がここまで弱音を吐くのを見たのは初めてだった。もしかしたらそれは自分だけで、妻はもうこの16年間何回も見ているのかもしれないが。
「お前は、」そんなそぶりすら見せなかった娘にあの時は何かの冗談かと思ったが、同時にとても誇らしかった。
「お前はどこに行ってもうまくやっていける。お前はお母さんに似て人を気遣える人間だし、いっぱい友達ができると、思う」月並みなことしか言えない自分がとても歯がゆいが、思えばこんな風に娘について、それも本人にしゃべったこともなかった。しかし、今この瞬間に「がんばれ」とだけ声をかけるのも何か場違いな気がして、気が付けば片言のなんだかよくわからない励まし方になっていた。
「うん、頑張る。ありがとう」はっきりした返事に励ましの成功を知る。くすくす笑う声が後をひく。おそらく自分のぎこちない褒め言葉に笑っているのだろう。ちーん、と鼻をかむ音に自分もつられて少し笑った。
渋滞を抜けると、もうすぐ空港だ。娘がまたさえずりだす。あのねあのね。
「あのね、お父さん、帰ってくる日、また車で迎えに来てね」
「ああ」
言われなくてもそのつもりだ。
車の中で
どこかでお母さんの話もできたらなあ