私ノ箱庭
時代設定は江戸後期から明治辺りで、場所は東北をイメージしていますが適当です。
性的表現を含みます。
其ノ壹
―――私は彼ノ方に出会ってしまったのだ。
私は和裁職を生業としている。
閉じた箱庭の様な工房が私の凡てだったのだ。
澱んだ空気、低い梁、絎台や糸の束。
毎日繰り返される作業で反物が美しい着物に変わっていく姿を見るのは好きだった。
苦ではなかった。
寧ろ此の生活を与えてくれた美都(みつ)さんに感謝していた。
恨むなんてとんでもない事だと考えている。
以前の私は生れの為に散々苦しんできた。
私が生まれる前に、同居していた叔父上がある理由で村の肝煎様の怒りに触れ、私の一家は村八分とされたらしい。
村八分にされ、幼い頃から諦観してしまった私に手を差し伸べてくれたのは呉服屋の美都さんだった。
家を助ける為、村から離れた呉服屋で着付けのお手伝いや、反物の織り込みを始めた。
「此ん娘(へなこ)わぁ、なれ、ほんて手先が器用で修業ばすんと良い職人さ、んだがもすんね」
そう熱く両親に語り頭を下げた。
そうして私は美都さんの弟子となり『工房』に住みこんで一日中働いた。
徐々に仕事が板につき始めた頃、呉服屋は大変繁盛していたので都の方に店を出すことになった。
其処で今ある都から外れた此の呉服屋には数人残しただけで、工房は私一人で営むことが決まる。
当時17歳のことだった。
それから4年の歳月が流れた。
反物を仕入れ、注文に合わせて採寸し、縫い上げる。
時には呉服屋の表に立って売ったり着付けたりする。そういった事を必死にやった。
己の内を覗く暇なんてなかった。
そして梅雨の或る日、彼ノ方はやってきた。
其の日、珍しく私は表にいた。
叩きつける様な雨が降っている。
軒下の縁に座り、外を眺めていた。
今日はお客様ももう来ないだろうと踏んでいた。
注文分も仕上げ、手持ち無沙汰になっていた私は雨に濡れる通りを眺める。
すると、遠くの方から人影が近付いてくるのが見えた。
どうやら走っているようだ。
傘も差さずに雨を身に受け、ずぶ濡れだった。
身長が高く、酷く痩せた男の人だ。
私と視線が合うと此方に近付いてきた。
「すいません。少し軒下をお借りしても宜しいでしょうか?」
訛りの無い言葉で彼ノ方は話しかけてきた。
「どうぞ。其のまんまなら風邪ば召されます。早く入って下さいませ」
私はそう促し彼を招き入れた。
その日は売り子達も休みで私一人だった。
ずぶ濡れの彼に手拭を差し出す。
既に着物が水を吸っていて雫が止めどなく垂れてくる。
「着替えば御貸ししますので着替えてください」
そういって私は彼に替えの召し物を差し出した。
彼は照れた様に小さく笑い、
「御気遣い有難う御座います」
と言って私の手から着物を受け取った。
その時触れた手が驚く程冷たくて心臓が撥ねた。
ドクン…ドクン…。
今のは何だろう?
心臓が早鐘を打つ。
今迄感じた事のない感覚だった。
自分の中の未知に触れ、それは目を覚ましてしまったよう。
固まっている私を見て不思議そうな顔をして彼は覗き込む。
「あの…何処か着替える場所を貸して頂けないでしょうか?」
「あ…あヽ、気が回らなくて御免なさい。此方です」
そういって奥の和室に通す。
「宜しければ着付けいたしましょうか?」
遠慮がちに彼に声を掛けた。
振り返った彼ノ方の顔には少し戸惑いがあったが、
「…御願い出来ますか」
と小さく答えた。
彼ノ方の前に立って、帯を解き、濡れた色無地を脱がせる。
すると其処に彼の体が顕れた。
細いが、やはり女の体とは違い骨張っていてゴツゴツしていそうだった、
ドクン・・・・。
再び、心臓が撥ねる。
其の音に気付かない振りをして彼の濡れた体を手拭で拭く。
先刻会ったばかりの人とは思えない程、何故か私は彼に心を赦し、無防備だった。
彼の優しげな目と雰囲気は私に安心感を与えていた。
長年受け続けてきた村人達が送る視線とは違うからだろうか?
嫌いなことを隠そうともせず、露骨に嫌な顔をする人々とは違う雰囲気を纏っているからだろうか?
そんな事を考えながら肩、背中と拭いて胸を拭こうとした時、不意に彼ノ方の体が私を覆った。
何が起きたのか判らなかった。
私の小さい体を彼は抱き締めたのだ。
一方の手で私の頭を攫み自分の胸に埋めさせ、もう一方の手で私の腰に手を当てた。
聲が出なかった。
額に彼の少し湿った胸が当たって生温さと心臓の鼓動を感じた。
夢か何かだろうか?
私には男の人なんて縁がなかった。
嫌われ者。不浄の家系。
初めて男の人に触れる。求められている。
驚くほど抗う気持ちが湧かなかった。
寧ろ私は望んでいたんじゃないだろうか?
先刻感じた感覚は欲望が疼いたものだったのではないだろうか?
―否、そうとしか考えられない。
私は舌で彼の鳩尾を撫ぜる。
彼ノ方は一瞬体を仰け反らせた。
そして押さえていた手の力を緩める。
私は彼ノ方の顔を見上げる。
30の半ばは越している様に思えるが、見た目はまだ20代の様な幼さを残していた。
優しげな目元。薄い眉毛。整えられた短めの柔らかな髪。
彼ノ方の其の優しげな目が強く私を捉えた。
はっきりと、私を求めているのを感じた。
私は躊躇わなかった。
この時、運命と云うものは此の世に存在するのだと悟った。
先程出会って言葉もほとんど交わしていないこの人の事を私は愛おしいと思った。
私はそつと彼ノ方と唇を重ねる。目を閉じる。
世界の凡てが消え、彼と私だけになった様な感覚。
私の空間に彼が入ってきてくれた。
誰も越えようとせず、見る事すらされなかった私の空間。
拒む理由なんてなかった。
求められたのが堪らなく嬉しく、そして淫靡な気持ちを湧き起こらせた。
彼ノ方が舌を入れてきた。
私もそれを絡め取る様に掬い込む。
呼吸が激しくなる。
乱暴に彼の髪を攫んで自分に引き寄せる。
体が火照ってくる。
彼ノ方も私の髪を撫でながら、舌を激しく動かす。
私は手を背中に滑らせ、彼ノ方の肌の温もりを確かめる。
そして、彼はゆっくりと私の帯を解き始めた。
私の中の何かが崩れていく。
彼ノ方に愛撫され、声を漏らすたび。
―私はこんなにも女で、心の淵にこのような澱を湛えていたのか。
強姦されているのに。嬉々として受け入れている卑しく醜き心。
ただ、行為に及んでいる間、私は私でなかった。
知らない誰か。意識を離れ、獣のようだった。
私はわたしの内部で完結して、呉服屋の、工房の歯車の一部として生きてきた。
ところがどうだ、此の様は。
理性なんてほとんど失っている。
こんな事を考えながらも絶えず体を揺すり、声を喘げる。
気持ち悪さと快楽がない混ぜになって、狂っていた。
目の前の彼がどんな人か知りたいと腕で締め付ける様に抱く。
「…すまない。急に…。拙者は少しどうかしていました」
彼ノ方が急に動きを止め、静かに言った。
「…御名前を。御名前ば…お聴かせ…願います」
私は呼吸は荒いまま、絶え絶えに返す。
「……清次郎と…申します…」
其の名が本当がどうかなど疑うこともなく、何度も小さく繰り返した。
「…清次郎様。…清次郎様、清次郎様…………」
右頬を彼の胸に寄せ、目を閉じた。
私はなんて愚かな女であろう。
今日初めて会った男を。
強姦してきた男を。
こんなにも、こんなにも。愛しかった。
其ノ貮
―又伺います
彼ノ方はそう言って私が貸した着物を着て出て行った。
外の雨は上がっており、雨上がりの薄暗く重い雲が乗しかかってくる様だった。
―其れから、二週間が過ぎた。
唯、私の内は乱れていた。
そうか。やはり私は穢れているから。
呪われているから。
だから、清次郎様は参らして下さらないのだ。
私の体が小さいから。
此んな貧相な体をしているから。
嗚呼、清次郎様。
私に触れて下さい。
私を求めて下さい。
名前と体しか知らない清次郎様。
此程にも。私は………。
絎台で布を張り、ハサミで断つ。
シャキシャキ…。静かに刃を滑らせて往く様を見、あの日の愛撫を思い出す。
袖を返し、躾糸で繕って往くたび、彼ノ方の手の感触が蘇る。
静かに、静かに。狂って、狂って。
今日は、御客様の採寸をする際、計測を誤り、ニ度測る羽目になった。
御得意様だったから、苦笑いしながら許して下さったが、何と云う事だろう。
仕事が出来ない私なんて、塵芥だ。生きる価値など無い。
此んな事をしていると美都さんに見捨てられる。
『此ん、おっぽろげ!此げん娘(へなこ)要らねが。何処さでも往げ』
此んな事言われた日には私はどうやって生きて往けば善いのか。
先の村には帰れない。帰ったら、殺される。
御給与を収められなくなったら殺される。
其れなのに、此んな身の上で清次郎様を思って仕事に障りが出るとは。
己が体を激しく叩いて壊してしまいたい、破滅的な気分になった。
花緑青で業平菱の羽織を仕上げていた夕暮れのことだった。
其の時も、私は一人、工房で静かに縁を繕っていると、表から呼ぶ声がした。
「御免下さいませ」
「はい。只今伺います」
表には、何よりも心待ちにしていた人が立っていた。
「………清次郎様…」
恥ずかしそうに笑って、頭をくしゃくしゃと掻いた。
「此の前、聞くの忘れていました。貴方の御名前…」
その言葉を聞くか聞かないかの間に、彼ノ方の袖を引っ張り店の中へ上げ、抱き締めた。
「ヤエ、と申します。ヤエでございます…。覚えて下さいませ…」
音がなるくらい、強く締め付ける。
「…此の前の着物助かりました。ヤエさん。此の着物、実に美しい。
ヤエさんが作ったのですか」
「はい。加工した型紙を幾枚も重ねて彫り込み、幾度も染め上げて、様々な色の糸で刺繍を施します」
キュッと腰に手を回し、額を胸に付ける。
「そうですか。…拙者は、着物に疎いのですが、此方は何と云う色と模様なのでしょう」
少し体を離し、顔を見上げた。藤の花の様な優しげで柔らかな顔があった。
「此方は、栗梅に少し黒檀と香染を混ぜた紗綾形で御座います」
「誠に美しい…。此方で何着かお求めしたい…。後でね…」
そう言って彼ノ方は私を優しく抱き留める。
私の躰は徐々に熱を帯び、煮えた湯を足されていく甁のようになった。
口を彼の口に勢い良く押し当て、唇から舌を押し込み激しく吸い上げ、歯を撫ぜる。
私は舌で唇の端から端まで形に沿って辿り、下顎、喉、胸…と下に這わせて往く。
「むぅ…んっ…」
と静かに彼ノ方は聲を漏らし、生唾を飲み込む。
口づけを再びしながら、店の奥へ奥へと移動して往く。
彼ノ方の帯を解き、床の間に置く。
彼ノ方が私の後頭部に手をあてがい、私を導き…。
私は覚り、一物に手を添え、口に僅かに含んで往く。
前後に口に動かす度に、少しずつ硬く為る。
態と音を立て吸い上げ、丁寧に裏から回す様舐る。
彼ノ方の息が荒がる。激しく前後に動かしていると頭に載せた彼ノ方の手が私の髪を掴み、乱暴に動かし始めた。
腔内の息が苦しく為る処迄蹂躙され、其侭留まり、一気に引き抜く。思わず咳込みそうになるのを堪え、
唯、されるが侭、彼の玩具の様に、道具の様に扱われ、私は奇妙にも悦びを覚えているのを感ずるのだ。
躊躇いが消え、彼ノ方の躰の全身に舌を這わせ、彼ノ方を私の、此の穢れた不浄な者である私の舌で蹂躙したいという欲求が沸々と沸いてくる。
そうして、どうか此の儘、此の儘、此の御方を私の傍らに。ずっと。ずっと。
「清次郎様。私は愛されたことが有りませぬ。教えて下さいませ。傍に居て下さいませ」
「…うん」
曖昧な返事と共に私の陰部に物をあてがい、一気に突き入れる。
初めてで有った為、多少痛みを伴ったが感動の方が強かった。悦ばしかった。
此れは愛情の証であると、以前美都さんが仰っていた。そうだ。間違いない。
今愛されているのだ。自然と聲が漏れる。自分の聲が湿った艷になっているのが分かる。
「嗚呼、清次郎様…。清次郎様…」
―壊してしまいとう御座います。貴方様が私の傍に居続ける為には、壊して、引き寄せて離さないようにしなければ。
愛し方を知らず、此の御方の考えていることなど甚だ見当も付かぬ私は、そんな強迫観念に囚われ、
不安で仕方なかった。此の機会を逃せば、もう一生救われることは無いと悟ったのだ。
何時も諦観していた私は何処にも見当たらず、唯激しい感情に衝き動かされていた。
「嗚呼!清次郎様!あゝっ。何を、か、考えておいででしょう。私は不安でなりませぬ」
「そなたは心配せずとも善い。唯今はこうして傍にいよう」
彼ノ方は最後に何度も激しく突くと私の中で果てた。
――若し、貴方様が嘘を仰っていても構いません。…私を愛して下さるのなら。
其ノ參
彼ノ方に紫黒でからせみ小紋の上布と白藤色の男締を見繕い、
「一週間の後に繕って御渡し致します」
と伝えると、
「分かりました。楽しみにしております」
と静かに答えて丁寧に頭を下げてから去って行った。
―私は此の頃になると、私は以前のわたしを思い出せなくなっていました。
仕事を上の空で熟し、少ない御休憩の時間には、彼ノ方からの依頼の品を更に丁寧に細かく仕上げようと必死に取り組みました。
此の品が出来なければ、彼ノ方は此処に来ない気がして為らなかったのです。
低い天井と織機に支配され、地染めの染料と糊の匂いを毎日嗅いだ。
其の当たり前の日常が、静けさによって保たれていた筈の均衡が、少しずつ少しずつ弛んで。
完成された空間だった此の『工房』が不完全となり、私の大切な箱庭が軋みながら歪むような感覚。
彼ノ方と出会ってからそう、少しずつ、変わっていく。織機の音も、反物に色を定着さえる為の燻らむ蒸気も、細やかに刺繍を施してく私の指先も、
水元で反物をくぐらせる度に静かに弾ける飛沫も…。何度も繰り返しても、再び繰り返される、作業と思慕。
売り子たちの言葉も耳に入らない日々を彼ノ方が来るまで唯、過ごした。
久方振りに都を下って、美都さんがこの工房に戻ってきた。
美都さんに会うのは二年ぶりであったが、少し言葉の訛りがとれ、柔らかい言葉遣いとなっていた。
私は三つ指をつき、丁寧に出迎える。
「美都さん。良く御戻りになられて…。御帰りなさいませ。都の方では如何御過ごしでしたか」
「まあまあです。商いはね、すこすずつ信頼ば得ていくものです。ヤエや。アンタはどうだったんだい」
「…はい。私の方も、少しずつ業を磨き、少しでも美都さんに近づけるよう精進している次第で御座います」
「太平の世であれ、移ろい往く世であれ、業ば止めては為らぬ。ヤエは其処のところ解がったと思うんだず」
「有難う御座います。より一層業と心を磨き、気に入って頂けるモノを作り続けて往く所存で御座います」
「ええ、ええ。…時に、給金じゃが、その…アンタは里ば帰れねえべ?だがら、いつもの様にわたしから渡しとくけどいいが?」
「勿論で御座います。ご迷惑をおかけします」
私が深々と頭を下げると、美都さんは他の売り子たちの方へ向かった
内心、胸がはち切れんばかりに動揺し、何時バレて咎められるかと恐ろしかった。
美都さんの一挙手一投足を見、私に不信感を抱いてないか、売り子に最近の私の様子を訊くのではないかと危惧するのだった。
結局、美都さんはひと月程、滞在することになった。
そして、美都さんが此方に来て三日目のこと。
彼ノ方が、着物を取りにきた。
「御免下さいませ」
「はい。どんな御用件で御座いましょう」
「…何時もの方は居られるか?其の方に着物を頼んでおったのです」
「ヤエ、の事で御座いましょうか。只今呼びます故…。ヤエ!頼まれていた着物をお出ししなさい」
美都さんが彼ノ方と話すのをジッと奥で伺いながら呼ばれるのを待っていた私は、並べく感情を出さないよう注意を払いながら緊張した面持ちで表へ向かった。
「はい。此方が御願いされていた上布と男締で御座います」
「…ほほう。…此れは此れは。素晴らしいものだ。御新造、夫れと売り子さん。有難う御座います」
「ああ、私めは御名前ば伺っていませんでしたので、伺っても宜しいでしょうか?」
「………浅生と申します。此処から少し離れた処で…」
「おやまあ!あの…高名な!浅生の旦那様で御座いますか!!此れは此れは知らずに御無礼を致しました。
今後ともどうぞご贔屓に!」
「……では、本日は此れにて失礼致します」
少し引き攣った顔で御辞儀をして足早に去って行った。
私は、半年前に入った十代半ばの売り子を捕まえて浅生と云う家について訊いた。
彼女は私の出生や扱いについて知らないようだったので訊くことができたのだ。
「……浅生様についてで御座いますか」
「…ええっと、先日御召し物を見繕いしたのですが、どの様な家柄や仕事をなさっているのかを知っていると作り易いので…」
「はあ、成程。そうですね…。あの大きな樫がある御屋敷を御存知ですか」
「いえ…もうずっと私は工房と此の店から出ておりませんので…」
「左様で御座いますか。此方に先日いらっしゃった方は、浅生太兵衛様です。ほら、あの背が高くて痩せていて…」
「……清次郎という名ではありませんか?」
「清次郎様で御座いますか?先々代の御当主様が清次郎様と伺っておりますが…。
三年前お亡くなりになって、御葬儀が執り行われた時、母と弔問したので間違いないかと…」
「そうですか…。そしてあの家の職は…」
「御免なさい。気分が優れぬので少し手洗いに…」
「大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」
駆け足で厠に向かう。
最近すっかり食が細くなって殆ど空の胃の中身を吐き出す。
酸っぱくて、気持ちが悪くて、無性に泣けてきた。
暫くの間、吐きながらしゃくり上げる。
ウッ…ウウ…。ヒック…ウ…。
苦しいのは我が身か、心か。
屹度両方だ。
襤褸で口元を拭い、覺束ぬ足取りで工房に戻る。
工房の鏡にふと目を遣る。
其処には、継ぎ接ぎだらけの襤褸を着た顔色の悪い女が立っていた。
「なんと醜き容貌よ…。ああ、私は誰なのだ…。何者だ…」
鏡の女が涙を流す。
紫に変色した唇と下がった眉と皺。
もう若くは無い。そして、元より美しくもない。
改めて気付いたように鏡の女が私の顔を見る。
――ねえ。貴方、誰?
其ノ肆
本当は分かっていた。
あの人が嘘をついているくらい。そして、嘘をついていても構わないと私は確かに思ったのだ。
どんな出会いであったか、それがどんな人であったか、そんな事今の私には瑣末なことだった。
どうしようもない程に今の此の感情が大切であり、真実なのだ。
彼ノ方の何時か見た精緻な仏像のような背中に頬を添えたいし、長くて節張った指も舐めたいし私の指を絡めて欲しいし触って欲しい。
彼ノ方の少し低くて落ち着きのある聲で名を喚んで欲しいし、唇の輪郭を舌で撫ぜたい。耳を触って、舌を入れて、首筋へ這わせたい。
此れは唯どうしようもないという言葉に尽きると私は理解していたが、感情と思考が止まらない。
彼ノ方は他の女にもこんな事をしているのだろうか。
若しくは、他にも此の御方をこんなにも恋い慕っている女がいるのではないだろうか。
他の人にもこんな事をしていたら、少し、いや、とても、厭だ。
そんな人がいたら私は屹度殺めてしまう。
どうしようもない程、狂っていた。
彼ノ方とは三日と空けずに私に逢いにきてくれた。
例によって座敷ではなく、最早工房の一畳程の場で交わった。
口を開かず唯、私の躰を触る。
私は彼ノ方の為すが侭、凝然と聲を抑えて。
布切れが擦れる音。表からは音が聞こえない為より際出つ。
彼ノ方が私の脚に噛み付く。
白白とした痩せた脚に綺麗な歯形が残る。
それが堪らなく嬉しい。
私も噛んでみたくなるが、自らは踏み込まず唯彼ノ方の名を喚ぶ。
―清次郎様…お慕いして居ります。…どうか、御聲をお聴かせ下さい
―…うむ。ヤエ。ヤエ…
喚ばれる度に近くなる。
此の御方に近寄れる。
瞳を覗き込む。月の光を内包した様な、静寂と憂いを浮べた陰の光が或る。
彼ノ方がどんな人生を歩んできたかは分からない。
ただ、常に彼ノ方からは救って貰いそうにしているように感じてならない。
此の御方もまた、何らかの訳で人の世に憚られた人なのかもしれない。私と同じに。
私ノ箱庭