地の竜、空の虎
プロローグ
その日は透き通るくらいの青空だった。島の中央にそびえるフセ山脈がよく見えるザジロ盆地。四方を山に囲まれたこの盆地には緑の草が揺らめく。
そのザジロ盆地に手に槍を持ち黒い鎧をつけた兵士たちが集まっていた。
「今日は人類の命運をかけた一戦だ。命を賭して獣人どもを打ち破るぞ。」
馬上の男が槍を空に掲げると、兵士たちがオオーッと威勢よく声をあげる。ザジロ盆地に男たちの声が轟く。
すると、西から狼煙があがるのが見えた。
「ハーク隊長。いよいよですね。」
髭面の男が馬上の男に話かけた。
「ああ。作戦通り十分にやつらを引きつけてから戦闘を始めよ。」
そういうと馬上の男は槍を握り直した。その顔からは決意と緊張が感じ取れた。髭面の男は小さく返事をして隊列を回り最後の指令を行う。
しばらくすると西の方角、フセ山脈のほうから白いかたまりが見えた。よく見ると獣たちが集団になって向かってくる。虎によく似た外観をしているが、虎と根本的に違うことといえば二足歩行で走っていること。そして、その毛並みは白かった。みな一様に爪を尖らせ、牙をむき出しにしている。
両者の距離が300メートルあまりになった時に、馬上の男が叫ぶ。
「弓隊かまえっ。放てえーっ。」
一斉に矢が放たれ、獣たちの集団に動揺がみられる。それは未知の武器を初めてみた時の動揺だった。
次々に矢が獣たちに命中し、集団の速度が落ち混乱がおきる。
「槍隊かかれーっ。」
馬上の男は再びそう叫ぶと自ら槍を片手に獣たちの集団に切り込んでいく。後ろに構えていた兵士たちも言葉にならない声をあげながら馬上の男に続いていく。
その日、青い空に槍が舞い、緑の大地は赤く染まった。人類と獣人族がお互いの興亡を賭けて血を流した最後の戦いの日であった。
第1話 竜の国
ハーク王国の首都ハークグランは島の北東部にある。周囲を城壁で円状に囲まれ、城壁の中にさらに二重の堀が走るこの街には西と南に2本の大街道が通じている。その大街道に出るためにつくられた大門の前にはそれぞれ市場が発達し年中にぎわいを見せている。
特にハーク王国随一の農業都市ハークマウンへと向かう南街道側の南市場は新鮮な農産物が揃うとあって特に活気がある。
その南市場を二人の兵士が巡回していた。胸には王国に使える者の証である竜のエンブレムがみえる。
「今日も美味しそうな食材で溢れてるな。国が豊かで良いことだ。」
黒髪短髪の青年兵士は市場を満足げに見渡しながらつぶやいた。
「真面目に巡回しないと隊長に報告しますよ、ファイアさん。」
隣を歩く女の兵士が市場の農産物をキョロキョロ見る青年兵士に冷たい視線を送る。肩に届かないほどのショートヘアに少しつり目の顔つきは険しい。
「おいおいミラ、そんな怖い顔してるとまた子どもに泣かれるぞ。」
「もう1週間前のことはいいでしょ。それに迷子の子どもを兵士としてきちんと助けたのだから、そこを評価して下さい。」
不機嫌そうにそっぽを向く女の兵士を見て「はいはい」と苦笑いをしている青年兵士の名はファイア・ベル。20歳になる。身長が180センチあり兵士として十分な体格をしていた。
ファイアの隣を歩く女兵士の名はミラ・モア。19歳とファイアの1歳年下で身長は150センチと小さいが、気が強くファイアもこの性格には苦労していた。
ファイアはまだ不機嫌な表情の顔しているミラの方を向き話しかける。
「国が豊かなことはいいことじゃないか。国が豊かだと争いも起きにくい。それに、故郷が栄えている景色を見れることは幸せなことだ。」
「それはそうですが。でもこの豊かさは続かないかもしれないですよ。」
ミラの不吉な言葉にファイアは「どういう意味だ?」と不思議な顔をする。ミラは言葉を続けた。
「なんでも今年は小麦の実りがあまりよくないそうです。」
「そういえばミラの故郷はハークマウンで実家は農家だったな。つまり、大凶作によって社会が混乱するっていうのか。」
「はい。今年の春に続いた異常な大雨が小麦にはよくなかったみたいですね。」
そうなのか、とファイアはつぶやき辺りを見渡した。南市場はいつもと変わらぬ賑わいをみせており、ミラの言う通り小麦が凶作になったとしても影響は少なそうに思えた。それにファイアは生まれて一度も大凶作というものを経験したことが無かった。そのこともありミラの話を現実的に考えることができなかった。
「今は小麦の話より巡回をすることが先だ。早く“槍の広場”まで見てまわろう。」
ファイアはそう言うと市場に目をやりながら歩き始めた。
“槍の広場”は150年以上前に獣人族との争いに勝利しハーク王国を建国したハーク・マルクを讃えて造られた広場であり、広場中央には空に槍をかかげるハーク・マルクの像がたっている。この広場はハークグランに流れる二重の堀の外側であるタギ地区の南市場と西市場の中間地点にある。
ファイアとミラが巡回の最終地点である槍の広場に着いたのは昼を過ぎた頃であった。時間帯のせいか広場は多くの市民でにぎわっていた。
「パジェとシェンはまだのようだな。」
ファイアは槍の広場を見渡し、西市場の巡回にでている同じ部隊の二人を探す。
「あんまりキョロキョロしてると危ないですよ。」
「ああ、分かってるよ。って、うわっ。」
ファイアはハーク・マルク像の前で人とぶつかった。
「自分の不注意ですみません。お怪我はありませんか。」
ファイアはぶつかってしまった人に声をかけた。若い女の子のようだがその格好が周囲とは明らかに違っていた。布を頭から被り全身をボロボロのマントのようなもので覆っている。歳は14、5といったとこだろうか。女の子は二人をじっと見ると一礼をして去っていった。
「女の子があんな格好をして1人でいるなんて珍しいですね。」
ミラが女の子の後ろ姿を見ながら首をかしげる。ミラがこう思うのも無理はなかった。ハーク王国の首都であるハークグランは治安の良い都市で一般階級の民衆の家が集まるこのタギ地区でも物乞いの姿などほとんど見ない。
「東のハークシーから出稼ぎで来たんじゃないのか。あの街じゃあんな子も多くいるだろうし。」
「そうですね。ハークシーは王国の中でも特に治安が良くないですものね。逃げてきたのかも。」
「“王国軍の兵士が剣を抜き槍を握る唯一の街”とまで言われてるもんな。」
ファイアとミラが貧しい格好をした女の子についての推察を繰り広げていると、槍の広場の隅のほうから元気な男の声が聞こえてきた。
「南市場の二人のほうが先に終わっていたか。こちらシェン、パジェ組も今日の巡回終了だ。」
「遅かったじゃないか。何かあったのか。」
ファイアの問いかけに「いやー。」と再び口を開いた男がシェン・ランダー。20歳。大きな口に大きな目。とにかく体のパーツが大きい。また、声も大きいのがこのシェンという男である。
「今日は西門の周辺がいつも以上に人が多くてさ。なんでも竜神参りにいく人が集まってて。巡回に時間がかかってしまった。」
そう話すシェンの後ろで口一文字で立っている男がパジェ・バレッジ。21歳。細身でファイア以上に身長があるが基本的に無口な男である。
「この時期に竜神参りか。確かにまだ涼しいし“孤高の山”まで行くのにはいい季節なのかもな。」
ファイアは納得した表情をみせながらタギ地区の王国軍駐屯地に歩きだした。
*****
ここでハーク王国について少し触れておきたい。ハーク王国は獣人族との争いの英雄であるハーク・マルクが島一体を領土として築いた国である。獣人族との争いの際にご加護してくれたという竜を王国の守護神として祭っており、その竜が住んでいるとされるのが“孤高の山”と呼ばれる山である。首都ハークグランの西、フセ山脈のさらに西にある街ハークシーのさらに西にそびえるのが“孤高の山”である。
この山に一生のうち一度はお祈りにいくという竜神参りはハーク王国の人々にとって大切な儀式なのである。ただハークグランから歩いて片道半月かかり、そのためお参りに行ったきり無事に帰ってくることの出来ない人も毎年のようにでている。それでも今日まで竜神参りが途絶えることなく続いていることから、ハーク王国における竜神の存在感がよくわかる。
「そういえば俺はまだ竜神参り行ったことないな。」
駐屯所に向かう道中にシェンがナハハと笑いながら口を開く。それを聞いてファイアも「俺もだ。」とうなずく。
「私もまだですね。二人ともハークグラン出身だし、私はハークマウン出身だし、フセ山脈より東の生まれの者は中々…、ですね。」
「そう言えばパジェさんはハークシーの出身でしたよね。竜神参りは?」
ミラがパジェの顔を覗き込む。話をふられたパジェはチラッと3人の方をみると伏し目がちに低い声で「幼い頃に父と行ったことがある。」と言ったきり黙りこんだ。
(そう言えばあんまりパジェが自分のこと話てるとこ聞いたことないな。)
(まあ、元々無口な男だからな)
ファイアは心の中でそう思いながら、未だ黙り込んでいるパジェの顔をもう一度見た。
*****
タギ地区の王国軍駐屯所は槍の広場の近く、王国の施設が集中する街区にある。駐屯所といっても強固に造られた石壁の門をくぐれば木造建ての質素な建物があるくらいである。
島全体が王国の支配下であり、150年余り続く王国の歴史の中でも大きな反乱と呼べるものは起こったことがなかった。また、海には人を喰う魔物が住んでいると言われており海からの外敵の侵入もない。
そんな平和な状況もあり王国軍の兵士といっても街の治安を維持するためのパトロール、巡回が主な仕事だった。それでも農業が主体産業であるハーク王国で毎日の飯が保障されている兵士は羨望の対象である。軍への入隊には体力と愛国心が必要とされ、3年に一度行われる試験を通った者のみが入隊を許される。しかし、安定した生活を送るために兵士を目指す者も多かった。
4人が駐屯所の石壁の門をくぐると兵士たちが数人集まって談笑している姿が見えた。建物内に入ると今度は輪になって賭博をする兵士たちの姿が目に入った。4人はその横を抜けて建物内の一番奥の部屋にノックをして入る。
「失礼します。ファイア班巡回から戻ってきました、アイス隊長。」
お疲れ様、と言いながら4人のほうを見る男は口にアイスキャンディーをくわえている。
アイス・ミルトンはタギ地区王国軍駐屯所を束ねる男である。33歳という若さで武術に長けており王国軍の中でも将来を有望視されているが、それを鼻にかける様子も無く部下にも親切なので若い兵士に慕われていた。
「また共食いですか隊長。さすがに毎日食べすぎですよ。」
シェンが冗談口調で弄ると、アイス隊長は「好きなものは仕方無い。」とか「アイスキャンディーを食べると仕事がはかどる効果が得られるんだ。」などと開き直りとも言い訳ともとれる切り返しをする。
ファイアたちは2人のやり取りを「またか。」という表情で眺める。最初はこのくだりにファイアたちも笑っていたが、それに気を良くしたシェンはアイス隊長がアイスキャンディーを食べるたびにこの弄りをするため他の者からすれば食傷気味である。
「もう行きますよ、シェンさん。では失礼します。」
ミラがシェンを引っ張って部屋を出る。ファイアとパジェも一礼してこれに続いた。
巡回を終えた兵士は夕食の時間までは鍛錬の時間とされている。しかし、実際に鍛錬に励む者は少なく、それについて上も何も言わないため遊びに興じる者が多かった。
そんな中で4人は駐屯所内で珍しく空いた時間は鍛錬に励む真面目な兵士である。4人は建物の裏手にある広場に向かう。
シェンは「よーしっ、今日も筋肉をつけるぞ。」と笑いながら上半身裸になると、隆々とした筋肉がついた自分の腕を見つめた。
ファイアは「なら俺たちは槍の練習をしようか。」と提案しミラとパジェが頷く。3人が武術に励む中、シェンがホッホッと息を吐きながら腹筋をするというのがいつもの光景であった。
槍はハーク・マルクが獣人族を破った際に大活躍した武器だとされ、王国軍では最も一般的かつ象徴的な武器であった。そのため兵士は槍が使いこなせて一人前だとも言われていた。3人は槍にみたてた棒を使って汗を流す。
日が傾いてきた。
ファイアは棒を置き地面にどっと座り込む。ミラとパジェも大きな息を吐きながら座り込む。シェンは木の太い枝につかまって懸垂をしている。
「やっぱり槍はパジェが一番強いな。敵わないよ。誰かに教わったことがあるのか。」
ファイアはパジェに問いかける。パジェは長い腕を器用に駆使して槍使いがうまい。ファイアは槍の模擬戦でパジェになかなか勝てないでいた。パジェは「剣術じゃファイアに敵わないけどね。」と謙遜をして沈みゆく夕日を見つめる。
「王国軍の兵士だった父に教えてもらったんだ。槍を使えないと兵士になれないぞって言われてね。」
(パジェ自身の話が聞けるのは珍しいし、もう少し掘り下げてみよう。)
「パジェの父親が兵士だって初めて聞いたな。父親はどんな人なんだ。」
「厳しい人だった、自分にも他人にも。そして兵士として国に仕えていることをすごい誇りにしていた。…もう死んでしまったんだけどね。」
パジェは夕日を見つめ続けたまま寂しそうな口調でつぶやくように話した。ファイアとミラは思わず固まってしまった。
「父はハークシー長官管轄下の孤高の山を警備する隊に所属していたんだけどね、僕が16歳の時に警備中に事故死したんだ。」
「僕は父が兵士としてみていた景色を知りたくて入隊した。でも、王国軍は僕が考えていたものとは違っていた。兵士という身分を手に入れさえすれば良いとする人が多い。兵士としての責任や仕事は二の次で楽をすること、遊ぶことばかり考えている人が多い。…誇りを抱いて国を仕えるなんて意識はない。この現実を知った時は率直に悲しかった。むなしかった。」
ファイアとミラは黙って聞くことしか出来ない。いつの間にかシェンも輪に加わっていたが、彼も真面目な顔してパジェの話を聞いている。パジェはふっと3人の顔を見渡した。
「…でも、こうして君たちに出会えたことは良かった。仕事に真摯に向き合い、自分を高めようと日々努力する君たちに。」
一瞬の沈黙の後、ファイアが急に立ち上がり口を開く。
「俺はこの国が好きで、この国の風景が好きで、この国の人が好きで、この国のために役立ちたいと思って兵士になったんだ。俺は兵士であることに誇りを持っている。」
「私も入隊した後は軍の実態を知ってショックを受けました。でも怠けているやつらには負けたくないと思っています。」
ミラもファイアが喋りおえると食い気味に話した。最後にシェンがナハハと笑いながら立ちあがった。
「理想だけじゃ壁にあたることもあるかもしれないけど、せっかくなら高い目標掲げて行こうぜ。そしたら気がついた時にはパジェも父ちゃんが見ていた景色に辿りつけるさ。」
「ああ…。」
日が沈み、辺りはだいぶうす暗くなっている。
真面目な話をしたせいか場は妙な雰囲気になっていた。しかし、悪くない、むしろ心は暖かく活力がわいてくるように感じる。動機や目標は各々違うだろうが同じ王国軍の兵士として誇りと責任をもって働く。その意志の共有は4人に明日への活力となっていた。
「さあ、晩御飯の時間だ。道具片づけて食堂に行こうぜ。パジェも久々にたくさん喋って疲れただろうしな。」
シェンがパジェの肩を叩きながら冗談交じりに大きな声を出す。それにつられて周りも笑みがこぼれた。
「ずっと自分の心にあったモヤモヤを話すことができて良かったよ。ありがとう。」
「それに、このまま無口のままじゃ僕は影になってそのまま消えちゃうんじゃないかと思ってたからさ。」
「おっ、パジェが冗談まで言ってやがる。明日は槍が降ってくるな、こりゃ。」
4人は軽快な足取りで食堂へと向かっていった。
第2話 遊撃隊
「あの…大事なお話とは何でしょうか、アイス隊長。」
ファイアはろうそくの火だけが揺れる部屋にアイスと2人きりでいた。駐屯所の裏にある兵士の宿舎の食堂でミラたちと夕食を食べている時に「大事な話がある。」とアイスから呼び出されたためだ。普段はなかなか見ることのないアイスの険しい表情にファイアは戸惑っていた。
「単刀直入に言おう。ファイア、君の遊撃隊への配属が決まった。」
「遊撃隊…。それは初めて聞く部隊ですが…どのようなところなのですか。」
「まずはそこからだな。遊撃隊は王国軍の組織とは切り離された別の部隊だと思ってくれていい。主な仕事は王国を裏から支えることだ。」
「あの…、王国を裏から支えるとは…。」
「ファイア、ハーク王国ではこれまで大きな乱が起きたことが無いことは知っているな。その要因は何だと思う。」
「それは…歴代のハーク王や現在の王ハーク・ジー3世様の政治が良いからだと考えます。」
「うん、そうだな。それもあるが一番の大きな要因は乱の芽を小さいうちに摘んできたことだ。」
「…まさか、遊撃隊とは…。」
ファイアはアイスが言いたいことに気付いた。また同時に1つの疑問がわいてきた。
「…何故私がその遊撃隊に配置されるのでしょうか。」
「私が推薦した。君の優れた剣術と向上心は遊撃隊でも通用する。それに君は遊撃隊の中で活躍するために最も必要な“強い愛国心”を持っている。」
「王国のために頑張ってくれ。」
アイスは大きく開いた目で真っ直ぐファイアを見ている。ファイアはその目の威圧感と話の大きさに少しの恐怖感を抱き、立ち尽くすことしか出来なかった。
(遊撃隊…秘密裏に反乱の種になりそうな組織を壊滅させたり、…暗殺…を行う部隊。)
ファイアは兵士の宿舎にある自室に戻ると自身のベッドの上に座り込んだ。
(人を殺したことなんて一度もない、兵士になってからも。そんな自分に務まるものだろうか。)
こんな事を考えながらもファイアには拒否権が無いということは分かっていた。あくまで配置転換の命令だ。それでもファイアの葛藤は続いた。
(「王国のために頑張ってくれ。」か。)
そして夕方にパジェやミラ、シェンと話したことを思い出す。
(俺はこれからも王国のために誇りをもって兵士としての職務を全うしている、なんて胸を張れるのだろうか…)
ファイアは目を見開き天井を見つめながら無理やり笑顔を作る。
(いや、こうなったらやってやるしかない。この王国の景色や国民の笑顔が守れるなら、…その為なら自分の身が汚れようとも構わない。)
ファイアは自身の兵士としての道が深く暗い闇の世界に通じていく感覚に負けそうになりながらも、「王国のために…」と自分に発破をかけながら前に進む事に覚悟を決めた。
*****
「あなたに会うのは久しぶりね。半年ぶりかしら。」
栗色の髪をした女が柔らかい笑みを浮かべながら男に話しかける。
「相変わらず嘘くさい笑顔だな、お前は。」
竹筒に入った酒を飲みながら男はけだるそうに返答する。その様子に「相変わらず捻くれているのね、あなたは。」と女はため息をついたが、男はそれを無視して酒を飲み続けた。
しばらくすると廊下から足音が聞こえ、その音は2人のいる部屋の前で止まった。男はにっと笑いながら「お、新入りが来たみたいだぞ。」とつぶやき酒を飲みほした。部屋の扉が勢いよく開く。
「2人ともいるな。今日はまず新しく我が隊に入る者を紹介しよう。ファイア・ベル君だ。」
髭面の男に名を呼ばれファイアは一礼をする。
「こちらの男はフーガン君。そしてこちらの女性がミニカ・シエラ君。2人とも優秀な我が隊の兵士だ。」
ざっとお互いの紹介をした髭面の男はファイアに席に着くように促した後、自身も席に着く。
「改めて私がこの隊の長をしているカイブ・イーデンだ。よろしく頼むね。」
カイブは髭に手をやりながら話を続けた。
「さて、ファイア君にとってはいきなりの話になるがね、王の指示に反抗する者が最近いてね。このままじゃ王国が分裂する可能性も出てきた。今回はその危機を取り除いてきてほしい。」
あまりに突然の話にファイアは鼓動が早くなるのを感じた。フーガンとミニカは平然とした顔でカイブの話を聞いている。ファイアはたまらずカイブに問いかけた。
「あの…王国の分裂の危機とは…。その者とは誰なのでしょうか。」
カイブはファイアの問いかけに「うむ。」と頷き髭をなでた。
「ハークシーの長官であるキクス・トルーマンだ。今回の相手は国の大物だけに3人でとりかかってくれ。」
そう言うとカイブは立ち上がり部屋を出る仕草をみせた。
「ファイア君の初陣だね。成果を楽しみにしているよ。」
ファイアはフーガン、ミニカと共に竜神参りに行く格好になり済ましハークシーを目指すためハークグランの西門を出た。
(カイブ隊長のあの簡素すぎる指示はなんなんだ。相手の罪も目的も言わず一方的に危機を取り除いてほしい、だと。)
(それにトルーマン長官が王国に反逆することなんて考えられない…。)
ハークシーは王国第二の都市であるが首都ハークグランから距離があるため長官が派遣されていた。その長官がまさにカイブが“標的”として名をあげたキクス・トルーマンである。トルーマン家は150年あまり前の獣人族との争いで武功をあげたとされる名家であり、キクス自身も優れた人物であるというのが世間の評だった。
それ故にファイアにはトルーマン長官が王国に反逆を目論んでいることなど信じられなかった。険しい顔のファイアにミニカが柔らかい声で話しかける。
「どうしたの、ファイア。初めての仕事で緊張してる?」
「なんだ、さっきから静かだと思ったら緊張してたのか。」
腰にぶら下げた竹筒を揺らしながら前を歩いていたフーガンも振り向きファイアを見る。
「…お二人はトルーマン長官が王に背く意志があるという話が本当だと思いますか。」
ファイアの突然の問いに2人は黙った。フーガンは竹筒に手をやり酒を一口飲むと前を再び向いた。
「本当かどうかなんて知りやしない。俺たちは上の指示で動くだけさ。」
3人はハークシーを目指して西街道を進む。ハークシーまでは約15日の長い道のりだ。街道沿いには農村が広がっており、小麦が風に揺られていた。
ハークグランを出て最初の夜はロセという小さな街に泊まった。
その夜、ファイアはフーガンに呼び出され外に出た。月が明るい夜である。
「おい、お前さんはハークグランを出た時に今回の指令に疑問を持ってるようなこと言ってたな。」
フーガンは愛用の竹筒に入った酒を飲みながら話を切り出した。
「はい…、カイブ隊長のされたお話の信憑性と指示の簡素さに疑問を持ってしまいました。」
「初めに言っとくがカイブ隊長の指示はいつもあんな感じだ。だから俺たちはまず情報収集から始める必要がある。まったく…待遇と比べて割りが合わない仕事だよ。」
「あと、朝も言ったが俺たちは上の指示されたように動くだけだ。兵士の基本だろ?」
ファイアは「はあ…。」と返事をする。その声を聞いたフーガンはため息をついて頭をかく。
「なんでお前さんは遊撃隊にきたんだ。」
「私がいたタギ地区駐屯所の隊長に推薦されたと聞いています。私の武術と…あと強い愛国心を評価していただいて。」
「強い愛国心…ねえ。」
「お前さん、国を愛する気持ちを持つのは立派なことだが、盲目的になりすぎるなよ。」
「盲目的な愛国心…。」
「ああ、それだけを頼りにこれから遊撃隊の兵士をやっていくつもりなら気をつけな。確かにこの国の風土は綺麗だ。だが、王国の中央まで綺麗とは限らないぞ。」
ファイアはフーガンの忠告に驚き、彼の顔を見た。フーガンの視線は遠くにある。
「さて、明日の出発も早いし寝ようか。この仕事は大きいし時間もかかる。疲れを取らなくちゃ最後まで持たねえぞ。」
3人がハークグランを出て5日が経ち一向はザジロ盆地に入った。西の方角にはフセ山脈の姿がくっきりと見える。
ファイアは道端に立つ古い石碑を見つけた。
「ここが150年前に祖先が獣人族を打ち破って絶滅させた場所ですね。歴史を感じるなあ。」
少し興奮した様子のファイアを見てフーガンがカハハと笑い声をあげた。
「お前さん、獣人族の末裔だってまだ居るかもしれないだろ。フセ山脈によく出るって話聞くぞ。」
「もうあなたは本当に人を小馬鹿にするのが好きね。」とミニカがため息をつく。
「でもねファイア、フセ山脈に獣人族はいないけど狼なら本当によく出るから注意が必要よ。」
実際に竜神参りをする際の難所のひとつがフセ山脈だった。狼に襲われ命を落とす人も毎年後を絶たなかった。
「俺たちはハークシーに早く行って情報集めなきゃいけないんだ。フセ山脈もとっとと越えてしまおうぜ。」
フーガンは気合を入れるためか竹筒のお酒をグッと飲むと歩く速度をあげた。3人はフセ山脈へと続く西街道を進んでいった。
第3話 白い女
フセ山脈はハークグランとハークシーの中間にあり島の南北を走る山脈である。西街道を西進しハークシーに向かうファイアたち3人は山の頂上付近にある高山都市クイを今日の宿泊地とし山を登り始めた。クイはフセ山脈を越える人々の宿場町として発達した街である。クイまではなだらかな坂道が森の中に続いていた。
「ハークシーに着いてまずは情報収集をするって言われていましたけど、最終的な目標はやはり…その…トルーマン長官の暗殺ですか。」
ファイアがフーガンとミニカに尋ねると、前を歩いていたフーガンが慌てて振り向きファイアの耳元で囁く。
「お前さん馬鹿か。こんな誰が聞いてるか分からねえ場所で仕事の話を大声でするなよ。基本だろ。」
アッと小声をあげるファイアを見てフーガンはため息をつく。
「お前さん、しっかりしてるように見えて意外と抜けてるのな。」
「ファイア、この仕事は誰にも知られてはならないのよ。あなたの家族や兵士の仲間にもね。私たちは消えた存在にならなくちゃいけないの。逆に言えばこの仕事が他人に知られればあなたの命が消えちゃうのよ。」
ミニカがファイアの肩に手をやりながらつぶやくように言う。
「さあ、もう午後だ。クイまで歩く速度あげるぞ。野宿は嫌だからなあ。」
3人は黙々と歩き続けていた。すると急に動物の遠吠えが聞こえた。
「狼だ。もし目の前にあらわれても急に動くんじゃねえぞ。」
ファイアは体がこわばるのを感じた。周囲に警戒をしながら慎重に進む。ファイアは街道沿いに広がる森をぐるりと見た。
(……あっ。女の子が狼の群れに囲まれている。)
街道から外れた森の中で白いマントのようなものを着た女が狼の群れに囲まれているのが見えた。その光景を見た瞬間にファイアの体は女のほうへ動いていた。
「おいっ。お前さんどこへ行く。」
「あっちの森の中で女の子が狼に囲まれているのが見えました。」
フーガンは「俺らも行くぞ。」とミニカに視線を向ける。ファイアの後を追って2人も森の中へ入った。
ファイアは走りながら剣を抜いた。
(くそ。草が足に絡まって進みにくい。)
ファイアは草を剣でかき分けながら必死に女の子の方へ走る。その間にも狼の群れはジリジリと女の子を囲んでいた。
「おい、そこの子大丈夫か。」
ファイアが叫ぶと狼の鋭い眼がこちらを見た。その瞬間、女の子を囲んでいた狼のうち3匹がこちらに駆けてくるのが見えた。先頭を走っていたファイアに向かって1匹が飛びかかる。
飛びかかってきた狼をファイアはかろうじてよけた。狼は体を反転させて再びファイアに襲いかかろうとした。
「狼さん。こっちにもいるんだぜ。」
その狼をフーガンが切りつける。ファイアに向かってきた残り2匹の狼はそれを見て距離をとりながら威嚇する。
ファイアは女の子のほうにめがけて再び走り出す。それを追おうとする残り2匹の狼の前にフーガンとミニカが立った。
「この2匹をとっとと片づけないとあの馬鹿がやられるぞ。」
ファイアが再び女の子のほうを向いた時、狼の群れが一斉に女の子に飛びかかるのが見えた。
(駄目だ。間に合わない。)
ファイアが目をつぶろうとした瞬間、目の前に信じられない光景が見えた。
女の子が向かってくる狼の方に走り出し飛んだのである。正確に言えば2メートルほどの跳躍で狼たちをかわした。
(…っ。なんだあれ…。)
さらに狼の1匹が再び女の子に襲いかかろうとすると、女の子は白いマントから左腕を出した。
(包帯が巻かれている…。どうするんだ素手で。また上に飛ぶのか。)
女の子は向かってきた狼に対し左腕を降った。狼の血が飛ぶ。
ファイアはこの光景を見ていることしか出来なかった。信じられないことが起きていたからである。
(女の子の左手の先…獣の爪…。)
女の子の左手の先から狼の血がしたたり落ちる。
(あの跳躍力…、左手の爪…、昔話の中でしか出てこない獣人族そのものではないか。)
ファイアは生きてきた中でこれほど生き物に対して恐怖感を抱いたことは無かった。その恐怖の対象は間違いなく狼の群れではなく、目の前に立つ1人の白いマントを着た女の子に向けられていた。
獣の手を持つ白いマントの女の子の左腕の前に一匹の狼が倒れたのを見て、狼の群れは森の奥へ消えていった。
「あなた方大丈夫じゃったか。」
そして、その女の子の目は茫然と立ち尽くすファイアたちに向けられた。顔にうっすら笑みを浮かべているが、その視線は異様に冷たい。
「その格好を見る限り竜神参りに行くんかな。今見たことは他言せんで欲しい。」
ほぼ脅しのような口調だった。彼女は「頼んだよ。」と一言付け加えるとマントをひるがえし森の中へ消えていった。ファイアたちはしばらく動くことが出来なかった。
*****
「お前さん、ハークグランに至急戻り、今日起こったことをカイブ隊長に報告してこい。獣人族が再び現れました、と。」
フセ山脈の山中で白いマントの女を見たその夜、クイの宿泊所で3人は今後について話し合っていた。
「分かりました。お二人はこれからどうされるのですか。」
「私たちは一足早くハークシーに向かって向こうの情勢を探ってくるわ。だけどまだ信じられない。」
「まさか、獣人族が生き残っていてフセに居たなんてな。このことが国民に知れたら王国が大混乱するぞ。」
ハーク王国では小さい頃から150年余り前の戦いでハーク・マルクが獣人族を絶滅させたと教えられる。もちろん3人もそうだった。しかし今日、獣人族は絶滅したという固定概念が崩れたのである。3人が受けた衝撃は相当のものだった。
「やはりあの女の子は獣人なんでしょうか。私たちの見間違いという可能性は。」
「お前さん、あいつの左腕見ただろ。それにあの動きは人間じゃ無理だ。」
「…そうですね。だけどあの格好をした女の子をどこかで見たことある気がするんだよな…。」
「ファイア、あの獣人と会ったことがあるの?」
「いや、それが思い出せなくて。」
「まあいい。とりあえずお前さんは明日すぐクイを出てハークグランに行け。」
翌朝、ファイアはクイで馬を借りフセ山脈を急いで降りた。また、フーガンの指示で竜神参りの格好から兵士の服に着替えた。竜神参りの格好で馬に乗るのが不自然なことだからである。
ファイアがフセ山脈をくだりザジロ盆地へと入った時である。古い石碑に1人の女が腰をかけているのが見えた。
(あれは白いマントの女。…あの女だ。)
ファイアは馬をとめ剣を握りながら女に声をかけようとした。辺りに人影はなく、風が草を揺らす音だけが聞こえる。
「また会ったな。」
女が先に声をかけてきた。
「お前は…、お前は何者なんだ。」
少し叫ぶようにファイアが声を出す。
「この国では人に名を問うときはまず自分から名乗ると教えんのんか。」
「なっ。…ファイア・ベル。王国軍の兵士だ。兵士として聞く。お前は何者だ。そして何故、このハーク王国内にいる。」
「ずいぶんと怖い顔した兵士さんじゃなあ。」
白いマントの女の子は肩をすくめヤレヤレといったポーズをとる。
「ケイじゃ。」
ファイアの表情を見て、白いマントの女の子は語気を強めて続ける。
「じゃから私の名前じゃ。私はケイという。」
「何故ここにいるか…。ちょっと頼まれごとをして欲しいんじゃ。」
「頼まれごとだと。」
「そう、頼まれごと。大嘘つきの国王様にな。」
そう言うとケイはニッと笑った。
ケイの表情にファイアは少し戸惑ったが、動揺を出さまいと表情と語気を強める。
「大嘘つきの国王様だと。それはハーク・ジー3世様のことか。我が国の王を侮辱するのか。」
「侮辱じゃない。本当の事を言ったまでじゃわ。」
ムッとした表情を見せるファイアを無視してケイは話を続けた。
「その王にこう伝えて欲しい。“これ以上いらん事したら我が民族がお前たちを滅ぼすぞ”と。」
「なっ、何を馬鹿な事を言っているお前。ハーク王国を滅ぼすだと。それに我が民族と言うことはお前の仲間がまだいるってことか。」
「お前、お前って私にはケイというちゃんとした名前があるんじゃけどな。」
「今はそんなことどうでもよい。俺の質問に答えろ。」
ファイアは怒鳴るように言い放ち、剣を抜いた。その様子を見てもケイは余裕のある表情を浮かべている。
「ふっ、脅しのつもりか。そんなもんじゃ私は殺せんで。質問に答えろと言ってたな。お前たちがどんな教育を受けてきたか知らんが、私たちは何百年にも渡って繁栄してきた由緒ある民族じゃ。もちろん私の仲間も多くいる。」
ケイはそう言い放ち左腕を白いマントから出した。お前が襲いかかってくるなら殺すと言わんばかりに。そしてその左腕をファイアに向けた。鋭い爪が光る。
「頼まれごと、聞いてくれるな。」
(さっきから手足の震えが止まらない。なんだこの状況。どうすれば正解なんだよ。)
(そもそも分からないことが多すぎる。獣人族はどこに住んでいるんだ。ケイというこの女はなぜここにいる。…そもそもケイのいう“いらん事”ってなんだよ。)
ファイアは構えていた剣を降ろすと静かな口調でケイに問いかける。
「なあ、お前の、ケイの言う“いらん事”ってなんだよ。話に情報が少なすぎて俺には分からないことだらけだ。」
「お前の国王に言えば分かることじゃ。」
そう言うとケイはファイアに向かって飛びかかった。剣を降ろして話をしようとしていたファイアは反応が遅れる。ケイの左手の爪がファイアの左腕を斬る。
「っ。何をする。」
ファイアの左腕には切り傷ができ、血が地面に落ちる。
「動きが遅いな。今の約束を忘れそうになったら、その傷を思い出して私の頼まれごとをちゃんと果たすんじゃで。」
「お前たちの国王が止まらなければ私たちも武力行使に出るしかない。戦争は私たちも望んでないんじゃからな。」
そう言うとケイはフセ山脈の方へ走り去っていった。
ファイアは傷を受けた左腕をかばいながら石碑に持たれて座り込んだ。緊張でかたくなっていた体の力が一気に抜ける。しかし、心臓の鼓動は早いままだ。
(早くこの事を報告しなければ…。しかし、遊撃隊に入って衝撃的なことばかりだ。獣人族の末裔に会い、そして重大な警告を受け。)
ファイアは目の前に広がる草原を見た。
(ケイと名乗る女、去り際に戦争とか言っていたな。)
(この王国が戦火にあうことだけは避けたい。決してあの女が信用できるわけではないが…ハーク・ジー3世様への伝言の件もカイブ隊長に意見を伺おう。)
ファイアはケイにつけられた左腕の傷に持ち合わせていた布を巻き立ちあがった。そしてハークグランに再び馬を走らせはじめた。
第4話 孤高の山
孤高の山”は竜の神が住むとされるハーク王国のシンボルの1つであり、島の最西端にあるとされている。されていると書いたのは孤高の山に足を踏み入れると竜の怒りを買うとされ、何人たりとも山に近づくことが出来ないためだ。そのため孤高の山の西側について誰も知らない。
そのため竜神参りに行く人々が目指す目的地は孤高の山の東側ふもとにある“竜誕の池”と呼ばれる巨大池である。竜がうまれたとされるこの池の水を体に浴び、花を池に浮かべる。竜神の加護を受け、その感謝の念を示す気持ちが竜神参りには込められていた。
今年は特に竜神参りに行く人が多い。今日も竜誕の池には多くの人が集まっていた。まだ昼前だというのに水面には数十個の花が浮かんでいる。
そんな光景を孤高の山の上から見る者たちがいた。ボロボロの布を腰のところで縄で縛っただけの簡素な服装をしている。
彼らは巨岩の上に登り、孤高の山の裾野に広がる森やその中にある竜誕の池、そして竜神参りをしている人々をじっと見ている。
「今日も多いな。」と大柄の男がつぶやく。太い足に太い腕。その声に隣にいた男が頷く。
「うん、色んな声が聞こえてくる。」
そう言うとその男は耳をしきりに動かした。2人の前に立っていた男が視線を山下から外さず低い声で喋り出す。
「おいキャパ、今日は変なこと目論んどる人間はおるか。」
キャパと呼ばれた男は再び耳を動かしながら目を閉じ周囲の音を聞く。
「槍の音がいつもの倍は聞こえる。人間がこの山のふもとの兵を増やしとるのは間違いなさそうじゃで、タントタン。」
2人の前に立つタントタンと呼ばれる男はそれを聞いて、「ほーう。」とつぶやくと舌で唇をなめた。
「おいタントタン、本当にやるんか。」
タントタンの様子を見て後ろに立つ大柄の男が真顔のまま問いかける。
「ああ、人間が舐めた態度とるなら、どっちが上かってことを見せんとおえんじゃろが。前みたいに叩き潰してやるわ。ジプ、大暴れの時間じゃ。」
*****
クイでファイアと別れたフーガンとミニカも馬を借り、ハークシーへ急いだ。状況が大きく変わった。人類にとって、ハーク王国にとって一番の敵ともいえる獣人が150年余りの時を経て再び姿を現したのである。同じ王国内で争いをしている場合ではない。
クイを出て3日目。フセ山脈から続くなだらかな丘陵の眼下にハークシーの街並みが見えた。その向かいには孤高の山がそびえている。孤高の山の裾野の先、丘陵の谷間に小さな家屋が密集していた。その街並みの中、孤高の山の近くにひと際大きな建物が見える。
「あれがハークシー官府だ。あそこにトルーマン長官もいる。」
「急ぎましょう。」
フーガンとミニカはハークシーへと続く丘陵の坂道を勢いよく下って行った。
2人はハークシーの市街地に入った。
「しかし何度来てもこの街はハークグランと同じ国の街に見えないな。」
フーガンは周囲を見渡しながらハークシーの住人が聞いたら激怒しそうな台詞を吐く。ミニカは静かに「そうね。」と相槌をうつ。
首都ハークグランは整然とした街並みに裕福層が住んでいるのに対し、2人のいるハークシーは貧しい者が多く住んでいた。そのためかハーク王国内で最も治安の悪い街であり、王国への反乱分子が生まれることも多かった。そのため、フーガンとミニカは遊撃隊の仕事でハークシーに何度も足を運んでおり、この街の地理にもすっかり詳しくなっていた。
二人はハークシー官府の前に着いた。官府前の門には胸にハークシー兵の証である青い竜のエンブレムをつけた二人の兵士が警備として立っていた。この警備兵にハークグランからの使者であると伝えると中の小さな小部屋に通された。フーガンがトルーマン長官との面会を希望すると「少し待ってろ。」と言い警備兵は部屋を出て行った。
「この状況だと直接トルーマン長官に説明するほうが早いはずだ。獣人族が再び現れたと聞きゃ、どんな企みを働いてるか知らんが改心してくれるかもしれん。」
「ええ。でも正攻法すぎて失敗した時が怖いけどね。」
「その時はその時だ。この王国が再び獣人族との大きな争いに直面するかも知れん。なりふり構ってられん。」
*****
その時、トルーマン長官は官府内の長官室で1人考え事をしていた。すると部下の兵が扉をノックする音が聞こえた。
「開いとるぞ。なんだ。」
「トルーマン長官。ハークグランより二名の使者が来ております。何でも長官と面会したいと。」
「ほう。もしやその二人というのは竹筒をぶら下げた男と栗色の髪をした女か。」
「何故それを。見られていたのですか。」
「ちょっとな。分かった。連れてこい。」
部下が部屋を出ていくのを見てトルーマンは薄くなった頭をかく。
(遊撃隊を送ってくるとは。中央のやつらがワシに脅しをかけてきたか。)
しばらくすると再び扉をノックする音がし、フーガンとミニカが長官室に入ってきた。
「失礼します。トルーマン長官にお話があり伺いに来ました。」
「なんじゃ。ワシを消すために来たんじゃないのか。まあ、ハーク王国の裏舞台で暗躍してきたお前たちが堂々と官府内でそんな事はせんか。」
トルーマン長官は1人で笑うと「で、話とは。」と続けた。フーガンが「はい。」と小さく返事をすると一歩前へ出た。
「獣人が再び現れました。正確に言うと私たちがハークシーへ向かう道中、フセ山脈の森にて目撃しました。…当初はトルーマン長官が王国に対し反抗の意志有りという指示を受けこちらに参りましたが。」
「獣人が再び現れた…か。それでお前たちは上の指示を半場無視する形で私に直接伝えに来たのか。」
「ええ。獣人族が現れた今、ハーク王国は内部で分裂している時ではないと思います。トルーマン長官が心の中で画策しているものは存じあげませんが、改心して頂けないかと。」
「それなら頑固な年寄りのワシを消して中央に忠実な者を長官に仕立てあげれば良いではないか。」
「…トルーマン長官の力がハーク王国にはまだまだ必要です。どうか。」
フーガンは頭を下げた。ミニカも一歩前に出て頭を下げる。その時だった。長官室に1人の兵士が荒々しくはいってきた。
「長官、孤高の山の警備隊が何者かの集団に襲われ只今交戦中。兵の中に死傷者も出ています。」
「分かった。1隊20名をすぐに派遣できるよう準備しろ。ワシも現場に向かう。」
トルーマンは部下の知らせを聞くやいなや、すぐに指示を出し部下を下げさせた。この様子をフーガンとミニカは険しい表情で見ていた。トルーマンは出支度をしながらフーガンとミニカのほうを向くと申し訳なさそうな表情をつくった。
「というわけで話の続きは持ち越しで構わんか。緊急事態だ。」
「私たちも現場に同行します。」
「いや、お二人は別室で休んでおいてくれ。ハークシーまで長旅だったろうしな。」
「警備隊を襲撃する集団というのが気にかかります。王国への反乱分子だとすると我々遊撃隊の仕事の可能性もあります。ですので、長官がどう言おうと私たちも現場に向かいます。」
「そう言うのならワシは止めんよ。」
*****
トルーマンを先頭に王国軍の兵士20数名が孤高の山に向かう。フーガンとミニカもトルーマンの隣に並び馬を走らせる。部下の報告によると交戦場所は孤高の山のふもとにある駐屯所とのことだった。官府から駐屯所までは馬を走らせ15分の時間がかかる。
「長官、ハークシーでは最近こういった事態が頻繁に起こったりしているのですか。」
ミニカが長官に尋ねる。情報収集だ。
「いや、ハークシーはご存知の通り治安が悪いが、最近はこういうことは起こってなかった。だが、孤高の山の駐屯所が襲われるというのは5年前にもあった。」
「5年前ですか。我々の隊にそのような報告は来ていませんが。」
「…だろうな。」
「今回も同一犯の可能性が?」
「それはついてみないと分からん。」
一同は市街地を抜け駐屯所に向かう道を走る。この道は竜誕の池に行く道でもあり、道の向こうから竜神参りを行っていた人々が逃げてくるのが見えた。
「キューロット、お前は竜誕の池に向かえ。竜神参りをしていた人びとの安全確保だ。」
道が二手に分岐しており、トルーマンの指示で名前を呼ばれた部下であるキューロットは3人の兵士をつれて隊列とは違う道へ消えていった。
「この林を超えれば駐屯所だ。速度をあげよ。」
怖いくらい静かな林を進み駐屯所に近づいていくと次第に男たちの低い声が聞こえてきた。林が開け駐屯所が見えた。しかし、一同は声を失った。
「な…、なんだこの惨状は。」
フーガンが小さな声で呟く。辺りには槍が散乱し兵士が幾人も倒れている。地面はいたる所が血の色に染まっていた。先ほど林の中で聞こえた声は傷ついた兵士たちのうめく声だった。
「襲撃してきた集団が付近にいないか捜索しろ。同時に生存者の確認と怪我人に処置を。急げ。」
トルーマンの指示で兵士たちが一斉に動きだす。
「しかし、ひどいな。ほぼ壊滅状態…だ。」
フーガンは馬を降り、槍を片手に再び辺りを見回す。ミニカが何かに気付いた。
「フーガンあれを見て。」
ミニカは怪我を追い運ばれる兵士を指した。
「あの兵士の衣類裂かれ、腕にも同じような傷を負っているわ。」
「おいおい、あれは。」
「それにあの兵士の腕…喰いちぎられてる。」
この状況を見て二人の脳裏にはフセ山脈で目撃した獣人の女がよぎった。
「これをやった犯人は…獣人だっていうのか。」
フーガンは唾をゴクリと飲み込み、ミニカの顔を見た。ミニカもフーガンの顔を見る。二人は青ざめた表情で顔を見合わせていた。
第5話 部屋にて
結局、警備隊を襲撃した集団が再び現れることはなかった。しかし、その集団と交戦した警備隊は死者8名負傷者11名という甚大な被害だった。トルーマンは駐屯所の兵士を拡充させ、自身はハークシー官府に戻った。
その夜、長官室にトルーマンをはじめ、フーガン、ミニカ、そして駐屯所に居たレヌという男が集まった。部屋の雰囲気は重く暗い。
「今日の孤高の山駐屯所が襲撃された件だが…。」
トルーマンがその重い雰囲気の中、話始めた。
「レヌ、お前ははじめ駐屯所におり、その集団とも戦ったんだよな。改めて聞くが、その集団に見覚えはあるか。」
話を振られたレヌが顔をあげる。その顔には包帯が巻かれていて、顔はこわばっている。
「…はっきり申します。襲ってきた者どもの腕や爪、足はまさに獣のものでした。」
レヌの震える声を聞き、フーガンとミニカが顔を見合わせた。
「それに、恐らく5年前のあの事件の犯人と同一であると思います。」
その言葉を聞きトルーマンの眼が鋭くなった。そして静かに「そうか。」と独り言のように呟くとレヌに向かって優しい口調で話かけた。
「レヌ、もう下がってよい。今日はよく戦ってくれた。後はゆっくりと休んでくれ。」
レヌが退室するのを見送った後、フーガンがトルーマンの方を向く。
「長官、今の話の中で気になった個所があります。5年前の事件とは何ですか。」
「同一犯だということであれば、その事件も獣人族によるものである可能性が高い。しかし、そういった話について遊撃隊はもちろんハークグランでも聞かれていない。噂にもなっていない。教えてくれませんか、トルーマン長官。」
食い気味に話すフーガンをみてトルーマンは1つ溜息をついた。
「こうなったらお前たちに話すしかないかな。そうすればお前たち遊撃隊がワシのところへ派兵された理由もわかるだろう。」
そう言うとトルーマンはポツリポツリと話始めた。
「5年前も襲われたのは孤高の山駐屯所だった。その時の被害は今回よりも遥かに大きいものだった。何故ならワシが駐屯所に多くの兵を集めていたためだ。孤高の山に立ち入るためにな。」
「孤高の山は入山出来ないはず。何故その掟を破り入山を試みたのですか。」
ミニカの問いにトルーマンは少し間を開けて答えた。
「ハークシーのため…とでも言っておこう。知っていると思うがこの街の産業は弱い。放牧と竜神参りに来る人に対する商売だけで食べている街だ。だから豊かな孤高の山の調査のためという名目で兵を集め入山を試みた。」
「しかし、入山は結果的に失敗した。今回と同じような襲撃を受けたためだ。ワシは人生で初めて獣人というものを見た。」
「…何故、その事件の話がハークグランに聞こえてこなかったのだろう。」
フーガンの呟きにトルーマンが答える。
「中央がこの話を揉み消したからだ。獣人族を滅ぼした英雄ハーク家の王国内で実は獣人族が生きていたなどという話が出たら権威が失墜するだろうからな。」
「それに護国の竜神が住むと言われてる孤高の山に獣人族が出たんだ。ワシがもし中央の人間であったとしてもそんな話は握りつぶしただろうよ。」
「中央はあの事は事故として遺族には報告しろと言ってきた。生き残った兵士にも事件のことは他言してはならないと厳しく指導しろ、とな。そんな中央が今回、ワシに孤高の山の調査をするよう指示してきた。兵を孤高の山に入れろと。」
フーガンとミニカは目を見開いた。トルーマンの懺悔にも告発にも似た語りは続く。
「ハークシーの兵は5年前の惨劇を見ている。勿論ワシもだ。再びあの惨事を起こしてはいけないとワシは中央の指示を強く拒否した。何度も何度も。」
「私たちがハークシーに派遣されたのは、王国の指示を長官が強硬に拒否し続けているから…ですか。」
ミニカが恐る恐る口を開く。その言葉にトルーマンは深く頷いた。
「恐らくそうだろうな。」
「今回の獣人族の襲撃も軍を孤高の山に入れようとしたことが原因でしょか。」
「いや、今回は駐屯所の警備兵も通常通りの人数で孤高の山周辺で変に軍を動かしたりしとらん。どこでこの情報を嗅ぎつけたのか。獣人の諜報員がハーク王国に潜んでいる可能性が高いのかもしれん。」
トルーマンの“獣人の諜報員”という言葉を聞き、フーガンの脳裏に再びフセ山脈で目撃した女の獣人が出てきた。
(あの獣の女が諜報員の可能性もあるってことか。ファイアからの報告を受けて王国の中央がどう動くのか。)
(そもそも中央は獣人の存在を5年前から把握してたってことか。知っててなお、あんな教育を続けて国民を騙すとは罪な王国だ。まあ、それも王国維持のためには仕方ねえのかもしれんが。)
フーガンは気分が悪くなって、小さく舌打ちをし、竹筒の酒に手を伸ばす。
「また多くの兵士の命を失ってしまった。」
トルーマンは沈痛の表情を浮かべながら悔しそうに呟く。長官室は再び重く深い雰囲気と沈黙に包まれた。
*****
その頃、ファイアはハークグランの遊撃隊の本部が入る建物から出てきたところだった。つい先ほどまでファイアはカイブにフセ山脈で獣人を目撃したこと、ザジロ盆地でその獣人に再び会い言われたことなどを詳細に報告していた。
(しかし、カイブ隊長はやけに冷静に聞いていたな。獣人っていう昔話の中の存在のようなものが現れたというのに。)
日が落ち暗くなったハークグランの街。ファイアは今晩、カイブが用意してくれた宿泊所に泊まるとこになった。その宿泊所まで満天の星空のもとを歩く。
(しかし、これからハーク王国はどうなるのだろう。)
そんな事を考えながら宿泊所に着いた。買っておいたパンを食べファイアは寝ることにした。
(明日にはまたハークシーに向う。早くフーガンさんやミニカさんと合流しなければ。今日は早く寝よう。)
ベッドに入り、目を閉じた。すると、額を何かでつつかれるのをファイアは感じた。なんだと思い目を開ける。
「よう、お前。久しぶりじゃな。」
「なあっ。」
ファイアは声にならない悲鳴を上げた。
「お前は。な、何故ここにいる。」
(状況がつかめない。ハークグランにある宿泊所の中で、最後にザジロ盆地で会った獣人族の女の子ケイがいる。落ち着け。)
「だから私の名前はケイって言っとるじゃろが。忘れぽい男はモテんぞ、ファイア・ベル。」
(剣や槍はベッドから届かない場所においてある。あいにくコイツは俺を殺すつもりではないようだが、刺激しないよう気をつけなければ。)
「ああ、なあケイ。お前はなんでハークグランのこの宿泊所に、俺の泊まっている部屋に居るんだ。」
「もう一度ファイアに会いたかったんじゃ。そして話をしたかった。じゃから、ここに居る。」
ファイアにそう言い悪戯っぽく笑うケイは、窓から差し込む月明かりに照らされ可愛く見えた。
ファイアは不覚にもつい先日自身に傷をつけ、さらに王国の敵になるであろう存在の獣人族の女の子を可愛いと思ってしまった。そのことが急に恥ずべき事に思え、顔を背けながらケイに話かける。
「話か。わざわざこんな場所に忍び込むんだから、よほど大きな話なんだろ。」
「そんな大層な事じゃない。頼まれごとはちゃんと果たしてくれたか。」
「今日、俺の所属する隊の長に話した。悪いが下っ端の俺じゃ国王と面会なんて出来ないんでね。」
「そうか。…伝えてくれたんならそれでええ。」
そう言うとケイはうつむき黙り込んだ。その様子にファイアはどうすればよいか戸惑う。
「な、なあケイ。お前のこと教えてくれないか。」
ファイア自身驚くほど穏やかな声だった。静かな夜がそうさせているのか分からないが、心も妙に落ち着いている。先ほどまでの焦りが嘘のようだった。
「そうじゃな。ファイアには痛い思いもさせたし、頼まれごとも聞いてもらった。話せるところだけ話そう。」
(獣の左腕さえなければ普通の女の子にしか見えないな…。今の優しい笑みを浮かべてるケイなんて普通の可愛い女の子だ。)
「私は獣人と人間の大きな争いが再び起きるのを止めたい。じゃから、ここに来た。」
「争い…。獣人族は王国を攻撃するつもりなのか。」
「いや、逆じゃ。人間が私たちの土地に攻め入ろうとしている。」
「…兵士の俺が知らない情報をなんでケイが知っている。信用できる話なのか。」
「ああ。…すでに1回お前たちの国の軍が私たちの土地に入ってきた。5年前にな。」
(5年前…。俺が王国軍に入る前にそんな事が行われていたのか?)
「…私たちの土地と言ってるけどそこは何処なんだ。」
「ここより遥か西の山。ファイアたち人間が“孤高の山”と呼んどる山じゃ。」
ファイアの心は再び大きく暴れ出した。自分の知っている話と大きく違う。自分が教わってきた話と大きく違う。
(そんな馬鹿な。孤高の山は竜神の住む山だろ。よりによって獣人がいるなんてそんな話があるか。…ケイが俺を惑わすために嘘をついているとしか思えん。)
ファイアはケイの顔をグッと見る。ケイは柔らかい笑みを浮かべていた。
「言ったじゃろ。大嘘つきの国王様って。」
*****
ケイはしばらくして「また会えるとええな。」と言い残し去っていった。ファイアはケイが去った後も目が冴え眠れずにいた。真っ暗な部屋の天井を見つめる。
(ケイのあの目にあの表情。…とても嘘の話をしているような様子ではなかった。)
(…カイブ隊長は獣人の存在を知っていたのか?だから俺が話している時も妙に落ち着いていたのか?)
(俺は、俺たち国の民は王国に偽りの話を教え込まれてたのか。)
ファイアの頭には様々な疑念が浮かんでは消えていく。
(…俺はこれからもこの国を愛していけるのか。)
ファイアはこれまで自分の人生を支えてきた“愛国心”が揺らぐことがとても怖く感じた。これ以上は何も考えたくないと目を閉じる。気がつけばファイアは眠りについていた。
数日後、王国は1つのニュースに大きく揺れることとなる。
第6話 布告
首都ハークグランは二重に円状の堀が走っている。堀の一番内側は“中央”と呼ばれており、普段、一般の民が入ることは禁じられている場所である。この中央と呼ばれる場所に国王ハーク・ジー3世が住む館はあった。この館は“国王の館”呼ばれており、ハーク王国の政治もここで行われている。
国王の館が今日は騒がしい。ハーク・ジー3世が国政を行っている奥の部屋に1人の男が入ってきた。鋭い目つきに髭面の男である。
「エムダか。どうかしたのか、そんなに血相を変えて。」
ハーク・ジー3世は王国の№2であるエムダ大公の普段と違う顔つきに驚いた。名門イーデン家の長男であるエムダ・イーデンは冷静で知略に優れていると評される人物である。その男がひどく慌てた顔をしている。
「国王様、…まずはハークシーにて獣人族は警備隊を襲撃したという知らせが入ってきました。」
「トルーマンがやっと動いたのか。エムダの弟の部隊を差し向けて正解だったな。」
「いえ、トルーマンは動いていないと。」
先ほどまでニヤニヤと笑っていたハーク・ジー3世の顔が一瞬にして変わる。
「は…。どういうことだ。」
「…もう1つの知らせが遊撃隊の兵士がフセ山脈で獣人を目撃。その兵士が獣人から国王様への伝言を残されたと。」
「獣人から伝言だと…。なんだ。」
「“いらん事をするな”と言われたそうです。」
それを聞いたハーク・ジー3世は勢いよく机を叩く。
「随分と舐めたこと言ってくれるじゃないか。半獣半人のやつらめ。」
「150年以上前の掟なんて糞食らえだ。俺の代で勢力図を塗り替えてやる。」
激高する国王を見てエムダは心の中で静かに溜息をつく。まだ若いハーク・ジー3世は好戦的な男でたびたびエムダを困らせてきた。
「それではまた。」と言いエムダは奥の部屋を出る。国王の館の中にある長い回廊をエムダが歩いていると1人の男が近づいてきた。王国軍のトップであるアクオ将軍だった。エムダとはお互い長年王国に努める盟友である。
「エムダ、こりゃまた疲れた顔しとるな。」
「アクオか。今回はお前の力を借りるかもしれん。」
「ほう、王国軍の力を借りるとは物騒なことだな。」
「ああ。戦争だ。」
「…獣人族の件か。今、館中が大騒ぎになっとるぞ。」
「しかし、なぜ国王様の考えを止めんかった。エムダなら上手く止めると思ったんだが。」
アクオはエムダに問いかけた。
「…国難の時は外敵を作ると国内がまとまる。そういうことだ。」
エムダの返答にアクアは前を見つめながらつぶやく。
「国難か。…今年は小麦の収穫量が壊滅的だ。それに加えて、国王様の荒い政治に対して民の不満もたまっている。ついには王国の打倒を唱える者も出てきて遊撃隊を拡充したとも聞く。民の怒りが国王様に、そして中央に向くことを恐れているのかエムダ。」
「…そういうことだ。」
そう言うとエムダはアクオの方に見た。
「私はこの後、国王様の布告のことで用事がある。明日は頼んだよ。」
そう言うとエムダは早足で館の中に消えて行った。
*****
ハーク・ジー3世に獣人族による孤高の山駐屯所への襲撃事件が報告された翌日、ハークグランの槍の広場には多くの民衆が集まっていた。その様子にシェンの目は丸くなる。
「尋常じゃない数の人がいるな。俺たちが警備に駆り出されるのも納得の人出だわ。」
シェンの隣に立っていたミラも疲れた表情で頷く。
「私、ハークマウンの出身なんで人ごみに慣れないんですよね。軽く酔いそうです。」
パジェも覇気のない表情をしながらざわついている民衆を眺めている。
「僕もだよ。ハークグランに来てしばらく経つけど一向に慣れない。しかし、今日の国王様の布告って何だろうね。」
「何でしょうね。国王様がここまで出てくるなんて滅多にないですからねえ。」
そうする間にも人はぞくぞくと集まってくる。
しばらくすると槍をもった王国軍の隊列が槍の広場に入ってきた。その隊列の中に馬に乗ったハーク・ジー3世やエムダ、アクオなどの姿が見える。
「来たみたいだな。さて国王様が何を喋られるか。」
王国軍の隊列を見てシェンが姿勢を直す。
ハーク・ジー3世はハーク・マルク像の横に作られた急造の台の上に登り、辺りをゆっくりと見渡した。
「今日はよく集まってくれた。私がハーク王国の王ハーク・ジーだ。」
とても大きな声だ。それまでざわついていた民衆は静かにハーク・ジー3世の言葉を聞く。
「我がハーク王国は今日まで栄光と繁栄の歴史を歩んできた。」
ハーク・ジー3世はハーク・マルク像を指す。
「それは…このハーク・マルクが武勇と知略をもって獣人族を滅ぼした150年前から続いている。」
「しかし、しかしだ。その獣人族が再び現れた。卑しくしぶとい獣人族がハークシーを襲ってきたというのだ。しかも、竜神の住む聖なる山“孤高の山”で奴らは好き勝手しているという。」
ハーク・ジー3世の話を聞いていた民衆がざわついてきた。それを遮断するようにハーク・ジー3世は持っていた槍で台を叩き再び大きな声で喋り出す。
「奴らは我々人間を食う。そんな者どもをこのままには出来ない。」
「私たちは孤高の山を取り戻す。そして、醜く、恐ろしい獣人族をもう一度絶滅させる。」
「王国軍を孤高の山へ派兵する。今現在も獣人族の恐怖に震えるハークシーの市民たちを救いだし、このハーク王国の平和を、人類の栄光を守り続ける。」
「ハーク王国の平和と栄光のため、一緒に戦おう皆。」
そう言い終わると再びハーク・ジー3世は槍で台を叩いた。すると、民衆の一部から「おおお。」という叫び声が聞こえた。それは瞬く間に全体に広がり、槍の広場に集まった民衆は拳をつきあげ威勢の良い声をあげる。槍の広場が揺れた。
ハーク・ジー3世の槍の広場での布告の後、ハーク王国内は“獣人族討伐を”との世論に完全に染まった。また、ハークグランをはじめとした王国内のあらゆる街にビラが出され、国民の獣人族に対する敵対心と孤高の山を取り戻すという雰囲気は日に日に増していった。
中央は孤高の山を獣人族から奪還し、獣人族滅亡を果たすため遠征軍を編成しハークシーに送ることを決定した。遠征軍はアイス・ミルトンを大将に据え、主にハークグランの兵士を対象に組織された。
ミラやシェン、パジェもこの遠征軍に名を連ねた。
遠征軍がハークグランを発つ日、槍の広場にて出陣式が行われた。多くの市民が集まり歓声を送る中、アイスが前に立つ。
「遠征軍の大将、アイス・ミルトンだ。」
「150年間もの長い間平和だったこのハーク王国に今、最大といってもよい危機が迫っている。」
「我々はなんのために存在している。」
「…それは、危機に勇敢に立ち向かい王国を、そして国民を守るためだ。」
アイスは大きい声をさらに張り上げた。
「我々、王国軍の兵士はこのハーク王国を、そして国民を守るために存在している。」
「さあ皆、命を賭してこのハーク王国を守り抜き、必ず孤高の山を取り戻し、再び獣人族を滅ぼすぞ。」
アイスが槍を空に掲げた。遠征軍の兵士たちも一斉に槍を空に突き上げ雄叫びをあげる。遠征軍の孤高の山奪還のための獣人族との争いが始まった瞬間だった。
*****
エムダとアクオは二人きりで国王の館内の部屋にいた。二人とも遠征軍の出陣式を見届け中央に戻ってきたばかりだ。
「遠征軍がついにハークグランを発ったな。しかし、エムダよ、なぜ遠征軍の総大将を俺じゃなくアイスにした。俺はまだやれるぞ。」
「王国軍のトップにはどっしりと構えていて欲しかったからな。…お前が前線に行く時は来る。ただ、まだその時じゃない。それにアイス・ミルトンはお前が全幅の信頼を置く男だろう。」
「うむ、それは間違いない。アイスは俺の弟子の中でも一番の男だ。」
アクオは得意気な顔でこう言った後、エムダに顔を近づけ囁くような声で問いかける。
「ところでエムダ、お前はこの戦いをどう予測している。はっきりいって俺たちは獣人族の事をよく知らないばかりか、実際にみたこともない。」
「王国の手元にある情報はこの前の襲撃事件の報告と150年以上前の記録だけ。いわば未知の敵といってもいい。そんな奴らを敵にどこまで勝算があると考えている。」
エムダはアクオの「いくら国王様の命令とはいえ、軍を送るには早すぎたのでは」と言わんばかりの問いを目を閉じ聞いていた。
「…必ず我々が勝つと考えている。」
そう言うとエムダは目を開け、アクオを見る。
「確かにアクオの言う通り情報が不足している。それに力では奴らに敵うまい。だが、これまでの報告や記録によると獣人族の戦いとはその力に任せた個人の攻撃が中心だと聞く。」
「我々には獣人を上回る知略と組織がある。苦戦するかもしれんが最終的に勝つのは必ず我々だと思っている。」
エムダの話を聞き、アクオは少し渋い表情を浮かべ「そうか。」とだけ返答した。
エムダが「国王様との話があるから。」と部屋を先に出たあと、1人残されたアクオは孤高の山がある西側の窓の外を静かに見つめた。
第7話 矛先
遠征軍がハークグランを発った頃、ファイアは既にハークシーを目指して西街道を走っていた。
馬で駆けるファイアの心の中では1つの感情が渦巻いていた。怒りの感情だった。
(孤高の山の我が軍の兵士が襲われ多数の死傷者を出しただと。)
孤高の山警備隊襲撃事件、ハーク・ジー3世の布告、遠征軍の派兵。これらの事は当然ファイアも知っていた。何より街道沿いの村々には獣人族に対するビラが多く貼られ、普段はゆっくりとした時間が流れている王国内はどこかピンと張りつめた雰囲気になっていた。
ファイアは左腕を見る。ザジロ盆地でケイにつけられた傷の跡がまだ生々しく残っていた。
(ケイは国王様への伝言は人間と獣人の争いを止めるためだと言っていた。それなのに、獣人から攻撃してくるとは話が違うぞ。)
ファイアは獣人族に対する激しい怒りに燃えていた。
ケイから獣人族についての話を聞き王国に少し不信感を抱いていたファイアだったが、孤高の山警備隊が獣人族に襲われたと知るとそのような感情は吹き飛んでいた。愛する王国の、しかも竜神の住む神聖なる孤高の山を荒らした獣人族に対する怒り。特にその怒りの矛先は白いマントを着た獣人族の女・ケイに向いていた。
(あの獣の女。この前、夜に部屋に来た時にまた会えればいいって言ってたな。次会った時はどうしてやろう。)
ファイアはザジロ盆地の草原の道へ入った。ファイアにとってこの短期間でこの道を通るのは3回目だ。もう見慣れた光景だった。
ただし、いつもと違う事は通行人がファイア以外誰もいないという事である。ハークシーへの遠征軍が通るということで、村人たちは村に籠り遠征軍が休息できるよう準備しているのだろう、西街道には人1人見かけない。
ファイアが古い石碑の横を通り過ぎた時、1つの人影が揺れた。ファイアはハッと気づき馬を急いで止める。その人影はゆらりと道に出てきた。
「おい。獣の女。」
ファイアが低い声で叫んだ。
ゆらりゆらりと揺れる人影はファイアの言葉を聞き、被っていたマントのフードを取った。
そこには、以前夜にファイアの部屋を訪れた時の表情からは想像出来ないほど悲しい表情をしたケイが立っていた。
怒りの眼と虚ろな眼。ファイアとケイの視線がぶつかる。
「おい。俺は確かにお前の言う通り中央へ伝言をしたぞ。」
ファイアが先に口を開いた。静かな口調の中にはっきりと怒りが溢れている。
「お前は確かに言ったよな。あの伝言は争いを止めるためだと。」
「だが、お前たち獣人から我が王国軍に攻撃を仕掛けてくるとはどういうことだ。」
ケイは黙ってファイアの言葉を聞いている。そのようなケイの様子を見てファイアの目つきがさらに鋭くなる。
「どういうことだと聞いているんだ。」
ここで初めてケイが口を開いた。
「ファイア…。」
「…すまん。私の力が及ばんかった。止めれんかった。すまん。」
ケイは頭を垂れながら力なくそう言った。しかし、このような謝罪をすんなりと受け入れる程ファイアは冷静でない。
「すまん…だと。中央は孤高の山警備隊への襲撃を我が王国に対する獣人族からの宣戦布告だと捉えているぞ。遠征軍は既に獣人族討伐のためにハークシーに向かっている。分かっているのか。」
「戦争をお前たち獣人が引き起こしたんだ。」
ファイアの口調が早くなる。ケイは俯いたまま何も喋らない。
「…口では人間が争いをおこそうとしている、それを止めたいなどと言っていても、それは結局口だけ。」
「本当はお前たちが俺たち人間を打ち倒したかっただけだったんだな。」
その言葉を聞きケイが顔をあげた。
「それは違う。私は本当に…、本当に争いを止めたかったんじゃ…。」
風が二人の間を抜けていく。その風に草原が揺れる中、チャキッという音が聞こえた。
「また口だけか?」
ファイアが槍をケイに向けた音だった。
「我が王国軍が再び獣人族を滅ぼす。」
「お前がその朽ちる獣人の1人目だ。」
そう言うとファイアは馬から飛び降りた。槍の矛先が勢いよくケイに向かっていく。それまで虚ろだったケイの眼がぐっと開いた。
「ああああああああああ。」
ファイアは槍を握りしめる手に力を込め、槍を突き出した。その瞬間、ケイが横に飛ぶ。間一髪だった。ケイはすぐさま体勢を直すと包帯の巻かれた獣の左腕を振り上げ槍を叩き落とした。
お互い呼吸が荒い。
ファイアは無言で剣を抜く。
「…もう止まれんのんじゃな。」
ケイは悲しげにそう呟き、左腕に巻いてある包帯を取った。
一方のファイアも剣を固く握りしめて構えた。しかし、先ほどのようにすぐに動くことはしない。目を見開きケイの動きを凝視していた。
そのケイも左腕をぶらりとしたまま動かない。白いマントの袖から伸びる獣の腕。その腕の先には鋭い爪が光る。
ファイアは興奮しきっていたが、頭の中は妙に冷静に回っていた。
(さあ、どう来る獣の女。)
ケイの身体能力は人間とは全く比べ物にならないほど高い。そのことはファイアもよく分かっていた。先ほどの槍も人間が相手だったならば避けることが出来ず一突きだっただろう。しかしケイは直前で槍を避けたばかりか、避けた勢いを利用して槍を叩き落としたのだ。
(あいつのスピードや瞬発力には追いつけない。不用意に突っ込んでいけば確実にあの左腕にやられる。)
(だが、この剣の間合いではあいつに近づかなければ斬れない。狙うとするとあのタイミングだ…。)
ファイアはジリジリと剣を構えたまま後ろに下がる。二人の間は少しの距離が生まれた。
ケイはファイアの形相をチラリと見ると俯いた。
そして、一瞬の間があり、ケイは体を沈めた。次の瞬間、ケイはファイアに向かって突っ込んできた。速い。二人の距離は瞬く間に縮んでいく。
(来たっ。)
ファイアは剣を構え直した。
(まだだ。まだ待て…。)
ケイは足に力を入れ、鋭利な爪が光る左腕を振り上げファイアに飛びかかった。
ファイアはこのタイミングを狙っていた。ケイが自分に向かって飛びかかってくるこのタイミングを。
ファイアは剣でケイの左腕を弾くと、そのまま体を斬ろうとした。
その時だった。ケイと一瞬視線がぶつかったのである。
(…泣いている?)
その動揺が剣に伝わる。しかし、ファイアはケイの胸から腹部にかけて剣を振りぬいた。
ケイは小さな悲鳴をあげて地面に倒れ落ちた。うつ伏せで倒れたケイは動かない。僅かではあるが彼女の周りに血が広がる。
(まだ息はある。とどめをさす…。)
ファイアは震える剣先をケイに向けた。刃には血がついている。
その時だった。ケイの微かな声が聞こえたのである。
「私を殺すんじゃ…、ファイア。」
‘自分を殺せ‘と言いながらケイはゆっくりとファイアのほうへ顔を向けた。普段は大きな目は閉じかかり、呼吸は荒い。
「私を殺せ…。」
ケイがもう一度、ファイアに言う。ファイアは目を開きケイの姿を黙って見ている。そして、一度目を閉じて天を仰ぐとファイアも口を開いた。
「分かっている。」
ファイアは剣先をケイの喉元にあてた。
「…じゃあな。」
ケイは目を閉じ、フッと笑顔を見せた。ファイアは口一文字の表情で剣を振り上げた。そして、剣を振り下ろす。
「……。」
「……。」
「……。」
「…何故じゃ。」
「何故じゃと聞いとるんじゃ。」
ファイアの剣は地面に刺さっていた。ファイアは俯いていてケイからは表情が見えない。そして、何も喋らなかった。
「情けか?情けなんか。」
ケイは苦しそうな声で問いかける。
「何故、何も喋らん。」
「敗者である私への情けなんか。」
ファイアの表情は相変わらず分からない。前髪が風で揺れている。
「…ケイ。お前、なんで泣いている。」
「その涙は死への恐怖か?争いを止められなかった悔いか?」
ケイはファイアの問いに対して目を大きく開いた。そして、目を閉じて小さい声でこう言った。
「…知らん。」
第8話 重い槍
アイス・ミルトン率いる遠征軍がハークシーへ入ったのは、ハークグランを発って約1ヶ月後のことであった。アイスはトルーマンと会うため、ハークシー官府へ向かった。
「トルーマン長官、お久しぶりです。」
アイスが頭を下げる。トルーマンは険しい表情でアイスを見ていた。
「…アイス、本当に孤高の山に入り、獣人族と戦うのか。」
「はい。孤高の山への入山許可も国王様から頂いてきています。」
アイスはそう言うと一枚の紙をポケットから出し、トルーマンに見せた。
「今や王国民は150年の時を経て再び現れた獣人族に対し、恐怖の気持ちを抱いています。実際に襲撃のあったハークシーの住民はなおさらでしょう。」
「私たち王国軍はこのハーク王国を守るために存在しています。」
「この時に王国の為に戦わないのなら王国軍など必要ない。」
「王国のためにも、王国民のためにも我々は必ず獣人族を滅ぼす。」
「我々、王国軍は獣人族と戦います。」
アイスは語気を強めながらトルーマンにはっきりとした口調でこう言った。
「…アイス、よろしく頼むぞ。」
「はい。」
アイスは窓の外に見える孤高の山を鋭い目つきで見ながら、力強く答えた。
*****
遠征軍の兵士たちは獣人族との戦いに備えて、ハークシーの宿泊所に入っていた。この宿泊所は普段は竜神参りのためにハークシーを訪れる人を対象としているが、トルーマンの指示で遠征軍に明け渡されていた。
ハークグランを発ってから約1カ月。兵士たちは長い移動に疲労が溜まっていた。
兵士でごった返す宿泊所内の隅にシェンとパジェは疲れた表情を浮かべながら座っている。
「ハークシーまで長かったな。しかし、この部屋の広さにこれだけの人数を詰め込まれたら、獣人族と戦う前に疲れで倒れてしまうぞ。」
シェンがぐったりとした表情でパジェに話かける。パジェの「そうだね。」という相槌にも元気が無い。
ハークシー出身であるパジェは久しぶりに帰ってきた故郷の変化がずっと気になっていた。
「街中に人が全然いなかったね。僕がいた頃のハークシーはもっと人通りが多くて活気があったのに。」
パジェがずっと気になっていた街の変化について口に出すと、シェンは真剣な顔をつくった。
「この状況じゃ仕方ないだろうなあ。いくら町はずれだったとはいえ、獣人族の襲撃を受けているんだ。」
シェンはさらに続けた。
「獣人族か…。本当に俺たちこれから獣人族と戦うんだよな。なんか信じられんというか、物語の中にいる感覚だわ。」
その時、部屋内に奇声が響いた。皆の視線がその奇声が発せられた方を向く。1人の兵士が頭を抱えながら叫んでいた。
「ハスランの奴…。」
シェンが奇声をあげた兵士の名前をつぶやく。ハスランはシェンやパジェ、ミラと同じハークグラン・タギ地区駐屯所の兵士だった。
「ああいう人が出てきても仕方ないよね。皆、口に出してないだけで不安や恐怖で心が支配されているだろうし。」
パジェがか細い声でつぶやくように言った。シェンはパジェの顔を横目で見ながらこう続ける。
「そうだな。誰も命をかけて戦うために軍に入ったわけじゃないだろうしな。安定した生活がしたくて王国軍を志願したやつばかりだろう。…俺もそんな気持ちが無かったわけじゃないし。」
「でも、こんな状況になったらやるしか道はないだろ。」
パジェはひとつ溜息をついた。
「シェンは本当に前向きだね。君の良いところだと思うよ。」
シェンは褒められたのが嬉しかったのか、カハハと笑う。
「今、この部屋の中で笑う余裕があるのはシェンだけだね。」
「まあな。しかしミラの奴は大丈夫かな。」
シェンが話を変える。遠征軍には男の兵士だけでなく、戦闘要員ではなく後方支援の役割を期待されて女の兵士も帯同していた。ミラもその中に含まれている。
「あとファイアも…。」
異動になったと告げられ、居場所も分からぬまま姿を消したファイアのことをシェン、パジェ、ミラは心配していた。
ハスランが取り乱し騒然となっている部屋の中で二人は黙り込んだ。
*****
長旅の疲れからか覇気のない兵士たち。震える兵士。叫ぶ兵士。とても、これから王国のために戦う集団の姿では無かった。
「ひどいな、これは…。」
男が宿泊所の様子を見て呟く。
「そうね。アイス総大将は意欲満々って話だけど、兵がついてきてないわね。」
男の隣に立っていた女も深刻そうな顔で頷いた。
「アイスは優秀なやつだが今回ばかりはな。甘ちゃんの多い今の王国軍じゃ厳しい、か。」
男の眉間にしわが寄る。そして、男は腰にぶら下げていた竹筒を口にもっていく。グッと竹筒の中に入っていた飲み物を飲み干すと、チッと小さく舌打ちをして隣にいた女に「戻るぞ。」とだけ言った。女も小さく頷く。
二人は宿泊所から離れると小さな路地に入った。入り組んだ路地を抜け、孤高の山の裾野に広がる森の中に入る。その森の奥に小さな家屋が見えた。深い森の中にある壊れかけの家屋は不気味な雰囲気を漂わしているが、二人は躊躇うことなくその家屋の扉を開けた。
「おい、お前さん。獣人の女の子と変なコトしてないだろうな。」
男の発言に隣にいた女が冷たい視線を送る。
「フーガンさん、ミニカさん。お疲れ様です。」
小屋の中にいた青年が二人を迎える。ファイアだった。
「獣人の女の子はどうしている?」
栗色の髪を揺らしながらミニカがファイアに尋ねる。
「隣の部屋にいます。」
「おい、ちゃんと縛っているんだろうな。」
フーガンが鋭い視線をファイアに向ける。ファイアもしっかりとした目で答える。
「いえ。あいつは、ケイは逃げ出したりしませんよ。ケイとはお互い傷をつけ、傷をつけられた間柄ですから。…あいつは裏切りません。」
フーガンは小さく溜息をついた。
「…お前さんは一度信じたものには一途だな。まあいい。」
フーガンは古い椅子に座った。
「しかし、遠征軍の様子を見てきたが、お前さんの言う通りの状態だった。」
「このままじゃ遠征軍が負けるのは確実だ。そう言い切れるほど兵士の士気は低かった。」
ファイアは表情を変えずフーガンの話を聞いている。
「何か手を打たないといけない状況ってわけだ。」
「例えば、お前さんが持ってきた作戦とか、な。」
この言葉にファイアは唾をゴクリとのみ込んだ。
「だが、俺はあの獣人の女を完全に信じているかと言われれば、そうじゃない。」
フーガンの冷たい声に、ミニカも「私もそうね。」と頷いた。
その時だった。三人の後ろのドアが開く。白いマントを被り、左腕に包帯を巻いた女の子が立っていた。ケイだ。その目つきは鋭く、獣そのものである。
「私もあんたら二人を信用しとるわけじゃないで。」
ケイの発言にフーガンは小さく笑った。
「お互い様ってことだな。まあいい。利害関係が一致しているって事だけでも協力する価値は十分ある。」
ファイアがケイに声をかける。
「ケイ、お前もこっちに来い。改めて作戦をたてるぞ。遠征軍と獣人族がぶつかりあわないようにする為の作戦を。」
「暗くなってきたな。」
フーガンが小窓の外を見た。ファイアがランプに火をつける。暗くなった部屋の中はゆらゆら揺れるランプの火でオレンジ色に照らされた。
遊撃隊の3人とケイは数時間をかけて王国軍と獣人の衝突を止める方法を考え出していた。1つの小隊と1人の獣人族の女の子。出来ることは限られていて少ない。しかし、なんとかしなくてはハーク王国の体制が崩れかねない事態である。
獣人族の世界がどのようになっているのか。何故、ケイは争いを止めたいのか。詳しい事情についてケイは多くの事を語らなかった。しかし、いくつかの事についてケイは3人に話した。
「…要はそのタントタンというやつが好戦的で今回の事態の中心なんだな。」
フーガンがケイに問う。
「ああ。我々は基本的に普段は群れん。しかし、民族をまとめる中心的な者がおるんじゃ。頭と呼ばれるんじゃがな。その頭がタントタンじゃ。」
ケイは続けた。
「族の中で強い男が皆に認められて頭になる。タントタンは最近頭になったばかりの若い男じゃ。」
「では、そのタントタンがハーク王国との戦いをやめると言い出せば、獣人族は争いから引くというの?」
ミニカの問いにケイは頷く。
「まず間違いないじゃろうな。さっき我々は群れんといったが、頭を中心にまとまりがあるのも我々じゃ。矛盾を感じるかもしれんがな。」
「頭であるタントタンが争いをやめると言い出せば我が民族がこれ以上動くことは無い。」
これまで話を聞いていたファイアが口を開く。
「フーガンさん、先ほど話したあの作戦でいきましょう。そのタントタンを止めれさえすれば。」
フーガンはファイアの顔を見る。
「そうだな。大役だが任せたぞ。」
ファイアは力強く「はい」と返事をした。
「よし、では夜明け前に始動するぞ。少しだが休憩をとって明日に備えよう。」
フーガンが話し合いをしめた。
フーガンとミニカは先に仮眠についた。ケイは床の上で白いマントの中に包まり丸くなっている。
「おいケイ。床の上じゃなくて布団で寝ればいいっていつも言っているだろ。」
ファイアの言葉にケイはマントから手だけを出し面倒くさそうに答えた。
「私らはこんな風に寝るのが普通で一番落ち着くんじゃ。お前たちと一緒にするな。」
「そうか。」
ファイアは短く答えると、しみじみとした口調でケイに話かけた。
「しかし、あの時、お前が俺に着いてきてくれるとは思わなかったよ。」
「何をいっとるんじゃ。私は負けた身。お前に囚われの身じゃわ。」
ファイアは不思議そうな顔をした。
「囚われの身?こんなに自由な囚われの身がいるかよ。」
ケイはさらに小さく丸まった。
「う、うるさいわ。明日は早いんじゃ。ファイアも早く休め。」
「そうだな。おやすみケイ。」
ファイアも布団に入った。月と星が綺麗な孤高の山のふもとの森。明日の夜明け前から遊撃隊とケイの勝負の1日が始まる。そんな緊張感を背負いながらファイアは眠りに入った。
第9話 染まる
孤高の山が薄っすらと浮かび上がってきた。空は綺麗な群青色である。そんな夜明け前に遊撃隊の3人とケイは外にいた。
「よし、ここからは昨日の打ち合わせ通り二手に分かれるぞ。」
フーガンが指揮をとる。ファイアとミニカが鋭い眼をしながら頷いた。ケイは何か考えているような表情である。
「本当は俺が孤高の山に行ったほうが良かったんだがな。」
フーガンがこう言い終わるやいなやケイが口を開く。
「それは嫌じゃ。お前はまだ信用しきっとらん。」
「…ということだ。お前さん、重責を背負わすことになるが頼んだぞ。」
フーガンに視線を送られたファイアは短くはっきりとした声で「はい。」と返事をした。ファイアの返事を静かに聞き、「よし。」と小声で言うとフーガンはまた視線を戻す。
「今日はハーク王国の行方を左右する日だと言っても過言じゃない。その鍵を握っているのが俺たちだ。それぞれの役目をしっかり果たそうか。そうすれば結果はあとから付いてくる。」
「俺とミニカで遠征軍が少しでも動かないように止めてくる。」
「その間にお前さんは虎のお嬢ちゃんの力を借りて必ずタントタンと話をつけてこい。いいな。」
フーガンの強い言葉にファイアも答える。
「はい。俺とケイで必ずタントタンと話をつけてきます。そして再び血が流れる前に争いを止めてやる。」
ケイはグッと目を閉じた。ミニカは再び力強く頷いた。
「よし。夜もだんだんと明けてきたな。作戦開始だ。」
*****
ファイアとケイはまず孤高の山のふもとを南に向かった。ハークシーの街から離れるためだ。獣人族による孤高の山警備隊の襲撃事件以降、竜誕の池を中心に多くの兵士が投入されていた。4人が拠点としていた森の中の古い家屋も人目のつかない場所にあったが2人はさらに万全を期すこととしたのである。
空はだんだんと明るくなってはきているが、それでもまだ深い青色に包まれている。森の中は暗く前に進みにくかった。
「ファイア、しっかりと私に着いてくるんじゃで。」
「ああ。」
森に慣れているケイが先導する。ファイアは懸命に前をいくケイについていく。
ファイアは右を見た。黒く大きな孤高の山がそびえたっている。
「どうしたんじゃ。怖くなったんか。」
「いや…。」
ファイアが足をとめた。ケイもそれを見て立ち止まる。
「今更だけど、やっぱり竜神の住む孤高の山に入るのは背徳感があるな…と思って。」
ファイアの言葉にケイは少し呆れたような声を出す。
「何を言っとるんじゃ。あの山に竜なんぞおらんで。それは私が生きた証人としてはっきり言い切ってやるわ。」
「ああ、分かってるよ。」
(頭の中では分かってる。孤高の山に住んでいるのは竜神じゃない。獣人族だってことは。でも何かモヤモヤするんだよ。)
小さい頃から孤高の山の竜神について教え込まれ、そう信じてきたファイアにとって孤高の山に入る事に罪の意識を感じるのは仕方ない事かもしれない。
ケイはファイアの表情をみてゆっくり彼に近づいていった。そして身長差のあるファイアの顔を下からのぞきこむ。
「な、なんだよ。」
「ファイア、あの山には竜より恐ろしい獣の男が居るんじゃで。」
「ああ。」
「はっきり言って命の保証は出来ん。あの山に足を踏み入れたその瞬間からな。まあ、精一杯守るがな。」
ファイアは黙ってケイの言葉を聞いている。
「でもな、ファイアと私なら上手くいきそうな気がする。そう心配するな、大丈夫じゃ。」
そう言うとケイはニッと笑顔をみせた。ファイアも力の抜けた笑顔を見せる。
「…さあ、先を急ごうか。」
二人は再び動きだした。
*****
ファイアとケイが歩みを進めている頃、フーガンとミニカはハークシーの市街地に居た。二人は主を失った家の一室に身を潜めている。遊撃隊として何度もハークシーで活動してきた二人は、身を隠すことのできる場所を良く知っていた。
「まだ遠征軍に動きはないようだな。」
フーガンが竹筒の酒を飲みながら窓の外を伺う。
「ええ。そうね。」
ミニカも窓の外を見ながら返事をする。そしてフーガンのほうへ視線を移すと小さく溜息をついた。
「ねえ、こんな時に言うことじゃないのは分かっているんだけど、ちょっとお酒飲みすぎじゃない。」
フーガンは「はあ?」と言い、ミニカのほうへ顔を向ける。
「本当にこんな時に何言ってんだ。お前は俺の母親か。」
「母親ってやめてよ。いや、最近はいつにもましてお酒の量が増えてるから気になってね。」
フーガンは少し黙っていつも酒を入れている竹筒を見た。
「…故郷の酒を飲むと気合が入るというか、やらなきゃなっていう気持ちになるんだよ。」
フーガンは続けた。
「今回は特に大きな仕事だろ。気合を入れているんだよ、気合を。つまらない話をさせるな。」
ミニカはフーガンの話を聞き、目を丸くした。
「フーガン、あなたも真面目な話が出来るのね。」
フーガンは小さく舌打ちをすると、もう一度窓の外を見た。
「もうこの話はいいんだよ。目の前の事に集中しろ。」
「そうね。とりあえず準備は出来ているわ。」
ミニカはそう言うと、足元に置いてある袋を見た。
「獣人族におびえている今の遠征軍は、こんなもんでも混乱するだろうな。」
フーガンはニヤリと笑った。
「あとはファイアに賭けるしかねえ。確立の低い博打なのは分かってるが、現状じゃ手がねえからな。」
*****
「……。」
孤高の山のふもと。大きな木がそびえたつ森の中。
ファイアは目を見開き立っていた。
「なんじゃ。こっちから出迎えに来てやったと言うのにその顔は。」
1人の男がニヤリと笑いながら、ファイアとケイの前に立っていた。荒々しく長い髪。腰にボロボロの布。そして笑った口の中には鋭い牙が見える。
「…タントタン。」
ケイが鋭い目つきをしながらその男の名前を呼んだ。
「おうケイか。久しぶりじゃなあ。人間の男を連れて夫にでもするんか。」
タントタンはヘラヘラと笑いながら言ったが、ケイは無言でタントタンを睨んだままだ。
「相変わらず怖い顔しとるなあ。しかし、お前よく俺の前に顔を出せたな。」
タントタンの顔つきが変わった。
「お前の考える世界は人間の国に転がっとたんか?」
ケイはタントタンの問いを無視してこう言う。
「タントタン。人間を攻撃したそうじゃな。」
「ああ、そうじゃで。」
タントタンはぶっきらぼうに答える。
「また人間に攻撃をするんか。」
タントタンは「さあな」と答えたあと、急に大きな声で笑い出した。
「なんじゃ、ケイ。お前、俺に争いはやめろとか説教たれにきたんか。人間の男を連れて。」
「ケイ変わったなあ。すっかり人間に染まってしもうて。」
「昔のお前はそんなこと言うやつじゃ無かったで。」
笑いがおさまったタントタンは目を細めた。
「昔のお前は、人間の血に飢えた女じゃったのに。」
ファイアはタントタンが言い放った“人間の血に飢えた女”という言葉に衝撃を覚えた。そしてケイを見る。ケイは俯いていた。
「なんじゃ。そこの男の様子を見る限り、過去の事はあまり話してないみたいじゃなあ。」
「教えてやろうか。こいつがどんな女じゃったか。」
タントタンの言葉を聞き、ケイが小さい声で「やめろ」と言う。タントタンはそんなケイの様子を見て、意地悪そうな表情を浮かべた。
「こいつはなあ。ケイはなあ、5年前に調子に乗っとる人間どもを襲った時、一番その腕を赤く染めとったんじゃで。」
ファイアはゴクリと唾を飲み込んだ。
「そうじゃ。こいつが一番人間を殺したんじゃ。あの時、まだ10歳にも満たん女がじゃで。」
「あん時のこいつは―」
「やめろおおおお。」
ケイが叫んだ。ファイアは驚いてもう一度ケイを見る。ケイの腕は震えていた。
タントタンはケイの姿を見て一息つくとファイアのほうを向いた。
「まあこの辺にしといてやるか。女をいじめるのは趣味じゃないけんな。」
「で、お前は何しにこんな所へ来たんじゃ。」
タントタンの鋭い眼光にファイアは一瞬たじろいだ。足が震えている。
「お、俺はハーク王国の使者としてここに来た。」
「ほう。それで?」
「獣人族の頭、タントタン。ここは何とか手を引いてもらいたい。」
ファイアの言葉を聞くとタントタンはすぐに笑いだした。
「面白いことを言ってくれるなあ。手を引けと。ずいぶん上から言ってくれる。」
「先に俺たちを挑発したのはお前らじゃぞ。」
タントタンはニヤリと口を開いたが、目は全く笑っていない。
「俺らの土地に入ろうとしたのはお前ら人間じゃ。それを制裁して何が悪い。ああ?」
ファイアはグッと唇をかんだ。
「その件に関しては申し訳なかった…。」
「申し訳なかったじゃと?そんな一言で済まそうとするんか。ええ?」
「この豊かな山は俺らの縄張りじゃ。それを汚い欲にまみれた人間が踏みにじろうとする。約束破りの堕ちたお前らの王が力で狙っとる。」
タントタンの激しい圧の前にファイアは何も喋れない。
「そんな邪な力を力でねじ伏せることのどこが悪い?」
「…お前の持ってきた交渉は決裂じゃ。」
タントタンは吐き捨てるように言った。
そして次の瞬間、タントタンがファイアに向かって飛びかかってきた。
「ファイアッ。」
ケイが叫ぶ。
ファイアには周りの世界がゆっくり動いているように見えた。そして、自身の体から血が噴き出しているのが目に入った。みるみるうちに服に赤いシミが広がっていく。
「あ…あ…。」
ファイアは崩れ落ちる。霞みゆく意識の中でケイがこちらに向かってくるのが分かった。そして、タントタンの言葉が胸に刺さると、ファイアの意識は完全に消えた。
「地に堕ちたお前らにはその姿がお似合いじゃわ。」
第10話 唸る者ども
太陽が少しずつ上へ昇り始めている。遠征軍の総大将アイス・ミルトンは1人、宿泊所の部屋の中にいた。深く目を閉じ、アイスキャンディーを口に運んでいる。
アイスはどうすべきか悩んでいた。王国中が獣人族討伐の色に染まり、遠征軍に大きな期待がかかっている。しかし、当の遠征軍の士気は著しく低い。この隔たりによってアイスは遠征軍を動かすことが出来なくなってしまっていた。
次第にアイスキャンディーを持っていた手が止まる。溶けだしたアイスが床に落ちる。
(このままハークシーに留まっていても兵士の士気は落ちる一方だ。)
アイスはふと右手に握っているアイスキャンディーを見る。アイスキャンディーは完全に溶けて棒だけが残っていた。
アイスは大きく息を吐いた。そして、その棒をゴミ箱の中に投げ入れた。
その時だった。低く重い獣の鳴き声が何重にもアイスの耳に入ってきた。
「何事だ。」
アイスは慌てて部屋を出る。宿泊所内は先程の獣の声を聞いて右往左往している兵士で溢れていた。アイスはその兵士たちをかき分けて宿泊所の外に出た。
孤高の山のほうへ目を向けると黒い煙が空高く伸びている。
「あれは。獣人族が襲ってきた事を示す狼煙。」
アイスは急いで宿泊所内に戻ると、部屋に副大将を呼んだ。
「白竜部隊は今すぐ住民の避難にあたらせろ。そして遠征軍本隊は兵をすぐ整えろ。獣人族を迎え撃つ。」
主に女性兵士で構成されている白竜部隊が住民の誘導のため一足早く宿泊所を出た。そして宿泊所敷地内では遠征軍主力部隊が隊列をつくる。兵士は手に槍を握り、腰に剣をさす。
シェンとパジェもこの隊列に加わっていた。
(本当に…、本当に獣人族とこれから戦うんだな。)
シェンは流れゆく現実を心の中で言葉にして飲み込む。
(僕の故郷が、これまでの日常の光景が非日常になっていく…。)
パジェは慌てふためくハークシーの雰囲気を感じながら、口を強く一文字に閉じた。
この2人だけでない。他の兵士たちも皆一様に険しい顔をしている。恐怖、絶望、諦め、悟り。様々な感情が隊列に渦巻いている。
そんな隊列の前にアイスが立つ。
「ついにこの時が来た。獣人族と対峙するこの時が。」
「今、獣人族の牙から王国を守るのが我々に課された使命だ。」
アイスは大きく息を吸い込むと、槍を空に掲げた。
「皆、英雄になろう。」
遠征軍主力部隊が発った。目指すは狼煙があがった孤高の山のふもと。ハークシーに兵の足音と槍の音が響いた。
*****
いつもは竜神参りの人でにぎわう竜誕の池に向かう道を隊列は進む。道の周囲は木々に覆われており、日中でも少し暗い。
兵士たちの恐怖感が増していく中、隊の先頭を行く大柄の男から熱い声が飛ぶ。遠征軍副大将のデビオだ。兵士たちの士気を少しでもあげようとデビオは槍を掲げながら大声を出す。
しかし、そんなデビオの声のかき消すかのように時々聞こえる低い獣の声。その低く重い声は道を進む程大きくなってきた。
狼煙の上がった場所に隊列が近づいてきた。その場所は竜誕の池のすぐ近くだった。隊の先頭を馬に乗り走っていたデビオは自分の目を疑った。
狼煙の跡と思われる場所のまわりに男が10人ほど居る。皆、立っていたり、座っていたり気ままな姿勢をとっているが、その鋭い目は遠征軍を見ていた。
そして彼らのまわりにはハークシー兵が血を流して倒れている。
デビオはこの状況を察した。そして、唸るように声を絞り出す。
「じゅ、獣人族…。」
その声を聞き、それまで座っていた1人の男が組んでいた太い腕をほどきながら立ち上がりニヤリと笑った。
「よく来てくれたなあ。あんまりに遅いけ、来んものかと思っとたで。」
*****
シェンとパジェは槍を持ちハークシーの街外れにいた。
弓隊が前に並び、その後ろに槍隊が立つ。
獣人族は竜誕の池に向かったデビオ隊を破り、ハークシーまでなだれ込んでくる。これがアイスの読みだった。勿論、温い王国軍のなかでも指折りの熱血漢と名高いデビオが率いる隊が獣人族を撃破できれば言うことは無い。しかし、そう簡単に話は進まないだろうとアイスは考え、二重の構えをとった。
アイスは隊形の指示を出しながら、自ら竜誕の池を向かうことを申し出てきたデビオに感謝していた。チラリと森のほうをみる。
(時々、獣の鳴き声が聞こえてくる。この森の中に獣人族が居ることは間違いない。)
(デビオ…。この状況どう転ぶ。)
しばらくすると森が一気に騒がしくなった。…兵士たちの叫び声だ。
待ち構えるアイス隊に緊張が走る。そして森の中にいくつもの人影が浮かんだ。
「何かくるぞ。」
兵士の誰かがそう叫ぶ。
その影が姿を現した。遠征軍の兵士だ。
この時、アイスは自分の読みが当たったと直感した。
(デビオ隊…敗走か。)
「弓隊、すぐに構えろ。やつらが来るぞ。」
アイスがそう叫んだとき、逃げてくる兵士の背後に黒い影が浮かんだ。その影に気がついた時には遅かった。血が飛ぶ。逃げる兵士は言葉にならない声を叫びながら倒れた。
逃げる多くの兵士が同じように倒れていく。地獄のような光景だった。
そして暗い森の中で鋭い目がいくつも光る。その光はゆらゆらとアイス隊のほうへ近づいてきた。そして、アイス隊の前に姿を現したのはその体を赤く染めた幾人もの男たちだった。
「あれが…獣人。」
次々と殺されていく兵士。そして、その血で赤く染まった獣人。そんな光景を目の前にして、アイス隊に動揺が広がっていく。
ハークシーの郊外。竜誕の池へと向かう森の前でアイス隊が獣人族と対峙することとなった。周囲には少しの建物がたっている程度で隠れる場所はない。
「ここを突破されれば奴らを街へ入れることになるぞ。必ずやつらをここで壊滅させる。」
アイスが大声を張り上げる。
(最初の段階で精神的に我が軍は不利になってしまった。しかし、ここで食い止めねばハークシーにはもう…。)
ハークシーにはもう満足な兵力を置いていなかった。女性兵士で構成された白竜部隊のほかは僅かな兵を残すのみである。それはすなわち、ここで獣人族を叩かねば、ハークシーのみならずハーク王国が一瞬にして危機的状況に陥ることを意味していた。
アイスは動揺する隊に指示を飛ばす。
「弓隊かまえろ。やつらを引きつけて一斉に矢を放て。」
(150年前の戦いでは弓が勝敗を分けた要因だったはず。)
(しかし―)
アイスはゆっくりと近づいてくる獣人の姿を見た。
(私が知っている獣人族とは全身が毛に覆われ、虎が二足歩行している姿。それが、やつらは一瞬人間かと思うほどだ。)
(しかし、個体によってバラバラだが獣の腕や足をしている。あの姿は間違いなく獣人。)
アイスは手に持っていた槍を強く握る。そして、その槍先をゆらゆらと歩きながら近づいてくる獣人へ向けた。
「弓隊。放てええええ。」
アイスの声が響いた後、勢いよく矢が獣人へ向けて飛んでいった。
獣人たちは弓矢が放たれた直後に急にアイス隊に向かって走り出した。そして、上へ飛ぶ。
(矢を避けたというのか。)
結果、一矢も獣人に命中することは無かった。そればかりか、走り出した勢いそのままに獣人たちはアイス隊に襲いかかろうとしている。
(まずい。新たに弓をかまえる時間はない。)
「槍隊前に出ろ。向かえ撃つぞ。」
*****
槍隊の中でも後方に居たシェンとパジェは前で何が起きているのか見る事が出来ないでいた。しかし、隊列に広がる動揺や辺りに響く様々な声で獣人が目の前まで迫ってきていることは分かった。
「始まるんだね。」
パジェは前を向いたまま隣に立っていたシェンに言った。
「ああ。」
シェンも短く返す。
「弓隊。放てええええ。」
アイスの声が二人のもとまで聞こえた。
一瞬の静寂。そして、ざわめきに隊列は包まれた。
「どうなったんだ。」
前で起こっていることを確認出来ないまま、再びアイスの声が聞こえてきた。
「槍隊前に出ろ。向かえ撃つぞ。」
槍隊が弓隊と入れ替わるようにして前に出る。シェンとパジェも走りながら弓隊と入れ替わる。
「ひぃっ。」
パジェの口から声がこぼれた。
前に出ると、もの凄い勢いでこちらに向かっている獣人と思われる集団が目に飛び込んできた。その距離僅か。
シェンとパジェの中に残されていたほんの少しだけの余裕は消え去った。何も考えられない。槍先を前に向ける。
「うわわああああああああああああああああああ。」
パジェは槍を無我夢中で振り下ろす。槍が獣人に触れた感触は無かった。ハッと上を見ると獣人は再び飛んでいた。
獣人たちは最前列に出ていたパジェを飛び越えてアイス隊の中に潜り込んできた。獣人の鋭い爪が光る。
アイス隊はこの獣人たちの動きに全く反応出来なかった。
獣人たちはあっけにとられる兵士たちにその爪を振りかざした。血が飛ぶ。そして、それを見た兵士たちは完全に怖気つき獣人から距離を取ろうと逃げ惑う。
「やつらを囲めええ。そして槍で突き殺すのだ。」
アイスの必死の叫び声も兵士たちには上手く伝わらない。
(まさか獣人が隊の中央部まで進入してくるとは。)
アイスの焦りが絶頂に達する。
そうしている間にも次々と兵士が倒れていく。
シェンとパジェはこの混乱の端に居た。そして二人は身動きが取れないでいた。
「おい、中にいくぞ。」
シェンが勇敢に獣人に向かおうとパジェに声をかける。しかし、逃げ惑う兵士たちの渦の壁のせいで前に進めない。もどかしい。
パジェは何か気配を感じ森のほうを振り返った。
「新たな獣人が森から来る。」
その情報が伝言ゲームのように伝わり、アイスのもとまで届く。アイスが急いで森のほうを見る。
森の中から二十数人の獣人が唸り声をあげながら近づいてくるのが確認できた。
(やばいぞ。隊の内と外を獣人に囲まれる。)
森から新たに現れた獣人たちが急にアイス隊に向かって突撃すべく駆けだした。
「パジェ、やつらだ。やつらを叩く。」
シェンが自分たちに突っ込んでくる獣人たちを見ながら叫んだ。
槍をかまえる。まだだ。まだ待て、待て。
獣人たちが目と鼻の先まで近づいた時、二人は槍を振り下ろした。
「らああああああああ。」
今度は槍に獣人が触れた感触が確かにあった。
何も考える間もなく槍先を倒れている獣人に向けて突く。槍先が獣人の体をえぐった。
(よし、獣人を一体やったぞ。)
パジェがそう思い目線を上にあげると目の前に獣人族が立っていた。
(しまった―)
そう思った瞬間、胸のあたりが急に熱くなった。
(斬り裂かれた…のか)
「パジェエエエ。」
シェンは叫ぶと、パジェを斬り裂いた獣人に槍を突き刺した。
「貴様ああ。」
獣人は小さな悲鳴をあげて倒れた。
大きく息をするシェンも背中に熱を感じた。振り返ると腕を振りぬいた獣人の姿と自身の背中から飛び出した血が視線に入ってきた。
「うぐっ…。」
倒れたシェンの背中を獣人は鋭い爪で刺した。
「っう。」
そして、その獣人は二人の生死を確認することなく混乱する隊の中央部へ進んでいった。
「あ…あ…。パジェ…。」
シェンが唸りながらパジェの名前を呼ぶ。
パジェは荒い息をしながら微笑んだ。それを見て、シェンも苦しいながらも微笑み返した。
そのシェンの顔に安心したのか、パジェは目を閉じた。
(これが…、これが走馬灯っていうものなのか…。)
(ふふっ。小さい頃に父とまわったハークシーの街やタギ駐屯所での日々が頭の中を回っていく。…懐かしい。)
(僕たちは戦った。ハーク王国のために、ハークシーのために戦った。戦った。戦っ―…)
(ハークシーの土に還ろう…。)
パジェの意識はそこで途切れた。
目を閉じたまま動かなくなったパジェをシェンは消えゆく意識の中で確認した。
(ここでお終いだな。互いに。…悪くないこれまでだったぜ。)
シェンは心の中で小さくナハハと笑った。
*****
アイス隊は獣人たちの攻撃の前に壊滅した。それも戦いは短時間で決した。
アイス隊の兵士は獣人の爪の前に倒れた者が多かったが、混乱した味方の兵士の槍に命を絶たれた者も多かった。
戦場となった森の前は遠征軍の兵士たちの唸り声で包まれたという。
第11話 選択
ハークシーの入り組んだ市街地を走る二人がいた。フーガンとミニカである。
「これは間違いないわね。」
ミニカが走りながらフーガンに話しかける。
「ああ。遠征軍が攻めにいく前に獣人族のほうから出てきやがった。」
二人の耳にも獣の低く重い遠吠えが時々飛び込んでくる。
フーガンが眉間にしわを寄せる。
「…ということはだ、あいつがタントタンとの交渉に失敗したという可能性が高いということだ。」
ミニカは下唇を噛みながら、ファイアの名前を呟く。
「こうなれば、この街が戦場になる可能性が高い。そうなる前にハークシーを抜け出すぞ。」
フーガンがミニカに視線を送る。
「ファイアを置いて脱出するのは気が引けるけど、仕方ないわね。」
ミニカの暗い表情にフーガンは小さく舌打ちした。
「こういった事態になった時についての話も昨日した筈だ。」
「それに俺たちが戦場に居てもたいして役に立たない。一度引いて俺たち遊撃隊にしかできない仕事を考え直すことが最良の選択だ。」
「今はな。」
二人はそこから無言になり、目立たないように大通りを避けて進む。路地の隙間から大通りの様子が伺えた。
多くの人が混乱しながら大通りに立ち止まっている姿が二人の目に飛び込んできた。
(住民の避難には白竜部隊が飛び出していったはず。何をこんなに混乱した状況になっているの。)
ミニカはフーガンの方を見ると、フーガンも混乱する住民たちの姿を見ていた。
その時、住民たちの悲鳴があたりにこだました。
「化け物だ。化け物がきた。」
フーガンとミニカの表情が変わった。
(獣人族がハークシーに進入してきたのか。遠征軍は何をしているんだ。)
フーガンの脳裏に数日前に見た宿泊所での遠征軍の姿が浮かんだ。
(アイス…、駄目だったのか。しかし、この状況はどうする。)
フーガンはミニカに合図を送り立ち止まると、建物のかげから悲鳴の起きている方の様子を伺った。見ると、1人の獣人がゆっくりと歩いて住民たちのほうへ近づいているのが見えた。その住民たちの前に立つのは2人の兵士のみである。
「しかも1人は女の兵じゃねえか。」
フーガンは剣に手をかけた。
「フーガン、出て行くの?」
ミニカに言われ、フーガンは止まる。
「この場面に巻き込まれたら、私たちがハークシーを脱出できる可能性はぐっと減ると思うわ。」
「さっき貴方自身が言っていたじゃない。自分たち遊撃隊は戦場では役に立たない。ハークシーを脱出して立て直す、と。」
フーガンは小さく舌打ちをして剣から手を離した。
*****
数十人の住民の前に二人の兵士が槍を握って立つ。じわじわと近づいてくる1人の獣人に対して、二人の兵士の腕は震えている。
「ミラ。や、やるしかないのか。」
男の兵士が震える声で女の兵士に話しかける。
「どうやらそのようね、ハスラン。」
ミラはハスランの震える手に視線を送りながら、自身の槍を強く握った。
(今のハスランは当てにならない。私がこの獣人を倒して、住民たちを脱出させなくちゃ…。)
ミラは大きく息を吐いた。自分の背中には数十人の命がかかっている。ミラの眉間が険しくなる。
獣人がニヤリと笑った。そして、体勢を屈めたと思うと、次の瞬間には二人の方向へ向かって駆け出してきた。
「きたあああ。ぎゃあああ。」
ハスランが慌てふためく。
(っつ。来た。)
ミラの目が大きく開いた。
(3、2、1…、うおお。)
ミラが槍を横に大きく振った。獣人が上に避ける。そして、着地後、切り返し腕を振る。
(うっ。)
ミラは辛うじて避けた。金色の髪が大きく揺れる。
(あっ…。)
槍がミラの手から離れてカランと地面に落ちる。
(万事休す…。)
ミラが目を閉じる。
「……。」
(…?私、斬られていない?)
ミラはうっすらと目を開けた。すると、微かな視界の中に獣人に斬りかかった黒髪の男が見えた。獣人は不意を突かれたのか体勢を崩す。
「槍で突けええ。」
黒髪の男がミラに向かって叫ぶ。
ミラはハッとして、落ちていた槍を拾い獣人の胸を突いた。
「ぐっ…。」
獣人がうめき声をあげる。突きが甘かったのか獣人をすぐに絶命させるには至らない。
黒髪の男はすぐに剣を振った。獣人がついに倒れた。後ろで怯えていた住民たちから歓声の声があがる。
「“殺し”をしたのは初めてなのか。」
黒髪の男がミラに話かけた。
(…私の手、すごく震えてる。)
ミラは自分の手を見た後、すぐに男の顔を見る。その男は鋭い目をしているが、表情は軟らかいように見えた。
「まあいい。今は住民の避難が先だ。」
「え、あ、はい。」
「あの男はこっちに来てから怯えっぱなしだからな。もう少しの間、君が頑張ってくれ。」
ハスランのほうを指しながら、男がいう。
「え、なんでそんな事を…。」
ミラの驚いた表情を見て、男は口が過ぎたと独り言を呟くとしゃがみこんだミラを立たせた。
「さあ、早く住民の避難を続けろ。いつ獣人が現れるか分からんぞ。」
男がそう言った直後に、どこからか大きな笑い声が聞こえてきた。
「いやー、お前人間にしちゃ強いな。面白いものを見せてもらったわ。」
「ケイが連れてきた人間の男とは違うな、お前。」
男は“ケイ”という名前に鋭く反応した。声のしたほうを見る。建物の屋根の上に1人の獣人が立っていた。住民たちは遅れてその獣人の姿を確認すると再び悲鳴をあげる。
「なあ、お前。さっきケイとか言ったよな。偶然にもその名前の女を知っているんだが。」
男が獣人に向かって話かけた。
「なんじゃ。お前もケイと知り合いなのか。」
「ちょっとな。…男を連れていたとか言っていたが、その男はどうした。」
「あの男も知っとるんか。…そうじゃなあ。」
獣人がニヤリと笑う。
「あの男は地に這いつくばってたなあ。俺によってな。」
獣人が自分の爪を男に見せる。
「…ほう。それは、それは。俺の部下がお世話になったみたいで。…タントタン。」
タントタンはふいに自分の名前を言われ真顔になった。そして再びニヤリと笑う。
「名前を知ってもらっとるなんか光栄じゃわ。」
「しかし、お前があの青臭い主張をぶつけてきた男の仲間とは。これは傑作じゃわ。」
男は小さく舌打ちをする。
「俺にとっては全然傑作でもなんでもねえな。」
そう言うと男は持っていた剣をゆらりと揺らした。先ほど斬った獣人の赤い血が光る。
「なんじゃ。やるんか。」
「俺は口先が不器用なもんでな。こいつじゃなきゃ語れないんだよ。」
そう言い剣を鳴らした。
「面白い。俺は強いやつが好きなんじゃ。」
タントタンも不敵な笑みを浮かべながら答える。
男はチラッと住民たちのほうを見た。
「…その前にこいつらを逃がしてやってくれないか。お前との勝負を存分に楽しみたいんでね。」
「別に構わん。」
タントタンは男から視線を外すことなく言った。
男はミラのほうを見た。
「と言うことだ。早く住民たちを連れてハークシーを出ろ。」
ミラはどうしたらいいのか分からず困惑していた。
「え、でも。」
「いいから早くしろ。住民の避難がお前の、白竜部隊の役目だろうが。」
最後は怒鳴るような男の口調にミラは大きく頷いた。
ミラが住民たちを引き連れて去っていったのを確認して、男は竹筒に入った酒をグッと飲んだ。そして、剣先をタントタンに向ける。
(…ミニカすまない。お前の言った通り、俺は冷静じゃ無かったみたいだ。もし、俺が消えたら遊撃隊が崩壊することも知っていたのにな。俺は遊撃隊を実質引っ張る者としての選択を誤った。)
(でも…この選択に後悔はしてない。王国軍の一兵士として、人間としては当然の選択だろ。)
(これまでもしぶとく勝ってきた俺だ。タントタンを片づけてすぐ合流してやるさ。)
「待たせたな。ここからは遊撃隊、フーガンがお相手だ。タントタン。」
第12話 滴
(あの人は誰なんだろう…。)
ミラは住民たちと一緒に必死に走りながら、急に現れ獣人を倒した男の事を考えていた。
(あの服装は王国軍の兵じゃないし、かといってあの剣使いは普通の民じゃない。)
(それにあの獣人の名前を知っていたのも謎だし。)
(…獣人って名前があったのね。)
ミラはフッと後ろを振り向く。遥か遠くにさっきの男と獣人が見えた。
(さっきあの男の人、あの獣人と戦うみたいなことを言っていたけど…。)
(…いけない。今の私の役目はこの住民たちを街から脱出させること。あの男の人も言っていたじゃない。)
ミラは前をぐっと見据えた。
「皆さん。あの角を曲がって、街を抜けたところに王国軍の建物がありますから。もう少し頑張りましょう。」
角に差し掛かった。先頭をハスランに任せてミラは最後尾の住民が角を曲がるまで手を振って指示を出す。
「あっ。」
思わず声が出た。遠くで微かに捉えた男に向かって建物の上から獣人が飛びかかっているのが視線に入ってきたのである。それと同時に最後尾の住民が角を曲がり終えた。ミラの視線が大通りから消えたのは、まさにタントタンの爪とフーガンの剣が交わる直前のことだった。
*****
フーガンの鋭い目が自身に向かって飛びかかってくるタントタンを捉えていた。大きく振りかぶったタントタンの腕を剣でなぎ払う。両者、地面に転がった。
(こいつ、思っている以上に力が強い。やはり身体能力では獣人のほうが人間より数段上。)
フーガンはすぐ立ちあがる。タントタンも立ちあがった。
(ケイは左腕だけ獣の腕だったが、こいつは両腕が獣のそれだ。)
フーガンはタントタンから視線を外さず、剣を構えた。
「一撃じゃやれんかったか。」
タントタンがニヤリと笑いながら言う。その表情からは自分が負けることが無いという自信が見え隠れする。
フーガンは小さく舌打ちをした。
「次は逃さんで。」
タントタンはそう言い放つ。そして、ぐっと距離を詰めたかと思うと右腕を振りかぶった。フーガンはタントタンの動きに鋭く反応し、剣を左上に振り上げる。
(入った。)
しかし、獣の毛が強いのか剣が入りきらない。微かに傷をつけるに留まる。
(っつ。左。)
タントタンは間髪いれず左腕を振る。駄目だ。剣はもう間に合わない。
「おらああ。」
フーガンはタントタンの腹に蹴りを入れた。これはタントタンも予想していなかったのか体勢を崩す。
(ここだ。)
フーガンは一瞬の好機を見逃さなかった。素早く剣を持つ手を入れ替えると、そのまま、思いっきり剣を振り下ろす。
「くっ。」
間一髪のところでタントタンはフーガンの剣を避けた。そればかりか、その勢いを使い一回転するとフーガンと距離を開けた。
(やはり…、人間じゃ考えられない反応。)
「タントタン…。お前、俺の剣の前に沈むのも時間の問題だな。」
フーガンが冷たい表情で言う。タントタンは何も言わずニヤリと笑う。しかし、先程までの余裕はタントタンの表情から消え、その目には力が入っていた。
フーガンとタントタンが戦い始めてどのくらいの時間が経っただろうか。
タントタンは強かった。獣人特有の優れた身体能力を活かし、あらゆる角度から鋭い爪をフーガンに振りかざしてくる。しかし、フーガンの鋭い目がその攻撃を捉え、ギリギリのところでかわしながら反撃を繰り返す。
二人はお互いに攻め続け、両者とも多くの傷を負うこととなった。しかし、二人とも致命傷となる一撃を繰り出せない。
「やっぱりお前強いんじゃな。まさか、人間が俺とここまで対等に戦えるとは思わんかったで。」
タントタンが荒い息をしながら言う。
「それは俺の台詞だ。ここまで俺の剣を前にして生きているやつがいるとは思わなかった。」
フーガンは左腕を押さえながら返す。フーガンの左腕の衣類は破れ、黒く赤いシミができていた。
「そろそろ決着をつけようか、タントタン。」
「そうじゃなあ、悪くない。」
フーガンは歯を食いしばって剣を強く握る。そして、タントタンに向かっていった。
「あらああああああ。」
普段は冷静なフーガンも気力を全面に押し出し、この一撃に賭けていた。それと、同じタイミングでタントタンも傷だらけの体でフーガンに向かっていく。
両者が交わるその直前、タントタンが体勢を低くした。そして、地を強く蹴った。タントタンの速度があがる。
一瞬、時が止まったかのような感覚が二人を包んだ。鋭い剣と爪がお互いを捉えた。
「っう…。」
フーガンが倒れた。右の脇腹から血が染み出している。
(やられた。)
その思いがフーガンの頭を支配する。
(もう…立ち上がれない。とどめを刺されて終わり…か…。)
フーガンが痛みで顔をしかめているその時、タントタンも倒れていた。
「なんじゃ…、最後の最後まで意地を出してくれよった。」
タントタンも苦しそうな顔をしながら血の溢れでる右腕を見ていた。それでも、タントタンは立ち上がった。そして、地面に倒れるフーガンを確認してからゆらりと彼に近づいていく。
その最中、ハークシーのいたる所から黒い煙があがった。次第に街が赤く染まっていく。
「ふっ。やっとあいつら火をつけたか。」
タントタンが立ち止まり、火があがる方向を眺める。
「お前は寝そべっていて見えんじゃろう。教えてやる。俺の仲間たちがハークシーを火の海にしとる最中じゃ。」
フーガンは言葉を発することが出来なかった。それでもその目には悔しさが映し出されている。
「お前たちが山の木々を切り倒して造りだしたモノを全て燃やし尽くしてやる。」
「そしてここを再び緑の地にしてやるわ。これから先、どれだけかかったとしてもな。」
タントタンは勝ち誇ったように笑う。そして、“遊びすぎたわ”と言うと、フーガンに背を向けた。
「俺と対等に戦った者への情けじゃ。とどめはささんでおこう。」
そしてニヤリと笑いながらタントタンはフーガンに言い放った。
「残りの微かな命の中で、お前たち人間が造りだしたものが消えていくのを眺めながら朽ちていけ。」
タントタンは立ち去って行った。残されたフーガンは立ち上がれないでいた。
(ここで俺も終わりか。)
フーガンは微かに笑みを浮かべながらこんな事を思った。
農業都市ハークマウンのさらに郊外で生まれたフーガン。小さい時から父がおらず、母の手一本で育った。普段は厳しいフーガンもこのような時に頭をよぎるのはその母の顔だった。
(そういえば小さい頃、近所のガキと喧嘩して家に帰って舌打ちをした時、舌打ちは幸せが逃げて行くからやめなさいって言われたな。)
いつからだろう。舌打ちが癖になり、鋭い目でこの王国を眺めるようになったのは。
(こんな時になって、こんなどうでもいいことを思い出すなんざ俺もおかしいな。)
フーガンは仰向けになった。青い空が見える。その時、フーガンは自身の左手に何かが触れている事に気がついた。
それは、いつもフーガンが酒を入れていた竹筒だった。長年使い続けてボロボロになっていた竹筒は、今回のタントタンとの戦いでさらに痛んでいた。フーガンは震える手でその竹筒をつかみ、顔の上に持ってくる。
(…俺が王国軍に入るために故郷を出た時に母からもらった竹筒。)
フーガンは小さく笑った。目からは涙が出てくる。涙は頬をつたい、滴となりハークシーの地へ染み込んでいく。
その時、フーガンの鼻に一粒の滴が落ちてきた。涙では無い。雨でもない。それは竹筒の中に微かに残っていた酒だった。
フーガンの目がカッと開く。そして、少しの間があり、フーガンは小さく呟く。
「…まだだ。」
(まだだ。まだだ。まだだ。俺はまだやれる。)
(俺はまだやらなきゃいけない。)
(立ち上がらねばいけない。)
そして、重い足を動かす。痛みで顔が歪む。
(立て。)
そう自分に強く言い聞かす。普段は鋭く細いその目が限界まで開く。
フーガンは立ち上がった。頭の中が激しく揺れる。それでも、フーガンは前を向いた。近くに転がっていた剣を拾う。刃には乾いたどす黒い色の血がついている。
獣人族がつけた火がハークシーを包んでいく。その熱がフーガンの体を突き抜けていた。時間が無い。
フーガンは剣を杖のように使いながらゆっくり歩きだした。
(まだ負けるわけにはいかない。いける所まで進んでやる。)
先程、フーガンの頬を流れていた涙は完全にかわき、その目には鋭さが戻っていた。
第13話 炎と無力と優しさと
森の中を顔に大粒の汗を浮かべながら進む女がいた。ケイである。その背中にはファイアが背負われていた。
「ファイア、死ぬんじゃないで。」
ファイアの目は深く閉じられており、返答はない。ファイアの腹には包帯が巻かれている。
「うっ…。」
ケイが思わず膝を崩した。いくら身体能力の優れた獣人といえどもケイは小柄な女の子である。180センチと大柄なファイアを背負って森を進むのには無理がある。それでもケイは体勢を直し、再び歩み始めた。
(もう少し進んだら小さな滝があったはずじゃ。そこまで…、そこまで行こう。)
ケイは歯を食いしばり斜面を登る。
しばらく行くと少し視界が開けた。巨岩がいくつもむき出しになっており、その岩には鮮やかな緑色をした苔が覆っている。そして、その巨岩の間から水が流れ出ていた。
ケイは静かにファイアを横たわらせると、手で水をすくう。
(左手じゃ水を上手くすくえんな。)
いつも左腕に巻いていた包帯はファイアの傷口にあててあり、獣の腕があらわになっていた。それでも、なんとか水をすくう。ひんやりとした感覚がケイの手を包んだ。その水をファイアに飲ませる。その後、自分も水を飲むとケイは座り込んだ。疲労が足にきている。
(ここは涼しい場所じゃな。)
ケイは頭上の木々を見渡した。生い茂る木々が空をさえぎっており、一帯がひんやりとしている。ケイはその木々を何となく見ていると、その一角が空いていることに気がついた。
「なんじゃ、あの空の色は。」
思わず声が出た。
木々が空いた場所から見える空は赤く染まっていた。ケイはその空の色を見るなり、近くの巨岩の上に登った。
「燃えとる。…街が燃えとる。」
眼下には炎上するハークシーの街が見えた。その炎は黒い煙をあげながら街全体を包みこんでいた。
「……。」
ケイの体から力がすっと抜けていく。そして、何も喋れない。見る者を無力にする光景がそこにはあった。
(タントタン…。やりよったか。)
ケイは心を静めるように小さく息を吐いた。
その時、ケイの耳に自分の名前を呼ぶ微かな声が届いた。
「ファイア。目が覚めたか。」
ケイは巨岩から飛び降り、ファイアのもとに駆け寄った。
「ケイ…。」
ファイアは薄っすらと目を開けながら再びケイの名前を口に出した。
「ああ、ケイじゃ。ファイア。ケイじゃで。」
「ファイアの目が開いて良かった。」
ケイは恐る恐るファイアの手を握る。その顔には安堵の表情を浮かんでいた。
ファイアが目を覚ましてから一日が経った。二人は巨岩の下で一夜を過ごした。その夜もずっとハークシーの街は燃え続け、夜空は赤く染まっていた。
二人は二日目の夜を迎えようとしていた。日が落ち、辺りは薄暗くなっている。
「ファイア、お前はまだ傷口が閉じてないんじゃ。無理をするな。」
そういうケイの制止も聞かず、ファイアは巨岩の上に登ろうとする。ケイは諦め顔になって、器用に巨岩に登ると、ファイアの手を握り持ち上げた。
「俺はあの後どうなったのかが知りたいんだ。ケイが何も教えてくれないなら自分の目で見たい。」
目を覚ましたファイアは自分が倒れた後、どうなったのかを知りたがった。しかし、ケイはそのことに関しては口を閉ざしていた。いや、喋れないでいた。
巨岩の上からハークシーの街を見たファイアは、目を大きく開き息を深く飲み込んだ。言葉を発するとこは出来ない。
「…ハークシーの街を焼き払ったのはタントタンじゃろう。」
ケイがポツリと喋りだした。
「ファイアに襲いかかった後、タントタンはすぐに私たちの前から消え去った。あの日の夜じゃ。あの街が火に包まれたのは。」
ファイアは膝から崩れ落ち、うなだれた。ケイはそんな姿のファイアにかける言葉を必死に探すが見つからない。
「…遠征軍はどうなったのか知らないか。」
ファイアがうなだれたまま、小さい声でケイに問いかけた。
「私にはわからん。獣人族と戦ったのか、撤退したのか。それさえ分からん。」
「…そうか。」
二人は無言になった。空には星が輝きはじめている。月が大きく明るい夜だった。月明かりと空を包む赤い炎により、二人の顔は夜でもはっきりと映っていた。
「俺が…、俺が無力だったせいでハークシーの街があんな事になっている。」
ファイアは体を震わせながら、力なく悔いの言葉を吐いた。落ちたハークシーを見れば見るほど、ファイアの心に自責の念が押し寄せる。
「戦いを止めると言いながら、何も出来ず倒れて。ハークシーの街を、ハーク王国を戦禍に巻き込んで。」
「遠征軍には大切な軍友がたくさん居たんだ。…そいつらもどうなったのか分からない。」
「ハークシーの街にいたフーガンさんとミニカさんも…。」
「全ては俺が無力だから…。」
ファイアはそこまで言うとうずくまった。岩には涙の染みが広がっていく。
ハークシーの陥落。その事実が目の前にある。この現実からは逃げられない。悲惨たる目の前の現実に、今のファイアはうずくまり泣くことしか出来ないでいた。
ファイアは背中にぬくもりを感じた。ケイが小柄な体をいっぱいに使いファイアの背中を包みこんでいた。
「ファイア…お前が優しい男なのはよく知っとる。」
「責任感が強いのも知っとる。」
「じゃけ、今回の責任を背負いこもうとするんじゃろ。」
「そんな事せんでええ。」
「……。」
ファイアは黙って聞いている。ケイがもう一度、はっきりとした口調で言う。
「そんなに責任を背負い込まんでええ。」
「ううっ。」
ファイアの目から再び涙がこぼれる。ケイは泣き続けるファイアの背中を包みこんでいた。
ファイアとケイは巨岩にもたれかかり座っていた。ファイアも気持ちが少し落ち着いたのか涙は止まり、遠くの空を見ていた。
「私はファイアに謝らんとおえん。」
ケイは頭を下げた。
「ファイアを守ると言っていたのに、私はあの時少しも動けんかった。すまぬ。」
ファイアは視線を遠くに置いたまま、「ああ」とだけ返事をした。そんなファイアの表情を見て、ケイは俯きながら問いかける。
「ファイア、今何を考えとるんじゃ。」
「何も。」
ファイアからはまた気のない返事が返ってくる。無言の時が二人を包んだ。
「ハーク王国はこれからどうなるのだろうか。」
ふとファイアが小さく呟いた。
「ハーク王国は優しく強い国じゃ。大丈夫。滅びたりなんかせんわ。」
ケイがファイアの独り言を拾い、はっきりとした口調で返す。ファイアはケイの言葉に疑問を抱いた。
「なあケイ。お前は獣人族の女だろ。なんでハーク王国の事をそう言う。お前はハーク王国が、人間が憎くはないのか。」
ファイアの頭の中にタントタンの形相が浮かぶ。タントタンはあの時、ハーク王国の人間への嫌悪感を体全体に纏っていた。
ファイアの問いかけにケイは視線を落とした。
「すごい憎んどったよ、昔はな。人間についての話は良くない事ばかり聞いとったしな。」
「実際に5年前の襲撃の時にはその憎しみが全面に出て、多くの兵をあやめてしまった。」
「5年前のハークシーの件か。」
「ああ。そうじゃ。」
ファイアはタントタンが言っていた事を思い出す。ケイが赤く血に染まった女だったという事を。
「あの日の事じゃ。私はこの左腕で多くの兵を斬りつけていった。ある兵士を殺そうとした時、その兵士がとある名前を呟きながら死んでいったんじゃ。」
「その名前は覚えてないが、短い名前じゃった気がする。その口ぶりから息子の名前じゃと私は察した。」
「その時、思ったんじゃ。今まで敵としか認識してなかった兵士にも家族がいるってことを。当たり前の話じゃけどな。でも、あの時の私の心は大きく揺らいだ。」
「家族がおって、待っている人がおる。そんな兵たちと戦っておるってな。」
「それで私は無性に知りたくなった。今まで憎い存在、敵としか考えていなかった人間がどういった種族なのかを。」
「私は1人で族を飛び出してハーク王国を見て回った。」
ケイがファイアの顔を見た。
「そこで見つけたのがお前じゃ。ファイア。」
それまで表情に覇気の無かったファイア。しかし、ケイのまっすぐと自分を見つめてくるその顔に、ファイアの目にも力が戻る。
「フセ山脈での時のことか。」
遊撃隊としてハークシーに向かう道中のフセ山脈の森の中でファイアは狼に囲まれたケイを見つけた。初めて獣人を見たあの時の恐怖感をファイアは鮮明に覚えている。
しかし、ケイは首を横に振った。
「私がファイアを見つけたのはもっと前じゃ。」
「ハークグランの街で私は当てもなく歩いとった。その時にファイアを見かけたんじゃ。隣には金色の髪をした女の兵士もおったかな。」
金色の髪の兵士とはミラのことだとファイアは思った。しかし、タギ駐屯所にいた頃のことを必死に思い返してみても、ケイを見かけた記憶など無い。
ケイは話を続けた。
「ファイアと女の兵士は迷子になっとる子どもを必死にあやしながら母親を探しとった。」
「ファイアにとっては当たり前の事かもしれん。じゃけど私は大きな衝撃じゃった。」
「獣人族では考えられん光景じゃったからな。力のある者が他人のために動く。これは族の中では無いことじゃ。」
「私はお前らの事が気になった。一回近づきすぎてファイアにぶつかってしまったこともあったわ。」
そう言ってケイは少し笑った。
「私はな、他人を思いやれる文化のあるこの王国はいいと思った。いや、今も思っとる。」
ケイの表情や口ぶりからはハーク王国への憎悪の気持ちは微塵も感じられなかった。ファイアの頭の中ではさらなる疑問が浮かびあがった。その思いを率直にケイにぶつけてみる。
「ケイは結局どっちの味方なんだ。ハーク王国か獣人族か。」
ケイは一瞬驚いた顔をしたが、再び柔らかい笑みを浮かべる。
「私はファイアに一度殺され、また生かされている身じゃ。」
「前に言ったじゃろ。私はファイアに囚われの身じゃと。」
「私はお前の味方じゃ。ファイア。」
そう迷いなく答えたケイにファイアは思わず言葉が詰まった。そんなファイアの表情を見てケイは小さく微笑むと、ファイアの左腕をさすった。
「ファイアの大事な左腕に傷をつけてしまってすまんかったな。」
「いや…。」
ファイアは左腕を見つめた。
ケイは小さく息を吐くと、ふいに立ち上がった。
「こうなってしまっては、勝たなければファイアの愛する王国を守ることは出来ん。」
ケイは大きく話を変える。
「王国を守るために戦うんじゃろ、ファイア。」
「ああ。」
ケイの問いかけの後、一瞬間をあけてファイアは力強く返事をした。その声や表情の中には、先程までの気弱で心あらずだったファイアはもういなかった。
第14話 茜色の来客
燃えゆくハークシーを見ながら獣人族への反撃を誓った日から数日たった。
ファイアとケイはこのまま姿を隠しながら行動することを決めた。今の王国内でケイが獣人だと明らかになれば殺されかねない。さらにいえば、ファイアがここまで生き延びた経過を説明する際にもケイの存在を隠すことは厳しい。二人はそう判断した。
ただ、この大きな戦いの中で二人が出来ることは何なのか。それをファイアは見つけることが出来ないでいた。ハーク王国の勝利のために自分の出来る事は何か。それを考えながらハークグランを目指し、山中を歩く日々が続く。
街道を歩いてもハークグランとハークシーは半月ほどかかる道程である。道なき山中を進むファイアには、いくら歩いてもハークグランに近づいている感覚が無かった。
それでもハークグランに行かなければ、情勢は掴めない。
この日も山中を進んでいると、パッとその視界が開けた。その眼下には小さな村が見えた。
「…ここもだ。」
ファイアがその村を見ながら呟く。前を歩いていたケイも立ち止まり、その村の様子を無言で見つめる。無残にも焼き払われた村。住民の姿は無く、その家屋の残骸だけが残されていた。
「これで5つめだぞ。こんな村を見るのは。」
ファイアが唇を噛みしめながら言う。
「タントタンが族を率いて東に向かっとるのは間違いなさそうじゃな。」
ケイが厳しい目をしながら答える。そのケイの視線の先には山が並々と連なるフセ山脈があった。
「あの男、西から1つずつ町や村を潰しながら、最後にはハークグランを落とすつもりじゃで。」
「…それはさせない。ハークグランを落とされた日がハーク王国の最後の日だ。それだけはさせない。」
「そうは言っても、今の私たちがタントタンに追い付いても勝つことは出来んぞ。」
ケイの現実的な発言に二人は沈黙した。
仮に今の二人がタントタン率いる獣人族に追い付いても数の力からいって勝てる見込みはなかった。それはファイアもよく分かっている。
「…それでも何とかしたいんだ。」
それでも何かしたい。このまま獣人族にハーク王国が蹂躙されていく様を黙ってみていることは出来ない。それがファイアの気持ちであり、大きな傷をおってなお、その体を動かす唯一の原動力だった。
「今日、あの山脈を越えるのは無理そうじゃ。今晩、一眠り出来る場所を探そう。」
ケイはしだいに茜色に染まっていく空を見ながら言った。
ファイアの傷はまだ癒えていない。ここまで歩いてくるのも相当の負荷がかかっているはずだ。ケイはそこをずっと心配していた。気持ちが荒ぶり、自分の体に鞭をうちながら進もうとするファイアを落ち着かせることが今の自分の役割だとケイは考えていた。
「今日はよく進んだ。また明日に向けて休もうでファイア。」
ケイがもう一度ファイアに言う。ファイアは何か言いたそうにしながらも、ケイの言葉に頷いた。
茜色一色に染まった山中でファイアとケイは今晩の寝床を探す。
ここ最近は岩陰や大木の下で眠る日々が続いていた。最初こそ布団の中で眠りたい気持ちが強かったファイアも、今では野外で寝ることに何も感じなくなっていた。慣れもあるだろうが、体を包む大きな疲れが何も気にすることなくファイアを眠りに誘っているのかもしれない。
木々が生い茂る山中を歩く二人。ファイアがふと視線を右に向けると、その先に大木が見えた。
「おい、ケイ。あそこに良い木があるぞ。」
ファイアは前を歩いていたケイに声をかけた。
「おい…、ケイ聞こえているのか。」
ケイは立ち止まって一点をじっと見つめはじめた。どうやらその視線はファイアが見つけた大木のようである。
それでも、動かないケイを不審に思い、ファイアはもう一度ケイに声をかけようとした。そのファイアの声を遮るようにケイが小さく叫んだ。
「ファイア、伏せろ。」
その声に驚き、ファイアはとっさに身を屈めた。
「なんだ。」
ファイアがあげた視線の先に、何者かがこちらに飛びかかってくるのが見えた。ケイがファイアの前に立つ。その時、その者が右腕を振り上げた。その勢いの中で、鋭利な爪が一瞬光った。
(獣人。)
その獣人の爪がケイをめがけて振り下ろされる。ケイが鋭い反応でその攻撃を避けた。勢いのある攻撃を避けられたその獣人は木を蹴り、2人から少し距離をとった。
急襲してきたその獣人を見ると、ケイと同じように身にマントを纏っている。そして、フードを深くかぶり顔はよく見えないが、その体型は大きくない。むしろ小さい部類だった。
「さすがじゃ。」
獣人が口を開いた。
(女の声だ。女の獣人。)
「なんじゃ、私を消しにきたんか。」
ケイの言葉を聞き、女の獣人はじっとケイを見つめる。そして、かぶっていたフードをとった。その獣人の顔があらわになった瞬間ケイの目が開いた。
ファイアもその獣人の顔に驚いた。そこに立っていたのはケイの顔そっくりの獣人だった。
(ケイと顔が瓜二つだ…。ケイのほうが髪は遥かに短いが…、それでも似ている。長髪のケイだ。)
「ライ…なんか?」
その時、絞り出したような声がケイから聞こえた。女の獣人は冷たい表情を浮かべる。
「お前ライじゃろ。」
ケイがもう一度、女の獣人に問いかけるが、女の獣人の表情は崩れない。
「じゃから、お前は私の妹、ライじゃろうと言っとんじゃ。」
一瞬の間があった。そして、女の獣人がその冷たい表情のまま凍った声でこう言った。
「誰が妹じゃって?私には人間に毒されたような頭の悪い姉なんかおらんで。」
ケイが“ライ”と呼ぶ女の獣人が言い放った言葉にケイは一瞬表情が消えた。そして、口角をあげながら低い声でこう言う。
「まあええ。ところでライ、そのマントはどうした。なんでそんな事やっとんじゃ。」
女の獣人“ライ”がマントをさする。
「そんな問いに答える義理なんかないわ。」
そう言うと“ライ”は自身の横に立つ木の幹を蹴りあげ、再び宙に飛んだ。森の中にまで強く差し込んでくる西日を背景にした“ライ”のシルエットがケイに向かう。
「ケイイ。」
ファイアは思わず叫んだ。
ケイは横跳びで“ライ”の攻撃を避けた。木が揺れる。
「ぐっ。」
“ライ”は勢い余って転がった後、立ちあがった。そして、ケイが間合いを詰めてきたことに気付く。だが、気付くのが少しばかり遅かった。ケイの振りかざした左腕が“ライ”の体をかすめる。
その衝撃に“ライ”は思わず転がる。そして、木に体を打ちつけた。
(強い…。)
ファイアはうずくまった“ライ”の姿を見降ろすケイの横顔を見つめた。その呼吸は全く乱れておらず、ケイに余裕があるのは明らかだった。
「そのマントはライには似合っとらん。すぐ脱いだ方が賢明じゃと思うで。」
「うる…さい。族を見限って、それも人間の男なんかに入れ込んだ奴の意見なんか聞きたくないわ。」
“ライ”は苦しそうに立ち上がりながら声を絞り出す。
「そうか。」
ケイはそう言うと左腕に力を入れる。そして“ライ”との距離を一瞬で詰めた。そして、鋭い爪を“ライ”の首筋に当てながらケイは彼女に小声で囁いた。しかし、ファイアにはケイがなんと言ったのか聞こえなかった。
そして、ケイは獣の爪を“ライ”の首筋から離し、そしてゆっくりと彼女から離れた。
(とどめをささない…のか。)
“ライ”は荒い息をしながらケイの背中を見つめた。そして、その視線はファイアに移る。そして、何か言葉をファイアに向けて放った。その声はファイアの耳には届かなかったが、口の動きで彼女の言葉はファイアの目から伝わってきた。
「お・ま・え・の・せ・い・だ。」
と。
第15話 回帰
ライの来襲を受けた日の夜。二人は交代で周囲を警戒しながら夜を明かしたが、再びライが現れることは無かった。
(やっぱり、ケイにあんなに圧倒的に負けた直後に襲ってきやしないか。)
ファイアは山々を照らしていく朝日を見ながら、昨日のケイとライの戦いを思い出していた。そして、最後に見せたライの表情。明らかに自分に対して憎しみの感情をぶつけてきたあの顔がファイアの頭の中に強く残っていた。
「ファイア、体は大丈夫か。」
背後からケイの眠たそうな声が聞こえてきた。どうやら朝日の眩しい光で起こされたようだ。
傷が完治していないファイアに対し、ケイは自分1人で見張りをすると主張したがファイアはこれを退けた。ケイにばかり負担を掛けることはできない。
「ああ、何も無かったぞ。俺の体も、ライの事も。」
ファイアは大丈夫だといわんばかりに元気のよい声で答えた。ケイはファイアの言葉に少し微笑んだ後、包まっていたマントから手足を伸ばした。
その様子を見ていたファイア。
「そういえばライも今ケイが被っているものと似たようなマントを持っていたな。」
「ああ、マントか。…そうじゃな。」
ケイはマントをさすると、そのまま口を閉じた。
(この話題には触れてほしくないのか。)
ファイアは大きく息を吐く。
「よし、今日はフセ山脈を越えよう。獣人族がどこまで進撃しているか分からない以上、一刻も早くハークグランに戻らなくてはいけない。」
ファイアの心の中には獣人族の侵攻はフセ山脈で止まっているのではないかという気持ちがあった。ハークグランに残っている王国軍の本隊が終戦の地であるザジロ盆地の突破を簡単に許すわけがない。そういう期待がファイアには強かった。
(一刻もはやくフセ山脈より東へ。)
「ならば、山を降りて街道をゆこう。そっちのほうが早いじゃろ。」
ケイの提案にファイアは息をのみ込みながら頷いた。
ファイアとケイは焼きつくされた村を歩いていた。
(本当にひどい。ひどすぎるぞ。)
ファイアは辺りを見回しながら奥歯を噛みしめる。一方のケイは表情を変えることなく歩いていた。ただその歩く速度が早足になっている。二人の距離が少し空いた。
急にケイが立ち止まる。そして、黒くなった石壁のほうを睨んだ。
「誰じゃ。そこにおるのは。」
ケイが左腕をゆらりと揺らした。
ライが再び襲ってくるのか。それとも別の獣人か。ファイアの鼓動は一気に早くなる。しかし、石壁の陰から姿を現したのはファイアにとって予想外の人物だった。
「さすがに勘だけは鋭いようだな、獣のお嬢ちゃん。」
鋭く細い目。揺れる竹筒。そして力み無く剣を握り立つフーガンがそこにはいた。
「フーガンさん。」
ファイアは思わずその名を叫んだ。何せハークシーで別れてから数日。その生死が全く分からなかった男が生きて姿を現したのだ。
名前を呼ばれたフーガンの視点がファイアを捉えた。その瞳が微かに揺れる。
「…お前さん。そうか、お前…。」
ファイアにはフーガンが少し笑ったように見えた。しかし、その表情もすぐに消えた。
「生きて再会出来たことを喜ぶのはもう少し後だ、ファイア。」
そして鋭い目がケイのほうを向く。
「この獣を倒した後でな。」
「は…?」
フーガンの言葉にファイアはついていけなかった。
「ちょっと待ってください」というファイアの言葉が届く前にフーガンの足が動いた。ケイとの間合いを一瞬で詰めたかと思うと、剣を素早く振りぬいた。
これにはさすがのケイも避けるのが精一杯だった。ケイは体勢を崩し転がる。フーガンはこれを見逃さず、剣を振り下ろした。攻め続けるフーガンに、避けるケイ。この構図がしばらくファイアの目の前で展開された。
(おい、おい。ちょっと待てよ。なんだこれは。)
「フーガンさん、落ち着いてください。どうしてケイに攻撃するんですか。」
ファイアの声もフーガンの耳には届いていないようだった。フーガンの殺気は凄まじくケイに反撃の糸口さえ掴ませない。
「フーガンさん。」
その時、ついにフーガンの剣がケイの体をかすめた。ケイが小さく悲鳴をあげる。
「フーガンさん、俺の話を聞けええええ。」
ファイアが自身でも驚くほどの声に、フーガンの動きが止まった。殺気が渦巻いた瞳だけがファイアのほうを向く。
「なんだお前さん。」
「どうしてケイを殺そうとするんですか。」
「俺とミニカは昨日こいつに殺されかけた。だから斬る。それ以外の理由はないが。」
(昨日どころか、ハークシーからケイは俺と行動を共にしてきたんだ。そんなはずは…。)
そこでファイアの頭の中にライがパッと浮かんだ。
ケイと瓜二つの顔。そして似たマント。ライしか考えられない。
「フーガンさん、それはケイじゃない。フーガンさんを襲ったのはケイに似た獣人です。」
ファイアの必死の言葉にもフーガンの表情は変わらない。
「なぜお前さんがそう断言できる。お前さんはいつのまにこいつらの側になったんだ。」
フーガンはうずくまっているケイの顎を剣先で持ち上げた。ケイは傷口が痛むのか表情に力が入ってない。それでも、目は明らかな敵対心を持ってフーガンの顔を見ていた。
(これじゃケイとフーガンさんの亀裂が決定的になってしまう。)
ファイアは屈辱的な姿になっているケイの名を叫ぶと、二人の間に割って入った。
「お前さんは俺たちの敵であるその獣の女を庇うんだな。」
フーガンはケイから離した剣を鳴らしながら不機嫌そうに言った。このままではケイと一緒にファイアも沈めてしまいそうな雰囲気だった。
(何かないのか。ケイの無実を証明するものは。)
ファイアは必死に頭を回し、昨日のケイとライとの一戦を思い出す。
(髪の長さはフードを被られていたら分からない。顔は同じ。…何か。)
ファイアはケイを見る。そして、夕日を背負いながら飛びかかってきたライの姿を思い出す。
(あった。決定的な違いが。)
「フーガンさん、その獣人はやっぱりケイじゃないはずです。」
「まだ言うか、お前さん。」
「本当です。獣人が襲ってきた時を思い出して下さい。その獣人は右腕が獣の腕だったはず。」
フーガンはケイの腕を見た。
「俺たちも昨日急襲を受けました。ケイとそっくりで右腕に獣の腕を持つ女から。フーガンさんとミニカさんを襲ったのも同じ獣人だと考えます。」
フーガンはファイアの顔をじっと見た後、小さく舌打ちをすると剣を降ろす。ファイアはそれを見て深い息を吐いた。
「ケイちゃんはどうだった。」
ミニカがファイアに別室で寝ているケイの様子を尋ねた。
「傷口は浅いみたいで大丈夫だと思います。今は寝させています。」
ケイとフーガンの一戦の後、別の場所でケイを探していたというミニカと合流した3人は、村の中でも建物が残っていた社の中に居た。
「そう。ケイちゃんには悪いことしちゃったわね。」
「勘違いとはいえ後で詫びておかなくちゃ、ね。」
ミニカがフーガンを見ると、そのフーガンは不機嫌そうな表情を浮かべた。ミニカはその表情を確認すると大きく溜息をつき、ファイアのほうを向いた。
「でも、ファイア本当によく生きていたわね。幽霊なんかじゃないわよね。」
そう言ってファイアに抱きつくミニカ。そして、小声で「良かった。」と呟いた。
「やめて下さいよ、ミニカさん。」
ファイアは少しはにかむ。生きて再び会えると思っていなかったため、こうして再会できたことが嬉しい。
すると、ファイアの後ろから冷たい声が飛んできた。
「こんな状況なのにずいぶんと楽しそうじゃなあ、ファイア。」
「ケイ。お前、寝てたんじゃ。」
「こんなにうるさくて寝れるか。」
ケイはその冷たい視線をフーガンに移した。フーガンとケイの視線がぶつかる。
すると、フーガンは持っていた竹筒をすっと横に置いて、両手を前に出し頭を地につけた。ファイアはその行動に驚いた。
(フーガンさんが他人に頭を下げるなんて。)
ミニカもフーガンの横に座ると同じく頭を下げる。この光景をじっと見つめると、ケイは小さく息をついた。
「さて、これからについてだが、」
フーガンが切り出す。フーガン、ミニカと和解したケイも交えて遊撃隊の今後についての会議が始まった。
「俺はハークシーを脱出してからずっと考えていたことがある。」
「ファイアが入隊するまでの俺たちは標的を抹殺しながらここまで来た。」
「それが、今回ばかりは話で解決しようなんざ、妙な事を考えてしまった。よりによって、最大かつ最悪の相手に対してな。」
「だから俺はもう一度、遊撃隊の原点に戻るべきだと思っている。」
「最終目的はただひとつ、タントタンの抹殺だ。」
フーガンが力を込めて繰り返す。
「タントタンを消す。」
第16話 黒い盾
4人はタントタンの暗殺を目標に定めた。
「おい、ケイ。その、…大丈夫か。」
ファイアがケイにこっそりと話かける。
フセ山脈の山頂にある高山都市クイを目指して歩く道中。フーガンとミニカが先を歩き、二人が聞いていないタイミングだった。
「何がじゃ。」
ケイが怪訝な顔をする。
「何がって、それはその…。」
ファイアの様子にケイは溜息をつきながら答える。
「前に言ったじゃろう。私はお前の味方であると。ファイアが目指すことは私の目標になる。それが、族を大きく裏切ることでもな。」
ファイアは黙ったまま、二度三度頷いた。
「おい。」
急に話に割って入ってきたフーガンの声にファイアは驚く。遅れていた二人の様子を見に来たようだった。前方ではミニカがこちらを振り返って見ている。
「お前さん達はずいぶんと仲がいいが、今後は気をつけた方がいいと思うぞ。」
「それはどういう事ですか。」
「どういうって言葉の通りだよ。ハーク王国と獣人は戦争真っ只中の敵対関係なんだ。ずっと一緒にいられるわけじゃねえぞってことだ。」
ファイアもケイも黙り込んだ。分かっていた。フーガンに指摘されるずっと前からそのことは分かっていた。特にケイは獣人族を裏切ったという立場上、どちらの世界で生きていくにも苦労しかしないだろう。
「何をやっているの、もう。」
ミニカが痺れを切らしたか3人のもとに駆け寄ってきた。フーガンはファイアとケイに背を向ける。
「まあいい。今は奴を殺すことだけ考えろ。その後、ゆっくり考えても遅くは無い。」
そう言って、再び歩き出したフーガンの背中をミニカが目で追いかける。
「何言われたのか分からないけど、あの人、口下手だから。気にしない方がいいわよ。」
「いえ。」
「フーガンも言っていたけど今は仕事だけに集中しましょう。」
*****
「獣人に遭遇せずにクイに着いたな。」
高山都市クイの門が遠く見えてきた。
ハーク王国中央にそびえるフセ山脈の頂上に位置し、王国東西の境界点であるこの街をどちらの勢力が掌握しているのか。4人はその重要都市に入った。
「焼かれては…いない。」
ファイアはぐるりと街並みを見渡す。確かに建物は以前、訪れた時と変わっておらず獣人族の襲撃を受けた痕はみられない。
「しかし、妙だな。」
フーガンの目が細くなる。
「人が、人が全くいないわね。まるで幽霊の街みたい。」
「とりあえず街の中を探してみようか。人か獣人か。何かいるかもしれないしな。」
フーガンの掛け声で4人は別れて街を見回った。しかし、人はおろか獣人さえも街には居ない。交通の要所として活気のあった街は完全に空虚な街となっていた。
(王国はクイを放棄したのか。)
ファイアは誰もいない王国軍のクイ駐屯所を見つめる。クイには多くの兵士が配置されていたはずである。その兵士の姿も見当たらない。
(しかし、クイには獣人と戦った痕跡はない。やはり王国軍が住民もろとも逃げたとしか思えない。)
王国軍は敵前逃亡したのではないかという疑念はファイアに憤りの感情を募らせる。
クイの市街地は大きくない。すぐに4人は落ち合ったが、皆力なく首を横に振る。
「最後はアレだな。」
フーガンが上を見上げながら指すアレとは、クイのシンボルにもなっている高見櫓だった。この高見櫓からはハーク王国の東西が見下ろせる。幸い、普段管理している王国軍の姿が無く、誰でも登ることが出来る状態となっている。
「さて、お邪魔するぞ。」
4人は何個もの梯子を登る。
その最上部に立った時、ファイアは思わず言葉を失った。
(初めて見る世界だ。)
島を取り囲む大海原。その圧倒的な青の世界の広さをファイアは生まれて初めて見た。
「孤高の山…。」
遥か西にそびえたつ孤高の山が見えた。竜神が住む聖なる山は獣人の住処である。その事実を知ってしばらく経つが未だに素直に受け入れられない。
「ほお、これは中央も大きな秘密を抱えてたな。」
ファイアの横でフーガンがニヤリと笑った。
孤高の山のさらに西に微かに土地が見えた。
「私たちの故郷じゃ。」
ケイが静かな口調で西の方角を見つめながら言う。
「中央め。孤高の山が西の端とか言いながら、そうじゃなかったのか。」
「フセ山脈が島の中央だと俺たちは思い込んでいたがそうじゃなかった。本当は孤高の山を中心に人間と獣人が島を二分してたんだな。」
そこまで言うとフーガンはカカッと笑った。
「やっと今回の戦いの構図が見えてきた。獣人どもは大嘘つきで約束やぶりの中央に腹を立てているってことか。」
「約束やぶりって…。」
ファイアの頭の中では孤高の山のふもとでタントタンと対峙した時の台詞が甦ってきた。
(そういえばあの時、タントタンも“約束破り”って言っていた。)
そして、さらに思い出す。
(ザジロ盆地で言っていたよな。ケイは確か“大嘘つきの国王様”って。)
ファイアはケイのほうを慌てて見る。ケイは西の彼方を見つめながら悲しげに微笑んでいた。
(大嘘つきで約束破り…。)
ファイアの心の中でケイとタントタンが放った言葉がぐるんと回る。
「それじゃっ、それじゃあ…。」
ファイアは高見櫓の柵に頭を押し付けながら顔を歪ませる。
「ハーク王国に義は無いな。」
フーガンが冷たく言い放った。
命を失いかけてもなお、ハーク王国の為に戦おうとしているファイアの心に大きな傷を負わせるには十分すぎる事実だった。
これまでファイアの中にあった強固な愛国心が崩壊していく。確かにケイと出会ったからこれまで中央を疑う事はあった。それでも愛する王国の為にと奮い立ってきたが、ファイアを突き抜けていく事実はあまりにも大きすぎた。
フーガンはファイアの様子を見て、自分の部下の心が折れかかっている事を感じた。だからこそ、静かだが強い口調でファイアに伝える。
「でも俺たちはタントタンを消さなくちゃならねえ。」
「戦いに勝てばいくらでも義は作れる。負けたら全て失う。」
まだ戦わなくてはいけないことを。
「その分岐点に今俺たちは立ってるんだ。」
「下を向いてる時間はねえぞ、お前さん。」
ファイアはゆっくりと二度頷いた。フーガンはそれを確認するとファイアの肩を軽く叩き、東を見るミニカの横に立った。
「その真っ黒な中央がザジロ盆地で大掛かりなことをしているわよ。」
「柵…か。あれは。」
ミニカとフーガンの視線の先にはザジロ盆地に数キロに渡って築かれた柵があった。その柵のそばでは多くの人が柵に沿って地面を掘っていることが確認できた。
「これまで人どころか遺体も見ないと思っていたがそういうことか。」
そう、二人はハークシーからクイに辿りつくまで多くの焼き払われた村を見てきたが、なぜか襲われた人は全く見なかった。その理由が今分かった。
「西ハークの民はザジロ盆地に集められているようね。」
「逃げてきた者をハークグランに入らせず、かつ、王国の守りを固める。良い策だよ。」
フーガンは皮肉を込めたような口調で言う。
「それに、あの建物たちは。」
ミニカが柵から少し離れた場所に立つ建物群を指差した。
「避難民の小屋だろうな。」
「柵をもし突破されても、西ハークからの避難民を盾にして少しでも時間を稼ごうと考えているんじゃないのか、中央は。」
「本当に、王国の黒い盾ね、あれは。」
ミニカの顔が曇る。
「黒い王国の勝利のために動かなくちゃいけない俺たちも真っ黒だな。」
フーガンの言葉はザジロ盆地に吹き下りる風の中に消えていった。
第17話 想定
ザジロ盆地には威勢のよい声があちらこちらで響いていた。その光景を見て馬上の男は自身の立派な髭をさすりながら頷く。
「“ザジロの長柵”は予定より早いペースで進んでいるようだな、アクオ。」
「ああ。獣人族がフセ山脈を越えてくる前に何とか形にはなったわ。」
「やはり人間、食べ物が絡んでくると仕事に精を出すもんだな。」
髭面の男の言葉にアクオは「そうだな、エムダ」とだけ返して、険しい目で忙しく動き回る民衆を眺めた。
王国No.2であるエムダ大公がザジロ盆地に数キロに渡る長柵を築くことを決めたのは、遠征軍がハークグランを発ってすぐのことである。フセ山脈より西に住む王国民をザジロ盆地に集めさせ、村ごとに作業にあたらせ、その進捗状況により村単位で配給する食料の量を変える政策をとった。
この政策は当たった。進捗状況を確認しにハークグランから出てきたエムダを満足させるのに十分な長柵が目の前に築かれている。
「ここがハーク王国の最終防衛線だ。獣人族にこの長柵を越えられてはならん。」
エムダの言葉にアクオは怪訝な顔を見せる。
「その言葉は西ハークを、孤高の山を、我々は放棄するということを言っているのか。」
エムダは首を横に振る。アクオはさらにまくしたてる。
「遠征軍が既に壊滅し、領土の半分は失っているんだ。王国民の不満も溜まっておる。長柵に反対するわけではない。あまりに守りばかりに意識がいったその姿勢はどうなんだ。危険はあっても攻めていかなければ望みは手に入らんぞ。」
「アクオ落ち着け。この状況は私の想定している内だ。」
エムダのこの言葉がアクオの眉間のしわをさらに増やす。
「遠征軍の壊滅が想定内だというのか。」
アクオは自身の一番弟子であったアイス・ミルトンが遠征軍の総大将としてハークシーで散ったことが大きなショックであった。遠征軍壊滅の一報が耳に入った当日は自室に籠ってしまった程であった。
それを想定内と言われれば、アクオの口調に怒りがこもるのも仕方がないことかもしれない。
「…アイス総大将をはじめ、多くの有望な将を失うことは勿論考えていなかったし、王国にとっても、個人的にも残念な出来事だった。」
「ただ、150年間以上も鋭い牙を潜ませていた獣人族がすぐに屈することは無いと考えていた。」
アクオは怒りの表情を緩めることなくエムダに再び詰め寄るように言う。
「エムダは遠征軍がハークグランを発ったあの日、ワシに王国軍は獣人族に必ず勝つと考えていると言ったよな。」
それでもエムダは顔色一つ変えることなく冷静な口調で返す。
「戦さは長い。その最後に我々が勝利する。その確信はあの時も今この時も変わらんよ。」
「このザジロの長柵はその確信を支える根拠の1つだ。」
そう言うとエムダは長柵の端から端に視線を走らせた。
「この展開が想定内だという話は他でもしておるんか。」
先程まで鋭い口調だったアクオが声のトーンを1つ落とした。
「まさか。」
エムダは1つ間を取り、言葉を続けた。
「こんな話が国王様に伝われば、ハーク王国の勝利を見届ける前に私の首が飛んでいく。」
ハークシーの陥落および西ハークの喪失の一報は気の短く好戦的な国王ハーク・ジー3世を激怒させた。今のエムダの言葉もあながち冗談ではないほど、中央はピリピリとした雰囲気に包まれている。
「ふっ。それもそうだ。ただ国王様がそんな状態であるからこそ、ワシが直接出向いて戦えという指示が出た。…先に散っていった遠征軍の兵士たちに恥じない戦いをして獣人族を1匹残らず消してやる。」
アクオは力を込めて言う。
「アクオが直接指揮を執る王国軍本隊だ。敗戦は私の想定の外にあるぞ。」
エムダの言葉にアクオは深く頷く。
「…勿論だ。分かっている。」
「それならいい。」
しばし二人の間に無言の時間が流れた。そして、アクオが再び口を開く。
「しかし、獣人族がフセ山脈から出てこないな。」
確かに、破竹の勢いで西ハークを蹂躙していた獣人族が、ここ数日姿を完全に消していた。偵察隊からも何の情報も入ってきていない。獣人族の動向どころか、その存在さえも確認できない日が続いていた。
少し焦りも見えるアクオの表情と対称的にエムダが余裕のある笑みを浮かべる。
「まあ、構わん。この長柵が全て完成するのも間近だ。もう少し姿を隠していてもいいくらいだ。」
そう言うとエムダは再びその立派な髭をさすった。
*****
「おいおい、非常に良くない状況になりそうじゃねえか。」
フーガンが小さく舌打ちをして剣を抜く。
クイの高見櫓の中層に降りた遊撃隊の3人とケイの表情が固くこわばっていた。小窓から見える景色の中に多くの獣人がゆっくりとクイの街を歩き回る様子があった。
高見櫓からザジロの長柵を見ていた4人はクイに侵入してきた獣人族に囲まれる形となってしまった。
「おい、タントタンはいるか。」
小窓から外の様子を見ていたケイにフーガンが尋ねる。
「ああ。タントタンの姿も見える。」
「そうか。どこに姿を隠していたのかは知らねえが、まさかこのタイミングで出くわすとはな。」
「ただこれを好機と捉えるぞ。タントタンを消す好機だと。」
フーガンが剣を光らせながら他の3人に言う。
「おい、ファイア分かっているのか。」
虚ろな目で頷くファイアにフーガンの声が飛ぶ。
(駄目だ。こいつ、さっきの王国の話を引きずってやがる。)
フーガンはとっさにケイの方を向く。そしてその鋭い目でケイに語る。ケイはフーガンの思いを汲み取ったのか黙って大きく頷いた。
フーガンは大きく息を吐き、目を深く閉じた。
(ざっと見ただけでも奴らは30人を超えている。それに対し、俺たちは獣のお嬢ちゃんを入れても4人。)
(タントタンを殺すという使命を果たしても、俺たちの命はここで終わる可能性が高い、か。)
(ファイアは精神がぐちゃぐちゃで、とてもじゃないが戦えるという期待が出来ない。獣のお嬢ちゃんは何だかんだいっても獣人族の娘。)
「…ミニカ。」
フーガンがゆっくりと目を開けると、ミニカが不敵に笑みを浮かべていた。
「何も命を賭けて戦うのはこれが初めてじゃないわ、フーガン。」
フーガンも笑い返した。
「それもそうだ。これまで暗い世界で生きてきた俺たちだ。散る時くらい派手にやってやるか。」
そう言うとフーガンは、竹筒に手を伸ばしグッと酒を飲む。そして、ファイアの顔に自分の顔を近づけて静かな口調で伝える。
「お前さん、…俺は別に国王のために戦ってきたわけじゃないんだ。俺は、俺が生まれ育ってきた故郷のために戦っている。もし、俺が獣人族に生まれていたら獣人族のために血を流してきたと思う。でも、俺が生まれたのはこのハーク王国なんだ。…だから俺はハーク王国のために戦う。」
「本当に貴方は口下手ね。」とミニカが微笑む。
「お前さん、…ファイアは何のために戦ってきた。何のために戦うんだ。」
「もう奴らがくるで。」
ケイが小さく鋭い声で3人に言う。
「あの中に1人ものすごく耳が良いやつがおるんじゃ。キャパというやつなんじゃが。もうすでにここも気付かれとるはずじゃわ。」
ミニカがゆっくりと立ち上がり剣を抜いた。
「フーガン、私が正面から降りて獣人たちの気を引きつけるわ。貴方はその隙をみて動いて。」
ミニカが勇ましく言う。穏やかで、どこか上品な雰囲気さえ持ち合わせている普段の姿からは想像もつかないほどの凄みがその身体から溢れている。
「ファイア、貴方の力が必要なの。ファイアの剣が唸る所を見せてちょうだい。」
そして、ファイアに対して明確なメッセージを言い残すと、ミニカは高見櫓の1階へ降りて行った。
フーガンは小窓から外の様子を再度伺うと、ミニカと同様に階段のほうに歩みを向けながら背中越しにファイアに言う。
「さっきの問いの答えは戦いが終わったら聞かせてくれよ。」
フーガンがファイアの前から姿を消して、しばらくすると小さな音がした。どうやら高見櫓の2階から近くの建物に飛び移ったようだ。
ついに高見櫓にはファイアとケイが残される形となってしまった。ケイは何も喋らない。ファイアは剣を抜き、その刃に映る自分の顔を見ながら呟く。
「俺は何のために戦うんだ。」
「何のために…。」
すると、外から獣の唸り声が響いてきた。そして、ミニカの声もこだます。
「うおおおおあああああ。」
その声にファイアはハッとなる。
「あの男は強い。1人でも大丈夫じゃ。ミニカのもとに急ごう。」
ケイの言葉にファイアは頷き、そして立ちあがる。
戦う理由を失い、そして、その理由を掴みきれないままファイアは剣を握り、走りはじめた。
第18話 クイの戦い
ケイが飛ぶようにして階段下に下りた後に続いて、ファイアも転がるような勢いで階段を下りる。高見櫓の入り口のドアは開いていた。そして、その先には2人の獣人と果敢に戦うミニカの姿が見えた。
ミニカは自分より大きな獣人に対して互角に戦っていた。それでも、2対1ではさすがに不利であり、ミニカは徐々に苦しい体勢に追い込まれていた。
ケイはマントから左腕を出すと入口から飛び出した。ミニカに襲いかかる獣人が驚きの表情を浮かべる。
「うがあああああああああ。」
ケイが吠えながら振りぬいた獣の爪が獣人の胸を裂く。そして、苦しそうに片膝をついた獣人の首筋を間髪入れずケイの牙が襲う。
大量の血がケイに降り注ぎ、獣人が倒れた。
「ケイちゃん…。」
ミニカが荒い呼吸で血だらけになったケイの名前を言う。
「さあ、もう一匹じゃ。」
完全に戦う獣の目つきをしたケイの視線がもう1人の獣人を捉えた。
「なんじゃ、お前ケイか。族の裏切り者がこんな所でなにしとる。」
その獣人は震えるような濁声でそんな台詞を吐き、クイの街全体に響き渡るような遠吠えをした。
「こいつ、仲間を呼んでくる気じゃぞ。」
ケイはミニカにそう伝えると、その獣人に向かって駆け出した。
「同じ手をくらうか。」
獣人は叫びながら振りかざしたケイの左腕をしゃがむようにして避けると、その体勢のままケイの腹に向けてパンチを繰り出す。
「うぐっっ。」
パンチが腹に当たったケイは思わず体勢を崩す。
「いくら間者の娘だったとはいえ力はこっちのほうが上じゃで。」
獣人がいやらしい笑みを浮かべながらケイを見下ろした瞬間、ミニカの剣がその獣人の背中を斬り裂いた。獣人は血を吐きながら倒れた。
「助かった、ミニカ。」
震える声で感謝の意を伝えるケイに対して、ミニカは厳しい表情を崩さない。
「どうやら安堵している余裕はなさそうね。」
ミニカの視線の先には、こちらに向かって走ってくる新たな3人の獣人の姿があった。
*****
(ケイもミニカさんも何のために戦っているんだ。)
ファイアは高見櫓の入り口から動けず、二人が戦う姿を茫然をした表情で見つめていた。
(あんなにボロボロになって、命が途絶えそうになりながら何のために…。)
二人を取り囲む獣人の数はまたたく間に増え、5人の獣人がケイとミニカに向けて鋭い獣の爪を振りかざしている。傷だらけになりながら、それでも戦い続ける2人を見つめていたファイアの心に黒い何かがドクドクと流れ込む。
(大義とか、ハーク王国に非があるとか関係ない。)
みるみるうちに、その黒い何かがファイアの心に溜まっていく。
(2人が目の前で殺される。)
そして、ミニカが獣人の攻撃を受けて、地面に叩き付けられた瞬間、ファイアの心がはじけ飛んだ。
(それを黙って見ているだけの自分なんて許せれない。)
「ああああああああああああああああああっ。」
ファイアの叫びは戦っていたケイや獣人たちの動きを止めた。皆が高見櫓の入口を凝視する。
「なんじゃ。怖がって見ていた男が出てくるんか。」
獣人の1人が馬鹿にした口調で言う。他の獣人たちもヘラヘラと笑った。
「そう…、関係ないんだ。」
ファイアは独り言を呟きながら、ゆらりゆらりと高見櫓の入口から出てきた。
「なんじゃコイツ。狂っとるぞ。」
獣人たちは完全に見下した視線でファイアを見る。そして、その中の1人の獣人が歩きながらファイアに近づくと爪で顎を持ちあげた。
「臆病者の坊っちゃんはここじゃすぐに死んでしまうで。」
獣人がニヤリと醜い笑みを見せた。
「今から俺の獲物になるんじゃか…、っっ。」
まさに一刀両断だった。ファイアが、それまでほとんど力の入っていなかった右腕を振りぬくと、刃は唸りをあげて獣人の腹を斬り裂いた。獣人の表情がみるみる青くなり、言葉を発することが出来ないまま倒れる。
「おい…、このガキがあああ。」
残りの4人の獣人の内、1人がもの凄い形相を浮かべながらファイアに飛びかかってくる。ファイアは飛び込んでくる獣人に対し、踏み込みながら再び剣を鋭く走らせた。再度、獣人の血しぶきが飛ぶ。
(ファイア…、この短時間の間に彼の心にどういう変化があったっていうの。)
ミニカは苦しそうに立ちあがりながら、無表情で戦うファイアを見つめる。先程からのファイアの変貌ぶりに戸惑いの感情を隠せない。確かに、気弱になり壊れそうになっていたファイアに発破をかけたのは自分だ。だけど、今のファイアは…。
(壊れている。)
全身に狂気を纏いながら、無表情で獣人と対峙するその姿にミニカをごくりと生唾を飲み込んだ。
ファイアの姿に戸惑っているのはミニカだけでは無かった。ケイもまた、ファイアの様子に動揺して動けない。獣人たちの矛先が完全にファイアに向かい、二人は乱戦の外に置いて行かれた格好となった。
二人の獣人からの攻撃を受けながらも、無表情のまま戦い続けるファイアを見ていたケイはハッとした表情を浮かべると、ファイアを襲う獣人の背中に飛びかかっていった。
その様子を見たミニカは、1つ息を吐き、強い風が吹き抜ける空を見上げた。そして、軽く頷くとフラフラと高見櫓の中へ姿を消した。
*****
「タントタン、やはり人間がおったようじゃな。」
キャパの耳がこだます獣人の唸り声とファイアの叫び声を捉えていた。タントタンはニヤリと笑う。
「いくら進んでも人間に会わずに寂しかったが、ようやく楽しめそうじゃ。」
タントタンの横に立っていた獣人が太い首を鳴らす。
「ライからの報告じゃとケイもおる可能性がありそうじゃな。」
「今度は前みたく見逃してはやらんぞ。ケイは俺の獲物じゃから邪魔するなよジプ。」
ジプと呼ばれた大男の獣人は分かっているといわんばかりに、首をすくめニヤッと笑った。
「さあ、久々に人間殺しじゃ。」
タントタンはゆっくりとファイアとケイが奮戦する高見櫓のほうへ歩みを向け始めた。
その高見櫓の周辺には獣人たちが群がっていた。その中心に膝に手を着くファイアと、その前に立つケイがいた。
(タントタンにやられた傷がまだ完治しとらんのに無理があったんじゃ。)
ケイは苦しそうなファイアの息使いを聞きながら取り囲む獣人たちに威嚇の唸り声をあげる。
「ケイ…、俺はまだ戦えるぞ。俺は獣人を殺すんだ。殺して、殺して誰も死なせないんだ。」
ファイアの広がった瞳が黒く光る。だが、その言葉とは裏腹にファイアの体は震え、立っているのも苦しそうである。
(…限界じゃ。ファイアも、この状況も限界じゃ。)
ケイは左腕に力を入れた。
(じゃが、この命が途絶えるまでは、それまではここを動かん。)
取り囲む獣人たちは2人を見て笑い声をあげる。
「あれほど純粋じゃったケイがここまで男に取り込まれるとはな。それも、人間の男に。」
「ケイの目を見てみ。泣けるで。自分の命をかけてまであの男を守る気でおるんじゃからな。」
「残念じゃったな。お前がいくら戦おうともあの男は死ぬんじゃから。今、この場でな。」
ケイは飛んでくる獣人たちの罵言に対する怒りを全て左腕に込める。獣人たちはニヤニヤと笑いながらジリジリと2人に詰め寄ってきた。
「これ以上近づくな。」
ケイが左腕を振り回し威嚇するが、獣人たちは余裕の表情を崩さない。
「ケイ、どけ。俺が全員ブッタ切ってやる。」
ファイアが顔を起こし前に出ようとしたその時、急に、獣人たちの輪が後方からとけ始めた。
「ご無沙汰じゃのう。ケイと人間の甘ちゃん。」
ニヤリと笑うタントタンが2人の前に姿を現した。タントタンはファイアの姿をもう一度見ると笑いながらこう言う。
「やはりケイと一緒におったのはお前じゃったか。あの時、殺したと思っとったんじゃがな。只の甘ちゃんかと思いきや強い命は持っとるみたいじゃな。」
タントタンの顔を見たファイアの目が一層開いた。
「返せ…。」
ファイアの声にタントタンは「なんじゃ」と首をかしげる。
「返せ。遠征軍の命を…、ハークシーの命を返せ。」
タントタンは瞬きもせずにククッと笑う。
「ええことを教えてやろう。この世のものはなあ、一度命を失ったらそこまでなんじゃ。…そんなに返してほしいなら、お前をあの世に送って死んだ兵士たちと再会させてやるで。」
タントタンの言葉にファイアの黒い瞳が一瞬で燃えた。震える手でグッと剣を握り直したファイアは、言葉にならない叫び声をあげながらケイの制止を振り切りタントタンに突撃する。
タントタンは後ろに立っていたジプに、「俺がやる」と言うと獣の爪を鳴らした。
(お前を殺す。殺して、死んで責任を取ってもらう。)
苦しそうにしていたファイアに、火事場の馬鹿力というべきか最後の力を振り絞ったというべきか、異様な力が降り注ぐ。
そのスピードと力強さにさすがのタントタンも少し面食らった。
(甘ちゃんのだったはずのこいつがこれだけの迫力を出せるんか。)
「面白いなあ。面白いわ。」
タントタンはニヤリと笑うと、もの凄い勢いで襲いかかってくる剣を避けた。そして、逆に獣の爪をファイアに振りかざす。
「これでどうじゃああ。」
ファイアはこの攻撃をのけ反るようにして避ける。それでもタントタンは間髪入れずに何度も、何度も攻撃をしかけてきた。
「避けるので精一杯のようじゃなああ。」
じりじりと後退していたファイアだったが、その右足で地面を蹴りあげると前に出た。
「死ねええええ。」
不意を突かれた形となったタントタンはとっさに出した左腕に刃を受けた。ポタポタと血が落ちる。
「お前、実は強い男じゃねえか。そういう強いやつは確実に殺しておかんとな。」
タントタンは血が流れる左腕を舐めると、口から血をペッと吐きだした。
ファイアは激しく眉間にシワを寄せ、タントタンを睨みつけながら剣を構える。2人の戦いが始まる前は騒いでいた外野も今は黙り戦いの行方を見つめていた。
異様な緊張感に包まれる中、ファイアが右足を前に出した。それと同時に剣がゆらりと揺れ、ファイアの視界も揺れた。
ドサッと重たい音が静まり返った空間に響く。
「ファイアッ。」
ケイが倒れたファイアにすぐ反応し近くに寄り添った。
タントタンは最初こそ驚いた表情を見せたが、すぐに大きな声で笑い始めた。
「なんじゃこいつ。何もしとらんのに勝手にくたばりやがったぞ。」
そして、笑いが止まらない顔でケイを見る。
「そこをどけろ、ケイ。こいつにとどめをさしてやる。」
ケイはタントタンの言葉を聞くやいなや、唸り声をあげファイアを守るように前に立った。
「そう怖い顔をするな。せっかくの顔が台無しじゃぞ。そう心配するな。ケイも後でこいつと同じ世界に旅立たせてやるけんな。それとも先がええか。」
タントタンがニヤリと笑いながら、一歩、ファイアに近づいた。
その時、タントタンの後ろに立っていたキャパの耳が動いた。そして、大声で叫ぶ。
「上じゃああ。タントタン上じゃああ。」
タントタンがその声にハッとして上を見ると、高見櫓の2階の窓からフーガンが飛びかかってくる姿が視界を支配した。その距離僅か。
ジプが慌てて動き出したが間に合わない。
フーガンが飛び降りた勢いで振りぬいた剣はとっさに避けようとしたタントタンの右肩を捉えた。タントタンの叫び声がクイに響き、倒れた。タントタンの体が微かに震えている。
すぐに周りにいた獣人がタントタンの側により、その体を持ち上げて後方へ連れて行った。
その光景を目の前にジプの顔が一瞬にして赤くなった。太い獣の腕をぐるりと回す。
「お前。許さんぞ。」
ジプの脅しがフーガンに浴びせられた瞬間、高見櫓の最上階から黒い煙が上がった。煙はみるみる内に太くなり、風に乗ってザジロ盆地の方角へ流れていく。
「なんじゃなんじゃあ。」
「ザジロ盆地にいる王国軍の大軍への合図よ。“獣人族現る、こちらへ向かえ。”っていうね。」
ミニカがそう言いながら、高見櫓の入口から出てきた。
「合図じゃと…。」
「そう。貴方達も見ているでしょ。このクイより東のふもと、ザジロ盆地に王国軍の大軍がいるのを。」
ジプは黙り込んだ。ミニカはさらに続ける。
「王国軍の騎馬隊がもうじきに着くわ。数千の兵に取り囲まれたら、いくら力に優れた貴方達でも苦しいと思うわよ。」
ジプはギリッと奥歯を噛んだ。そして、後ろで介抱されているタントタンを見る。
「野郎ども一旦引くぞ。撤退じゃああ。」
そう周りの獣人に叫んだあと、遊撃隊とケイのほうを睨んだ。
「お前らがワシら獣人族の敵じゃというのは心によぉく刻み込まれた。次に戦う時を楽しみにしとれよ。」
第19話 雲流れ
青い空の中を一筋の黒い煙が流れていく。先程まで激戦が繰り広げられていたとは思えないほど、クイの街は静寂に包まれていた。そんな静かな市街地に4人は倒れていた。
「お前は相変わらず口が達者だな。」
フーガンは小さく笑いながら竹筒を揺らした。
「これだけが取り柄だからね。」
ミニカが柔らかく微笑みながら返した。
「だが、王国軍の数千の騎馬兵は誇張しすぎだろ。」
フーガンはククッと笑う。
「ふふっ。それもそうね。…しかし、あの狼煙を見て王国軍が動くかしら。」
ミニカは風に乗る黒い煙を見つめながら言う。フーガンは少し考えるように黙った後、首を傾けた。その先には、ファイアの横で心配そうにその顔を見つめるケイがいた。
「動くだろうな。少なくとも偵察隊くらいは送ってくるはずだ。俺が王国軍を指揮する立場なら間違いなくそうする。」
フーガンは続ける。
「…これからどう動くか考えなくちゃならねえ。」
*****
同じ時、ザジロ盆地は騒然としていた。
「あれはどう考えても“獣人族出現”を示す狼煙。クイに王国軍を送るぞ。」
ザジロの長柵に築かれた砦の中でアクオがエムダに迫る。一方のエムダは狼煙があがってからといもの、ずっと黙り込んで自慢の髭を触るばっかりである。
「エムダ聞いているのか。狼煙があがってから時間が経った。ここからクイまですぐに行ける距離ではないんだ。早く出ないと機を逃がしてしまうぞ。」
アクオが強くテーブルを叩く。そして、我慢がならなかったのか荒々しく立ちあがった。
「ワシは兵を率いてクイに行く。」
そう言い吐きドアノブに手をかけたアクオを、エムダの一声が制した。
「あの狼煙は誰があげたものなんだろうな。」
エムダはさらに続ける。
「西ハークの住民たちは全てこの盆地に集めている。万が一、取り残された人々がいたとしてもわざわざ狼煙をクイからあげるだろうか。しかも、ご丁寧に黒い狼煙を。」
「つまり、何が言いたいエムダ。あれは獣人族の罠であると言いたいのか。」
アクオは振り向くこともせずエムダに問う。
「その可能性もあると考えたまでだ。ただ、もし西ハークに残されたのが住民ではなく兵士だとしたら、あの狼煙をあげることも十分に考えられる。」
エムダの言葉に、アクオは鼻を鳴らした。
「それはどっちにしてもクイに行く以外の選択肢はないじゃないか。クイに人が残されているのなら救済しに行かねばなるまい。もし、獣人族が待ち構えているのなら叩き潰すだけだ。」
エムダは髭をなでていた手を止める。
「王国軍の長である将軍にはどっしりと構えていてほしい。」
アクオはエムダの言葉を聞くと、黙ったまま部屋を出て行った。アクオが退室し1人残されたエムダは窓の外を見る。フセ山脈の山頂からは未だに微かな黒煙が見えた。
「さあ、この判断がどう転んでくれるか。竜神様にお祈りしよう。」
エムダが静かに呟く。
すると、砦の外で大きな声が幾つも重なって響いた。隊列を組ませ待機させていた王国軍の本隊がザジロの長柵を出て行くようである。
兵士たちは槍を空に掲げながら、勇ましい雄叫びをあげている。幾つのもハーク王国のシンボルである竜神をあしらった旗が風に揺らめいている。
その様子を見たエムダは、また独り言を呟く。
「眠っていた竜が目を覚ます時だ。」
その日、王国軍の本隊はフセ山脈のふもとまで進軍。そして、精鋭500人からなる騎馬隊がクイに向かう西街道を駆けあがり、王国軍は有事の際にいつでも精鋭隊と合流できる体勢をとった。
「獣人族と出くわしたならば、すぐに狼煙をあげろ。」
アクオは精鋭隊にそう強く指示を出すと、陣を構えるフセ山脈のふもとに腰を据えた。
*****
「ファイア…、目を覚ましてくれ。」
ケイが震える右手でファイアの頬をさする。ファイアはタントタンとの戦いの最中に倒れてから、既に2時間ほどその目を閉じたままだ。その間、ケイは自分の傷のことは構わずにずっとファイアの側にいた。
「また、こんな思いをさせるんかお前は。」
この光景をフーガンとミニカは少し距離を開けて、重たい表情で見ていた。
「これまでの緊張と疲労が解き放たれたんだろう。」
フーガンの言葉にミニカは「ええ」と短く答える。そして、ケイの沈痛な表情を見てポツリと呟くように言う。
「酷な光景ね。」
「だが、これからもっと酷な判断を獣のお嬢ちゃんには迫らなきゃならんぞ。」
ミニカは高見櫓を見上げた。狼煙は完全に切れ、青い空にゆっくりと流れる雲がその瞳に映し出される。
「私の判断は正しかったのかしら。」
「…俺は正しかったと思っている。獣人族を壊滅させるためには王国軍に出てきてもらわなきゃ不可能だからな。タントタンが死んだのかは分からんが、その体を地に這いつくばらせ、王国軍を動かすよう仕向けたんだ。俺たち遊撃隊に出来ることはやった。」
ミニカは静かに「そうね」と答える。フーガンは視線をファイアとケイから動かすことなく続けた。
「どのみち、この判断は迫られていたことだ。俺たちはハークグランに戻る必要があるんだから。それが早いか遅いかだけのことだ。」
そして、フーガンは服の内ポケットから一枚の紙を取り出すと、ケイのほうへ歩きだした。
そのケイは力無くファイアを叩く。
「ファイアの馬鹿者、馬鹿者…。」
次第に力が抜けていきブランと垂れた手と頭。全身から悲しみを放つケイの後ろに立ったフーガンはゆっくりと瞬きをする。そして、息を吸い込み、ケイに言葉をかける。
「獣のお嬢ちゃん。」
ケイの耳だけがフーガンの声に反応する。
「俺の経験上からいって、ファイアは疲れが溜まっていただけだ。大丈夫だ。」
ケイは動かなかった。フーガンはケイの反応を見ながら、言葉を続ける。
「ファイアのとこじゃなく、獣のお嬢ちゃんのことで話があるんだが。」
今度はケイの頭が少しあがる。そして、力の無い返事がきた。
「なんじゃ。」
「これからのことなんだが…。」
「…分かっておる。」
フーガンが全てを言い切る前に、ケイから言葉が返ってきた。
「みなまで言わなくても分かっておる。ここから先はハーク王国の支配下。そして、この街に王国軍が来るかもしれん。その前に私が消えなくてはならん。…そういうことじゃろう?」
フーガンは何も言わなかった。その代わりに、持っていた1枚の紙をケイの顔の横に差し出した。
「これは…、地図、か。」
「獣のお嬢ちゃんには必要ないものかもしれないがな。クイより東の地図だ。」
「これは重要なものなんじゃないのか。地図が獣人族に流出したことが明るみになれば…。」
ケイの問いかけに対し、フーガンは他人事のように答える。
「ああ、そんな事実が明るみになれば俺の命なんてこの世にはないだろうな。」
「なら…。」
「その地図は俺がお嬢ちゃんの懐に無理やりねじ込んだものだと思ってくれていい。そして、これから喋ることも勝手に俺が言っていたことだと思ってくれていい。」
*****
フーガンは“独り言”と称して一通り喋ると、「また、な」と最後に言い残しケイの側を離れた。
ケイは力なく微笑んだ。
(どいつもこいつも馬鹿者が多いことじゃ。)
そして、深く目を閉じたままのファイアの顔を見る。
(ファイアもその馬鹿者の1人じゃぞ。)
ケイは顔をファイアの顔に近づける。そして、目を閉じると、自身の鼻をファイアの鼻にくっつけた。クウンと甘い音を鳴らす。
1秒、2秒、3秒。
ケイの目から一粒の涙が落ちた。そして、ゆっくりと目を開けたケイはファイアの顔に落ちた涙の滴を見つめて、舌で舐めるようにしてとる。
もう1度、鼻と鼻をくっつけた。今度は軽く、触れるか触れないかの距離だった。そして、空を見上げて息を吐く。青い空の中で白い雲が流れて行く。その中で今にも2つに分かれそうな雲を見つけた。
(あの雲たちは別れた後、再び会うことはあるんじゃろうか。)
ケイは視線をファイアに移した。じっとその顔を見つめた後、立ちあがる。ふと後ろを振り返るとフーガンとミニカがこちらを見ていた。ミニカが一礼する。フーガンは腕を組んで壁にもたれたまま少し俯いている。
ケイは二人の姿を見ると、そのまま歩きだした。次第にその速度があがり、最後は駆け出していた。そして、飛びあがると、建物の屋根に登り、屋根の上を走りながら3人の前から姿を消した。
ケイはクイの街の外に出ると、その足を止めた。ふと空を見上げると、先程の雲は完全に2つに分かれ、それぞれが青い空の中を流れていた。
「また1人の世界に逆戻りじゃな…。」
小さくそう呟くと、ケイは森の中に姿を消した。
地の竜、空の虎