羊追いし君の声

天気のいい日、僕は必ず小高い丘にやってくる。
30分くらいの道をひたすら歩き、丘に着いたらあとはただ寝転がる。
携帯電話も持たないし、財布も持たない。弁当と水筒を持ってくるだけだ。
朝の九時に家を出て、お腹がすいたら弁当を食べ、夕日が沈んだら帰る。
時計を見るのは家を出る時と、家に帰ってすべてが終わり、ため息を吐いたあと。
はじめのうちは、ため息を吐く時間もまばらだった。九時の時もあれば、日付が変わってしまっていた時もあった。
いや、本当は何度もため息を吐いていたことすら、気付かなかっただけなのかもしれない。

僕の人生はとびきり忙しかった、と思う。
誰かと比較すればちっぽけだと鼻で笑われるかもしれないけれど、少なくとも僕という個体が感じるには、十二分に忙しかった。
何時に起きて何時に家を出て何分電車に揺られて、会社には何人のひとがいて何台のパソコンがあって何億の金を動かしていて、何時に昼飯を取り…僕は何を食べていたのだろう?
こうやって思い返してみても、なにも思い出せない。
そんな生活を、どうやら僕は七年ほどやっていたらしい。
家の日めくりカレンダーは七年も前の4月13日で、でも僕は毎年発売されるその年の日めくりカレンダーを買うのを忘れてはいなかった。部屋の片隅に、1月1日の赤い文字が六冊、死んだように積み重なっていた。
その日はとても寒くて、ちらちらと雪が舞っていた。茫然とした僕は指先のふるえに気付き、ストーブのスイッチを付けようとしたが付かなかった。家の中で唯一灯油を使うのがストーブで、僕は近所のガソリンスタンドで10リットルの灯油を買ってストーブに入れていた。
でも、いつの間にか灯油を買いに行かなくなっていて、もちろん燃料のないストーブは点かなかった。
それがいつからそうなっていたのかはわからないけれど、僕は暖のない家の中で冬を越していたということになる…笹村はそう言った。感情のない声だった。
部屋はいつからか掃除していなくて、布団もいつからか洗っていなかった。身体検査を受けた僕の身体からはダニに食われて化膿した痕がいくつも見つかった。
ワイシャツと背広はこまめに洗った。よれたネクタイも定期的に取り替えた。毎日ちゃんとシャワーも浴びた。髪も二ヶ月に一回、ちゃんと切ってもらっていた。
だから会社の人たちは大層驚いたという。家に帰った僕があまりに荒廃していたことに。
でも、驚いたのは彼らだけではない。僕だって、相当驚いた。取調室で、はじめは険しかった中年の刑事の顔が、そうやって僕の知らない僕の真実をひとつずつ語るたびに、憐れみでいっぱいになっていった。

あの日、笹村は泣いた。僕の部屋で、僕がずっと大切にしていたはずのパキラの葉がすっかり朽ちて床に落ちていたのを見て。
総ちゃんはなにがあってもそのパキラが大事なんだね。
時にいたずらに、時に怒って、笹村は言った。
大学入学と同時に一人暮らしをはじめた家にまず迎えたのがパキラだった。買った時から僕の胸元まである大きな木だった。葉の一枚枯らすのも嫌で、僕は生まれたばかりの赤ん坊を育てるように手塩をかけた。パキラのことが心配で、長期の旅行も行かなかった。
もちろん、笹村と別れたのはそんな理由ではない。お互い社会人になって、忙しかったし精神的に余裕もなかった。別れよう、という言葉を、どちらから掛けることもなかった。
お互い東京の会社に就職したので、転職か寿退職でもしていなければ笹村が東京にいることは確かだったけれど、あの日僕の前に、あのタイミングで彼女が現れるなんて誰が想像できただろう。
七年ぶりに僕の前に現れた笹村は、あの頃と変わらない声で、総ちゃん、と言った。何度も、総ちゃん、総ちゃん、と力なく言った。
ああ、笹村、久しぶりだな。元気にしてたか?
そう口を開こうと思ったら途端に涙がこぼれた。泣きながら、笑っていた。嗚咽ばかりがせり上がってきて、全身ががたがたと震えて止まらなくて、気が付いたら笹村が小さな身体で僕を強く抱きしめていた。

僕の受けた判決は、殺人未遂罪で懲役四年、執行猶予三年だった。
過労による重大なストレスが認められ、情状酌量の余地があるとされた。保釈日、弁護士から、会社に業務改善命令が出されたことを知らされた。
階段から突き落とされた社長は肋骨を折り入院したという。全治四ヶ月だと。
社会的にも、「気の狂ったサラリーマン」なんて批判より、会社に対する批判のほうが大きかったらしい。
でも僕にはなにも関係なかった。そんなことを聞かされたところで、僕の罪は消えない。結局は人を殺しかけたのだ。他の社員は誰一人として人殺しなんてしていないのに、僕はやった。
判決に不服がなかったといえば嘘になる。なぜ情状酌量の余地があったのか。僕一人を許してしまったら、世の中のすべてのサラリーマンが人を殺すのではないか。いくら過労のストレスがあったって、上司を殺していいはずがない。

保釈から半年が経つ。日めくりカレンダーは毎日、新しい一日を告げてくれる。
僕が警察に受け渡されたとき、笹村は言った。
「総ちゃん、一緒にモンゴルにでも行こう。毎日羊追いかけて暮らそうよ」
あれから笹村の声を聞いていない。


fin.

羊追いし君の声

羊追いし君の声

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-25

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