忘夏現冬

 街灯の下のベンチに男は横になり、どんよりとした眼でショーウィンドの向こうの真っ白な砂浜を眺めていた。ブラウン管に映し出される光景は、遠い過去に歩いた海辺を思い起こさせる。焼けるような砂の上を走り、心臓がきゅっとするくらい冷たい水の中へ飛び込んだ、故郷の夏を。
 穴の開いた手袋からはみ出た指先に冷たいものが触れ、男の胸を締め付けた。望漠とした心地から引き戻される。男はベンチの上で拳を抱きしめるようにして身を縮め、痛みが去るのを待つ。滲んだ視界に空から落ちる白いものが映った。綺麗で冷厳な現実の色だ。
 胸の痛みが治まって、男は身を起こす。覚束ない足取りで、寒さを凌げる場所を探して歩き出した。進む程、汚れた衣服が白く染まっていく。それは堪らなく重く苦しくて、焦燥と恐れを抱かせる。しかし、直ぐに男の内に靄のようなものが沸き、感情を覆っていくのだった。男はそんな繰り返しの中で生きている。 
 ふと見上げた青色の看板と彼の吐く息の重なりが、再び過去の光景を靄の切れ間に覗かせる。子供の足には長く急な坂道の先にあった我が家への帰路。振り返ると輝く水平線に大きく大きく立ち上がった入道雲が、真っ青な夏空に見えた。しかし直ぐに吐息と一緒に霧消してしまう 。
 男は立ち止まり、何度も息を看板へ向かって吐き出した。胸に痛みだけを残して消えるそれを彼は求めたが、同様の鮮烈さを持って思い出すことはなかった。呼気を荒げ胸を押さえて立つ男を、怪訝そうに、あるいは哀燐、あからさまな侮蔑、嘲笑であったりと、道行く人が様々な顔で避けていく。
 白い帽子とコートにあきらめを染めて、男は歩みを進めた。彼はそれを払い落とそうとはしなかった。そうすべき両手は、ポケットの中で悴み、震え続けている。相変わらず足取りは重く、不確かだ。いっそう辛くなった気さえする。苛々とした感情が熾るが、それもまたやがて虚脱感に沈む。
 街の灯りを強く感じるようになってきた。雪雲に隠れた日が沈み始めたようだ。冬の一日は短いがこの空模様なら尚更、夜も足を早めよう。男が糧を求めて活動を始めるのは街が眠りに就く頃であったので、それまで雪風を凌げる場所で体を休めておきたい。しかし体は彼の意志に従わない。いや、それさえ怪しいものだ。男は表層で、せねばならないと思っているだけで、本当の望みは違うのでは無かろうか。そも何かを求する意志が男に残っているのか。靄の中に何もかも沈めてしまうことが彼にとっての快楽ではないか。その先でいずれ訪れる空恐ろしい現実こそを望んでいるのでは。
 吸い込んだ空気の冷たさに耐えかねて、咳き込んでしまう。中々治まらぬので、ガードレールに腰掛けて呼吸を整える。雪は降り続き彼に積もる。それを含んで咽のひりつきをどうにか出来ないかとも考えたが止めておいた。今は暖かいものを飲むべきだと思ったからだ。自動販売機を探して、ずしりとした、しかし決して重くはないぼろ布のような財布から硬貨を数枚摘んで投入する。震える指が少し迷って、甘い珈琲を選んだ。音を立てて吐き出された缶に手を伸ばすが、掴んだその熱さに思わず手を引いてしまう。
 漁港と砂浜の間から長く伸びる防波堤をよじ登ろうとしたが、ぎらとした日差しを耐えていたコンクリートの怒りにびっくりして触れた両手を万歳のかたちに挙げた。有様を見た友人達が邪気無く笑う。その顔は逆光で口元しか解らない。…いいや、思い出せない。それでも繋がりを求めて遠いところへ視線を向けた男が見いだしたのは、結局、取り出し口のプラスチックのカバーに不鮮明に映る己の卑しい面。男は殴りつけるように腕を突き出し、缶を引っ掴んだ。しかしそれはもう想起に足る熱を失っていた。早まる鼓動に心臓が痛む。
 たいした距離を歩いたわけでも無いのに酷く、そう酷く疲れていた。まともな場所を探すのも億劫で男は自販機同士の隙間に体を押し込み腰を下ろす。缶を開けようとしたが指に力が入らず手間取った。指を滑らせる度に鳴る、かつんかつんという音が雑多な感情を鬱積する。実際には大した時間が過ぎた訳ではなかろうが、口に含んだ甘い苦い液体は想ったほどに彼の体を暖めてはくれない。それどころか飲み込む繰り返しの度に彼の体が同じ色をした沼へと沈んでいく様な錯覚さえ覚える。彼の体は内も外も甘苦いものに満たされて重くなっていく。雪は自販機の陰で縮こまる彼も白く染めた。
 彼は我武者羅に泳いで寝転んだ白浜での心地よく沈み込む感覚を記憶の中に求めたが、それさえ今ある現実の積もりに置き換わっていることに気付いて、声も出せずに泣いた。零した涙が足元の雪をほんの少し溶かしたが、彼が残したものは結局それだけだった。

忘夏現冬

読了感謝。

忘夏現冬

男がただ過去を思い出しながら歩くというだけの話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-25

CC BY-NC-ND
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