ひとかけら

「きっと君も、色んな事を忘れているよ」
 そう言って、僕は俯いてしまった。頭上に積もる現実の重みに耐えられなかった。土に向かって僕は言う。
「そうやって、また新しい何かを見つけて、別れて……」
 彼女の表情は見えなかったが、僕のつぶやきを受け止めた土が、そのまま彼女の表情を語っていた。「だから何だって言うの」と。
 
 僕には自分が分からない。いつからか、そう思うようになっていた。彼女と別れてからだと思う。傷心からではない。僕が彼女を一方的に捨てたからだ。僕が逃げだした時、彼女は泣いていた。それにも構わず、僕は走った。とにかく自由になりたかった。なるべく人と関わらないように生きたかった。自分が傷つきたくないからなのか、誰かを傷つけたくないからなのか。僕には分からない。分からないことだらけだ。それでも僕は、所謂広い心を持てるようになっていった。これが大人になるという事なのか。と、不意に感じる。生きる意味、生まれた意味。こういうものに絡みつかれ、息苦しかった時期もあったが、今はほとんどそんなものは感じられない。
 広い心を持つことは、諦観から始まると思う。許すことからと言ってもいい。過去の自分を許す。今の自分を許す。未来の自分を許す。諦める。諦める。諦める……。

「私ね、今度結婚するんだ」
 彼女は言う。結婚。僕には無縁の言葉のように思えたけれど、結婚という言葉が無意識に頭の中に響いた。
「君よりもずっと良い人だよ」
 僕に微笑む。嘲笑ではない、むしろ悲しげな微笑みだった。僕も彼女に微笑んだ。たぶん、悲しげな微笑みだった。
「だからさ、君も見つけなよ。私より良い人」
 僕は、言葉を飲み込むことしかできなかった。

 何にも期待しない。他人にも、自分にも。裏切られないためだろうか。それとも、何にも価値を見出せないでいるだけだろうか。今となっては、何もかも無価値に思える。見えている輝く何か、価値ある何かのすべてが等しく僕から離れていた。この感覚は何だろう。これが正しいとは思えない。けれど、今更この考え方を変えることが出来るとも思えなかった。
誰もがそうだ。無価値なものに必死になって無価値なものにしがみつく。無価値の塊をすり潰して作った絵具を、全身に塗りたくっているのだ。
 
「君は幸せかい?」
 その声は、ずいぶん遠くから聞こえてきた。
「私は幸せだよ」
 その声は、僕の中から聞こえてきた。

 気づいているのは僕だけじゃないんだ。きっと、彼女も気づいている。小さい頃の夢とか、過去の過ちとか、気づいているけど諦めている。そう、みんなそう。だから僕たちは恋をする。だから僕たちは愛を求める。求めなければ生きてゆけない。そう神様に設定されているんだ。
 全てが分かったような気がして、全てが分からないような気がする。透き通っていて……このまま溶け込んでしまえそうだ。
 
「泣いてるの?」
 彼女が心配そうに僕を見る。
 僕も彼女を見る。
 見つめ合う。
 彼女の瞳の中に僕が居た。世界にひとかけらも溶け込めていない。紛れもない、僕。
「ああ、僕って本当に、生きているんだな……」
 胸が熱くなって、苦しくなって、からっぽの僕なのに、涙が止まらなくて、悲しくて、どうしようもなかった。
「当たり前でしょ」
 彼女はそう言って笑うと、僕にキスをした。

ひとかけら

ありがとうございました。

ひとかけら

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted