水色のランドセル

小学校四年生か五年生か、そのくらいの年代のときのこと。
電車もない田舎のまちの小学校に、水色のランドセルを背負った少年が転校してきた。
毎朝地区ごとに列をなして学校へ向かう黒と赤の集団の中で、その水色はとても鮮やかで、人目をひいた。
田舎に住む私たちにとっては物珍しいものだった。
しかし、私たちの好奇の目はいつしか悪い意味を持つようになってしまった。
彼は「水色の子」と認識され、「ランドセルは男の子は黒が当たり前なのに」「変わってる」などと、彼を非難するような言葉が陰で聞こえるようになった。
「昔からそうだから」などという馬鹿げた言い分で、私もそれに同調していた。

今感じるのは、あまりにも無邪気に、罪の意識を持たず人を傷つけていたことへの罪悪感と恥ずかしさである。
そして、多様性や個性というものを蔑ろにし、集団こそが正しいと、あまりにも閉塞的な認識をしていた小学生の自身が恐ろしくなる。
あのときの閉鎖的な田舎こそが世界であった世間知らずな自分を叩きのめしたくなる。
心の奥底で、鮮やかな水色のランドセルを持つ彼が羨ましかったのだろうか。
いや、当時の私は人とは違うものを持つことを極端に恐れている子どもだった。
私のいる場所が、人とは違うというだけで後ろ指をさされる子どもの社会であることは私もよく分かっていた。

年々カラフルになるランドセルの宣伝を見るたびに、下を向いて歩く水色のランドセルを背負った彼の姿が蘇り、苦い感情が湧き上がる。
選択肢が増えた現在、多くの子どもたちは自分の好きな色や柄のランドセルを背負って学校へ通うことができる。
私が住んでいたまちは、相変わらず電車もなくて、少子高齢化が進む一方である。
かつて通っていた小学校も、二つあったクラスが一つになり、他の小学校と合併するという話も出ているそうだ。
ランドセルが多様であることが当たり前になったように、現在のその場所に通う子どもたちも、お互いの唯一無二の個性を認め合えるように変化していてほしいと思う。

水色のランドセル

水色のランドセル

あのときのこと。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-24

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