余談

 長々と私の人生を振り返ってきた訳だが、そんな中であらためて気づいた事もある。
 例によって私の主観ではあるが、自分が何を思っていたか、当時の行動がどういう意味であったか、そんな事を並べていこう。

 例えば、彼に対する私の感情である。
 これまで彼には散々な目に合わされてきたわけだが、不思議と怨恨めいた感情は抱いていない。
 まあ学生当時はまた別の想いもあった訳だが、今となってはそれなりに納得できているのだ。
 つまるところ、彼は災害のようなものなのである。
 台風や地震、雷等で大きな被害を受けたからと言って、風や地面や雨雲を恨む人は、そうそういないだろう。
 まあ、私や母親を殴って手に入れた障碍者年金で遊びまわっているのを見ると、不快に感じてしまうのは私の不徳だろう。
 また、自然災害で被害を受けた人なら、恨みは抱かずともそれ自体を嫌いになる事は止むを得ないのではないだろうか。
 少なくとも私は、彼が嫌いである。

 私の父親は多弁な人間ではない。
 それだけに、その内心を推し量るのは簡単ではないし、正直分からない事が多いのだ。
 とはいえ、その寛容さと人格は、私などとは比較にもならない程の立派なものであり、尊敬に値する人物だ。
 戦中戦後を生きて来た事を思えば、私の言う苦労など屁でもない様な経験をしてきた事だろう。
 それを考えると自分自身が情けない事この上なくも思えてくるのだが、まあそれはそれで仕方ないのである。
 もちろん、この世に完全無欠な人間はいないし、この父親もまたそうであった。
 例えば、彼に対する時父親は、両親が決めた方針もあるのだろうが、消極的な立場を貫いていたように思う。
 力のある父親が彼を抑え込んでくれればと思った事は何度もある。
 とはいえ、正解が無いに等しい問題に対して、その選択をせざるを得なかったその心情は、十分に察することができるのだ。
 私や母親が殴られている所を見て、何も感じなかった筈がない。
 私はこの人物の事が好きである。

 私の母親は父とは対照的な人物といえる気がする。
 多弁でお節介で大抵の場合はその一言多い言動が周囲を煽って止まない性格だ。
 怯む事無き態度で彼に接し、彼の病気と最前線で戦ってきたのは間違いなくこの人である。
 彼の病状が幾らか改善したというのなら、それは間違いなくこの母親の功績だ。
 当然この人物にして、平坦な人生を送っているはずも無く、私より楽に生きて来たなどという事は決してないだろう。
 その性格は強烈であり、悪い部分の幾らかは、確実に私へと受け継がれているように思える。
 例えば、自分が悪いと解っても謝罪しない、メディアの情報を鵜呑みにする、思い込んだら一直線で決して意見を曲げない、人の言葉に耳を貸さないし、相手の意見を覚えている気が無い、言動の全てが周囲を煽って入るようにしか思えない、等々である。
 私自身はそこまで酷くない、と思っているが、似たような所があるのは否定できないのだ。
 確かに尊敬に値する人物ではあるが、同属嫌悪という言葉もあるように、正直なところ嫌いである。

 前章までで大きく端折った部分ではあるが、上3人の兄について。
 ここでもまとめているので大雑把な感は否めないが、3人とも良い兄である事は間違いない。
 それぞれが、行動力や社交性、寛容さやユーモアに溢れており、憧れこそすれ、嫌いになるような要素はほとんどない。
 例えば一番上の兄などは言葉遣いが乱暴だったりする事もあるが、陰湿な言葉を聞いた事は一度も無い。
 二番目の兄などは、私生活でいい加減そうな所がある気がするけれど、兄弟の中で私が一番好きなのはこの人だ。
 三番目の兄は、一番しっかりした兄だと思うし、間違いなく一番面白い人物だろう。
 歳の離れた兄達であり、この兄達と接する時間が短かったのは、私の人生で大きな損失であった。
 そして、ここに彼の名を連ねることが出来ていたとするなら、私の人生はどれだけ恵まれたものになっていただろうか。
 まあ、そうなっていれば、今度は恵まれ過ぎていて駄目になっていたかもしれない。

 私の実家には父方の祖母も暮している。
 戦争で夫を失い、その後は再婚することもせず、戦後の時代に息子と娘を大学にまで行かせた人物だ。
 その人生をまとめれば、ちょっとした朝の連続テレビ小説よりも、よほど起伏にとんだものになるだろう。
 掛け値なしの善人という訳では無かったとは思うけれど、私自身は間違いなくおばあちゃんっ子という奴だった。
 同じ家で暮らす彼に対しては、常に一定の距離を守っていて、深く関与することはしていなかった。
 とはいえ、彼の暴力から逃げる私を匿ってくれた事などは数え切れないほどにある。
 私が学校から帰宅して、玄関から家に入っていけば彼に気付かれてしまうのは必然だ。
 両親や祖母は、あと数時間は仕事場や出先から戻らない。
 私は彼と二人にならざるを得なくなるし、すぐに出かけるとしても顔を合わせないのは至難の業だった。
 そんな時でも、祖母が自室の縁側の鍵を開けておいてくれたおかげで、難を逃れられていた事が心に残っている。

 そんな祖母も、現在は高齢である事もあり、健在とはいえない状態だ。
 他の孫の誰よりも、その祖母の介護に携わる事が出来たのは、私のちょっとした自慢である。
 しかし、とある面接の場で、皮肉たっぷりに言われた事がある。
「自分の世話も出来ないのに?」
 空白の期間にしていた事を問われ、いくつかの事柄を例示した中で、祖母の世話を指しての言葉だった。
 最もな言葉だろう。
 祖母に請われた訳でもないし、私がそれをしなければならない理由はないのだから。
 しなくてもいい事をしていたのは何故だろうかと考えた。
 多分それは、昔の恩返しというよりも、日々弱っていく祖母に対する情けからである。
 そして、情けは人の為ならずという言葉通り、それは祖母の為ではなかったのだろう。

 私の関わった人物で、もう一人挙げなければいけない人物がいる。
 田舎に住む母方の叔父で、私が高校卒業後に上京する際、この叔父が思わぬ援助をしてくれた。
 あの期間が私にとってどれだけ大きなものであったかを思えば、決して忘れる事は出来ない人物だ。
 人柄は真面目で不器用といった感じであり、運と縁に恵まれず、現在は独り身で母方の祖母の介護を担っている。
 一時期は無理がたたって心身を持ち崩してしまい苦労していたが、今ではなんとか持ち直している。
 私などが言うのは不遜な限りの言葉ではあるが、その人柄ゆえに所々で危なっかしい気がして仕方が無い。

 何年か前に、この叔父が訳の解らない輩に目を付けられ、怪しげな国際結婚に及ぼうとした事があった。
 それを知った私が躍起になってあれこれ動いていた姿は、傍から見ればどのようものだっただろうか。
 人知れず苦労を重ね、そのせいで追い詰められ、更なる不幸に見舞われそうになる叔父を、私は放っておく事は出来なかった。
 それが事実かどうかは解らないけれど、少なくとも私にはそう見えていた。
 助けてあげないといけない、そう思った。
 そしてそれはきっと、恩返しであるとか叔父の為という話では無かったのだ。

 祖母や叔父に対する私の行動は、ではどのような意味を持っていたのか。
 それは、私の身勝手で幼稚な想いから出たものであり、全く持って無意味な行動でしかなかった。
 私が弱っている時は、誰かに助けてほしい。
 私が何も言わずとも、苦しみを察して手を差し伸べて貰いたい。
 私が祖母や叔父にそうするのだから、私も誰かにそうして貰いたかったのだ。

 なんとも馬鹿な話である。
 そんな事、誰にも出来るはずは無いのである。
 そもそも、私が絶え間ない暴力を受けて育ってきたという事を知る者は殆どいないのだ。
 その中で、彼は自他共に認める永遠の被害者であるから、自分が加害者だなどとは夢にも思わないだろう。
 祖母は既にそういう事が期待できる段階ではない。
 そして両親は、私が普通に育たなかった理由が思い当たらない位に、私が安穏として生きてきたと考えている。
 私自身が過去を誰かに吹聴して回る事はないし、両親もまた同じだろう。
 他の兄達や親戚は、私がそんな暴力の中で育った事など知りもしないのが当たり前の現実なのだ。

 そんな中で、誰が何を察して、私の何に手を差し伸べるというのか。
 口では何があっても仕方がないと言いながら、何と無駄な期待を抱いていたのだろうか。

 私はもう、そんな無駄な事は何一つしなくてもいいのである。

余談

余談

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-24

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