月を呼ぶ

「月、綺麗ですね」


 少女はベッドの上に横たわり、顔は夜空を見ている。
看護師の男は思わず聞き返した。

「詩帆ちゃん、今なんて言ったの?」

 彼女は相変わらず外を見たままで、今度は何も言わなかった。
手元のバインダーに挟んだ紙に、
「605号室、深見詩帆、何か呟く。‘月、綺麗ですね’と言ったように聞こえた。
 その後呼び掛けるも、クランケに反応はない」と走り書く。
 この病院の看護師は二交代制で、引き継ぎは四時半に女性看護師の飯田さんからいつも受けている。
その際の申し送りで、605号の深見詩帆に関しての飯田香織の記録と、俺、桐嶋秋の記録では相違点がある。


「…次に605号の深見さんですが、今日は体調の如何の呼びかけに対して『大丈夫』と答えました。
それ以外は一言も話していません。今後とも経過を見ていきましょう」

 俺が勤務する某市立病院で、言語聴覚士資格を持つ看護師が、この若く真面目を絵に描いた様な飯島と、
俺だけなので、自然と失語症患者は二人だけで受け持っている。
 彼女の話しを上辺だけ聞きながら、意識は引き継ぎされたカルテや記録の束にあった。

「605号室深見詩帆、都内私立の高校2年生、5階のビルから飛び降りるも未遂に終わり、
奇跡的に外傷はほとんど見られなかったが、左前頭葉、補足運動野を損傷、超皮質性運動失語を発症する」

 超皮質性運動失語とは、自発性が著しく低下した発話、対照的に良好な復唱能力、比較的良好な理解能力を特徴とする失語症だ。
要するに言葉の内容などを把握し理解しているが、自発的な発言がほとんどみられないというものだ。
クランケ、深見詩帆もその例に漏れず、自発的な発言はほとんどない。
何度も呼びかけて小声で「はい」、「いいえ」と発するだけだ。
この超皮質性運動失語の場合は、大体一ヵ月から三ヵ月で改善が決まる。
クランケが運びこまれてからもう、一ヵ月半は過ぎた。
少し俺は焦っていた。
焦りは禁物だといつも心に堅く誓ってはいても、まだ若い患者を見ると自然と早く治したいという気持ちに苛まれる。
力んだ肩を落とし、掌を開いたり閉じたりを繰り返す。
こうすれば気持ちが落ち着くと、専門学校時代の先輩から教わって以来癖になった。

「…それと、深見さんですが、桐嶋さんの記録時にのみ自発的発話がみられますね。
 桐嶋さんはそのことについて見解をお願いします」

 俺はこの人が苦手だった。看護師資格と言語聴覚士資格を持っていて、長年様々な勤務に駆り出されているところをみると優秀なのであろう。
そのせいかこの人はとても堅い言葉遣いをする。
クランケは勿論、同僚の俺でもとっつき難いと感じるのだ。

「さあ?夜の方が話しやすいとかじゃないんですか?
 センチメンタルな気分になって話してくれるとか。あとは俺がイケメンだからとかかなあ」

彼女は冷めた鋭い目で俺を見た。

「くだらないことを言わないでください。…しっかり記録を怠らないでくださればそれで結構です。
 昼間に私が障碍領域のアプローチをしているので、夜は簡単な確認をしてください」

 自分の仕事に間違いがあるはずがないという傲慢とも思える発言が危うさを感じさせる。ただ俺が嫌いなだけかもしれないが。
彼女は申し送りを終えると小声で「お疲れ様でした」と言って靴音を立てながら去っていった。
彼女が去ってから再び書類の束に目を遣る。
(たしかに、自発的発言は俺の時だけだ。)
そんな事を考えながら今日の夜勤に入った。


 まだ、他の患者を見回らなければならないが、幸いなことに急変するような病を抱えた患者がいない事が俺の気を緩ませた。
「月、綺麗ですね」と息を吐くように呟いたまだ幼さが残る彼女の傍で、少しぼんやりしていた。

「ほんと。今日は綺麗な月だ。
 …そういえばこんな話、知ってるか?
 月のウサギの話さ。有名だろ?
 なんでウサギがいるかっていうと、昔うさぎときつねとサルがいたんだ。
 そいつらは、世の為人の為に善行を施して人間様になろうって前々から考えてんだ。
 ある日そいつらの前に老人が身をやつして現れた。
 そいつらは張りきって世話をした。
 サルは果物や木の実を、きつねは魚を取って老人に持っていった。
 でもなにもとれないウサギは思い余って、老人に火を焚かせ
 『焼けたわが身をどうぞ召し上がりください』って火の中に飛び込んだのさ。
 その老人は実は帝釈天でウサギの心がけを買って月にその姿を残したんだとさ。
 んでな、この話聞いてから思うんだ。
 このウサギ馬鹿だなって。
 何で生れてきた生を全うしねぇんだって。
 来世だって?笑わせる。
 そんなもんの為に今を犠牲にする奴なんて、
 それこそ来世が良くならないって発想にならんのかねえ?
 まあ来世なんてこれっぽっちも信用してないがな」


 少し嫌みったらしく説教垂れる。
命を自ら粗末にする奴なんて大嫌いだった。
全力で生きて欲しいんだ。
苦しくても逃げて、生にしがみついて欲しいと願っていた。この患者が飛び降りだと聞いた時、
なんでこんな若さで死ななきゃなんねえんだと悔しくて、悲しくて、空しかった。
人生はこんなにも楽しいって思って欲しい。
そんな想いを人に感じて貰いたくて看護師と言語聴覚士の資格を取った。
本当は外科医になりたかったが、俺の学力じゃ到底無理だった。
医療現場に立って、4年が過ぎ、27歳になった。
様々な人と出会ったが、出会えば出会うだけ別れも多かった。
死とも遭遇した。
なかなか家族が引き取りにこない、重度の障碍でこの世を去った幼い女の子の手をずっと握っていたこともあった。
涙が止まらなかった。傍にいなかったその子の家族を死ぬほど恨んだ。
それ以上に助けられなったことも悔しくて。
こんな俺は本当に誰かの役になんて立てているのだろうか。
いつも不安を抱えていた。

「………ウサギ、強く生きてた。
 死に逃げてなんか…………ない」

ポツリポツリと言葉が彼女から洩れた。
驚いて彼女の方を見、すぐさま紙にペンを走らせる。

「…詩帆ちゃん?今俺の言った言葉が分かったのかい?
 嬉しいよ。自分から話してくれたこと。
 ねえ、どうして、死から逃げてないと思ったの?」

 彼女が自発的に再び話した驚きの余り、彼女の言葉に質問してしまった。
彼女は相変わらず外に顔を向けたままで反応はない。
再び声をかけても返事はなかった。
5分待っても反応が無かった為、仕方なくその日は他の患者の見回りに向かった。


「桐嶋さん!605号の患者さんの自発的な発話が見られたそうですね。
 今日アプローチをかけましたが、何度呼びかけてもはい、いいえを小声で返す程度ですよ!」

 次の日の申し送りで彼女は目に見えてイライラしていた。
自分の何処に非があるのか、なぜ俺だけに発話しているのか、理解できないようだ。

「冷静になってください。飯島さん。
 貴方は優秀な方です。
 でも、人には相性と言うものがあるでしょう。
 運が悪かっただけです」

彼女は苛立った顔を崩さない。

「桐嶋さん、この2ヵ月が勝負です。
 しっかり注意して診ていきましょう」

 昨日のことがあるからならべく今日はもっと傍にいれたらと思った。
深見詩帆は今日も窓の外を見ていた。
いつも昼間は寝ていることが多いらしい。
夜目覚めているのか?
そんな疑問を浮かべながら、

「眠れないの?」

と話かけた。
返事はなく、外を眺めていた。
回り込んで窓際に立ち、彼女の顔を見た。
意識がぼんやりとしているような様子だ。

「昨日話したこと覚えている?」

 彼女は少し俺の顔に焦点を合わせようとするが、少し遠くを見ているようにぼんやりとしている。

「月好きなの?」

 その言葉に本当に微かではあったが頷いた。

「昨日の月は、十六夜、今日は立待月。
 なんで立待月かっていうと、
 立ってぼんやり待ってるうちに上ってるからなんだって。
 …それで昨日言ってた意味教えてくれる?」

 突然話題を変えて核心を突く。
彼女がようやく俺と視線を合わせる。
そして目でなんのことって訴えてくる。

「無理して話さなくてもいいけど、キミの声がもう一度聞きたくて質問してみてるんだ」

我ながら恥ずかしい事を言ってるなと思いつつも、その気持ちは半分本当だった。
もう半分は言い返してみろという幼い意地悪のようなものだった。
昨日の俺はどう間違っていたんだと。
微笑みを浮かべながら彼女を見る。
切れ長で物憂げな目、薄い眉、色の薄い唇。
儚げで今にも消えてしまいそうに見えて少し胸が苦しくなった。

「…月は私。私、今まで…照らされてた。
 自分…光…。それ、…いやだった。
 いやだったの」

凄く小さいけれどはっきりと意志の込もった声。
思ったより低めで、張りのある声だった。

「なにが嫌だったのかな?」

喜びを押し殺して、静かに彼女に合わせるように返事を返す。

「…まわりの人。…みんな。…ともだち。…さきちゃん。
 ひとに照らされないと………みんなきづかないの。
 わたしは…だれかといないと…きづかれないの。
 きづいたらみんな…から…………きづかれなくなってた。
 さきちゃん…………いない」

外は木々が揺れる音が微かにする。
月が優しく彼女を照らす。

「うさぎはわたし。
 みんなにきづいてほしくて……。
 うさぎはきづいてほしかった……。
 死んでもかみさまにみてほしかった。
 こんなにも生きてる……だれかのために…って」

幼い子供が話すようにたどたどしく、不安げ。
中身はブラックコーヒーのようにホロ苦く、静かに染み込んでいく。
少し毒気を抜かれた。
彼女の言葉が解らなかった。
ただ、耳に入っていく小さな声が心地よかった。

「だから、飛び降りたの?」

気持ちとは裏腹に、彼女を責める様な言葉を吐く。
香辛料をたっぷり効かせたゲーン・ペットのように。
わざと意地悪な声色で。

「……ばかみたいだけど。
 わたしにはいちかばちかの挑戦。
 でも…ほんとはこわかった」

2月の雲が無い日、外は寒々しい月が浮かんでいる。
彼女の布団から覗かせていた手が僅かに震えている。
空調管理がしっかりした部屋で、寒くて仕方がないといった風に。
俺は思わず彼女の手を握った。

「…ばかやろう。
 …でも生きててよかったな」

俺は彼女の顔が見ることができなった。
僅かに握り返してきた、重なる二つの手をただ見つめた。
昨日今日で彼女の印象が変わっていた。
この感情は何か知っていたが、あえて口にしなった。

「というか、きみ、喋れるじゃん。
 もっと色んなこと話したい。
 もっと声聞かせてほしい」

秘密事めいた、押さえた声。
自分で自分の声に驚いていた。
グッと感情が籠もった声。
たった二日で急速に彼女に近付いてしまった。
躊躇。思案。暗転。

「すまん。他の部屋も見回らなきゃ。
 なんかあったらいってくれ」

自ら握った手を振りほどいて、慌てたように
「605号、自発的発話。文構造もかなり的確な様子。促せば会話も少し可能」
とバインダーに挟んだ紙に書き込む。
混乱する。恥ずかしくなる。下唇を噛む。
バカか。俺は。
一回りも歳の離れた患者になにしている。
自戒。自戒。自戒。

 彼女の目には動揺、不安が浮かんでいる。
どうすればいいのか。
わからない。
逃げ出すように部屋を出て、他の部屋の見回りを始めた。



 勤務時間が終わり、病院近くのアパートに帰ってくる。
久しぶりの三日間もの休暇だった。
でも少しも嬉しくなかった。
今日の病室での光景が頭をよぎった。
コンビニで買ってきた弁当と、ビールをとりだす。
昼間だったが、ビールでも飲んで少し気を落ちつけたかった。


「死んでもかみさまにみてほしかった。
 こんなにも生きてる…だれかのために…って」


 少女の言葉が頭をよぎる。
ビールの蓋を開け、一気に呷る。
理解できなった。
理解してはいけない言葉だった。
認めてしまえば、俺の今までの信念を曲げることになる。
どんなことがあっても生きる。
なんとしてでも生きたいと思わせてやりたい。
でも、彼女はいった。
気付いてもらえないと。
周りから照らされないと気付いて貰えないと。
何があったのかは俺には全然わからない。
しかし、切実な思いがこもった言葉、
俺に向けられたむき出しの彼女の心をどう扱えばいいのか、
怖くなった。
今にも消えそうな顔をして、それでも苦しそうに必死に言葉を告げる彼女。

―ああ、深見詩帆のそばにいたい。



 休みがあけて、かける言葉も見つからないまま病院へ急ぐ。
飯島さんとの申し送り。
彼女が言った言葉に衝撃を受けた。

「彼女三日間全く言葉を発しません。呼びかけにも答えません。
 私は桐嶋さんとなにかあったのかと尋ねると、
 明らかに狼狽したように何も話さなくなりました」

―おいおい、この人なにやってくれてるんだ。

「クランケとの間の詳しい会話内容は詮索しないはずでは?」

悪びれもせず、厳しい目で、

「やはり、何かあった?婦長に言って担当を変えさせましょう」

そう言って足を婦長がいるナースセンターに向けた。
思わず、飯島さんの肩をつかみ、

「やめて……ください。
 この一カ月なにも変化がなかった彼女が先日やっと、少し声を聞かせてくれたんです。
 少し、感情を吐露してくれたんです。
 …患者との会話や状況は言えません。
 ただ、患者を治す為に全力を尽くします」

と切れ切れに言った。
飯島さんは驚いたように目を見開き、

「いつも、ヘラヘラして、不真面目そうにしてるのに意外ね。
 あんたにできるの?」

と挑むように言った。

「相性はばっちりだと思っています」

真剣な声色で、おどけて見せた。

「どのみち後一カ月で貴方、あの子の担当から外れるわ。
 そして彼女も退院ね」

彼女は俺の顔を一瞥して、背を向けて去っていった。

雑務を終え、緊張しながら彼女の病室へ足を向ける。
部屋に入り、彼女を見る。
カーテンは閉め切られ、彼女は天井を何も感情を浮かべぬ目で見ていた。

「ごめん、三日程来れなくて」

彼女はこちらをみようとはしない。

「俺はキミに何があったのかは知らない。
 実は知るのが怖かった。
 今まで生きてきた、俺の知らない、考え方だった。
 どうしても生きてられないような状況だってあるかもしれない。
 誰にも意識されない、誰にも気付かれないなんて辛かっただろうと思う。
 自分がいらないじゃないかと思ったんだろう。
 でも、やっぱり俺はキミに生きて欲しい。
 あの晩、俺に語りかけてくれたあの晩、
 上手に言えないけど……………なんだか……」


 声が詰まる。
静かに彼女に近付く。
彼女は苦しげに顔を歪ませている。
でもこちらの方をみない。
彼女は変化を拒んでいるのだろうか。
彼女は前に進む為にまた飛び降りようと考えているのだろうか。
息が詰まり、自分が分からなくなった。
彼女の不安が伝染し、竦んでしまった。
今日はもう無理だ。


 何も言えなくなってしまった俺は体調や、要望などを軽く聞き扉の方に向かう。
そして扉を開けて去ろうとするとき、後ろから

「次の満月のとき、………」

と聞こえた。振り返って彼女を見ると、既に目を閉じ薄い寝息をたてていた。


「桐嶋さん、605号室の患者となにかあったのですか?」

婦長がこちらを見ながら尋ねる。

「いいえ。なにも」

努めて冷静に答える。

「明日から準日勤に移って頂きます。
なにかあったにせよ、なかったにせよ、
シフトはシフト。
邪推せず受け入れて貰います」
静かに婦長は告げる。

 俺は言い返さず静かにはい、と返した。
今の俺にはなにもできない。
次の満月の日に会えればいい。
約1ヵ月の辛抱だ。

 準日勤で、仕事内容もかなり変わり、慣れない日々が続いた。
生活時間の急な変化に体がついていかず、よく体調を崩した。
それでも、弱る体に鞭をうち、事務室とICUを行ったり来たりした。
入院患者病棟の方には行けなった。
時間帯と仕事内容が変わったせいか、飯島さんとは会わなかった。
彼女一人が深見詩帆の担当になっていた。
どうすればいいかわからぬまま、もやもやした気持ちを抱え、
1カ月を過ごした。


 雲ひとつなく、満月が輝く日。
都合良く、忌引で来れない看護師と代わってもらった。
飯島さんとの申し送りをする。
感情を交えぬ声で、お互い連絡をかわす。
605号の患者の話になる。

「…あの子の治癒は芳しくありません。
 自発話がみられません。
 返事もしません。
 日々気力を失っていっています。
 …私の力不足でした。
 退院後話せるようになれる望みは低いと思います。
 すいませんでした」

 彼女は悔しそうに俺に頭を下げた。
深見詩帆はもう、消えようとしているのだ。
それを感じ、急いで彼女のもとに向かった。


―暗闇の中に浮かぶ十六夜の月の光を浴びる彼女がいた。

 彼女はベットからでて、窓辺に立ってこちらを見ていた。



「綺麗な、月ですね」



彼女の口がそう動く。

月に照らされる彼女はとても美しかった。
そして、涙がでる程儚かった。


「ああ、綺麗な月だ」


静かに返す。

彼女が微笑む。

初めてみた笑顔。

伝えられるだろうか。

彼女が月が綺麗だといった日のことを思い出す。

あの日から抱えているこの気持ちを。

それとも今ので伝わったのだろうか。

いいや、やはりきちんと言おう。

「一緒に生きてください。
 誰かに照らされないと生きれないと貴方が言い張るのならわかりました。
 俺が隣にずっといます。
 いっぱい話しかけます。
 いろんなこと話せるようにします。
 だから……。一緒に生きてください」


彼女は静かに、

「はい」

とだけ答えた。

月を呼ぶ

ただ過去に書いた作品を焼き直しただけ。

月を呼ぶ

病室から月を呼ぶ少女の話。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-01-18

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