私の人生
人にはそれぞれの主観というものがあって、立場が違えば世の中の見え方、物事の捉え方ががらりと変わってくるだろう。
他人からすればほんの些細な出来事であっても、当人に言わせれば人生を変える重大な事件であった、なんていう事だってある。
ここに綴っていく諸々の事柄は、私の主観に満ちた、私の人生だ。
これを読むあなたから見た私の人生と比べて、良いか悪いか、幸か不幸か、是非とも比較してみて欲しい。
私には4人の兄がいる。
上の3人は歳が離れている事もあって、接する時間も短いものだった。
3人はごく普通の兄であり、それだけに私の人生に深く関わってはいない。
私の人生に大きな影響を与えたのは、4歳年上である一番下の兄である。
彼は精神病を患っており、それは激しい暴力を伴うものであり、その標的となったのが私と母親であった。
幼い頃の兄弟喧嘩というのはどの家庭でも起るものであり、年子でもない限り弟に勝ち目は存在しない。
まして小中学校に通う歳頃の子供にとって、4歳という年の差は絶望的な数字である。
それでも、兄弟喧嘩などというものはたかが知れたものであり、弟が泣かされればそれで終わるものだろう。
我が家の場合は事情が異なっていた。
私が泣き叫んでいても、暴力は途切れないのだ。
彼からすれば、私の泣き声が癪に触り、それが更なる暴力を振るう引き金となっていたのだろう。
部屋の隅で泣きつかれている私をみて、目障りだと更なる暴行が加えられるのである。
私が小学校の高学年になる頃に、彼は入院する事になる。
彼の暴力に耐えかねた私が、逃げる様にして部屋に立て篭もった日の事だった。
彼が精神病であると知ったのはその日以降の話である。
それを私に説明する両親が、どんな風に語っていたのかはっきりとは覚えていない。
その頃の私には、精神病というものがどんなものであるのかさえも分かっていなかった。
それからしばらくの時間が過ぎ、彼が退院して自宅療養する事になる。
その日以降、私は精神病がどういうものであるかを、本やメディアの知識ではなく実体験を通して知る事になった。
精神病とは、妄想と暴力だ。
本に書かれているような正確なものかどうかは別として、私が体感した現実がそれである。
彼の中で蠢く妄想でその日の機嫌が左右され、その結果が悪く転がると弱者への暴力という形で表出するのだ。
当時の私に何が出来ただろうか。
時を経た今ならば対処方は分かっているし、どうすれば自分が暴力から逃れられるかも知っている。
それは単純な話で、力の限り反撃すればよかったのである。
彼は自分より強い者には手を上げない。
私が反撃するのだと知れば、迂闊に暴力を振るう事はしなくなっただろう。
事実、私への暴力はほぼ無くなったのは、体が出来てきた頃と一致する。
しかし、中学生の私には、いや、高校へ進学した頃であっても、彼への反撃は難しかった。
私の心には、彼からの長年にわたる暴力によって、大きな傷と根深い恐怖が植えつけられていたからだ。
そして更に言うなら、その傷は私が高校を卒業して家を出る日まで、絶える事無く刻まれ続けていった。
とうの昔に彼の暴力を克服し、30歳を越えた今であっても、彼の喚き声を耳にすると身体が強張ってしまうのだ。
そんなトラウマ醸成中の私がした事は、彼の機嫌を敏感に察知しつつ、出来る限り近づかない事だった。
とはいえ、同じ家で暮すのだから、顔を合わせるのは当然であり、雷が聞こえるよりはずっと高い頻度で暴力を被るのが日常だ。
酷い暴力を受けた時などは、思い切って両親に助けを求めた事もある。
まあ、考え無しの子供の事であり、率直に彼を隔離してくれと頼み込んだのだ。
逃げ場も無く、他に頼れる者もなく、心の底から助けて欲しいと訴えたとはいえ、そんなものが聞き入れられるはずも無い。
両親にしてみれば両方とも自分達の子供である。
まして、暴力を受けている年少者とは言え、弟の方は健常者であり、兄の方は重い病気を抱えた社会的弱者なのだ。
今でこそそんな事情も理解出来る訳だが、子供であった私はそこまで物分りが良くなかった。
だからといって何が出来る訳でもなく、2度3度と同じ事を訴えて、ようやく当時の私なりに理解は出来た。
両親に何を言っても無駄であり、彼の行いにはただ黙って耐えるしかないのだ。
心も体も出来ていなかったその頃が、私の人生で一番辛かった時期であり、そんな頃に、私は助けを求める相手を失った。
どんな環境であれ、時間と栄養があれば体は大きくなるものである。
体の成長と共に、彼からの暴力は目に見えて減っていく事になるのだが、それで私が救われたかというと、そうでもない。
私への暴力が減った分、その矛先は母親へと向かっていく事になる。
どこの家庭でも母親のお節介に対して子供が怒鳴り返すというのは珍しくもない光景だろう。
我が家ではそんな日常の光景と一緒に、殴る蹴るの暴力が加わっていた訳だ。
別に自分が殴られなくなったのならそれでいいじゃないか、そう思う方はいるであろうか。
私だって普通の学生であり、人並みに母親を煩わしく思っていたし、怒鳴り散らした事も一度や二度ではない。
だからといって、その母親が殴られ、蹴られ、顔に痣を作っている姿を見て、ざまあ見ろ等と思う事は決して無いのだ。
では、そんな時に子供が何を思うのか、私が何を思ったか。
暴力を振るう事は悪い事であり、彼のしている事は悪い事だ、そう思ったのである。
その頃には体格も大して変わらない相手であり、現役で部活動をしていた分、既に私の力が勝っていたかもしれない。
そんな私は、日常的に目の前で行われる非道に対し、最後まで見て見ぬ振りをした。
明らかな悪行を目の当たりにして、それを止められるだけの力がありながら、一度も彼の暴力を止める事はしなかったのだ。
理由はいくつもある。
止めた後の反撃が怖かった、当時の私は彼を怒らせれば本当に殺されかねないと思っていた。
そうでなくとも、これまで積み重ねられてきた彼への恐れだけで手を出す事は難しかっただろう。
勝てるかどうかも分からない相手に、復讐を恐れず向かって行く勇気など持ち合わせていなかった。
更に言えば、大義名分と言えるものだってあった。
両親の方針が、彼には決して反撃せず、出来るだけ興奮させないように接するというものだったのだ。
ある時、彼が母親に暴力を振るう場面を、家を訪れていた一番上の兄が目撃したことがあった。
普段からそんな事が起こっていると知らない一番上の兄は、その場で彼を怒鳴りつけ折檻してのけた。
力の差は歴然であり、彼はまともな反撃すら出来ない。
そこへ母が必死になって止めに入り、一番上の兄に止めてくれと懇願してその場は収まり、彼は逃げる様に退場した。
しかし、そこで話は終わらない。
その場から退散した彼は、力で適わないと見るや、今度は別の手段で反撃にでたのだ。
一番上の兄が乗ってきていた車のボンネットに、硬貨ででかでかとバカの二文字を大書して見せたのである。
その後で彼は、勝ち誇ったような顔で一番上の兄にそれを告げると、再びその場を逃げ出した。
被害を確認した一番上の兄が、再び彼を折檻しに向かう所で、母親がすがり付いてそれを阻止する。
「弁償は私がするから、あの子は病気だから、後生だから収めてくれ」
そこまで言われれば、一番上の兄としては黙るしかない。
彼からの謝罪も無く、彼へのお咎めも無いまま、この一件は終了した。
ただ、その後は、他の兄がいる前でだけは、彼が母親に暴力を振るわなくなったのが、成果といえば成果だろう。
まあ、他の兄が家にいること自体が稀なので、大勢に影響が及ぶことはなかった。
一応断って置くが、一番上の兄がそういう行動に出たのは当然のことなのである。
一番上の兄は学生時代に荒れていた時期があり、その頃に母親に向かって手を上げたことがあったという。
その時ばかりは、普段温厚な父親が見事に一番上の兄を制圧した、という話を私は一番上の兄から聞かされた。
なるほど、武勇伝というものは、他人の口から語られてこそ格好のいいものなのだと感心したものだ。
そんな過去を持つ兄であるから、同じような場面に遭遇すれば、父親と同じく止めに入るのは当然の行動だろう。
閑話休題。
とにかく、万事がそういった風なのである。
彼がどんな事をしても、まともに咎められることは無い。
どれだけ間違った主張をしても、反論されることは無い。
彼は気の向いた時に暴力を振るい、自分が正しいのだと主張する。
私はそれがおかしいと思いつつも、ただ距離をとり、それを傍観している事しか出来ない。
距離をとるといっても、他の兄達のように家を出る事は出来ないのだから、嫌でも非道の現場にいあわせる。
そんな環境を指して、平穏だとか幸せだと言えるだろうか。
少なくとも、私はそうは思わない。
結局、直接的な暴力が減ったからと言って、私に逃げ場など無かったのである。
私が逃げ場を手に入れたのは、高校を卒業した後のことだった。
大学進学、とでもなれば万々歳だったのだが、残念ながら私には意欲、学力ともに不足していた。
それでもバイトで稼いだ幾らかの資金と、両親や遠方に住む叔父からの助けもあり、家を出て一人暮しする所まで漕ぎ着けた。
また、家を出る直前の時期に、彼から久々の暴力を受け、初めて返り討ちに出来たのは、それなりの自信に繋がった。
彼にそんな意図は無かっただろうけれど、良い餞別になったと思っている。
実家を離れての暮らしは4、5年程続き、結局私は何事を成すでもなく実家へと舞い戻る事になる。
バイトと親からの援助で食い繋いだ無為な期間ではあったが、それでも私にとって大きな助けになったのは事実である。
この数年間のおかげで、心には幾らかの余裕が出来たし、申し訳程度ではあるが社会経験を積む事も出来た。
周りを見て、自分を見て、将来を見て、それらは学生時代の私では出来なかった事だった。
そして、そうしてみた時に、私が漠然とした不安を予感したのもまた事実である。
実家へ帰り地元で就職した時に、その不安は現実となった。
私には、社会生活を送る為に必要な能力が欠けていたのだ。
自分で言うのもなんだが、私は悪人ではないし、仕事に対して真面目に取り組む人間だ。
酒も飲まないし、タバコも吸わない。
派手なギャンブルもしないし、浪費癖もないから、借金などとも無縁である。
黙って仕事をしていれば、自然と貯金が出来ていくタイプの人間だろう。
しかし、仕事が続かないのだ。
その原因は人間関係を構築できない事だった。
人付き合いが悪く、たとえ向こうから関係を築こうとしてくれる相手がいても、こちらから破棄してしまう。
そんな調子だから、職場に居場所が無くなり、息苦しくなってすぐに限界を迎えるのである。
限界を迎えた私は、些細なミスでも引きずり続け、フォローされる事も無く、やがて辞表を出す。
その問題は仕事に限った話ではない。
友人と呼べる者がいて、仲違いをした訳でもないのに、その関係を維持しようとしない。
親戚や例え親兄弟であっても、必要以上の関係を持とうとはしない。
どんな悩みを抱えていても、それを誰かに相談することは出来ないし、そうしたいとも思わない。
人と関わっていない時が一番安心できて落ち着くし、他人に何かを相談しても無駄であると確信している。
この性分は一生変わらないだろう。
こんなどうしようもない私ではあるが、それでも生きていかなければならなかった。
せめて親の葬式にくらいは出るのが、最低限の孝であると考えているからだ。
その考えが根底にあるから、学生時代に自殺する様な事も無かった。
私があの苦しみから逃れるために死んだりすれば、きっと親は悲しむだろうと思ったからだ。
産んで育ててくれた親に対して、それは余りにも残酷な話だろう。
しかし、薄っぺらいと笑ってくれてもいい。
私の考える孝などというものは、酷く即物的なものだったのだから。
これ以上お前のようなどうしようもない奴の面倒は見きれない。
そう言われた時、大事にしていた孝などと言うものはどうでもよくなってしまったのだ。
だから私はこんな文章を書いている。
誰に話した事もない悩みを、両親の墓の前でだって語るつもりの無かった内心を。
私は今、心安らげる状況で、それなりに穏やかな時間を過ごしている。
私の人生