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秋の鱗雲の隙間に神様を探した。コスモス畑の夢を見てそれだけで満足してしまった朝だった。きらきらした女の子たちの表情に火傷する。報道されなくなった佐世保の事件に抱いた幻想は変わらず。花瓶を立てた空席に戻ってきたあの子。折れてしおれ汚く見苦しいひまわり。続く曇天。彼の存在。またいつかね。明日でもない、明後日でもない、永遠にこないかもしれないそのいつか。ぼろぼろになった日記に書き記された雑念は今日も心を少しずつ腐敗に導いてゆく。全て夢みたいだ。現実はどこにあるのだろう。

「わたしね、父親に、お前は病気だって言われたことがあるの。そのとき、ああ、やっとこのひとわたしのことちゃんと見てくれたって思った。」

「ちゃんと?」

「そう。お前はやればできるんだからって言われることよりも、お前はだめな人間だって罵られる方が楽だった。こんなことあるんだなって思った。」

「柑奈は家族がきらいなの。」

「わからない、わからないけどすきとかきらいとかじゃないと思う。親から子供への愛は無償の愛だ、とかよくいうでしょ、それはただ愛を美化してるだけだと思う。無償っていうのは、見返りを全く要求せずすべて受け入れて愛するってことで、それをしている親がこの世の中にどれだけいるんだろう?って。」

「そうだね。俺はね、ちいさいときから結果を出さなきゃいけない子供だったよ。
すごくうるさく言われたことはないけど、一緒にいるとわかるんだよ、言葉の端々にね。期待と脅迫は紙一重だよ。あのひとたちの希望は重たかった。俺はそれをどうにか叶えてきたから、どんどん重たくなってくばっかりでね。なんでもっとだめな人間に生まれなかったんだろうって思った。親ってのは勝手だから。周りよりはやく言葉を話したり字を書いたり、走るのが速かったりするだけで期待する。話すのが早かったから今度は勉強もできるんじゃないかって思うんだよ。それがどんどんいい会社に入れとか老後の世話をとかはやく安心させてとかってなってくるんだよ。それは見返り以外のなにものでもない。」

「そう思う。」

「ごめんね。しゃべりすぎた。」

「いいよ、柑奈くらげ見たい。」

わたしたちは水族館のゆらゆら揺れる水槽を並んで見ていた。
いるかの背中が傷だらけになっているのがわたしはいつも気になる。
海の魚は怪我をしたら人一倍痛いだろうな、と思った。
あれからだらだらとわたしたちは生きて何時の間にか秋になった。
七夕の日、珍しく張り切って折り紙を切ったり短冊に願い事を書いたりしたのに案の定その日は雨になった。わたしたちは窓枠に腰掛けてお互いの短冊を交換した。
八月に入り学校は休みになった。海にも遊園地にもプールにもお祭りにも行かなかった。二人で部屋でくっついて本を読んだり鼻歌を歌ったり抱き合ったりしているだけで楽しかった。わたしはたくさん笑ったり泣いたりできるようになったし、彼もたくさん笑っていた。孤独な魂は二つになり一つになろうとしていた。
なにもなくて、なにも持っていなくて、明日死ぬかもしれなくて、あと百年生きなきゃいけなくて、そうなっても、隣に君がいたらわたしはちゃんとしあわせだと思った。


「くらげだー。」

「くらげだね、なに考えて生きてるんだろうな。」

「くらげになったら楽かなあ。」

「くらげにもいろいろあるんじゃない。足が絡まるとか。」

「体が透け過ぎるとか。」

「それなりにね。」

「ふーん。」

彼といるのはすごくたのしかった。沈黙が苦にならないひとだった。
わたしがしゃべらなくても、彼がしゃべらなくても、すごく居心地が良くて温かかった。
彼に出会って、聴く音楽も変わったし話せることも増えたし、少しずつ角が取れて、だけど逆に彼を失ったら確実にわたしは死ぬだろうなってこともわかるようになった。
彼はよくわたしに言ってくれる。「柑奈のことが好きすぎて苦しい、全部欲しい。」と。そのたびわたしは涙が出るほど嬉しい。綺麗なだけの、脚色されてぬるま湯に通したような丁度いい好きなんて全然いらないと思っていたから。
わたしは大した取り柄もない、誇れるものもなにもない人間だけど、彼が好きといってくれるわたしは少し好きだった。彼のだめなところやわたしのつまらないところが光って見えるようになった。決して周りのくだらない人間のいうことに耳を傾けないで、いつまでも君は君でいて欲しいと思っていた。
季節はめまぐるしく変わってゆくのに、わたしのそういう核心的な部分は、彼と出会う前も出会ったあとも、変わらないままだった。

"♪And when I awoke I was alone This bird has flown~"

「ノルウェイの森?」

「うんー。すきなの。」

「それって女のひとに騙される歌でしょ。」

「そう、ひとりぼっちの歌。なんかね、」

「うん。」

「なんか、何年経っても国が違っても人間の考えることとか本質的なところは変わらないんだなって。」

「そうだね。ニルヴァーナのカートコバーンもセックスピストルズのシドヴィシャスも、ビートルズのジョンレノンも。」

「うん。わたしはナンシーがいい。コートニーよりもオノヨーコよりも、ナンシーがいい。」

「俺に刺されたいの。」

「うーん。家族にも勘当されて、お金もなくって、この身一つで生きてくのって想像以上にたのしいことなのかなって。失うものがなにもないから。」

「失うのが怖いのは、恵まれてる証拠だからね。」

「せいかい。」

「あとね、柑奈。さっきから柑奈の携帯ずっと鳴ってるけど大丈夫かな。」

それは昨日からだ。今日の朝起きた時点で百件以上のメールが届いていたが、件名を見ただけで下劣な内容だということがわかっていたのですべて削除して無視していたのだ。それを彼に伝えると、

「見てもいい。」

と真剣な顔で聞いた。

「いいけど。」

「柑奈、出会い系サイトなんて登録してないよね。」

「してない、わたし出会いたくない。」

「誰かが柑奈のアドレスと、この内容からいくと顔写真を流出させてる。柑奈のこと盗撮してたやつとかいなかった。」

「知らない、いまの携帯無音のカメラとかあるし、撮られててもわかんないし。」

「とりあえず今日は帰ろう。俺がどうにかしてこのアカウントを消して流出させたやつを見つけて…。」

「見つけて?」

「なんでもない。」

わたしに微笑んだ彼の顔は笑っていなかった。
なにを考えているのか理解できない、理解させない力が働いていた。

「ねぇひーくん、晩ご飯柑奈のうちで食べない?なに食べたい?」

「柑奈、クラスでいちばんお前のこと嫌ってる人間わかる?」

「んん、でもそのひとがやったかは、」

「そういう問題じゃないんだよ。誰。」

「多分、あの横井ってひと。よく大声で笑ってて、ひーくんの前の席の高橋ってひとと付き合ってる…」

「横井…下の名前は。」

「千佳。横井、千佳。ひーくん、わたし大丈夫だよ、いままでも嫌がらせされてたし、だから、」

「柑奈。お前は俺の言うことだけ聞いてればいいから。」

もうなにを言っても無駄だった。
犯人を土下座させるのか殴るのか殺すのかわからないけど、彼の目は既に神の目だった。いくら足掻いても、もう誰も彼には逆らえない。
わたしだって、何度も何度も殺したいと思ったことはあった。けれど、切って捨てることは簡単でも、そのあとの空虚な場所とか怨念みたいものが残るし、人って単体として捨てたらそれで終わりじゃないから面倒で、罪悪感への恐怖もあったから、わたしはいつも心の中で殺しをしていた。それでどうにかしていた自分が凡人にしか見えないほど、彼は恐ろしく神秘的だった。このひとはひとを殺せるんだと確信した。
彼と別れて一人で部屋に篭っていても、わたしはその彼の目だけを思い出していた。
もし、わたしが彼を大きく傷つけたとき、もし、わたしが死を望んだとき、彼はあの目でわたしを殺すだろうか。殺してくれるだろうか。


一睡もできないまま夜が明けた。
眠れない夜は少なくないので寝不足にはもう慣れた。
顔を洗おうと洗面所に向かったときわたしの背中に向かって父が言った。

「さっき連絡網で回ってきたけど、今日は休校になったんだって。」

今日は休校になったんだって。
今日は休校になったんだって。
今日は休校になったんだって。
今日は休校になったんだって?

頭がくらくらした。まさか、と思った。
できるだけいつも通りの声で父に聞いた。

「どうして。」

「なんかー、事故だったか何だったか、生徒が死んだらしいんだよ。今朝発見されたみたいで詳しいことはなにも知らない。柑奈、顔色悪くないか。」

「寝起きだから。ちょっと学校みてくるね。」

「ん、お前もたまには野次馬みたいなことするんだな、珍しい。」

疑われてはならない。
彼はわたしに殺すとは言わなかったけど、あそこまで聞いたらもう共犯も同然だ。
走って家を飛び出そうとした瞬間。
わたしは悲鳴をあげそうになった。

彼が、彼がわたしの家の玄関に笑顔で立っていた。

「……びっくりした。」

「おはよう柑奈。」

「おはよ……、ねぇ、ひーくん学校、事故とか、なに。」

「自殺したんだって、横井千佳。」

吐き気がした。横井千佳。昨日の時点では、まだ彼女が犯人だと決まったわけじゃなかった。自殺?都合よく自殺なんてあるわけがない。考えることは一つだ。

「朝日?」

「なあに。」

「朝日がやったの。」

「ねぇ柑奈。柑奈は俺のことすき?」

「ちゃんとこたえて。」

「俺はこういう人間なんだ。俺にとって大切なのは柑奈一人だけなんだ。
だから邪魔なやつは消す。柑奈を傷つけるやつは消す。俺はね、柑奈に笑ってて欲しいんだ。柑奈をしあわせにしたい。ごめんな、こういう愛し方しかわからないんだ。他にどうやって君を守ればいいのかわからなかった。いまここで、俺が俺のしたことを柑奈に話したら共犯になる。いまならまだ戻れる。なにも知らなかった振りをして俺との縁を切って捨てればいいだけの話なんだ。聞いたらきっとこれからも俺は柑奈をどんどん閉じ込めてしまうことになると思う。頑張って上手くやるけど、嘘をつくのは苦しくて悲しいことだと思う。だから選べばいい。」

答えは決まっていた。
あの日から決まっていた。わたしがもうこのひとから逃れられないことはわかっていた。もうずっと知っていた。いつかこんな日が来ることをずっとずっと知っていたような気がした。わたしには、失って困るものなんてなかった。彼以外。

「……ありがとう。」

「どういたしまして。」

「ありがとう。朝日の愛に恥じないような人間になります。」

彼は優しく微笑んでわたしのことを抱きしめた。

光がすべて明るいわけではなかった。
死んだと思って生きよう。
この世界から逃げることができないなら、わたしはあなたと一緒にいよう。
わたしたちが、どこかに生きていなければならないなら、一緒にいよう。

「柑奈は俺の天使だから。」

「朝日はわたしの神様だから。」

「オムライス。」

「オムライス?」

「柑奈が言ったんだよ、きのう、なに食べたい?って。俺ずっとそれ考えてたんだから。」

「いいよ。」

わたしの愛する男の子は、わたしに作ってもらう料理のことを考えながらひとを殺したんだ。聞くべきことはたくさんあるのかもしれなかったけれど、わたしは彼になに一つ聞かずにオムライスを作った。それを彼は笑顔で食べた。

夕方になって、ニュースでわたしたちの高校のことが報道された。
横井千佳は屋上に遺書を残して飛び降り自殺をしたらしい。手首から血が流れていたため、リストカットをした後に飛び降りたのではないかというのが鑑識の見解だった。
遺書の内容は彼氏と上手く行っていないことと担任からのセクハラに耐えかねた、ということらしい。横井千佳が彼氏の高橋亮太と喧嘩をしているのはクラス全員が目撃している事実だった。さらに彼は、わたしが担任からセクハラを受けていたことを女子の噂話から知り、横井千佳と担任の両方を陥れるためにこの遺書を残し自殺に見せかけ殺害したと話した。
インタビューを受けているクラスメイトは、「自殺するような子じゃなかった。」「いつも明るかったから悩みに気づいてあげられなかった。」「担任からセクハラを受けていた女子生徒は多数いた。」などと答えていて、彼はそれを満足そうに見ていた。


「ねぇ。」

愛するひとの横顔に話しかける。

「ん?」

返事をしてくれるのがうれしい。名前を呼ばれるだけでうれしい。
わたしはこのひとに助けを求めていいのだろうか。助けてくださいと、縋り付いていいのだろうか。そうなってしまったら、暗くて悲しい場所からいよいよ自分が抜け出せなくなりそうで怖かった。

「わたしたちは地獄に落ちる。」

「うん。本望だよ。」

「どうしてえんま様は、地上で悪いことをした悪人を懲らしめるのにあんなに悪魔みたいなんだろう。」

「ね、喜んで悪人を迎えてくれても良さそうなものなのに。」

「神様とえんま様、どっちがつよいかな。」

「どうだろう。所詮俺は柑奈の神様でしかないから。」

「うん。」

「でも柑奈は俺の世界だから。」

「うん、朝日は今晩嫌な夢を見たらいいよ。」

「そうなの。」

「うん、かなしい夢を見たらいい。目覚めたときに、今度はわたしが朝日のことを救えるように。」

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  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2014-09-24

Copyrighted
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