ツキノミチ

ツキノミチ

 玄関のドアを開けると今日も朝から風が冷たい。1月の初め、高校2年3学期の始業式。
「行ってきまーす」
 家の中に向かって声をかけてみるけれど返事は無い。パパはとっくに仕事に行ったし、ママは自分の出勤準備で余裕が無い。反抗期の中学生の弟が返事をくれるはずもない。
「つまんねー家」
 ドアを閉めてエレベーターへと向かった。マンションの8階から1階まで、一気に降りて行く。途中で誰にも止められずに1階まで降りられた日は何かいいことがある気がする。運をかけていつもエレベーターの1のボタンを押す。今日は一気にエレベーターは1階まで降りた。
「よっし」
 小さくガッツポーズを作ってエレベーターを出る。

 物心付いた頃から家の中は嫌い。学校のが好き。外で遊んでるほうが好き。みんな仲のいいフリをしてるだけの家族だから、居心地が悪いんだ。

 マンションの入り口の花壇のヘリに、もたれるようにトワが立っていた。ダウンのポケットに両手を入れて、首に巻いたマフラーに顔を半分うずめて。すぐ傍には乗ってきた自転車が停めてある。
「おはよ」
 私に気付いたトワが顔を上げて挨拶をした。
「おはよう」
 近づいて行くと、同じタイミングでトワは停めてあった自転車のスタンドを外した。毎朝待っていてくれて、自転車の後ろに乗せてくれる。トワは隣のクラスの男子。1年の時は同じクラスで、その時に仲良くなった。念のために言っておくけど、付き合ってはいない。けど毎日一緒に学校に行って、一緒に帰る。
「ねぇートワ、お正月どっか行った?」
 トワが先に自転車に乗って私を待ってくれる。その間にそんな質問をしながら、自転車の後ろにまたがるように私が乗る。
「ううん、親戚がうちに来てたから」
 座ったまま後ろを振り向き気味にトワが答えた。
「ふーん」
「なぁサエ、そんな風に座ってパンツ見えないの?」
 短くしたスカートから見える足をちらっと見てトワが聞いた。
「平気、インナー履いてるから」
 そう言って私はわざとスカートをめくって中に履いてるショートのインナーパンツを見せた。
「ふーん。けど寒そう」
 そう答えると、トワはペダルをこぎ始めた。こうやって自転車の後ろに乗せてもらって通学するようになって、1年半。途中で通る交番の傍でさりげなく自転車を降りるのにも慣れた。1度警察に2人乗りを注意されてから、交番の近くに行くと何もなかったかのようにさっと自転車を降りて私は歩く。ちょっと悪いことしてるってとこ、なんとなく楽しんだりしてる。本当に悪いことをする勇気はないけど、これくらいのことならできる。

 そんな小さなことで何かを発散したりしてるなんて、つまらない高校生活だ。 

 私はいつも正門の手前で降りて、トワはそのまま自転車置き場へ走って行く。教室へはそのまま別々だ。そんなだけど、こんな風に聞いてくる子もいるんだ。
「ねぇ、サエはトワと付き合ってんの?」
 って。そんなの別にどっちでもいいじゃん。今日もまたトワとは別で門をくぐる。途中で見かけた友達におはよーって声かけて歩いて行く。トワがそんな私をいつも後ろから見ていたことなんて知らずに。

 クラスで1番仲のいい友達、椎名由香里は私と違って頭がいい。私は馬鹿だから、いつも授業中もだらけてばっかりで。今はユカリに頼ってるけど、そういや1年の頃はトワにいっぱいノートを見せてもらってた。いつも何やっても中途半端で、いいとこなんて何もない。
「サエ、進路決めた?」
 新学期が始まってすぐの初日だっていうのに、冬休みの名残も全て取り払われるかのように進路希望の用紙が配られた。
「ううん、まだ。ユカリは大学行くの?」
「うん、何処かはまだちゃんと決めてはないけどね」
 下足ロッカーで2列離れた状態でユカリと話してた。
「そっかぁー、私どうしよう。大学なんて頭じゃないしなぁ」
「サエは美容師になるんじゃなかったっけ?」
 面倒くさそうに話す私の後ろから、声をかけたのはトワだった。ちょうど、後ろ側のロッカーがトワのクラスだった。
「あ、トワ」
「1年の時、美容師になるって言ってたじゃん?」
 そう話すトワの言葉を聞いて、ユカリが私に近づいて問いかけた。
「えー?そうなの?私1回もそんな話聞いたことないよ?坂井くんには話してるのに?」
 ヤキモチを妬くみたいに顔を近づけるユカリを押しのけて私は靴を履きかえた。
「ごめんって、でも美容師になるかはわかんない。」
 それだけ言うと私はそのまま下足ロッカーを速足で出た。まだ靴を履き替えてないユカリはぐだぐだ言ってた。どっちにしてもユカリは電車だから、一緒に帰らないし。けど後からトワが追いかけてきた。
「どしたの?なんかサエ怒ってる?」
 背後からトワが声をかけながらついてくる。
「怒ってない」
 怒ってないけど、ちょっといらいらしてた。まっすぐ正門を出ようとしていく私にトワは声をかけてから走って行った。
「自転車取ってくるから、待ってて、サエ!」
 でも待たずにすたすたと歩いて門を出た。もちろん相手は自転車だし、追いつかれるとはわかっていたけど。門を出てすぐのところでトワにつかまった。
「サエ、待てって」
 トワに腕を掴まれた。
「何怒ってんの?自転車、乗れよ」
 トワの顔を見た。相変わらず、心配してくれてんだか怒ってんだかわからない表情。
「怒ってないよ。けど1人で帰る」
 トワの手を払って、また歩き出そうとした。けど、またすぐにトワにつかまった。
「ごめん、美容師の話って内緒だった?なるかはわからないってどういうこと?」
 トワには、1年の時に美容師になりたいって話をしたことがあった。今でも本当になりたい。凄くうれしそうに話してた自分を思い出すと、めちゃくちゃいらいらする。だって。
「専門学校には行けないから。だから行かない」
「なんで?」
 正門からすぐの信号の傍で、2人で立ち止まったまま話してた。それほど大きくない道路だけど、時々車が横を通り過ぎる。
「お金がないから無理って、親に言われたから」
 そう返事をすると、私はトワの自転車の後ろにまたがって座った。
「トワ早くこいで!」
 ちょっと強い声でそう言うと、トワは慌てて自転車に乗ってペダルをこいだ。それから少しの間、何も話さなかった。家の近くまで帰って来たあたりで、トワはいつもと違う道へと曲がった。
「え?なんで曲がるの?」
「サエ、うちにちょっと寄ってかない?ココも待ってるし」
 ココってのはトワが飼ってるトイプードルだ。トワんちにはよく遊びに行く。ココとも遊んだことがある。うちはマンションで犬が飼えないから、可愛くってしかたがない。
「あー、ココ逢いたいっ!」
 そう言うとトワは自転車を立ちこぎでスピードを上げた。

「きゃぁーココぉ」
 玄関を開けると、ココは尻尾を振って走り寄って来た。人懐っこいんだ。しゃがんでココの頭を撫でるとそのまま私の手をいっぱい舐めてくれる。
「サエ、上がって」
 しゃがんでる私の横をすっと通って先にトワが靴を脱いで家に入って行く。小さいけれど庭のある一軒家で、続けて私も靴を脱いでいるとトワのママが出てきた。
「あら、サエちゃんいらっしゃい」
「おばさん、こんにちは。お邪魔します」
 小さく会釈すると、どうぞって私の背中を押して奥に入れてくれる。自分の親よりトワの両親のほうが好きだ。トワのママがうちのママだったらよかったのに。ここに来るたびいつも思う。2階への階段を上がってすぐ右側がトワの部屋。男の子だけどシンプルで、いつ遊びに来てもきれいな部屋。
「トワの部屋って女の子みたいだよね、きれいに片付いてて」
 持ってたバッグを部屋に入ってすぐのところに置いた。トワは上着を脱ぎながらこっちを向いた。
「サエの部屋って見たことないけど、どんなの?」
「汚いよ、散らかり放題で」
 冗談っぽく言ったけど、本当だ。脱いだ服も読んだ雑誌も、CDやお菓子の袋や、いっぱい部屋中転がってる。少ししてドアが鳴って、トワのママがチャーハンを持ってきてくれた。
「トワの分しか作ってなかったから、2つに分けてちょっと少ないけど」
 そっか、もうお昼か。変な時間にお邪魔しちゃった。スープもサラダも用意してくれてた。
「ありがとうございます」
 トワの家に遊びに来ると、嬉しいこといっぱいあるけどちょっと空しくなる。私もいつかトワのママみたいなお母さんになりたいなって思う。
「ほら、食べようよ」
 トワがそう言って先に食べはじめた。

 なんでこんなに安心するんだろう。まるで自分の部屋のベッドみたいにトワのベッドを占領して寝そべって、トワのDSで遊んだりする。いつものこと。トワもベッドの脇に座って雑誌を読んでる。気も使わないし、らくちん。
「なぁー、サエ」
「んー?」
 DSに夢中だったから、カラ返事だった。
「ほんとに美容師、ならないの?」
「えー?」
 その瞬間、やってたゲームで負けてしまった。
「もぉ、トワが話しかけるから負けたじゃん」
「ごめん」
 トワは雑誌を閉じて膝に置き、こっちを向いていた。
「俺さ、サエの親をどうこう言うつもりはないけど、せっかくの自分の子供の夢をお金が無いからって理由だけで諦めさせるのってどうかと思うんだけど」
 トワが真面目な顔してるから、DSを持ったまま座りなおした。
「何よ、真面目な顔して」
「だって。親ってさ、そういうお金がどうとかって心配を子供にさせるもんじゃないと思って。無理してでもやりたいこと応援してくれるのが親じゃん?それでサエが諦めるのって、なんか悔しくて」
 そう言ったあと、トワは俯いた。まるで悩んでいるのは私じゃなくてトワみたいに。
「何真剣に悩んでんの?トワんちだったらそういう考え方になるのかも知れないけど、うちは本当にお金無いから。知ってるし、だからいいの」
 トワの顔を覗き込んでそう言うと、私はまたDSのペンを持ち直した。その手をトワが止めた。
「ほんとに悔しくないの?美容師になりたいってめちゃくちゃ笑顔で話してたじゃん?」
 ペンを持った私の手をトワは離してくれない。
「何熱くなってんの?うちはトワんちみたいに裕福じゃないし、4年後に弟の大学費用がかかるから、私はさっさと働かないと駄目なの。専門学校とか行ってる余裕ないの」
 トワの手を振り払って、私はゲームのスタートボタンを押した。静かな部屋にゲームの音だけが響いてる。正直真剣にゲームに集中できなかった。すぐにまた負けてしまった。でもまたスタートさせる。トワの話に耳を傾けたくなかったから。今はそれ、忘れたいから。じゃないと悔しいから。またすぐに負けてしまったゲームをスタートさせる。そんな私からトワはDSを無理やり奪った。
「何すんの?」
 少し黙って、それからトワは言った。
「ココの散歩行かない?」
 珍しく笑顔で。その日トワはそれ以上追及しなかった。っていうか、それから全く、私の夢の話はしなかった。



 1年の時、初めて席が前後ろになったトワに私から話しかけた。何の授業の時か覚えてないんだけど、1番後ろの席だった私は黒板の文字が見えなくてトワに聞いたんだ。
「ねぇ坂井くん、ちょっと」
 まだほとんど話したことのないトワの背中を何度か叩いて呼んだ。振り向いたトワは返事はしなかった。
「ごめん、ここの続き。なんて書いてあるのか教えてくれない?坂井くんが背、高すぎて見えない」
 そう言いながら私はノートの書きかけの文章を指差して言った。
「何処?」
 トワはそう言いながら私のノートを見た。
「ここんとこ」
 私が指差したところを確認すると、自分のノートのある部分を指差して見せてくれた。
「これ」
「あ、ありがとう」
 その頃のトワはとっても無口だった。それからたびたびノートを見せてくれたけど、いつも片言くらいしか話さない。でも嫌な顔はせずにいつも見せてくれた。とにかく背中が大きくて、少し左右に体を傾けないと前が見えない。そんな黒板の見えづらい席がいつの間にか好きになってた。トワの背中がなんだか安心するから。

「あのさ、坂井くんって…名前何て読むの?」
 ある時の休憩時間。授業中以外で話しかけたのは初めてだったから、ちょっと戸惑ってた風なトワを覚えてる。
「名前?」
「うん、坂井…じゅう、はね?」
 そう言った私を見てトワは笑った。
「だって、読めないよ?この名前」
 恥ずかしかったけど、必死に読めないことを弁解する私にトワはこう言った。
「うん、たいがいの人はちゃんと読んでくれない。じゅうはね…もよく言われる」
 トワの名前は、坂井十羽。実は中学校から同じ学校で、だけど同じクラスになったことは無かった。高校に入って初めて同じクラスになって、最初に貰ったクラス名簿を見て、なんて読むんだろうって思ってた。
「十の羽って書いて、トワ」
「トワ?うそぉ、言われたら読めるけど、見た瞬間わかんない」
 そう言って私は持っていたメモに十羽と書いた。
「ふーん、トワかぁ。あ、ねぇ、私の名前読める?」
 そう聞くと、トワはこっちを見たまま首をかしげた。
「これ」
 十羽と書いたメモの下に、今度は私の名前を書いてトワのほうに向けた。
「さ…あい?」
 文字を見つめたまま答えるトワを見て、思わず笑ってしまった。
「さあい?ありえなーい」
「え?じゃぁ何?」
 聞いてくるトワに見えるように、メモにまた名前をひらがなで書いた。
「さ…え?」
「うん、横山莎愛。さえだよ」
 そしてメモを手に取ってトワの目の前に差し出した。それを受け取ってメモを見ながらトワは言う。
「これこそ読めないよ。十羽のほうが読めるじゃん」
「あんま好きじゃないんだよねー、この名前」
 ちょっとふてくされながら私は椅子にもたれるように上を向いた。
「そうなの?この字がさ、見たことないかも」
 そう言ってトワが指差したのは"莎"の文字だった。
「うん、それが嫌い。さ、でしょ?」
「なんで嫌いなの?」
「その字ね、習わないじゃん?なんて意味があるのか調べてみたことがあるわけ」
 のけぞったまま私は続けて言った。
「そしたらさ、雑草。ただの草の名前の漢字だった」
「草の名前?」
「かやつり草っていう草の、"かやつり"っていう部分の漢字がその字だった」
「ふーん、かやつり草ってのも聞いたことないかも」
 トワはそう言うとメモを私の机の上に置いた。



 トワと話をするようになったきっかけは、こんな自己紹介みたいな会話だった。それから自然と、同じ中学だったよねーとかって話になって。近所だけど知らなかったお互いの家を知って。自転車に乗れない私を、トワが送り迎えしてくれるようになった。
「え?横山さんって歩いて学校来てんの?遠くない?」
 実際、歩いてだと30分くらいかかる。だけどバスは無いし、電車に乗るほどでも…ない。
「仕方ないじゃん、自転車乗れないし」
「えぇ?練習とかしたことあんの?」
「なんの?」
「自転車」
 そんな話をしたのは…授業で実験をやってる時だったかな。
「乗ってみようと思ったことはあるけど、無理無理。無理だった」
 試験管をぶらぶらと手でゆすりながら私は答えた。左手で頬杖付きながら、面倒くさそうにやってる私が手に持ってる試験管をそっと取るとトワは言った。
「じゃあ俺が後ろ乗せてあげるよ」
 何か液体を、手に取った試験管に注ぎながらトワはこっちを見ずに続けて言った。
「一緒に帰ろうよ、朝も迎えに行くし」
 きょとんとしてしまった。
「え?なんで?」
 トワは試験管をじっと見てる。
「なんでって。近所だし。自転車のが楽でしょ?」
「うん、そうだけど…、いいの?」
「いいよ」

 トワは、いつもあんまり気持ちを顔に出さない。笑うときぐらいかな、表情が変わるのは。いつもポーカーフェイスで、怒ってるのかとかイライラしてないんだろかとか、わからない。だからあの時も、どんな気持ちで、どういうつもりで、あんなことを言ってくれたのかわからなかった。だけどね、断る理由もなくて、むしろちょっと嬉しかった私は、その言葉に甘えたんだ。その日初めて一緒に帰って。次の日初めて迎えに来てくれた。それからもう1年半以上も続いてる。変な、2人の関係。付き合ってるって誤解されても仕方が無い。けど何もしたことないし、手を繋いだことさえも無い。一緒には居るけど、ただの友達だよ。今はクラスが違って、お互い異性の友達だって普通に居るし。別々でだっていっぱい遊びに行くし。けどやっぱり、2人で居ることも多い。トワんちでダラダラすることもあるし。2人でカラオケにだって行くし。買い物にも付き合ってくれるし。親が遅くなる日はご飯一緒に食べてくれるし。トワは私の最高の友達。



 月の頭くらいのことだった。朝携帯が鳴った。布団の中でごそごそと、毛布に埋もれてる携帯を探した。なんとか手に取って開くと、トワだった。
「もしもし?」
 目は半分開いてない。
「サエ?どしたの?学校行かないの?起きてる?」
 一気にトワが話す。
「えー?今日休むの」
 そう私は返事をした。

 思いだした。朝いつもと同じ時間に目が覚めたけど、頭が痛くて起きられなかったんだ。なんとか部屋のドアを開けてママを呼ぶと面倒くさそうに台所から顔を出す。
「頭痛?薬飲んだ?」
「飲んでるわけないじゃん、今さっき起きたとこだし」
 台所は廊下の突き当たり。私の部屋は玄関を入ってすぐ。短い距離だけど、歩くと頭がずきずきするから動きたくないのに。グダグダしてるとパパがコップに水を入れて持ってきてくれた。
「ほら、頭痛薬」
 差し出す薬の箱と共にすでに自分の通勤鞄を持ってる。そのまま私に薬を手渡すと、玄関で靴を履いて出て行った。
「行ってらっしゃい、パパ…とか、旦那にそういうのも無しかよ」
 声だったけど台所に向かってママに嫌味を言った。まんまと聞こえてた。
「何?サエ、朝は忙しいんだから自分のことは自分でしてよね」
 顔こそ見せないが、ママはそう返事をした。パパから受け取った薬と水の入ったコップを手に持ったまま、なんだかため息が出た。
「ママ、今日私休むから」
 そう言ってドアを閉めた。ドアの向こうのほうから小さく聞こえてくる。
「えぇー?休むの?学校に電話しなきゃ駄目じゃない、もぉー時間無いのに」
 パパは普通にサラリーマン。ママは宅配会社の宅配受付をやってる。私が中学生の頃にこのマンションを買った。お金無いくせに無理して買って、ローンの返済のためだとか言って2人とも働いてる。そのくせ自分たちの趣味にはお金をかける。パパはゴルフ、ママはハワイアンダンスを習ってる。弟は小学校の頃サッカークラブに入っていて、姉の私でも自慢できるくらいいい選手だったのに、中学校に入ると同時に辞めさせられた。理由はお金がかかるから。仕方なく弟は中学のサッカー部に入ったけど、レベルが全然違う。可哀想なもんだ。私も、ずっと行ってたダンススクールを中学の時に辞めた。マンションを買う資金のためだった。それまでは子供の可能性を伸ばすために何でもさせてやりたいなんて周囲には言って、やりたくもないダンススクールに私を無理やり入れたくせに。お金が要り用になったら突如辞めさせる。やっとダンスが楽しくなってきた頃だったのに。とにかく世間体ばかり気にしていて、いい所に住んで、見栄を張りたいだけの親。お金が無いんだったら、こんな大きな薄型テレビも買わなけりゃいいのに。仕事で遅くなるパパも、週に3回もダンスに行くママも、部活でなかなか帰ってこない弟も、そして私も、テレビなんて見ること無いのに。

 携帯の向こうでは寒そうなトワの声がする。
「休むんなら早めに連絡入れろよ、俺何分マンションの前で待ってると思ってんの?」
 ワの言葉で少し目が覚めた。時計を見た、8時半。
「え?トワずっと待ってたの?」
「待ってたの?は無いでしょ、サエ降りてこないし」
 確かに連絡は入れていなかった。忘れてた。学校休むの初めてだし。ベッドから体を起こした。薬が効いたのか頭痛は少しおさまっていた。そのまま部屋を出て、マンションの玄関に面しているベランダに出る。見下ろすと、携帯を耳に当てて花壇の脇に座っているトワが居た。
「ごめん。ほんとに…居る」
 そう言うと、携帯越しにそれを聞いたトワが顔を上げた。ちょっと大きく手を振ってみた。
「何やってんの?サエ」
「ごめん、朝起きたら頭痛くて、薬飲んで寝ちゃってた」
 小さく見えるトワにごめんって手で合図をした。
「いいよ、もう今から行っても遅刻だし。それより大丈夫?頭痛」
「うん、だいじょう…ぶ」
 なんだろう、急に涙が出てきた。トワに見えないように急いで部屋に入った。
「え?あれ、部屋入った?もしもし?」
 トワは返事もしない私に向かって携帯越しに話しかけてた。私1人で何やってんだろうって思ったら涙が出てきた。家の中には家族は誰もいなくって。なのに。全然関係無いトワはずっと外で待っていてくれて。なんだか悲しかった。

 それから少しして、玄関のチャイムが鳴った。携帯はまだ繋がったまま。その向うからも音がする。
「え?トワ?」
 そのまま玄関へ近づいてドアの穴から覗いてみた。トワだった。
「サエ、大丈夫?」
 トワはうちには来たことが無い。いつもマンションの入り口まで。
「うち、すぐわかった?」
 ドアは閉めたまま、携帯越しに私はトワにそう聞いた。
「サエが見えたベランダ、8階だったから、端から順に玄関の名前探した」
 トワも携帯の向こうでそう返事をした。その声を聞いて、ゆっくりと玄関の鍵を開けてみた。カチッて音がして鍵が開く。外からの反応は全く無い。それから少しして、ゆっくりとドアを開けてみた。ただトワは、じっと立ってこっちを見ていた。そしてドアの隙間から覗く私に声をかけた。
「おはよ」
「おはよう…」
 私も挨拶をした。ドアを大きく開けて、トワのダウンジャケットの袖を掴んだ。冷たかった。そのままやっぱり、涙が出てきてしまった。やばいよ。慌てて手を離してドアを閉めようと思ったけど、トワの手がドアを閉めさせてくれなかった。
「泣いて逃げるの卑怯だよ。大丈夫?」
 トワがこんなに優しいのは初めてだった。私はただ首を振るしかできなくて、そのまま玄関で俯いた。ゆっくりドアを開けてトワは玄関に入ると、玄関を開けたままで言った。
「サエが大丈夫になるまで一緒に居てあげるよ」
 開いたままのドアの隙間からすぅーって風が入ってくる。
「寒いから閉めて」
 そう言うと、トワはそっとドアを閉めた。
「トワぁ」
「ん?」
「頭痛い」
「うん」
 玄関に立ったままのトワと、その少し内側で話す私。
「風邪ひくよ?サエ?」
 そう言うけどトワは全くそこから動かなかった。パジャマ代わりにしているスウェットの上下だけじゃ確かに寒い。
「学校、行かなくていいの?」
 小さな声でそう私は聞いた。トワはポケットから手を出して答える。
「いいよ、俺も休む」
「なんで?」
「じゃあいいの?俺だけ学校行って」
 トワは卑怯だ。最初の頃はあんなに無口だったのに。いつからこんなに意地悪になったんだろう。そのまま私は首を振った。
「嫌だ…」

「けど…」
「けど、何?」
 トワはじっと立ったまま、私を見て聞き返す。
「家には居たくない」
「うん」
「どっか行きたい。すぐ着替えるから」
 トワの顔をじっと見てそう言った。
「いいけど、頭痛くないの?今サエ、頭痛いって言ったじゃん」
 トワとの1メートルほどの距離がちょうどよかった。涙も止められる距離だった。あんまり近かったら、もっと泣いてしまっていたかもしれない。
「うん、平気。薬効いてきてはいるから、痛くなくなると思う。どっか行く」
 そう言って私は自分の部屋に入った。急いで服を着替えた。その間トワは何も言わずにずっと玄関で待ってた。そして2人で家を出て、エレベーターで1階まで降りる。その時にトワが私に聞いた。
「ほんとにサエは家に居るの嫌がるね、頭痛いくせにそこまでして何処か行きたいって、なんで?」
 ジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま、エレベーターの壁にもたれた。変わっていくエレベーターの階を示す数字を目で追いながら答えた。
「家には…私の居場所が何処にも無いから」
「居場所?」
 トワは私を見てる。
「うん、落ち着けるとこが何処にも無い。家の中も、このマンション自体も」
 1階に着いてドアが開いた。すれ違ったおばさんも、会釈するだけで何処の階の人かなんて知らない。そのままマンションの入り口に置いてあるままだったトワの自転車に2人で乗った。
「自転車で行ける範囲なんて決まってるけど?何処行くの?」
「カラオケ」
 まだ自転車は止まったまま。トワは後ろに座ってる私のほうを見て言った。
「こんな時間にカラオケは開いてないだろ。それに俺制服だから、開いてたとしても入れてくんない」
「そっか」
 自転車の後ろにまたがって座ったまま足をバタバタさせて言った。
「じゃぁ、トワんち」
「うちは駄目だよ、おふくろ居るからサボったのバレる」
 そう言うとトワは首に巻いたマフラーを外して私に渡した。
「頭痛いんだろ?ちゃんと温かくしてろよ」
 受け取ったマフラーはトワのにおいがした。寸前までトワが巻いてたから、温かかった。
「ありがと」
 マフラーを巻いて、トワの腰のあたりに抱きついた。
「トワのどっか好きな場所に行く」
「俺?俺の好きなとこって何処?」
 少し振り向き気味の体制をしてるトワに抱きついたまま、顔をダウンにうずめて私は答えた。
「知らないよ、私トワじゃないもん。トワが好きな場所って何処?」
 そしたらトワは前を向いた。体の動きでわかった。
「つくば公園通りのあたり…とかかな」
 それを聞いて顔を上げて私は答えた。
「女子大のへん?女子大生目当てだ」
「違うよ。もっと、二の宮公園から赤塚公園に抜けるあたりの遊歩道とか、好き」
 また後ろを向いて、私の顔を見ながらトワはそう答えた。
「うん、そこでいい。つくばのほうとか最近行ってないし」
 自転車だとちょっと距離はあるけど、トワの後ろに長く乗っていたかった。
「おっけー」
 そう言うと、トワは自転車をゆっくりと走らせた。つくばの駅を挟んで反対側へ。団地ばっかりの大通りを抜けていく。それからずいぶん、何も話さずに自転車で走っていった。まだまだ寒い時期だったから、トワの着ているダウンに抱きついてると温かだった。トワはマフラーも外してしまったから、今思うと寒かったんじゃないかって思う。その時は全然気付きもしなくって、ただトワに甘えていたかった。
 いっぱい通りを抜けて、二の宮公園の時計台を通り過ぎた。そのあたりでふいにトワに話しかけた。
「ねぇー、トワ。おなかすいた」
 そう言えば朝から何も食べてなかった。
「えぇ?」
 振り向きながらトワはきょろきょろとあたりを見回す。
「コンビニとかでいい?」
「うん」
 返事をすると、内側の通りのほうへ自転車を走らせてくれた。
「もうちょっと先にコンビニがあるから」
 そう言うと、少しスピードをあげてトワは自転車を走らせた。洞峰公園の手前のコンビニに寄った。トワも一緒にパンを買っていた。お店を出て、自転車に乗る時にふと聞いてみた。
「なんでトワはこのあたり詳しいの?駅の反対側なのに」
 私の住むマンションも、トワの住む家も、駅を挟んでつくば公園通りの反対側だった。ここまでは随分遠い距離になる。
「よく来るの?」
「俺さ生まれたのは埼玉なんだけど、小5の時にこっちこに引っ越してきたんだ」
「うん」
 自転車を挟んで立って、トワとコンビニの駐輪場で少し話をした。
「俺宇宙のこととか凄く好きで、星とか星座とかそのへんも全般」
「そうなんだ?」
「ここってまさに、そういう施設いっぱいあんじゃん?嬉しくって。親父に頼んでよくこっちのほう連れてきてもらったの。なんでうち駅のこっち側じゃないの?ってマジ思ったくらい」
 そう言いながらトワは指で自分の足元を指差した。
「へぇー」
「中学んなってからはさ、別に1人でも来れるから。自転車で時々ぶらっと走りに来たりしてた」
 トワは優しく笑って言った。
「このコンビニも、来たことあんの?」
「うん、飲み物買ったりして」
 そう言うとトワは、私の手からおにぎりの入ったコンビニの袋をそっと取った。
「着いてからでいいでしょ?食べるの」
「えぇ~?おなかすいてんのに??」
 泣きそうな顔をして答えたけど、トワはそのままコンビニの袋を自転車の前カゴに入れた。
「じゃあいつ食べるの?自転車乗ったまま?」
「うん」
 笑顔で返事をすると、トワに頭をトンっと軽く叩かれた。
「ちょっとはさ、女の子らしくしろよ。着いてからね」
「えぇ~」
 トワは私の返事を無視して自転車に乗った。
「はい、早く乗って。もうここ公園の入り口じゃん、あと少しだから」
 そう言うトワにふくれっ面を見せながら、しぶしぶ後ろに座った。そしたらまたトワはゆっくりと走りだす。公園の中道をゆっくりと、洞峰沼のほうに向かって。そしてベンチを見つけると自転車を停めた。
「ここで食べようよ」
 そう言うとトワは自転車の前カゴからコンビニの袋を取り出した。それからパンツのポケットから携帯を取り出した。ランプが点滅していた。どうやら知らない間に鳴ってたみたいだ。でもトワは途中で出なかった。
「メール?誰?」
 トワの持ってる携帯を覗きこもうとしたら、トワは携帯を閉じた。
「おふくろから電話入ってたみたい」
「え?…あ、学校行かなかったからかな」
 そう言う私のほうを向いて、笑顔でトワは言う。
「さぁ」
 慌てて自分の携帯を取り出して時間を見た。もう家を出て1時間以上経ってる。
「そうだよね、連絡入れてないんだもんね。ごめん」
 コンビニの袋を手に持ったまま、ベンチにすでに座っているトワの背中越しに謝った。
「おなかすいてんでしょ?早く食べようよ」
 トワはそう言って自分も買ったパンを袋から取り出した。
「うん」
 ベンチに並んで座っておにぎりを食べた。ちょっと風が冷たかったけど、陽が指して気持ちよかった。
「寒くない?頭痛いの…大丈夫?」
 時々そうやってトワが聞いてくれるのが、とても優しくて。切なくなってしまった。


 特に何をしていたわけでもなくて。ただ公園を2人で歩いたり、ちょっと繁華街に出ては店に入ったり。夕方からファミレスに入って、夕食を食べただけじゃなくて長く居座った。ただ話してただけだけど、楽しかった。休日にトワと出かけたりしたこともあるけど、こんなに丸々1日一緒に居たのは初めてだ。7時過ぎ、私の携帯が鳴った。見ると、家からだった。
「ママだ」
 携帯を見ているだけの私にトワは声をかける。
「出ないの?周りにも迷惑だよ、音鳴りっぱなしだし」
 そうトワに言われて、電話に出た。
「もしもし?莎愛?何処に居るの?あんた頭痛いって休んだんでしょ?今日」
 ちょうど仕事から帰って来たとこなんだろう。家に私が居ないからかけてきたんだ。ママのうるさい声だけ聞いて、私は返事もしないで電話を切った。そのまま電源も切った。
「え?何やってんの?サエ」
 トワにそう言われたけど何も答えなかった。トワとは目を合わせないまま、目の前のグラスを持ってドリンクバーに向かった。ちらっとトワのほうを見てみたけど、目の前のお皿のあたりに目を落として優しい表情をしてる。だけど遠くから見ても、ほんの少しため息をついてトワが困ってるのはわかった。私はグラスに氷をいっぱい入れて。けど、飲み物は入れずにそのまま席に戻った。
「トワ、出よう」
 氷だけ入ったグラスをテーブルに残して、ジャンパーを手に取ってレジのほうに私は向かった。
「え?サエ?」
 慌ててトワもダウンと通学バッグを手に取って後を追いかけてくる。レジでお金を払おうとしている所にトワが来て、お札を店員に差し出した。
「いいよ、俺が払うから」
 そう言われて、店員とトワがやりとりしている間に先に店を出た。何故だかわからないけど走り出していた。ここへ来る前に居た公園のほうに向かって必死に走った。慌てて出てきたトワは遠目に私を見つけたみたいで、停めてあった自転車に乗って追いかけてくる。もちろんすぐにつかまった。
「サエ、待ってって。どしたの?なんで逃げるの?」
 真っ暗の公園で、少し離れた所にある電灯の灯りだけの中で、トワの声が響いてる。後ろのほうで自転車を停める音がして、その後トワは走って追いかけてきた。
「なんで?なんで逃げるの?」
 トワは私の前に回って、両腕を掴んでそう聞いた。
「じゃあ聞くけど。なんでトワは今日は私に全然怒らないの?ずっとそうやってにこにこしてるの、なんで?」
 なんだか変だって思ってた。いつからかわからないけど、今日トワに逢ってから、いつものトワと何かが違うって思ってた。けどきっと、これだ。いつもクールなくせに、今日はやたらとにこにこしてる。やたらと優しい。いつも以上に優しい。
「なんで?本当は私相手に困ってるくせに、なんでそんな優しい表情(かお)してんの?そんなに私が可哀想?」
 トワはずっと私の両腕を掴んだまま、私が言うことをじっと聞いていた。そして優しい声でこう言った。
「可哀想って、どういう意味?なんで俺がサエのこと可哀想って思わなきゃいけないの?」
 私の両腕を掴んでいた手を離すと、私をじっと見てそう言った。
「だって私…トワみたいに親に愛されてないし」
「は?なんで?」
「好きなこともやりたいことも、やらせてもらえない」
 じっと、トワと見つめ合ったままだった。トワは全く動かない。だからだろうか、私も動けなかった。トワの目を見ながら、ぽつりぽつり話してた。
「私馬鹿だし、頭悪い」
「そう?」
「パパもママも嫌いだし。家に帰りたくないし」
「うん。いつも言ってるよね」
「自転車だって乗れないし、今日だけじゃなくていつもずっとトワに気使わせてる」
「そんなことないよ」
「うそ、困った顔隠してる。今日はいつも以上ににこにこして」
 心臓がばくばく言ってた。なんで私、こんなことトワに言ってんだろう。
「だけどそれで、どうして俺がサエのこと可哀想って思ってるってことになるの?思ってないよ。困ってもないし、気も使ってない」
 そう言うと、マフラーを私の首にかけてくれた。さっきまで借りてたやつ。トワのにおいのするやつ。トワのにおいがするからかな、涙が出てきて、私は俯いた。
「サエ?」
 トワが名前を呼んだけど、顔を上げられなかった。
「サエ、最近我慢してるでしょ?」
 マフラーの端っこを手に持ったまま、トワがそう聞いた。
「いろんなこと、我慢しすぎてない?自分がやりたいこととか、よく言ってる家のこととか。なんかいろいろ」
 私は何も言わないまま、ただ首を振った。
「最近凄く無理してるっぽく見えるんだ。サエが」
 そう言われて顔を上げた。
「ほら、そうやって泣きたい時あるくせに、全然泣かないし」
 涙は全然止まらなかった。心臓のばくばくも止まらなかった。
「親の愚痴とか言ってるように聞こえるけど、でも実際には自分の心の中の半分も外に出せてないでしょ?しんどいでしょ?」
 トワが言ってることは当たってた。
「パパもママも嫌い。ってそれ、聞き飽きたよ。サエの本心はそれじゃないでしょ?これやりたいとか、あぁしたいとか、全然自分の意見言えずに全部我慢してるでしょ?」
 ますます涙が止まらなかった。ただ淡々とトワはいっぱい話す。けど顔は優しい。私の首に巻いたマフラーの端っこを持ったまま、私の気持ちを代弁するようにトワが話す。
「本当は家族のことも大好きで、嫌いになりたくないくせに。どうやったら自分の欲を全部満たすことができるのか、手段も何もわからないままで。わざと親のせいにして逃げるしかできないんでしょ?」
 大きく深呼吸して、やっと声が出た。
「逃げて…ないよ」
 それを聞いて、トワはマフラーから手を話した。
「逃げてるじゃん」
「逃げてない」
「逃げてるよ。いつも。いつもサエはやる前に諦めて1人で納得して辞めちゃうんだ」
「逃げてない」
 誰も居ない冬の夜の公園で。泣きながら叫んだのなんて初めてだった。本当のことだけど、そうだって認めたくないことばかりトワに言われて。ただ私は頑固に否定ばっかりしていた。
「本当なら、サエが諦めないで練習すれば自転車だって乗れたはずなんだ」
「なんで今自転車が出てくんの?それに自転車の練習してた時トワは居なかったじゃん?なんで乗れるはずだなんて状況も知らないのに言えるわけ?」
 泣きながら、マフラーの先でトワを殴ぐりながら叫んだ。
「なんでよ。なんでトワはそうやって私が忘れたいこと全部思いださせるわけ?」
 涙なんて止まらない。子供みたいに、叫ぶように、いっぱい泣いた。トワはそんな私を抱きしめた。初めて私を抱きしめた。
「ごめん、サエ」
 抱きしめたままトワがそう言った。
「苦しいのわかってて、いろんなこと言ってごめん」
 抱きしめるトワの背中に手をまわして、いっぱい叩いた。けど叩けば叩くほど、トワが思いっきり抱きしめる。
「サエにさ、なんでも我慢するんじゃなくて。せめて俺の前でくらい思ってくること吐き出させてあげたかったんだ」
「なんで?」
「やりたいこと、どれだけ声にだしても叶わないこといっぱあるかもしれないけど。でもサエは声に出すことさえも我慢しちゃうから。やりたいーって言う前に諦めちゃうから。もっとわがままになっていいとこ、全然言わないから」
 そう言うとトワは私の肩のあたりにそっと顔をうずめた。
「そうやって自分で自分をしんどくしてるのを見てるのが、辛いんだ」


 不思議だった。トワの言う一言一言が忘れたいことばかりなのに。全部代弁してくれたみたいなそれが、心を落ち着かせる。抱きしめてくれるトワの息遣いが、私の心臓のばくばくと同じだった。
「トワ?」
 トワは私を抱きしめたまま肩で息をしていた。
「トワ?私美容師になりたい」
「うん」
「だから美容専門学校に行きたい」
「うん」
「朝家を出る時に行ってきますって言ったら、行ってらっしゃいってママに言って欲しい」
「うん」
「家族みんなで揃って夕食食べたい」
「うん」
「犬飼いたい」
「うん」
「自転車の練習やりたい」
「うん」
「ダンスのレッスン、また始めたい」
「うん」
「トワ?」
 それまで抱きしめたまま相槌を打ってくれていたトワが顔をあげた。
「ん?何?」
「私のやりたいこと、どれか1つくらい叶うかな?」
 そしたらトワは、頭を撫でながら私の顔を見てこう言った。
「サエがちゃんと声に出してお願いしたら、叶うよ」
 最高の笑顔でトワがそう言った。

 涙をジャンパーの袖で拭いたらトワに怒られた。
「だからさ、もうちょっと女らしくしろよ」
 バッグからトワがハンカチを取り出して手渡してくれる。
「だってハンカチなんて持ち歩いてないもん」
 トワのハンカチを受け取って、涙を拭いた。拭きながら、トワと並んで自転車の所まで歩いた。自転車の所に着くと、マフラーをちゃんと巻き直してくれた。
「風邪ひくから。頭は?もう痛くない?」
 トワに聞かれて黙って頷いた。
「はい、ありがと。ハンカチも…、今日いろいろと。ありがと」
 ハンカチをトワに差し出してお礼を言った。
「いいよ。洗って返す…とかしないとこがサエらしくって」
 そう言いながらトワはハンカチを受け取った。
「あ、そっか。ドラマとかでよく洗って返してる。洗うからかして」
 トワに返したハンカチをもう1回手に取ろうトワの腕に手を回したけど、トワはさっさとハンカチをバッグにしまいこんだ。
「いいよ、サエにそんなことされたら気持ち悪いじゃん。ほら、帰ろう」
 自転車のスタンドを外しながらトワはこっちを向いた。立ち止まったままじっとトワを見ていた、そしたらトワは私に声をかけた。
「どしたの?」
「トワは…なんでそんなに私のこと、解るの?」
 そう聞くと、トワはにっこり笑った。
「毎日どんだけサエの愚痴聞いてると思ってんだよ。顔合わさない日、無いし。だから今日朝降りてこなかった時マジ焦ったよ、どうしたんだろうって。」
「え?」
「サエが学校休んだことなんて無かったし、病気ほとんどしないし。なのに降りてこないからマジ心配した」

 また自転車に2人乗りして帰って行った。朝出かけて来た時よりすっかり寒くなってる。ずっとトワの背中にしがみついてた。途中トワの携帯が鳴った。音は消してるけどバイブで響いてるのがトワのポケットから少しだけ響いた。
「ねぇ、トワ携帯鳴ってる。出てよ」
 トワの背中を叩きながら声をかけた。
「いいよ、たぶんおふくろだから」
「駄目だよ、トワはちゃんとしなきゃ」
 そう言って無理やりトワのポケットから携帯を取り出して受信ボタンを押した。それからトワの目の前に差し出した。慌ててトワは自転車を停めて、座ったまま携帯を受け取った。ちらっとこっちを見てから電話に出た。
「うん、ごめん連絡入れなくて。…うん、あの、サエが具合悪くて付き添ってた。…うん、大丈夫。もう帰ろうと思ってたとこだから。…うん。…はい、じゃあ」
 話を済ませて電話を切ると、携帯をバッグにしまった。
「勝手に出んなよ」
 そうトワは言った。
「怒られた?」
「別に」
 そしてトワはまた走りだした。その時見上げた空に、見えたんだ。三日月。
「あー、三日月だぁ。きれー」
 そう言うとトワもスピードを落として空を見上げた。
「え?サエ、今日三日月じゃなくて半月だよ?」
「違うよ、三日月だよ」
 私が答えると、トワは自転車を停めてじっくりと空を見上げた。
「いや、半月だって。サエ目悪いんじゃないの?」
「私目はいいもん。ほら、三日月じゃん」
 そう言って私は空を指差した。そんな私をじっと見てトワは言う。
「半月だよ、どういう目してんの」
 そう言うとトワは、空を指差している私の手を握って下ろさせた。私の手を握ったまま。何も言わずにトワは私の顔を見た。そしてその手で今度は私のおでことほっぺを触った。
「サエ、熱あんじゃん」
「え?ないよー」
「あるよ、自分でわかんない?」
 トワに言われて自分の手をおでこに当ててみる。
「わかんない。熱ないよー」
 たしかにちょっと、頭はぼーっとしてたかもしれない。酔っぱらいみたいに、ふわふわしてた気はする。
「しっかり持ってて」
 そう言ってトワは私の手を自分の腰に回させた。
「ちょっとスピード出すから」
 今までより早く、トワは自転車をこぐ。ただ私はトワに抱きついたまま、空にぼぉーっと霞む三日月を見ていた。

 家に着いたのは覚えてるようで覚えてない。マンションの入り口で、ひとりで帰れるから…ってトワに言って中に入って行った。でもその後たぶん、トワも一緒にエレベーターに乗った。8のボタンを押して。エレベーターが動いて。その間誰にも止められないで8階までエレベーターが着いたから、着いてすぐに私はガッツポーズをした。そんなくらいまではなんとなく覚えてる。
とは。うるさいママの声と。必死で謝ってるトワの声と。何て言ってたのか知らないけど、聞こえてた気がする。

 次に気が付いたのは、朝方。6時前。自分の部屋のベッドの上だった。まだ外は暗くって、また頭が痛かった。部屋の中はひんやりとしてる。喉が渇いて、何か飲もうと部屋のドアを開けると台所の電気はもうついていた。ドアの開く音に気付いたママが台所から顔を出した。
「サエ?大丈夫なの?昨日帰ったら居ないしびっくりしたわよ。知らない男の子と帰って来たと思ったら玄関で倒れこんで」
 ママはいつもみたいにうるさい。
「うるさいよ、水飲む」
 そう言って台所に入って行った。リビングと繋がった部屋はほどよく温かくなっていた。
「はい、水」
 冷蔵庫からペットボトルの水を取りだすと、ガラスコップを手に取って両方をママが手渡してくれた。そのママ越しの向こうに見えたのは調理しかけの野菜とお弁当箱だった。
「あ、サエ今日はどうするの?まだ熱あるのかなぁ、休むんだったらお弁当どうしよっか?お昼どっちにしても食べるんだったら作っとくけど」
 パパのお弁当箱と弟のお弁当箱。そして私のお弁当箱が並んで置いてあった。
「昨日のは?どうしたの?」
 気になってママに聞いてみた。
「昨日はサエお弁当食べずに出かけちゃったんでしょ?もう食べられないから捨てたよ、せっかく作ったのに」
 ママはふくれっ面でそう答えた。本気で怒ってないのは見てわかる。そしてまたママはフライパンを片手に火を付けた。
「ごめん、ママ」
 泣きそうになった。だけど我慢してソファに座りにリビングへ逃げた。ペットボトルの水をグラスに注いで一気に飲む。それからママに背を向けたまま言った。
「今日はちゃんと食べるから」
 そう言うとママは何やらカチャカチャ音を立てて調理しながら答えた。
「わかったー、作っとくね。取りあえず熱測って、学校休むんだったらまた連絡入れないと駄目だから。部屋に戻って今日はちゃんと寝ること!」
 うん。心の中で返事をして、私は体温計を引き出しから取り出した。熱は38度あった。頭が痛かったのはこのせいだったんだ。昨日無理してしまった、きっと。でも、心の中はすっきりとしたから。よかったんだよ。
「ママ、熱あるから今日も休む」
 そう言うと私はすぐに部屋に戻った。トワのことが気になって。昨日家に着いた後、なんとなく怒られてるような声が聞こえた気がする。うちで怒られて、もしかしたら自分の家に帰ってもまた怒られたんじゃないかって。気になって仕方が無かった。部屋に入ってすぐ、目についたものがあった。勉強机の椅子に昨日着ていたジャンパーがかけられていて、そこに、トワに借りたマフラーもかけられていた。近づいて、そっとそれを手に取ろうとした。

 …おかしいよ、私。

 マフラーに触れるのにもドキドキした。どうしたんだろう。トワのこと、凄く好きだ。

 今日も休むから。そうトワにメールを入れた。昨日のこと、気になってること、聞きたいこといっぱいあるのに。話をする勇気が出なかった。緊張するというか、ドキドキするというか。電話をかけられなかった。だけど昨日連絡を入れなくて朝ずっと待たせてしまったから、今日はちゃんと連絡だけは入れておきたかった。
「トワ相手に何緊張してんだろ。馬鹿みたい」
 そんな独り言を言って、またベッドに戻った。そしたらすぐに携帯が鳴った。トワだった。
「なんで電話?」
 あえて電話を避けたのに、かかってくるなんて。ベッドで横になっていた体を起して、ちゃんと電話には出た。
「もし…もし?」
 凄く緊張した。
「もしもし?サエ?おはよう」
 トワは普通だった。当たり前だよね。
「おはよ」
 挨拶をして、ふと顔を上げた。そしたらトワのマフラーが目に入った。
「サエ、大丈夫?熱まだあんの?」
「うん…」
「昨日ごめんね」
「え?」
「サエに俺の好きなとこ何処?って言われて、公園とか言ったからさ。もっと屋内のとこ言えばよかったのに、寒かったよねずっと外で。そりゃ熱出るよね。…ごめんね。」
 緊張している私をよそに、トワは一気にそう言った。
「トワは…悪くないよ。学校休んでるのに私が家に居たくないとか言ったから」
 うまく…話を続けられなかった。何を話せばいいのか、困った。そしたらトワから、電話を終わらせてくれた。
「まだ調子悪そうだよね、今日は寄らずに行くから。ちゃんと寝てろよ。じゃあね」
「うん、ありがとう」
 緊張してるのに。ほっとする。トワの声。そのままベッドに横になって。携帯を握りしめたままで目を閉じた。知らない間に、眠ってしまったみたいだった。


 お昼は2時過ぎに、ちょっと遅めにお弁当を食べた。今朝お母さんが作ってくれてたやつ。学校が終わったら寄るからってユカリからメールが入って、少し部屋を片付けた。熱はほとんど下がってた。でもまだ完全に下がってないから、ちょっとだけぼーっとする。

「はい、お見舞い」
 そう言ってユカリが差し出したのは数学のプリントだった。
「何これぇ」
「明後日小テストやるってよ、ここから出るんだって」
 ありがたくないお見舞いだ。
「休んでる時くらい勉強のこと忘れさせてよぉ」
 ベッドの上でクッションを抱きしめて、駄々をこねる子供みたいに私は言った。
「サエは年中勉強のこと忘れてんじゃん」
 笑いながらユカリはそう言った。通学バッグを部屋の隅に置くと、椅子に腰かけた。
「珍しいね、風邪ひくなんて。昨日って坂井くんとデートでもしてた?」
 突拍子もなくユカリがそんなこと言った。
「なんで?デートなんかしてないよ」
 必死で弁解する私を笑いながらユカリが続けて言う。
「だって昨日一緒に休んでたじゃん?ちょっとした噂になってるよ、学校休んで遊びに行ってるって」
「うそ?」
「まぁもともと学年の80%くらいの人が2人付き合ってると思ってるしね」
 ユカリは冷静に話す。
「え?誰か見た人とかいんの?昨日」
 墓穴を掘ったのは私のこの言葉だった。
「はぁ?見た人って、何を?」
 不思議そうにユカリはそう問いかける。
「昨日だよ、トワと居るとこ一体誰が見たって?」

 馬鹿なんだよ、私。こういうとこほんっと馬鹿だと思う。
「え?昨日マジで坂井くんと一緒だったの?単なるいつもの噂だと思ってた」
 ユカリがそう言って初めて気付いた。ただの噂だったのか。2人で出かけてたとこ、誰かに本当に見られたのかと思った。
「やだ、サエって坂井くんと本当に付き合ってんの?デートしてたの?」
 ユカリにそう言われて力が抜けた。

 なぁーんだ。

 力が抜けたせいだろうか、それともまだ熱があってぼおーっとしていたせいだろうか。涙が出てきた。最悪…。昨日から私、なんか涙もろくなってる。
「どしたの?サエ、なんで泣くの?しんどい?」
 ユカリがベッドのほうに寄ってきて、私の頭を撫でた。
「ねぇ、ユカリ。どうしよう」
「ん?どした?」
「私、トワのこと好きみたい」

 ユカリには昨日のことも、家のことも、いろいろ話した。今まで我慢して口に出さなかったこと、トワに言われたように声に出してみようと思って。今までユカリにも話さなかった思ってることとか、いろいろ話した。そして、トワのこと好きになっちゃったことも、全部話した。
「自然だよ、それ」
 ベッドにユカリと2人で隣同士座って話してた。
「自然?」
「うん、あの状況で好きにならないほうが不思議だよ」
「そうかな」
「そうだよ、坂井くん…サエには良いと思うよ。告っちゃえば?」
 ユカリはさらりとそう言った。
「嫌だ、無理無理」
 思い切り手を振って、私はユカリを見た。
「なんで?坂井くんも同じようにサエのこと好きかもしんないよ?」
「そんなことないよ」
 否定する私の顔をじっと見てユカリは言う。
「じゃぁなんで坂井くんは昨日サエに付き合って学校さぼったり、1日中一緒に居たりしてくれたりしたんだろ?」
「知らないよ…」
 ユカリから目をそらして私は俯いた。
「毎朝迎えに来て、学校終わったら送ってくれて。家にだって遊びに行ってるみたいだし?親にも会ってるんでしょ?」
 ユカリはますます私の顔を覗き込んで言う。
「坂井くんってもともと優しいけど、サエには特別優しいよね~」
「もぉ、ユカリやめてよ」

 ドキドキするんだよ。心臓ばくばくいって。今ここにトワは居ないのに。ユカリにそうやって言われるだけで。トワのこと思いだすだけで。しんどくなるんだよ。苦しくて。涙がまた、出てきてしまった。
「サエ、ごめん」
 ユカリがティッシュの箱を取った。
「はい、涙拭いて。ごめんサエ」
 ユカリからティッシュを受け取って、涙を拭いて、鼻をかんだ。
「そんなに真剣なんだ?坂井くんのこと」
 そう言ってユカリは私の頭を撫でた。



 次の日は朝から雪だった。降ってるのはちらほらだけど、前の晩に降った雪が地面に薄っすらと残ってる。目が覚めてすぐくらいにトワからメールが入ってた。
[今日は行けそう?雪があって自転車で早く走れないからいつもより10分くらい早く家を出るよ。]
 そう書いてあった。熱はすっかり下がって、頭も痛くなかった。
「ちゃんと温かくして行きなさいよ」
 ママには朝からうるさく言われた。
「わかってるよ」
 リビングで食パンをかじりながらメールを打った。
[今日は学校行くよ。いつもより10分早く。了解。]
 トワに、そう送った。いたって普通にメールを送ったけど、逢うのが緊張する。別に何もないのに。1人緊張してる。でもトワに悟られないように、変だって思われないように、普通にしてなきゃ。そう考えるとまた、緊張した。部屋に戻って、ビューラー片手に鏡を覗きこむ。いつもやってるのに…、うまく挟めなかった。気になって時計も何度も見てしまう。
「いつもより10分早くね、10分」
 そんなことを言いながらニットの帽子をかぶった。いつもはかぶらないんだけど、寒いからかぶっていくことにした。
「あ、ヘアアイロン持ってかなきゃ」
 帽子をかぶると髪がぐちゃぐちゃになるから、携帯用のヘアアイロンを忘れると困る。慌ててバッグに入れた。ごそごそとやってると、ふと目に入った。
「マフラー…」
 トワに借りたマフラーも忘れずに手に取った。コートを着て、手袋を持って、台所へ行った。
「ママ、お弁当」
「え?もう行くの?」
 ママに言われてリビングの時計をもう1回見る。20分前だった。ちょっと早すぎるけど…まぁいいや。
「うん、雪降ってるし」
 お弁当をバッグに入れて、玄関に向かう。そのまま家を出た。
 今日はエレベーターが途中で止まった。3階。誰だよ、止めたやつ。ドアが開いて、ちょっと待ったけど誰もいなかった。
「なんだよ…乗らないなら止めんなって…」
 ボタンを押してドアを閉めた。そのまま1階まで降りた。一気に降りないと、なんか今日は駄目みたいな気分になっちゃう。マンションの入り口に向かって歩いた。ふと、目に入った見慣れた自転車。
「トワのだ…」
 携帯を出して時間を見てみる。15分前。早めに降りてきたのに。なんで?ゆっくり歩いて行った。いつもの花壇のヘリに腰を下ろして、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んでるトワが見えた。
「あ。マフラー」
 手に持ってるマフラーを胸のあたりで抱きしめた。そしてそのまま走ってった。足音を聞いてトワが振り返る。
「あれ?サエ早いじゃん。おはよう」
「なんでいんの?」
 走って行って、そのままトワの腕を掴んで言った。
「なんで?っていつも迎えに来てんじゃん」
 トワは座ったままそう言った。
「そうじゃなくて。早すぎるじゃん、いつからいんの?」
「内緒」
 トワは笑ってそう言う。
「内緒って…」
 そう言うと私はトワの首にマフラーをかけた。
「鼻真っ赤になってんじゃん、トワ馬鹿でしょ」
「ひどいな。せっかく待ってたのに」
 トワは背中を丸くしてた。マフラーを首に一回転させようと思ってトワに近づいた時に気付いた。トワの左頬の傷。
「どしたの?これ」
 そぉっと指で触れようとした。そしたらトワは急にすっと立ち上がった。
「何が?ほら、行こうよ」
 自分でマフラーを、口元まで隠れるように巻いてから自転車のスタンドを外した。
「え?だって、怪我してんじゃん。ほっぺた」
 もう1度確認しようと思ったのに、そのまま自転車で走って行くフリをする。
「早く乗ってー。遅刻するぅー」
 トワはそう言いながら1度も振り向いてくれなかった。

 朝からそんなやりとりがあったおかげで、思ったほどトワにドキドキせずに済んだ。ユカリが言うように、クラスではちょっと噂になってて。何人か女の子にトワとのことを聞かれたけど、別に何でもないよって答えた。一緒に出かけてたことも誰にも言わなかった。そんなことをやってるうちに、1日ってあっという間に終わって行く。帰り、下足ロッカーに先に降りてトワを待っていた。ちょっとゆっくり降りてきたトワを捕まえる。
「トワ、ちょっと。」
 靴をロッカーから出しながら、きょとんとした顔でトワは私を見た。もうすでに巻いてるトワのマフラーを少しずらして怪我してる頬を私は指差した。
「これ、どしたの?」
「何が?しつこいなぁ」
 またトワは向こうを向く。
「そうやってトワが隠そうとするから余計気になるんじゃん?何か言いなさいよ」
 ロッカーとトワの間にわざと体を入れて、トワの顔を見た。15センチくらいの近距離。やばい、ドキッとした。私よりも20センチも背の高いトワが、たまたま背をかがめていたせいで目線の高さは一緒だった。
「なんだよ、キスすんぞ」
 トワがそんなことを言うから、私はそっとロッカーとトワの間から逃げた。何もなかったようにトワは靴を履き替える。
「ねぇー、どしたの?ほっぺたの傷」
「うるさいなぁ、転んだだけ」
「何処で?」
「家の前で。雪で自転車滑って」
「ほんと?」
「ほんと。格好悪いからあんま追求すんなよ」
 凄く真剣な目で私を見ながらトワはそう言い切った。淡々としたやりとりは、そこで終えた。それ以上は言えなかった。



 ある日珍しく弟が部屋に来た。
「なぁー姉ちゃん。スポーツバッグ、余ってんの無い?」
「スポーツバッグ?なんで?」
 夕食後に部屋でくつろいでる時だった。ベッドの上に座って雑誌を読んでた。
「俺のやつ、持つとこが片方取れちゃって。明日いるから余ってたら貸してほしいんだけど」
 持ってた雑誌を置いて、私は立ちあがった。
「何、明日試合?」
「うん。3年引退してるし、俺すげーいいポジションもらったんだ」
 弟は得意げに言う。
「へぇー」
 弟とはあんまり話しないけど、サッカーの話だけはよくしてくれる。私も聞いてて嫌いじゃないから、自然とこんな話の時は盛り上がるんだ。
「応援、行っちゃおうかなぁ」
「うそ、マジで?けどたぶん寒いよ?」
 クローゼットのドアを開けて、ごそごそ探しながら話をした。弟は中を覗くように後ろから見てる。
「ちょっと待ってね、何処だっけなぁ」
 ダンスやってた頃に使ってたやつがあるはず。
「あ、あった。これでいい?派手?」
 ちょっとピンクの濃いやつだけど、弟は受け取る。
「仕方ないじゃん、俺他に持ってないし。今日はもう店開いてないから無理だし」
 口をとがらせて弟は言う。
「…だね、10時回ってんじゃん、言うの遅いよ」
 私はわざとちょっと偉そうな態度を取って弟にそう言った。
「あ、ねぇ、何処でやるの?地図、後でちょうだい」
 そう言って手を差し出した。
「マジで来んの?いいけど」
 バッグの中に何も入っていないか確認しながら弟はそう聞いた。
「サッカー見るの好きだし。あ、ねぇ、啓太は高校何処行くの?もう決めてんの?」
「あ、うん。行きたいとこはある。静岡なんだけど」
「静岡?」
「うん。サッカー真剣にやりたいから」
「お金かかるじゃん、無理だよ、うちじゃ」
「わかってるよ。そこは説得する。寮のあるとこ狙ってるから。ちゃんと高校入ったらバイトも入れて、できる限り負担かからないようにしようと思ってる」
 バッグを片手で持って、部屋から出ようとドアのノブを持つと弟は笑顔で言った。ちゃんと、やりたいことをしっかりと考えてて、ちゃんと計画まで立ててるんだ…。弟は中2でちゃんとそこまで考えてるのに、私はどうでもいいって何でも諦め過ぎだって、前にトワに言われたこととか思いだしてた。
「あ、そーだ。姉ちゃんに聞きたいことあったんだけど」
 弟は、持っていたドアのノブから手を離すと続けて聞いた。
「この前さ、姉ちゃんが熱出して帰って来た時あるじゃん?」
 この前?トワと1日出掛けた日のことだ。
「あの日に姉ちゃんを送ってきた人いるだろ?あの人大丈夫だった?」
「え?何が?」
 トワのことだと思う。けど何が大丈夫なのかわからない。
「姉ちゃんが熱あるのに連れだしたから俺が悪いって散々謝って頭下げてたんだけどさ、母ちゃんが思いっきり引っぱたいたんだんだよね。よろけて下駄箱にぶつかるくらいの力で」
 手の平を大きく開いて、何かを引っぱたくような真似をしながら弟はそう言った。
「倒れ込んだから何処か体も打ってるかもしれない。その後も何度もすみませんって言って頭下げてた」
「うそ。なんでもっと早く言わないの?そんなの誰からも聞いてない」
「え?あの人から聞いてないの?」
「聞いてないよ」
 知らなかった。トワも何も言わないし。
「姉ちゃんが家に帰ってくるまでは母ちゃんめちゃくちゃうるさかったんだ、何処行ったんだって、電話も繋がらないし。でも帰ってきてあの人が自分のせいだって言うから、ほら、姉ちゃん怒られなかっただろ?」
「うん、そう言えば…」
「だって母ちゃんマジギレしてたもん。具合悪い女の子連れまわしてどういうつもりだとか言ってさ。親父まだ帰って来てなかったから良かったけど、もし帰って来てて親父に殴られてたら、もっと大変だったと思うよ。あれって、姉ちゃんの彼氏なの?」
「うるさい!違うよ!」

 誰もそんなこと話してくれないから。知らないままだった。弟が部屋を出て行った後も、考えてたら苦しくなってきた。家に居たくないってあの日言ったのは私なのに。どうしてトワがそんなに謝って、頭下げて、ママに引っぱたかれなきゃいけないの?携帯を手に取ってトワの番号を出した。かけようと思って…けどやめた。直接、逢いたかった。ジャンパーを着て、ニット帽をかぶって。そのまま部屋を出て玄関へ行った。大きな声でリビングのほうに向かって声だけかけた。
「ママ!ちょっと出かけてくる。すぐ帰るから」
 そう言ってる時にはもう靴は履いていた。リビングのドアが開いて、ママが顔を覗かせた。
「え?何?出かけんの?何時だと思ってんの!」
「うん、すぐ。すぐ帰るから」
 その後ママが何か言った気はしたけど、聞こえてない。玄関を出るとエレベーターまで走った。1階についてエレベーターを出て、その時初めて気付いた。凄い雪だった。
「最悪…」
 空を見上げて、やみそうもない雪の中を走ってトワの家まで行った。

 家に着いたはいいが、チャイムを押せなかった。携帯を見ると時間は10時半過ぎ。こんな時間に来てよかったものかと、思ったりした。でもトワに逢いたくて。電話をかけた。トワの携帯に。何度か呼び出し音がして、トワが出た。
「もしもし?」
「あ、サエだけど」
「あー、うん。どうしたの?」
 電話で話しながら、トワの部屋の窓が見えるとこに立った。少しなら、窓が見える。トワの姿はわからないけど。
「あの」
「うん。何?」
「今って家…出れる?」
 電話の向こうで何やってんのかは知らないけど、少し間があいて返事が帰って来た。
「出れないことないけど、なんで?」
「家の前に居んの。出てこれない?」
「え?うちの前?」
「うん、すぐ前じゃないけど…、えと、電柱の立ってるとこ」
 トワは驚いた声だった。
「え?すぐ降りてくよ、待ってて。電話切るよ?」
「うん」
 返事をすると、トワは電話を切った。電話を切ってすぐ。ほんとにすぐにトワは家から出てきた。
「どしたの?」
 何かあったのかと言わんばかりの表情だった。
「何かあった?うわぁー、雪めっちゃ降ってるし」
 空を見上げてからまたトワは私を見た。そしてニット帽に積ってる私の頭の上の雪を払った。
「こんな時間にこんな雪ん中来んなよ」
 怒ってるんじゃないけど、注意するみたいにトワは私に言った。
「ごめん、ちょっと話したいことあって」
 そう言うと、トワは首をかしげて優しい表情をした。とにかくすごく寒かった。手袋してなかったから、指先に感覚はなかった。まただ、心臓がばくばくしてる。前はこんなこと無かったのに、最近トワと居ると心臓がばくばく言う。トワを呼びだしといて私が何も言わないから、トワのほうから声をかけた。
「家でなんか嫌なことでもあった?」
 そう聞かれて、私は小さく首を振った。
「ちょっと待ってて、傘取ってくるよ、凄い雪じゃん」
 そう言って家に戻ろうとするトワの腕を掴んだ。
「いい」
「いいって言うけど、めちゃくちゃ降ってんじゃん」
 トワの腕を掴む私の手は震えてた。緊張してたからなのか、寒かったからなのかわからない。
「どしたの?サエ?」
 トワは、家に戻るのをやめてこっちを向いた。そんなトワの髪の上にも、肩にも。私が掴んでいる腕にも雪が落ちてくる。トワの着ているニットにすぅーっと雪が溶け込んでいくのを見て思った。上着を着ていないトワのほうがもっと寒いはずだ。早く話をしなきゃ。

「この前…ね」
 やっと口を開いた私を、トワはじっと見ていた。
「この前。トワと出かけた日あるじゃん?熱出して送ってもらった日」
 声を出すと白い息がますます舞い上がる。寒くて目を開けてられなくて瞬きをいっぱいした。トワは、そんな私をじっと見ていた。
「うん、つくば行った時でしょ?」
 そう言われて頷いた。
「あの時、…トワうちのママに引っぱたかれたの?」
 聞いた私の質問に、トワは何の反応も示さない。
「弟にね、さっき聞いたの。具合悪いのに連れ出した自分が悪いってママに言ったんだって?謝ったんだって?」
「そう聞いた?」
 トワの短い質問に、また私は頷いた。
「なんでトワは悪くないのに謝ったの?前にほっぺた怪我してたのって、ママのせいでしょ?」
 トワは何も言わなかった。だけど目をそらして、それから小さく頷いた。
「どっか行きたいって言ったのは私じゃん?トワは学校無断欠席になっちゃったし、何も言わないけど、家でも怒られたんでしょ?全部私のせいで」
「怒られてないよ…」
 小さくトワは返事をする。目をそらしたまま。
「なんで隠すの?」
「隠してないよ」
「だって、引っぱたかれたこととか言わなかったじゃん?怪我のこと何度か聞いたのに」
 それまで冷静だったトワも、少し早口で言った。
「サエが、心配しないように言わなかっただけだろ?いくらサエ相手でも言わないことくらいあるよ、俺にだって」
 そんなの当たり前だよ。私に言わないことだって、あるよ。わかってるよ。トワは私の彼氏でもないし。私もトワの彼女じゃない。そうだったとしても、何でも話すかって…言わないことだってあると思う。それでも知らなかったのが嫌だった。目の前でじっとしてるトワを見ていると、今度は自分が悲しくなってきた。掴んでいたトワの手を離すと、私は両手をポケットに入れた。深呼吸して。落ち着けって自分に言い聞かせて。そしてトワに言った。
「そういうの好きじゃないんだ」
 目をそらしていたトワがこっちを向く。
「かばわれたりとか、うちのママに引っぱたかれたこと隠されてるのとか、そういうの嫌なんだ」
 トワはそっと下唇を噛んだ。何か言われる。そう思った。びくっとしたけど、何も言わなかった。それよりも、泣きそうな顔をして下を向いた。
「優しさのつもりかもしれないけど、そういうの私好きじゃないんだ」

 どうしてこんなトワを目の前にして私はこんなこと言ってるんだろう。大好きなのに。だから本当のこと知りたくて。だからトワに謝りたかったのに。
「もう、月曜から1人で学校行くから迎えに来ないで。帰りも、1人で帰るから」
 そう言って、私はトワの前から去った。トワは、追いかけては来なかった。何考えてるかなんて全然わからない。私に…。思ったこと口に出さないって私に言うわりには、自分だってそうじゃん。ポケットに手を入れたまま、私はすたすたと雪の中を歩いた。前が見えづらくなるくらい降り続ける雪も気になんてならなかった。早くその場から立ち去りたくて。だんだんと速足になって。1つ目の路地を曲がると同時に走り出した。辛くて。涙が止まらなくて。力いっぱい走って、そして転んだ。転んだ時の膝の痛みよりも、胸が痛かった。

 次の日のニュースでやってた。昨日の夜は、関東ではこの冬1番の雪だった。今日から少しずつ、穏やかになっていくでしょう。そう言ってた。1番寒い時間に、私の心も氷みたいだった。トワのこと好きなのに、温かい心で居られなかった。どうせ私はそんなやつなんだ。だから家族のことも嫌いになるし。自分の将来からも逃げるし。私とトワは違う。私みたいなのがトワを縛りつけてたらいけないんだ。トワはもっと自由に。その名前みたいに、いっぱい羽を広げて飛ぶんだもん。私は所詮、それを地面から見上げて夢見てるだけの雑草なんだ。



 月曜日、私は少し早く家を出た。今まで自転車だったからよかったけど、歩いてだと早く出ないと時間がかかるからだ。トワにあんなこと言って。それからメールも何も、お互い無い。間に休日を挟んでいたから、その間に弟のサッカーの試合を見に行ったり、何かと考えないようにしていた。今日もエレベーターのボタンを押してじっと待つ。途中で止まって、知らないおじさんが乗ってきた。知らないとはいえ、同じマンションの住民なので頭だけ下げた。ちぇ。何だか今日は、止まりたくなかった。一気に1階まで行って欲しかったなぁ…。テンションが下がったままでマンションの入り口を出ようとした。その時にこっちを向いて立っているトワを見つけた。いつもの場所とは違う。少し離れた電柱の傍で。ダウンジャケットのポケットに手を入れて、立ってる。だけど私は、気付かないフリをした。絶対に気付く場所に立ってるのに、気付かないフリをして通り過ぎようとした。
「サエ、おはよう」
 トワはいつもみたいに挨拶をする。その声を振り切るように通り過ぎた。後ろで自転車のスタンドを外す音がする。トワは、自転車には乗らず、手で押したまま後ろを追いかけてきた。肩にかけたバッグの取っ手をギュッと握りしめたまま、私は速足で歩いた。
「ねぇ、サエ」
 私の隣に並ぶように、自転車を押しながらトワが歩いていた。少しちらっと見たけど、また目をそらした。目が合わせられなかったんだ。それからトワは何も言わなかったけど、私に速度を合わせたまま自転車を押しながら隣を歩いた。私、無視してるのに。気付かないフリをわざとしたのに。
「なんで待ってたの?」
 ふいに立ち止まってトワのほうを向くと、私はそう言った。自転車のブレーキをきゅっとかけて、トワも止まった。
「もう一緒に行かないって言ったじゃん?聞いてたでしょ?」
 いらいらしながら私は言った。なのにトワは優しく頷いた。
「なんなの?その落ち着いた感じがいらいらするのよ。ついて来ないで。」
 同じ方向に行くんだからついて来ないでもないのに。今思うと馬鹿みたいなことを言ったと思うけど。トワの傍に居たくなくて、また私はすたすたと歩いた。そしたらまた、トワは同じ速度で自転車を押しながら歩いてくる。もう嫌だった。
「やめてよ、ストーカーみたいで気味悪いじゃん」

 最低だ。

 最悪だ。

 私…トワのこと、好きなんだよね?

 自問自答しても、何を自問してんだか何を自答してんだかわけわかんなかった。1限目の授業を受けてる間に気分が悪くなって、2限目は保健室で寝てた。保健の先生に聞こえないようにこっそり泣いた。思い出してしまう。今朝のトワの顔。悲しそうで、苦しそうで。なんで怒った顔じゃなかったんだろう。何も言わないで、その後私と少し距離を置いて歩いてた。自転車には乗らずに、少し後ろに離れるように歩いてた。そういうトワの優しいところが、好きだけど嫌いなんだ。

 2限目が終わってユカリが保健室に様子を見に来てくれた。そしてそのまま、ユカリと2人で3限目はサボった。体育館の裏の倉庫が並ぶ1画で。1つだけ、鍵がつぶれてるのをみんな知ってるんだ。誰もいなかったから、そこでユカリとサボった。運動会の時に使う備品がいっぱいの倉庫で、マットの上に2人で座った。私が一方的に話をして、ユカリは聞いてくれてるだけだったけど。泣きながら話してすっきりした。話し終わるとやっと、ユカリが思ってる事を口にした。
「なんでサエはいっつも自分がしんどくなる選択するの?」
 隣に座っていたユカリはもっと私に体をくっつけて、肩に手を乗せた。
「サエの気持ちもわからないでも無いよ、自分のせいで坂井くんが犠牲になってるっぽい感じしちゃうんでしょ?自転車で送ってくれてることもいろいろ含めて」
「そう…なのかな?上手く頭の中まとめられないけど」
 ユカリに借りたハンカチで涙を拭きながら、足元を見つめて私は答えた。
「でもさ、好きだっていうのも事実なわけじゃん?」
 ユカリにそう言われてコクンと頷いた。
「坂井くんを傷つけたくないから…サエは離れようとしちゃうのかな。私恋愛下手だからよくわからないけど」
 そう言ってユカリは私の肩をとんとんと優しくなだめるように叩いた。
「でももういいんだ。遅いよ。ストーカーなんて…最低」
 トワにはもう、顔合わせられないよ。嫌な顔されて、怒られたほうがどれだけマシなんだろう。

 その日の帰り。下足ロッカーで友達を1人捕まえた。中学から一緒の高田くんだ。
「ケントさぁ、チャリ通だったよね?」
 ロッカーのドアを開けようとしたところへスルッと体を入れ込んで、話しかけた。中学の時も1度同じクラスになったことがあって、高校に入ってからも1年2年とずっと同じクラス。そこそこ気ごころ知れてる友達だった。
「あぁ、そだけど?」
「ねぇー、今日家まで乗せてってくんない?」
 ニッコリ笑ってそう言った。
「はぁ?だって、旦那は?坂井は?」
 そう言われてむかっとした顔をして答えた。
「旦那とか言わないでくれる?もうあいつとは縁切ったから」
 そんなことを言ってる私を押しのけてケントはロッカーのドアを開けると靴を出した。
「夫婦喧嘩の間に入るのとか嫌だからね、俺」
「そういうんじゃないってば。いつ夫婦になったのよ。トワとは何も無いし」
 そう言う私に顔を近づけてケントは言った。
「ふられたの?」
「違うってば。ふられるも何も、付き合ってないから」
 さっさと靴を履き替えて去ろうとするケントの後を追いかけて自転車置き場まで着いて行った。
「もぉー、マジで?」
「いいじゃん、家近いじゃん。送ってよ」
 半分無理やりだったけど、その日はケントの自転車の後ろに乗った。2人乗りしたまま自転車置き場から正門まで行こうとした時に、トワとすれ違った。すれ違いざまにケントがトワに声をかけた。
「おい、坂井!こいつどーにかしてくれよ」
 トワがこっちを見ていたのは知ってるけど、そのままケントの背中を叩いて急かした。
「もぉー、よそ見しないでちゃんと走ってよね、危ないじゃん」
 きゃあきゃあ言いながら、そのまま門を出た。

 マンションのすぐ傍で自転車を下ろしてもらった。
「ありがと、助かりました」
 私は大げさに深く頭を下げた。
「今日だけにしてよ?」
 ケントは自転車に乗ったままそう言った。
「明日も明後日も。帰りだけと言わずに朝も、駄目?」
 両手を合わせてケントにそうお願いする。
「嫌だよ、なんで彼女でも無いのに送り迎えすんだよ?」
「じゃぁ彼女になってもいいから」
 両手を合わせたまま私はそう言った。その時少し、ケントの顔色が変わったんだ。
「それ、マジで言ってんの?」
「私じゃ、嫌?」
 自転車に乗ったまま、さっきよりももっと体をこちらに向けてケントは言った。
「嫌とかそういうんじゃなくてさ。なんなの?それ告白してるつもり?」
「告白…とは違うけど」
 軽いのりみたいなつもりで話してた私を遮るみたいな空気だった。胸のあたりで合わせてた両手は下ろした。
「なんか知んないけどさ、坂井と喧嘩でもしたわけ?」
「それはケントに関係ないじゃん」
「まぁ、確かにね。でもあいつの代わりとかそういうの、俺無理だから」
 その言葉に、何も言えずに私は黙ってしまった。
「やっぱ喧嘩したんでしょ?何かやったの?あいつ」
「何も…ないよ」
「そぉ?」
「とにかくさ。うざいの。面倒くさいの、トワと居ると」
「そうだったの?仲良さそうだったけど?」
「そんなこと無いよ。トワって自分の意見あんまり言わなくて何でも私が決めなきゃいけないし、金魚のフンみたいについてくるし、ちょっと何かあるとサエ?サエ?ってうるさいし。だからもう一緒に行くのもやめた」
 なんだか意地になってトワを否定するようなことばかりケントに言ってた。
「それ、…坂井本人に言った?」
 ケントは自転車のペダルを右足で蹴ったりしながら、ぼそっと私にそう聞いた。
「そこまで全部は言ってないけど…似たようなこと、は言ったかも」
「落ち込んでただろ?」
「トワが?」
「うん」
「知らない」
 そう言うとケントはフッて笑った。
「なんで笑うの?」
「坂井、可哀想だなーって思って」
「なんで?」
「あいつ中学ん時からずっと横山のこと好きだったんだぜ?」
「え?…私?」
「そう、おまえのこと」
 放心した。だって、知らないよ。トワそんなこと言わないもん。好きとか聞いたことないもん。むしろ迷惑そうにいつも私の相手してたのに。
「だからてっきり、そういう関係に2人なってるんだと思ってた」
 今日は朝から最悪だ。心の準備もしていないまま。一生分のいろんな感情が押し寄せた気がする。私は自分の思うまま動いてしまって。トワの心の中なんて知らない。とにかくもう、どうにもならないよ。最悪な女になってしまったから。



 それから当面、歩いて学校に行った。トワとは廊下ですれ違っても目も合わさなかった。合わせられなかった。トワがこっちを見てくれていたかどうかも知らない。学校さえも楽しくなくなってしまった。家は、前よりは居心地悪くはなくなったけど。それでも好きな場所でもなくて。学校が終わるとユカリと一緒に駅まで行って、乗る必要もない電車に乗った。家に帰るのもつまらないから、1人ででもぶらっと出かけてから帰った。知らない男の子に声かけられて、そのまま遊びに行ったこともある。たいてい何でもおごってくれるし。楽しかったらそれでいい。変なこと、してないし。カラオケ行ったり、みんなでご飯食べたり。知らない人ばかりのほうが、逆にホッと出来た。

 その日はユカリと7時頃まで一緒にぶらぶらとウインドウショッピングをしていて。一緒に帰ればよかったのだけれど、私だけそのまま帰らずにまだぶらぶらと雑貨店に入ったりしていた。そんな時に声をかけてきた人は大学生の2人組で。やっぱり家に帰りたくなかったから誘われるまま居酒屋で一緒にご飯を食べた。すっごい楽しかったけど、途中から2人はお酒に酔っぱらいだして。別に何もされなかったけど車で送ってくれるって言われて断った。
「それって飲酒運転じゃん」
 そう言ったけど、大丈夫だって聞かない。そんな運転怖いからいいって言った。言って駅に向かって歩き出そうとしたけど、2人に腕を掴まれた。
「離してよ、お酒くさいー」
「なんで逃げんの?全然酔って無いよ、送ってあげるからさ」
 そう言って駐車場のほうへ連れて行こうとする。何かされたらどうしようって、やっぱり怖くなってきて。泣きそうになって。必死で2人を振り払って逃げた。1人追いかけてきていたと思うけど、誰も居ない路地に隠れてなんとか逃げ切れた。酔っぱらってくれていてよかった。本気で追いかけられていたらきっと逃げられない。ますます怖くなってきた。
 なんて馬鹿なことやってんだろう、私。とにかく怖くてなかなか路地から出て行けなくて。結構長い間、そこに隠れていた。動けなくて、息をひそめるみたいにして、狭い路地の壁にもたれて立っていた。
「早く帰らなきゃ」
 携帯を開いて時間を見てみる。11時過ぎ。最近毎日こんな時間だから、ママは前よりうるさくなった。パパはこの時間だとまだ帰って無いと思う。けどもし帰ってたら絶対に怒られる。そおっと路地を出て、駅まで走った。あの大学生は見当たらなかった。
 電車の本数は減っていて、少し待たなくてはいけない。ホームのベンチに座って、ぼぉーっとしてた。実際には頭が混乱していた。怖かった。誰か助けて…。
 ふと空を見上げると、月が見えた。
「三日月だ。」
 あの日ぶり。トワと見た、あの三日月ぶり。いつもなら月なんて気にならないのに。
「俺宇宙のこととか凄く好きで、星とか星座とかそのへんも全般」
 トワが言ってた。そんなことを思いだした。実はそれを聞いた後、星を少し調べたりした。弟が持ってたなぁと、押入れをごそごそと探して。星座の図鑑を引っ張り出していくつか星座を探した。
「オリオン座」
 目の前に広がる。オリオンの三つ星。大きく光るリゲル。すぐ傍に見えるおおいぬ座のシリウス。きれいじゃん。トワの心の中みたいじゃん。光ってるよ、きれいに。冬の空を見ていたら、トワにひどいこといっぱい言った自分が嫌になってきた。トワは何も言わないけど、きっとたくさん傷つけてる。だけどね。好きなの、やっぱり。私もトワの心の中みたいにきれいになりたいよ。
 バッグから携帯を取り出した。かける資格はないとわかっていながらトワの番号を選んだ。もう何日も話していないのに、自分のわがままで電話をかけた。
「もし…もし?」
 それでもトワは、出てくれる。何処かでぜったいに出てくれるって思ってる自分がきっといた。それほどにトワに寄りかかってる自分を再確認したら情けなくなる。
「あの…、サエだけど」
「うん、何?」
「電話…出てくれるんだね」
「…だって、鳴ったから」
 そう言われて、一気に涙が出た。だって普通、鳴っても出ないよ。馬鹿じゃん、トワは。駅のホームだってこと、忘れるくらい涙が出てきた。周りには私くらいの年の子は居なくって、酔っぱらってるおじさんとかばっかりで。少し居る若い人もみんな、遠目で見てるだけだった。
「トワ…ごめんね」
 泣きながら私はそう言った。
「泣いてる?サエ?」
 小さくトワの声が聞こえた。
「あのね、ごめんね。ひどいこといっぱい言って、ごめんね」
 鼻をすすりながら、かろうじてそう言った。電話の向こうでトワは何も言わない、静かだった。
「トワにいっぱいわがまま言って、いっぱい助けてもらってんのに。ありがとうって言えなくてひどいことばっかり言っちゃう。ごめんね。私のこと怒ってるよね」
 電話の向こうで、小さく鼻をすするとトワは言った。
「正直ちょっとムカってきたり悲しかったこともあったけど、サエのこと怒ってはないよ」
「なんで?」
「なんでかな。わかんない」
 そう言うと、電話越しの耳元でトワはクスッと笑った。くすぐったくて、切なくなった。
「あのね、逢いたい」
 1番近くに居たおじさんは、じっと私を見ていた気がする。
「逢いたいの。トワに。逢いたい」
「…サエ?」
「今逢いたいの。じゃないと嫌だ」
 ちょうど、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。電話の向こうにも聞こえたみたいだった。
「サエ、何処にいるの?駅?」
「うん、電車に乗るとこ。もう、すぐ帰るから。逢いたい」
 トワは、最寄駅まで迎えに行くからと言って電話を切った。思い切り泣いたまま、私は電車に乗った。誰に見られてもどうでもよかった。気にならなかった。トワが逢いに来てくれるそれだけが、嬉しかったから。

 つくばの駅で。トワは待っていた。みんながだいたい待ち合わせに使うコンビニの前で。いつもみたいにダウンジャケットのポケットに手を入れて、待っていた。
「サエ!」
 トワが、先に声をかけてくれた。泣いてぐちゃぐちゃになってる私を見て、走り寄って来た。
「大丈夫?」
 そう言って頭を撫でてくれる。
「トワぁ。」
「どしたの?何かあったの?」
 背を少しかがめてトワは私に問いかける。
「トワに逢いたかったの」
 いっぱい人がいたけど、気にならなかった。情けないくらい子供みたいに立ち止まって、目の前にいるトワをこの目で確かめる。大学生に追いかけられたのが怖かったのもあったし、トワに謝らないといけないとか、いっぱい感情がこみあげてきて涙が止まらなかった。だから余計に、もう逢ってくれないんじゃないかと思っていたトワが目の前にいて、ホッとした。涙を拭いたから、コートの袖は濡れてしまっていた。
「急に泣きながら電話してくるからびっくりした、とにかく大丈夫でよかったよ」
 トワがそう言うのを聞いて、涙を無理に止めて私は顔をあげた。
「でもサエさぁ…、こんな時間まで何してたの?」
 そう言ったトワの表情から笑顔がちょっと消えた。少しね、びっくりした。落ち着いた小さな声だけど、トワは怒ってた。
「制服のままで、もう11時半だし。いったいサエはこんな時間まで何してたの?」
 そう言うと、私の手を取って歩きだした。改札のある地下から地上に出て、すぐのところにトワは自転車を停めていた。
「ほら、乗って」
 そう言うと自転車のスタンドを外した。
「嫌だ」
「なんで?」
「まだ帰らない」
 素直に帰ればいいのに、またトワに反発してしまう。私は頑固にそこに立ちつくした。トワは大きくため息をつく。
「じゃあ俺を呼びだすなよ。逢いたいとか言うなよ」
「だって逢いたかったんだもん」
 自転車に座ったまま、トワはこっちを向いている。
「サエは今どうしたいの?何したいの?」
 わからない。わからなくて何も答えられなかった。何て言っていいのかわからなかった。
「帰らないんだったら、俺1人で帰るよ」
 トワはそう言うとペダルに足をかけた。
「嫌だ、待って」
 とっさにトワに抱きついてた。うまく口に出せないけど、トワとは一緒に居たかったんだ。
「ごめん、トワ。ちゃんと謝りたいから待って」
 トワは、何も言わなかった。抱きつく私を、トワはそのまま抱きしめた。
「わかった、まだ帰らないから」
 ただそれだけが、優しかった。そしたらまた、涙がいっぱい出て来たんだ。
 自転車置き場だから、時々人が来る。自分の自転車を探しては、乗って帰って行く。駅前はまだまだ電灯が明るくて、時々先の道路を車が通り過ぎる。
「ねぇサエ、まだ俺と一緒に学校行きたくない?」
 私を抱きしめたままでふいにトワが、私の髪にトワの唇が触れるくらいの距離で、そう聞いた。何も答えず、私は首を振った。
「また朝迎えに行ってもいい?」
 そう聞かれて、頷いた。
「サエにいろいろと黙ってたことあって、ごめんね。心配かけたくなかったんだ」
 止まりかけてた涙はまた流れ出した。
「謝らないといけないのは私だから。ごめんね、トワ。いっぱい助けてもらったのに、ひどいこと言ってごめんね」
 顔を上げてトワにそう言うと、さっきよりもっと強くトワに抱きついた。
「ねぇ、サエ。俺もすごく、逢いたかったよ」
 そう言われて、もっともっと泣いた。
「私のこと、許してくれんの?」
 もう1度顔を上げて、トワの顔を見て言った。そしたらトワはにっこり笑ってた。
「1つ、聞いてくれたら許してあげる」
「何?」
「サエ、自転車の練習しようよ」
「自転車?」
「うん」
「なんで?朝迎えに来てくれるんじゃないの?」
「行くよ、行くけど。前にさ、サエの願い事どれか1つくらい叶うかな?って、サエ俺に聞いたじゃん?」
「…うん」
「自転車練習して、まずは1つ叶えようよ」
 トワにそう言われて、涙は自然と止まった。笑顔で私は頷いた。
「わかった、頑張るから教えてくれる?」
「いいよ」
 トワはそう言うとガッツポーズをしながら笑った。
「今日はもう遅いから、帰ろう?サエまた怒られるよ?」
 そう言われて、トワの自転車の後ろに乗った。
「あ、トワ。今日ね、三日月なんだよ」
 そう言うとトワは空を見上げた。
「ほんとだ。今日はマジで三日月だ」
「シリウスとかも見えるよ」
「え?サエ、星とか知ってんの?」
 トワはちょっと馬鹿にした顔で振り向いた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん。知ってるもんは知ってるもん」
 そして空を指差して私は得意げに言った。
「あの光ってるやつ」
 トワは優しく笑って、空を指差す私の手を取ると、自分の腰に回した。
「急いで帰るから、しっかり掴まってて」

 その日はいつも以上にママに怒られた。でももう、こんな夜遊びはしないから。ママにも約束したけど、自分でもそう誓った。トワにいくら許してもらえたからって。でもやっぱり私がトワに言ったことや態度はやっぱり消せないから。これからいっぱいトワに。優しくしてもらった分、返していくんだって決めたんだ。



 高校2年最後の試験が始まって。午前中で学校は終わり午後には帰宅する。その間毎日トワは自転車の練習に付き合ってくれた。試験勉強をするからと、1時間だけ。そこが私とトワの違うところ。試験勉強…はかどらない。
「うちで一緒にやろうよ」
 そう言われたけど。たぶん途中で勉強するのが嫌になって、もうやーめたって言っちゃう私が一緒だとトワの勉強の邪魔になるから。お昼をいつも一緒に食べて、それから自転車の練習をして。そしたらいつもバイバイする。

 運動は得意なほうだ。なのにどうして自転車だけはうまく乗れないんだろう。バランスの問題だってトワは言う。2日目に少しだけ走れた。トワの自転車のサドルを下げて私が乗る。その後ろをトワが持っていてくれる。2~3回乗って、でもうまく走れなくて転びそうになる。そしたらもう練習したくなくなるんだ。
「サエが自転車乗れないのって、乗れないんじゃなくて。練習を、そのたった3回程度で辞めちゃうから乗れる前に諦めちゃってるだけでしょ」
 トワが自転車の後ろを持っていちいちうるさい。
「だって、やる気無くすよ、すぐ自転車傾いちゃうし。もう嫌だ、辞める」
 1日目はそんな感じでほぼ喧嘩で終わった。
 2日目は最初にトワが私を後ろに乗せて走った。
「よく感じて?自分の体の左右のバランス」
 いつも乗せてもらうのと同じように後ろの荷台にまたがるように座って、なんとなく言われたことを感じるようにしてみる。
「そんなのわかんないよ」
「ほら、じゃぁサエ乗ってみて。ハンドルは力いっぱい握らなくていいから」
 言われたとおりにやってもなかなか乗れない。だけどね、ほんの一瞬、少しだけ。トワが手を離したままで走れた。
「サエ今乗れたよ!?」
「うそ、ほんとに?」
 ほんのほんの少しだけど。幼稚園ぐらいの子供がパパに教えられてるみたいに、17の私がトワに教えられてるのがちょっと情けない。けどね、久々に一生懸命何かをやってる気がしてちょっと楽しかった。
「きっともうちょっとやれば乗れるよ。やっぱ乗れないことないんだよ、サエは」
 トワに言われてなんだかその気になってくる。めちゃくちゃ笑顔でもう1度ペダルに足を乗せた。できそうな気がするんだ。マンションに隣接する公園で。広場になっている場所で自転車を走らせる。ふらふらってしながらだけど、少しだけ足を付かずに自転車で走れた。
「もうちょっとで絶対乗れるよ」
 後ろを歩いて着いてきていたトワが私の前に走り込んで来てそう言った。
「やっぱり?私も乗れそうな気がする」
 そう言うと、トワは笑った。
「サエってさ、誉められて伸びるタイプだよね」
「はぁ?何それ」
「叱られたら絶対やる気失せるでしょ?」
「うん、即効辞める」
 そう答えるといっそうトワは笑った。
 そんな感じで練習を続けたけど、3日目も4日目もふらふらっと少し走れる程度で、乗れるってほどにはならなかった。少し走れたとしても、曲がったりとかまだまだ無理だし。そうこうしている間に試験は終わり、試験休みに突入した。
「もしもし?トワ?どしたの?」
 試験休みの最初の日、トワから電話があった。
「自転車の練習、今日ちょっと付き合えないんだけど。ごめん」
「あぁ、いいよ。1人でやるからー」
 お昼前に、ちょうどこのトワの電話で起きた。
「学校休みだし、私も何時に起きるかわかんないし。時間ある時1人でやるからいいよ」
 あくびをしながらトワにそう言うと、電話の向こうで笑ってる。
「寝てばっかで太っちゃうよ?んじゃ、なんかあったら電話ちょうだい、行くから」
「うん、わかった。それにしても三者懇談嫌だなぁー、トワはいいよね怒られるとこ無いから」
 もう学校は授業も無く、それぞれ指定された日時に三者懇談で登校するだけ。
「そんなことないよ。サエは懇談明後日だっけ?」
「うん、トワは?」
「俺は明日。逢えないね」
「そっかぁ…」
 デスクに置いたカレンダーを見た。とくにトワとは遊ぶ約束もしてないし、次に逢うのは1週間後の終業式だ。
「じゃーまた終業式に」
 そう言って電話を切った。

 とにかく試験休み中はグダグダと過ごしてた。お昼頃まで寝て、ママが置いてってくれてるお弁当を食べて。部屋着のままリビングでテレビを見たり雑誌を見たり。それから部屋に戻ってまたベッドで横になる。窓の外は寒そうで、出かける気にもならない。外に出たのは懇談の日だけだった。そんなこんなで。結局、自転車の練習は1人ではやらなかった。変に安心していたんだ。トワとも連絡を取ったりすることもなかった。自転車の練習はいつだってできるし…とか。もう少し温かくなってから…とか。トワとも仲直りできたし。このまま今まで通りトワに寄り添ってていいんだよねって。勝手に安心していたんだ。


 通知表は最悪だった…。懇談でちらっと見たけど、あえてちゃんと見ると最悪だ。
「サエ。3年になったらかなり勉強しなきゃ、地獄だよこの通知表」
 ユカリが背後からこっそり覗いて言った。
「うるさいなぁ、わかってるよ。自分より成績いい人に言われると嫌味にしか聞こえなーい」
 ユカリから逃げるようにして自分の席に座った。もう1度見てみる…最悪。目をそらすようにさっさとバッグにしまった。やっぱりトワに勉強見てもらうんだった。ちらほらとクラスのみんなが帰って行く。
「このクラスのメンバーとも今日で終わりかぁ」
 コートを着て、帰る準備をしながらそう言うと私はバッグを肩にかけた。
「サエ、3年も同じクラスだったらいいのにね」
「うん」
 ユカリと2人で教室の入り口に向かって歩いて行こうとした時に、トワが教室を覗いた。
「サエ、帰ろ」
 珍しいことだった。いつも、今まで。ずっとお互い帰り際に声をかけることなんてなくて。下足ロッカー付近で早く降りて来たほうが待ってるのが普通。そしたら一緒に帰るって感じで。帰ろうなんて声をかけられたのは初めてだった。ユカリが口に手を当てて私とトワを交互に見る。
「何?何?ついにちゃんと付き合うことになったりした感じ?」
 それを聞いてトワは黙ってにっこりしていた。
「急に変なこと言わないでよ」
 ユカリの背中をポンっと叩いて私は足早に教室を出た。まだ残っているクラスメイトも何人かこちらを見ていた。
「トワが急に来るからみんなに見られてるじゃん」
 実際には嬉しかったけれど、照れ隠しで怒ったふりをした。そうしてさっさと歩いて行く私の後をトワが着いてくる。
「またねっ、サエ」
 振り向くとユカリは手を振っていた。私も手を振り返した。1階まで降りて、自転車置き場まで。2人ずっと無口なままだった。いつも通り2人乗りで、いつもの道を帰って行く。
「サエさぁ、自転車乗れるようになった?」
 前を向いて自転車を運転しながらトワが言った。
「まだ」
 そう言うと、トワは少し振り向いた。
「えー?そうなの?」
 振り向いたから自転車がぐらっと揺れてふらついた。
「ちょっとトワ、こけちゃうじゃん」
 だけどすぐにトワはちゃんと自転車を真っ直ぐに戻した。
「大丈夫、サエと違って俺は自転車ちゃんと乗れるから」
 馬鹿にしたみたいにちょっと笑いながら言うから、後ろから背中を叩いた。
「痛いなぁ」
 やっぱりちょっとでも練習すればよかったかな。そう思って叩いた手を下ろした。
「そっか、乗れずじまいか…」
 小声でトワが呟いた。それからまた無口だった。今日はなんだか無口だった。

 そのうちマンションについて、私は自転車を降りた。
「また電話するねー」
 そう言ってトワと別れた。つもと同じ、私がマンションに入って行くのを見送ってからトワは自転車をまた漕ぎ出す。エレベーターに乗ろうと思ったら私の携帯が鳴った。ユカリからだった。
「サエ?もううち帰っちゃった?」
「え?うん、もう家だけど」
「駅前のカラオケにクラスの子たちと居てさ、来ないかなと思って電話したんだけど。坂井くんも帰っちゃった?」
 エレベーターには乗らずに、そのまま外に走って出た。もしかしたらまだトワが見える所に居るかも知れないと思ったから。
「あー、帰っちゃったけど、電話してみようか?カラオケ行きたいー」
「うん、じゃあ待ってるね」
 サエの電話は騒がしかった。きっとみんなわいわいやってるんだろう。せっかく学校終わって春休みに入るんだし、トワも誘って行こう。ユカリとの電話を切ってすぐにそのままトワに電話をかけた。

「え?なんで?」

 耳に当てていた携帯を下ろして画面を見た。

 "とわ"

 ちゃんと表示はトワになってる。
「え?なんで?」
 電話を切って、もう1回住所録から"とわ"の名前を探してボタンを押した。
「なんでよ?」
 なんだかよくわからなかった。いつもかけてる"とわ"への電話は繋がらない。この電話は現在使われておりません。そう、アナウンスが流れるだけだった。意味分かんない。そのまますぐユカリに電話をかけた。
「あ、サエー?どしたぁ?これる?」
 わいわい賑やかな声をバックにユカリが電話に出た。
「ねぇ、ユカリってトワの携帯番号知ってたっけ?」
「あー知らないなぁ。なんで?」
「電話したら、使われておりませんって出るの。ねぇ、そこにいる誰か、トワの携帯知ってたらかけてもらってみてくれない?」
「えー?繋がらないの?ちょっと待ってね。」
 電話の向こうでユカリが周りに声をかけていた。それを聞きながら、私は少しずつ歩き始めた。トワの家のほうに向かって。ユカリと誰かとのやりとりが微かに聞こえる。
「あ、サエー?やっぱり繋がらないみたい、使われておりませんって言うってよ」
 ユカリの返事を聞いたくらいから、私は走り出していた。
「ありがと」
 それだけ言って、電話を切った。使われてないって…どういうこと?ねぇ、トワ?


 トワの家に着くと、玄関先に自転車が止まってた。トワのやつ。とにかく電話が繋がらないから、不安で、トワに聞きたくて、玄関のチャイムを鳴らした。出て来たのはトワのママだった。
「ちょっと待ってね」
 そう言って、2階へと上がって行った。トワは部屋に居るようだった。私はただ黙って携帯を握りしめて待っていた。先に階段を下りて来たトワのママは、よかったら上がって行ってねと声をかけて奥の部屋に入って行った。そして少しして、トワが2階から降りて来た。
「サエ、どしたの?」
 トワはまだ制服のままだった。
「携帯、繋がんないんだけど?」
 そう言うと、トワの表情が変わった。笑顔が消えた。けど無理やり笑ってトワは言う。
「なんで?」
「なんで?って、それは私の台詞だよ。トワの携帯使われておりませんって言うんだけど」
 そしたらトワはクスッと笑って言った。
「サエの携帯がおかしいんじゃないの?」
「そんなことないよ、他の子にもかけてもらったけど同じように使われてないってアナウンスが出るって言ってたもん」
 玄関先で、私がちょっと大きな声だったから、トワのママが奥から出て来た。
「どうしたの?」
 そしたらトワはママのほうを向いて言った。
「なんでもないよ、ちょっと出かけてくる」
 私のほうをちらっと見て、それからトワは2階へ上がるといつも着ているダウンジャケットを手に取って降りて来た。

 何処へ行くともなく、トワが歩くから。私はその後をついて歩いた。トワが行ったのは公園だった。小さな子が遊ぶ程度の遊具しかない小さな公園。そこでトワはやっと口をきいた。
「ごめんサエ」
 私を見てそう言うと、また目をそらした。公園に入ってすぐのブランコの傍で、向かい合って2人で立っていた。まだまだ寒い時期だからか、遊んでる子供も居ない。
「携帯、変えたんだ」
「番号も?」
「うん」
 トワはこっちを見てはくれなかった。
「なんで変えたの?」
 その質問には答えてくれなかった。
「私…トワに電話するとまずいのかな?新しい番号を教えてくれないって、そういうこと?」
 トワは黙って首を振った。
「なんで?意味分かんないんだけど?」
 何かを言いたそうで。だけど言いにくそうで。私はなんだかイライラしていたし。泣きそうでもあったし。トワが言わないその何かを聞くのもちょっと怖かった。
「俺さ…」
 トワは下を向いたまま言った。
「引っ越すんだ」
 そう言われて、私はただトワを見ていただけだった。そう言ったあとのトワも、何も言わずに下を向いたままだった。唾をゴクンと飲みこんだトワも。鼻をすするトワも。そのままじっと、私は見ていただけだった。何も言えなくて。思考回路は止まっていた。少し時間、経ったのかな。ふと声が出た。
「何処に?」
 それしか言わなかったけど、トワにはちゃんと通じてた。
「仙台」
 引っ越し先をトワは答えた。それからやっと私を見た。
「いつ?」
「明後日、行く」
「いつから決まってたの?」
「去年の…暮れ」
 片言の会話が続いた。お互い目はそらさなかった。質問しているけど、私の頭の中は真っ白で。たぶんずっと、無表情だった。
「なんで言わなかったの?」
 そう聞いたら、またトワは黙った。
「言えないの?」
 続けて私がそう聞くと、トワはまた下を向いた。
「誰にも言わずに行こうと思って」
「私にも?」
「…うん」
 その言葉が1番ショックだった。そういうの、言ってもらえる距離に居ると思ってた。それ以上トワの顔が見れなくて、下を向いたら涙が出て来た。走り去りたいと思うのに、動けなかった。
「ごめん」
 トワの言うその言葉が追い打ちをかけるようだった。私を拒否されてるみたいで、辛かった。大声で泣きたいのを必死で我慢して、我慢すればするほど苦しくて。手に持っていた携帯をトワに向かって投げた。いっぱいついてるストラップが音を立てながら、携帯はトワの胸のあたりを直撃して地面に落ちた。自分の足元のその携帯を見ると、トワはそれをゆっくりと拾う。
「トワは…そんなに私のことが嫌いだったんだ?邪魔だったんだ?」
 携帯を手にして、私が言うことを否定するようにトワは首を振る。
「じゃあなんで?」
 またトワは下を向く。
「トワって卑怯だよ。私には、我慢しないで俺の前では思ってること言えって言ったくせに。私には自分の思ってること全然言ってくれないじゃん」
 そう言うと私は肩にかけていた通学バッグもトワに向かって投げつけた。当たりはしなかったけど、トワの足元に落ちた。それをまた、トワはゆっくりと拾う。そして拾ったバッグに私の携帯を入れた。
「そうやって勝手に居なくなろうとして、卑怯じゃん」
 少しずつ近づいて、私はトワを右手で突いた。トワは一歩後ろに下がる。
「何か言ってよ。言ってからどっか行ってよ」
 もう1度私はトワを突いた。そしたらトワは私の右手をすっと掴んだ。
「サエのこと好きだよ」
 そう言って私をじっと見た。
「サエに伝えたいこといっぱいあるよ。あるけど、言ってしまったら離れるのが辛くなるから言いたくなかったんだ」


 私ね、この時。トワの思ってること全部聞きたいって思った。聞いてみたいって思った。
「全部言ってよ。トワの言えなくて心の中で思ってるだけのもの、全部聞かせてよ。じゃないと私もトワを行かせられない」
 強がるつもりはなかったけど、自然と涙は止まりかけていた。ちゃんと話を聞きたいって気持ちだけが強かった。
「私だって、トワのこと好きなんだから」
 私の右手を掴んだまま、トワは止まってた。そしてそのまま、掴んでいた私の右手を握った。手を繋いだまま、2人黙ったまま。思わず好きだと言ってしまった自分に戸惑っていた私と、それを聞いて動揺しているトワと。変な空気だった。心臓はまたばくばく言ってた。恥ずかしかったし、逃げ出したかった。そしたらトワは、握っている指先に少し力を入れた。
「サエ?」
 名前を呼ばれて、私はトワを見た。
「話、聞いてくれる?」
 すぐに返事ができなかった。聞きたいくせに、怖くて。
「サエには…話したい」


 トワの身長くらいの小さな滑り台の横に木で出来たベンチがあって、そこに2人で座った。誰も居ない公園だからだろうか、走って通り過ぎた猫が目に入って、見えなくなるまで見ていた。トワのほうは見れなかった。猫が見えなくなると、私は俯いた。トワは、さっき拾った私のバッグをすっと差し出した。黙ってそれを受け取ると、私は自分の膝の上に置いた。そしたらトワは、ちょっとずつ話を始めた。
「去年、冬休みに入ってすぐくらいに親父から転勤になるって急に聞かされたんだ」
 トワがゆっくり話すから、ゆっくり頭で考えながら聞いた。
「小さいころから何度も親父の仕事の都合で引っ越ししてるし、別にいつものことなんだけど。今回は…サエが居たから引っ越したくなくて」
 そこでトワの話は止まった。ふいにトワのほうを見ると、トワもこっちを見ていた。
「俺ね、…中学の時からサエのこと好きだったんだ。だから高校に入って、サエとこんなに仲良くさ、話せるようになれたこと本当に嬉しくて。引っ越すなんて、考えられなくなった」

「サエにわがまま言われても、それがマジで嬉しかったし。他のやつ頼るんなら、俺を頼ってくれるのが何より嬉しかったから。そんな関係を壊したく無くて、よけいに好きだって言えなくなって」
 トワは、目を泳がせながら、私を気にしながら話した。相槌さえ打てない私をとても気にしながら話してた。
「でも、引っ越すって言われて急に焦ったんだ。俺の気持ち伝えることよりも、サエのことが気になって」
「…私の、こと?」
「前にも言ったでしょう?2年になったくらいから気になってたんだけど。サエは自分のやりたいこととか言いたいこととか、無茶だって解ってることになると急にわがまま言わなくなって、言葉にしないで自分の中で我慢してしまう。見てると苦しそうで、無理に笑ってんの解るし。その頃から親の悪口増えたし。そう言うのどうにかしたいって思った」
 トワは、私のことになると一気に話した。それまでゆっくり、話してたのに。
「引っ越すのは2年が終わった春休みの間にって決まったから、時間が無いからとにかく早くサエを楽にしてあげたいってことばっかり考えてた。俺が居なくなったらサエがわがまま言うやつ居なくなるし。嫌なことあって腹いせに殴られても俺はサエのそういう位置に居られるのが嬉しかったから。それを違うやつに譲るのも嫌で。1人でもサエががんばれるように、早くしたかったんだ」
 少し顔を上げて。トワは真っ直ぐ前を見て話してた。そんな横顔を私はずっと見ていた。
「自転車も…。1回、高田に自転車乗せてもらって帰ってたじゃん?あれ見るのすげー辛かった。嫌だった。他のやつの自転車の後ろにサエが乗ってるの見たくなかった」
「それで私に自転車の練習しようって言ったの?」
 そう聞くと、トワはこっちを向いた。そして頷いた。
「かっこ悪いでしょ?ヤキモチち妬いた」
 視線を落として、トワは唇を噛んだ。それを見てきゅんとした。そう言えば、いつも表情さえ隠すトワが、ちょうど冬休みが明けた頃からそうじゃなくなったんだ。前より優しくなって、よく笑顔を見せてくれるようになった。トワの中で、私のこといろいろ考えてくれてたんだ。何かが違うって気付いてたのに、そこまでは知らなかったから。考えれば考えるほど、トワのこと好きだって気持ちが強くなる。なるからこそ、思い出した。トワに逢いに来た発端を…。
「じゃあなんで、携帯変えたの?私に教えてくれなかったの?」
 さっきより少し俯くトワを見て、私は目をそらした。
「どうして何も言わずに引っ越しちゃおうって思ったの?」



「サエへの気持ち…断ち切らないといけないと思って」



「なんで?」



「まさか、サエが俺のこと好きになってくれてると思って無くて」



 トワはふいにこちらを向いた。目があった。
「この前つくばの駅に迎えに行った日、電話で逢いたいって言われて苦しくなった。逢ってサエのこと抱きしめてたら泣きそうになった」
 そこまで言うと、トワは目をそらした。
「もう一緒に居られないのにこれ以上好きになったら辛いから、断ち切らなきゃって思って携帯を変えたんだ。引っ越すことも言わなかった。誰かから聞かれると困るから誰にも言わなかった」
 トワの気持ちが伝わってくるから一瞬言葉が出なかった。一生懸命話しながら、いつになく落ち着きの無いトワの動きが切なかった。心臓が破裂するんじゃないかって思うくらいドキドキして、抑えるには泣くしかできなかった。可愛く泣ければよかったんだろうけど、声に出して馬鹿みたいにしか泣けなかった。いっぱい泣いて、最終的に感情を吐き出してしまった。
「嫌…だ。なんでトワ1人で勝手に決めんの?」
 そしてまた私は手に持っていたバッグをトワに投げつけた。立ち上がってトワの前に立った。
「離れてたらもう話は聞いてくれないの?電話もメールも全部駄目なの?思ってること俺には話せって言ったじゃん?じゃあ責任とって最後まで聞いてよ」
 トワはベンチに座ったまま私を見上げていた。
「好きな気持ちどうにかしてよ。トワのこと好きなんだから」


「もう終わりとか嫌なんだから」



「トワのことは我慢できないもん。他のことみたいに諦められないもん…」




「…無理だもん」




 それ以上は何も言えなくて。溢れ出る涙を必死で拭った。苦しかった。どうしたらいいのか解らなかった。
「トワぁ…」
 そう、名前を呼ぶと、トワは立ち上がって私を抱きしめた。
「サエ」
 トワのにおいがした。安心する。温かかった。
「ごめんね」
 トワは、そっと私の頭を撫でた。子供をあやすみたいだった。私も、まるで子供みたいだった。わんわん泣いて、息が出来なくて、苦しかった。その間ずっと、トワは抱きしめてくれている。やっぱりこの人が居ないと駄目なんだよ、私。私もトワを抱きしめた。



 トワは、2日後に予定通り引っ越して行った。ちゃんと新しい住所と、携帯番号を教えてくれた。毎日、電話もメールもしてる。今まであんなに毎日一緒に居たのに、離れて初めて恋人同士になった。逢いたくなっても逢えないのに。でも相手がトワだから、そんな状況でも頑張れた気がする。離れているけれど、今まで変わらないように電話でいっぱい話をした。愚痴も文句もわがままも全部聞いてくれる。またかよ、って言いながら。

 春休みの間には自転車の練習をした。弟に自転車を借りて、無理やり弟も付き合わせて。ふらふらしながらなんとか乗れるようになって、トワに電話すると褒めてくれた。その日はいつもより早くママが帰って来て、ご機嫌な私に声をかけた。
「サエ、今日は機嫌いいじゃない、何かあったの?」
「うん、まぁね」
 練習に付き合わされた弟はそれを見て呆れてた。
「あ、ねぇママ。誕生日に欲しいものあるんだけど」
「え?何?」
 帰りにスーパーで買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら、ママは警戒した顔でこっちを見た。
「そんな高いものじゃないってば。自転車、自転車欲しいんだけど」
「え?サエ自転車乗れたっけ?」
「乗れるよ、完璧。3年になったら自転車通学するから」
 そう言ってママにピースして見せた。まだまだ自転車通学するには不安な運転しかできないけれど、でも誰かの自転車の後ろにはもう乗せてもらえないから。自分で乗って行きたいって思った。自分の叶えたいことの1つでも叶えるのがトワとの約束だから。まず1つ、これで叶う。

 3年になってユカリとまた同じクラスになった。
「今年は勉強がんばるんだ、ユカリまたいろいろ教えてね」
 そう言うとユカリは笑った。
「サエは頑張り始めが遅いんだよ。今からだとスパルタでいくよ」
「はい…覚悟してます」
 ユカリと2人で話してると、やっぱり聞いてくる人がいた。聞かれるとは思ってたけど、少し辛いな。
「ねぇサエ、坂井くんって学校辞めたの?」
 でもね、ちゃんと笑顔で返事したよ。聞かれるたびに、ちゃんと説明しといたよ。
「お父さんの仕事の転勤で、引っ越したの。春休みの間に」
「えーマジで?サエ寂しくなるじゃん」
「うん、大丈夫。毎日電話してるから」
 そう言ってピースして見せると、みんな笑顔で私に元気をくれる。学校への行き帰りがちょっと寂しいだけ。それだけだから大丈夫。1人で慣れない自転車をゆっくり走らせて通学した。いつもトワと2人で通った道を。

ツキノミチ

重複掲載 : 魔法のiらんど

ツキノミチ

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-24

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