きっともっと向き合えば

小説家になろうにて雲天道凪という名で掲載しています

1話 始まり

今日、どこの国でも犯罪は増えている。
刑事の私としては、こういった現状をあまり好ましく思わない。
勿論誰もが同じ思いであろう。

だから、私はどうすれば犯罪がなくなるかを考えてみた。
そして私は犯罪心理学というものに頼ることを決めた。
どのようにして善人が犯罪者に変わるのか。

それについて、ある一人の犯罪者の男の話をしよう。

男はどこにでもいる生徒に人気な中学校教師であった。

どこにでもいると言ったが、教師として生徒に好かれるというのは難しいことである。


その男は本当に人間として優しく、また人を楽しませるような男であった。
そんな男がどうして犯罪を犯したのか。男はそれについて事細かく話してくれた。


           *


私は本当にどこにでもいる男だ。今でも思っているそれは間違いない。
しかし、自分にあんなにも恐ろしい心がある何て思いもしなかった。
あの転校生が来た時から、私の心は崩壊へと進んでいったのだ。


今日から新学期を迎える。
四月とはどうしてこうも晴れ晴れとしているのだろうか。
人には恥ずかしくて言えない。定型文のようなことを考えながら、教室へと向かう。


新学期を迎えると言っても、この学校は一年から二年に上がるときはクラス替えを行わないので、安心感があっていい。

去年のクラスは比較的扱いやすいクラスであった。
それは、決して良い子ばかりがいるという意味ではない。
私の言う扱いやすいクラスというのは、楽しく、素直な子が集まっているクラスのことを言う。


教室の扉を開けると「また先生かよ。いい加減飽きたよ」という声が聞こえてきた。


それは出席番号一番の秋元から発せられたものだった。
出席番号が一番なので、テスト時や、新たな学年を迎えたときには、扉を開けるとこんにちはの状態である。



「先生もいい加減にお前と離れたかったよ」



なんて、いつものHRでお馴染みの言い合いをする。

決して嫌っているわけではない。
むしろ、こいつはクラスで皆を盛り上げてくれるから好きな方だ。



「それじゃあ出席番号をとるぞ」

「先生それを言うなら出席をとるぞ。ですよ。番号はとりません」

出席番号が一番最後の渡辺は、言わば学級委員長のような存在である。

もっとも、この学校には形だけの学級委員長しかおらず、決まった仕事は特にない。
この学校にそんな制度があったならば、確実にこのクラスをまとめあげてくれているだろう。


中学校は義務教育なので、その間は先生が生徒をまとめる責任がある。
そんな校長の方針の影響で、私は生徒をまとめあげるべく日々頑張っている。
といっても、私自身特に特別なことはしていない。
あえてしているならば、生徒と同じ目線に立つことぐらいだろうか。



それも決して意識をしているわけではない。

勉強についていけないものには放課後一緒に勉強をする。喧嘩をすれば相談にのってやる。

ただそれだけのことだ。男同士の人間関係においては、殴り合いも多少は必要だと思っている。

先生がそんな考えではいけないのかもしれないが、殴られる痛みを知らずに成長してはいけないと思っている。

「渡辺に注意されたから、今日は先生が勝手に出席をとっておく。というか、今日はHRにすることがあるんだ」
急ぐぞ。といいながら、プリントを回し始める。



あえて秋元の列を最後にして、秋元を飛ばしてプリントを渡そうとする。何度も言うが、決して嫌いなわけではない。


「おい。そんなこと隣の美人先生はやらねぇぞ」



秋元は本当に口が悪い。


この学校に入ってきた時はどんなにひねくれていたか。
小学校の時から髪を金髪に染めており、先生という存在自体を嫌っているような奴だった。



それが、今となっては私と親しい間柄になっている。
このことも校長先生には高く評価されているようだ。
私は自分がどのように評価されているかは正直言って興味がない
。綺麗事を言っているように聞こえるかもしれないが、これは本音である。
私は本当にこの職を天職にしたいと思っているぐらいだ。



「何言ってるんだ。先生以外お前を相手に出来ないだろう」
なんて、笑いながら急いでHRにやるべきことを行う。


「それじゃあ、お前ら一時間目の授業気合入れろよ」



HRが終わり、職員室へと足を運ばせる。私の担当は美術なので、正直あまり授業はない。

さっきも言ったことだが、生徒と一緒に勉強をするというのは、私も中学の勉強を忘れている部分があるからだ。
そういうところがまた校長先生に評価されていたりするらしい
。私は特に気にしていないのだが、結構生徒にも、先生にもよく見られているようだ。


職員室に入ると、教頭が手招きをしてきた。

教頭に呼ばれるようなことをしてしまったのだろうか?と、疑問に思いながら教頭の後を追う。


「実はだね。本当は今日来るべきだったのだが・・・
色々と事情があって来週の月曜日から君のクラスに転校生が来ることになったんだ。
今日は生徒は来れなかったのだが、保護者の方がお見えになっている」



教頭の言葉に色々と含みがあるのを感じながらも、あえて何も聞かないことにした。
転校生が自分のクラスに来るというのは初めてのことなので、その点については少し緊張する。

そんな私の心境を察してくれているかのように、教頭はゆっくりと扉を開けた
。開けてすぐに立っていたのは、生徒の保護者と思われる若い女の人だった。
「どうぞよろしくお願いします」


「ああ、どうも」


ふいをつかれたように挨拶をされ、慌てて挨拶を仕返すが、女は何にも興味がないと言ったように、何の反応も示さなかった。



「転校が多いので、馴染めないかと思いましたが、先生は生徒思いの良い先生だと聞いたので、本当に安心しました」

女はさっきの表情とは打って変わって、優しそうな笑みを浮かべながら言った。

「ああ、いえ。そんなことはないのですが・・・よろしくお願いします」

自分がそういう風に言われている事実は認識していたが、改まって他人に言われると何とも歯がゆいものである。
私は背中がかゆくなりそうになりながら、なんとか定型文を言うことが出来た。

大人の社会では、社交辞令と言ったものが多くなる。だから生徒はそんな大人にはついていけなくなるに違いない。
実際自分が子供の頃には何も感じたことはなかったが、大人になるとそういったことが気になり始める。


「それでは来週お願いします」

そう言って保護者は帰り、静かな授業時間の間に仕事をし始める。

今日は始業式なので授業は昼までだ。一年生だけが始業式のみで帰ることが出来る。
私はその時にはもう、転校生が来ることなど何も考えずにいつものように仕事をし続けていた。

2話 訪れ

そして、とうとう転校生がくる月曜日がやって来た。
しかし私は、学校に着くまでそのことを忘れていた。
何も考えず、いつもの如く職員室に向かうと、教頭が見知らぬ生徒を連れて私の元へ来た。


その子の名前は草野竹彦。

印象的なのは、保護者に感じたような何にも興味を示していないような目であった。それに加えて、物静かである。

「よろしくお願いします」

とだけ言うと、草野君は黙り込んだままずっと私の目だけを見つめていた。

話さないのであれば、ただのシャイな男の子だと思えるだろう。
しかし、この子はそういう類のものではなかった。
少しも恥ずかしげなど出さず、ただ何かを私達に告げること自体が億劫とでも言ったような感じであった。



心を閉ざした子。私は初め、ただそうとしか思っていなかった。


教室に行く最中。私はずっと草野君に話しかけていた。

慣れるまでは時間がかかるだろうが、うちのクラスは楽しいぞ。とか、勉強は何が好きだ?とか、どの辺りに越してきたんだ?とか、
先生のことをあまり先生と思わなくていいぞ。とか、特にどうでもいい話しである。



しかし、草野君はそのどれにも返答を返してはくれなかった。
ある意味私も返事を期待して言ったわけではない。
ただ、何かを話して私から先に慣れておこうと思っただけだ。
しかし大人しい生徒を相手にするのは中々難しいものだ。


そうこうしているうちに、広くない学校では、もう教室に着いてしまった。


私は草野君に「ちょっと待っていてくれ」とだけ言うと、いつもの如く教室に入って行った。

「おうおう。今日はお前らにとって楽しいことが待ってるぞ」


いつもよりもテンションを上げながら言うと、それを嗜めるように口の悪い秋元が言った。

「先生一人盛り上がってんじゃねえぞ。もうこっちは知ってんだよ。転校生だろ」

秋元は廊下の方に目をやりながら「当たり前だ」とでも言うように、いつも以上に偉そうな調子でいた。

私はそんな秋元の反応を半ば期待していたので、正直期待通りで少し嬉しかった。



それから私は、草野君をここに招き入れる前に、一点だけ皆に忠告をしておいた。


「草野君はこれまで色んなところに転校をしていて、中々友達を作れずにいる。物静かな奴だから、秋元みたいな奴は強引に話しかけないこと」


「誰が強引だ。優しくするよ」という、反発の声を流しながら、私は再び廊下へ向かった。


扉を開けると、草野君が感情を含んでいない目で私を見た。

そんな目で見る生徒は初めてなので、さっきから何度かその目で見られているにも関わらず、少し身構えてしまう。
それでも、私にとっては物静かな生徒だって可愛い生徒である。
無理に何かをさせることはしないが、早くクラスに溶け込めるように助けてやりたい。
心の中でこれからの目標のようなものを立てながら、教室の中へ招き入れる。


転校生の登場に、皆は顔から下までを嘗め回すように見つめている。
そんな視線さえも跳ね飛ばすかのように、草野君はみんなをあの目で見た。
「草野・・・竹彦です」


草野君は控えめに挨拶をすると、私に目を向けた。

「皆仲良くしてやれよ。草野の席は一番後ろの窓際だ」


そういうが早く、席の方へとそそくさと歩いて行った。

そうして何者にも興味を持たない瞳が、私を変えるのだ。


その日の帰りのHRへ向かった時も、草野君は一人でただ窓をじっと見つめていた。
普通ほとんどの生徒が友達と話したり、立ち歩いたりして先生に注意されるものだ。


しかし、草野君は本当に何にも興味を示さないように窓の外を見つめていた。
校庭にいる体育が終わった後の生徒を見ているわけでも、空に飛んでいる鳥を見ているわけでもない。
ただ、何となく外を見つめているという風である。いうなれば、暇をつぶすためにただ外に意識を向けていると言った方が適切であろうか。 


私は生徒を座るように注意することも忘れて、ただ一人の生徒を一心に見つめていた。

そんな私のおかしな態度を嗜めたのは、クラスの中の学級委員長のような存在の渡辺である。
渡辺はとてもいいポジションにいた。
私が意識を向けている草野君の前の席なのだ。
その後ろの席の者に意識を向けている私に気づかないはずがない。
「先生早く帰りたいのですが」


渡辺のその一言は、私を我に返らせるだけではなく、クラスの全員を席に座らせるほどの威力があった。
「ったく、頼りない先生だからちっとも座る気にならなかったぜ。さっすがだな」


いつものように口の悪い秋元は、冗談交じりにそう言った。

その時の私は、まだその言葉を冗談として受け止めることが出来ていた。
私はまだおかしくなどなっていなかった。正直、自分でも何がきっかけだったのかはよくわからない。
だが、推測してみると、これからの自分の努力を水の泡にされたことといえるだろうか。



それから二日が経ち、水曜日になった。
草野君の様子は何一つ変わらなかった。
交友関係について、私は何一つ探りを入れようとはしていなかった。

私はいつも生徒のことを第一に考えている。
だから、生徒の交友関係は把握している。
把握しているが故に、少しでも喧嘩をしていればわかる。

それが、何故か草野君がクラスに溶け込めているか、ということを何一つ考えていなかった自分がいた。
正直その時の自分が何を考えていたかは、今ではもう覚えてはいない。 
そんなことなど忘れるくらいの私の心境の変化があったからである。
それは、これから順をおって話していきたい。
今だからこそ私はこんなにも冷静に事を話せるのである。


水曜日は三、四時間目に美術の授業がある。
専門が副教科であると、担任であれども生徒と会う回数は少なくなる。

二年生になって初めての授業は、どれだけ胸を躍らせるものであろうか。
私は本当に生徒に授業をすることが楽しくてたまらないのだ。

いい作品が出来ないと嘆いている生徒に教えること。
いい作品が出来たと自慢してくる生徒を見ること。

一つの作品に真剣に取り組んでいる生徒を見ること。
そのどれもが私にとっては嬉しいことなのである。

だから私は授業の準備を鼻歌でも歌いそうな気持ちでしていたのだ。



授業が始まる。このクラスは妙に出席率が高い。
教室が空席になることは皆無と言ってもいいだろうか。

それほどにこのクラスは、あらゆる面で意欲的といえるだろうか。チャイムが鳴ると同時に、私は黒板の前に立った。


「先生今日は何するんだ?もしかしてクレパス?」

チョークを持っている私の手を指差しながら、敬語も使えない秋元は馬鹿にしたように言った。


「はい。じゃあ、今日からはこれで作品を作っていく。秋元は一人でクレパスを使うらしい」

いつもの仕返しをしながら授業を進めていく。秋元は口を尖らせながら、次はどんな仕打ちをしようか考えている様子であった。


「それじゃあ、これが何かわかるか。うーん・・・そうだな。草野わかるか?」

部屋を見渡して、草野の存在に気がついた。それほどまでに私の頭の中にはまだ草野の存在は薄かったのだ。
少ししても、草野は何も答えようとはしなかった。
「わからんか?」


もう一度問いかけるが、草野は何も言おうとしなかった。私の声が聞こえているのか心配になるほどであった。

「そうか。わからんか・・・じゃあ、これはわかるよな?」


私はそう言いながら、入学と同時に全生徒に配られた色鉛筆を差し出した。
草野はこの前来たばかりだから、これは貰っていないが、これが何かわからないものは普通いないだろう。

しかし、草野は微動だにしなかった。
そのうちにどこからか色鉛筆だよな?とか、あいつ何で答えないんだ?という声が飛び交っていた。
それが草野に聞こえていないはずはない。

草野どうした。と言おうとして、草野の目に気がついた。
その目は、そんなことわかるだろう。とでも言っているかのような・・・。私を馬鹿にしているような目であった。

「先生もう授業進めたらどうですか?」

渡辺が痺れを切らしたように言った。またしても私は渡辺によって救われたのだ。

「これは皆の知る色鉛筆だな。そしてこれは・・・水彩色鉛筆と呼ばれるものだ。
これはえのぐのように水を含ませた筆でこすると広がる。普通の色鉛筆よりも鮮やかに描ける。風景画を描くにあたっては最適なものだ。
一学期の前半はこれを使ってみんなに風景画を描いてもらおうと思う」

そこまで話すと、私は下書き用のプリントを配った。
美術室は大きな机に四人ぐらいがまとまって座るようになっているので、教室とは違って後ろの方にもいかなくてはならない。
プリントを配るにあたっては大変である。
配っていき、草野のいる机に行くと、草野は真正面を見ていたはずなのに、私が来るとふいに私を見上げた。



あの目が私を近くで見たのだ。まるで手際の悪い私をあざ笑っているようであった。


他の人に聞かれれば、それがどういう目かは答えられない。しかし私にはわかるのだ。

草野が私のことを馬鹿にしていることが・・・。

それでも、教師とはそういうものだ。

嫌われて当たり前なのだ。
だから私はそんなことは何も気にはならなかったのだ。
ましてや今日が初めての私の授業だ。
私のことをどんな先生か観察しているだけかもしれない。

プリントを配り終えると、前に戻る。そこからはもう草野のことなど気にもしなかった。


三時間目の授業が終わるチャイムが鳴った。
その時間は皆に下書きでイメージを作ってもらってから、早い者には画用紙を配って絵を描く作業をしてもらっていた。

「それじゃあ休憩だ。チャイムが鳴ったら勝手に作業始めていいからな」



そう言って、美術室の隣の美術準備室に入った。
特に何を準備するという訳ではなかったのだが、何となく自分の体が疲れていることに気がついたのだ。

普段の授業では決して起こるはずのない疲労に、もしかして風邪でも引いたのではないかと疑った。

しかし、後一時間ある。最後のHRがある。私は今学校を立ち去るわけにはいかなかった。

大切な、可愛い生徒達と一緒にいるためにだ。
それだけを原動力にして、私は再び美術室に戻った。それと同時に授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。



「皆黙って作業進めろよー」


そう言いながら作業の進み具合を見ていく。
出席番号が一番の秋元は、やっぱり一番前にいるので、秋元の作品から見ることにした。


「おお。何だ、秋元熱でもあるのか?もう画用紙まで進んでいるじゃないか。しかも結構描けてるな」


「ちょっ、勝手に見んなよ。ていうか先生一言多いんだよ。こんなのちょろいに決まってんだろう」


秋元は褒められた事に対して明らかに顔を赤くしていた。
しかし、素直ではない秋元は、相変わらずの暴言である。
そんな秋元が私の心を明るくした。さっき感じられた疲れなど、もうその時には何も感じなかった。

そうして生徒一人一人の作品を念入りに見ていくと、とうとう渡辺の机にまで来た。


「おお。渡辺は相変わらず絵がうまいなあ。これ何か水彩色鉛筆にぴったりだ」

渡辺の作品は夕焼けに映る放課後の学校であった。校庭には部活動を頑張っている生徒が細かく描かれていた。
そして、その机にいる草野を何気なく見てみた。


「草野は何描いたんだ?」

プリントを見て、私は思わず息が止まってしまいそうになった。


「おい。草野どうしたんだ?」

下書きの絵には、鉛筆で書いた線が無造作に並んでいるだけだった。


「何でもいいんだぞ。そんなに難しく考えなくていい。ああ、そうだ。参考までに本を持ってくるよ」


いい作品が出来なくて悩んでいる生徒に教えることは嬉しいことだ。

「この中から何でもいいから書けそうなものを描いてみろ。草野はどんな風景が好きだ?」

草野はただプリントを見つめているだけで、何も言わなかった。

「大丈夫か?体調でも悪いのか?」

相手の目線とあわせるために、屈んで話しかけるが、草野は相変わらずプリントを見つめているだけだった。

「草野?」


「絵何か描けないです」



息を吐くような小さな声だった。
しかし、その言葉は確実に私の鼓膜へ届いた。



「美術が苦手なのか?」


尚も話しかけるが、草野はもう何も答えてくれなかった。

そして少ししてから、草野は私にあの目を向けた。

もう構うな。


そう言っているかのようであった。

私はその場は仕方なく草野の傍から離れた。

しかし、私は心配で仕方なかった。今まで絵を描くのが苦手な子は何人も見てきた。
しかし、草野みたいにプリントに乱雑な線を書いている子は初めてだった。
草野は転校ばかりしていて学校になじめない。
おまけに性格は物静かである。きっと何か心にあるのだと思い、私は放課後に草野を呼び出すことにした。

3話 接触

普段私に対して何も話してこない草野だが、呼びかけるとそれに応じてくれた。

草野は黙って美術室の自分の席に座っていた。

私はいつもの如く、草野が今日書いた乱雑の線の入った紙を持って向かった。
ここでいういつもの如くというのは、いつも問題を抱えた生徒にやる行為のことをいう。


「草野、これは一体どういう心の現われだ?お前はそんなに美術が嫌いなのか?それとも何か悩みでもあるのか」

私は俯いたままの草野を覗き込むようにして言った。

しかし、草野は顔を上げることすらしない。
息すらしているのか不安になる程である。


「草野絵が嫌いなら、先生が好きになる方法を教えてやろうか」


草野は息を吹き返したかのように、その時初めて顔を上げた。

私はそれがとても嬉しくて、草野は他の生徒と同じで根は素直なのだと確信した。

「まずだな。絵っていうのはな。うまく描こうとしなくていいんだ。自分の世界を描く何て芸術家のようなことも思わなくていい。
ただ・・・そうだな。まずは絵を描いていることを楽しく思うことなんだ。自分が想像しているものが自分の手によって描かれる。
絵は綺麗に残るからなあ」


草野は私の言葉に初めて関心を示しているようであった。

それを確認すると、手に持っていた参考書を開けた。
そこには美しい草原、夕焼けや、雪などのあらゆる景色が載っていた。



「ほら、草野の好きな絵を描いてみろ」

草野はその瞬間。またもやあの目を私に向けてきた。
先ほどの関心を示すような目など、何処にもなかったとでもいうように、冷ややかな目を向けてきたのだ。



草野は鉛筆を乱暴に掴むと、下書きの絵を裏返しにして絵を描き始めた。


私は目の前の状況を把握できずに、ただ瞬きをすることを忘れるほどに草野の行為をじっと見ていただけであった。
草野の手の動きは、まるで芸術家の天才児が突然脳に閃きを持ったかのように、鮮やかで、乱雑であった。


やがて、手の動きが完璧に止むと、草野は立ち上がってその紙を私に突きつけてきた。


「絵何か描けないんですよ」


草野は授業の時とは違い、はっきりとした声で言った。そう言って、乱暴に鞄を掴むと部屋から出て行った。

私はそんな草野を見送った後、渡された紙に目を向けた。
そこには人間のようなものが数人、どこかの場所に悲しそうに座っている様子が描かれていた。
鮮やかに思えた草野の筆は、ただ乱雑に何かを描いていただけであった。


私はこの絵には、草野の心の叫びが描かれているのではないかと思った。



絵何か描けないですよ。


あの言葉は何を意味しているのだろうか。
私はその時から、毎日草野のことを気にかけるようになった。



翌日の朝、職員室で何気なく数学の先生に草野のことを話してみた。

今うちのクラスの担当をしている中で、去年から持ち上がりの教科担当者はこの先生だけだ。

うちの学校は三クラスしかない。
そのうちの隣の担任をしているもう一クラスの担任は、去年赴任してきた先生なので、私はあまりよく知らないのだ。


「ああ、草野ですか。それならずっと先生に言おうと思っていたのですがね・・・」


思わぬことに、神妙な顔をされたので、草野の反抗心は私にだけではないのだと理解した。
聞く所によると、授業中名指しで当てても問題を解くどころか、発言すらしてくれないらしい。


しかし、しっかりとノートは取っているのだという。
だから、ただまだ慣れないクラスで言葉を発するのが恥ずかしいだけだと思っていたらしい。


ところが、授業中に実施する簡単な小テストも白紙で提出するそうなのだ。

これはいよいよどうにかしなければならない。


今まで草野のことを考えていなかったが、私はその時に頭の中の全てを草野でいっぱいにした。



「私が草野の話しを聞いて、一緒に勉強してやりますよ」


「よろしくお願いします」


頼りにしてますよ。と、付け足され私はいつもよりも意気込んで職員室を後にした。


今日の放課後からびしばしと鍛えてやるからな。草野よ覚悟しておけ。
と、心の中で言いながら、今日は他のクラスの一時間目の授業の用意をするべく美術室へと向かう。


その道中、全速力で走る秋元の姿が見えた。


「おい、秋元そんなに急いでどうした」


「なんでもねえよ!」

秋元は私を見ると、顔を青くして慌てた様子で走り去って行った。
また何か悪いことでも企んでるんだなあ。
溜息を付きながらも、秋元は分を弁えているところがあるからと、後を付けることをせずにそのまま歩を進めた。


そういえば課題テストまで後二週間だったなあ。


いつものように帰りのHRに向かうと、教室では驚く光景が広がっていた。
他のところからすれば、当たり前じゃないか。といわれるかもしれないが、私にとっては初めてのことであった。

何と、誰も喋ることなく全員鞄だけを机の上に置いてきちっと席に座っているのだ。


「ど、どうしたんだ?」


驚きの余り変な声を出すと、生徒達はいつものように笑ってくれていた。

悲しいことがあったわけではないらしい。


「おい、秋元どんな風の吹き回しだ?」

私が真剣に聞くと、秋元はきょとんとした顔をした。


「やだなあ。先生ったら、俺らが座ってることにそんなに驚くなんてさ。失礼にも程があるぜ」


「そうですよ。それにあたしは毎日席で待っていましたしね」

そういわれるが、私の頭にはマダ疑問は消えなかった。


本当に急にどうしてしまったんだ?

私はただただ頭の中で同じ疑問を繰り返すだけであった。


「そ、それじゃあ配布物を配るからな」

急に他のクラスの担任を任されているような気分になりながら、ぎこちない思いでプリントを配り始めた。
その間もクラスの誰も声を発することなく、とても静かだった。


そしてその放課後、私はまたしても草野を呼び出した。

教室は何処か居心地が悪かったので、美術室に向かうことにした。

今日は美術室には美術部が活動をしているので、そそくさと準備室に連行しては扉を閉めた。

他に聞かれて困る内容ではないが、何故だか他のどの生徒にも草野と話している姿を見られたくないという思いがあった。

草野は今日は昨日とは違い困った表情をしていた。


「あの・・・」


草野が何か言いかけたのを、私の問いがかき消した。

「お前数学嫌いか?そもそも勉強は嫌いなのか?」

私が真剣な面持ちで尋ねると、草野はきょとんとした顔をしていた。

「何だ。どうなんだ?」

再度尋ねると、草野は口の端だけを吊り上げて笑った。
私はそんな彼の行為に、思わず眉をしかめた。

それが草野に気づかれたのだろう。
草野は慌てたように笑みを消した。

そして、そこから話しが終わるまで仏頂面は続くのだが・・・。



「お前は絵も描けないと言った。勉強も出来ないのか?質問をしても答えないのはわかる。
しかし、小テストを白紙で出すのはどういうことだ?先生が今日から一緒に勉強してやろうか?」

何を問いかけても、草野は何も言わず、ただただ私の顔を黙って見ていた。

目には相変わらずこの世の何にも興味を示していない様子が見られ、加えて無表情なのである。


私は困り果てた。

さっきの笑いは何だったのか。私は全てを問いただしたくなった。

どうしてさっき笑った。どうして今は笑わない。どうして何も答えない。

しかし、そんなことを彼に問いただすのはあまりにも酷だと思った。

何を言えば草野は頑張ってくれるのか。

困り果てて髪をくしゃくしゃと掻き毟っていると、ふいに草野が何かを呟いた。

「・・・いいです」

それだけが聞き取れた。
何がいいのか。最初はわからなかったが、私が尋ねた事柄から文脈的に考えると、それは私が勉強を教えるという部分であることに気づいた。


「お前無理すんな。わからないまま過ごしたら学校が楽しくないぞ」

その時、草野の体が大きく震えた気がしたが、次にはもういつもの様子に戻っていたので、勘違いだろうと思った。


「とりあえず急いでますので」


草野は煩わしい者を見るような冷ややかな目を私に向けた。

まるで呼ばれたから来てやった。それなのにこんなことを言うだけだったとわ。とでも言いたいような様子であった。


ここまで素直じゃない生徒は初めてだ。

しかし、そこから思いなおした。

今日は本当に急ぎの用事があったから、自分の本心が言えなかったのではないか。
勉強を教えてほしいと言えば時間もかかると思ったのだろうか。

それとも本当に何かに悩んでいるのだろうか。


先生に心を打ち明けるのは、もしかしたらとてつもなく辛いことなのかもしれない。
今までの生徒があまりにも素直過ぎたので、こう言った生徒を相手にするのは非常に骨が折れる。
私はまた髪の毛を掻き毟りながら、どうするべきなのか考え始めた。



私は美術の先生であるが、美術部の顧問ではない。
この学校にはもう一人美術の先生がいるのだ。
そちらは女の先生で、いかにも美術と言った様子なので、私の出る幕ではない。


そして、美術部の顧問というのは滅多に部室には顔を見せないものだ。そういう理由で、私は準備室に居座り続けている。

窓の外からは既にオレンジの光が指していた。
HRが終わってすぐにここに来たというのに、私は一体何時間一人でこうしていたのだろうか。


その間私は何を考えられたのだろうか。
結局何という解決策を見つけられていないことを痛感すると、時間だけが無駄に過ぎていたことに気づく。

美術が専門とはいえ、放課後に仕事がないわけではない。
わからない生徒とは一緒に勉強をしてやっていると言ったが、今でもそれは継続されているのだ。


今でこそ一緒に勉強せずとも、自分でやってくるようになったのだが、プリントを作って毎日の宿題にさせている。
今日はそれの丸付けと、明日のプリント製作をしなくてはならないのだ。

今はだいぶ手が離れて秋元の分だけになっているのだが・・・。


何せ態度の悪いあいつは、負けず嫌いなのである。
そういう理由で、私が少し手を抜いて簡単な問題を作ると「嘗めるなよ」と言って怒鳴ってくるのだ。


こちらがプリントを作ってやっているというのに、注文が多いのである。



色んなことを考えすぎた頭は、少しだるかった。私は重い頭を持ち上げるように立ち上がると、そのままのろのろと職員室へと向かった。


廊下を歩いている道中、いつもならすぐに帰宅する渡辺がいた。

「珍しいじゃないか。どうしたんだ?」


渡辺は私に気づくと、大げさに驚いた反応をした。

「先生こそこんな所で何してるんですか?」


慌てたように顔を逸らしながら捲くし立てる姿は、実に怪しかった。
今朝の秋元といい、さっきのHRといい、うちのクラスの連中は何を考えているんだ。

「渡辺、先生が嫌いか?」

「はっ?何言ってるんですか。先生らしくもないですよ。勿論好きですよ。それじゃあ、失礼します」

渡辺は先ほどの具合を微塵も見せず、いつもの如く華麗なふるまいで帰って行った。
先生らしくない。私は生徒に何を真剣に聞いているんだ。髪の毛を掻き毟りながら歩くと、指に何本かが絡まるのが気になった。

4話 崩壊へと

翌日学校に向かいながら、今日こそは草野をきちんと向き合わせてやる。と意気込んだ。


話しだけで何もしないのが悪いんだ。

秋元と同じようにプリントを無理矢理押し付けてやればいい。
草野は性格がこうだから。そんな差別をせずに、みんなと同じように扱えば草野も心を開いてくれるはずだ。

私から勝手に距離をとっているんじゃないか。何を意地になっていたんだ。今までと一緒じゃないか。



放課後、草野に残るようにと指示をした。

今日はあんな堅苦しい所ではなく、教室で行うことにした。


昨日の不思議な現象は、結局昨日だけに留まっていた。
生徒はこちらを心配そうにちらちらと見ながら、「さようなら」と言って帰って行った。


「おい先生。あんまり草野いじめんじゃねえぞ」


秋元は明らかに敵意をむきだしにして言った。
私はただ草野のためを思ってしているというのに、一体何処に文句があるのか。

秋元の言葉を鵜呑みにした私は、いつものように何かを言い返すことが出来なかった。
後で何かを言おうとした時には、もう秋元は教室にはいなかった。



広い教室に草野と私の二人だけになった
。私は一瞬何と言うべきかわからず黙り込んでしまった。
草野は相変わらず何も言わない。


「く、草野」

「はい」

さすがに何か言わなくてはいけないと思い、とりあえず注意をひきつけてみた。
草野の目は少し心配しているようにも見えたが、そんなことがあるはずはない。


「今日はお前にプリントを持ってきた。とりあえず数学からやるか」


草野はそんな私に困った様子でいた。プリントを見つめながらも、キョロキョロと視線をさ彷徨わせていた。


それが一体どういった心境の表れなのかは、私には何もわからなかった。
ただ、そんなことを気にしていても仕方がないと思い、私は私が立てた作戦を実行に移すことだけを考えた。


「まあ、いいからとりあえず座れよ」

草野は少し考えるような素振りを見せていたが、私が見すぎていたのか突然慌てて席に着いた。


「このプリント解いてみろ」

鉛筆とプリントを草野の方に渡すが、草野はそれをじっと見つめているだけで何もしようとしなかった。


「おい、草野どうしたんだ?わからないのなら教えてやるぞ」


草野に渡したプリントは、最初の授業で習った多項式・単項式という非常に簡単な問題であった。

きちっとノートを取っていればこれぐらいは秋元でもわかるだろう。


「おい、草野お前本当は解けるんじゃないのか?」

教師として言ってはいけないことを言ったと気づいたのは、草野の目が私を悲しそうに睨みつけているのに気づいた時だった。

私が弁解の言葉を考えようとしていた時、草野は立ち上がった。


「もういいです。だからいやだ」

そう言って教室を出て行った。


先生にも、校長先生にも、生徒にも良い先生だと褒められていた私が、もっとも言ってはいけない台詞を言ってしまったのだ。


草野と向き合うといいながら、結局私は草野のことを心のどこかで疎んでいたんだ。


自分にすぐに従ってくれない。

こんなにも素直じゃない生徒だから私は草野を嫌っていたのだ。

私は自己偽悪に陥った。


生徒一人一人を差別せずに過ごしてきたじゃないか。
草野には何か抱えているものがある。

そう考えたのは私じゃないか。

草野と話しをするんじゃなかったのか。

何を大人気ないことをしているんだ。

私は頭を掻き毟った。
指にはくすぐったいほどに毛がついていた。


私はそんなことも気にすることなく、誰の席かも忘れた椅子に座ったまま、机に体を突っ伏していた。



それから私は私を取り戻せずにいた。


課題テストの二週間前の出来事以来、私は草野と関わることを放棄していた。

HRでも授業でも、今までの先生らしさを何とか保っていたが、私はどうも草野の存在を受け入れられなかった。

授業では作品に取り掛かり始めた生徒が増え、私は次の段階の作業に取り掛かるべく一人一人の机を回ることをしなかった。

そうして、私は自分にとって可愛い生徒ばかりをひいきするようになっていたのだ。


そんなことを経て、とうとう課題テストの当日になった。

課題テストのテスト監督は基本的に担任が行うもので、普通のテストとは違い、教科の担当者に質問を聞くことができない。


だから担任は動くことなく、ずっと自分のクラスを見ることが出来るのだ。
もっとも私の担当は美術なので、質問の類は関係ないのだが。


「皆は今日の為に勿論勉強してきたよな?」

私はいつものようなテンションで皆を元気づけようとした。


「あったりめえだろ。先生のプリントじゃ足りなくて、参考書まで買ったぜ」

どうにも秋元にしては嘘っぽい発言を笑いで飛ばしながら、そろそろ時間が来たので配り始める。

「じゃあもう皆喋るなよ。て言っても、喋ってたのは先生だけか」


笑いながら、プリントを配り終える。

「それじゃあ始め」


その合図と共に生徒は一斉にペンを動かし始めた。

秋元が言っていたのはあながち嘘ではないのか。
すらすらと問題を解いているように見える。

他の生徒を見渡しても、皆同じようにペンを鮮やかに動かしている。

その中でももっとも鮮やかに見えたのは、渡辺であった。


渡辺はこんな問題など簡単過ぎる。暇つぶし程度にでも解いてやろうか。

とでも言いそうな位にすらすらと問題を解き進めている。


先生の中では問題に取り組んでいるか。
不正行為はないか。
そういったことを確かめる為に机の周りをまわる人もいるが、それは生徒達の集中を切らせる要因になるため、私は絶対に行わない。


それに、私には生徒がテストを受けている間にいつもやることがある。


それは、生徒と同じテストを行うことである。
わからない生徒と一緒に勉強をすることもあるのだ。
私にとってもテストは力を試す為に必須なのである。


一時間目はどうやら数学のようだ。
私は数学のプリントを最近誰かに突きつけたような記憶があると思いながらも、結局そのような事実が記憶にないことに気づき、すぐに問題に取り組むことにした。


二年の最初に行うテストは、基本的には一年の時に習ったものばかりである。
やり進めて行くと、最後の方に二年の範囲である単項式・多項式が出てきた。


その問題にぶつかった時、私はそれを突き破ることが出来なかった。
秋元にプリントを作っていたはずなのに、何故だかそこだけ私の頭の中からきれいに公式と言われるものが抜け落ちていたのだ。

もっとも、公式と言われるような大層なものはこの単元にはないのだが・・・。



私は頭をひねったが、どうしても何も出てこなかったのだ。

そのうちに数字やら、文字やらが魔物と化して見えた。

私はついにプリントから目を背けたくなった。その瞬間に何者かが見計らったようにチャイムが鳴り響いた。


「終わったぁー」

秋元が上げた声によって、私は我に返ることが出来た。

たった一つの単元のやり方が思い出せなかっただけで、どうして私はこんなにも動揺してしまっているのだろうか。

その内に一番後ろの生徒達がテスト用紙を集めてきた。
私は机の上が散らかっていることに気づき、それを急いで片付けた後でプリントを預かった。

最後にプリントを渡して来たのは草野だった。


「出来たのか」


「いえ・・・まあ」


草野は曖昧な返事をしながら、逃げるように席へと戻って行った

。明らかに私のことを避けているように思えてならなかった。


無理もない。私が教師としてあらぬべき姿を晒してしまったのだから・・・。


草野にも勉強を教えてやらねばならかったのに、結局テストの当日まで草野に何もしてやれなかった。

草野は一体どれだけの問題を解けたのだろうか。
積まれたプリントを見つめながら、私はその中の一枚だけが妙に分厚く見えた。


「先生もう廊下に出てもいいですか?」


「えっ、ああ。いいぞ」


渡辺は私のことを怪訝そうに見つめながら言うが早く廊下へと出て行った。

それから他の生徒も立ち上がって、ひとまずやりきったと言う様に伸びをしている奴もいた。

私はとりあえず解答用紙を職員室に運ぶのと、次の時間のテストを取りに行くべく立ち上がった。

「おい」


「何だ?」


ふいに秋元が声をかけてきた。
それから、ゆっくりと席から立ち上がると、秋元にしては珍しく口をもごもごとしながら何かを言いたそうにしていた。


「どうしたんだ?お前らしくないぞ」


「ええ。ああ・・・いや。持ってやるよ」

「えっ?」

秋元からはあり得ないような優しさを受け、私は思わずプリントをぶちまけそうになった。


秋元は「何だよ」と言いながら、私の手の中からプリントを半分ひったくるように奪った。

「行くぞ」


既に扉を開けて廊下に出ていた秋元は、少しだけ頬を赤く染めていた。

私は急に優しくなった秋元が気持ち悪かったが、素直に嬉しかった。

私はクラスの可愛い生徒によって支えられているのだ。
最近の私はあまりにもおかしすぎた。
生徒のことで道が逸れるのを、再び元の道に戻してくれるのもまた生徒なのである。
そう思うと、やはり私は全ての生徒を愛せているのだと実感した。


「先生さ。どう?」


不意に秋元が漠然と聞いてきた。自分の中だけで理解しておいて、主語を言わないのは若者の悪い癖である。



「何がだ?」


私がそう尋ねると、秋元は「だから・・・」と、歯切れ悪く言った。

「草野のことだよ」


「何でそんなこと聞くんだ?」


私は急に気分が悪くなってしまい、思ったよりもきつい調子で言ってしまった。


「いや、だってさ・・・。草野と上手く行ってないっていうか。俺もあいつのことよくわかんねえけどさ。先生何だか最近・・・」


秋元はそこまで言うと、ふいに口を噤んだ。私は秋元の行動に思わず足を止めた。


「何なんだ一体」


呟くように言うと、気まずそうにしていた秋元が驚いたように私を見上げた。
私はそんな秋元の顔を素直に見ることが出来ず、また足を進め始めた。


さほど広くないはずの廊下が、今日はやけに広く感じた。

こうしていつまでも私は目的地に達せずに彷徨ってしまうのではないか。そんな錯覚に陥ってしまいそうになった。



しかし、頭の中と現実は異なり、私たちはすぐに職員室に着いた。

その間秋元はずっと俯いていた。私はただ前を見据えていた。

そんな不思議な様が、たった今まで廊下に溢れていたのだ。


「ありがとな」

私は秋元と目を合わすことはせずに、プリントを受け取った。

そして職員室に足を踏み入れようとした時。


「先生は最近変だ。俺何かこええよ」


悲しそうに、独り言のように呟く秋元の姿が、私の網膜の裏に焼きついた。

私は何とも言うことが出来ずに、秋元との関係を断ち切るように勢いよく扉を閉めた。


そこから国語と英語のテスト時、私はテスト問題を解く気が起こらなかった。


私は生徒が嫌いなことをすることもせずに、ただ椅子に座りながら前を見つめていた。

仮に今誰かがあからさまな不正行為をしていても、私はそれに気づくことが出来ないだろう。


私の中で生徒への思いが初めて消えた瞬間でもあった。

私は無事にテストを終えると、帰りのHRに「皆よくがんばったな。今日はゆっくり休めよ」という、誰でも言う定型文しか言うことが出来なかった。


そうして、生徒をあしらうように帰りの挨拶を済ませて教室から追い出すのであった。

きっともっと向き合えば

きっともっと向き合えば

皆に好かれる優しい先生。そんな先生が一人の影ある転校生を公正させるために努力する。 しかし転校生の見せる何にも興味を示さぬような冷たい目が先生を少しずつ狂わせていった。 人と人との思いのすれ違いによって生じたこの事件。 殺人事件はこうして起こってしまう。という、刑事からの視点を混ぜての悲劇の物語。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-23

Copyrighted
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  1. 1話 始まり
  2. 2話 訪れ
  3. 3話 接触
  4. 4話 崩壊へと