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「すきだよ。」

「……?」
「すきだよ。」
「なにのはなし?」
「きみのはなし。」

たっぷり10秒の沈黙。誰もいなくなつた教室に彼の声だけがリアルに響く。
彼はわたしから目を逸らさず、わたしも彼から目が話せなかった。

「はい。」
「うん。」
「あのー、すき?」
「だからすきだって言ってるじゃん。」


目が、彼の目が、わたしを壊している。
いままで、あの雨の日のあと何度か言葉を交わしたことがあったけれど、
わたしが彼に対して(いや他人に対して)恋愛感情を抱くなどということは考えられないことであったからわたしが一番困惑していた。

いままできちんと顔を見たことがなかったけれど、いまこの瞬間からいままでもずっと、わたしの好みの顔立ちはこのひとのような気がしてきた。
綺麗な横顔。
長い睫毛。
翳りのある目。
綺麗な顔を暗く見せているのはきっとこの目のせいだ。
たった今この世に絶望したような目。

「あのね、」

あのね、と言ったはいいもののその続きがなかなか出てこない。
言いたいことは山ほどある。
なんで?とかどこが?とかいつから?とか、だけどその答えにはあまり必要性を感じない気がして、聞くのをやめた。
わたしが言わなきゃいけないことはそういうことじゃない。

「あのね、わたし、誰かをすきになってしあわせになる自信がないの。」

「うん。」

「ひとが愛だと感じるものをわたしは愛だと捉えられないし、わたしはすきなひとと頭の先から足の先までわかりあっていたいと思うけどそんなの無理なことはわかっててね、だから人並みのしあわせをしあわせと思えない。大事なひとを明るい場所に連れて行ってあげられない。いつも閉じ込めるばっかりで。だから、」

「いいよ。」

わたしは結構呆れた。

「いくないとおもう。」

「山本柑奈、思い出せ。」

「?」

「俺たちは昔一度会ってるんだよ。」

いきなり告白したかと思えば今度は昔一度会ってるなんて。
鈴原朝日なんて名前は彼が転校してきて初めて聞いた名前だし、
顔だって覚えてない。人違いだ。

「いつのことを言ってるの。」

「柑奈と俺が帰り道に通る踏切あるだろ、あそこで。
お互い小学校低学年だったと思う。俺の父親の実家がこのへんなんだよ。だから長い休みになるとよく遊びに来てて、柑奈に会ったのは冬休みだったと思う。」

「知らないそんな昔のこと。」

「置き石。」

「置き石……。」

何かを思い出すという作業がわたしはとても苦手だ。
思い出は記憶の断片と断片によって再構築される創造物なのだという。思い出というのは必ずどこか勝手に脚色されていて、わたしたちはいつも必要以上に笑ったり泣いたりしながら断片を貼り合わせなければならなかった。
割れたグラスを頑張って元に戻すみたいに苦しみながら記憶を辿ってゆくと、わたしのものじゃないくらい綺麗な思い出が溢れ出してきていつもそれに飲まれる。
子供の頃、まだ小さかった頃の、家族がいて、友達がいて、ひとに相談できるような馬鹿馬鹿しくて誇らしい悩みがあった頃の綺麗過ぎる思い出たちに。
だから失った何かを思い出す、失った誰かを思い出すことはわたしにとっては自傷行為だ。

「覚えてないの。」

「んん、いまがんばって戻ってる。」

「俺がね、線路に置き石してたんだよ。あの頃は知らなかったけどばれたら犯罪なんだよ置き石って。で、俺が夕方薄暗くなった時に線路に石置いて遊んでたら同い年くらいの女の子がきてね。それが柑奈。いまでも覚えてるよ。白いコート着てキャラクターの靴履いてた。なんだっけあれ、耳が長いうさぎみたいなの。」

「…シナモンロール。」

その靴は持ってたことがある。
わたしの親は二人とも、二人の趣味にあった服をわたしに着せたがったので、
わたしが欲しいキャラクターものの服や靴は殆ど買ってもらえなかった。
けれどクリスマスプレゼントは特別で、買ってくるのは親ではなくサンタさんという設定だったので、当時のわたしは真っ先にだいすきだったシナモンロールのきらきらの靴を頼んだのだった。
でも、その靴のことまでしか思い出せなかった。

「よく覚えてるのね、そんなことまで。」

「俺の初恋だったんだ。
その後何回その踏切に行っても会えなかったけどね。
だからスケッチブックに柑奈の絵ばっかり書いてた。夏になっても絵の中の柑奈はコート着てて、暑そうだなって思って他の服に変えたりした。どう、気持ち悪い?」

彼はにこにこしながら話してくれた。
知らない男の子がわたしの絵を描き続けてたなんて不思議な話だけれど、ここまで言うのなら昔会ったのは嘘じゃないんだろうな、と思った。
だとしたらいつ。

「置き石してる男の子…。」

「うん。俺が置き石してるのに柑奈は気づいたんだ。気づいてじーっと見てた。」

「そう思う、わたし注意とかできるタイプじゃないもん。」

「いや、でも柑奈がこなかったらえらいことになってたかも。
俺がね、線路の溝に躓いて転んだんだよね。格好わるいことに。で、転んだ拍子に自分で持ってた石を頭にぶつけてね、大したことなかったけどちょっと血が出てて、そしたら何も言わずに柑奈がハンカチ貸してくれた。」

少しずつ思い出してきたかもしれない。
血のついたハンカチを見て母に心配されたことがあった。あの時だ。

「もしかして……ビスケット?」

とわたしが言った瞬間彼はすごく嬉しそうな顔をして微笑んだ。
彼の翳りのない笑顔を見たのはその時が最初で最後だったと思う。

「思い出したんだ、よかったー。」

置き石をして遊んでいて怪我をした男の子に、わたしは持ってきたビスケットを渡したのだ。
置き石ならぬ置きビスケット。
石の代わりにわたしたちは二人で線路にビスケットを置いた。
かんかんかんかん、と電車が通過する音が鳴り響いて、わたしたちは走って線路から出て、うきうきしながら電車を待った。

「にんじん、にんじん、にんじん。」

「うん、それも覚えてるよ。」

わたしは幼い頃、踏切のかんかんかんかんに合わせて、
にんじん、にんじん、にんじん、と言っていて(いまも心の中で言ってしまう)、だからやっぱりあの時も言っていたのだ。

電車ががたんがたんがたんと小さなわたしたちの前を通り過ぎた。
彼の置いた石は小さ過ぎたのか電車が脱線することはなかった。
石の代わりに置いたビスケットは木っ端微塵だった。ほんとうに、跡形もなかった。

「ビスケットの破片を頑張って探したのに見つからなかったんだよな。ちょっとさみしかった、あれ。」

「跡形もないのに、においだけ残るんだよね。」

「そう。何もないのにビスケットのにおいだけしてて。
俺はね、柑奈。忘れられなかったんだ。あの数分間の出来事が。」

「うん。思い出せてよかった。冬はかなしい季節で、忘れてたの、ずっと。わたしの大事にしてきたものはみんな冬に消えてっちゃったから、金木犀の甘いにおいもビスケットの甘いにおいもだいきらいになった。」

「そう。俺は、自殺するなら線路に飛び込むって決めてるんだ。
死にたいってのは一種の希望だからね、だから俺は、ちゃんと死にたい。首吊ったり手首切ったりじゃなくて、もう元の姿には戻れないような死に方をしたい。」

「死にたいの。」

「死にたかったし、ここにきても柑奈がいなかったらあの踏切で死んでやろうと思ってた。でも柑奈ちゃんといたから、柑奈の絵、また描いていい。」

「いい。」

その二文字を言うのがやっとだった。
わたしは誰かの希望だったんだ。わたしが誰とも関わらないと決めて生きてきたいままでの何年間も、知らないところでわたしは関わってたんだ。
わたしのことを忘れてなかったひとがちゃんといたんだ。

「なんで泣くの。」

「なんでもない。」

「最低なこと言ってもいい。」

「うん。」

「柑奈がしあわせじゃなくてよかった。柑奈がもししあわせだったらどうしようって思って、不安だった。俺なんかいなくても、友達いっぱいいて彼氏とかいて、元気で明るくてクラスの連中みたいに馬鹿だったら、その時俺はどうしたらいいんだろうって思ってた。そんな柑奈を見るくらいなら死んでてくれた方がいいなって思った。だから柑奈がひとりぼっちで本読んでてくれて嬉しかった。俺の入る場所残っててよかった。よかった。」

「……ひーくん。」

あの冬の日の数分間だけわたしは彼のことをそう呼んだ。
お揃いの記憶を、わたしはまた見つけ出せてよかった。

「ひーくん、覚えててくれてありがとう。」

「うん。」

「すきよ。」

「うん。」

「ビスケット。」

「買って行こうか。」

「誰かが言っていたの、記憶とはもう一度その瞬間を生きることだって。」

「そう、」

「うん。」

「俺は思い出って好きじゃないよ。」

「一度も忘れられなかったら思い出にできないね。」

「一度も忘れられなかった。」

はやく冬になればいいのに、と思った。

「にんじん、にんじん、にんじん。」

線路の前で、ひさしぶりに口に出す。

「それ、にんじんじゃなきゃだめなの。れんこんとかは。」

「柑奈はにんじん。」

「あ、そう。
にんじんの柑奈ちゃん、俺はね、頭の先から足の先まで、わかりあいたいと思うよ。
君はいままでそう思えるひとと出会ってこなかっただけなんじゃないの。俺は、柑奈ちゃんが手に入ったからもうなんもいらない。他にはなんもいらない。」

「わたしもそうおもう、わたしも、なんもいらない。
君がわたしのこと覚えててくれてる間に、どんな理想を抱いていたのかわからない。予想以上だったのか予想以下だったのかわからない。でも、わたしはもう君のことがすきだから、やっぱやーめたってされたら困っちゃうの。だから、それはなしだよ。」

「わかったよ。柑奈だけ見てるよ。」



朝日。
わたしはまだ完全に大人になれずにいます。
あなたに出会って恋をして、逃げ回っては隠して、たくさんわるいこともした。
たくさん汚れた。それでもわたしはまだ、あの日のわたしです。
できるならもう一度、あの日に戻って猫みたいにふたりで抱き合いたいです。
地面の中を這いつくばって生きることがわたしとあなたの為ならわたしはいくらだって汚れてみせるけど、あなたがいなかったらなんの意味もないの。
わたしが生きてる意味も理由もなにもかも、朝日だけだったんだよ。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-23

Copyrighted
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