泉と菖蒲

泉水と綾女

 秋の夕暮は、肌寒い。少し鳥肌のたった腕を摩りながら、風に揺れる水面を見つめた。良く来る湖。ここは、あの人と私だけの秘密の場所。

「ごめん、遅くなっちゃったね」
 そう言って現れるあの人。最近はテレビで見ることも少なくなったあの人。
「そんなに待ってないよ」
「そう?でも腕、プツプツなってる」
 彼は近づいて私の腕を摩りながら、笑った。片方の口角だけが上がる、彼独特の笑い方。少し意地悪な、何かを企んでいるような笑い方。世の中の人が気持ち悪いと、そう言った笑い方。でもこれが彼の心からの笑顔なんだと、私だけはわかってる。

「これ、持ってきたんだ。食べよう」
 着けていたキャップとメガネをはずして鞄にしまうと、湖のほとりに立つ木の陰に座って彼は、鞄から何かを取り出した。
「肉まん?」
「うん店の廃棄。ほんとは貰っちゃダメなんだけどねー、店長緩いから」
 緩いからじゃないでしょ?あなたのその綺麗な顔にお願いされたら、断れなかったんだよ。彼の働くコンビニの、50過ぎのおばさん店長を思い浮かべてそう思う。

 彼の顔は、整っている。整いすぎて、直視できないくらいに。色素の薄い茶髪に、大きな目、形のいい鼻に薄い唇。綺麗な肌は、女の私よりもきめが細かい。

「おいしいね」
 だからこそ、彼のしたことと、彼のこの笑顔は、万人に気持ち悪いと判断された。
「うん、おいしい」
「よかった」
 彼は、私の口の端に付いたパンくずをとると、満足そうに口に含んで笑った。


「仕事、どう?」
「ん?普通だよ。私はあんたと違って、堂々とできるから」
「それもそうだねぇ」
「うん。ねぇ、コンビニ、やめたら?」
「えー、そしたら僕、生きてけなくなるよ?」
 私の言葉に彼は、食べ終わった肉まんのゴミを片付けながらクスクス笑う。
「私の稼ぎがあるよ。それに、あそこのおばさん、きっとあんたに惚れてるよ?」
「そうかなぁ」
「そうだよ、きっと」
 私は、横に座る彼を見つめる。



「じゃあ、またしようか?」
「別のバイト?」
「違う、あれ」
 彼は木を手にもつと、それを構えて前に突き出す。
「しなくていいよ」
「どうして?嫌なんでしょ、おばさんが僕に惚れてるの」
「うん、いや。嫉妬しちゃう」
「あはは、嬉しいなぁ。僕、愛されてるね」
 本当に嬉しくてたまらない時の笑い方。口を開けて、眼は線のように細くなる。
「うん、愛してるよ」
「僕も、愛してるよ」
 知ってる。この人は、私を愛してる。病的なまでに。


 手に血まみれのナイフを持ったこの人が、私の家に来たのは三か月前のこと。
「殺してきたよ。君が嫌って言うから、あの女のこと」
 そう言って、笑った。片方の口角だけが上がる、あの笑い方で。

 幼いころからずっと一緒に居た彼と私は、まるでそれが当然のことのように、気が付いたらハグをして、キスをして、それ以上のことをする関係になってた。「愛してる」とか「好き」とか、そういう言葉が先だったのか、それらが先だったのかすらわからない。「付き合おうか」そういう言葉を言ったかどうかも、定かではない。でも気が付いたら、私にはこの人が居たし、この人には私が居た。

 彼がモテる人だと気付いたのは、いつだったか。お互い働き出して、なかなか時間が取れなくなって、寂しくなって泣く夜が増えた。独り暮らしの寂しい部屋に、泣き声は良く響いた。たまらなくなって電話をするけど、お互い出られないことも多くて、寂しさばかりがつのっていった。そんなときに思い出すのは、彼の端正な顔。そこに群がる女たち。たまらなくなった。心に真っ黒なドロドロしたものが溢れ返るのが、はっきりとわかった。

 なんとなく、彼と連絡を取るのが怖くなって、避けがちになってた。こんな醜い私をもう自覚したくないってのもあったと思う。そんな時だった。町で彼にすり寄る女と、それを困った顔で避ける彼と出くわした。彼は嬉しそうに私に駆け寄ってきたけど、私は自分でもわかるくらい、顔に表情がなかった。それを見た彼の顔からも、表情が消えた。

「その女、いや」
 口から出たのは、その言葉だけ。怖いくらいに、機械のように抑揚のない声だった。

 その日から私は、彼と連絡を取らなかった。電話もメールもたくさん来たけれど、何も返事しなかった。町で彼とすれ違うこともあったかもしれないけど、それすらも無視した気がする。

 そしたら、ある日、彼が家の前に立ってた。血まみれのナイフを持って。
「僕に惚れてたあの女殺したから、もうこの世に居ないよ。もう安心できるでしょ?だから無視しないでよ。僕にまた、笑いかけてよ」
 そう言って、彼は笑った。

 それから数日後、現場に残された指紋と、目撃証言から彼は犯人と断定され、指名手配された。彼の写真がテレビ、ネット、新聞、様々な媒体で拡散される。片方の口角だけが上がった、彼の笑顔の写真が。
「気持ち悪い」「狂ってる」「顔は良くてもこれはダメ」「被害者、滅多刺しとかヤバ過ぎ」数々の暴言が、彼に降りかかる中、彼は目を線にして私の横で笑った。

「きっとこれで誰も僕に惚れないよ?ますます安心した?」
 そう言って、心の底から嬉しそうに、笑った。



「ここに逃げて来て、もう二カ月になるね」
「そうだねぇ。ずっと一緒に居られるから、幸せだなぁ」
「…うん」
 私と彼は、遠く離れた県の山の中の湖のほとりに立つ小屋を隠れ家に、警察から逃げていた。

「でさ、あのおばさん、殺さなくていいの?」
 彼はまた、そう聞く。
「いいよ」
「でも、また僕のこと避けたりしない?」
「しないよ。不安?」
「すごく、不安」
 そうだよね。私が避けたら、狂っちゃうくらいに、私のこと愛してるんだもんね。


「じゃあさ、ずっと一緒に居るために、私考えたの」
「何を?」
「死のう。二人で」
「え?」
「今日ね、F町で警察見かけた。きっと何か情報掴んだんだよ」
 私はそっと、彼を抱きしめる。少し、痩せた彼の体は、折れそうなくらい頼りない。昨日私がつけた首筋の赤い印に、唇を寄せる。

「もうきっと、逃げきれないよ」
「…でも」
「あんたが捕まって、離れ離れになるのだけは嫌だ」
「それは、僕も一緒だよ」
 そっと、離れて、彼の顔をまっすぐ見つめる。

「死のう?イズミ」
 残酷な決意と共に、彼の名前を呼ぶ。そして心の中で告げる「もう狂った君は見たくないから」と。
「でも、僕にアヤメは殺せないよ」
「わかってるよ。それくらい」
 思った以上に気弱な声でそう言う彼に、私は思わず苦笑する。

「私がイズミを殺すよ。そして、その後を追う」
 イズミに殺されたいだなんて、思っちゃいない。寧ろ、私が彼を殺したい。私が狂わせてしまった彼を、私の手で解放してあげたいんだ。

「本当に、本当に、後を追ってくれる?」
「当たり前だよ。私とイズミは、ずっと一緒」
「……わかった。アヤメ、僕を殺して」
 少し迷うように視線をさまよわせたあと、イズミはそう言って、頷いた。


 彼をここで待つ間、小屋からとって来ておいたナイフを鞄から出す。
「イズミ、聞いてくれる?」
「うん」
「イズミが私の家の前に立ってたあの日、私嬉しかったよ」
「え?」
「私のために、人を殺したイズミを、心から愛しいと思った。今まで生きて来て、あの時ほど、愛を感じたことはないよ。私を愛してくれて、ありがとう、イズミ」
 そう言って笑った私に、イズミは驚いたように目を瞬いて、苦笑した。
「僕、アヤメを好きになってよかったよ。そんな風に言ってくれるの、きっとアヤメだけだ。普通の人は血まみれのナイフを持って笑う彼氏を、愛しいだなんて思ったりしないよ?」
「じゃあ、私、狂ってるのかもね」
「そうだね。僕たち、お揃いだね」
 そう笑って、彼は私の唇に短いキスをした。

「アヤメ、大好き。ずっとずっと愛してる」
 唇を離して、額を合わせると、私の目を見てイズミはそう言った。
「私もよ、イズミ。ずっとずっと愛してる」
 私も彼の目を見てそう言う。


 そしてそっと彼の唇へ、自分の唇を寄せる。さっきより少し長いキス。



 それと同時に、彼の心臓を、ナイフで突き刺した。



 重くのしかかる彼の体を抱き留めて、力いっぱい抱きしめる。まだ温かい。早く、早く、彼と離れてしまわないうちに…。でも、しなきゃいけないことがある。

 イズミの体をそっと地面に寝かせる。服を整えて、髪を綺麗に梳く。そして、彼の口角をそっと引き上げた。片方だけじゃなく、両方。彼はこんなに綺麗なのだと、気持ち悪いとそう言ったやつらに、思い知らせるために。

「でもね、思い知ったって、もう遅いよ。彼は、私のものだから、今も、昔も、これからも」

 私の頬に、涙が伝う。何の涙なんだろう。わからなかった。

 そっと、首元にナイフをあてがう。
「イズミ、待ってて。すぐに行くから」

 そう言って私は、ナイフを握った手を、思いっきり引いた。




「次のニュースです。指名手配されていたA県の女性殺害事件の犯人が、遺体となって発見されました。犯人の傍には、自殺したとみられる女性の遺体もあり、その女性は事件数日後から行方不明となっていた、犯人の知人女性と見られています。詳しい情報は、また入ってき次第お伝えしたいと思います。……では、続いて、今日のお天気です」

泉と菖蒲

彼の名前は、水にまつわるものから。彼女の名前は、水辺に咲く花から。二人いつまでも共に、という思いを込めて。
彼女が最後に涙を流したのはなぜか…。それは、私にもわかりませんでした。ただ、書いていて、確かに私の中の彼女は泣いていたんです。
だから、作品の中でも、彼女には正直に泣いてもらいました。その涙の意味は、みなさんそれぞれに想像していただけたらと思います。
では、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
みなさんの心に、少しでも何か残せる作品になっていたらと、そう思います。

泉と菖蒲

イズミとアヤメの話。心を込めて書きました。短い時間で読めます。どうぞよろしくお願いします。

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更新日
登録日
2014-09-23

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