Beside
ちょっとした連載です。お付き合いしていただけたら幸いです。
独りの病室
ある曇りの日の、少し遅めの朝。朝食のバターロール二つとスクランブルエッグを食べ終えたエリは、ベッドに入ったまま、すぐ近くの窓のほうをぼうっと眺めていました。
窓は乳緑色の木枠に縁取られています。葉っぱやつるの模様が描かれた木枠は、殺風景な白い部屋に数少ない彩りを与えていました。
傍らの壁に付けられた小さな棚に目を向けると、そこにはクラスの皆からの寄せ書きが置かれています。入院の初日に、担任の先生が一人で来て置いていってくれた物です。
「はやく元気になってね」
「おだいじに」
「また遊ぼうね」……
エリは光の宿らない眼差しでそれを見ていました。
皆、心にも無いことばかり。本当に私を心配している子なんて、きっと一人もいないに違いないわ。
また遊ぼうだなんて。一緒に遊んだことなんか一度も無いのに。こんなのは、先生から無理やり作らされたものに決まってる。
エリはうんざりしていました。その寄せ書きは病気の自分を励ましてくれるような代物ではなく、むしろ疎外感を一層煽る当て付けのように見えました。
皆の文字が仲良く輪を囲んでいる。女の子はいかにも女の子らしい文字、男の子はいかにも男の子らしい文字で、皆そろって同じことばかり。入院なんて言ってもどうせ十日程度なんだから、こんなもの始めから要らないのに。
しばらく恨ましい目で寄せ書きを見つめていたエリですが、それからふとどうでも良くなって、家からお母さんに持ってきてもらった本を手に取り、開きました。
秋の中頃、ひどい喘息の発作を起こして入院したばかりのエリは、安静を心がけるようにと先生から言いつけられています。だから特に調子が悪くなくても、そうしてベッドに横になったまま町の様子を眺めたり、本を読むことにしていました。
道路を挟んだ向かいには、夜までやさしい光を灯しているパン屋さん、赤いテント屋根のついた古い喫茶店、すべり台とベンチしかない小さな公園があります。
真正面にはピンク色のペンキで塗られたアパートが、ちょうどこの三階の病室くらいの高さで建っています。しかし灰色に淀んだ空の下では、そのピンクの外壁はひどく病的に見えました。
エリはそれを見ながら、引越しをして今の中学校に入る前、つまり小学生の頃まで住んでいた町の、古いおもちゃ屋さんの壁を連想していました。エリは一度病院からの帰り道で、車の窓からそのおもちゃ屋さんの建物を見ました。薄汚れた白い壁に、黒くただれたペンギンや、首のねじれたキリンや、人間のような目で笑うゾウの絵が描かれていました。エリはそれを見るなり、怯えてシートに丸くうずくまりました。その無機質で悪趣味な動物達の絵は、幼いエリの目には悪夢のように映りました。今でもそれを思い出すと、そわそわと落ち着かなくなるときがあるほどです。
ピンクのアパートの真下にはコンクリートの囲いがあり、ゴミ捨て場になっていました。三匹のカラスが山積みの黒い袋を破って、中身のゴミをついばんでいます。エリから見てちょうど真向かいに位置する部屋の窓柵には、枯れて干からびた花のささった植木鉢がそのまま残されていました。
エリはもともと大人しい性格ですが、引越しの後は輪をかけて話が苦手になりました。もちろんこの病院でも、ほとんど誰とも話そうとはしません。つい二日前まで、エリの隣のベッドには若い男の人が入院していました。栗色の髪をしたその男の人は、いつも携帯電話を見ながら少し笑ったり、なにかぶつぶつと言ったりしていました。
それでもごくたまに、暇そうにしているとき、エリに話し掛けてくることもありました。
「嬢ちゃん、なんで入院してるの?」
と聞かれたときは、私はいつもこんなに苦しそうに咳をしているのに、どうして分からないんだろう、と相手を無神経に思いました。
そしてエリが大好きな本を読んでいるとき、
「それ、面白いの?」
と、いかにもつまらなさそうな顔をして聞かれたときには、何も言い返さずに黙って本を読み続けました。その本は面白いけれど、これを心から好きになれるのは、世界で自分だけしかいないだろうと思っていたからです。
エリに無視されてしまった男の人は、さらにつまらなさそうな顔をしたまま携帯電話を取り出して、画面を見つめながらまたぶつぶつと何かを言っていました。エリは気を散らすことすらありませんでした。
その二日後、男の人が退院したかと思えば、今まで空いていた向かいのベッドに、エリと同い年くらいの男の子が入ってきました。男の子は右腕を骨折していて、包帯を肩から掛けていました。男の子はエリに似て、大人しそうな子でした。音を出さずにゲームをやったり、漫画を読んだりしていて、エリのほうを気にしようともしませんでした。
エリはその同室者を気に入っていました。少なくとも、どうでも良いことを話し掛けたり、夜遅くまでぶつぶつ喋るような人ではなかったからです。もしも私が、誰か男の子と仲良くするのなら、きっとああいう子だろうな、と、エリは密かに思いました。
だから、もしあの男の子がこっちを向いてきたら、私からそっと微笑み返そう。とエリは決めていました。そうしたらきっとあの子も同じようにしてくれるだろうと考えていました。
男の子が入ってきてから三日目。つまり今日の、お昼過ぎです。エリが大好きな本の八回目を読み終えて、男の子がゲームオーバーに苦い表情を浮かべながら顔を上げたとき、偶然、二人の目が合いました。
エリはすかさずにこりと微笑みました。しかし、男の子はそれに気付いたのかどうかも定かではなく、エリをあっさりと無視して、再びゲーム画面に目を落としてしまいました。
エリはがっかりしました。
きっと、私の笑顔が下手くそだったんだわ。
そう思いながら悲しい顔で外を見ていると、電線の上に一羽のハトが留まっているのを見つけました。こちらを向いてきたのでわずかな笑顔を作って送ってみると、ハトは首を傾げるような仕草をした後、すぐにどこかへと飛んでいってしまいました。
エリはもう何もかもが嫌になって、大きなため息を吐き、頭まで布団に潜り込みました。そしてそのまま、深く深く、眠りに落ちてしまいました。
*
エリは赤い絨毯の上で仰向けになって、知らない部屋の知らない天井を見ていました。天井の模様は、まるでヨーグルトの中に浮かべられた、紫色のミカンの粒のようでした。窓は深い緑色のカーテンで締め切られていて、部屋はとても薄暗いです。壁は苺ミルクのような桃色でした。部屋の隅には、所狭しとぬいぐるみや人形が置かれていました。色々な格好のテディベア、女の子や男の子のつぎはぎ人形、くるみ割り人形やまるで生きているかのようなたくさんのドール。
寝ているエリの足側には、木製のベッドが置かれています。花柄の可愛らしい布団がベッドからはみ出すように掛けられていました。
エリはベッドに目を凝らしました。よく見ると、分厚く掛けられた布団が、寝息を立てる早さでゆっくりと上下しています。
そのとき初めて、この部屋に、もう一人誰かがいたことにエリは気がつきました。と言うよりも、この子こそがこの部屋の住人なんだと理解しました。
ベッドの「女の子」は、エリがふさぎ込んだときと同じように、深く布団の中に潜り込んでいるようです。その子が女の子だというのは、部屋の様子からそうとしか思えなかったからです。
あの子を起こしてはいけないと思い、エリは出来る限りゆっくりと立ち上がりました。そして忍び足で部屋を渡り、引き戸に手を掛けたときです。思ったよりも大きな音が出てしまいました。
布団の微妙な動きがぴたりと止んだことを、エリは見逃しませんでした。女の子を起こしてしまった。気をつけたのに。
しかし、それよりもさらにエリを混乱させることがその部屋で起こりました。
壁際に寄せられた人形達が、魔法をかけられたように一斉に動き出したのです。
人形達はぎこちなく起き上がり、エリのほうへと歩み寄っていきます。
「君は誰?」
「だあれ?」
人形達は口々に問いかけています。その様は魔法というよりも、不気味な呪いのようにも見えます。
エリは心底驚いて急いで逃げようとしましたが、引き戸を開けると、そこには廊下や隣の大部屋などはありませんでした。
赤とも、紫とも、青とも言えない不思議な色の渦がぐるぐると回って、奥へ奥へと流れ込んで、まっ暗い空間を作っていたのです。入ってしまったら、もう二度と戻って来られないかも知れません。
「ねえ、どこから来たの?」
人形達は着実にエリの足下へにじり寄ってきます。途中で転んだ人形は、寝転がったままゼンマイ仕掛けのように足を動かし続けていました。
「ハハハ。転けちゃった。アハハ」
一体の人形が笑い出しました。すると、他の皆もケタケタと、虫のような奇妙な笑い声を上げました。
人形達はすでに、エリの足にまとわりついています。
「来ないで!嫌!」
エリはついに床にへたり込んで、顔をひざに埋め、泣き出しそうになりました。
「泣かないで」
ベッドのほうから声が聞こえました。見ると、女の子が布団から肩と頭を出して座り、こちらをじっと見つめています。まるでその子も人形のうちの一つであるかのように、日本人離れした愛らしい顔をしていました。女の子は口元に優しい笑みを浮かべて、繰り返しました。
「泣かないで」
*
うなされている自分の声で、エリは目を覚ましました。そしてその後しばらく、ひどい咳に襲われました。ひゅうひゅうとした細い息の合間に、止めようのない咳がこみ上げてきます。向かいの男の子がナースコールを押してくれましたが、看護婦さんが来るよりも前に、咳は治まりました。
「またエリちゃんに発作が出たら、悪いけどお願いね」
看護婦さんに言われた男の子は、漫画に目を向けたままこくりと頷きました。
身体中が汗でびっしょりになっていました。窓から外を見ると、空はもう夕方の赤みに染まっていました。
「誰だったんだろう」
エリはつぶやきました。もちろんあれは夢だから、そんなのは誰でも良いのです。それでもエリは、考えずにはいられませんでした。
あの子は誰だろう。あの部屋はどこだろう。私はどうしてあんな夢を見たんだろう。
いつも見る夢はすぐに忘れてしまうのに、それは本当の記憶のように鮮やかに頭に残っています。
きっとなにか、特別な理由があるに違いないわ。なにか……。
しかし、夢のことを思い返して考える集中は、突然病室に入ってきた子どもたちの騒ぎによってかき消されてしまいました。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫なら入院なんかしてないでしょ」
「お菓子持ってきたぞ」
三人の男の子と二人の女の子が、向かいの男の子のベッドを取り囲みました。自分の考えに入り込んでいるところを邪魔されたエリは、とても不愉快でした。うるさいな、早く帰れば良いのに。と、そのときはただ、そう思っていただけでした。
だけど、そんなエリの不愉快な心は、もっと複雑な形に姿を変えることになりました。
仲間に囲まれた男の子が、いままでに一度も見せなかったような笑顔を浮かべたのです。エリにはその顔が、太陽のようにまぶしく見えました。ひと欠片のためらいも無い、朗らかで、いきいきとした笑顔でした。
真っ黒い炭のような塊がエリの胸の中で大きく広がっていきました。
どうして私には、あんな幸せを届けてくれる人がいないんだろう。どうして私は、あんなふうに輝くような笑顔が浮かべられないんだろう。
どうして私は、こんなにいつも不愉快なんだろう。不愉快で、不機嫌で、自分のことばかり。おまけに病弱。
エリは思い切り泣きたい気分でした。それでも、ひと雫も涙は流れませんでした。涙は心の中に広がる黒い塊のなかに吸い込まれて、外に流れ出す代わりに、その塊をさらに大きくするだけなのです。
女の子の一人が、エリのほうを見て困り笑いをしながら言いました。
「うるさいかな?ごめんね。もう行くから」
そうして皆で去っていきました。男の子は最後まで、明るい表情で手を振り、仲間たちを見送りました。その後は、嬉しそうに微笑みながら漫画の続きを読んでいました。
エリは棚の寄せ書きをにらみました。それから見えないように寄せ書きを裏返しにしてしまうと、いつもの本を手に取りました。
だけど数ページだけパラパラとめくって、すぐに元に戻してしまいました。もやもやした心でこの本を読んでも、面白くないと思ったのです。
エリはため息をついてベッドに潜り込みました。そして固く目を閉じました。
このまま眠りに落ちてしまいたい。こんな気持ちのまま起きていたくない。こんなつまらない現実を、認識していたくない。
それにもしかしたら、またあの夢の続きを見られるかもしれない。
あんなに怖い思いをしたのに、エリはそんなことを期待していました。夢の中なら、こんな気分になることもないはず。それに何よりも、夢に出てきた女の子のことがとても気になっていたのです。
エリは眠りに落ちるように努力しました。だけど結局、眠ることは出来ませんでした。さっき起きたばかりなので無理もありません。
窓の外を見てみると、向かいのすべり台とベンチしかない小さな公園で、ボールを持った子どもたちが遊び回っていました。
その様子を虚ろな目でしばらく眺めた後……エリは再び、深い深いため息をついてから、ベッドを降りて病室から出て行きました。
被虐の暗闇
アイは暗闇のなかにいました。暗闇のなかでは、どこを向いても真っ暗です。まぶたを閉じても開いても真っ暗です。
どこまで歩いても、走っても、叫んでも、うずくまっても、暗闇は暗闇でした。アイがさまよっているのは、本当の暗闇なのです。
本当の暗闇は、地球上のどこを探しても見つかりません。人間が知っている限りでは、宇宙にだって存在しません。
闇の色は、どこまでも続く黒です。でも本当の暗闇の色は、黒ではありません。紺でも紫でもありません。
それはたくさんの色という色が混じり合って、せめぎあって、重なり合って出来た、世にも禍々しく恐ろしい空間なのです。
だから人間が暗闇のなかに入ると、色々なものが見えてきます。そしてそれは大抵、見たくないものであることが多いのです。
しばらくしゃがみ込んでうずくまった後、アイは顔を上げました。
すると、前方に白っぽい人影が見えました。それがどのくらい離れたところにいるのかは、アイには判りませんでした。
人影はアイを手招きで呼んでいます。アイは立ち上がり、恐る恐る近づいていきました。その間、二つのことに気がつきました。
一つは、その人は中学校の制服を着ているということです。それも、アイと同じ学校のものでした。髪は二つに結われており、女の子のようです。
そしてもう一つ。その人には顔が無かったのです。目も口も鼻もあるべきところに無く、マネキン人形のようにまっさらでした。
不気味としか言いようのないその彼女は、アイを自分の目の前まで呼び寄せると、口が無いのにも関わらず話し掛けてきました。
「どこから来たの?」
アイはあまりに奇妙なその姿に呆気にとられて、すぐに返事をすることが出来ませんでした。
「え……どこからって」
どうしても戸惑いがちになってしまい、言葉がすぐに出ません。
するとマネキン人形のような彼女は、突然、思いがけないことをしました。
アイの足を蹴って思い切り転ばせたのです。
「痛い」
マネキン女は転んだアイを追い込むように、ためらいなく踏みつけてきます。
「はやく答えなさいよ」
言いながら、さらにアイを踏みつけます。
「やめて、痛いよ」
マネキン女は聞く耳を持ちません。いつまでもアイをいじめて、ときどき楽しそうに笑います。
マネキン女は一人だけではありませんでした。いつの間にか後ろから仲間が現れ、寄ってたかってひどいことを言いながら、アイに足をふり降ろしました。
アイはついに泣き出しました。それでもマネキン女たちは止めようとせず、執拗にアイを痛めつけます。
それからしばらくして飽きたのか、マネキン女たちは暗闇に混じりながら姿を消していきました。
暗闇には、ボロボロになったアイの泣き声だけが響いていました。
しばらく子犬のように弱々しく泣いていたアイは、何かの気配に怯えながら、逃げるように暗闇から帰ってきていました。
「やっぱりね。こうなると思ったよ」
テディベアの一匹が、やれやれという風に言いました。
「最初からやめとけば良かったんだ」
このよく喋るクマは、アイの持っている人形やぬいぐるみのなかでも一番のお気に入りです。アイはクマの手を持つと、そのままベッドのなかに入り込みました。そして布団に深くもぐりました。
「もう寝るね。おやすみ」
クマは呆れた様子です。
「まったく、寝てばっかりだね」
アイが、周りを気にするような小さな声で応えます。
「他に何もないもの。それにもしかしたら、またあの子がここに来てくれるかもしれない。でしょ?」
「寝ている間に?」
「そう。今度は驚かしたりしちゃだめよ」
「そんなつもりは僕らにもなかったよ。なあ」
ベッドの上から呼びかけられた人形達は、うんうんとうなずくような動作をしています。
「アイの方こそ、本当はいたずら好きなくせに」
「それはずっと前のことよ。今はもう違う」
アイは、自分の部屋に現れた女の子のことをとても気にしていました。年も同じくらいに見えるし、アイにはその子が、とても優しい子に見えました。
それに、内側も自分と似ていると思ったのです。それはもちろんただの直感ですが、今までに出会ったどの人よりも、はっきりとそんな気がしたのです。
アイはまたあの女の子に会って、謝りたいと思っていました。あんなに怯えさせてしまって、悪い気持ちでいっぱいになっていました。
アイは、女の子があの暗闇の中に消えてしまったんだと思いました。だから意を決して引き戸を開け、暗闇へと踏み込んだのですが、結果は散々です。
結局女の子は見つけられなかったし、見たくないものばかり見てきてしまい、また少し心の裂け目を大きくして部屋に戻ってきたのです。
「はあ……本当に怖かった」
アイはまだ震えが治まっていませんでした。目から怯えの色が引きません。
「いったい何があったんだ?」
クマが躊躇無く問いかけます。
「踏まれたのよ。ずっと、ずっと、ずっと、泣いてもやめてくれなかった」
「それはひどいな。誰がやったんだ?」
「わからない。顔も真っ白だし。それに一人だけじゃなくて、たくさんいるの。全員制服を着てた。だけど、そんなのはどうでもいいわ。あんなことをするのは、どうせ皆同じなのよ。はじめから区別なんて無いの。誰一人」
「へえ……」
クマは、その話にはあまり共感が無さげでした。おなかの前で手を組み、目を閉じています。それからしばらく経たないうちに、アイよりも先に寝息を立てていました。
アイは短くて上品なため息をつきました。
「せめて、素敵な夢が見られたら良いのに」
ここでは、眠っても夢が見られません。アイはそれをわかっていながら、ここに引きこもることを選んだのです。
選んだという言い方では、あるいは間違いかも知れません。
アイはここから変化することをとても恐れています。だから、どうしようも出来ずにここにいるのです。
「おやすみ」
皆が寝静まったなかで、アイは一人つぶやきました。
暗闇のうねる音が、部屋のなかにまで聞こえていました。
*
暗闇には音があります。闇に音なんてあるはずがない、と、多くの人はそう思うかも知れません。だけど本当の闇のなかは、決して無音ではありません。闇では、その動き続ける色と同じように、この世のさまざまな音という音が複雑に絡み合って、一つの巨大なうねりとなって、獣の唸り声のようにそこに響き渡っています。地鳴りのような重々しい響きに聞こえるときもあれば、耳鳴りのように不快な高い音であったりもします。そして、そこにさまよう人が心にわずかな隙間を作ったとき、その人にとっては聞きたくない音や、その心につけ込み、欺くような誰かの声が闇のなかに形づくられ、その耳へと勝手に流れ込むのです。
アイは、なかなか寝付けずにいました。先ほど見た幻影の恐ろしさが頭から離れなかったのです。ここでは夢は見ないとわかっているのに、眠ったらまた悪夢として出てきそうな気がして仕方ありませんでした。
アイは、ただ、こうして眠れないでいる自分に寄り添ってくれる人を求めていました。クマとは違って、もっと自分より大きくて、全てを包み込んでくれるような人です。
「お母さん」
アイは思わずつぶやきました。今のアイを支える力を持っている人と言えば、他には思いつきませんでした。
「お母さんは、どこにいるの?」
「ここよ。アイ」
優しい返事がありました。
信じられません。お母さんからの返事が、たった今、はっきりと聞こえたのです!アイはその途端、錯乱に陥りました。
「お母さん!どこなの?どこにいるの」
アイは叫びながらベッドから飛び起きます。
「なんだなんだ?」
あまりの騒ぎにクマが目覚めましたが、今はそれどころではありません。アイはなおも叫びながら、体ごと部屋中をぐるぐる見廻します。それでも、お母さんの姿は一向に見当たりません。
「ここよ」
声が聞こえたのは、上からでした。見ると、天井の紫色の模様がお母さんの顔に変わっています。アイが呆然とそれを見ていると、その顔は天井の表面を、水面に浮かぶ蓮の葉のようにするすると滑って、引き戸のほうまで行って、暗闇のなかへ消えていってしまいました。
「待って!お母さん」
アイは錯乱状態のまま暗闇のなかへ駆け出していきました。
「あっ、待って」
クマの静止はもはや、なんの価値も持っていませんでした。
「お母さん!どこ」
アイは暗闇のなかをひた走ります。先ほどの恐怖などすっかり飛んでしまったかのように、右往左往と暗闇を駆け回りました。
途中、幾人かの後ろ姿を見かけました。しかしながら、近寄って声をかけてみると、そのどれもがお母さんのような格好をしたあののっぺらぼうでした。のっぺらぼうはアイをもの珍しそうに見下ろすと、闇に紛れてすうっと消えていきます。
アイは諦めませんでした。きっとどこかにいるはず。私が怯えているのを知って、私を慰めるために、こんなところにまで姿を現してくれた。
もしもこの機会を逃したら、もう二度とお母さんに会えないかもしれない。アイは漠然とそう思って、気持ちを焦らせ続けました。
そしてアイは、今までに一度も足を踏み入れていない場所にたどり着いたのです。
そこは、たくさんの枯れ木が密集した、闇のなかの森でした。真っ暗な森の木の間をアイは走り抜けます。
森のなかの闇色の地面は、落ち葉でいっぱいになっていました。
木々を駆け抜けると、目の前にひらけた道が現れました。道にそって行くと、さらに広くひらけた場所に、白く人影が浮かんでいます。
アイは、今度こそお母さんだと直感しました。
「お母さん!お母さんなの?」
「そうよ。アイ」
その神様のような柔らかい声を耳にするなり、アイは再び走り出し、少しずつお母さんに近づいていきます。
だけど、近づくにつれて、アイは違和感を覚え始めていました。お母さんは、そこに立っていると言うより、「浮かんで」いるのです。枯れ木を背にして、お母さんは地面よりもやや高い所にいます。
そしてその意味を察したとき、アイは言葉を失いました。
枯れ木の枝から垂れた麻のロープが、お母さんの首もとに輪になって掛けられていました。首は長く伸びきって、青白い顔に血管が浮かんでいます。
アイは魚のようにぱっくりと眼を見開いたまま、数秒の間立ち尽くしてそれを見ていました。そしてお尻からその場に崩れ落ちて、両の手のひらで自分の顔を覆い、嗚咽を洩らして泣き出しました。背中を丸めて下を向くと、指のすき間からボタボタと雫がしたたり落ちました。
「なんで。なんで」
鼻のつまった、今にも吐き出しそうな声で繰り返します。
やっと本当の安心が得られると思っていたのに。
やっと再会出来ると思っていたのに。
今のアイにとって、それはあまりにも残酷で、非情で、どこまでも絶望的なものでした。
首を吊ったまま、お母さんはアイを見下ろして優しく話し掛けます。
「泣かないで、アイ。お願いよ」
それだけ言い残すと、お母さんの身体は足の先からみるみるうちに茶色い枯れ葉へと変わり、ばらばら、ひらひらと地面に落ちました。
泣きながら、アイは枯れ葉を腕いっぱいに抱き寄せました。そして静かに言いました。
「ごめんね。お母さん」
アイは幽霊のようにふらふらと歩いて、森の道を抜けていきました。
出会い
エリはつまらなさそうな顔をしながら病室のドアを開けて、廊下に出ました。ストレスを溜めているせいか、少し肺がもやもやします。こういうときの気分転換は大切だと、エリは幼い頃からお母さんや病院の先生に言われていました。だからエリは、一階の娯楽室に行こうと思っていました。
廊下の白い床や壁は、窓から射し込む夕陽に照らされて橙色に包まれています。歩いていると、点滴のスタンドを転がすおばあさんや、頭を包帯に巻かれたスポーツマン風の男の人とすれ違いました。
階段では、コスモスの花束を抱えた男の人が思い詰めた表情で上がってきました。隈が目立ってひどく老け込んで見えますが、本当はもっと若そうです。
一階の廊下では、担当の先生とすれ違いました。
「やあ、エリちゃん。具合はどうかな」
先生はにこやかな表情と、にこやかな声でエリに話し掛けます。作り物ではない善意がそこには込められていました。
正直にいえば、エリの身体と心の具合は全くもって良いとは言えません。だからエリは、今の状態をそのまま伝えようとしました。ここで先生に嘘を言っても仕方ないのです。だけど本当にそんな後ろ向きな返事をしても良いものかどうか、エリには自信がありませんでした。
「あんまり……」
過剰に心配されるのが嫌なので、エリは小さな声で控えめに答えました。そのせいで、先生にはよく聞こえませんでした。先生はそこで、余計な気を遣うことになりました。
「ああ、よしよし。悪化してないならいいんだ。きっと来週には退院出来るくらいに回復してるだろう。それじゃあ、安静にね」
一息にそう言ったかと思えば、先生はもう近くの病室をのぞいて、具合はいかがですか、痛みはないですか、などと話し掛けていました。
エリはまたうんざりしていました。あれは、エリが話をするのが苦手だということに気づいた人がよくする反応なのです。そんな気を遣われることはエリは望んでいなかったし、こんな簡単なこともまともに答えられなかった自分も嫌でした。
エリはこわい顔をして下を向きながら、大股歩きで娯楽室のドアまで突き進みました。すれ違う人が皆自分のほうを見ているような気がしましたが、それにはお構いなしでした。
磨りガラスのドアを開けると、床に敷かれたグレーのマットの上に、ビリヤード台や、ダーツ、ホッケーなどが置かれていました。すでに二人の女の子が、楽しそうにビリヤードをやっていました。この二人は姉妹でしょうか。あまりビリヤードには慣れていない様子です。部屋のすみには棚が置かれていて、オセロやチェスなどのボードゲーム、トランプやカルタなどのカードゲームがありました。そして一番上の段には、ジグソーパズルがありました。
エリはジグソーパズルを取り出し、マットの上に置いて、黙々とイルカの絵を組み上げ始めました。
エリはパズルが得意です。その実力は、小学二年生のときに、1000ピースのジグソーパズルを独力で完成させたほどです。買ってきたパズルが目を離している間に出来上がっていたので、エリのお母さんはとても驚きました。
エリは無心になれる作業が好きです。本の世界にも入っていけないようなときには、いつも決まって出来上がったパズルをひっくり返し、一から組んできました。だからこんな500ピースのパズルなど、エリの手にかかればすぐに完成するはずでした。しかし、邪魔が入ったのです。
周りのサンゴや小魚をつくり、イルカの尻尾に差し掛かったところで、ビリヤードに盛り上がっていた女の子の一人、おそらく妹と思われるほうが、ジグソーパズルのほうに近づきました。女の子は気がついて避けようとしましたが、失敗してバランスを崩し、余計にひどくピースを蹴り飛ばすことになってしまいました。
床に散らばったピース。それを石のようになって見つめる三人。
直後、それまで無心でパズルに熱中していたエリは、今まで心の隅に追いやっていたムシャクシャした気持ちを一気に解き放ちました。
「ちょっと!何するの!台無しじゃない!」
エリは一年間に幾度も上げないような大声で女の子に怒鳴りつけました。
「どうしてくれるのよ!せっかくここまでやったのに!ねえ!」
エリは怒りながらも、目元に涙を浮かべています。パズルを壊してしまった女の子は、困り果ててお姉さんにすがりつきました。予想以上の怒りに戸惑っているようです。無理もありません。女の子はただパズルを壊しただけですが、それはエリにしてみれば、今まで様々な憤りを抑えてきた心のダムが、決壊したのに等しいのですから。
「ごめんね。でも、わざとじゃないのよ。そうでしょ?」
お姉さんに言われ、女の子はこくりとうなずきます。その子のほうは、もう頬に涙を伝わせていました。それでもエリの剣幕は止まりません。
「わざとじゃない?何言ってるの!普通はすぐに謝るのよ!」
女の子は気がついて、小さな声でごめんなさいと言いました。実際に謝られてしまったエリは、これ以上言い返す言葉もありません。雫のたまった目をキッと細長くして素早く振り向くと、肩をいからせながら、娯楽室をのしのしと出ていきました。
まぶしい西日が胸に染みます。それで余計にせつなくなり、ついに大粒の涙がこぼれ落ちました。それは目をつむっても歯を食いしばっても止まりませんでした。抑えきれない泣き声の合間に、げほげほと湿った咳を洩らしながら、エリは廊下を早歩きして自分の病室に戻っていきました。幸い発作の誘発には至りませんでした。
病室に戻る頃には、咳は治まっていました。力いっぱいドアを開けたエリは、驚く他の患者たちには目もくれずにベッドに直進しました。そしてベッドを軋ませながらうつ伏せに布団に入り込み、枕に顔を押しつけました。泣きようにも、これ以上涙が出ません。呼吸が落ち着かないのにも関わらず、エリは口も鼻もぴったり枕にくっつけたまま離れませんでした。
このまま息が出来なくなって、気を失ってしまいたいとエリは思っていました。
自分よりも小さな女の子に怒鳴りつけるだなんて、正気じゃない。もう限界だわ。もう家に帰りたい。
もっとも先生に申し出てまともに相談さえすれば、家に帰してもらえないことも無くはないのです。しかし、今のエリにはそんな余裕もありません。枕に顔を押しつけて、意識が遠くなるのを待つしかありませんでした。
だけど、苦しいばかりで一向に気絶する気配はありませんでした。エリは諦めて体の向きを直し、窓に顔を向けました。
日は沈んで、外はもう暗くなっていました。向かいのパン屋さんではいつも通りのやさしい光が灯され、売れ残りのパンが寂しそうに並んでいます。公園では、白い街灯が誰もいないベンチを照らし続けていました。
赤いテント屋根の喫茶店からは、長いコートを着て、丸つばのハットを深々と被った男の人がうつむきがちに出てきます。エリは遠い目でその後ろ姿をながめていました。すれ違う人々や車とは、全く別の空間を歩いているかのようでした。男の人は薄暗いピンクのアパートの前で足を止めると、それをゆっくり見上げました。それからしばらくするとまた深くうつむいて、暗い階段からアパートのなかへと入っていきました。
窓の外に気を取られていたエリは、後ろに夕食の盆を持った看護婦さんが立っているのに気がつきませんでした。エリが慌てて向き直ると、看護婦さんはしっとりとした声で言いました。
「ご飯しっかり食べて、元気だしてね」
笑顔で盆を置き、病室を出ていきます。
また余計な気を遣われちゃったな、とエリは思いました。廊下で泣いていたところもバレバレだったのかも知れません。いずれにせよ、今のエリに食欲なんて欠片もありませんでした。食事を放棄して横になり、一口も手をつけていない夕食が後に回収されていくのを、エリは寝たふりをしたままやり過ごしました。もうその夜は歯を磨いて顔を洗い、ベッドに戻って眠るだけでした。
十時、消灯の時間。電気が消され、部屋中が夜に包まれます。星と三日月をその大きな瞳に映しながら、エリはまたあの女の子の姿を頭に思い浮かべ、今夜の夢でも会えることを願いました。
そしてあまりにも長い現実の世界の一日を静かに終えました。
*
布団の感触は雲のようにふわふわしていて、枕は耳元まで包み込むような柔らかさでした。病院のそれとは全く違った心地の良い木のベッド。
周りを見ると、深い緑色のカーテンを通した弱い光が、桃色の壁紙を浮かび上がらせています。ヨーグルト色とミカン模様の天井、赤い絨毯、暗闇へと続く引き戸。昼間の夢とまったく同じ部屋にいることに、エリはようやく気がつきました。昼間と違うのは、自分がベッドのなかにいることと、ベッドにいた女の子がどこにも見当たらないことです。
寝返りを打って横を見ると、テディベアが布団に埋もれながら寝息を立てていました。エリは、今度は出来るだけ驚かずにその様子をじっと見つめます。それから壁際に目を向けると、そこにはやはり、同じように眠る人形達の姿がありました。
ベッドから起き上がろうとすると、寝ていたはずのテディベアが後ろから声をかけてきました。
「あれ、もう起きてるのか。アイ」
あの子は、アイって名前なんだな。エリはすぐに気がつき、寝ぼけたテディベアを少しからかいました。
「うん。なんだか全然眠れないから」
「ふうん。まあ、無理もないね」
「ええ。それじゃ私、お出かけでもしようかな」
その言葉に、クマは不思議そうに反応しました。
「お出かけって、どこへ……あれ」
結局すぐにばれてしまいました。
君はさっきの女の子じゃないか!などと叫ぶなり、おしゃべりクマは部屋中を駆けめぐります。その騒ぎに、いくつかの人形が目を覚ましました。
それからクマは急に何かを思い出して、ぴたりと動きを止めました。
「そうだ。アイはまた飛び出して行っちゃったんだ。あれは見間違いじゃなかったのか」
クマは一人でぶつぶつとなにか言っています。どうやら一大事のようです。エリはそっとクマに問いかけました。
「アイがいないのね?」
「え?ああ、えっと、うん。そうだよ」
今度はクマのほうが、エリに話し掛けられて戸惑っているようでした。クマは引き戸に手を向けてもごもごと続けました。
「あの向こうだよ。君も見ただろ?」
「エリよ」
クマの高さまで腰をかがめて、自分の名前を教えました。
「ああ、エリ。エリも見ただろ?あそこに出ていったら大変なんだ。今度こそ戻ってこないかもしれないんだ」
クマは言いながら、絨毯の上を行ったり来たりして落ち着かない様子です。腕を組んで頭をこつこつしながら悩む姿は、まるでくまのプーさんでした。
「それで、誰もアイを追いかけないのね」
「僕らはこの部屋から出られないんだよ。出ればその途端に、ただのぬいぐるみになっちゃうからね」
エリは困りました。これでアイを助けられるのは、自分しかいないということになってしまったのです。もちろん助けたいし、会ってお話をしたい気持ちは山々だけど、暗闇はあまりにもおぞましく渦巻いていました。恐ろしいものの気配が部屋に漏れ出しています。
「エリ。行ってくれるかい」
クマが哀願します。もう後には引けませんでした。
「ええ。きっと連れて戻るから、待っててね」
深呼吸をして、暗闇に足を踏み出しました。不気味な音が耳に流れてきます。それは人のうめき声のようでもあり、金属の軋む音のようでもありました。
「アイ。どこにいるの」
立ち止まって叫ぼうとしても、不安で声がこもってしまい、暗闇に溶けて消えてしまいます。
同じ所に留まっていたら、気がおかしくなりそうです。エリは自然と早足になっていました。後ろを振り向けば、遥か遠くに、桃色の壁を背景にしてクマのシルエットが立ちすくんでいました。
ああ。心の中でエリは嘆きます。
今すぐあの部屋に飛び込んでいって、戸をぴたりと閉め、ふかふかのベッドに潜ることが出来たらどんなに良いことでしょう。
前に向き直ると、先の見えない闇はどこまでも続いて、全てが怪しく歪んでいます。どろどろしたうねりを見ているとめまいを起こしかねません。
それでも、とエリは目を固く閉じて首を振り、震える足を動かし続けました。
遠くのほうに、人影が見えました。闇の中で、その人影だけは白くはっきりと見えます。
「アイ。あなたなの」
エリは小走りで近づいていきましたが、それは全くの見当違いでした。途中でエリに気づき振り向いたその人には、顔が無かったのです。エリは短い叫び声をあげると、走って逃げ出しました。逃げながら、懸命に自分の気持ちを落ち着かせようとします。
夢よ。どうせこれは夢。あまりにも生々しくて現実じみているけど、だけど、ただの夢。夢なら覚めないことはないわ。何か恐ろしいことがあればすぐに目が覚めて、私は病院のベッドの上で汗をかきながら、またいつもみたいに息を切らしてる。そうに決まってる。
「違うね。君は永遠にここから出られないのさ」
感情のない不気味な声が後ろから響いてきました。見ると、いつかの無機質なペンギンの絵がそこに浮かんでいます。
「永遠にね」
黒くただれたペンギンは、あっという間にエリのすぐ目の前まで迫ってきました。
悲鳴をあげて逃げ出した先には、大きなキリンの絵が立ちふさがります。キリンはねじれた首をさらにぐねぐねさせながら、エリの顔をまじまじとのぞき込みました。
「可哀想に。これでまたひとりだ。君はどこにいっても孤独だな」
「ああ、本当に可哀想だ」
言いながら、人間のような目をしたゾウが口を大きく裂いて笑います。エリは完全に動物のお化けに囲まれてしまいました。どうすることも出来ないエリは、両手で耳をふざぎ、泣きながらその場にしゃがみ込みました。こんなときにまで、息苦しさが襲ってきました。
「安心してくれ。僕らで良ければいつでもそばにいるから」
直接耳もとにささやかれたような声に、全身が震えました。
「やだ!嫌!消えて!」
叫んでから、心の中でも唱え続けました。消えて。消えて。消えて。お願い。
それからどれほど時間が経ったでしょう。お化けの気配は無くなり、暗闇のうねる音だけが周りに響いています。願いが効いたのでしょうか。しかしエリは、あまりの怯えに顔を上げることが出来ないでいました。
下を向いたまま頭を抱えていると、闇の上に、純白のなにかが静かに現れました。それは靴下をはいた小ぶりの足でした。
見上げると、白のワンピースを着た人形のような女の子が、エリを見降ろしながらやさしく微笑んでいます。
「私を探してくれたのね、エリ。ありがとう」
アイは弱々しくもやわらかい声で言い、白い手を差し出しました。
その幼げな瞳には一瞬、深い哀しみの色が浮かんで見えました。
エリはきっと気のせいだと思いつつ、手を取りました。
エリとアイ
アイを助けようと暗闇へ踏み出したエリでしたが、結局最後には、アイに連れられながら部屋へと戻ることになってしまいました。
二人はまるで幼なじみのように手をつないで歩きました。部屋の入り口に到着するまでは、アイが再び笑顔を浮かべることはありませんでした。
アイはずっと周りを気にしていました。眉をひそめて、唇をかたく結んで、闇のなかをきょろきょろ見回しています。
時おり、離れたところに人影が立っていました。きっとあの顔無しお化けに違いありません。
アイは人影の姿を見つけるたびに、エリとつないだ右手を握り直します。
エリは怖さにうつむきながら歩いていましたが、つないだ左手から緊張が伝わるたびに、そっとアイの顔をうかがいました。するとアイはわざとらしく緊張を解いた顔つきになって、エリの目を見つめ返します。
「大丈夫。あともう少しだから」
それはエリを励ましているようでもあり、自分の心に呼びかけているようでもありました。その証拠に、アイの右手は小鳥のように震え続けていました。
行きよりも遥かに長い長い時間、暗闇の上を歩いているように感じられました。ようやく二人は、部屋の入り口が見えるところにまでたどり着きました。アイがほっとした顔を作ると、エリも心が和らぐのを感じました。
二人が安堵に包まれたそのとき、闇に声が響きました。
「アイ」
エリの声でも、向こうのクマの声でもありません。遠い後ろのほうから、アイをやさしく呼び止めようとするように響き渡ってきたのです。エリは思わず後ろを振り向きました。しかし、誰の姿も見当たりませんでした。アイは真っすぐ前を向いたまま歩き続けていました。
今の声は、アイには聞こえなかったのかな。
そう思っていると、アイはつないだ二人の手を静かに持ち上げ、自分の胸に強くあてがいました。
「今の、聞こえた?」
エリが不安と心配の入り交じった表情で問いかけます。
「いいえ。何も」
アイは目も合わさずに否定しました。
裏腹に、アイの胸に当てられた左手は、今にも破裂しそうな心臓の鼓動を直に受け取っていました。それは病弱なエリにはきっと耐えられないような激しい拍動でした。
アイは前を見据えたまま足を早めます。そして二人は、やっと暗闇と部屋との境界をまたぎました。
戸はアイの手によってすぐに締め切られました。
「ああ。流石にもうだめかと……」
クマが言い終わらないうちに、アイはそのやわらかい体を思いきり抱きしめました。他の人形達も口々に歓声を上げて喜んでいます。
「エリが私を探しにきてくれたのよ。ありがとう、エリ」
クマの両脇腹を赤ん坊のように持ち上げてエリの顔に近づけながら、アイはやっと笑顔を見せました。
「私こそ、一人じゃどうしようも出来なかった。ありがとう、アイ」
突き出されたクマを撫でながら、エリはしみじみとした微笑みで応えました。クマはどこか不服そうな顔でされるがままになっていました。
「ところで、不思議じゃない」
エリが突然、思い出したように疑問を口にしました。
「どうしてあなたは私の名前を知っているの?まだまともに話したことも無かったのに」
もちろんその疑問は、考えてみれば何でもないものなのです。つまり、これはエリの見る夢なのだから、夢のなかに出てくる女の子がエリを知っていてもなにもおかしくないということです。そのことは、エリも頭ではよく分かっていました。それでも不思議に思えて仕方なかったのです。
「なぜあなたを知っているのか?簡単なこと。私は、ここで起きていることなら何だって、どこにいたってお見通しなのよ」
「たとえば、お菓子を勝手に食べちゃうとかね」
クマが参ったというように肩をすくめて口をはさみました。その肩に手を掛けてアイが続けます。
「だから、あなたとこの子の会話もちゃんと聞こえてたってことよ」
「すごい!魔法みたい」
エリが手を合わせて驚きます。
「私ね、ずっとあなたのことを、私の夢のなかだけの女の子だと思ってたの。でもそうじゃなかった。あなたはこの世界で、まるで本当の人のように生きてるのね」
言いながらも混乱がとけないままのエリを、アイが愉快そうに笑いました。
「変なこと言うのね。私たちはね、エリ。あなたこそただの幻なんじゃないかって、疑い始めてたのよ」
意外そうに目を丸くした後、エリは笑いました。
向かい合って笑い合う二人の姿は、まるで昔からの友達そのものでした。
ひとしきり笑った後、エリは改めて部屋の様子を確かめました。可愛い内装なのに全体的に薄暗いのが、かえって落ち着ける雰囲気を作っていました。
「ベッドに寝そべっても良い?」
「ええ、もちろん」
答えを聞くが早いか、エリは大の字にベッドに飛び込みました。続いて、アイも仰向けで飛び込んできました。顔を見合わせると、二人は口を閉じてくすくす笑いました。なにがどうおもしろいのかは、二人にもよく分かっていません。幸せが体の内側から二人をくすぐっていました。
ベッドのわきと壁の間には、小さな本棚が置かれていました。エリはその目立たないところにある本棚に気がつき、ベッドから半身を乗り出してなかを見ました。
どれもエリが気に入るようなおとぎ話の本でした。そしてそのなかには、エリが八回も読んだあの大好きな本も並んでいました。
「これ、私も持ってる。何回も読んでるわ」
にわかに興奮しながらエリが言いました。
「本当?私もそれが、その棚のなかでも一番に気に入ってるの」
いちばん、を強調してアイが応えます。エリは、自分の他にこの本を本当に好きな人に出会えたことと、その人が自分にとって特別な人であることの両方をとても嬉しく思いました。
「嬉しい」
エリがそのまま口に出しました。
「今まで誰も、本の話なんて興味を持ってくれる子はいなかったわ。あなたが初めてよ、アイ」
「へえ」
アイは意外そうな声を上げました。
「でも、本が好きな子なんて、他にもたくさんいるんじゃない?」
言われて、エリは首を横に振りながら、ううん、と声を出して否定しました。
「本当にいないのよ。少なくとも、私の周りには一人もいないってこと。皆は皆で、それぞれ好きなことがあるの。それで大抵、三人とか四人とかは、同じ趣味の仲間がいるものなの」
そこまで言って、エリの瞳に再び、以前までの暗さが帯び始めました。本の表紙に目を落としたまま、エリは続けました。
「だけど、今どき本なんかに興味がある子は案外いないのよ。私だけなの。誰とも気は合わなくて、だからもうずっとひとり。……無理に合わせる気もないわ。私は一生かけても、あの子たちの好きなものを、同じように好きにはなれないから」
こうなってしまうと、エリの心は一転して、真っ暗な階段を降りるようにどこまでも沈んでいきます。
「ごめんなさい。どうでもいいことを。私を可哀想だなんて思わないでね。アイ」
エリは無理に笑おうとしましたが、さっきのようにはいかず、小さくため息をつきました。
アイは戸惑いました。こんなとき、下手な助言や励ましをしてはいけないことは、アイ自身がよく分かっていました。言葉による励ましはとても微力で儚いものなのです。今まででアイが本当に絶望しているとき、声を掛けてくれた人々に対してアイは顔も上げないできました。人々の多くは、哀れな少女を心配するという義務を果たそうとしたに過ぎないのです。なかには、本当にアイの苦痛を理解するつもりの人もいたかも知れないけど、いったいどこまで真剣に胸を痛めることが出来たのでしょうか。一週間、早くて五日もすれば、あとは誰も彼も自分のことで精一杯なのです。
もちろんそれは悪いことではありません。だけどアイは、目の前にいる友達を、ただの義務で心配したくはありませんでした。迷った末、アイは自分の身の上を少しだけ打ち明けることに決めたのです。つまらない励ましを送るより、それで痛みを分つことが出来るという思いでした。
「ああ、ねえ、エリ」
アイはたどたどしく口を開きました。
「ここに戻ってくる途中に、顔の無いお化けに会ったでしょ?私、思い出したのよ。あれが誰なのか」
「誰なの?」
エリがうつむくアイの顔をのぞき込みました。アイは自分の両ひざを見つめていました。
「あれはね、クラスメイトの女の子。でもひどい子でね、私をさんざんひどい目に遭わせて楽しむのよ。最初は一人だったのが、だんだん増えてきてね。それがすごく嫌だったの。きっと一生忘れないわ。忘れようとしても、しばらくすればまた思い出すの」
吐き出すように言って、アイは再びベッドに仰向けに寝転がりました。エリは黙ったまま腰掛けていました。
「でもあなたはこれからよ。これから、私なんかよりもっと素敵な友達に出会えるわ。そのつもりで生きていればきっとね」
その言い方はまるで、自分の得られなかった幸せをエリに託しているようでした。アイは少しずつ自分の闇にひたり始めていました。
「アイもそうでしょ?」
ベッドのふちに座ったエリが、身体ごと振り返って言いました。
「私はもうだめ。なにもかも手遅れだから」
わずかな笑いを交えて、投げやりな答えが返りました。
「私は愚か者なのよ、エリ」
「愚か者?」
いきなり発せられた言葉に思わず聞き返すエリでしたが、結局その意味するところは分かりませんでした。
「そう。愚か者」
アイはただ、繰り返しそうつぶやきました。私は愚か者……それに従って、部屋の暗さが増していきました。暗闇のなかのような歪んだ渦が出てきて、部屋中を飲み込んでいきます。アイがとぼとぼとベッドから降りてクマを腕に抱きました。クマにはさっきのような生気が感じられず、手足は力無く垂れ下がっています。他の人形達も同様に、電池が切れたように床に倒れていました。虫のうごめくような闇が部屋を包んでいきます。
「会えて良かった。エリ」
その笑顔を最後に、アイの姿を捉えることが出来なくなりました。激しく渦巻きせめぎあう闇に今度こそめまいを起こしたエリは、数歩進んで気を失いました。
倒れた体は闇の上に伏せた後、そこから消えてなくなりました。
無力な魔法
エリは揺さぶられながら目を開きました。
「ああ。やっと目を覚ました。あんなにうなされちゃって」
それが誰の声なのか、どこから聞こえるのか、何を言っているのか、全てはっきり分かるまで時間がかかりました。エリはその声に応えることも忘れて、世界が終わるのを見たような顔つきで白い天井を見つめていました。
「……お母さん」
瞳孔が閉じないまま右を向くと、温厚さと活発さを秘めたいつもの顔が微笑んでいました。エリが本当に気がついたことを確かめると、お母さんは改めて「おはよう」と言いました。
「と言っても、もうお昼なんだけどね。私が来てもずっと起きなくて、終いにはうなりだしちゃって」
お母さんは早口なので、寝起きのエリには何を言っているのか理解が追いつきませんでした。それに今は、他のいろいろなことで頭がいっぱいになっています。
「……夢を、見てたの」
お母さんの顔よりも少し下に目を向けながら、エリが口を開きました。
「やっぱり。怖い夢なら早く忘れちゃいなさい」
「ううん。怖いばかりじゃないの」
お母さんの物言いはしゃきしゃきしています。エリは頭をめぐる光景を一つ一つ整理しながら話しました。
気がついたら知らない部屋にいたこと、そこには生きた人形たちがいて怖かったけど、慣れたら怖くなかったこと。そして新しい友達。一緒に恐ろしい暗闇から帰ったことに、同じ本を好きだったことに、二人で打ち明けた自分達の悩み。
そのどれもがついさっきまでの出来事なのに、こうして話していると、もう何年も前のことのように感じます。お母さんは真剣に相づちを打って聞き入ってくれました。
「すてきな夢じゃないの」
思っていたより何倍も前向きな言葉が返ってきました。エリは真っすぐ目を見つめ返しました。
「あなたは本当の友達を見つけたのよ、エリ」
「本当の友達?」
エリが首をかしげて聞き返します。お母さんは裏返しの寄せ書きにちらと目を配りました。
「そう。あなたがあまり皆に馴染める性格じゃないのはよく知っているわ。皆にはあなたよりもずっと多くの友達がいて、いつも楽しそうにしていることも」
だけどね……と言いながら、エリの髪をそっとなで下ろします。
「本当の友達に出会える子はほとんどいないのよ。あなたが夢のなかで二度もその子に会えたのなら、それはお互いを必要としてる証拠じゃないの。きっとどこかで、同じようにあなたのことを思っているわ」
大切なことを言うときは、いつもとまるで違ってゆっくりとしたやわらかい言い方です。エリは聞きながら、アイの存在が自分のなかで大きくなっていくのを感じていました。
「アイは、大丈夫かな」
「それはあなた次第よ。エリ……」
そこで言葉を止め、お母さんはまた寄せ書きに目を配りました。
「勝手な引っ越しであなたにつまらない思いをさせて、本当にすまないわ。ごめんなさい。……だけどね、あなたは他の子よりも、人の悲しみを分かってあげられる子よ」
「でも、私にはもうどうしようも出来ないわ」
エリはすっかり希望を失った様子でつぶやきました。お母さんは窓の外を見ながら少し考えた後、聞きました。
「あなた、夢のなかでも夢だって分かってたの?」
エリは質問の意味を汲み取るのに少し間を置いた後、答えました。
「うん。すぐにわかったわ」
「そう。それなら運がいいわね」
なぜ良いの?とは聞かず、エリはお母さんを見つめました。お母さんは自信たっぷりという風に語りだします。
「夢のなかで、自分が夢を見ているのがわかるとね、どんなことでも思い通りに出来るのよ」
「本当?」
信じられないと言う声でエリが聞きます。
「本当よ。私があなたに嘘をついたことがあったかしら?」
「いいえ」
慌ててエリは首を横に振ります。
「私もね、三回だけ、そういうことがあったの。魔法が使えるみたいでとても楽しかったわ」
へえ……と声を漏らしつつ話に聞き入るエリに向かって、お母さんが少し語気を強めて続けました。
「だけどこれは簡単じゃないわよ。集中して想像しないと上手くいかないの。誰でも出来るとは限らないの」
言われながらもエリには、それが出来る自信がありました。それに近いことをやってのけた節が思い当たったのです。
「私やってみるわ」
その前向きな言葉を聞くなり、お母さんはとても満足そうにうなずきました。
「ええ。それじゃあ私は仕事に行くからね。体に気をつけて」
そう言うと、優しくエリの肩を叩いて立ち上がりました。
お母さんがどれだけエリの話を本気にしていたかは分かりません。それでもエリは、自分にとって大事な人が出来たことを確かに感じることが出来たし、わずかな希望を授かることも出来ました。
小さく手を振りながら見送っていると、お母さんはいきなり思い出したようにエリに向き直り、いつも通りのしゃきしゃきした口調で言いました。
「アイちゃんによろしくね。エリ」
エリは返事をする代わりに、もっと元気に手を振ってお母さんとお別れしました。
*
それは荒れ狂う海の中にいるような状態でした。押し寄せる黒の塊はあきらかに実体の感触を伴って、身体中を揉み潰そうとするように迫り続けます。
呼吸をする度に、まるでつららが突き刺さったかのように胸が痛み、鼻の奥がつんとします。
エリは必死で耐えながらイメージを作りました。目を閉じて、早くなっていく息を落ち着かせるのも忘れて、闇の晴れる様を思い描きました。
再び目を開けると、依然としてそこには暗い世界が広がっていました。だけどそれはいくらか落ち着いていて、前に来たときとほとんど変わらない状態になっていました。
足を踏み出すと、地面からしゃくっと音が聞こえました。気がつくと、辺り一面に枯れ葉が散らばっています。いくつかの人形が枯れ葉と一緒に横たわっているのも目に入りました。皆、生気を失くしていました。
横たわった人形を一つ一つ拾い集めている女の子の姿が見えます。長い髪に隠されその表情は分かりません。かろうじて覗く口元は、固く引き締められていました。
エリは足下の人形を拾いながらアイに歩み寄っていきます。すぐそばまで来て、アイがやっと気がつきました。
「また来てくれたの……」
顔を上げたアイの目は赤く、まぶたが少し腫れていました。
「もちろん。放っておくはずないでしょ」
精一杯の明るい声音で応えるも、それがアイにまでうつることはありませんでした。口だけ微笑んだ後、再びアイは人形を集め始めました。エリは取り残されたように立ち尽くしていました。
「……もう動かないの」
沈黙をやぶってエリが言いました。そうよ、人形だもの、とアイが答えました。寂しそうな声でした。
エリはそっと目を閉じました。
「見てて、アイ……」
アイが呆然とエリの様子を見ていると、腕に抱いた人形が顔を起こしました。まわりに倒れたものも少しずつ立ち上がって、アイのもとへ歩きだします。やがて、すべての人形に囲まれたアイが驚いて言いました。
「あなたがやったの?」
「そう」
しばらく、アイは人形達と目を合わせたまま、何か話すような仕草をしました。その顔が時折楽しそうに笑う様子を、エリは見逃しませんでした。
「ありがとう。本当はね、とても寂しかったんだ。あなたは素敵な魔法が使えるのね」
「大したことじゃないわ。だけどこれで、あなたをこの暗い闇から救い出せるかもしれない」
「それは……ありがとう。でも、もう大丈夫。大丈夫だから、心配しないで。エリ、前に言ったでしょ?私をかわいそうだなんて思わないでねって」
「ええ。言ったわ。でも放っておいたら、私たちがいつまでも会えるとは限らないでしょ?あなたはきっと、もっと元気な子でいられる。だから助けたい」
「そう……。じゃあやってみて。私たちはここでじっとしてるから」
アイの優しい微笑みからは、今から始めることになにも期待していない様子が伝わりました。エリは少しだけむきになって、目をつむりました。
次に目を開けるときには、二人はまたあの小さなお部屋の中にいて、ベッドで手を繋ぎながら仰向けに寝ている。窓からは明るい日差しが射し込んで、部屋の隅々まできれいに色づいている。人形たちはみんな歓声を上げて二人を見送る。引き戸を開けると、そこには悲しい暗闇なんて面影すら残っていない。見渡す限りの緑の丘に白いマーガレットの花がたくさん咲き、絵の具で描いたような雲がきれいな青空のなかに浮かんでいる。二人は弾けるように笑いながら、丘をずっとずっと遠くまで走っていく。
そして二人は、丘のふもとに怪しい森があるのを見つける。森は暗くて、近づくにつれて青空も色が変わってしまう。マーガレットの花は枯れて、踏むたびにバリバリと乾いた音を立てる。後ろを見れば緑の丘はどこかに消えて、暗闇だけが広がっている。あとに引き返せなくなった二人。
暗い森の暗い細道を進む途中、エリは後ろを歩いていたはずのアイの姿を見失ってしまう。周りは何か危険なものの気配に満ち始める。エリは不安に怯えながらも懸命に声を振り絞ってアイの名前を呼ぶ。
アイ!どこへ行ったの!アイ!
「アイ!」
その声が、自分のイメージの中だけに響いたものではないことにエリが気がついたのは、数秒間の後でした。周りはイメージそのままの不気味に曲がりくねった木々が立つ森で、そばにいたはずのアイの姿もどこかへ消えていました。
「アイ!ごめんなさい!」
がむしゃらに走り回っていると、夜の電灯に照らされるように少女がうずくまっているのを見つけました。すすり泣くような声もかすかに耳に届いてきました。
「ああ、アイ!待ってて、今すぐ元通りに……」
駆け寄った光は次第に弱くなっていき、代わりにくっきり姿を現したのは、不思議に微笑む人間の抜け殻でした。エリは驚いて逃げそうになりましたが、うずくまるアイの肩になんとか手を掛けました。その途端、木に吊るされた身体は足の先から枯れ葉に変わり、ばらばら落ちて地面につもりました。
「アイ、あれはあなたの……」
「お母さん」
言葉を繋いだのか、ただ独りつぶやいたのか分からないけれど、アイはそう言いました。エリはしばらく何も言えずに肩に顔を寄せ続けていました。
「エリ、本当にありがとう。あなたは特別な友達よ。だって、あなたは人間の女の子だから。まだ一緒にいたかった」
「一緒にいるわ。言われなくても、ずっとこの先も」
エリが涙で顔をぐずぐずにしたまま、まるでわがままな子どものように強く返しました。それでもアイの瞳の深い空洞は、その暗さを増していく一方です。アイは静かに立ち上がって、木々の間を抜けていきます。
「待って」
エリが走りだしたときには、アイはもう最後の木の間をくぐっていました。森のすぐ外は崖になっていて、渓谷はすぐそこまで闇に満ちています。永遠にたどり着くことのない奈落。その深い穴に向けて、アイは左足を一歩踏み出します。
「やめて!」
エリの叫びが虚しく闇に響きました。体の半分以上の重さが空中に投げ出されてしまった状態で、アイはちらりとエリの方を振り返りました。
その顔は笑っていました。だけど大粒の涙がアイの目や頬から弾け飛び、一足先に闇の中へと消えていきました。
Beside ~終~
暗転、そして静寂。叫び声。きんきんと入り交じるその声はくぐもって、その言葉を正確に聞き取ることは難しく、代わりに眩しい人工の明かりがエリの閉ざされた視界を無理やり切り開いて……。
見えたのは看護婦さんの心配そうな表情と、その隣でやはり気がかりそうに顔を歪める先生の姿。それはすぐに安堵の顔に変わり、まっすぐに立ち直して何かをつぶやき始めます。……親御さん……恐らく……連絡は…………。
自分の荒い息の音だけがいやに大きく聞こえ、周りの音はほとんど耳に入りません。先生が女の人みたいに自分のひざに両手を当てながら何か話し掛けてきましたが、まともに聞き取る余裕もなくただこくこくとうなずくと、看護婦さんを残して早足で病室を出て行きました。
「今、お水を取りに行ってるからね」
ようやくはっきりと言葉を聞き取るときには、エリの頭は全てのことを思い返していました。驚いたような表情を一度看護婦さんのほうに向けると、再び乱れ始める呼吸を必死に抑えながら窓の向きに横たわります。
外はひどい雨でした。窓にも線を描きながら雫が垂れ、遠くのほうでは雷雲が地響きのような音を鳴らしています。向かいのアパートはいつもと違って、どこか寂しそうに雨のなかに佇んでいました。窓柵の鉢植えからは枯れた花すらなくなり、それはそれでなんだか心細く見えました。
「エリちゃん、水……」
先生の言葉をさえぎって、ピシャアと大きな雷鳴が眩しい光とともに訪れました。そのとき、アパートの屋上に、雨雲を背中にして暗い人影が浮かび上がりました。人影はじっとそこに立ったまま少しも動こうとしません。エリが起き上がって目を凝らしてみても、やはりそこには人が立ち尽くしていました。
「ありゃあ……人か」
先生のつぶやきからしばらくもしないうちに、エリはベッドから飛び降り、ひとり病室を駆け出していました。呼び止める声はもはや耳に届きません。強烈な確信だけがエリを突き動かしていました。三階の廊下を抜け、階段を駆け下り、病院のロビーまで来たころには、胸が締まるように痛み始めました。重いガラス扉を押し開けると、限界の早さで道路を渡り切り、薄暗いアパートの階段を倒れそうになりながら登って行きます。息も絶え絶えになり、いつもなら発作が起きて当然の状態です。それでもエリは屋上を目指しました。今までとっくに知っていたような、知らなかったような答えを確かめるため、今度こそ助けの手を差し伸べるために、まだ倒れ込むわけにはいきません。
淡い光が階段の上のほうに降りています。錆びついたパイプやコンクリートから雫がこぼれて肌を濡らしました。冷たい雨にさらされながら屋上にたどり着くと、雨脚はいっそう酷くなっていました。
「アイ」
まともに声が出せているのか、自分でも分かりません。ひたすらにのどを絞って辺りを見回すと、それは依然として病院と向かいになって柵に手を置き、その場に立ち続けていました。
しかし、エリの声に気づいて振り返ったそれは、あの愛しい友達ではなく、ほおをこけさせた大人の男でした。それは確かに見覚えのある、やつれた様子の男です。エリはすっかり落胆、消沈すると同時に、今まで抑えてきた激しい咳と胸の痛みに襲われ、力なくその場に崩れ落ちました。
*
再び目を覚ましたのはいつもの白いベッド。白い天井。白い壁。ただひとつ明らかな違いは、先生のとなりでエリを深い心配の眼差しで見つめる男の存在です。
「先生!目を覚ましました」
「おお。まったくびっくりしたよ。追いかけたけど見失っちゃって」
エリのまぶたは半開きのまま、その視線はいまだにあのアパートの部屋という部屋を追い続けていました。思わず右手が伸び、雨に濡れる窓の、その向こうの景色を撫で始めます。
「大丈夫かい」
男の人がかがみ込んで声をかけます。
「うん……」
心ここにあらずといった調子でエリは返事をしました。
「エリちゃんは、アイのお友達かい」
「え?」
男の人が消え入りそうな低い声で言った言葉に、エリが驚いて向き返りました。男の人は長いまつげを伏して少し微笑んでいます。
「さっき名前を呼んでいたから、そうじゃないかなと」
「ええ、でも……」
上手く説明出来ず、エリはそこで言葉を切らしてしまいました。男の人は感慨深げな表情を壁のほうに向けてつぶやきました。
「そうか、そうか。あの子にもこんな友達がいたなんてなあ……」
「あの」
そう口を開いてからしばらく、静かな間がありました。何からどう聞くべきか、エリは慎重に考えてから質問を口にしました。
「アイを知っているんですか」
男の人はさっきよりもいくらか嬉しそうな声音で答えました。
「ああ。僕は、あの子の父親だよ」
何となく予想していたその返事を、エリはゆっくりと飲み込んで続けます。
「アイは、あのアパートに住んでいるんですか」
「ああ。いや……」
男の人は再び長いまつげを伏し、物憂げな表情を作りました。それはまるで絵画に描かれているかのようにエリの目には映りました。
「君はきっと、あの子が小学生の頃に、学校で一緒に遊んでくれていた友達だね。そうだろう」
焦りながらエリはうなずきました。
「やっぱり、そうか。実はね、その後僕らは引っ越しをしたんだ。君もその話は聞いていたかもしれない。あのアパートに住んで、君たちとはひとつとなりの中学校に入ったんだよ」
「やっぱり……」
「でも、そこからは良くないことばかりだった。妻は……お母さんは、外国の生まれでね。ずっと北のほうにある国の田舎の村だよ。だから、見た目が僕たちとは少し違っている。アイもそれを受け継いでいるから、学校ではいつも目立ってたんだ。君たちといた頃はまだ小さかったから、それを気にする子はあまりいなかったけどね」
「それで、なにか嫌なことがあったんですか」
「うん……そうだな。始めは、見た目の違いで変な噂をされたくらいだった。それがだんだん酷くなって、暴力も混ざるようになったらしい。制服を泥で汚して帰ってきた日もあった」
「らしいって……」
アイのお父さんは少し目をそらして、言い辛そうにしました。
「……ああ。僕はほとんど、いや。何もそのことについて知らなかった。当時は仕事が忙しくて、家に帰った頃にはアイも妻も眠っていたんだ。ただ、安心して、仕事に行ってほしいとだけ聞かされていて、僕はなにもそれを疑わずに過ごしていた。そんな風に毎日が過ぎていって、アイの入学から半年が経ったくらいのとき……お母さんが、あの公園の木で、自分から命を絶ってしまった。そのとき遺書を読んで初めて二人の苦しみを知った」
にわかに声が震え出していました。エリはアイのお父さんを責める気も起こさず、その悲しい物語に耳を傾けていました。
「お母さんはひどく心を弱らせていた。何度も学校に掛け合ったけど、子どものすることだからとまともに聞いてくれなかったらしい。目立った暴力を止めてもらうので精一杯だったと。彼女のやつれた頬も、目の隈も、僕は見逃し続けていた。気がつかないようにと、自分で自分を騙してたのかもしれない。とにかく僕は、情けなくて仕方が無くなった。なんとかしてアイだけは救おうと、学校に行くのをやめさせたんだ。それから、あの子は家にこもりきりになった」
エリは聞きながら、あの桃色の部屋で人形たちとたわむれているアイの姿を思い浮べました。
「アイはいつも、お母さんのことを口にしていた。私のせいだとか、僕が違うと言ってもほとんど耳を貸さなかった。だけど、僕は安心していたんだ。家にいさせれば、ひとまずあの子が傷つけられるようなことはないって。だけどそんなことはなかった。あの子は、自分自身を常に責め続けていた。そうやって罪の意識を抱え込んで、心をボロボロにして、ついにはアイまでも、お母さんと同じことをしてしまった。結局僕は何もしてあげられなかった」
「そんな……」
絶望感でエリの胸が一杯になりました。溜まった涙に目を赤くしながら、それでも未だに解けない疑問を聞こうとしました。だけどそれは、到底まともな言葉では説明できない疑問でした。
「じゃあ……なんで……」
男の人は、ほとんど独り言のように窓の外を見つめながら話していました。外の雨は上がり、うつろな顔は太陽の光を避けることもなく真っすぐと据えられていました。
「あの子は、暗い曇りの朝早くに、クマのぬいぐるみを抱え込んでアパートの屋上から飛び降りた。だけど……それでお母さんのところへ行ったわけじゃない。不幸中の幸いっていうのか、下に積まれていたゴミ袋がクッションになって、一命は取り留めたんだ。だけどそれから三ヶ月ほど、寝たきりの状態が続いてる。再び目を覚ますかどうかはわからない。……はっきり言って、確率は低い。でも信じてあげるしかできないんだ。……君にも申し訳ない」
言葉を失うエリに、となりで二人の様子を見守っていた先生が口を開きました。
「エリちゃん。できれば、そばでアイちゃんを見守ってやってくれないか。病院で手配して、ベッドをとなり合わせにすることもできる。どうかな」
その言葉に、エリの顔が少し柔らかくなりました。
「お願いします」
*
案内された小さめの病室は、雨上がりの空からあたたかな日の光が射し込んで、日だまりになっていました。そこには二つのベッドが並んで置かれていて、まるで幼い姉妹の部屋のようにも見えます。
左側のベッドの掛け布団がふくらんでいます。枕元には、見慣れたクマのぬいぐるみがちょこんと置かれていました。傍らの機械が、ピ……ピ……と規則正しい心臓の動きを伝えています。
その優しい様子に、緊張や、恐れの気持ちはすっかり消されて、いつにない穏やかさに包まれながらエリはそのベッドへとゆっくり歩み寄っていきます。
布団を少しめくると、驚くほどにきれいな、かわいらしい寝顔がそこにはありました。明るい色の髪を軽く撫でて、エリは顔をほころばせました。
「よろしくね」
心なしか、機械の音が落ち着いたような気がしました。
エリはとなりのベッドに入って静かに目を閉じると、心地良いまどろみのなかに溶けていきました。
Beside