愛は分けても減らないよ Love is, If shared, not lessened
1
一枚の絵の中に窓がある。その窓は開放的な白い部屋の室内扉を開けた向こう側にみえる隣の部屋の窓であり、外から木漏れ日が射しているきらめきが光の模様となってみえる。絵の手前側の室内扉をあけた白い部屋には、向こう側の部屋から爽やかな風が吹き抜けてきたかのように、みるものが瞬間を感じる勢いがある。それはまるで、額の中にひとつの空間があり、絵をみたものはその空間内にいるかのような錯覚を憶えてしまうほどの完璧な瞬間が描かれた絵画作品であった。
「われわれの遺産は遺言一つなく残された"Notre héritage n'est précédé d'aucun testament," ルネ・シャール」と小さく右下に書かれたその絵は、その年にデビューした新鋭画家が新人賞をとったものだった。
あのんは、アーモンド色の目を上目遣いにして、少し長めの前髪を邪魔そうにしながら、その前髪の間から覗き込むようにして、マシューの顔をじっとみた。そして、髪を乱暴に右手でぐしゃぐしゃとかきながら、大きく伸びをして椅子に寄りかかった。
いつもふたりが行く図書館のそばにある小さなカフェで、マシューはあのんのために持ってきた雑誌の記事を、声を出して読んだ。その記事に書かれている新鋭画家とはあのんの友人、ともこのことだった。あのんは嬉しそうにカフェオレを一口飲んだ。
あのんは、とりわけ美人と言うほどではない。身長は160センチあるかないか、痩せていて胸も小さい。くせのある柔らかい髪をいつも伸ばすのが面倒くさいという理由でボブカットにしている。これよりも短いと癖が出るし、長いと邪魔なのよ、という。着ている服も、地味な色のパンツ姿が多くて、子供の頃は、男の子と間違えられることもあったらしい。
あのんは生まれつき声のでない障がいを持っていた。耳は聴こえている。あのんは手話や筆談で話しをする。マシューはあのんに話しかけ、あのんは手話や筆談でマシューに話しかけていた。
あのんの友人のともこは、子供の頃から絵を描くのが好きで、画家である叔父から油画を学んでいたこともあった。大学に入る前に写実絵画の新人賞に軽い気持ちで応募したところ、その絵は、その年の新人賞をとった。しかし翌年にともこは、憧れだった小学校で学級担任を受け持つことになり、絵を描くことをやめてしまった。
(賞をもらったのに、もう絵をかかないなんてもったいないと思わない?)
と、あのんが聞くと、
マシューは、
「でも、彼女は憧れの職業に就けたんだからよかったんじゃないかな?きっと仕事がまた落ち着いたら絵をかくだろうよ。」と、言ってエスプレッソをすすった。
あのんは、小学2年生の時に担任の先生が学期の途中で突然辞職したことを思い出していた。あのんは担任の先生が変わるのは学年が変わる時だけだと思っていたので、少なからずショックを受けた。
先生は新人で、線の細い女性だった。髪を肩まで伸ばして、前髪と裾の部分をいつも少し内巻きにカールさせていた。たいていいつも着ているものは似たような清楚な感じの服装で、優しい色味のカーディガンに膝丈程度のタイトスカートをはいていた。生徒指導に悩んでいたのか何に悩んでいたいたのかわからなかったが、放課後になると教室で時々泣いていた。
学校を去る日に、先生はあのん(生徒)たちにこんな話をした。
「あなたがたは、水をたくさん含んだスポンジです。わたしがたくさんあなたがたのスポンジに水を流しても、水は流れていくだけです。わたしにできることは何もありません。」
この話は子どもたちの間でしばらく話題になった。
あれはなんだったのかと大半の子どもたちは頭を悩ませた。
先生は、子どもにスポンジの比喩の話が伝わると思ったのだろうか。たくさんの愛をこれ以上かけることができないというつもりだったのか、自分の腑甲斐なさについて、先生なりに伝えようとしていたのか。
あのんはその時、啞然と先生が教室を去っていくのをみていたが、クラスの男子たちは先生の話をわかんねーといって笑ったりしていた。
あのんは背中に大笑いしているクラスの男子の声を感じながら、少しその男子に怒りすらもおぼえた。しかし、先生を追いかけることもできないまま、追いかけたとしても声をかけることもできないと思いながら、あのんはただ席に座っていた。
そんなことをあのんは白昼夢でもみるように鮮明に思い出していた。
きっと、ともこの線の細さと、先生の線の細さがとてもよく似ていたからだ。
あのんがマシューと知り合ったのは、3年前の冬のことだった。
あのんはマシューにはじめて会った時から、あったことのあるような懐かしさを感じていた。いつも明るく元気な人、少し照れた時にみせる笑顔に少なからず好感を持っていた。マシューは、音楽会社で古楽、チェンバロのレッスンをしながら、作曲活動をしていた。フランス人と日本人のハーフで色白、中肉中背で柔らかい明るい色のシャツをよく着ていた。
あのんがマシューの働いている音楽会社でバロックフルートのフラウト・トラヴェルソのレッスンを受けだした2年目くらいの年に、あのんはマシューの様子がそれまでと違うことに気付いた。マシューの仕事の先輩が亡くなったのだ。マシューはそれでひどく落ち込んでいた。いつも明るいマシューの顔が曇り、マシューのチェンバロをひく手が震えているのをみて時から、あのんはマシューのことを考えるようになった。
その年の冬が終わろうとしていたころ、マシューがチェンバロのレッスンをしている会場が移転することになり、しばらくこられなくなるという話をきいて、あのんはマシューの最後のチェンバロレッスンの見学に行った。
自己紹介らしいこともしなかったが、二人は別れの握手をした。
(また、どこかで会いましょう。)
あのんはこの時に、マシューの手から電流をうけとったかのように感じ、マシューに恋をした。
恋とは一方的な主観的価値観である。もし二人同時に恋に落ちる瞬間があるとすれば、それは奇跡的瞬間とよぶにふさわしいと思う。
「大事なことは全て楽譜に書かれている。ぼくらはただただ読んで、みて、きく。それだけだ。」
あのんにトラヴェルソの指導をしているUMEMOTOは、映画と料理の話題が大好きで、レッスン中も、なにかといえば、映画と料理の話題になる。そして、「人生はつねにレッスンだ。」という。
あのんは、図書館で働いていた。蔵書の点検や装備、返却作業や、システム管理、点字資料を作ったり、視聴覚資料の確認、保存をしたり、その作業は、ひっそりと砂漠の中に大きな本の山があり、一冊ずつ格闘しなければいけないほど困難な時もあったが、あのんは図書館にいると本が寝息をたてているような幸せな時も感じられたし、開館とともにやってくる利用者とも慣れて、いつも挨拶を交わしていたから、楽しく働いていた。
それにマシューのことを考えると、いつもの単純な作業でさえ、あっという間に片付けることができた。
あのんは、ある朝にこんな夢日記を書いていた。
『夢のなかでわたしは、空虚な暗やみに包まれ彷徨っていた。
手探りで彷徨っていても、いつかきっと何処かにはたどり着けるだろうと思いながらも、じつはおなじところを何度もぐるぐるとまわっていたかもしれない。気力もなく、どこか荒涼とした砂漠のようなところを歩いていた。歩きにくい砂地に足をとられながら、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。砂を踏む足は疲れきっていて、足の裏はじんわりとした痛みを伴っていた。
いまここ、この荒涼とした砂漠に倒れてしまえば、誰も助けにきてはくれないだろう、誰も気づかずに、途中で倒れてしまえば、それでもいい。いっそ、死んだ方が楽なのかもしれない、と、さえ思った。強い風がふきつけて、前を向いて歩くことすら難しくなってきた。息苦しくて、うまく目を開けてもいられない。でも、立ち止まれない、進むことでしか、生きていくすべはないのだ。
暗闇の中で恐怖に耐え続けていられるほど、強くはない。だから、進むしかないのだ。
それでも、少しずつ進んで行くうちに、たよりなげな一筋の光が見えてきたような気がした。気のせいかもしれないけど、その光が見えてきた方に進んでみよう、何かのとっかかりになればいい、と、そのたよりなげな光のあとを、藁をも掴む気持ちで目指した。
目指す方向がある、それだけで心強かった。
たぶん、そうだ。この光だ…!と、小さな期待を持っていた。どんな小さな期待でも、ないよりはまし、期待をなくして、もういちど闇の中にもどり、ふたたびあてどもなくすすむ程、怖いことはないだろう、と、思っていた。
ふと、深い闇の中にぼんやりとあかるい空間を見つけた。
そこで、彼に出会った。彼もまた、そこにたどり着くまでに幾度も彷徨っていたのかもしれず、その途中で、何かとてつもなく深い闇の淵、深淵を覗き込み、一度はそこに呑み込まれそうになったことがあったのかもしれないと思った。
「じつは、ここに立っているのは怖いです」と、彼は言い、時々、悲しい表情をした。それでも、と、彼は自らやさしい光を放ち、闇を照らしていた。そのぼんやりとあかるいやさしい光に包まれた空間に、わたしも入った。
彼は、わたしよりずっと旅慣れていて、それまでに訪れたいろいろな土地の話しをしてくれた。わたしはその話しをきき、いまこの空間を彼が照らしているのは、誰かから強いられているのではなく、彼自身の意思があってのことなのだと知った。
彼はとまどいながらも話を続けた。彼の声は低く優しくわたしの内部にひびいた。わたしは声を聴き続け、その間、そのひびきと共鳴するようにやわらかな空間を泳ぎ、つつまれた空間に漂う音の余韻に浸った。
彼の旅の話は、彼の軌跡でもあり、彼の人生の一部でもあり、そして、わたしにとって励ましの道となった。
やさしく寛容で深い意思を持つ人と忘れてはならない歴史の重み、どれも粒揃いの優美な輝きと暖かみがあり、彼がはなしをするたびに、わたしの心の闇をろうそくの暖かい光がひとつひとつ照らし温めてくれた。
(人は孤独のなかで、胸中にいつまでもろうそくの灯りをともし続け、暗闇を旅する時にいつも、そのひかりをともすことができるだろうか。孤独感に苛まれる凍りつくような夜の道を歩く時にも、同じような歩みを続けていけるだろうか。)
荒涼とした砂漠は数千のまたたく星に照らされたどこまでも続く白砂の浜辺へと姿を変え、目の前には青白い月が浮かんでいる明るい夜空と、いちめんのとてつもなく深い透明な海がみえた。月が海面にうつり、はかなげにゆらいでいる。
ここはひょっとすると、じつはこれまでにたどりつくはずだった道を何度も歩いていたのに、まったく景色が目に入らず、何も気づかないまま通り過ぎてきた道ではなかったのかと思った。すべては彼に出会うまでには、かなわないことになっていたのではないかとさえ、感じられた。
すると、信じられないくらい明るい月夜になり、彼とわたしの顔が姿が白い砂浜にくっきりと浮かび上がった。明るさに安心したわたしは、ざぶんという波の音がきこえると、彼にこんなことを聞いたらおかしいと思われるかもしれないと思うような質問をしてみたくなった。彼はそれを聴いて、少し困った顔をするんじゃないかしらと思ったのに、とても真摯にこたえてくれて、私はその姿を見て、これまでに出会ったことのないような人に出会ってしまったと思った。そして、恥ずかしがらずに彼に聞いてみてよかったと思った。
そのとき、風が、ふうわりと何かを包むようにゆらいだかと思うと、砂浜の白い砂が舞いはじめ、夜空の星も同じように舞いはじめた。ひとつぶひとつぶの砂と星が乱れ入り交じり、砂粒なのか星粒なのか見分けがつかなくなった。そのはかなげな乱舞の中に立ちながら、わたしは、今ぶつかりそうになった粒と粒がふたたび出会うことはあるのだろうかと、思った。
彼は、その砂と星の乱舞を見ると、月に手をかざして、まるで月がレコードであるかのように、そっと針を置くしぐさをして、曲をかけてくれた。その音楽は、静かに心に染み入る素敵な曲だった。
ピアニッシモの繊細な音がひとつ、ひとつ、丁寧に置かれていくとき、私の中でこれまで長い間たまっていた塵芥の類いが一挙に払いのけられて、何かが、はじめて生まれたような新鮮な感情が沸き起こった。
生命に満ちあふれた音楽の、音と音との余白に、涙が頬を伝った。
あたたかい涙が頬をつたい、頬に残る涙のあとが冷たくなった時にはじめて気づいた、頬を伝う感覚がそれだと意識に感じとられるまで、わたしは涙を流していることがあまりに自然で気づかないほどに、全身でその音楽に浸っていた。
(今も何度もその曲を聴くたびに、音に溺れないようにしようと、できる限り強く理性を保って、覚醒したままに冷静に聴こうとすればするほど、はじめてその 曲を聴いた時のような新鮮な気持ちとなり、夢の中のように深く音に酔いしれてしまう。ある時は必死にもがき音を追いかけ、またある時は強くその音を抱きし めようと。)
その音楽は余韻を残して終わった。
月あかりにぼんやりと照らされた彼の横顔が、とても素敵だと思った。その魅惑的な頬に、思わずキスしたくなり、目を閉じて、心の中でだけ、そっとキスをした。
別れの時間がきて、彼は「またこれから旅にでます」と言った。
わたしは彼がこれまで歩いた道のり、これからめざし、すすもうとしている道には、自分が求めている何かがあるのではないかという気持ちになり、離れがたかった。
彼の話から、彼の孤独を痛いほど感じとっていた。わたしから彼に何かしてあげられることはないだろうかと思っていた。と同時に、自分に足りないものばかりがみえてきて、ここまでやっとたどりついたこの道を、今また引き返し戻らなくてはと思う。美しい音楽の余韻からさめずにいるだけなのだと言い聞かせながら、彼の孤独を知っていたはずなのに、寄り添い、共に祈ることもせずに。その場を離れてしまったことを後悔し、もう二度と会えないのではという悲しみをのせて。
そして、わたしは夢から目ざめ、今も、この目ざめの記憶の余韻の中にいる。
あの音楽を聴くたびに、日常の中で薄れていきそうな感情が何度となく喚び覚まされ、情熱と渇望、共苦と罪悪感のないまぜになった気持ちと、なにかとりかえしのつかない落差の意識がわたしを狂わせる。』
あのんは、妹のすみれと神保町にあるcaféで待ち合わせをした。
店内では静かなピアノジャズが囁くようにかかっていた。すみれとあのんは5歳違いの姉妹で、高校を卒業するまでは、福島に住んでいたが、いまはふたりとも上京していてそれぞれ都内でひとりぐらしをしていた。すみれには、レモンスカッシュを飲みながら10歳年下の彼ができたのだと嬉しそうにあのんに恋の報告をした。りょうたっていうの、と、頬を赤くしていた。
あのんは夢の話も、マシューの話しもしなかった。
あのんとすみれは、caféを出て公園を散歩し、古い木造校舎のような小さな建物の傍にいた。そのあたりは大鋸屑のような匂いと焚火のような匂いが交じりあって漂っていた。
よく晴れていて、乾燥した風が時々ふたりをふきさらした。あのんは、喉がざらざらして渇いてきていた。皮膚も渇いていてきた。
すみれは太い黒髪を、太い黒いゴムでひとつに束ねて、鍔の大きな帽子をかぶっていた。若くて健康だ。日差しが眩しいようで、目を細めてあのんをみている。あのんの後ろにちょうど太陽が位置していて、あのんも自分のうなじに、じりつくような日差しを感じていた。ふたりは、「いいお天気になって、よかったね。」と、言った。
今日は公園内で何かのイベントがあるようで、遠くから賑やかな声と音楽が聞こえていた。あのんとすみれは、あとでイベントをのぞいてみようかと言って、校舎風の建物の中に入ってみることにした。中には何人か人がいて、何か片づけをしているようすだった。運動部の活動が終わった後のようで、汗を拭きながら、洗濯をしている女性が何人かみられた。
「今日は何のイベントをしているんですか?」と、すみれがきいてみると、女性のうちのひとりが、区民のミニ運動会ですよと教えてくれた。
あのんとすみれは、校舎を出てイベント会場に向かうことにした。
歩く足の裏には、落ち葉の柔らかい絨毯を歩いているような感触が伝わり気持ちがいい。土のクッションを受けながら、ふわふわした足取りで、あのんたちは歩いた。
公園の中には美しい川が流れ、きらきらと輝いていた。川は浅く、川底がよく見えるほどに、透き通っていて、大小の茶系の色彩をもつ石が、いくつも川底にあった。落ち葉も川底に落ちていて、透き通る水を通してみる川底はとても綺麗だった。
すみれは川にある大きな岩に腰かけて、裸足の足を川の水につけてみたいと言った。あのんは、ずっとのどが渇いていたので、何も考えず、その水をすくってぐっと飲んでみようかと思ったが、思いとどまった。冷たくて美味しい水が売っている自販機はないかしら、一気に私の喉を潤してくれる自販機は。
あのんは(喉が渇いちゃった)と言い、
すみれは「もう?」と言って笑った。
「じゃ、イベントをのぞいたら、ランチにしよ。」
あのんは、その数日後、マシューも参加する古楽の会に参加した。プロもアマも一緒になって自由演奏に参加できる古楽楽器愛好家たちが集まる会だった。あのんはそれまでそういった会には参加したことがなかったが、トラヴェルソのレッスンを受けているうちに少しずつ興味が沸いてきて、UMEMOTOのすすめもあり、はじめてその会に参加してみることにした。
古楽の会では、それぞれが好きな曲を好きなように演奏したり、自然に参加者がアンサンブルを組んでみたり、作曲したオリジナル曲を持ってきたものがその曲を披露したりした。
あのんは練習した曲でアンサンブルに入れる曲があったので、それに参加した。そのあとで、マシューが作曲した曲を披露したので、それを聴き、その曲に合わせて、思いついた旋律を吹いてみた。マシューは自分のあごを撫でるような仕草をしたあとで、あのんの吹いた旋律が気に入ったので、ふたりで曲をつくってみないか?と言って笑った。
ある日の古楽の会の後で、ふたりは公園を散歩しながら、お互いの話しをした。あのんは高校までは福島に住んでいて卒業後に大学に入るために上京し、ひとり暮らしをはじめて、大学を卒業したあとは、図書館で働きながら、趣味で楽器を吹きはじめた。5歳違いの妹がいて妹も上京していて、ふたりともそれぞれ都内でひとり暮らしをしていることも話した。マシューの父はフランス人でいまはフランスで音楽を教えていて、母は日本人で日本でマシューと一緒に住んでいて、自宅でチェンバロを教えていた。
マシューはあのんが福島に住んでいたと聞いて、東日本大震災のことを心配し、震災の後で福島の人たちのために都内で演奏会をしたという話しをした。
「ミラン・クンデラが何かの本でも言ってたけど、人間は支配者ではなく、いずれはこの管理に責任をとらなければならなくなる単なる惑星の管理人なんだよね。いま、福島のことを考えると本当にその通りだって思うよ。ぼくは音楽で世界を変えたい。音楽は人を幸せにするんだ。」
あのんは、マシューはとても正義感の強い人だと思い、その話しを聞きながら大きく頷いていた。そして、いつかこの人と一緒に福島に行きたいと願っていた。
マシューとあのんはその会で何度か会うようになり、会の後は、二人で食事をするようになった。
何度目かの古楽の会の後、ふたりは演奏会場から出て駅に入り、マシューはあのんと手を繋いで歩いた。
食事中にマシューはあのんに「とても惹かれている」と言い、お店から出るとたくさんキスをして「ぼくとつき合ってみますか?」と言った。あのんは照れながら頷いた。ふたりは店を出て駅まで歩いた。マシューは何度もあのんの腰に手を回して自分のそばに抱き寄せたり、ふたりは途中で立ち止まって何度もキスをした。
「あのんの手はあたたかいね。僕の手はいつも朝つめたいんだ。」とマシューは言い、あのんは(これからはわたしが手をあたためてあげますよ)とこたえると、マシューはあのんを抱き寄せて「ぼくがあのんをあたためたい」と言った。あのんは、(ありがとう。おやすみなさい。)と伝えるとマシューに手を振って改札に入った。マシューは、改札の外であのんに手を振って見送った。
あのんが家に着くとマシューからメールが着ていた。
「今日は(も)ありがとう。幸せな夕べでした。おやすみなさい。」
2
あのんは、お気に入りの小説が舞台化された芝居を観に行った後、マシューと待ち合わせ、ふたりで夜道を散歩した。1週間ぶりの再会がすごく嬉しかった。あのんとマシューは手を繋いで、公園のベンチに座り、ふたりのことを話し合った。マシューは、あのんにパートナーには色々な形があると思うし、よいパートナーになれたらいいと言った。
それから、ふたりは和食の店で食事をして、予約していたビジネスホテルに泊まった。
数日後、マシューとあのんは成田空港にいた。マシューはたくさんのお土産をスーツケースにつめて、年に数回、父の住むフランスに帰国していた。あのんは、フランスでマシューを待っている人たちを羨ましく思った。あのんの知らないマシューをたくさん知っている人たち。でも、その人たちに、複雑な気持ちを抱いても仕方がない。独り占めしたいけど、それはもったいないほどの素敵な人だから、と、あのんはすぐに軽い嫉妬心を打ち消した。そして、こんなに素敵な彼のそばにいられるなんて私はなんて幸せなのだろうと思った。
マシューの飛行機が出発するまでカフェで話しをしながらふたりは過ごした。飛行機に乗っていると風の音が気になるんだと、マシューは、音を消すヘッドホンを出してあのんの耳につけてみた。人の話し声以外の雑音が遠ざかる感覚が面白い、マシューは聴覚が私よりも敏感みたいだとあのんは思った。
マシューは、数日前のデートのことを嬉しそうに話し、あのんとの関係を喜んでいると言いながら、オレンジジュースを飲んだ。あのんは、幸せで胸がいっぱいになり、頷くのが精一杯だった。
あのんは、マシューの乗った飛行機が上空にみえなくなるまで見送った。
あのんはその翌日、モーリス・ピアラ監督の映画『ヴァン・ゴッホ』を観た。ゴッホは、他のものにはわからない価値観や、自分の描いた絵を理解してほしかっただけではない。絵は彼の世界そのものであり、彼自身であったのだと思った。彼は、全ての人に彼自身を否定され、誰にも理解されることのない孤独に陥り、亡くなっていったのだとあのんは思った。
映画の帰り道、あのんは中学の時の国語の先生に偶然カレー屋の前で会った。なぁんだ、偶然だねぇ!お昼をまだ食べてないなら一緒にどう?ここ、美味しいんだよ〜!と、大木は豪快に笑ってあのんを店に誘った。店内は、インド風な雑貨が幾つか置いてある、白壁の清潔な感じがする店だった。食欲をそそるようなカレーの匂いは店に入る前からしていた。
大木は、椅子に腰掛けると嬉しそうに元気だった?と、笑っていた。大木はふっくらと大福のような顔をしていて、笑うと恵比寿様によく似ている、と、あのんはずっと思っていた。
(先生もお変わりなくお元気そうで)と、あのんは笑った。
大木は数年前に出版社に転職をしたんだよといい、鞄の中から絵本を一冊だした。優しそうなタッチと色彩でねこのおやこが表紙に大きく描かれた絵本だ。大木がそれをテーブルの上に出すと、若いインド人のような男性の店員が両手いっぱいにカレーを運んできた。おっといけねえ、あとでね、と、首をすくめながら笑って大木はすぐに絵本を鞄の中にしまった。
あのんと大木はカレーを食べながら、近況を話し合った。大木はカレーを食べ終えると、いけねぇ、もう社にもどらなくちゃと言って、自分の名刺と、ねこのおやこが表紙に大きく描かれた絵本と二人分のカレー代をテーブルの上に置いていった。あのんは、御礼を言って大木が編集した第一冊目だという絵本を抱えて店を出た。
「先生が、手伝ってくれる人をさがしてるっていってるんだけど、会ってくれない?」あのんのところに妹、すみれからメールが入った。
あのんとすみれは、次の週にルノワールの芝大門店で会う約束をした。
すみれは、小さなクリニックでナースをしていた。そこに週一日インターンで入っている医師が、大学の研究室で手伝いをしてくれる人をさがしているというので、それをあのんにやってみないかというのだ。
数日後、あのんはスーツを着て、ルノワールですみれが医師を連れてくるのを待った。クリニックが終わる時間は過ぎていたが、すみれが残業になり待ち合わせの時間に遅れることは前もって聞いていたので、あのんは何も注文せずに、ただ水だけを飲みながら30分以上待っていた。
(医学用語も知らないのに、手伝いなんてできるのかな?)
あのんは、店員に何か注文しますかと尋ねられて、待ち合わせの人がきてからにしますと断って、水をおかわりした。
ルノワールの店内は、喫煙席と禁煙席が近いため、禁煙席に座っても煙草の匂いがした。あのんは煙草の匂いが嫌いではなかったが、先生は気にするだろうか?と、思った。
しばらくすると、すみれから仕事が終わったのでこれからむかうというメールが入った。
「じゃあ、来週の火曜から手伝いにきてくれるかな?」と平田は言った。
平田は不思議な男だった。
穏やかで、何か内に秘めたものがあるような男だった。
すみれはあのんに、平田先生は穏やかで優しいから、いじめないでね、と言って笑った。
平田はあのんに、当直当番のある夜に片付けたい仕事があるので、次の火曜日にきてくださいと言った。
火曜日の18時に、あのんは平田の研究室に向かった。最寄り駅から夕焼けの美しい銀杏並木通りを歩き、あのんは初めて通る道を歩きながら、待ち合わせに遅れはしないだろうかと足早になっていた。
平田の研究室がある建物内の古く広いエレベーターにのると、あのんは体内を逆流する管の内部に入りこんだ気分になった。すみれの頼みとはいえ、どうしてこんな場所にきてしまったのだろう、この仕事を引き受けてしまったのだろうと、少し心細くなり帰りたくなった。しかし、あのんをのせて、エレベーターは確実に平田の研究室のある最上階に辿り着いた。
外は暗くなり、院内に冷たい空気をはこんできていた。最上階の廊下を歩きながら、あのんは日が落ちたことがわかった。
エレベーターから降りて最上階の一番奥に平田の研究室があった。
ドアをノックすると、中から平田の「どうぞ」という声が聞こえた。
あのんはドアを開けながら、まるで診察を受けるおままごとみたいだなと思い、病気できたわけじゃないんだから、と自分に言い聞かせることで少し気が楽になっている自分に気付き、研究室内に入った。
研究室に入ると平田は、室内履きを脱いで靴下の中で足の指を動かしながら座っていた。簡単な挨拶をしたあとで、あのんは平田から研究室の資料と伝票の整理を頼まれた。
本なんていらないんだ、ほとんど捨ててしまっていい。
そこの本に書かれているようなことはたいていネットでみつかるから。と、平田は言った。
マシューが帰国して数日後、あのんは、マシューとマシューの母、レイ子と旅行をした。三人は田舎の温泉地に数日宿泊し、片道半日かかるようなハイキングコースとは言えないような険しいコースや、熊や鹿が出てきそうな大自然の中をよく歩いた。
あのんは緊張しながらも、レイ子と仲良くなれそうだと思った。ハイキングに疲れると、三人はカフェでそれぞれ注文したケーキをそれぞれスプーンでひとすくいして食べあいっこをして味見をしたり、温泉に入って足をよくマッサージしたり、夕食時には白ワインを飲んでお腹いっぱいになるまで食事をして、また温泉に入った。
あのんは、木漏れ日が緑の中に溶け込む景色の中で深呼吸するのが好きだった。マシューは作曲活動で煮詰まった頭の中を整理するのにちょうどいいからと言ってよく歩いた。レイ子は、チェンバロのレッスンで疲れた日々によい休暇だったと言った。
旅行から帰ると、あのんとマシューは、すみれと待ち合わせをして、乃木坂と六本木駅の間にあるGaston&Gasparに行った。天井の高い開放感あふれるデザイナーズイタリアンレストランだ。あのんがずっと好きな店だった。店内は居心地の赤を基調としたインテリアの明るさが自慢で、気軽に楽しめるコースがたくさんあるため、いつも賑わっている。
三人は、ソムリエにシャンパンをたっぷり注いでもらったグラスを合わせて乾杯をした。
あのんは、それから今まで住んでいたマンションを引き払い、マシューの住んでいるマンションのマシューの部屋のある上の階に引っ越しした。ふたりは、お互いの部屋を行き来しながらいろいろな音楽を聴いていた。ある時は、ウェルナー・ヒンクの伸びやかな音色を聴き、夏の部屋に入り込む爽やかな風を感じていた。
マシューの仕事が休みになると、あのんとマシューはよく二人で森の中を歩いた。ふたりは川のほとりで写真を撮ってお茶をのみ、ボートに乗って、川をみていた。あのんは川面の光の模様や光の動きの美しさをマシューと一緒にみれることに人生の輝きを感じていた。
マシューは、「福島で演奏会がしたいな。どう一緒に?」と嬉しそうに言ってた。
(そうね、友だちにきいてみるね。)
あのんも、それが実現したら素晴らしいことになるだろうと思っていた。
マシューはそれからあのんに、ぼくたちはそういえばよく川にくるよね、と、言った。あのんは、そういえばそうね、と、マシューに答えた。
あのんは、UMEMOTOのレッスンに月1、2回程度、通っていた。
UMEMOTOは、レッスン中に映画や映画評論家の話しをしたり、女優や俳優の話しをしたり、美味しいレストランの話しや、料理の話しをよくしてくれた。
あのんは、UMEMOTOの影響で、少しづつトラヴェルソも上達してきていたが、映画もよくみるようになったし、よく自炊をするようにもなった。
UMEMOTOは、レッスンが終わると、今日は妻とどこそこのレストランに行くとか、息子と映画をみてこんな話しをしたから、今日はこのあの料理をつくってあげるんだとかと言って、いつも嬉しそうに帰っていった。
あのんとマシューは、数ヶ月後、温泉旅行に向かう新幹線の中で、リヒャルト・シュトラウスが作曲した『アルプス交響曲』を聴いていた。
都会の喧噪を離れ、過疎化した山奥にある小さな秘湯で、ふたりは貸し切り温泉に浸かっていた。マシューは、あのんの裸をみる時に、自分のあごを撫でるような仕草をしていた。そういえば、古楽の会で私の作った旋律を褒めてくれたあの時も、あごを撫でるような仕草をしてくれたっけ、と、あのんはその時のことを思い出していた。
温泉旅行から帰ると、あのんには図書館での仕事の日々が待っていた。
ある日の昼休みに研修中の大島さんとあのんは一緒にお弁当を食べていた。あのんが大島さんの手首に傷があるのをみつけて、どうしたの?と、きくと、家で飼っている猫にひっかかれたのだという。
大島さんはあのんに、その猫を飼うことになった時の話しをした。
「これが、かわいくない猫なんですよ。
ある日、うちの母が、スーパーの前で段ボールに入った猫たちをみつけたんですね。数匹の子猫が段ボールに入ってて、そのなかのグレー色の子が気に入っちゃって、一度、家に帰ってから家族と相談して、もらおうかどうしようか決めようと思って、母は家に帰ってきて、父と相談して猫を飼うことにしたんですね。それで、飼うことになってスーパーに電話をして、グレーの子がいたら、うちで飼うから預かっていてってお願いしてたんです。それで、猫を迎えにいって、家に帰ってきたら、『これじゃなかった……』って……。可愛いグレーの子じゃなくて、ぶちの売れ残りみたいなのをスーパーの人がよこしたって言って嘆いてました。でも、飼うしかないからずっと飼ってるんですよ。ほんと、ぶさいくなんですよ、うちの猫!」と、大島さんは笑って「それで、うちの猫の名前、〝これじゃない〟を縮めて、〝こじゃ〟って言うんです」と、大笑いした。あのんは、少しその猫、かわいそうだなと、思いつつも、大島さんにつられて笑った。
昼休みが終わると、あのんは、美術雑誌の新刊を整理しはじめ、ある雑誌の頁をなにげなく開いた時に、ともこのスケッチを見つけた。また絵を描きはじめたのだと嬉しくなった。
しかし、モノトーン調の色彩で描かれたそのスケッチは、これまであのんがみた、ともこが描いたどの絵よりも暗いイメージを与えた。
そのスケッチは、閉ざされた窓がいくつも描かれた古びた観覧車の絵だった。観覧車は既に廃墟と化した遊園地に残されていて、大きな放射線状に広がるフレームの内には時計があるが、6時25分のところで止まっている。そして、14個のゴンドラの真上から数えて右斜め上の、ちょうど時計の針でいえば1時付近に止まっているゴンドラはフレームから外れかかっていて、宙ぶらりんになっている。
あのんは、そのスケッチをみて、閉ざされた心が、宙ぶらりんになっているような冷たい印象を受け、ともこが、心配になった。先生として頑張り過ぎているのではないだろうかと気になりだして、仕事が終わったらメールをしてみようと思った。
その翌日は雨、図書館が休館日だったので、あのんは部屋でDVDを観ていた。
『グラン・ブルー』という映画だった。
「人魚と暮らす方法、知ってる?」
「深い海に潜っていく。深すぎて青さもなく空も見えない世界だ。深い沈黙のなかに身を置いて、永遠にとどまる決心をする。すると人魚たちが愛を確かめに近づいてくる。その愛が真実で、純粋で、人魚の意にかなえば連れていってくれる」
あのんは、その台詞のシーンがとても気に入った。
マシューは、古楽の会で、あのんがいつか吹いた旋律を主旋律とした美しい曲を披露した。あのんは、自らの尊大な自己愛によって、自分の音楽が世に広まることに陶酔しきった。マシューの楽曲そのものがあのんの楽曲であるかのような錯覚、幻想に囚われていた。あのんは、マシューのそばにいると自分が大きな人間になったような気がした。
そして、まだそのとき、あのんは自分の中に何かひっかかるものが芽生えていると言うことに全く気付かずにいた。
翌日、あのんは図書館で忙しく働いた。来館者数がいつもより多く、本の返却が多かったので、返却処理をするのに、いつもよりも時間がかかった。返却処理は、その本の予約をしている利用者のためにスムーズに迅速に行われなければならない。あのんは、その返却処理だけでじゅうぶんに疲れていたが、来館者が帰ったあとも、図書館内の掃除当番になっていて、一生懸命掃除をした。
あのんは疲れていたが、それでも少し薄暗くなった利用者スペースを掃除していると、真夜中に博物館に忍び込んだみたいな気持ちになりわくわくしていた。
掃除が一通り終わると、一緒に掃除をしていた青野さんが突然叫んだ。
「ああ、日が暮れる、さみしい!秋の夕陽は切ない!」
叫び声が図書館中に響き渡り、近くにいる職員は、突然叫んだ青野さんをみて笑った。
その日の夜、あのんの部屋であのんとマシューがパスタを食べた。
マシューは「大抜擢なんだよ。」と、嬉しそうに言いだした。
「こんな大きな有名ホールで僕の曲を演奏するなんて。しかも話題のあの出演者たちと!」
大きな仕事が入ったのだ。マシューの頬は高揚していた。
あのんは(おめでとう!)と拍手をして、一緒に喜んだ。
「きみは最近どう?」と、マシューに聞かれたので、あのんは図書館で忙しかったことを話した。マシューは、ふうんといって、あのんをみていた。
そして、マシューはこれから売れっ子演奏家のさあや達と公演まで稽古が続くから、会えなくなるかもしれないけど元気でと言った。
あのんは、少し寂しい気持ちになったが、マシューのチャンスを喜んだ。さあやというのは、いま一番売れている日本一のリュート奏者で、海外でも有名なリュート奏者たちと共演している注目の人だった。マシューの曲が、その人に演奏してもらえることになったのだ。あのんにとっても、嬉しいことだった。
しかし、それからというもの、それまでマシューからきていた連絡の回数は減った。あのんは、自分から連絡をするのも控えた方がいいだろうかと迷ったが、毎日、あのんの方からメールをしていた。返事は無理をしないで、と、付け加えていたが、マシューから返事がくると嬉しかった。忙しいのだから、寂しくても仕方ない。私はマシューの演奏会の成功を祈っているのだから。と、あのんは、自分に言い聞かせた。そして、マシューの稽古に持っていけるような差し入れを準備したりしていた。
あのんは手づくりの差し入れを用意して、マシューに連絡をした。
マシューからは、「わざわざありがとう。時間ができたら取りに行くから、ぼくの部屋の冷蔵庫に入れておいてください。」という返事しか帰ってこなかった。
あのんは生理が一週間遅れていて、自宅で妊娠キットで検査をすると陽性反応がでたため、平田とすみれのクリニックへ行った。穏やかに話をする平田に会うとあのんはほっとした。
マシューにこのことを伝えるべきだと思ったが、前に生理が遅れた時に、同じようなことがあり相談したとき、マシューは嬉しい顔をしなかった。そして、生理がきたと報告するとすごく喜んでいた。あのんは、そのときのことを思い出すと、いまのマシューに連絡すると、嫌われるのではないかと思った。
平田とすみれの働くクリニックを選んだのは、妊娠していたら、ひとりで産もうと思っていたからだ。あのんは、平田の病院に3回ほど通ったが、マシューに妊娠を知らせる前に、流産してしまった。あのんは、流産を知らせることも、マシューの負担にしかならないと思い黙っていた。あのんは精神が疲れきっていた。
(私のせいなの。私が声を出せないから。)
術後の診察を終えた数日後、あのんは平田のいる研究室を訪れた。平田はいつものように室内履きを脱いで靴下の中で足の指を動かしながら座っていた。あのんはこれまでの御礼を言い、平田に赤ワインをプレゼントした。軽く話しをして、平田はあのんにこれからのことはどうするのか?と、聞いてきた。あのんは平田に何も心配をかけないように、明るく振る舞って研究室を出た。
それまでの自分と比較するとその問いには、yesと答えることもできるだろうし、noと答えることもできる。自分の中の自分というのは、自分にもわからないからだ。
マシューは、さあやの家に招かれて、さあやと一緒に演奏会のための準備をしていた。
さあやのリュートは美しい音色を奏でた。マシューは、さあやが目を伏せた時に、それまで抑えていたものが衝動となって湧き出すのを感じた。
さあやの美しい黒髪、伏せた目のまつげの長さ、まつげの曲線の美しさに気づき、彼女に触れたいと思った。
さあやのまつげにそっと触れ、その指先はそのまま彼女の頬を撫で、彼女のふっくらとした唇に触れる。そしてそのまま指先を、彼女の首筋に滑らせて鎖骨から肩、腕、脇に触れて、脇から優しく彼女の乳房を持ち上げように指でなぞる。
マシューはさあやの柔らかな胸のふくらみを想像した。そして、マシューはそこで息が熱くなるのを感じた。
マシューは、どうしようもない熱っぽさと、たったいま沸き出した衝動を隠してしまいたいと思った。あのんのことを思い出し、マシューはいますぐさあやの側を離れて、この場を立ち去らなければと思った。しかし、マシューは自分から沸き出した気持ちをどうすることもできなかった。
UMEMOTOが亡くなったことを聞いたのは、その翌日だった。あのんはUMEMOTOが病気を患っていることさえ知らなかった。UMEMOTOは、10年前に肺がんを摘出手術していたが、今年再発したそうだ。しかし、音楽と映画、料理を楽しむ生活を失いたくなかったため、癌治療を選択しなかった。
あのんとマシューは一緒に通夜と告別式に行ったが、何も言葉を交わさなかった。
ふたりの着ているコートは強風ではぎ取られてしまうのではないかというくらい風の日だった。風は冷たく凍てつくようだったが、それでも、かすかに植物の生命のかおりもした。
都会のにおいが風で全て吹き飛ばされればいいと、あのんはこれまで何度も思っていたが、その夜だけは違っていた。都会のにおいは人のにおいだ。生活者のそれといってもいい。いまだけはたとえまた、それにうんざりすることがあっても、そのにおいを失いたくはないと思っていた。
告別式の帰りにふたりの部屋があるマンションが近くなるとマシューは実家に用事があるので、マンションにはあのん一人で帰るようにと言った。
あのんは突然、堰を切ったように泣き出してマシューの肩に顔を埋めようとしたが、マシューはそれを拒んだ。
「きみは本当にUMEMOTOのことを慕っていたんだね。ぼくはそれほど彼にシンパシーを感じてなかったから。」と、言った。
あのんはマシューの背中を見送りながら、さめざめと泣き、その場に立ち尽くし、マシューの影がどんどん遠ざかるのをただただみていた。
そして、あのんは闇に心まで吸いとられていくのを感じていた。
UMEMOTOの早すぎる死にあのんはショックを引き摺っていた。
レッスン中に、目をキラキラと輝かせて、宝物を語るように映画や料理の話をしてくれた。映画を観ること、映画を語ることは、生きることに他ならない。
もっと会えるはずだと思っていたから、次に会える時までに少しでも成長していたいと思っていたから、次にお会いできたらこんな話をしようとか、教えていただいたお店にいった話をしようとか、そんなことを考えていたから、あのんはとてつもなくショックだった。
どこに向かっていいのかわからない、行き場のない喪失感があるだけだった。
あのんは帰宅すると、バスタブいっぱいにお湯をはって、ゆっくりゆっくり湯に入った。長い時間をかけて、お湯の中で泣いた。
その夜、あのんはこんな夢をみた。
『その夢の中で〝わたし〟は、身体もなく、知覚もなく、ただ感覚のようなものがあるのみだった。
ただただ〝わたし〟のようなものはそこにいた。けれど、〝わたしじゃないもの〟もそこにいた。〝わたし〟は〝わたし〟のようであったし、〝わたしじゃないもの〟もまた、〝わたし〟のようでもあった。〝わたしじゃないもの〟も〝わたし〟のことをそのように思っていた。
わたしたちには思考というものもなかったが、わたしたちは自他の区別というものも持っていなかったので、わたしたちは理解できたし、そう理解していることに不思議となんの疑いもなかった。
わたしたちは深海の奥深くに潜っていたが、何の恐怖もなく、静寂な闇の中で、光の粒たちや魚たちと自由に泳ぎ、目の前に広がる海の世界の進化系統樹を走馬灯のように瞬時に見、海面にあがった。
風が凪ぎ、キラキラと光を乱反射している海面に、小さな波しぶきと泡が飛び舞うと、光の粒たちも歓び飛び舞った。
海面の波と泡は、夢の中で、宇宙が創成される瞬間をも思わせた。
波が泡をつくり、泡は瞬時に消えゆくものであるが、大きな海が生命の源である限り、波も泡もまた作られ続ける。
やっぱり〝無〟なんてない。わたしはそう感じた。
わたしが人として認識しうるものだけが〝有〟とするならば、それは間違いだろう。けれど、わたしはわたしが人として認識しないものも〝有〟であると考え、それは、確かにある。だから、やっぱり〝無〟なんてない。』
あのんはこの夢をみたあと、しばらく、睡眠が怖くなっていた。
言葉にしてみるとあっけないほどの短い夢だったが、個を超越した感覚が凄まじく、その夢をみてから、しばらく夢をみるのが怖くなり、夢がやってくると慌てて目を覚ました。
夢から逃げるようにベッドからとび起き、胸の高鳴りが静まるのを待って、ただうとうと浅い眠りを繰り返すような夜が続いた。自分の影ばかり追いかけていると、それに気づいた影が逆に自分を追いかけてくるのだ。
あのんは、分裂しかけていた。
身体を現実に慣れさせようとしたが、行動を起こす気力が沸き上がってこなかった。
まるで、視界が霧で遮られ、身体は霧の中に沈んでいるように重くて、壁と床との境界がはっきりみえないから歩きづらくて、ときどき手探りで冷たい重厚な壁をつたって移動しているようだった。
あのんの目の前は、いつも霧が邪魔をし渦巻いていて、こまかい霧が顔面を吹きつけ息苦しくさせた。そして、あのんがそれを避けようと後ろを振り返ってみると、さっきまで自分がいた場所がみえなくなっていたりするのだ。
まるでそれは、濃霧の廃墟の中で遭難にあったような状態だった。
あのんは、白昼夢を見続けていた。そして、その世界にたゆたい、これは死んだあとに訪れる場所なのかもしれないと思っていた。
3
たゆたってばかりもいられない、と、ようやく、あのんを気づかせてくれたのは、マシューの古楽の会の特別発表会だった。マシューは大きなホールを借りて、自分の新作を発表した。
そのとき、マシューは舞台上で、スクリーンに映し出された売れっ子リュート奏者のさあやをみて溜息をつき、
「ぼくは彼女の大ファンなんです。」と言って、羨望のまなざしをスクリーンに注いだ。
あのんはマシューがそう言いながら、あごに手をやるあのしぐさをしていることに気づきショックを受けた。いま、マシューの視線の全ては、私ではなく舞台上のスクリーンに映し出されたあの女性にだけ向けられている(!)
暗い観客席で身の凍るのを感じながら、あのんは舞台上でスクリーンをみつめているマシューだけを見ていた。
マシューとあのんは演奏会が終わると近くのカフェに入った。
「今日はごめんね。演奏会が終わったあとで本当は君とのんびり過ごしてあげたかったけど、このあと打ち合わせがあるんだ。」
(ううん。大丈夫。それより疲れているのに、また打ち合わせだなんて大変だね。頑張ってね。)
(マシュー、寒いね)と言って、あのんが手を繋ごうとすると、
「僕の手、あたたかいでしょう?もう自分であたためられるから平気だよ。」と、言ってマシューはあのんの手をふりほどいた。
あのんは、もっとマシューと一緒にいたかった。本当に打ち合わせなのか、不安になった。さっき、あなたが舞台の上でみせた表情、あの眼差しは…と、言いかけようとしたが、何も言えなかった。
マシューは、ウェイターがコーヒーを運んでくると、
「君の友だちに聞いてくれたかい?福島で一緒に演奏しようっていう話しだよ。」と、少し身を乗り出して聞いてきた。
あのんは、少しためらったが、
(正直にいうけど、偽善者とはかかわりたくないって、震災があったときだけなんてわざとらしいっていう人もいるって言われちゃったのね。だから、いまは無理かも。ごめんなさい。)と、言った。
マシューは、「わかった。オーケー。いいよ、そういう人の気持ちもわかるから。」と言って、コーヒーを一気にのみほした。
マシューは、カフェを出ると、
「君は羊の皮をかぶった羊だね。羊のマトリョーシカだよ。おやすみ。」
と言って、あのんに背を向けた。
寒さが肌を凍らせるような夜だった。夜空には、線のように細く弧を描いた月だけが浮んでいた。あのんはその光の向こうこそが、救いの世界なのではないかと思えた。
いまあのんが立っているこの世界、夜空を見上げているこの地上にいることは何かの間違いで、闇夜に消え入りそうな光の向こうの世界だけが、真の世界への入り口であり、あのんが存在できる唯一の世界なのではないかと思った。
厚く深い霧の層がただただ河のように流れている。ミストシャワーのような感覚もなく、息苦しくもなく、不思議な霧。霧のように見えるだけのもやなのだろうか。あのんは、自分が死んだとき、ここにいるのかもしれないと、思った。その風景は、忘れられない心に取り残された空虚な風景として、いつも心の住処として、いつもあのんの心の奥底にあった。
帰宅すると、あのんはカレー屋の前で偶然大木と会った時のことを思い出して、その時にもらった絵本を読みはじめた。ねこのおやこが必死になって協力して声をかけあって踏切を渡る絵本だった。(なんてやさしい絵本なんだろう)と、あのんは涙を流した。
それからも、あのんは毎日マシューにおやすみとか近況とかをメールしていた。マシューからは、短い返事が返ってきていたが、「ごめんなさい」と一言だけかえってくる日が3日ほど続いた。あのんは、とても不安になっていたが、マシューは疲れているから、返事をするのが大変で「ごめんなさい」と一言しか送ることができないのだ、と、思いこむようにしていた。そして、疲れている時は無理しないで、と、返信していた。
ある日、マシューがマンションの近くのカフェで会いたいと言っていた。近くにきているなら、マンションまできてくれればいいのに、と、あのんは思ったが、出かけることにした。
あのんとマシューは、カフェ・ド・クリエで待ち合わせをした。
マシューは笑顔であのんを待っていたが、あのんはマシューの笑顔が装った笑顔であるような気がした。
マシューは何も言わずにコーヒーをのみ、あのんはマシューの顔を覗き込みながらホットミルクをのんだ。
マシューはコーヒーを一気飲みすると、
「これから、ぼくはものすごく勝手なことを言うんだけど、ごめんね。もう、君ともう、、、どう向き合っていいのかわからなくなっちゃったんだ。きみに会ったり連絡をするのが義務みたいになっちゃって、それから、ぼくはきみに罪悪感を感じているんだ。ふたりのこれからのことをどうしていけばいいのかわからなくなっちゃったんだ。もう、煮詰まってしまったんだよ。」
あのんは、マシューがそこまで言ったところで話しを中断してほしかったが、
マシューはきっぱりそのあと、「だから、悪いけど、ぼくに時間をください。」と、続けた。
あのんは、(それは別れようってことなの?)と、きいた。そして、すぐにあのんは、続けて、(まだ、別れたくない。私はマシューのことが大好きなんだよ。マシューと別れたらひとりぼっちなんだよ。)と、言った。
マシューは、困ったような顔をして、「ごめんね、ぼくは君をはじめてみたときから、かわいそうだと思ってたんだ。きみをずっとかわいそうだと思ってたんだ。」と言った。
「付き合おうと言った時の気持ちに、嘘偽りはなかった。だけどもう、ぼくは自分でもどうしていいのかわからなっちゃたんだ。きみの背負っているものをぼくは背負いきれない。きみが足手まといとか、そういうんじゃないんだよ。」
あのんは、マシューが真剣にあのんと別れたがっているのだと思った。それなら正直に言ってくれればいい、と、思った。
(マシュー、好きな人ができたの?)
マシューはそれを聞くと突然泣き出した。
「うっ……、ぼくは弱い人間なんだ。。。」
マシューは声を殺して、嗚咽した。
あのんは、その姿を見て、やっぱりそうなのかと思った。そして、自分がどんどん椅子に深く沈んでいくような気持ちになった。それでも、あのんはまだマシューにしがみつきたい気持ちになっていた。
(わたし、マシューのこと、それでも待ちたいの。)
マシューは、涙を拭いて、ありがとう、と小さく言った後で、「でも、それはきみにとって良くないんだ。だから、時間をください。」と、言った。
(わかった。まってる。)と、あのんは言った。
マシューとあのんは、店を出て別れた。マシューは街の中に消えて、あのんは、マンションに戻り泣き崩れた。
あのんは、別れを信じたくなかった。それでも、マシューはもうこの恋に終止符を打っていたのだということに気づいていた。マシューの涙は、私に未練があるからではなく、私との関係が終わったことに対する涙だったのだろうと思った。あのんは、自分がマシューの心変わりにずっと気付いていたことだったけど、気づかないふりをしていた自分が悪かったのだと思った。別れを受け止めることができない自分自身が、マシューをずっと苦しめていたのだと思った。
クリスマスになっても、マシューから連絡はなかったが、あのんは、マシューにメールをした。
「マシュー
元気にしていますか?
私も、私たちのこれまでのお付き合いについて考えました。
お互いを不自由にしてしまっていたのかもと思いました。
私はあなたにしがみついてばかりでした。今までごめんなさい。
そして、本当にありがとう。メリークリスマス。
あのん」
あのんは、この手紙を送ったあともマシューが帰ってくるのではないかと少なからず淡い期待を抱いていた。マシューとの別れを受け入れることなどできなかった。
雪が降り、足元に冷たさが降り積もり続けた。雪はあのんの足を冷やした。その冷たさはやわらぐこともなく、はらはらと降り積もり続けた。
お正月がきても、マシューからの連絡はなかった。あのんは、レイ子とマシューに年賀状を出した。
それから数日後、あのんとマシューのマンションが火災に遭った。冬の寒い夜だった。あのんは、避難しなければならなくなったときに、恐怖で堪えきれず、レイ子とマシューにメールをした。しかし、レイ子からもマシューからも連絡はなかった。
マンションの火災は、ぼや騒ぎ程度のものだったが、あのんは数時間寒空のなかに避難していなければならず手がかじかんで震えていた。すみれのところに泊めてもらおうと思い連絡すると、すみれは驚いていたが「待ってるから気を付けてね」と、言った。
あのんは、自分が慌ててパジャマ姿にコートをはおって室内用のスリッパを履いて出たことに気づいた。そして、手には携帯電話と財布しか持っていないことに気がついた。火災があったのはマンションの3階で、マシューの部屋のある階だった。あのんは4階に住んでいて、火災のあった階とそれよりも上の階に住む人は皆避難指示が出ていた。消火活動をしていた消防隊のひとりがマンションから出てきたことに気づいてあのんは、その消防隊に声をかけたかった。それに気づいたあのんの側にいた避難している親子がその消防隊に、声をかけた。「火は大丈夫ですか!?私たちは3階に住んでいます。」偶然にもその親子はマシューと同じ階に住んでいた。
消防隊員は、
「消火は終わりましたが、残っている煙があるかどうか確認した後で避難解除となります。指示が出るまでもう少し待っていてください。」
あのんは、それをきいてマンションが全焼となるような火事ではなかったのだとほっとした。すみれにそのことを連絡して、マシューが心配をして連絡をしてくるかもしれないから、メールをしておこうと思った。
住民全員に避難解除の指示が出ると、あのんは、ボヤ騒ぎでマシューの部屋に何もなかったことを念のために確認をしておこうと思った。マシューの部屋の鍵をずっと預かっていたままだったからだ。マシューは、この鍵を使って、いつでも自分の部屋を自由に使っていいと言っていた。あのんは、マシューに時間をくださいと言われた時から、鍵を返した方がいいだろうかと迷っていたが、今はまだ鍵を預かっているのだ。マシューの留守中に、火災で、もしマシューの部屋に何かあれば、あのんの責任問題にもなるかもしれない、と、思っていた。それで、あのんは、マシューの部屋を見に行き、中に煙が入っていないことを確かめると、マシューにメールをした。
(マシュー さっきのメールでは心配をかけてしまってごめんなさい。火事はただのボヤ騒ぎですみました。私の部屋もマシューの部屋も大丈夫です。安心してください。 あのん)
あのんは、マシューから返事がくるのではないかと思って、携帯を持ったままベッドに入り、そのまま眠りについた。
翌日、あのんが仕事から帰り、自分の郵便ポストとマシューの郵便ポストをふとのぞいてみると両方が空になっていた。あのんは、マシューが帰ってきたのだと思い、マシューの部屋に走り、部屋のドアを開けた。と、同時に、『べりっ!』と、いう奇妙な音がした。クリーム色をした鉄製の冷たいドアの内側の上部から、剥がれたガムテープが、だらんとぶら下がっていた。
あのんは、そのだらんとぶら下がったガムテープを凝視して震えた。それは、まるで深く暗い濃緑の森の中で首つり自殺をした女性の足が、その生気を失い、———しかしまだその脚は生気を失いかけたばかりで生々しくもみえ———垂れ下がっているかのように思えた。恐怖が不安を渦巻いて、あのんを掴んだ。あのんはそこから慌てて藻掻くように部屋を出た。どうしてマシューはこんなことをしたんだろう、こんなに私を嫌っていたなんて……!マシューがこんなに私を避けたいと思っていたなんて……!
部屋を出たあのんは、泣きながらすみれに電話をした。「もうそこから出たほうがいいよ。」と、すみれは言った。
あのんは、泣きながら朝を迎えた。部屋が明るくなり、もう朝日の昇る時間なのかと驚いた。朝の支度が遅れてしまう。あのんは、辞表届を持って、慌てて図書館に出かけた。雨足が図書館の窓の外を白くひんやりと染めていた。そして、図書館は靄の中に包まれていた。
その翌日、あのんは引っ越しを決意して、マシューに短いメールを出した。「引っ越しするので部屋の鍵を返してください。私も返します。スペアキーは作っていません。」
すると、3日後にマシューから短い返信が届いた。
「メール拝受。鍵は宅配便で着くよう発送しました。私の鍵はポストに入れておいてください。」
それから翌日、マシューから部屋の鍵と手紙が届いた。
「私は、お互いの将来を真剣に考え、私達の間には大きな隔たりがあり、それはお互いの努力や歩み寄りによって到底埋められる程のものではないと気付きました。私もあなたに対し、これまで精一杯のことをやってきたという自負がありますが、共に立っている基盤や、目指している価値観があまりにも違いました。もうこれまでのようなお付き合いを続けることはできませんが、あなたはあなたの幸せな将来を掴んでください。私の方から連絡をすることは、今回限りに終わりにします。どうぞ、お元気でおすごし下さい。 マシュー」
あのんは手紙を受け取ったあと、行き先を誰にも告げずに、マシュー宛てに小さなメッセージカードを投函し東京を発った。
「マシュー いままで、ごめんね。それから、ありがとう。 あのん」
あのんは、引っ越し先でメールが開通すると、ともことチャットをはじめた。
(付き合わずに、せめて友だちになれていたら、何も失わずにすんだのかな。)
「もっと自信もちなよ。そもそも、別れで全人格を否定するような発言する相手なんて別れて正解だよ。それと思い出は美化される。嫌だったことも消えて、美化される。それを癒すのは、自信と時間だけだよ。 今はしんどいだろうけど、まだまだ先は長いよ。私だって正直今調子悪くて、人生いつ終わってもいいや、と思って静かに生きてるだけ。みんなきっと色々抱えてる。それが見えるか見えないかだけだと思うぞ。やけにならず、自分を否定せず。自分を受け入れてくれる家族がいるだけで、十分だと思うぞ。居場所があるんだもの。」
別れる前にマシューの演奏会に行くと約束していた日がきたが、あのんはその演奏会には行かなかった。
(行ってマシューを困らせることになるかもしれない。だって今はもう、マシューに受けいれられてもらっていないのだから。)
あのんは、自分にそう言い聞かせて、泣きながらふて寝した。
(私はマシューのことを諦めなければ。)
その夜中にあのんの携帯電話に非通知着信があったが、あのんは寝ていて、その着信に気がつかなかった。それに気づいたのは翌朝だった。非通知の着信履歴があった時間をみて、あのんはすぐにマシューだったのではないかと思った。いつもマシューが仕事で遅くなると、その時間にメールをしてくる時間だった。
あのんは、その着信をみてマシューが怒ってこう言っているように思えた。
『あんたにとってはこれっぽっちのことかもしんない。でもね、こっちからしたらそれはとてもこれっぽっちのことじゃないんだよ?どうしていつもいつもわかろうとしないの?だからダメなんだよ。』
あのんは、仕事にもいかず、レッスンにもいかず、川辺をただ毎日ひたすら歩きつづけていた。
(恋は人生においてそれほど重要ではないと思ってた。マシューに会うまで。)
あのんは、ボートに乗って、川の光の美しさをみていた。
光の模様や光の動きを、マシューと一緒に、川面の輝きをみていたことを思い出した。でも、マシューからの連絡はもうこない。
あのんとマシューはよく二人で自然の中に溶け込むような森林のなかを散歩して、よく川へ出掛けた。
ある日、マシューはあのんに、ぼくたちはそういえばよく川にくるよね。と言い、あのんは、そういえばそうね、と、マシューに答えていた。
私は川にうつる光がみたかったんだ。自然の美しい光の反射をみたかった。ふたりで光をみつめていたかったんだ。
あのんはやっとそのことに気付いたが、もう二度とマシューと連絡をとることができないのだと落胆した。
あのんにとっては大切な気づきだったが、マシューにとっては、あのんがマシューと光を見続けていたかったことなど、今更聞かされても迷惑なはずだ。
「マシュー、ありがとう。私のために生きてくれた時間があったこと、とても幸せだったよ。とても嬉しかったよ。 あのん」
あのんは、小さな紙きれにそう書いて、それを小さなガラスの瓶に入れて、川に流した。そして、ボートが急流にさしかかったときに、何のためらいもなく、川へ飛び込んだ。
あたたかいカフェの室内では、ピアノの一音一音が、地上に降り立つ雨音のようにゆっくりと鳴り響いていた。
すみれは、細身のジーンズの上にひらひらとやわらかな薄緑色をしたシフォンのシャツを着て、前髪をあげたポニーテールにしていた。
「長い夢をみていたのかと思った。」
あのんは川に飛び込んだ後すぐに、川辺近くでジョギングしている人に発見され、近くの病院に運びこまれて、そのまましばらく入院していた。
(すみれには、いつも迷惑をかけてごめんね。)
「いいよいいよ。もう元気になって退院できたんだから。それよりも、ともこさんの絵みた?何か変化があったんじゃないかな?絵をみてそう思ったよ。」
(そう?)
すみれは美術雑誌を開いて、ともこの絵が掲載されている頁を開いた。
一枚の絵の中に窓がある。その窓は白い壁の木造建物を外からみた窓だった。下から上に押し上げて空ける窓の上側には、木漏れ日の影が窓に映っている。開かれた窓の下側からは風が部屋の中に入り込んでいた。これほどまでに風が部屋に入りこむ瞬間を捉えた絵はなかったと言ってもいい、完璧なまでの写実だった。
それはこれまでにともこが描いた絵とは全く対照的な絵だった。
これまで内側からみて描かれていた窓は、全く反対の目線で、外側からみたように描かれていた。
評論家のコメント欄には、こう書かれていた。
「この絵は、これまでこの画家が描いてきたどの作品よりも力強い。それは画家の視線の違いだけではないだろう、このみるものへも訴えてくる何かは、画家の心が内から外へ開かれた心の描写そのものではないか。」
画家のコメント欄には、こう書かれていた。
「それでも、まだ生きている。生きているのは苦しくて辛いと思うこともあるけど、それでも自分はいま生きることを選んでいる。わたしは友人を励ますことで、このようにまた生きることを選んだのです。」
あのんがその記事を読んでいる時、カーテンがふわっと膨らんで、室内に柔らかい風が入ってきた。
(今夜は飲もうよ、たまには姉妹で!)
数週間後、あのんはすみれを誘って、六本木に出た。
乃木坂と六本木駅の間にある天井の高い開放感あふれるデザイナーズイタリアンレストランは、あのんが前にマシューとすみれと三人できた店だった。店内は居心地の赤を基調としたインテリアの明るさが自慢で、気軽に楽しめるコースがたくさんあるため、いつも賑わっている。
(またこのお店に一緒にこれて嬉しいよ!)
ふたりは、ソムリエにシャンパンをたっぷり注いでもらったグラスを合わせて乾杯をした。
(すみれは、りょうたと上手くいってるの?)
「まあまあかな。りょうたはダサくてぼんやりで刺激もないけど、人間性が素晴らしくて理解しあえてるから。だから、一生一緒に居たいから、もういいやってあきらめてるの。」
(それって、のろけてるの?)
ふたりは顔を見合わせて大笑いをした。
あのんとすみれは、その晩は、終電近くまで飲んだ。
あのんは帰り道をすみれに心配されたが、(だいじょうぶ、だいじょうぶ!)と、笑顔で手を振って、すみれと別れた。
「またね!」
ふたりはそれぞれが人の波にのまれるように終電に乗り込み、それぞれが人の波にところてんのように押し出されるようにして終電から降りた。
あのんは降りた駅から自分のマンションまでの帰り道をゆっくり歩きだした。
時間は、あっという間に過ぎていく。
わたしが劇的にはじまったと思った恋は、あっけないほどあっという間にラストを迎えた。この感覚は砂時計の中にいるわたしが、砂と一緒に底にぬけ落とされてしまったみたいだった。何も抵抗することができずに、何にもしがみつくことができずに、タイミングもつかめずに、予告なしに一気に流されて落ちた。それがわたしの恋のラストだった。
マシューは、会えなくてもいまでも特別な存在。でも、もうやっぱり会えないんだろうな。
どうしてマシューは彼女を好きなんだろう。彼女はマシューを傷付けるかもしれないのに。私ならマシューを愛し続けてあげられるのに。
マシューと初めて手を繋いだときに手から伝わってきた温かい優しさは、私が生きていることを実感させてくれた。あのやわらかさ、いつまでも手を繋いでいたかった。
マシューのこと、信じるか、信じないか、信じられるか、信じられないかじゃなくて、私が信じたいか、信じたくないか、なんじゃないのかな。
マシューになら裏切られてもかまわないって、そう思ってたんだよ。
でも、今思うと、マシューにはすごく迷惑をかけてたかも。 疲れてるはずなのに一緒に帰ってくれたり、小さな事ですねたり泣いてたりして困らせちゃったり。 夜中に会いたくてメールもしちゃったり。
わたしは結局、自分の事だけを考えていたのかもしれない。
マシューに出会って、自分の事よりマシューの事を考える時間が生まれたんだよね。自分よりも誰かのことを考えることができた。その思考の第一歩を歩いたんだよね。
自分に何度も同じことを言い聞かせながら、あのんはひとり、夜道を歩いた。その先には、何をするともなく通り沿いのフェンス脇に立つ猫がいた。足元の月灯りがいつもよりも明るいのに気がついたあのんが、夜空を見上げると、月と星を囲む虹の輪が夜空に広がっていた。そんな夜空をみたのは生まれて初めてだった。
あと何時間かすれば夜が明けるだろう。
またいつかきっと、これまでにみたことのない景色をみることもできるだろう。
愛は分けても減らないよ Love is, If shared, not lessened