君が笑えるように

君が笑えるように

 夕方から降り出した雨はひどくなっていた。電車に乗っている時に妹にメールを打った。最寄り駅まで迎えに来てくれないかな、って。これから雅紀くんの家を出るから、十分以内で着けると思う。それが妹からの返信だった。駅から家までは歩くと二十分くらいかかる。普段なら平気だけれど雨の日はちょっときつい。傘を買おうかとも思ったけど、つい、妹に連絡を入れてしまった。あと一週間で嫁に行ってしまう妹だ、ちょっと寂しい気持ちもあるのかと自分でもふと思う。こうやって、つい残りの日々に甘えてしまうのだから。
 うちは両親がもういないから。おふくろは俺が小さい頃に、親父はつい二年ほど前に他界した。なのでもうかれこれ二年、ずっと俺と妹のふたり暮らし。それもあと一週間たらずで終わりだ。
 強い雨の中駅の改札を出たところで待っていると、数分後に妹の車はやってきた。白い軽自動車だ。
「お待たせ」
「悪いね、さんきゅー」
 助手席に乗り込んだら、妹は車を発進させた。
 車が進むにつれて少し灯りが減ってくる。駅から少し離れた住宅密集地に並行する空き地のそばを通る。草野球スペースも広々と確保されている、そこそこ田舎の道なのだ。そこを突っ切ると小さな寺がある。その傍がうちだ。
いつもなら、こんな夜の十一時過ぎ、ほとんど車も人も通らない道だ。街灯もほぼない。車のライトと、それを跳ね返すように光る雨の雫の向こうに大きなトラックが見えたと思った時には車はもうぶつかった後だった。
 決して見通しの悪い場所ではないと思う。ただ少し暗いぐらいで。スリップしたわけでもない。なんだ?今の衝撃は。そう思って運転席を見ると、大きく膨らんだエアバッグと座席に挟まれた妹がいた。突っ込んできたトラックはどうやらけっこう大きいもので、トラックの運転席側の角が完全に妹の顔のあたりまで突っ込んできていた。エアバッグと座席とトラックの端とに挟まれて妹は完全に動けなくなっていた。
「大丈夫か?智花!」
「うん・・・お兄ちゃん」
 返事をしたので意識はある。妹のシートベルトを外そうとするが衝撃を受けているせいかなかなか外れない。そうしていると俺の座っていた助手席のドアが開いた。
「大丈夫ですか?」
 見知らぬ男性だった。事故を見て駆けつけてくれたんだろう。
「あ、助けてくれ。妹が挟まってしまっていて出れないんだ」
「怪我は?とりあえず救急車呼びます」
「お願いします」
 ドアを開けた男性は一度車から離れると外で電話をかけてくれているようだった。その後直ぐだ、トラックが大きな音を立てて爆発したのは。
「え?」
 俺の目の前には、赤く大きな炎が立ち込めていた。



「三窪・・・智です」
 病院で名前を聞かれた。意識は朦朧としていたけれど、なんとか答えた。病院かあ、そう思った瞬間に思い出した。
「妹は?智花は?」
「とりあえず落ち着いてください、あなたも怪我を負ってますから」
 治療室のベッドで横になっていた俺の耳に入ってきたのはよく知る男の声だった。

「智花は?助かったんですか?教えてください!」
「きみは誰だね」
「三窪智花の夫です。あ、正式には入籍はまだですが。えっと、婚約者です」
「婚約者。まあ、こちらへ」
 彼が通されたのは集中治療室だった。あらゆる線が繋がれた彼女がそこにいた。
「智花?わかる?雅紀だよ」
 そう言って彼女の肩をゆすろうとした時に医者に止められた。
「きみは婚約者だと言ったね」
「はい、そうです」
「彼女の兄だという男性も別の部屋で治療を受けてる。彼女はその兄と他にご家族は?」
「いません。ふたりだけです」
「そうか、じゃあきみには伝えておこう」
「なんですか?」
「手を尽くしましたが、きっと今夜が山でしょう。意識はもう戻らないと思います。内蔵への圧迫がひどく破裂していて、呼吸も今は機械で整えていますが、自分ではもう息ができないでしょう。このままだと植物人間になってしまう」
「植物人間?嘘ですよね。なんとか方法はあるんですよね」
「悪いですが、手は尽くしました。できるだけ身内のかたを集めてもらいたいと思ったんですが」
 そこへ足を引きずりながら入ってきたのは兄の智さんだった。
「まだダメですよ、治療中なのに!」
 付き添いの看護婦の腕を払い除けて智花に近づいた。
「目を開けろ、智花」
 彼女に寄り添おうとする智さんとは違い、僕はこの時もう動けなかった。近づいて声をかけたかったのに。智花!って。オレだよ!って。なのに、立ち尽くしたまま何もできなかった。医者がさっき僕に話したことと同じ説明を智さんにした。だけど智さんは聞くどころか医者の胸ぐらを掴んだのだ。
「何言ってんだよ。まだ死なないよ。こいつはあと一週間で結婚するんだ。死ぬわけないだろ!助けろよ!早く!」
 そう叫ぶ向こうで無情にもベッドサイドモニタが大きな音を立て始めた。医者は、智さんの手を払い除けて智花の治療に当たろうとした。何かよくわからない難しい専門用語と、それに答えるようにして動く看護婦、慌ただしい病室の端で、壁に持たれるようにして僕と智さんはその状況を見ているしかできなかった。やがて、ベッドサイドモニタの音がピーーーーと虚しく音を立て、数字がゼロを示すまで。



「通報してくれたのはあなたですか?」
「はい、わたしです」
 事故現場で、俺は雨の中妻とここで足止めをくらっていた。民家から少し離れた道路だけれど、あれだけの爆発音と火が上がれば、雨の中こんな時間でも人は自然と集まってくる。遅れてやってきた警察車両の後部座席に妻とふたり座って待機していた。
「詳しく話を聞かせてもらえませんか?」
「あぁ、話をするのはいいんですが、妻がちょっと怯えていまして」
 隣に座る妻は、ずっと震えたままだった。目の当たりにしたんだ、事故を。俺だって震えが止まらないくらいの怖さだった。だけど自然と冷静に動いていた。きっと、その時に動ける人間が俺しかいないと判断できたからだろう。妻には少し離れた場所にいるように指示して、事故のあった車に駆け寄った。その後妻の所に戻ったら、雨の中その場に座り込んで震えながら泣いていたのだ。よほど怖かったんだろう。
「名前と連絡先伝えておきます。家に戻ったら誰か身内に来てもらって、妻が落ち着いたら必ず話をしに来ます。なので一度家に戻ってもいいですか?」
「わかりました。状況を早く判断したいので出来るだけ早くにお願いします。家は近くですか?」
「はい、すぐそこなんで」
「じゃあ、名前と携帯番号、住所をこの紙に書いてってもらっていいかな」
「はい。芙田と書いて“ふだ”と読みます。芙田和也です」
 連絡先を書いた用紙を警察官に渡すと、俺と妻は一度家に戻った。妻の実家に電話を入れてすぐに来てもらった。車を飛ばして十五分ほど。その間に俺も頭の中を整理した。
「説明しろったって、半分真っ白だよ」
 ベッドに寝かせた妻はまだ泣いていた。頭を撫でるようにして、顔を近づける。
「大丈夫。大丈夫だから。怖かったね」
 そう言うと小さくうんと頷く。いつもはそこそこ気の強い女性なのに、さすがにショックだったんだろう。少しして家のチャイムが鳴った。妻の両親がふたり揃ってきてくれていた。
「申し訳ないです、こんな時間に」
「いや、それよりも君たちは無事だったんだな?」
「はい。でも静音が、ちょっと気持ちが不安定になってるかもしれないです。警察で話済んだらすぐ戻るんで、お願いします」
「うん、ご苦労だね」


 急いで俺はまた家を出た。現場はまだ騒然としてる。雨もまだ降り止まない。少し肌寒い深夜の道を、体を丸めて警察の車まで走った。
 その後警察官と一緒にあぁだこうだと話をした。すでに火は消し止められているが残された燃えた車が痛々しい。

「妻と行きつけのカフェに行って、その帰りだったんです。雨が落ち着くまで待とうってゆっくりさせてもらってたんですけど、なかなか止まなくて帰るところでした」
「事故の瞬間は見ましたか?」
「いえ、大きな音がしたので見たら、大型トラックと軽自動車が衝突してました」
「それで?」
「妻にはその場で待つよう言って、わたしだけ車に近づきました。軽の方を覗くと中で男性が運転席の方を向いて何かされてたので、思い切って助手席のドアを開けたんです。そしたら男性がこっちを向いて、助けてくれって」
「男性が?」
「はい。運転席の方はトラックと衝突して塞がってドアが開かなくて。シートベルトが外れないとか言ってました。覗いてみたら女性がぐったりしていて、それでまず救急車を呼ぶと言って俺は車を離れて電話をかけたんです」
「トラックのほうは?」
「その時にちらっと運転席を見ました。位置が高いんで、電話かけながら大丈夫ですか?って叫んだんですけど雨の音もうるさくて反応はなかったです。ハンドルにもたれるように俯いてたのは確認してます」
「その時は全く動いてない感じだった?トラックの運転手は」
「そう・・・ですね、じっと動かない感じでした。意識あるのかもわからなくて。そしたら急に爆発したんです、トラックが」
「はあ。どのあたりからかわかりますか?」
「トラックの、助手席の後ろあたりだったような気がします。一気にトラックのフロントガラスが割れて、慌ててわたしも後ろに下がったんで」
「その時軽のほうは?」
「あ、その弾みでっていうか爆発の勢いっていうんですか?風がすごくて、それでかわからないですけど、わたしが開けてあった助手席のドアの方から男性が転げるように飛ばされて出てきたんです」
「それで爆発があったから消防車も必要だと連絡を入れてくれたんですね?」
「はい。もう燃えてましたから。でもそのすぐ後に軽の方も爆発しました。こっちはトラックに比べて小さかったけど音がすごかったです」
「そうですか。そこまで全てを見ていた目撃者が今のところ他にいなくて。助かりました、ありがとうございます」
「いえ・・・。あの」
「なにか?」
「トラックの運転手の人と、軽に乗っていた男性と女性はどうなりました?」
「ああ・・・。外に飛ばされたっていう男性は軽傷でしたよ。あなたがドアを開けておいたのが幸いというか、命は助かりました。あとの二名は、トラックの運転手はどうやら即死、女性は追先ほど亡くなられました」



 大きな事故だったけれど小さな街のちょっとした事故だ。それほどたくさんの人が知るほどでもない、地元ケーブルテレビのニュース程度で報道は終わった。だけどそんな程度のものでも、俺には大きな事件だ。

 たったひとりの親族が亡くなったんだから。

 虚しく一定の音を鳴らし続けるベッドサイドモニタの横で、医者が小さなライトを取り出す。よく見るテレビの医療ドラマみたいだ。妹の目を指で開くと光を照らす。左目と右目と。そして少し頭を下げたかと思うと、時計を取り出して時刻を告げる。
「零時十三分、ご臨終です」
 心臓が止まったんじゃないかと思うくらい俺の頭の中は静かだった。その横でそれに反するように雅紀は大声を上げて泣いていた。その後病院のちょっとしたカフェスペースで、雅紀とふたりきり。ほとんど話をしなかった。別れを惜しむ時間はゆっくりあるのに、ふたりとも智花のいる部屋に居られなかったのだ。たぶん、まだ認めたくないんだ、死んだってこと。なのに無神経なように、どこで嗅ぎつけてきたのか葬儀屋のやつらが名刺を持って声をかけてくる。そんなことされたら認めるしかないじゃないか、智花が死んだってことを。親族にご連絡をって言われたけど、それほど交流のある親戚がいるわけでもなく。俺の知ってる範囲の、智花の友人に連絡を入れた。



 外が少し明るくなり始めた頃だろうか。そのカフェスペースに、ひとりの看護婦が顔を出した。少し年配の、婦長さんとかなんだろうか。貫禄はあるけれど優しい雰囲気の人だった。
「どうですか?落ち着かれましたか?」
 雅紀は、無表情だった。何も答えない彼を横に、俺は看護婦に声をかけた。
「警察を、呼んでもらえませんか?」
「え?」
「僕が。僕が最愛の妹を殺したんです」
「え?でも、事故ですよね?」
「僕が妹に迎えに来いなんて言わなければよかったんです。雨の中、駅前のコンビニで傘ぐらい買えたんだ。別に雨に濡れてだって構わない。歩いて帰ればよかった。なのに僕が、迎えに来いって言ったから。だからあの道を通ってしまった。じゃなけば事故になんて合わなかったんだ。だから、僕が殺したんです、妹を」
「三窪さん、それは違いますよ。そんなに自分を責めないで」
 看護婦が優しく智の肩に触れた手を、智は大きく払い除けた。
「よりによってなんで死ぬのが智花なんだ。俺が死ねばよかったんだ」
 その時俺は初めて大きく声を上げて泣いた。その場に座りこんだ。陽が入り込む窓の外がうっとおしいくらいだった。こんなに気持ちは暗いのに、どうして外は明るくなっていくんだ?俺へのあてつけみたいに、どうして一日がまた始まるんだ?


 雅紀の両親や智花の友人たちが集まりだしたのは、そんな、太陽が昇り始めた明け方だった。
「智兄ちゃん!智花は!」
 人一倍大きな声で走り寄ってきたのは、小暮優里、智花の一番の親友だった。



 深夜の二時を回った頃だ、ベッド脇でスマホが大きく音を立てて鳴ったのは。
「優里、スマホ鳴ってる」
「ええ?」
 眠い目をこすりながら起きない優里の代わりに、スマホを俺は手にとった。
「智兄って表示されてるけど?」
「え?智兄ちゃん?なんでこんな時間に電話なんか?」
「知るかよ。早く出ろよ」
 それほど大きくないベッドの上で、俺に乗っかるようにして優里は体を起こした。
「痛ぇなあ、もう」
「ごめんって。・・・もしもし?」
 目が覚めたので、電話をしている優里を部屋に残して俺はキッチンに向かった。水を飲もうとグラスを手にとった。そしたら、大きな叫び声がした。
「嘘でしょ!?」
 優里の声が変だ。慌ててる。
「智兄ちゃん、こんな時間にそんな冗談やめてよ」
 不安そうなその声を聞きながら、グラスに水を入れると俺は寝室に戻った。グッと一気にグラスの水を飲む。目の前には大きく目を見開きながら電話をする優里がいる。
「どうした?優里」
 俺の問いかけには答えず、優里はそのままベッドから立ち上がるとリビングに走っていった。それを俺も追いかけた。メモだ、メモを取るために優里は部屋を移動したのだ。そして電話越しに伝えられた内容を必死で書き留めていた。
「どうしよう、潤」
「どしたの?」
「智花が事故にあったって」
「事故?」
「亡くなったっていうの・・・」
「亡くなった?」
「病院行く」
「どこ?」
「鎌ケ谷の総合病院」
「ちょっとかかるな。すぐ着替えて。俺も行くよ」



 車はそこそこ飛ばした。助手席で不安そうに優里はずっと泣きそうな顔をしてじっとしてなかった。外を見たり、バッグの持ち手を持つ手に力を込めたり。シートに座り直して、また連絡がないかスマホを覗き込む。車の中は無音だった。音楽なんて聴いてる場合でもない。うっすらと明るくなる外の景色が朝を告げる。
「大丈夫だよ、きっと何かの間違いだよ」
「うん」
 そう言い合っていた俺たちの望みはあっさりと砕かれた。着いた病院で智花ちゃんの兄の居場所を聞くとそこに向かった。ちょっとした待合みたいなカフェスペースで肩を落とすように椅子に座っていた。
「智兄ちゃん!智花は!」
 俺を置いてまず優里が駆け出した。それを俺も追った。他にもう一人、あ、知ってるこの人。逢ったことがある。たしか智花ちゃんの婚約者だ。
「優里ちゃん・・・」
 力のない声で優里の呼びかけに応えると、智さんはその場に立ち上がった。かと思ったらすぐに崩れるように座り込んだ。慌ててそれを俺は支えた。
「この人は?」
「私の彼氏だよ、潤くんだよ」
「ああ、結婚するっていう。どうも」
「あ、どうも」
 逢ったことはあるのに、もう俺を認識できないくらい疲れている感じだった。
「智兄ちゃん、智花は?どこ?無事なんでしょ?」
「今、うちに帰る準備してるよ」
「そうなの?よかった。帰れるんだ?入院しなくていいのね?」
「入院?何言ってんの優里ちゃん。死んだんだよ。今葬儀屋の人たちが一度家に連れて帰るからって準備してくれてる」
「葬儀屋?嘘でしょ?ほんとに、智花は死んじゃったの?」
「そうだよ」
 その後少し間を置いて、優里の大きな叫び声がそのフロアに響いた。
「いやぁーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 泣き崩れる優里を支えるのに必死だった。人の死ってそんな簡単に訪れるのかよ。不思議だった、だって俺たちはまだ変わり果てた姿の智花ちゃんに逢ってないんだから。



「もしもし・・・。あ、橘です」
「お、どうした?もう仕事始まってるぞ」
「すみません、今日休みます」
 かろうじて頭の中の整理がつき始めて、僕は智花の自宅から会社に電話を入れた。兄の智さんと一緒に智花の自宅に戻っていた。僕の両親も一緒だった。通夜の準備が始まるまで、遺体ってものは一度自宅に戻ってもいいんだってさ。智さんの希望で智花は一度家に戻った。
「休むってどうした?具合でも悪いのか」
「すみません、智花が・・・。あ、結婚する予定だった人が事故で亡くなって」
「は?何言ってんだ」
「今夜が通夜で明日葬式になります。それと、できればあと二日くらい、時間もらえませんか?休ませて欲しいんです」
「ええ?橘、本当なのか?披露宴一週間後だろ?」
「はい。出席してくださるって返事貰ってたのに、祝辞までお願いしてたのに、申し訳ありません」
「申し訳ありませんって、おい。大丈夫か?お前は」
「大丈夫ですよ。意外と、冷静です。今は」
「ああ、とにかく休みの届けは出しておく。まだ籍を入れてないから親族扱いにならない。服喪休暇は無理だから有給休暇でいいか?」
「なんでもいいです、課長にお任せします。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「いい、いい。あと、もしわかるようだったらいろいろ、葬儀の場所とか教えておいてくれ。それとまず、気をしっかりな、橘」
「はい。ありがとうございます。場所はまた、折り返し連絡入れます。聞いておきます」

 そっか、披露宴。結婚式、するんだったな、僕たち。

 横たわる智花の傍に座り、腕にそっと触れてみる。もうすっかり固くなっている。柔らかいはずなのに、智花の肌は。
 近所の人たちもざわめきながら訪れ始めた。
「何かあったら声かけてね、たったふたりの兄妹だったのにねえ。智くん」
 泣き声混じりのそんな言葉が玄関のほうから聞こえてくる。兄妹のことを子供の頃から知っている近所の人たちだろう。親戚が数名と智花の友人と、家の中はそこそこ人がいた。
「大丈夫ですか?」
 声をかけてくれたのは優里ちゃんの彼氏だった。
「あ、はい。ありがとうございます」
「何かあったら、出来ることあれば言ってください」
「あ、でも。あなたも仕事・・・」
「休みました、俺も。優里がそれどころじゃないって感じだし」
「そう、ですか」
 話をしていると母が僕に声をかけた。
「雅紀、ちょっと」
「なに?」
 廊下に呼び出されて僕と母は廊下の隅でこっそり話をした。
「結婚式場に連絡入れなきゃいけないでしょう?親戚やら出席していただく予定だった人たちに。まぁそちらは私たちが連絡入れていくから、式場には早くキャンセルの電話を入れておいたほうがいいわ。あちらも準備してくださってるだろうし」
「あぁ、そうだね。いろいろあるんだね」
「昨夜の今日だからと思うけど、さすがに式場は、もう一週間ないから」
「うん、わかった」
「母さんが電話入れておこうか?」
「いや、いいよ。自分でする。僕たちのことだから。ありがとう」



「ただいま」
 俺が家に帰ったのは空が明るくなる頃だった。目撃者ってことで、現場検証に少しだけ立ち会って。状況をまた警察署でも説明して、そこからの帰宅だった。
「あ、すみませんでした、静音のことお願いして」
 出迎えてくれた静音のお母さんに一礼した。
「いいのいいの。それより長かったわね、大きな事故だったみたいだし」
「はい、俺もあんな事故見たの初めてです。まあしょっちゅうあっても困りますけど」
「すごかったもの、消防車のサイレンがずっとね。少し離れてるのにここまで聞こえてくるほどだからよほどひどい事故だったんでしょう?」
「正直ちょっと怖かったです。よく冷静に電話なんて出来たなって自分でも思います。あ、それより静音は?」
「実はね、あれからずっと震えてて。少し前に寝たとこ。父さんと一緒に」
「そうですか。ずっと震えていたからちょっと心配で」
「あなたも少し休みなさいよ」
「ありがとうございます」
 事故を見たからといって、静音は直接状況を見たわけでもないし。離れたところで待たせていたし、大丈夫だと思っていたのに意外にも彼女のショックは大きかった。
「きゃぁ!」
 大きな叫び声で目が覚めた。
「静音?」
 ベッドでやはりまた、震えていた。小刻みに。寒いからとかそういうレベルの震えではない。
「大丈夫?どうした?」
「燃えてる」
「え?」
「燃えてる」
「大丈夫。もう火は消えたから」
「でも、カズが」
「俺?」
「炎の中に」
「ほら、ここにいるでしょ?俺だれ?」
「カ・・・ズ」
「ね?いるでしょ?夢を見たんだよ。怖かったんだね」
 抱きしめると少し呼吸を落ち着かせる。だけどまた、震えだすんだ。

「やっぱり一度病院に連れて行きます」
「でも、仕事だろ?和也くん。俺たちが連れて行くよ」
「そう・・・ですか?お願いしてもいいですか?」
「さすがに仕事を休んでまで。ましてや私たち来てるんだから」
 静音の両親とそんな話をしていたら、静音が寝室から起きてきた。
「だめ」
「え?」
「車に乗っちゃだめ」
「何言ってんの?」
「死んじゃうからだめ。車は燃えるから、だめ」
「大丈夫だよ、いつも乗って行ってるでしょう?」
「だめだよ。カズが死んじゃう」
 普段はわがままを言うような人じゃない。ましてや、もっとドスっと構えてるような人だ。それが、たった一夜の事故だけでこんなにも精神的に崩れるものなのか?不安がる静音を母親がそっとなだめるけれど、小さな子供みたいに言うことをきかない。
「じゃあ、一緒に乗ってく?病院俺と行く?運転するから」
「いや。車はいや」
「でも病院行くには何か乗り物を利用しなきゃねえ」
「電車で行く。だからカズも電車で仕事に行って」
「無理だよ、仕事には車必要だから」
「だめ」
「ねえ、静音。大丈夫。俺は死なない。ずっとそばにいるから」
「ほんとに?」
「ほんとのほんと。なんならいつもより早く仕事終わらせて帰ってくるから」
「ぜったいだよ?」
「わかってるって。あ、今日は静音お願いしてもいいですか?」
 その日は静音の両親に静音のことをお願いしていつもどおり車で仕事に出た。だけど本当のところ、さすがに俺自身も、実は運転するのが怖かったんだ。



 結婚式場に電話を入れた。昼過ぎのことだ。一度自宅に戻って資料を探して、担当の男性はたまたま不在で別の人が電話に出た。
「あの、すみません。次の日曜に結婚式の予約を入れてあった橘ですけど」
「あぁ、ありがとうございます。どうかなさいましたか?」
「ひじょうに申し訳ないんですが、今からキャンセルってできますか?」
「キャンセル・・・ですか?」
「はい。急で申し訳ないんですけど」
「次の・・・日曜ですよね?」
「はい。そうです」
「さすがにちょっと。どうかなさったんですか?」
「ちょっと式をあげられなくなりまして」
「はあ。お客さまのご都合となりますと、一週間をきっておりますのでキャンセル料として式のご予算から八十%をお支払いいただくことになりますが。それに、たぶんいくつか準備しております引き出物等の料金もいただくことになりますが、よろしいですか?」
「それって、どのくらいになりますか?」
「そうですね、ちょっと今すぐには。担当の者が帰ってきましたら計算させてまた折り返し連絡させてもらいます。それでよろしいでしょうか?」
「わかりました、お願いします」
 電話を切った。ブライダルのパンフレットや手続きの用紙が散乱している。実は昨夜、智花が帰る寸前までこの部屋で、ふたりで結婚式の最終確認をしていたのだ。楽しみだねって言いながら。そんなことを何げに思い出してしまう。まだ二十四時間も経ってないんだよ?智花。考えるとまた涙が溢れてくる。止まらない。止まらないんだ。ベッドにうずくまるようにして泣いた。声を出して泣いたのなんて、初めてじゃないだろうか。
 ブライダルの担当の人から電話があった。泣いて泣いて、泣きつかれた頃だ。鼻をぐずぐずさせながら電話に出た。
「小手川です。この度は不在でご迷惑をおかけしました」
「あぁ、お手数おかけします、橘です」
「あの、キャンセル・・・とのことですが。何かこちら側に失礼なことでもありましたでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは」
「そうですか。急だったのでびっくりしてしまって。失礼ながら、キャンセルの理由などお聞かせいただいても大丈夫ですか?」
「あ。・・・あの」
「はい」
「彼女が、亡くなりました」
「え?」
「昨夜、事故で」
「え?冗談ですよね?」
「いえ。本当です。それで、結婚式をする必要がなくなったので」
「橘さん、あの・・・。嘘ですよね」
「残念ながら。今夜が、通夜です」
「そんな。もう、あと数日で結婚式だったのに」
「はい」
 小手川さんが僕以上に悔しそうな声で話すのでまた僕は電話越しに泣いてしまった。電話の向こうでただじっと僕の泣き声を聞いている小手川さんの優しさに甘えて。



「え?どうしてキャンセル料いただくんですか?だって新婦が亡くなられたんですよ?」
「亡くなろうがどうしようが、式をキャンセルするってことはそのキャンセル料が発生する。お前も契約をした時にそう説明しただろう?」
「しました。しましたけど、これは普通に破局になったとかそういうのとは違いますよね?亡くなられたんですよ?もういないんですよ?」
「だったらなんだ。ここは金融機関じゃないぞ?死んだら払わなくてもいいって決まりはない」
「でも、そんなのおかしくないですか?」
「おかしいかおかしくないかじゃない。客とこちら側との決まりだ、契約内容だ」
「だったら変えてくださいよ!法律だって協議すれば変えられるものです。この契約内容も変えてください」
「俺にそんな力があると思うか?どうしても変えたいなら自分でトップの人間にでも立て。そして変えろ」
 そう言い捨てて、上司は席を外した。
「なんでだよ。相手の方が亡くなられたのに。式ができないのに金を取るって、そんなのおかしいだろ」
 納得がいかなかった。今までにも何組か結婚式の担当はさせてもらった。だけどこんなケースは初めてだった。とにかく通夜には参列したいと思って、早めにあがらせてもらった。あがれるだけの早さで仕事を終わらせた。誰にも文句言わせない。できることはやる。そう決めて通夜の会場に向かった。



 智花の通夜は六時から始まった。智さんは親族席の一番前で、参列する人に都度一礼していた。僕もここに座って欲しいと言われたけれど、あえて親族席には座らなかった。まだ僕は正式に夫ではないから。そしてやっぱり、あそこに気丈に座ってられるわけでもなかった。会場の後ろの方に座っていた。
「橘さん」
 声をかけられて振り返ると、そこにいたのは小手川さんだった。
「え?どうしたんですか?」
「わたしも参列させていただこうと思いまして」
「そうですか。わざわざありがとうございます」
 僕に挨拶をすると、小手川さんは祭壇の写真を眺めた。
「素敵な写真ですね」
「はい。智花そのままって感じがします。満面の笑顔で」
「事故のこと、きちんと聞きました。大きな事故だったそうで」
「はい」
「お別れしてきます。そのあとで少し、お時間ありますか?」
「わかりました」
 小手川さんは僕に一礼すると、前の方へと歩いて行った。
 こんな風に、たくさんの人が順に訪れる。たくさんの人に好かれてたからなあ。そこそこ大きな会場なのに、人でいっぱいだ。
だけど時々、嫌な情報も入ってくる。
「事故でトラックの運転手も死んだんでしょ?結局のところ、どっちが悪いの?」
「トラックの運転手の居眠り運転らしいよ。ひどい雨だったしね、昨夜」
「うわあ、もう運がないとしか言い様がないよね。滅多に車がすれ違うこともないような道だよ?あそこ。よりによってそんなタイミングで。ねえ」
 聞きたくない、そんなの。誰が悪いとか。智さんも自分が悪いとか言ってたけど。誰かを恨んだって、もう智花は帰ってこないんだから。トラックの運転手が居眠り運転してたって?生きてるんならそいつを殺してやりたいよ。だけど殺してやることもできない。そいつだって死んだんだ。僕は何よりそれが辛いんだ。文句さえも言えない。
 そうこうしていると小手川さんが僕のもとに戻ってきた。
「じゃあ、少し。いいですか?」
 葬儀会場の表で、人の少ない場所を選んで向かい合った。

「この度はご愁傷様でした。おふたりが初めてわたくしどもの受付に来ていただいた日のことを思い返されます。すごく仲がよろしくて」
「そう、でしたか?」
「ええ。私はまだ独り身なので、羨ましかったです。なんだか」
「そんな」
「私は、あなたの力になりたかった」
「え?」
「悲しい状況の中で、キャンセルの電話を入れるのは辛かったと思います」
 小手川さんは真剣な表情で僕の顔をじっと見ていた。こちらまで息が止まりそうなくらい真剣だった。
「なのに、キャンセル料がどうの、引き出物の料金がどうの。そういう話しかできなかった我社に嫌悪感さえ抱かれます。だけど」
「だけど?」
「私の力では何もできませんでした」
「何もってそんな、こうやって来てくださったじゃないですか?」
「いえ。少しでも負担を減らせられたらといろいろ試みてみましたが、どれも上司に納得してもらえなかった。だけどそんなのおかしい。私は人して、最後までおふたりを見守りたい。担当させてもらったのはご縁だと毎回思って関わらせてもらってますから」
「そんな、いいんですよ。突然キャンセル入れたのは僕のほうなんですから。仕方ないです」
「でも、それじゃ私の気がすまないんです。私に出来ることがあればなんでもおっしゃってください。力になりたいんです」
「そう・・・言われても」
「せめて何か。智花さんが最後に喜んでもらえそうなこととか、ないですか?」
「喜ぶ?智花が?」
 なんだろう。そんなの急に聞かれたってわからない。
 その時にちょうど、葬儀会場に運ばれてきた花があった。目に入ったんだ。それが。
「ブーケ」
「ブーケ?」
「智花が発注していたブーケ。少し早いですけど、明日もらうことできませんか?」
「明日ですか?」
「はい。葬儀の時に持たせてやりたいんです。無理ですか?」
「もともと、日曜に合わせて花屋に依頼してあったので・・・どうかな」
「どうにかなりませんか?最後にあれを持たせてやりたい」
 どうしてだか僕は、何度か打ち合わせでしか逢ったことのないこの男性に、無理なお願いをしていた。力になりたいと真剣に言ってくれたからなのかわからないけれど、どうしても最後に叶えたいと思った。祭壇の写真のように、この世を旅立つ君が笑えるように。



「精神的不安定?」
「一時的なものだろうとは先生もおっしゃってくれてるけど・・・」
「けど?なんですか?」
「静音ね、妊娠してるみたい」
「え?妊娠?聞いてないですよ?」
「本人も知らなかったみたい。病院で調べてもらってわかったの」
 病院から帰ってすぐに静音は眠ってしまったらしい。いつもより早く仕事から帰宅した俺を待っていたのは静音の両親だった。
「このまま不安定な状況が続くと流産の可能性もあるって、先生が」
「え?そんな」
「よほどショックだったんだろう、事故現場に居合わせたってことが」
「で、どうしたらいいですか?」
「やっぱり、思い出さないような環境が大事みたい」
「思い出さない?それ難しいですよね。うちは事故現場からすぐですよ?」
 今夜も、警察から連絡をもらっていた。近くで昨日亡くなった軽自動車の女性のほうの通夜があるとかで。行くか悩んでいた。近所に住んでると言っても直接知ってるわけではない。だけど、かと言って昨日の事故に居合わせたことで他人事とも思えない。そんな中行こうと決心させたのは、静音の状態だった。つまらない理由かと言われるかもしれないけれど、亡くなったその人を供養することで、静音も少しは落ち着けるんじゃないかって。俺は警察から教えてもらった場所へ向かった。
 思った以上に人はいた。受付を済ますと中に入っていく。その時初めて写真を見た、昨夜亡くなった女性の。笑顔の写真だった。長い髪が少し風になびいている感じの写真。たくさんの白いユリの花に囲まれていた。一番前に居る男性が昨日助かった男性だろう。頭にまだ包帯を巻いていた。並んでいる列を少しずつ進み順番が来ると手を合わせた。そしたら横から声がしたんだ。
「あっ」
 え?と思って振り向くと、包帯の男性が立ち上がっていた。
「昨日の、人ですよね」
「え?覚えて、ます?」
「はい」
 何も言えなかった。実はこの場所に来て初めて思った。手を合わせて亡くなった女性の写真を見て心苦しくなっていた。
 俺は、静音のことばかり考えていた。この人のこと、亡くなった人のこと、何も考えてなかった。あの時俺は、助けてくれって言われたんだ、この人に。確かに電話をかけた。救急車と消防車と、すぐに駆けつけた。俺がいなかったら周りには誰もいなかったから、通報はもっと遅れたはずだ。だけどなんだろう。この罪悪感は。
 そのまま俺は、頭を大きく下げた。
「え?」
 包帯の男性は逆に驚いたようにして、俺の肩に手をかけた。
「なんですか?」
「すみません。ごめんなさい。助けてください、って。昨日あなたそう言ったのに。俺何も出来なかった。奥でぐったりしているこの女性見えたのに、手を貸さなかった」
「え?でも救急車呼んでくれたじゃないですか?何もしてないってわけじゃない」
「いやでも。車から引きずり出せてたら助かってたかもしれない」
「あの後すぐにトラックが爆発した。もしかしたらあなたも死んでたかもしれない。あれが精一杯ですよ」
 俺の肩に添えられた男性の手は温かかった。たぶんそのせいだ、涙が溢れて、俺は顔を少しの間あげられなかった。



 通夜から帰っても優里はずっと泣いていた。亡くなった智花ちゃんと優里は中学からの親友だと聞いてる。智兄ちゃんが一人になってしまうから一緒に会場に残ると言い出したが、連れて帰ってきた。一人になってしまうからこそ、話したいことが兄妹の間であるかもしれないからと。
 ろくに食事も取らないから簡単な野菜ジュースを作った。
「ほら、体調崩して明日の葬儀に出れないと困るだろ?」
「けど、欲しくない」
「わかるけど。これぐらいは飲んで。明日が最後なんだから、智花ちゃんに逢えるの」
 その言葉がカンに障ったのか、優里はジュースの入ったグラスを手で払いのけた。グラスが床に落ち、ガラスの破片とジュースの中身がリビングに散乱した。
「わかってるよ!そんなこと。何度も言わないで!最後最後って!」
 俺はこんな時何もしてやれない。暴れるように俺の胸を叩く優里を思い切り抱きしめた。
「動かないで。ガラスの破片があちこち飛んでる。踏んだら怪我するよ」
「いいよ、怪我ぐらい。智花に比べたらそんなことぐらい」
「ダメだよ。俺が困るよ。三週間したら、俺たちも結婚式あげるんだよ?」
「俺たちもって。智花はダメになったじゃない。もう式は目前だったのに、できないまま天国に行っちゃったんだよ?」
「悲しいね」
「悲しいで片付けられないよ。お互い結婚式には出席したいからって、わざわざ少し日をずらして。智花のほうがプロポーズが先だったからあっちが先で。じゃあ私がそのあとでって。すごく楽しみにしてたのに」
「そうだね」
「なんでそんなに潤は冷静なの?自分の親友が死んだんだよ?」
「わかってる。わかってるけど。そうやって怒ったって誰も喜ばないでしょ?」
「え?」
「確かに、悔しいよ。こんなタイミングで事故なんて。だけどね、だからこそさ、一番悔しいはずなのは智花ちゃんだってわかってる優里がさ、いつまでも怒って、泣いて、彼女を笑顔で送ってやれないのはダメだと思う、俺。」
 優里は、泣きながら俺の体に回した手に力を込めた。
「だったらどうしたらいいの?私。」
「明日は泣いてもいいから、笑顔で智花ちゃんを送ろう?そんで、結婚式はそのまま、予定通りあげる。」
「え?少し、日をずらそうよ。延期にしようよ。」
「だめ。俺たちが幸せになるってことが、少しでも彼女を笑顔にできるんだと思うんだ。一番の親友だった優里のこと、智花ちゃんは祝ってくれる。きっと。」
「そうかな?」
「そうだよ。幸せにならないと。彼女の分もさ」
 その後俺たちは散らかったガラスとジュースを片付けて、きちんといつも通り食事を取った。あまり欲しくないと言いながら、優里もちゃんと食べた。うん。これでいい。俺たちは生きてるんだから。



 まだ暗い時間にアラームが鳴る。いつもなら鳴らない時間だ。わざとセットした朝の三時前、アラームを止めると急いで顔を洗った。この時間でも遅いぐらいかもしれない。
 昨夜取引先の生花店に電話を入れた。
「え?日曜の予定のブーケを明日にですか?そんなの無理ですよ」
「そこをなんとか。お願いできませんか。どうしても必要なんです。」
「あのブーケはグリーンがメインの花を使っていて、予め注文を入れておかないとなかなかすぐに手に入らないんです」
「あぁ、これかあ。バラですよね?」
 手元のパンフレット、三窪さまが発注されていたブーケの写真に大きく丸をつけてあった。まさにメインは淡いグリーンのバラだ。
「そうそう、それがねえ、すぐに手に入るかわからないんですよね」
「このバラを見つけたら、あとはなんとかなりますか?」
「そうですね、あとは葉物だから探そうと思えばなんとか。」
「明日朝から市場をあたってみます。東京近郊で行ける範囲の生花卸市場全部教えてもらえますか?」
 メモした生花市場を回れるだけ回る。葬儀は十一時からだから、九時頃までに生花店に持ち込まなければブーケにはならない。葬儀場へ届ける時間も必要だからだ。上司に話したらきっと怒られるだろう。きっと誰からも、そこまでやる必要はないと言われるに違いない。だけどこれは、今回は、会社は関係ない。個人的に俺が受けた仕事だ。ウエディングプランナーとして最後までふたりを見守ると決めた。女性が多い職業だけど、あえて男の俺を選んでくださったおふたりを、最後まで。



 葬儀会場には、昨日ほどではないけれど、そこそこ人が集まっていた。最後のお別れ。まだ若い故人であるからゆえか、集まる人も若い人が多い。時間になればみんなで火葬場へ移動する。その時刻が迫っている時、雅紀はふと自分を呼ぶ声に反応した。
「橘さま!遅くなりました」
「小手川さん」
「これ、お持ちしました」
 大きな白い箱を持って息を切らしている。走ってきたんだろう。
「これって、もしかして」
「お持ちしました。承っておりましたブーケでございます」
 僕はその箱を受け取ると、空いている椅子にそれを置いた。三十センチ四方ほどの、ホールケーキを入れるような箱だ。僕はその蓋をそっと持ち上げた。何名か、気づいた人たちがこっちを見ていた。智さんもゆっくりと歩いてきた。
「雅紀、どうかした?」
「これ、最後に智花に持たせてやってもいいですか?」
 その箱から僕はブーケをゆっくりと取り出した。
「ブーケ?」
「はい。結婚式で智花が使う予定だったものです。こちら式場の小手川さん、今回のことを知って、今日に合わせて準備してくださったんです。小手川さん、こちら智花のお兄さんです」
「はじめまして、この度はご愁傷様です。わたくしどもには何もできませんが、橘さまからこちらの依頼を受けましてお持ちしました。ぜひ妹さまに」
 僕がそのブーケを差し出すと智さんは泣き出した。でも笑顔だった。
「これ、俺が智花に渡してもいいか?」
「いいですよ」
「結婚式、やらせてやりたかったなあ。親父がいないからさ、俺が一緒にバージンロードを歩く予定だったんだ」
 そう言って智さんはブーケを受け取ると、ゆっくりと智花の方に歩き出した。優里ちゃんが僕のところに寄ってきて、思い切り泣いていた。けど笑顔でこう言った。
「ありがとう雅紀くん。智花は幸せだね」
「喜んでくれてると思う?」
「うん。ぜったい!」
 もう一度お礼を言おうと振り向くと、そこに小手川さんの姿はなかった。
「あれ?小手川さん知りませんか?このブーケを持ってきてくれた人」
 会場の外に出たらそこに小手川さんの姿があった。入口のすぐそばに止めてあった車に乗ろうとしているところだった。
「小手川さん!」
 呼ぶと小手川さんはスっと顔を上げた。
「まだいてくださいよ。なんでそんなに急ぐんですか?」
「私はこのあとまだ仕事がありまして」
「そうなんですか?無理を言ってすみませんでした」
「いえ、最後に皆様の笑顔が見れてよかったです。こちらこそ、感謝しています。ありがとうございました」
「そんな、小手川さんに感謝するのは僕たちのほうです。ありがとうございました」
「それでは、私はこれで失礼します」
 車に乗り込んでドアを閉めると、すぐにエンジンがかけられた。車の中越しにもう一度頭を下げた小手川さんに、僕は精一杯の一礼をした。車が見えなくなるまで。



 三週間なんてのはあっという間だ。普通の生活、いつもと変わらない毎日。仕事も四日だけ休んですぐに戻った。みんなには心配されたけど、優しく笑顔でお礼が言えるようになった。きっとね、僕の周りにいる人たちのおかげだ。
 そして今日は優里ちゃんの結婚式だった。喪中だからと言いながら智さんと、そして僕も結婚式に出席した。本来、三人で出席する予定だったものだ、行かなきゃきっと智花に叱られる。そう言って昨日は智さんと笑いながら酒を飲んだ。
 とても素敵な結婚式だった。僕たちも、こんな風に祝福してもらえたのかな。考えると悲しくなるけど、それ以上に幸せな場所に居られる自分に涙が出てくる。
「ごめんなさい。あの夜から僕、涙の止め方がわからなくなってしまいました。なんか一気に涙もろくなったみたいだ。ほんと、誰のせいでしょうね」
 そう言うと隣で智さんも泣いていた。
「俺もだよ。ほんと、誰のせいだろうね。困るよもう」



 その頃小手川さんは、結婚予定のカップルを新しく受け持つことになり挨拶をしていた。
「心を込めて、最後の最後までおふたりを見守らせていただきます。わたくし担当させていただきます、小手川です。よろしくお願いします」
「実はね、ウエディングプランナーなんてのは女性の方がいいんじゃ?って彼女に聞いたら、彼女のほうから小手川さんにお願いしたいって言われたんです」
 カップルの男性がそう言いながら彼女の方を見る。
「そうなんですか?嬉しいお話ですが、またそれは何故でしょうか?差し支えなければお伺いしてもいいですか?」
「口コミ、みたいな感じですかね。ほんとに最後まで丁寧に対応してくれる男性のウエディングプランナーがいるって聞いて。調べたらこの式場の小手川さんでした」
「え?そんなのどこで調べるんですか?」
「インターネットで。とても感動させられたって書いてる男性の方がいて」
「へえ、そうなんですか?嬉しいです。ご期待に答えられるよう頑張らせていただきます。では、こちらへどうぞ」
 そう言ってカップルを式場の中へと案内した。



「静音、準備できた?」
「うん。お待たせ。ほんとにいいの?買い物付き合ってもらって。カズ人混み嫌いなくせに」
「いいよ。いいって言ってんだから。そう言ってる間に行かなきゃ気が変わっちゃうかもしれないよ?」
「うん。行く、けどさ。カズとららぽーとなんて初めてだよね」
「え?そうだっけ?」
「そうだよ」
「それより車本当に大丈夫?もちろん俺は安全運転するし、大丈夫な自信はあるけど」
「うん。子供できたら車乗らないなんて言ってられないし。大丈夫、だいぶ落ち着いてきたから」
「うん。でも怖くなったらすぐ言って」
「大丈夫だよ。だってカズは死なないもん。ずっとそばにいてくれるんでしょ?」
 俺はそっと微笑んで答えた。
「いるよ、もちろん。当たり前でしょ。さ、行こう」



 君が笑えるように。
 僕たちはみんな、いつでも、そんな一瞬のために泣いたり笑ったりしてる。例えどんな出来事が僕たちを襲っても、大丈夫。いつでもそこに大きな虹はかかるから。

君が笑えるように

重複掲載 : 魔法のiらんど

君が笑えるように

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-19

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