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電車で正面に座った男のひとが爪を噛んでいて気持ち悪かった。だけど、彼には彼なりの事情があって、それをしながらも生きていかなければならない何かがあったのだと思った。わたしは、弱いひとや悲しいひとの弱さや悲しみにいつも気づいてしまう。そのひとたちの笑顔で分かる。「わたしは笑ってるけどしあわせじゃないのよ。上手に笑ってるのよ。」という憂いが含まれた笑顔だから。わたしはそれに気づいたとき、自分でもはっとするくらいやさしい気持ちになる。一緒に頑張りましょうと言う訳でも、話を聞きますと言う訳でもなく、ただ、わたしも同じ穴に嵌まっています、と言う憂いを込めた表情で見守る。わたしがするのはそこまで。
「助け合い」「愛し合い」と一見美しく健全な言葉に見えてもここにも裏切りはあるし、永遠はどこにもない。それがわたしは怖い。優しさ、可愛さ、愛おしさから始まった感情から、恨み、妬み、驕りなどの感情が知らないうちに存在することに恐怖を感じる。だからわたしはきっと恋をしないし誰かを愛することもない。わたしの思い描く愛がこの世に存在しないことはもう知っている。
だからわたしはあの雨の日も、悲しいひとを見守るときと同じようなやさしい気持ちで彼の背中を見ていた。

梅雨入りがニュースで報道された。
わたしは朝からあまり具合が良くなく、できることなら雨音を聴きながら一生眠りたいと思った。それでも制服を着て、勉強なんてまっぴらごめんなのでお気に入りの小説とビニール傘だけを持って学校に行った。

国語の授業中、教科書も開かず黙々と小説を読んでいるわたしの元に教師が歩いてきた。文章の読み方に変な癖のある教師でわたしはすごく嫌いだったけれど、わたしの読んでいる本に興味があるらしく、手の中の小説をグッと掴んでクラス全員に聞こえる声で言った。
「はぁーっ、山本さん太宰治なんて読むのねぇ。感心感心。みんな知ってるかしらね、太宰治ってかなり二枚目でねぇ、とっても女にもてた小説家だったのよ。まあでもそのせいで何度も女と心中を図って生き残ったりねぇ、最終的にはぼろぼろになったひとだから、内容はかなり暗くて難しいかもねぇ。あっ、どうも失礼山本さん。あなたね、文学に励むのは素晴らしいことだけど、16歳の女の子だったら国語の教科書に載ってる話でも充分楽しめるわよ。ね。」

小説をわたしの手の中に戻しながらその教師はわたしの机に予備の教科書を置き、すたすた教壇に戻って行った。
他の生徒たちはみんなわたしの方を振り返ったり友達と顔を見合わせたりして、「心中だってー!こっわ。」「心中をってなにー?」「すきなひとと自殺すること!」「えー陰気ー、やっぱあの子暗いよねー。」
などとひそひそ言っていた。
隣の席の鈴原朝日を除いてはみんな。

そしてその日の帰り道、校門を出たところで彼を見つけた。
彼は傘もささず、だからと言って頭に上着をかけたり鞄で覆ったり走ったりすることなく、いつも通りのペースで雨の中を歩き始めた。きれい。雨は彼の味方なんだと思った。初めて神様を見た気がした。

彼の後ろをわたしは傘をさして歩く。
雨は好き。優しくて静かな気持ちになるし辺りが暗くなるから。
普通の優しい女の子だったら、こういう時「一緒に入る?」とかって言うのかもしれないけどわたしには言えない。
イヤホンから聴こえてくる音楽がドビュッシーの喜びの島になった時、彼が振り向いてこっちに向かって歩いてきた。こわい。殴られる?怒られる?
わたしはいつも物事を最悪の状態にして考える癖がある。
受験したときはぜんぶ落ちてると思ったし、男と二人きりになれば犯されると思う。お年寄りと一緒にいれば、このひとはいまから泡を吹いて倒れて床をのたうちまわるんだと思う。でも結局それは杞憂に過ぎない場合が多いから、わたしは安心する。
期待して裏切られるより、最初から疑うほうが楽に決まってる。

「777歩」
抑揚のない超えで彼は言った。
「なにー。」
「だから、777歩。今日歩いた歩数。」
「………ラッキーセブン。」
「当たり。」

仏教もキリスト教も赤い糸も都市伝説も信じないけれど、なぜかラッキーセブンだけは好きなわたしのことを彼は見透かしたのだろうか。

「本が好きなんだね、音楽も。」
「あー、うん。すき。両方すき。」
「"はばむ道徳を、押しのけられませんか"?」
「ふふ、みてたの。」
「みてたよ。なのにきみは全然気がつかないから。」
「うん、ごめんね。あんまり他人に興味がないの。だからいまも、なんかなんて答えたり何を話せばいいのかわからなくて、うまく言葉が出てこなくて。」
「うん、いいよ。」

6月の雨。777の歩数計。透明のビニール傘。
わたしたちはもうこのとき既に、暗くて冷たい場所にいたのかもしれない。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-19

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