短変集
鏡の裏会社
ふわっと、身体が宙に舞う感覚。それはほんの数秒のことだったのだろうが、私にはそれが数時間にも思えた。走馬灯とはよく言ったもので、実際に体験してみると本当に様々な思い出が足早に通り過ぎていった。一昨日は私の誕生日だった。付き合って二年になる中野祐樹は時計をプレゼントしてくれた。前にデートで行ったショッピングモールで私が気に入った時計を覚えていたようだった。無口で不器用で、いつも人の話を聞いていないような彼が、少し照れたように渡してきた可愛いらしい時計。左腕に着けていたそれは、文字盤が割れて歪んでしまっていた。そういえば彼とは、今朝つまらないことで言い合いになってしまったんだった。こんなことになるなら、春香のことなんて気にしなければ良かった……。そこまで考えた所で、私の身体を強い衝撃が襲った。
「はい、結構です。ええと、品川綾さん。覚えてらっしゃるのはそこまでですね?」
「はい…これで全部、だと思います」
「うん、大いに結構。ここまではっきりと覚えている方も珍しい。大抵の人は、亡くなった時点でほとんど忘れちゃってるからね、生前のことは」
「はあ…そういうものなんですか」
私は今朝、信号無視をして横断歩道へ突っ込んできたトラックに撥ねられて、どうやら死んでしまったらしい。通勤ラッシュの時間帯に起きたこの事故で、亡くなったのは幸か不幸か、私一人だけだったそうだ。というのも全て、目の前に座っている「平野」と名乗るスーツ姿の男性から聞いたことだ。
私は、面接のようなものの最中だった。目が覚めるとこのごく一般的なオフィスのような場所にいて、オフィスカジュアルな装いの女性が、お茶と共に「あなたの資料です」といってプリントの束を置いて行った。今朝の事故はもしかしたら悪い夢だったのかもしれないと思ったが、プリントをめくっていくうちにどんどん蘇る事故の記憶と、死亡時刻やトラックの運転手のプロフィール、はたまた私が身につけていた下着のメーカーまでもが記された「資料」と、何より左腕のボロボロになった時計を見ると、どうやら私は本当に死んだらしいのだった。自分は死んだ。そんな実感もわかない間に平野が現れ、私は面接を受けていた。
「では品川さん、我が社を案内致しましょう。こちらへ」
平野に言われるがままに、私は後へ続いた。
平野の話をまとめると、人は亡くなった後次に生まれ変わるまで、それぞれ「待機期間」があるらしい。それは短くて数日、長ければ何十年、何百年にも及ぶ。大抵の人は、その期間を何もせずに過ごす。正確に言うと、ほとんどの人は生前の記憶も何もかも忘れてしまうため、ただただ空間を彷徨うのだそうだ。それが俗に浮遊霊などと言われることもあるが、本人達には何の意思も目的もないので、生きている人に害はない。しかし、ごく稀に記憶が残ったまま魂になってしまう人がいる。そこに目をつけたのが、この「会社」だった。
「記憶が残ったままだとね、たまに悪さしちゃう人とかいるんですよ。心霊写真なんかほとんどそれ。だから、どうせ意思がしっかりしてるなら、何もしないでいるより、生きていた頃みたいに生活してた方が気が紛れるでしょう?」
現に平野もその一人で、以前の上司に「スカウト」されたのだそうだ。当然だが、この会社で働く人たちはみんな世間的には死んだ人間だ。
「たまにね、自分が死んでるなんて忘れる時がありますよ。毎朝起きて仕事して、夜は部屋に帰って趣味の時間を過ごして。あ、うちは寮完備なんです。もちろん、休日もありますよ」
平野いわく、誰が始めたのかは知らないが、こういった「霊界ビジネス」のようなものはたくさんあって、なかなか競争も激しいらしい。そんな話を聞いていると、私も今朝死んだという事実が嘘のように思えてきたが、その度に腕時計の生々しさが現実を教えてくれた。
不思議と、悲しくはなかった。死んでしまったことに変わりはないし、今更どうしたって戻れるわけではないだろう。「早く孫の顔が見たい」と散々言っていた父さん母さんには悪いことをしたなあ。私がいなくなって悲しんでいるだろう。…祐樹は、どう思っているだろうか。
「あ、ここです、ここ。我が社のメインフロアです」
広い部屋だった。少なくとも100人以上はいるだろうか。とにかくたくさんの人が綺麗に壁に向かって並んでいた。しかし、みんな動きは様々で、じっと動かない人、何かを話している人、化粧をしているような動きの人もいた。よく見ると、壁にはパネルのようなものが埋め込まれており、そこにはまた、人が映っていた。
「あの、ここは?」
そう平野に尋ねると、平野は一緒ぽかんとした表情をしてから、「あ、そうだったそうだった」と照れ臭そうに笑った。
「失敬。まだ我が社の仕事の説明をしていませんでしたね。我が社は、鏡の裏会社(カンパニー)といいます」
「鏡の裏?」
「そのままの意味です。私達は鏡の裏…いや、中と言った方が分かりやすいかな?つまり、鏡の前に立つ人の動きを真似しているのです」
「動きを真似る?なぜそんなことをするんですか?」
「いやごもっとも、不思議に思われるのも無理はない。でもね、私達が動きを真似なければ、鏡も動かないんですよ。つまり、私達自身が鏡なんです」
「私達が…鏡、ですか?」
「鏡っていうのは不思議なものでね。私も生きている時は気付きもしなかった。…なあに、難しいことはありませんよ。ほんのちょっとずれたくらいじゃあ気付かれることはありません。それに…」
平野が、ひとつのパネルを指差した。
「四六時中、鏡に向かっている人なんていません。あちらからは見えることがないから、楽な仕事だと思いますよ」
そのパネルには、男性が映っていた。胸がざわつくのが分かった。見覚えのある部屋だった。
「本来なら、全く関係のない人の『担当』に付くのが大前提なのですが…なにぶん、うちも人が足りなくてね。『ごく稀に』、近い人の担当になることも、まぁ、ありますよ」
周りを見渡すと、先程は気付かなかったが、「担当」と呼ばれているであろう人達のには色々な表情が伺えた。笑っている者、つまらなそうな者、泣いている者…ひどく怒りを帯びている者。パネルに視線を戻す。ベッドに腰掛け項垂れている男性。他でもない、祐樹だった。誰かが部屋に入ってきた。隣に座り、背中に手を添える、女性。
「ところで品川さん、契約についてなんですが…」
平野の話を聞きながらも、私はパネルから目を離せずにいた。
「じゃあ、早速明日から。…よろしくお願いします、ね」
短変集