沖縄 その自立・独立の歩み(1)

1.新しい動き

台風シーズンが過ぎた10月下旬になっても、沖縄はまだまだ暑い日が続いている。日中の最高気温は夏日25度を越え、晴れた日には30度近くまで上がってしまう。亜熱帯に位置する沖縄にとっては当たり前のことで長い夏の終わりの毎年の風景である。毎年繰り返される季節の移ろいの中で生活している人々にとっては日々の暑さなど、話題になることもない日常に過ぎない。
今朝も晴れ上がった青い空から相変わらず強い日差しが、通勤途中の運転する車の窓越に顔を射てくる。沖縄県庁の財務企画課に勤める新垣聡は車のハンドルを握りながら今日一日の予定をあれこれ考えていた。この時期になると来年の予算案作りの最終段階で、調整の為あちこち庁内を走り回らなければならない。そして会議に追われて毎日が過ぎて行く。今日は膨れ上がる福祉関連予算の大幅カットを認めさせる為の重要な会議がセットされており、予想される混乱に沈んだ気持ちになる自分を懸命に励ましていた。現在、国も県も日本中のあらゆる町・村に至るまで高齢化に伴う年金増と医療費増、介護補助費用・生活補助費用・障害者支援費用等の増加が毎年減ること無く予算編成で膨れ上がり、増えない収入とのバランスを如何に調整するか担当部署はいつも胃が痛む思いをするのがこの時期なのである。沖縄では5年ほど前から予算のゼロベースでの見直し案作りが行われてきているが、結局は収入が増えない限り縮小均衡にならざるを得ない現状の中で、担当責任者である新垣には考える程に気が滅入ってしまうのである。収入減をどう支出を抑えて遣り繰りするか会議をいくら重ねても結局無いものはないし、削れるところは目一杯削っているので、最後の頼みは国からの一括交付金にならざるを得ない現実に無性に腹立たしく、朝の出勤途中の車の中では、無力感に落ち込んでしまう自分との葛藤になる。この悪循環は永々と過去から今日まで続いている言わば悪弊であった。その為国から引き出す支えを切らさぬよう霞ヶ関担当を東京に駐在させ、地元選出の国会議員と連絡しあって常に各省庁との関係を密にしてきた。新垣自身2年ほどその役割を勤めた東京での経験を持っていた。彼の後任が今も東京で情報収集に当たっているし、彼自身も秋から冬の予算シーズンには東京事務所からの要請で東京詣でを繰り返していた。沖縄の場合は他の県と違って米軍基地の普天間・嘉手納だけでなく、多くの米軍関連施設があり、日本の安全保障を左右する大きな問題が絡む為、比較的容易に財政援助は受けやすい環境にはあった。しかし近年の国の財政危機は2011年の東日本大震災以降急激に悪化が進み、消費税が5%から10%に上がった2015年後も一向に改善の見通しがたっていない。2020年以降、この補助金制度はほぼ破綻状況にあった。昔は霞ヶ関の権威と地方行政機関へのコントロールの象徴として機能していた省庁毎の分配方式は財源不足からほんの限られた地域にのみ配られるようになり、それに変わった一括交付金制度が細々と維持されているだけである。沖縄は日本の安全保障という特殊事情から、かろうじてまだ維持されているのが現状である。それでも年間3000億円程あった一括交付金と各省庁からのひも付き交付金、取分け防衛省関連の補助金は予算編成上不可欠のものとなっている。しかし、それも毎年減り続け、昨年と同じ1000億円を維持することすら難しくなりつつあった。沖縄県の年間予算額はおよそ5700億円でその内訳は県内からの地方税や県債・その他の収入が1700億円、国からの地方交付税や国庫の支出がほぼ半分の2800億円、これに振興策や一括交付金等等の1000億円を上乗せしても200億円程歳入不足になり、実に危うい財政バランスなのである。これまでも県としてIT企業やバイオ企業の誘致、地元産業の活性化の為いろいろと対策は講じられてきたが県財政を支える程の成果を得るに至っていない。結局年間500万人を越える観光客が落としていく観光関連産業からの収入に頼らざるを得ない現状が延々と続くことになってしまう。
しかし、今年は県内の雰囲気が例年と違ってかなり緊迫感が漂っていた。それはこの7月10日に台湾と中国の漁民10名ほどが尖閣諸島の中国名釣魚島に上陸し、頑丈なテントと大量の生活物資を運び込み占拠する事件が発生したからである。そしてこれをきっかけに今まで棚上げ論を主張してきた中国・台湾の両政府が敢然と自国の領土であると表明し、島を占拠している漁民を守る為排除しようとする日本の海上保安庁の動きに警告を発してきたのである。俄然緊迫する国際情勢の中で、穏便な解決を望む日本政府の驚きと焦りは目を覆うばかりで、対応に追われる外務省の右往左往と政治家の無能さばかりがクローズアップされ、日本中が暗澹たる気持ちにされていた。これがきっかけとなり内外からの沖縄への観光客が大幅に減ってしまったのである。7月・8月の一番の観光シーズンが例年の半分以下と激減し、沖縄の経済を支えるあらゆる業種にその影響が広がりつつあった。
こうした事態が起こりうることは大分前から指摘されてきた。2012年に日本政府が尖閣諸島の国有化宣言をおこなって以降、中国の海洋監視船が連日のように領海や領海への接続水域へ侵犯を繰り返し、中国の重大な確信的利益を犯すものとして対外活動を活発化させていた。海軍だけでなく空軍も加わり日本への挑発活動は少しずつエスカレートさせてきていたのでいずれ何らかの動きが出てくると予想されていた。
台湾漁民をサポートする中国と台湾の重火器を装備した巡視艦が日本との紛争衝突防止の名目で入れ替わり立ち代り島を周回し、日本の巡視艇の活動を実質的に抑止している。話がややこしくなっているのは普段仲の良くない台湾と中国の海軍同士が共同歩調を取っている事で、言わば領土問題では共同作戦で日本に対峙してゆく姿勢を鮮明にしていることである。今までは領土問題は棚上げにしておくことが大人の対応としてきた特に中国政府は、近年の国力上昇と軍備の拡張に伴い発言内容がはっきり変わってきた。歴史的に中国が内包する覇権的な性格が明確に表に出るようになってきたということなのだろう。自国の強大化と相対的な日本の弱体化の中で本音を隠す必要がなくなったと判断しているようである。中国と台湾の基本スタンスは歴史的に自分たちの領土であるという立場で共通しているところからこの問題については相手を排除しないというお互いの暗黙の了解がついているようである。話し合い解決を基本とする日本政府の外交戦略はもともと自分の領土であると主張する台湾・中国に通じるわけもなく、中国の棚上げ論に便乗し今日まで何もしなかった日本政府の無策も手伝って洋上での緊張感がもう3ヶ月以上続いていた。日本政府が頼りとする沖縄の米軍部隊は政府間の交渉を見守る姿勢のまま動かず、占拠の既成事実化が着々と積み上げられていた。国内世論は武器を持たない海上保安庁ではなく、海上自衛隊と共同した強制排除と領土の不法占拠者の逮捕を求める声の高まりは既に頂点に達していた。実力行使はもはや時間の問題となりつつある中、あくまで穏便な解決をもとめ、事を荒立てたくない政府は台湾漁民の自主的な退去を望みながらも海上自衛艦の護衛のもと、武力衝突なしで海上保安庁による逮捕をいつ決行するかその決断の時を計っていた。一番迷惑している沖縄の漁民とりわけ石垣島周辺の漁民の強い怒りは弱腰の日本政府だけでなく、見守るだけの駐留米軍と政府任せの県の対応にも向けられ、最早抑えきれない程のジレンマとなって沖縄県全体に不穏な空気を醸し出していた。

新垣は今年47歳になる企画課長である。大学卒業して直ぐ県庁に入り、今日まで財務企画畑一筋に堅実に仕事をこなしてきた。決して早くも無く遅くも無く、実に順調に昇進してきた、いわば県庁内エリートの一人である。中学の教員をしている妻・結衣と大学2年生の息子、高校3年生の娘がいる。学生時代、沖縄の歴史が知りたくて、経済学部の彼が琉球歴史研究会に入り1年後輩の文学部の女学生と知り合った。住んでいた所が近くであった偶然も重なり何時しか付き合うようになった。大学を卒業し県庁に入った後も付き合いは続き、彼女が中学の教員になって3年目にごく自然に二人は結婚した。共稼ぎの二人は忙しい職場に多くの時間を取られながらも上手く家庭との両立を図り、二人の子供に恵まれ、大きな喧嘩やトラブルもなく、ごく平凡な何処にでも見られる平和な公務員の家庭として今日まで過ごしてきた。
県の財政状況の厳しさは決して今年に限ったものではない。20年以上も前から同じような状況の厳しさは続いてきており、毎年その遣り繰りに頭を痛めてきた。昨年も今頃から恒例の東京詣を繰り返し、何とか地方交付金や補助金の確保に奔走し、前年並みの結果を得ている。予算獲得の為地元選出の国会議員の紹介で霞ヶ関の各省庁を廻り、夜は説明会と称して赤坂界隈の料亭で接待の毎日であった。効果も良く分からないまま従来からの慣習に従い、役人が役人を税金で持て成すという如何にも日本的な行為が新垣には何とも馴染めず、不快な思いを心の奥に溜め込んだまま、東京からの帰りの飛行機の座席に身を沈めることが多かった。
「何とかせんといかんな」「何時までも国頼みの予算編成では、沖縄に明日は無いのでは・・・」毎年予算編成にメドが立ち気持ちが一段落した時、漠然とした不安から心の奥で呟いてしまうが、忙しい毎日とどうすることも出来ない現実の中で気持ちは目の前の仕事の問題解決とその対応策に直ぐ切り替わってしまう。
今年もまた昨夜東京事務所から説明会設定の連絡が入り、明日には出張せねばならない。
沖縄近海での大騒ぎと緊迫度を増す国際関係をよそに日常の営みは相変わらず平平凡凡として10年前、20年前と少しも変わらなかった。
今日最後の福祉関連予算担当者会議でいつもの様に県の財務の窮状を縷々説明し、昨年並みの予算編成すら難しくなりつつある現状の理解を得るべく、各担当者を前に膨れ上がる予算要求を牽制し、ゼロべースからの見直しと新規要求・補助金のカットを強く申し渡し、多くの出席者の強い不満の視線を避けながら部屋を出た。会議に付き合っても良いと思ったが、出てくる切実な要望とそれに応えきれない現実はいつも同じで、冷たく突き放さざるを得ないいつもの自分の立場にいたたまれず、出張準備を理由に会議を中座したのである。時刻は夕方の5時近くになっていた。
自分の部屋に戻り、明日の出張準備に入ろうとした矢先、とんでもないニュースが飛び込んできた。膠着していた尖閣諸島の占有問題に業を煮やした沖縄の学生らしい若者5名と石垣島の漁民10名が小型の漁船3隻に乗って日本の巡視艇の停船命令を振り切って島に上陸したという。そして当然のことながら、上陸の際台湾の漁民との間で激しい衝突が起こり、双方に怪我人が多数出た模様である。台湾の漁民は棒の先端に鉤形の鉄のフックが付いた道具で上陸しようとした若者と日本の漁民に襲い掛かり頭や肩にかなり深い傷を負わせた模様である。混乱の制止に入った海上保安官にも多数怪我人が出ているようで、詳細は不明であるが、上陸した海上保安官は不法占拠の10名を身柄拘束できた模様という一報であった。ところがすぐ次に入ってきた情報に耳を疑った。予想外の事態が発生したようで現場上空で取材していた報道関係者によると、この騒乱を監視していた中国巡視艦から銃をもった武装兵士ら十数名が一気に島に上陸し、拘束され日本の巡視船に移送されそうになった台湾漁民を実力で奪い返す動きに出たのである。現場の混乱はまさに銃を構えた中国人兵士と領土の不法侵犯で逮捕・連行しようとする日本の海上保安官が対峙し、一触即発の危険な状況となり、今まで逮捕に強く抵抗し大声で抗議し暴れていた台湾人も、そして頭から肩から血を流し横たわる者とそれを助けようとする日本人も、混乱する現場にいたすべての者が、状況の変化にどう対応すべきか分からず、銃口の前に呆然と立ち尽くすだけであった。結局海上保安官は兵士の指示に従い捕らえた者たちの手錠を外し、不法占拠者を全員解放した。そして台湾漁民は兵士の指示に従い全員自分たちが乗ってきた船と中国の巡視艦に分乗し何事も無かったように島から去っていった。この鮮やかな訓練された中国軍兵士の差配はこの三ヶ月、解決の糸口も見出せなかった日本側にとって国際問題、とりわけ領土問題への対応の難しさと常日頃からのあらゆる可能性に対する国の確固たる対応策を訓練という形で現場に徹底しておくことの重要性を痛いほど知らされた。それは現場で銃口の前で何も出来ず、逮捕目前で逃がさざるを得なかった海上保安官の悔し涙が、雄弁に物語っていた。これから如何に日本政府が国際社会に向け、中国軍兵士の蛮行に対し抗議をしても、国際的には日本の無策・対応の悪さを笑われるだけで恐らく得られるものは何も無いと思われ、逆に現在韓国との竹島問題やロシアとの北方領土問題への悪影響さえ懸念される。早期収集が出来ず、多数の怪我人まで出しながら、その分かっている犯人さえ逮捕できなかった今回の国辱的事件は多くの課題を残したまま、またもや曖昧に処理される可能性が高かった。それは、敗戦後日本がゼロから国を作り上げていく過程で決定的に怠ってきた国を守ることの意味、そして日本人の心の底辺に流れ、無意識の内に引き継がれ日常生活を支えてきた文化や習慣・宗教・歴史という、日本人として立つべき土台とは何だったのか、その中で守るべきものは何なのかを問わずに来たつけが廻ってきたようである。検証することなく今日まで来てしまったこと、戦後の貧しさから脱出する為社会経済の発展至上主義でその他をすべてかなぐり捨てて国を挙げて物の豊かさを求めてきたことへの痛烈な反省を求められるように思えた。同時に沖縄県民にとっても同様に琉球国として独自の文化を築いてきた国民が日本という異国民に力で統合され、結果として戦時中は日本の盾として多大の犠牲を余儀なくされたにも拘らず.且つ戦後、日本復帰の選択が沖縄の幸せを実現するものと多くの人が期待したにも拘らず裏切られ、多くの裏切りの中で自分の有るべき姿が見えぬままに今日に至った反省と、沖縄と日本の関係を問う良い機会になった。そして、これは今までも米軍基地問題で自分たちを守ってくれない日本政府への沖縄県民の強い不満に決定的に火をつけ、怨嗟という形の反日・琉球独立思想を大きく膨らませる結果を将来呼び込むことになるとはまだ誰も気付いていない。
領土を守ると言う大儀が有るにもかかわらず、銃を構えた兵士の前では丸腰の実体験のない海上保安官には強烈な恐怖感のため身動きがとれず、不法占拠者の連行もままならなかった後味の悪さは大きな反省と同時に日本という国の制度的な欠陥をも晒す結果となった。中国軍人の強行措置に体を張って阻止しようとした海上保安官もいたものの、銃口が、それも目の前から自分の胸に狙いが定まっている状況では、正義感だけで動けるわけもなく、なんの抵抗もできずに黙って彼らの指示に従わざるをえなかった。中国軍人の実に鮮やかな救出劇といってよい現場で、残された日本人は、東シナ海に静かに沈んでいく真っ赤な太陽を背にただ呆然と立ちつくすしかなすすべが無かったのである。

1. 新しい動き

台風シーズンが過ぎた10月下旬になっても、沖縄はまだまだ暑い日が続いている。日中の最高気温は夏日25度を越え、晴れた日には30度近くまで上がってしまう。亜熱帯に位置する沖縄にとっては当たり前のことで長い夏の終わりの毎年の風景である。毎年繰り返される季節の移ろいの中で生活している人々にとっては日々の暑さなど、話題になることもない日常に過ぎない。
今朝も晴れ上がった青い空から相変わらず強い日差しが、通勤途中の運転する車の窓越に顔を射てくる。沖縄県庁の財務企画課に勤める新垣聡は車のハンドルを握りながら今日一日の予定をあれこれ考えていた。この時期になると来年の予算案作りの最終段階で、調整の為あちこち庁内を走り回らなければならない。そして会議に追われて毎日が過ぎて行く。今日は膨れ上がる福祉関連予算の大幅カットを認めさせる為の重要な会議がセットされており、予想される混乱に沈んだ気持ちになる自分を懸命に励ましていた。現在、国も県も日本中のあらゆる町・村に至るまで高齢化に伴う年金増と医療費増、介護補助費用・生活補助費用・障害者支援費用等の増加が毎年減ること無く予算編成で膨れ上がり、増えない収入とのバランスを如何に調整するか担当部署はいつも胃が痛む思いをするのがこの時期なのである。沖縄では5年ほど前から予算のゼロベースでの見直し案作りが行われてきているが、結局は収入が増えない限り縮小均衡にならざるを得ない現状の中で、担当責任者である新垣には考える程に気が滅入ってしまうのである。収入減をどう支出を抑えて遣り繰りするか会議をいくら重ねても結局無いものはないし、削れるところは目一杯削っているので、最後の頼みは国からの一括交付金にならざるを得ない現実に無性に腹立たしく、朝の出勤途中の車の中では、無力感に落ち込んでしまう自分との葛藤になる。この悪循環は永々と過去から今日まで続いている言わば悪弊であった。その為国から引き出す支えを切らさぬよう霞ヶ関担当を東京に駐在させ、地元選出の国会議員と連絡しあって常に各省庁との関係を密にしてきた。新垣自身2年ほどその役割を勤めた東京での経験を持っていた。彼の後任が今も東京で情報収集に当たっているし、彼自身も秋から冬の予算シーズンには東京事務所からの要請で東京詣でを繰り返していた。沖縄の場合は他の県と違って米軍基地の普天間・嘉手納だけでなく、多くの米軍関連施設があり、日本の安全保障を左右する大きな問題が絡む為、比較的容易に財政援助は受けやすい環境にはあった。しかし近年の国の財政危機は2011年の東日本大震災以降急激に悪化が進み、消費税が5%から10%に上がった2015年後も一向に改善の見通しがたっていない。2020年以降、この補助金制度はほぼ破綻状況にあった。昔は霞ヶ関の権威と地方行政機関へのコントロールの象徴として機能していた省庁毎の分配方式は財源不足からほんの限られた地域にのみ配られるようになり、それに変わった一括交付金制度が細々と維持されているだけである。沖縄は日本の安全保障という特殊事情から、かろうじてまだ維持されているのが現状である。それでも年間3000億円程あった一括交付金と各省庁からのひも付き交付金、取分け防衛省関連の補助金は予算編成上不可欠のものとなっている。しかし、それも毎年減り続け、昨年と同じ1000億円を維持することすら難しくなりつつあった。沖縄県の年間予算額はおよそ5700億円でその内訳は県内からの地方税や県債・その他の収入が1700億円、国からの地方交付税や国庫の支出がほぼ半分の2800億円、これに振興策や一括交付金等等の1000億円を上乗せしても200億円程歳入不足になり、実に危うい財政バランスなのである。これまでも県としてIT企業やバイオ企業の誘致、地元産業の活性化の為いろいろと対策は講じられてきたが県財政を支える程の成果を得るに至っていない。結局年間500万人を越える観光客が落としていく観光関連産業からの収入に頼らざるを得ない現状が延々と続くことになってしまう。
しかし、今年は県内の雰囲気が例年と違ってかなり緊迫感が漂っていた。それはこの7月10日に台湾と中国の漁民10名ほどが尖閣諸島の中国名釣魚島に上陸し、頑丈なテントと大量の生活物資を運び込み占拠する事件が発生したからである。そしてこれをきっかけに今まで棚上げ論を主張してきた中国・台湾の両政府が敢然と自国の領土であると表明し、島を占拠している漁民を守る為排除しようとする日本の海上保安庁の動きに警告を発してきたのである。俄然緊迫する国際情勢の中で、穏便な解決を望む日本政府の驚きと焦りは目を覆うばかりで、対応に追われる外務省の右往左往と政治家の無能さばかりがクローズアップされ、日本中が暗澹たる気持ちにされていた。これがきっかけとなり内外からの沖縄への観光客が大幅に減ってしまったのである。7月・8月の一番の観光シーズンが例年の半分以下と激減し、沖縄の経済を支えるあらゆる業種にその影響が広がりつつあった。
こうした事態が起こりうることは大分前から指摘されてきた。2012年に日本政府が尖閣諸島の国有化宣言をおこなって以降、中国の海洋監視船が連日のように領海や領海への接続水域へ侵犯を繰り返し、中国の重大な確信的利益を犯すものとして対外活動を活発化させていた。海軍だけでなく空軍も加わり日本への挑発活動は少しずつエスカレートさせてきていたのでいずれ何らかの動きが出てくると予想されていた。
台湾漁民をサポートする中国と台湾の重火器を装備した巡視艦が日本との紛争衝突防止の名目で入れ替わり立ち代り島を周回し、日本の巡視艇の活動を実質的に抑止している。話がややこしくなっているのは普段仲の良くない台湾と中国の海軍同士が共同歩調を取っている事で、言わば領土問題では共同作戦で日本に対峙してゆく姿勢を鮮明にしていることである。今までは領土問題は棚上げにしておくことが大人の対応としてきた特に中国政府は、近年の国力上昇と軍備の拡張に伴い発言内容がはっきり変わってきた。歴史的に中国が内包する覇権的な性格が明確に表に出るようになってきたということなのだろう。自国の強大化と相対的な日本の弱体化の中で本音を隠す必要がなくなったと判断しているようである。中国と台湾の基本スタンスは歴史的に自分たちの領土であるという立場で共通しているところからこの問題については相手を排除しないというお互いの暗黙の了解がついているようである。話し合い解決を基本とする日本政府の外交戦略はもともと自分の領土であると主張する台湾・中国に通じるわけもなく、中国の棚上げ論に便乗し今日まで何もしなかった日本政府の無策も手伝って洋上での緊張感がもう3ヶ月以上続いていた。日本政府が頼りとする沖縄の米軍部隊は政府間の交渉を見守る姿勢のまま動かず、占拠の既成事実化が着々と積み上げられていた。国内世論は武器を持たない海上保安庁ではなく、海上自衛隊と共同した強制排除と領土の不法占拠者の逮捕を求める声の高まりは既に頂点に達していた。実力行使はもはや時間の問題となりつつある中、あくまで穏便な解決をもとめ、事を荒立てたくない政府は台湾漁民の自主的な退去を望みながらも海上自衛艦の護衛のもと、武力衝突なしで海上保安庁による逮捕をいつ決行するかその決断の時を計っていた。一番迷惑している沖縄の漁民とりわけ石垣島周辺の漁民の強い怒りは弱腰の日本政府だけでなく、見守るだけの駐留米軍と政府任せの県の対応にも向けられ、最早抑えきれない程のジレンマとなって沖縄県全体に不穏な空気を醸し出していた。

新垣は今年47歳になる企画課長である。大学卒業して直ぐ県庁に入り、今日まで財務企画畑一筋に堅実に仕事をこなしてきた。決して早くも無く遅くも無く、実に順調に昇進してきた、いわば県庁内エリートの一人である。中学の教員をしている妻・結衣と大学2年生の息子、高校3年生の娘がいる。学生時代、沖縄の歴史が知りたくて、経済学部の彼が琉球歴史研究会に入り1年後輩の文学部の女学生と知り合った。住んでいた所が近くであった偶然も重なり何時しか付き合うようになった。大学を卒業し県庁に入った後も付き合いは続き、彼女が中学の教員になって3年目にごく自然に二人は結婚した。共稼ぎの二人は忙しい職場に多くの時間を取られながらも上手く家庭との両立を図り、二人の子供に恵まれ、大きな喧嘩やトラブルもなく、ごく平凡な何処にでも見られる平和な公務員の家庭として今日まで過ごしてきた。
県の財政状況の厳しさは決して今年に限ったものではない。20年以上も前から同じような状況の厳しさは続いてきており、毎年その遣り繰りに頭を痛めてきた。昨年も今頃から恒例の東京詣を繰り返し、何とか地方交付金や補助金の確保に奔走し、前年並みの結果を得ている。予算獲得の為地元選出の国会議員の紹介で霞ヶ関の各省庁を廻り、夜は説明会と称して赤坂界隈の料亭で接待の毎日であった。効果も良く分からないまま従来からの慣習に従い、役人が役人を税金で持て成すという如何にも日本的な行為が新垣には何とも馴染めず、不快な思いを心の奥に溜め込んだまま、東京からの帰りの飛行機の座席に身を沈めることが多かった。
「何とかせんといかんな」「何時までも国頼みの予算編成では、沖縄に明日は無いのでは・・・」毎年予算編成にメドが立ち気持ちが一段落した時、漠然とした不安から心の奥で呟いてしまうが、忙しい毎日とどうすることも出来ない現実の中で気持ちは目の前の仕事の問題解決とその対応策に直ぐ切り替わってしまう。
今年もまた昨夜東京事務所から説明会設定の連絡が入り、明日には出張せねばならない。
沖縄近海での大騒ぎと緊迫度を増す国際関係をよそに日常の営みは相変わらず平平凡凡として10年前、20年前と少しも変わらなかった。
今日最後の福祉関連予算担当者会議でいつもの様に県の財務の窮状を縷々説明し、昨年並みの予算編成すら難しくなりつつある現状の理解を得るべく、各担当者を前に膨れ上がる予算要求を牽制し、ゼロべースからの見直しと新規要求・補助金のカットを強く申し渡し、多くの出席者の強い不満の視線を避けながら部屋を出た。会議に付き合っても良いと思ったが、出てくる切実な要望とそれに応えきれない現実はいつも同じで、冷たく突き放さざるを得ないいつもの自分の立場にいたたまれず、出張準備を理由に会議を中座したのである。時刻は夕方の5時近くになっていた。
自分の部屋に戻り、明日の出張準備に入ろうとした矢先、とんでもないニュースが飛び込んできた。膠着していた尖閣諸島の占有問題に業を煮やした沖縄の学生らしい若者5名と石垣島の漁民10名が小型の漁船3隻に乗って日本の巡視艇の停船命令を振り切って島に上陸したという。そして当然のことながら、上陸の際台湾の漁民との間で激しい衝突が起こり、双方に怪我人が多数出た模様である。台湾の漁民は棒の先端に鉤形の鉄のフックが付いた道具で上陸しようとした若者と日本の漁民に襲い掛かり頭や肩にかなり深い傷を負わせた模様である。混乱の制止に入った海上保安官にも多数怪我人が出ているようで、詳細は不明であるが、上陸した海上保安官は不法占拠の10名を身柄拘束できた模様という一報であった。ところがすぐ次に入ってきた情報に耳を疑った。予想外の事態が発生したようで現場上空で取材していた報道関係者によると、この騒乱を監視していた中国巡視艦から銃をもった武装兵士ら十数名が一気に島に上陸し、拘束され日本の巡視船に移送されそうになった台湾漁民を実力で奪い返す動きに出たのである。現場の混乱はまさに銃を構えた中国人兵士と領土の不法侵犯で逮捕・連行しようとする日本の海上保安官が対峙し、一触即発の危険な状況となり、今まで逮捕に強く抵抗し大声で抗議し暴れていた台湾人も、そして頭から肩から血を流し横たわる者とそれを助けようとする日本人も、混乱する現場にいたすべての者が、状況の変化にどう対応すべきか分からず、銃口の前に呆然と立ち尽くすだけであった。結局海上保安官は兵士の指示に従い捕らえた者たちの手錠を外し、不法占拠者を全員解放した。そして台湾漁民は兵士の指示に従い全員自分たちが乗ってきた船と中国の巡視艦に分乗し何事も無かったように島から去っていった。この鮮やかな訓練された中国軍兵士の差配はこの三ヶ月、解決の糸口も見出せなかった日本側にとって国際問題、とりわけ領土問題への対応の難しさと常日頃からのあらゆる可能性に対する国の確固たる対応策を訓練という形で現場に徹底しておくことの重要性を痛いほど知らされた。それは現場で銃口の前で何も出来ず、逮捕目前で逃がさざるを得なかった海上保安官の悔し涙が、雄弁に物語っていた。これから如何に日本政府が国際社会に向け、中国軍兵士の蛮行に対し抗議をしても、国際的には日本の無策・対応の悪さを笑われるだけで恐らく得られるものは何も無いと思われ、逆に現在韓国との竹島問題やロシアとの北方領土問題への悪影響さえ懸念される。早期収集が出来ず、多数の怪我人まで出しながら、その分かっている犯人さえ逮捕できなかった今回の国辱的事件は多くの課題を残したまま、またもや曖昧に処理される可能性が高かった。それは、敗戦後日本がゼロから国を作り上げていく過程で決定的に怠ってきた国を守ることの意味、そして日本人の心の底辺に流れ、無意識の内に引き継がれ日常生活を支えてきた文化や習慣・宗教・歴史という、日本人として立つべき土台とは何だったのか、その中で守るべきものは何なのかを問わずに来たつけが廻ってきたようである。検証することなく今日まで来てしまったこと、戦後の貧しさから脱出する為社会経済の発展至上主義でその他をすべてかなぐり捨てて国を挙げて物の豊かさを求めてきたことへの痛烈な反省を求められるように思えた。同時に沖縄県民にとっても同様に琉球国として独自の文化を築いてきた国民が日本という異国民に力で統合され、結果として戦時中は日本の盾として多大の犠牲を余儀なくされたにも拘らず.且つ戦後、日本復帰の選択が沖縄の幸せを実現するものと多くの人が期待したにも拘らず裏切られ、多くの裏切りの中で自分の有るべき姿が見えぬままに今日に至った反省と、沖縄と日本の関係を問う良い機会になった。そして、これは今までも米軍基地問題で自分たちを守ってくれない日本政府への沖縄県民の強い不満に決定的に火をつけ、怨嗟という形の反日・琉球独立思想を大きく膨らませる結果を将来呼び込むことになるとはまだ誰も気付いていない。
領土を守ると言う大儀が有るにもかかわらず、銃を構えた兵士の前では丸腰の実体験のない海上保安官には強烈な恐怖感のため身動きがとれず、不法占拠者の連行もままならなかった後味の悪さは大きな反省と同時に日本という国の制度的な欠陥をも晒す結果となった。中国軍人の強行措置に体を張って阻止しようとした海上保安官もいたものの、銃口が、それも目の前から自分の胸に狙いが定まっている状況では、正義感だけで動けるわけもなく、なんの抵抗もできずに黙って彼らの指示に従わざるをえなかった。中国軍人の実に鮮やかな救出劇といってよい現場で、残された日本人は、東シナ海に静かに沈んでいく真っ赤な太陽を背にただ呆然と立ちつくすしかなすすべが無かったのである。

1. 新しい動き

台風シーズンが過ぎた10月下旬になっても、沖縄はまだまだ暑い日が続いている。日中の最高気温は夏日25度を越え、晴れた日には30度近くまで上がってしまう。亜熱帯に位置する沖縄にとっては当たり前のことで長い夏の終わりの毎年の風景である。毎年繰り返される季節の移ろいの中で生活している人々にとっては日々の暑さなど、話題になることもない日常に過ぎない。
今朝も晴れ上がった青い空から相変わらず強い日差しが、通勤途中の運転する車の窓越に顔を射てくる。沖縄県庁の財務企画課に勤める新垣聡は車のハンドルを握りながら今日一日の予定をあれこれ考えていた。この時期になると来年の予算案作りの最終段階で、調整の為あちこち庁内を走り回らなければならない。そして会議に追われて毎日が過ぎて行く。今日は膨れ上がる福祉関連予算の大幅カットを認めさせる為の重要な会議がセットされており、予想される混乱に沈んだ気持ちになる自分を懸命に励ましていた。現在、国も県も日本中のあらゆる町・村に至るまで高齢化に伴う年金増と医療費増、介護補助費用・生活補助費用・障害者支援費用等の増加が毎年減ること無く予算編成で膨れ上がり、増えない収入とのバランスを如何に調整するか担当部署はいつも胃が痛む思いをするのがこの時期なのである。沖縄では5年ほど前から予算のゼロベースでの見直し案作りが行われてきているが、結局は収入が増えない限り縮小均衡にならざるを得ない現状の中で、担当責任者である新垣には考える程に気が滅入ってしまうのである。収入減をどう支出を抑えて遣り繰りするか会議をいくら重ねても結局無いものはないし、削れるところは目一杯削っているので、最後の頼みは国からの一括交付金にならざるを得ない現実に無性に腹立たしく、朝の出勤途中の車の中では、無力感に落ち込んでしまう自分との葛藤になる。この悪循環は永々と過去から今日まで続いている言わば悪弊であった。その為国から引き出す支えを切らさぬよう霞ヶ関担当を東京に駐在させ、地元選出の国会議員と連絡しあって常に各省庁との関係を密にしてきた。新垣自身2年ほどその役割を勤めた東京での経験を持っていた。彼の後任が今も東京で情報収集に当たっているし、彼自身も秋から冬の予算シーズンには東京事務所からの要請で東京詣でを繰り返していた。沖縄の場合は他の県と違って米軍基地の普天間・嘉手納だけでなく、多くの米軍関連施設があり、日本の安全保障を左右する大きな問題が絡む為、比較的容易に財政援助は受けやすい環境にはあった。しかし近年の国の財政危機は2011年の東日本大震災以降急激に悪化が進み、消費税が5%から10%に上がった2015年後も一向に改善の見通しがたっていない。2020年以降、この補助金制度はほぼ破綻状況にあった。昔は霞ヶ関の権威と地方行政機関へのコントロールの象徴として機能していた省庁毎の分配方式は財源不足からほんの限られた地域にのみ配られるようになり、それに変わった一括交付金制度が細々と維持されているだけである。沖縄は日本の安全保障という特殊事情から、かろうじてまだ維持されているのが現状である。それでも年間3000億円程あった一括交付金と各省庁からのひも付き交付金、取分け防衛省関連の補助金は予算編成上不可欠のものとなっている。しかし、それも毎年減り続け、昨年と同じ1000億円を維持することすら難しくなりつつあった。沖縄県の年間予算額はおよそ5700億円でその内訳は県内からの地方税や県債・その他の収入が1700億円、国からの地方交付税や国庫の支出がほぼ半分の2800億円、これに振興策や一括交付金等等の1000億円を上乗せしても200億円程歳入不足になり、実に危うい財政バランスなのである。これまでも県としてIT企業やバイオ企業の誘致、地元産業の活性化の為いろいろと対策は講じられてきたが県財政を支える程の成果を得るに至っていない。結局年間500万人を越える観光客が落としていく観光関連産業からの収入に頼らざるを得ない現状が延々と続くことになってしまう。
しかし、今年は県内の雰囲気が例年と違ってかなり緊迫感が漂っていた。それはこの7月10日に台湾と中国の漁民10名ほどが尖閣諸島の中国名釣魚島に上陸し、頑丈なテントと大量の生活物資を運び込み占拠する事件が発生したからである。そしてこれをきっかけに今まで棚上げ論を主張してきた中国・台湾の両政府が敢然と自国の領土であると表明し、島を占拠している漁民を守る為排除しようとする日本の海上保安庁の動きに警告を発してきたのである。俄然緊迫する国際情勢の中で、穏便な解決を望む日本政府の驚きと焦りは目を覆うばかりで、対応に追われる外務省の右往左往と政治家の無能さばかりがクローズアップされ、日本中が暗澹たる気持ちにされていた。これがきっかけとなり内外からの沖縄への観光客が大幅に減ってしまったのである。7月・8月の一番の観光シーズンが例年の半分以下と激減し、沖縄の経済を支えるあらゆる業種にその影響が広がりつつあった。
こうした事態が起こりうることは大分前から指摘されてきた。2012年に日本政府が尖閣諸島の国有化宣言をおこなって以降、中国の海洋監視船が連日のように領海や領海への接続水域へ侵犯を繰り返し、中国の重大な確信的利益を犯すものとして対外活動を活発化させていた。海軍だけでなく空軍も加わり日本への挑発活動は少しずつエスカレートさせてきていたのでいずれ何らかの動きが出てくると予想されていた。
台湾漁民をサポートする中国と台湾の重火器を装備した巡視艦が日本との紛争衝突防止の名目で入れ替わり立ち代り島を周回し、日本の巡視艇の活動を実質的に抑止している。話がややこしくなっているのは普段仲の良くない台湾と中国の海軍同士が共同歩調を取っている事で、言わば領土問題では共同作戦で日本に対峙してゆく姿勢を鮮明にしていることである。今までは領土問題は棚上げにしておくことが大人の対応としてきた特に中国政府は、近年の国力上昇と軍備の拡張に伴い発言内容がはっきり変わってきた。歴史的に中国が内包する覇権的な性格が明確に表に出るようになってきたということなのだろう。自国の強大化と相対的な日本の弱体化の中で本音を隠す必要がなくなったと判断しているようである。中国と台湾の基本スタンスは歴史的に自分たちの領土であるという立場で共通しているところからこの問題については相手を排除しないというお互いの暗黙の了解がついているようである。話し合い解決を基本とする日本政府の外交戦略はもともと自分の領土であると主張する台湾・中国に通じるわけもなく、中国の棚上げ論に便乗し今日まで何もしなかった日本政府の無策も手伝って洋上での緊張感がもう3ヶ月以上続いていた。日本政府が頼りとする沖縄の米軍部隊は政府間の交渉を見守る姿勢のまま動かず、占拠の既成事実化が着々と積み上げられていた。国内世論は武器を持たない海上保安庁ではなく、海上自衛隊と共同した強制排除と領土の不法占拠者の逮捕を求める声の高まりは既に頂点に達していた。実力行使はもはや時間の問題となりつつある中、あくまで穏便な解決をもとめ、事を荒立てたくない政府は台湾漁民の自主的な退去を望みながらも海上自衛艦の護衛のもと、武力衝突なしで海上保安庁による逮捕をいつ決行するかその決断の時を計っていた。一番迷惑している沖縄の漁民とりわけ石垣島周辺の漁民の強い怒りは弱腰の日本政府だけでなく、見守るだけの駐留米軍と政府任せの県の対応にも向けられ、最早抑えきれない程のジレンマとなって沖縄県全体に不穏な空気を醸し出していた。

新垣は今年47歳になる企画課長である。大学卒業して直ぐ県庁に入り、今日まで財務企画畑一筋に堅実に仕事をこなしてきた。決して早くも無く遅くも無く、実に順調に昇進してきた、いわば県庁内エリートの一人である。中学の教員をしている妻・結衣と大学2年生の息子、高校3年生の娘がいる。学生時代、沖縄の歴史が知りたくて、経済学部の彼が琉球歴史研究会に入り1年後輩の文学部の女学生と知り合った。住んでいた所が近くであった偶然も重なり何時しか付き合うようになった。大学を卒業し県庁に入った後も付き合いは続き、彼女が中学の教員になって3年目にごく自然に二人は結婚した。共稼ぎの二人は忙しい職場に多くの時間を取られながらも上手く家庭との両立を図り、二人の子供に恵まれ、大きな喧嘩やトラブルもなく、ごく平凡な何処にでも見られる平和な公務員の家庭として今日まで過ごしてきた。
県の財政状況の厳しさは決して今年に限ったものではない。20年以上も前から同じような状況の厳しさは続いてきており、毎年その遣り繰りに頭を痛めてきた。昨年も今頃から恒例の東京詣を繰り返し、何とか地方交付金や補助金の確保に奔走し、前年並みの結果を得ている。予算獲得の為地元選出の国会議員の紹介で霞ヶ関の各省庁を廻り、夜は説明会と称して赤坂界隈の料亭で接待の毎日であった。効果も良く分からないまま従来からの慣習に従い、役人が役人を税金で持て成すという如何にも日本的な行為が新垣には何とも馴染めず、不快な思いを心の奥に溜め込んだまま、東京からの帰りの飛行機の座席に身を沈めることが多かった。
「何とかせんといかんな」「何時までも国頼みの予算編成では、沖縄に明日は無いのでは・・・」毎年予算編成にメドが立ち気持ちが一段落した時、漠然とした不安から心の奥で呟いてしまうが、忙しい毎日とどうすることも出来ない現実の中で気持ちは目の前の仕事の問題解決とその対応策に直ぐ切り替わってしまう。
今年もまた昨夜東京事務所から説明会設定の連絡が入り、明日には出張せねばならない。
沖縄近海での大騒ぎと緊迫度を増す国際関係をよそに日常の営みは相変わらず平平凡凡として10年前、20年前と少しも変わらなかった。
今日最後の福祉関連予算担当者会議でいつもの様に県の財務の窮状を縷々説明し、昨年並みの予算編成すら難しくなりつつある現状の理解を得るべく、各担当者を前に膨れ上がる予算要求を牽制し、ゼロべースからの見直しと新規要求・補助金のカットを強く申し渡し、多くの出席者の強い不満の視線を避けながら部屋を出た。会議に付き合っても良いと思ったが、出てくる切実な要望とそれに応えきれない現実はいつも同じで、冷たく突き放さざるを得ないいつもの自分の立場にいたたまれず、出張準備を理由に会議を中座したのである。時刻は夕方の5時近くになっていた。
自分の部屋に戻り、明日の出張準備に入ろうとした矢先、とんでもないニュースが飛び込んできた。膠着していた尖閣諸島の占有問題に業を煮やした沖縄の学生らしい若者5名と石垣島の漁民10名が小型の漁船3隻に乗って日本の巡視艇の停船命令を振り切って島に上陸したという。そして当然のことながら、上陸の際台湾の漁民との間で激しい衝突が起こり、双方に怪我人が多数出た模様である。台湾の漁民は棒の先端に鉤形の鉄のフックが付いた道具で上陸しようとした若者と日本の漁民に襲い掛かり頭や肩にかなり深い傷を負わせた模様である。混乱の制止に入った海上保安官にも多数怪我人が出ているようで、詳細は不明であるが、上陸した海上保安官は不法占拠の10名を身柄拘束できた模様という一報であった。ところがすぐ次に入ってきた情報に耳を疑った。予想外の事態が発生したようで現場上空で取材していた報道関係者によると、この騒乱を監視していた中国巡視艦から銃をもった武装兵士ら十数名が一気に島に上陸し、拘束され日本の巡視船に移送されそうになった台湾漁民を実力で奪い返す動きに出たのである。現場の混乱はまさに銃を構えた中国人兵士と領土の不法侵犯で逮捕・連行しようとする日本の海上保安官が対峙し、一触即発の危険な状況となり、今まで逮捕に強く抵抗し大声で抗議し暴れていた台湾人も、そして頭から肩から血を流し横たわる者とそれを助けようとする日本人も、混乱する現場にいたすべての者が、状況の変化にどう対応すべきか分からず、銃口の前に呆然と立ち尽くすだけであった。結局海上保安官は兵士の指示に従い捕らえた者たちの手錠を外し、不法占拠者を全員解放した。そして台湾漁民は兵士の指示に従い全員自分たちが乗ってきた船と中国の巡視艦に分乗し何事も無かったように島から去っていった。この鮮やかな訓練された中国軍兵士の差配はこの三ヶ月、解決の糸口も見出せなかった日本側にとって国際問題、とりわけ領土問題への対応の難しさと常日頃からのあらゆる可能性に対する国の確固たる対応策を訓練という形で現場に徹底しておくことの重要性を痛いほど知らされた。それは現場で銃口の前で何も出来ず、逮捕目前で逃がさざるを得なかった海上保安官の悔し涙が、雄弁に物語っていた。これから如何に日本政府が国際社会に向け、中国軍兵士の蛮行に対し抗議をしても、国際的には日本の無策・対応の悪さを笑われるだけで恐らく得られるものは何も無いと思われ、逆に現在韓国との竹島問題やロシアとの北方領土問題への悪影響さえ懸念される。早期収集が出来ず、多数の怪我人まで出しながら、その分かっている犯人さえ逮捕できなかった今回の国辱的事件は多くの課題を残したまま、またもや曖昧に処理される可能性が高かった。それは、敗戦後日本がゼロから国を作り上げていく過程で決定的に怠ってきた国を守ることの意味、そして日本人の心の底辺に流れ、無意識の内に引き継がれ日常生活を支えてきた文化や習慣・宗教・歴史という、日本人として立つべき土台とは何だったのか、その中で守るべきものは何なのかを問わずに来たつけが廻ってきたようである。検証することなく今日まで来てしまったこと、戦後の貧しさから脱出する為社会経済の発展至上主義でその他をすべてかなぐり捨てて国を挙げて物の豊かさを求めてきたことへの痛烈な反省を求められるように思えた。同時に沖縄県民にとっても同様に琉球国として独自の文化を築いてきた国民が日本という異国民に力で統合され、結果として戦時中は日本の盾として多大の犠牲を余儀なくされたにも拘らず.且つ戦後、日本復帰の選択が沖縄の幸せを実現するものと多くの人が期待したにも拘らず裏切られ、多くの裏切りの中で自分の有るべき姿が見えぬままに今日に至った反省と、沖縄と日本の関係を問う良い機会になった。そして、これは今までも米軍基地問題で自分たちを守ってくれない日本政府への沖縄県民の強い不満に決定的に火をつけ、怨嗟という形の反日・琉球独立思想を大きく膨らませる結果を将来呼び込むことになるとはまだ誰も気付いていない。
領土を守ると言う大儀が有るにもかかわらず、銃を構えた兵士の前では丸腰の実体験のない海上保安官には強烈な恐怖感のため身動きがとれず、不法占拠者の連行もままならなかった後味の悪さは大きな反省と同時に日本という国の制度的な欠陥をも晒す結果となった。中国軍人の強行措置に体を張って阻止しようとした海上保安官もいたものの、銃口が、それも目の前から自分の胸に狙いが定まっている状況では、正義感だけで動けるわけもなく、なんの抵抗もできずに黙って彼らの指示に従わざるをえなかった。中国軍人の実に鮮やかな救出劇といってよい現場で、残された日本人は、東シナ海に静かに沈んでいく真っ赤な太陽を背にただ呆然と立ちつくすしかなすすべが無かったのである。

1. 新しい動き

台風シーズンが過ぎた10月下旬になっても、沖縄はまだまだ暑い日が続いている。日中の最高気温は夏日25度を越え、晴れた日には30度近くまで上がってしまう。亜熱帯に位置する沖縄にとっては当たり前のことで長い夏の終わりの毎年の風景である。毎年繰り返される季節の移ろいの中で生活している人々にとっては日々の暑さなど、話題になることもない日常に過ぎない。
今朝も晴れ上がった青い空から相変わらず強い日差しが、通勤途中の運転する車の窓越に顔を射てくる。沖縄県庁の財務企画課に勤める新垣聡は車のハンドルを握りながら今日一日の予定をあれこれ考えていた。この時期になると来年の予算案作りの最終段階で、調整の為あちこち庁内を走り回らなければならない。そして会議に追われて毎日が過ぎて行く。今日は膨れ上がる福祉関連予算の大幅カットを認めさせる為の重要な会議がセットされており、予想される混乱に沈んだ気持ちになる自分を懸命に励ましていた。現在、国も県も日本中のあらゆる町・村に至るまで高齢化に伴う年金増と医療費増、介護補助費用・生活補助費用・障害者支援費用等の増加が毎年減ること無く予算編成で膨れ上がり、増えない収入とのバランスを如何に調整するか担当部署はいつも胃が痛む思いをするのがこの時期なのである。沖縄では5年ほど前から予算のゼロベースでの見直し案作りが行われてきているが、結局は収入が増えない限り縮小均衡にならざるを得ない現状の中で、担当責任者である新垣には考える程に気が滅入ってしまうのである。収入減をどう支出を抑えて遣り繰りするか会議をいくら重ねても結局無いものはないし、削れるところは目一杯削っているので、最後の頼みは国からの一括交付金にならざるを得ない現実に無性に腹立たしく、朝の出勤途中の車の中では、無力感に落ち込んでしまう自分との葛藤になる。この悪循環は永々と過去から今日まで続いている言わば悪弊であった。その為国から引き出す支えを切らさぬよう霞ヶ関担当を東京に駐在させ、地元選出の国会議員と連絡しあって常に各省庁との関係を密にしてきた。新垣自身2年ほどその役割を勤めた東京での経験を持っていた。彼の後任が今も東京で情報収集に当たっているし、彼自身も秋から冬の予算シーズンには東京事務所からの要請で東京詣でを繰り返していた。沖縄の場合は他の県と違って米軍基地の普天間・嘉手納だけでなく、多くの米軍関連施設があり、日本の安全保障を左右する大きな問題が絡む為、比較的容易に財政援助は受けやすい環境にはあった。しかし近年の国の財政危機は2011年の東日本大震災以降急激に悪化が進み、消費税が5%から10%に上がった2015年後も一向に改善の見通しがたっていない。2020年以降、この補助金制度はほぼ破綻状況にあった。昔は霞ヶ関の権威と地方行政機関へのコントロールの象徴として機能していた省庁毎の分配方式は財源不足からほんの限られた地域にのみ配られるようになり、それに変わった一括交付金制度が細々と維持されているだけである。沖縄は日本の安全保障という特殊事情から、かろうじてまだ維持されているのが現状である。それでも年間3000億円程あった一括交付金と各省庁からのひも付き交付金、取分け防衛省関連の補助金は予算編成上不可欠のものとなっている。しかし、それも毎年減り続け、昨年と同じ1000億円を維持することすら難しくなりつつあった。沖縄県の年間予算額はおよそ5700億円でその内訳は県内からの地方税や県債・その他の収入が1700億円、国からの地方交付税や国庫の支出がほぼ半分の2800億円、これに振興策や一括交付金等等の1000億円を上乗せしても200億円程歳入不足になり、実に危うい財政バランスなのである。これまでも県としてIT企業やバイオ企業の誘致、地元産業の活性化の為いろいろと対策は講じられてきたが県財政を支える程の成果を得るに至っていない。結局年間500万人を越える観光客が落としていく観光関連産業からの収入に頼らざるを得ない現状が延々と続くことになってしまう。
しかし、今年は県内の雰囲気が例年と違ってかなり緊迫感が漂っていた。それはこの7月10日に台湾と中国の漁民10名ほどが尖閣諸島の中国名釣魚島に上陸し、頑丈なテントと大量の生活物資を運び込み占拠する事件が発生したからである。そしてこれをきっかけに今まで棚上げ論を主張してきた中国・台湾の両政府が敢然と自国の領土であると表明し、島を占拠している漁民を守る為排除しようとする日本の海上保安庁の動きに警告を発してきたのである。俄然緊迫する国際情勢の中で、穏便な解決を望む日本政府の驚きと焦りは目を覆うばかりで、対応に追われる外務省の右往左往と政治家の無能さばかりがクローズアップされ、日本中が暗澹たる気持ちにされていた。これがきっかけとなり内外からの沖縄への観光客が大幅に減ってしまったのである。7月・8月の一番の観光シーズンが例年の半分以下と激減し、沖縄の経済を支えるあらゆる業種にその影響が広がりつつあった。
こうした事態が起こりうることは大分前から指摘されてきた。2012年に日本政府が尖閣諸島の国有化宣言をおこなって以降、中国の海洋監視船が連日のように領海や領海への接続水域へ侵犯を繰り返し、中国の重大な確信的利益を犯すものとして対外活動を活発化させていた。海軍だけでなく空軍も加わり日本への挑発活動は少しずつエスカレートさせてきていたのでいずれ何らかの動きが出てくると予想されていた。
台湾漁民をサポートする中国と台湾の重火器を装備した巡視艦が日本との紛争衝突防止の名目で入れ替わり立ち代り島を周回し、日本の巡視艇の活動を実質的に抑止している。話がややこしくなっているのは普段仲の良くない台湾と中国の海軍同士が共同歩調を取っている事で、言わば領土問題では共同作戦で日本に対峙してゆく姿勢を鮮明にしていることである。今までは領土問題は棚上げにしておくことが大人の対応としてきた特に中国政府は、近年の国力上昇と軍備の拡張に伴い発言内容がはっきり変わってきた。歴史的に中国が内包する覇権的な性格が明確に表に出るようになってきたということなのだろう。自国の強大化と相対的な日本の弱体化の中で本音を隠す必要がなくなったと判断しているようである。中国と台湾の基本スタンスは歴史的に自分たちの領土であるという立場で共通しているところからこの問題については相手を排除しないというお互いの暗黙の了解がついているようである。話し合い解決を基本とする日本政府の外交戦略はもともと自分の領土であると主張する台湾・中国に通じるわけもなく、中国の棚上げ論に便乗し今日まで何もしなかった日本政府の無策も手伝って洋上での緊張感がもう3ヶ月以上続いていた。日本政府が頼りとする沖縄の米軍部隊は政府間の交渉を見守る姿勢のまま動かず、占拠の既成事実化が着々と積み上げられていた。国内世論は武器を持たない海上保安庁ではなく、海上自衛隊と共同した強制排除と領土の不法占拠者の逮捕を求める声の高まりは既に頂点に達していた。実力行使はもはや時間の問題となりつつある中、あくまで穏便な解決をもとめ、事を荒立てたくない政府は台湾漁民の自主的な退去を望みながらも海上自衛艦の護衛のもと、武力衝突なしで海上保安庁による逮捕をいつ決行するかその決断の時を計っていた。一番迷惑している沖縄の漁民とりわけ石垣島周辺の漁民の強い怒りは弱腰の日本政府だけでなく、見守るだけの駐留米軍と政府任せの県の対応にも向けられ、最早抑えきれない程のジレンマとなって沖縄県全体に不穏な空気を醸し出していた。

新垣は今年47歳になる企画課長である。大学卒業して直ぐ県庁に入り、今日まで財務企画畑一筋に堅実に仕事をこなしてきた。決して早くも無く遅くも無く、実に順調に昇進してきた、いわば県庁内エリートの一人である。中学の教員をしている妻・結衣と大学2年生の息子、高校3年生の娘がいる。学生時代、沖縄の歴史が知りたくて、経済学部の彼が琉球歴史研究会に入り1年後輩の文学部の女学生と知り合った。住んでいた所が近くであった偶然も重なり何時しか付き合うようになった。大学を卒業し県庁に入った後も付き合いは続き、彼女が中学の教員になって3年目にごく自然に二人は結婚した。共稼ぎの二人は忙しい職場に多くの時間を取られながらも上手く家庭との両立を図り、二人の子供に恵まれ、大きな喧嘩やトラブルもなく、ごく平凡な何処にでも見られる平和な公務員の家庭として今日まで過ごしてきた。
県の財政状況の厳しさは決して今年に限ったものではない。20年以上も前から同じような状況の厳しさは続いてきており、毎年その遣り繰りに頭を痛めてきた。昨年も今頃から恒例の東京詣を繰り返し、何とか地方交付金や補助金の確保に奔走し、前年並みの結果を得ている。予算獲得の為地元選出の国会議員の紹介で霞ヶ関の各省庁を廻り、夜は説明会と称して赤坂界隈の料亭で接待の毎日であった。効果も良く分からないまま従来からの慣習に従い、役人が役人を税金で持て成すという如何にも日本的な行為が新垣には何とも馴染めず、不快な思いを心の奥に溜め込んだまま、東京からの帰りの飛行機の座席に身を沈めることが多かった。
「何とかせんといかんな」「何時までも国頼みの予算編成では、沖縄に明日は無いのでは・・・」毎年予算編成にメドが立ち気持ちが一段落した時、漠然とした不安から心の奥で呟いてしまうが、忙しい毎日とどうすることも出来ない現実の中で気持ちは目の前の仕事の問題解決とその対応策に直ぐ切り替わってしまう。
今年もまた昨夜東京事務所から説明会設定の連絡が入り、明日には出張せねばならない。
沖縄近海での大騒ぎと緊迫度を増す国際関係をよそに日常の営みは相変わらず平平凡凡として10年前、20年前と少しも変わらなかった。
今日最後の福祉関連予算担当者会議でいつもの様に県の財務の窮状を縷々説明し、昨年並みの予算編成すら難しくなりつつある現状の理解を得るべく、各担当者を前に膨れ上がる予算要求を牽制し、ゼロべースからの見直しと新規要求・補助金のカットを強く申し渡し、多くの出席者の強い不満の視線を避けながら部屋を出た。会議に付き合っても良いと思ったが、出てくる切実な要望とそれに応えきれない現実はいつも同じで、冷たく突き放さざるを得ないいつもの自分の立場にいたたまれず、出張準備を理由に会議を中座したのである。時刻は夕方の5時近くになっていた。
自分の部屋に戻り、明日の出張準備に入ろうとした矢先、とんでもないニュースが飛び込んできた。膠着していた尖閣諸島の占有問題に業を煮やした沖縄の学生らしい若者5名と石垣島の漁民10名が小型の漁船3隻に乗って日本の巡視艇の停船命令を振り切って島に上陸したという。そして当然のことながら、上陸の際台湾の漁民との間で激しい衝突が起こり、双方に怪我人が多数出た模様である。台湾の漁民は棒の先端に鉤形の鉄のフックが付いた道具で上陸しようとした若者と日本の漁民に襲い掛かり頭や肩にかなり深い傷を負わせた模様である。混乱の制止に入った海上保安官にも多数怪我人が出ているようで、詳細は不明であるが、上陸した海上保安官は不法占拠の10名を身柄拘束できた模様という一報であった。ところがすぐ次に入ってきた情報に耳を疑った。予想外の事態が発生したようで現場上空で取材していた報道関係者によると、この騒乱を監視していた中国巡視艦から銃をもった武装兵士ら十数名が一気に島に上陸し、拘束され日本の巡視船に移送されそうになった台湾漁民を実力で奪い返す動きに出たのである。現場の混乱はまさに銃を構えた中国人兵士と領土の不法侵犯で逮捕・連行しようとする日本の海上保安官が対峙し、一触即発の危険な状況となり、今まで逮捕に強く抵抗し大声で抗議し暴れていた台湾人も、そして頭から肩から血を流し横たわる者とそれを助けようとする日本人も、混乱する現場にいたすべての者が、状況の変化にどう対応すべきか分からず、銃口の前に呆然と立ち尽くすだけであった。結局海上保安官は兵士の指示に従い捕らえた者たちの手錠を外し、不法占拠者を全員解放した。そして台湾漁民は兵士の指示に従い全員自分たちが乗ってきた船と中国の巡視艦に分乗し何事も無かったように島から去っていった。この鮮やかな訓練された中国軍兵士の差配はこの三ヶ月、解決の糸口も見出せなかった日本側にとって国際問題、とりわけ領土問題への対応の難しさと常日頃からのあらゆる可能性に対する国の確固たる対応策を訓練という形で現場に徹底しておくことの重要性を痛いほど知らされた。それは現場で銃口の前で何も出来ず、逮捕目前で逃がさざるを得なかった海上保安官の悔し涙が、雄弁に物語っていた。これから如何に日本政府が国際社会に向け、中国軍兵士の蛮行に対し抗議をしても、国際的には日本の無策・対応の悪さを笑われるだけで恐らく得られるものは何も無いと思われ、逆に現在韓国との竹島問題やロシアとの北方領土問題への悪影響さえ懸念される。早期収集が出来ず、多数の怪我人まで出しながら、その分かっている犯人さえ逮捕できなかった今回の国辱的事件は多くの課題を残したまま、またもや曖昧に処理される可能性が高かった。それは、敗戦後日本がゼロから国を作り上げていく過程で決定的に怠ってきた国を守ることの意味、そして日本人の心の底辺に流れ、無意識の内に引き継がれ日常生活を支えてきた文化や習慣・宗教・歴史という、日本人として立つべき土台とは何だったのか、その中で守るべきものは何なのかを問わずに来たつけが廻ってきたようである。検証することなく今日まで来てしまったこと、戦後の貧しさから脱出する為社会経済の発展至上主義でその他をすべてかなぐり捨てて国を挙げて物の豊かさを求めてきたことへの痛烈な反省を求められるように思えた。同時に沖縄県民にとっても同様に琉球国として独自の文化を築いてきた国民が日本という異国民に力で統合され、結果として戦時中は日本の盾として多大の犠牲を余儀なくされたにも拘らず.且つ戦後、日本復帰の選択が沖縄の幸せを実現するものと多くの人が期待したにも拘らず裏切られ、多くの裏切りの中で自分の有るべき姿が見えぬままに今日に至った反省と、沖縄と日本の関係を問う良い機会になった。そして、これは今までも米軍基地問題で自分たちを守ってくれない日本政府への沖縄県民の強い不満に決定的に火をつけ、怨嗟という形の反日・琉球独立思想を大きく膨らませる結果を将来呼び込むことになるとはまだ誰も気付いていない。
領土を守ると言う大儀が有るにもかかわらず、銃を構えた兵士の前では丸腰の実体験のない海上保安官には強烈な恐怖感のため身動きがとれず、不法占拠者の連行もままならなかった後味の悪さは大きな反省と同時に日本という国の制度的な欠陥をも晒す結果となった。中国軍人の強行措置に体を張って阻止しようとした海上保安官もいたものの、銃口が、それも目の前から自分の胸に狙いが定まっている状況では、正義感だけで動けるわけもなく、なんの抵抗もできずに黙って彼らの指示に従わざるをえなかった。中国軍人の実に鮮やかな救出劇といってよい現場で、残された日本人は、東シナ海に静かに沈んでいく真っ赤な太陽を背にただ呆然と立ちつくすしかなすすべが無かったのである。

1. 新しい動き

台風シーズンが過ぎた10月下旬になっても、沖縄はまだまだ暑い日が続いている。日中の最高気温は夏日25度を越え、晴れた日には30度近くまで上がってしまう。亜熱帯に位置する沖縄にとっては当たり前のことで長い夏の終わりの毎年の風景である。毎年繰り返される季節の移ろいの中で生活している人々にとっては日々の暑さなど、話題になることもない日常に過ぎない。
今朝も晴れ上がった青い空から相変わらず強い日差しが、通勤途中の運転する車の窓越に顔を射てくる。沖縄県庁の財務企画課に勤める新垣聡は車のハンドルを握りながら今日一日の予定をあれこれ考えていた。この時期になると来年の予算案作りの最終段階で、調整の為あちこち庁内を走り回らなければならない。そして会議に追われて毎日が過ぎて行く。今日は膨れ上がる福祉関連予算の大幅カットを認めさせる為の重要な会議がセットされており、予想される混乱に沈んだ気持ちになる自分を懸命に励ましていた。現在、国も県も日本中のあらゆる町・村に至るまで高齢化に伴う年金増と医療費増、介護補助費用・生活補助費用・障害者支援費用等の増加が毎年減ること無く予算編成で膨れ上がり、増えない収入とのバランスを如何に調整するか担当部署はいつも胃が痛む思いをするのがこの時期なのである。沖縄では5年ほど前から予算のゼロベースでの見直し案作りが行われてきているが、結局は収入が増えない限り縮小均衡にならざるを得ない現状の中で、担当責任者である新垣には考える程に気が滅入ってしまうのである。収入減をどう支出を抑えて遣り繰りするか会議をいくら重ねても結局無いものはないし、削れるところは目一杯削っているので、最後の頼みは国からの一括交付金にならざるを得ない現実に無性に腹立たしく、朝の出勤途中の車の中では、無力感に落ち込んでしまう自分との葛藤になる。この悪循環は永々と過去から今日まで続いている言わば悪弊であった。その為国から引き出す支えを切らさぬよう霞ヶ関担当を東京に駐在させ、地元選出の国会議員と連絡しあって常に各省庁との関係を密にしてきた。新垣自身2年ほどその役割を勤めた東京での経験を持っていた。彼の後任が今も東京で情報収集に当たっているし、彼自身も秋から冬の予算シーズンには東京事務所からの要請で東京詣でを繰り返していた。沖縄の場合は他の県と違って米軍基地の普天間・嘉手納だけでなく、多くの米軍関連施設があり、日本の安全保障を左右する大きな問題が絡む為、比較的容易に財政援助は受けやすい環境にはあった。しかし近年の国の財政危機は2011年の東日本大震災以降急激に悪化が進み、消費税が5%から10%に上がった2015年後も一向に改善の見通しがたっていない。2020年以降、この補助金制度はほぼ破綻状況にあった。昔は霞ヶ関の権威と地方行政機関へのコントロールの象徴として機能していた省庁毎の分配方式は財源不足からほんの限られた地域にのみ配られるようになり、それに変わった一括交付金制度が細々と維持されているだけである。沖縄は日本の安全保障という特殊事情から、かろうじてまだ維持されているのが現状である。それでも年間3000億円程あった一括交付金と各省庁からのひも付き交付金、取分け防衛省関連の補助金は予算編成上不可欠のものとなっている。しかし、それも毎年減り続け、昨年と同じ1000億円を維持することすら難しくなりつつあった。沖縄県の年間予算額はおよそ5700億円でその内訳は県内からの地方税や県債・その他の収入が1700億円、国からの地方交付税や国庫の支出がほぼ半分の2800億円、これに振興策や一括交付金等等の1000億円を上乗せしても200億円程歳入不足になり、実に危うい財政バランスなのである。これまでも県としてIT企業やバイオ企業の誘致、地元産業の活性化の為いろいろと対策は講じられてきたが県財政を支える程の成果を得るに至っていない。結局年間500万人を越える観光客が落としていく観光関連産業からの収入に頼らざるを得ない現状が延々と続くことになってしまう。
しかし、今年は県内の雰囲気が例年と違ってかなり緊迫感が漂っていた。それはこの7月10日に台湾と中国の漁民10名ほどが尖閣諸島の中国名釣魚島に上陸し、頑丈なテントと大量の生活物資を運び込み占拠する事件が発生したからである。そしてこれをきっかけに今まで棚上げ論を主張してきた中国・台湾の両政府が敢然と自国の領土であると表明し、島を占拠している漁民を守る為排除しようとする日本の海上保安庁の動きに警告を発してきたのである。俄然緊迫する国際情勢の中で、穏便な解決を望む日本政府の驚きと焦りは目を覆うばかりで、対応に追われる外務省の右往左往と政治家の無能さばかりがクローズアップされ、日本中が暗澹たる気持ちにされていた。これがきっかけとなり内外からの沖縄への観光客が大幅に減ってしまったのである。7月・8月の一番の観光シーズンが例年の半分以下と激減し、沖縄の経済を支えるあらゆる業種にその影響が広がりつつあった。
こうした事態が起こりうることは大分前から指摘されてきた。2012年に日本政府が尖閣諸島の国有化宣言をおこなって以降、中国の海洋監視船が連日のように領海や領海への接続水域へ侵犯を繰り返し、中国の重大な確信的利益を犯すものとして対外活動を活発化させていた。海軍だけでなく空軍も加わり日本への挑発活動は少しずつエスカレートさせてきていたのでいずれ何らかの動きが出てくると予想されていた。
台湾漁民をサポートする中国と台湾の重火器を装備した巡視艦が日本との紛争衝突防止の名目で入れ替わり立ち代り島を周回し、日本の巡視艇の活動を実質的に抑止している。話がややこしくなっているのは普段仲の良くない台湾と中国の海軍同士が共同歩調を取っている事で、言わば領土問題では共同作戦で日本に対峙してゆく姿勢を鮮明にしていることである。今までは領土問題は棚上げにしておくことが大人の対応としてきた特に中国政府は、近年の国力上昇と軍備の拡張に伴い発言内容がはっきり変わってきた。歴史的に中国が内包する覇権的な性格が明確に表に出るようになってきたということなのだろう。自国の強大化と相対的な日本の弱体化の中で本音を隠す必要がなくなったと判断しているようである。中国と台湾の基本スタンスは歴史的に自分たちの領土であるという立場で共通しているところからこの問題については相手を排除しないというお互いの暗黙の了解がついているようである。話し合い解決を基本とする日本政府の外交戦略はもともと自分の領土であると主張する台湾・中国に通じるわけもなく、中国の棚上げ論に便乗し今日まで何もしなかった日本政府の無策も手伝って洋上での緊張感がもう3ヶ月以上続いていた。日本政府が頼りとする沖縄の米軍部隊は政府間の交渉を見守る姿勢のまま動かず、占拠の既成事実化が着々と積み上げられていた。国内世論は武器を持たない海上保安庁ではなく、海上自衛隊と共同した強制排除と領土の不法占拠者の逮捕を求める声の高まりは既に頂点に達していた。実力行使はもはや時間の問題となりつつある中、あくまで穏便な解決をもとめ、事を荒立てたくない政府は台湾漁民の自主的な退去を望みながらも海上自衛艦の護衛のもと、武力衝突なしで海上保安庁による逮捕をいつ決行するかその決断の時を計っていた。一番迷惑している沖縄の漁民とりわけ石垣島周辺の漁民の強い怒りは弱腰の日本政府だけでなく、見守るだけの駐留米軍と政府任せの県の対応にも向けられ、最早抑えきれない程のジレンマとなって沖縄県全体に不穏な空気を醸し出していた。

新垣は今年47歳になる企画課長である。大学卒業して直ぐ県庁に入り、今日まで財務企画畑一筋に堅実に仕事をこなしてきた。決して早くも無く遅くも無く、実に順調に昇進してきた、いわば県庁内エリートの一人である。中学の教員をしている妻・結衣と大学2年生の息子、高校3年生の娘がいる。学生時代、沖縄の歴史が知りたくて、経済学部の彼が琉球歴史研究会に入り1年後輩の文学部の女学生と知り合った。住んでいた所が近くであった偶然も重なり何時しか付き合うようになった。大学を卒業し県庁に入った後も付き合いは続き、彼女が中学の教員になって3年目にごく自然に二人は結婚した。共稼ぎの二人は忙しい職場に多くの時間を取られながらも上手く家庭との両立を図り、二人の子供に恵まれ、大きな喧嘩やトラブルもなく、ごく平凡な何処にでも見られる平和な公務員の家庭として今日まで過ごしてきた。
県の財政状況の厳しさは決して今年に限ったものではない。20年以上も前から同じような状況の厳しさは続いてきており、毎年その遣り繰りに頭を痛めてきた。昨年も今頃から恒例の東京詣を繰り返し、何とか地方交付金や補助金の確保に奔走し、前年並みの結果を得ている。予算獲得の為地元選出の国会議員の紹介で霞ヶ関の各省庁を廻り、夜は説明会と称して赤坂界隈の料亭で接待の毎日であった。効果も良く分からないまま従来からの慣習に従い、役人が役人を税金で持て成すという如何にも日本的な行為が新垣には何とも馴染めず、不快な思いを心の奥に溜め込んだまま、東京からの帰りの飛行機の座席に身を沈めることが多かった。
「何とかせんといかんな」「何時までも国頼みの予算編成では、沖縄に明日は無いのでは・・・」毎年予算編成にメドが立ち気持ちが一段落した時、漠然とした不安から心の奥で呟いてしまうが、忙しい毎日とどうすることも出来ない現実の中で気持ちは目の前の仕事の問題解決とその対応策に直ぐ切り替わってしまう。
今年もまた昨夜東京事務所から説明会設定の連絡が入り、明日には出張せねばならない。
沖縄近海での大騒ぎと緊迫度を増す国際関係をよそに日常の営みは相変わらず平平凡凡として10年前、20年前と少しも変わらなかった。
今日最後の福祉関連予算担当者会議でいつもの様に県の財務の窮状を縷々説明し、昨年並みの予算編成すら難しくなりつつある現状の理解を得るべく、各担当者を前に膨れ上がる予算要求を牽制し、ゼロべースからの見直しと新規要求・補助金のカットを強く申し渡し、多くの出席者の強い不満の視線を避けながら部屋を出た。会議に付き合っても良いと思ったが、出てくる切実な要望とそれに応えきれない現実はいつも同じで、冷たく突き放さざるを得ないいつもの自分の立場にいたたまれず、出張準備を理由に会議を中座したのである。時刻は夕方の5時近くになっていた。
自分の部屋に戻り、明日の出張準備に入ろうとした矢先、とんでもないニュースが飛び込んできた。膠着していた尖閣諸島の占有問題に業を煮やした沖縄の学生らしい若者5名と石垣島の漁民10名が小型の漁船3隻に乗って日本の巡視艇の停船命令を振り切って島に上陸したという。そして当然のことながら、上陸の際台湾の漁民との間で激しい衝突が起こり、双方に怪我人が多数出た模様である。台湾の漁民は棒の先端に鉤形の鉄のフックが付いた道具で上陸しようとした若者と日本の漁民に襲い掛かり頭や肩にかなり深い傷を負わせた模様である。混乱の制止に入った海上保安官にも多数怪我人が出ているようで、詳細は不明であるが、上陸した海上保安官は不法占拠の10名を身柄拘束できた模様という一報であった。ところがすぐ次に入ってきた情報に耳を疑った。予想外の事態が発生したようで現場上空で取材していた報道関係者によると、この騒乱を監視していた中国巡視艦から銃をもった武装兵士ら十数名が一気に島に上陸し、拘束され日本の巡視船に移送されそうになった台湾漁民を実力で奪い返す動きに出たのである。現場の混乱はまさに銃を構えた中国人兵士と領土の不法侵犯で逮捕・連行しようとする日本の海上保安官が対峙し、一触即発の危険な状況となり、今まで逮捕に強く抵抗し大声で抗議し暴れていた台湾人も、そして頭から肩から血を流し横たわる者とそれを助けようとする日本人も、混乱する現場にいたすべての者が、状況の変化にどう対応すべきか分からず、銃口の前に呆然と立ち尽くすだけであった。結局海上保安官は兵士の指示に従い捕らえた者たちの手錠を外し、不法占拠者を全員解放した。そして台湾漁民は兵士の指示に従い全員自分たちが乗ってきた船と中国の巡視艦に分乗し何事も無かったように島から去っていった。この鮮やかな訓練された中国軍兵士の差配はこの三ヶ月、解決の糸口も見出せなかった日本側にとって国際問題、とりわけ領土問題への対応の難しさと常日頃からのあらゆる可能性に対する国の確固たる対応策を訓練という形で現場に徹底しておくことの重要性を痛いほど知らされた。それは現場で銃口の前で何も出来ず、逮捕目前で逃がさざるを得なかった海上保安官の悔し涙が、雄弁に物語っていた。これから如何に日本政府が国際社会に向け、中国軍兵士の蛮行に対し抗議をしても、国際的には日本の無策・対応の悪さを笑われるだけで恐らく得られるものは何も無いと思われ、逆に現在韓国との竹島問題やロシアとの北方領土問題への悪影響さえ懸念される。早期収集が出来ず、多数の怪我人まで出しながら、その分かっている犯人さえ逮捕できなかった今回の国辱的事件は多くの課題を残したまま、またもや曖昧に処理される可能性が高かった。それは、敗戦後日本がゼロから国を作り上げていく過程で決定的に怠ってきた国を守ることの意味、そして日本人の心の底辺に流れ、無意識の内に引き継がれ日常生活を支えてきた文化や習慣・宗教・歴史という、日本人として立つべき土台とは何だったのか、その中で守るべきものは何なのかを問わずに来たつけが廻ってきたようである。検証することなく今日まで来てしまったこと、戦後の貧しさから脱出する為社会経済の発展至上主義でその他をすべてかなぐり捨てて国を挙げて物の豊かさを求めてきたことへの痛烈な反省を求められるように思えた。同時に沖縄県民にとっても同様に琉球国として独自の文化を築いてきた国民が日本という異国民に力で統合され、結果として戦時中は日本の盾として多大の犠牲を余儀なくされたにも拘らず.且つ戦後、日本復帰の選択が沖縄の幸せを実現するものと多くの人が期待したにも拘らず裏切られ、多くの裏切りの中で自分の有るべき姿が見えぬままに今日に至った反省と、沖縄と日本の関係を問う良い機会になった。そして、これは今までも米軍基地問題で自分たちを守ってくれない日本政府への沖縄県民の強い不満に決定的に火をつけ、怨嗟という形の反日・琉球独立思想を大きく膨らませる結果を将来呼び込むことになるとはまだ誰も気付いていない。
領土を守ると言う大儀が有るにもかかわらず、銃を構えた兵士の前では丸腰の実体験のない海上保安官には強烈な恐怖感のため身動きがとれず、不法占拠者の連行もままならなかった後味の悪さは大きな反省と同時に日本という国の制度的な欠陥をも晒す結果となった。中国軍人の強行措置に体を張って阻止しようとした海上保安官もいたものの、銃口が、それも目の前から自分の胸に狙いが定まっている状況では、正義感だけで動けるわけもなく、なんの抵抗もできずに黙って彼らの指示に従わざるをえなかった。中国軍人の実に鮮やかな救出劇といってよい現場で、残された日本人は、東シナ海に静かに沈んでいく真っ赤な太陽を背にただ呆然と立ちつくすしかなすすべが無かったのである。

2. 友との出会い

翌日の朝、新垣は東京行きの飛行機に乗る為、那覇空港の出発ターミナルにいた。8時25分発JAL2352便を待つ乗客は沖縄近海での紛争の影響で予想通り例年の半分程度の数でしかなかった。新聞を広げると昨日の事件が大きく取り上げられており、写真付きで日本政府の対応の悪さ・遅さに対する批判と中国の武装軍人の暴挙を非難する大見出しがあちこちのページに踊り、正に尖閣問題一色という感じで、しばらくはこの話題が続くものと思われた。しかし。恐らく昨日の紛争解決により、それが日本にとって解決には程遠いものであったにせよ、1ヶ月もすれば人々の記憶から少しづつ遠ざかり、それに連れて旅行者の数も戻ってくると思われるが、沖縄にとってこのままで良い訳はなく、逆に大きな課題を抱え込んだような気がしていた。ロビーで出発のアナウンスを待ちながら、フッと自分が誰かに見つめられている感じがしてそちらを見ると、髭をたくわえ、多少白髪の混じった髪を無造作に後ろでまとめ輪ゴムで留めた浅黒くて、眼光の強い顔がこちらを見ていた。ソファーの反対側に座っていた男が、目と目が会うと直ぐ立ち上がって白い歯を見せた。
「新垣じゃないか?しばらくだなー。東京出張か?」
と顔を崩しながら近いづいてきた。
「やー。島袋じゃないか。どーしてた?元気そうじゃないか」
新垣も意外な出会いに顔を崩し立ち上がって握手をした。音信が途絶えてから何年振りであろうか。
「今どうしてる?」
新垣が懐かしい友に近況を質した。大学の同じサークルにいた同い年の島袋はあまり目立つ存在ではなかったものの、意外と気が合ってよく議論をした間柄であった。新垣は卒業と同時に県庁勤めを始めたのに対し、島袋は大学に残る選択をした。研究生として沖縄の原点となる琉球についてもっと深く勉強したいという希望を持っていたからである。家が建築会社で、その関連会社をいくつも経営している比較的裕福な家庭なので、大学に残っても特別生活に困ることも無く、普通のサラリーマン家庭に育った新垣のように、卒業と同時に働いて家を助けるという発想はもともとなかった。当時は羨ましい身分だなーと冗談を言い合ってきたが徐々に疎遠になり、新垣の結婚式に出てくれたのを最後に今日まで全く音信がなかった。
「どこに住んでるんだ? 沖縄に居るんか? 大学の方はどうした?」
矢継ぎ早の質問に顔を崩して、島袋はちょっと困った顔でひげを触りながら、
「そんなに急くなョ。暫くご無沙汰だったので話したいことが山ほど有るんだ。この便で東京行くんだろ?今晩東京で一杯いくか?」
「いや、行きたいが、すまんが、予定が入っていて無理だ。東京では時間が取れないので、こちらに戻る来週に会えないか?」
「相変わらず忙しそうにしているな。お前に合わすから都合の良い日に電話を寄こせ。新しい名詞をやろう」
島袋は胸のポケットから名詞を出すと新垣に渡した。
「ほー、名詞なんか作ってるんだ」
少し茶化しながら名詞を見ると、レキオ資源開発(株)社長 島袋宗一とあった。今まで持っていたイメージと結びつかない社長の文字に違和感と興味を感じながら、大学での研究生活から今日までの彼の遍歴に強い興味を覚えた。
出発案内があって周りの乗客が立ち上がりゾロゾロ出発ゲートに向かい始めた。それを見ながら新垣は
「よし。飛行機内では話は無理だろうから必ず電話するよ。元気そうで何よりだ。こっちは相変わらずだがね」
二人も立ち上がり、並んでゲートに向かった。歩きながら学生時代の友人たちの消息を話したり、まだ結婚していない島袋の近況に驚いたり、軽い世間話をしながら二人は機内に消えた。

11月に入ると日の入りがめっきり早くなり、午後の6時を過ぎた頃から暗くなり始める。時々寒さを感じる日もあるものの、沖縄の夜は実に快適で過ごし易い。今夜も月が輝き爽やかな風が優しく吹き抜けていた。
空港で出会ってから二週間後の夜7時過ぎ、二人の姿は那覇市内からちょっと離れた港に近い居酒屋にあった。早めに来た島袋はすでに二杯目のビールジョッキに口を付けていた。遅れてタクシーで着いた新垣は好きな泡盛をボトルで注文し、自分で水割りを作ると一気にグラスを空けた。大きく息を吐くと
「ふー、旨いナー。やっぱりこれが一番だ。島、お前は今日はビールか?」学生時代の呼び名で話し掛けると昔が蘇るようで頬が緩んだ。
「いや、やっぱり泡盛が良いな。これ飲んでから」
そう言ってジョッキのビールを飲み干すと、同じく泡盛の水割りを自分で作った。いざ面と向かって見ると、二人とも話したいことが有りすぎて何から聞くか戸惑ってしまい、つい当たり障りの無い世間話に流れ、酔いが廻るのを待っているように見えた。
「先週、名詞を渡したろう。あれは3年前に設立した新しい会社なんだ。沖縄近海に眠る資源、ターゲットは頁岩にあるシールドガスなんだが、新、話はきいたことあるだろう。新しいエネルギーの探査をやっているわけョ」
「へー、島がそんな領域に関心があるとは知らんかったな。親父さんの会社‘琉球建設’はどうした?」
身内の建設会社との絡みで新規事業でも始めたのかと推測して聞いた。
「それよ。ずーと順調に来ていた経営が本土から来る大手の建設会社に徐々に崩され、時間とともに業界全体が系列下して、抵抗する会社は排除されていく形がはっきり見えるようになったのさ。その為先頭きって反対してきた親父のグループ会社も結局流れに抗しきれず、8年前すべての経営権を売却してしまった。名前だけ残してネ。親父は全くやる気を無くしてしまった訳ョ。その悔しがりかたは半端じゃなかった。今は生きるしかばねかな」
意外な返答に「知らなかったナー」としか返しようが無かった。
「しかし、その頃の俺は会社経営には全く興味が無く、琉大と鹿児島大でやってきた琉球の歴史と伝統・文化の中で、今に続く沖縄のアイデンティティー探しをやってきた自分としては、当時、日本化・本土化という強烈な波で一体化されていく現状に強い危機感を持っていて、現実に何をすべきか大変悩んでいた時期よ。学校の現場でも教えられることが無く、明らかに日本の歴史とは違う琉球の歴史をどう伝えていくか、どちらかと言うと沖縄では日本の楯となった戦争での犠牲・被害の多さ、そればかりが強調されて、もっと以前の琉球の歴史に注目する人が少なすぎるわけサ。どうやったら沖縄として独り立ちできるのか。それを考える時、人は独り立ちというと経済的に自立することばかり考えるが、もちろん経済も大事だが、それ以上に沖縄の心の自立、すなわち沖縄の歴史から学ぶアイデンティティーを意識することなしにはこれからの沖縄はないのではないか、と考えるようになっていた。それにはまずすべてが、すなわち財政も政治も行政も社会形態から家族のあり方まで、本土化していく現実にノーと言わないと何も始まらんと思う訳ョ」
酔いが廻ってきていよいよ口が滑らかになってくると今まで胸の内に溜まっていたものが一気に噴出されるように話し始めた。それは学生時代のまさに島袋の姿であった。
「かなり面白いテーマだが、今の話と新会社がどう結びつくんだ?」グラスの泡盛を一気にあおって新垣が突っ込んだ。新垣も耳のところまで酔いで赤くなっていた。
「結論から言うと、財政的自立も、精神的心の自立も両立させる為には、沖縄は琉球国として日本から独立するしか道が無いということさ」
島袋は酔いが廻ってきた目でじっと新垣を見据え、この結論はもう動かないぞと言わんばかりの断固とした口調で言い終わると空になった新垣のグラスと自分のグラスに泡盛を注ぎ、氷と水を入れてマドラーでかき回した。
「おい、おい穏やかじゃねーな」新垣はグラスを受け取ると一口飲んでから
「まだ良く分からんなー」と言った。しかし、琉球独立と言う言葉に頭の中で何かがカチンとスイッチが入って、何故か合点がいった実感があった。それは長年仕事の中でいつも感じてきた今のままではいかんぞ、何とかせんと行かんぞ、と心の底で漠然と抱いてきた不安に対する明快な解答を得たような予感を感じたからである。
「沖縄には県を支える産業が無い。まさにその通り。これは新!」と学生時代に良く議論をした時の愛称‘シン’で呼ぶと「お前の領分だろ。今までいろいろの分野に県は投資をして産業の育成に便宜を図ってきた。市も町も村も皆だ。しかし育たない。その為子供たちの就職先がなく、いつも全国で最低の就職率になる。俺が琉球の歴史や生活習慣から言葉までもう一度見直すことで沖縄の良さを再認識しようと言っても食えなきゃあしょうがないと反論が返って来る。きれいごとをいくら言っても明日の仕事がなきゃあ話にならないわけで、沖縄の柱になる産業が必要だと言うことになってしまう。そこで考えたのが新会社さ。うまく行けば海外への輸出も出来、小さな沖縄県ぐらい簡単に食えるようになる産業を作ってやろうじゃないかというのが俺の会社なんだ。これで問題を一気に解決してしまえ。石油に替わる新しいエネルギーとして注目されているシェールガスが何と沖縄近海や日本近海にごまんとあるというので始めたわけよ。」一息次いてグラスの泡盛をグッと飲み干すと
「日本のあちこちで採掘が検討されているにも拘らず、本格的に動き始めたのは沖縄だけさ。リスク回避の為国の予算で行える国家プロジェクトにしようと地域間でそれぞれ有力者を立て暗闘が繰り返されていてちっとも前に進まない。確かに金が飲むように掛かるもんだから、国の税金で賄えるならそれに越したことは無いが、これからの沖縄の自立を考える時、やはり早く手を上げるのが得策かなと思い、親父の残してくれた財産をつぎ込んでやり始めた訳よ。しかし、これが思った以上に金食い虫で、手持ちの金が見る見る減っていくのでこのまま続けるとなると少々心もとなくなって、先週東京で日本とアメリカの投資会社と大手の商社を幾つか訪問し、将来の投資の可能性を打診してきたのさ。元々は向こうさんからの強いアプローチなので皆反応はすこぶる良かったが、自分としては余り頼りたくないのよ。親父の会社のように将来全部取られかねないからね。沖縄では沖電さんと幾つかのガス会社が協力してくれている。お前も知っていると思うが、同窓の比嘉純一が沖電の取締役になっていてかなりバックアップしてくれている」
「今までの探索で3箇所有望なところが見つかったのよ。石垣島周辺、本島周辺の太平洋側と東シナ海側にそれぞれ1箇所、その内比較的海底までの距離が1200メートルと浅くて海が穏やかで作業がやり易い金武湾周辺が第一候補てとこかな」ちょっと得意げに
「来年の春頃から採掘に入れると思うョ。技術的にはすべて解決していて後は掘り出すだけョ。もちろん一つの産業として動き出すまでに4~5年は掛かると思うが、具体的に物が動き始めたら面白いことになるゾ」
「なぜ県からの支援を申し込まないんだ?新規のビジネスへの支援制度があるのに・・・」新垣が不満顔で聞くと
「最初はそれも考えて検討したサ。しかし、煩雑な書類が多い割に、承認される金額が小さ過ぎて話しにならない。こちらは億単位の支援を望んでいるのに、県は1000万単位でしか応援できないと言う話なので無いよりいいだろうという考えも出来るが、やはり動きが遅い。本当に沖縄の明日を創ろうとしているのか疑うね」
「公の立場でいうと要望は沢山あるわけで、一社だけに偏った支援はできないということなのさ。試掘と本掘の許可はもう得ているのか?」
「それよ。書類は出していて、何度もプッシュしているが、調査の為の試掘には簡単にOKが出たが、本掘のOKがなかなか出ない。どうもこの動きを嗅ぎつけた本土の大手企業グループが霞ヶ関に圧力を掛け共同での開発事業にしたいようだ。裏で政治家も動いているようで、知事の方に圧力が掛かっているんじゃないか?」
「多いに有りうるな」そう言いながら先週の東京での会合で同行した県選出の国会議員が妙なことを言っていたのを思い出した。
「国家プロジェクトとすべき案件を沖縄単独で進めようとする跳ね上がり企業がいて、勝手に動いているのでどう対処するか今思案している。県としても動きをチェックしてほしい」というものであった。あの時はいかに国から補助金を引き出すか、そちらで頭が一杯だった為、あまり気にも留めず聞き流してしまったがこの案件のことを指すようであった。
「早く手を打たないと潰されかねないな。先週会った与党民進党の上地議員が妙なことを言っていたので恐らく彼が霞ヶ関の意向を汲んで知事に圧力を掛けているのだろう。元々沖縄出身なのでお前の思いを説明すれば分かってくれんじゃないか」
「そう言えば沖電の比嘉から至急会いたいというメールが来ていたが、関係が有りそうだな」
島袋はそう言うと携帯を出し、誰かに電話を入れた。時間はもう10時を過ぎていたが相手は直ぐ出た。
「やー。夜分すまん。メールの至急の用件て何だい」やはり相手は沖電の比嘉のようであった。
「・・・・・・・・・」
「そうか。圧力が掛かってきたナ。今県庁にいる新垣と飲んでいるが、先週東京で民進党の上地と会って、俺の仕事の件でゴチョゴチョ言われたらしい。明日、昼飯でも一緒に食べようか。リーガホテルのロビーで12時半!OK」携帯を切ると新垣に向かって、
「新!お前も明日お昼に同席できないか?比嘉を紹介するよ」
「イヤー、行きたいが、ちょっと無理だなー。会議が立て込んでる。次の機会にしよう。確か来週後半に上地議員がこちらに来ると言う情報が入っていたナ。予定を確かめて時間が取れたら会合を設定しよう。今の状況からすると早めに手を打たないと取り返しがつかなくなりそうだ。何とか上地をこちらの味方に引き入れておかないとこれからの仕事がやりにくくなるだろう。お前の考えも良く分かったし、県としても何が出来るか側面援助の形で考えてみよう。ちょっと危険だが、沖縄の有力者・安次嶺 崇に声をかけてみようか? 話がややこしくなりそうで有ればお出まし願うのも良いかもしれない」
安次嶺は沖縄の言論人としてかなり有名な長老で、80歳を越えた今でも皆から安次嶺爺と呼ばれ親しまれている。学生時代から新左翼として活躍した人で、沖縄の新聞社に入った後は政治記者となり、どちらかと言うと民族主義派的な沖縄独立主義者と見られている。彼は1972年の沖縄の日本復帰運動のピークだった当時、世の風潮に強い警鐘を鳴らし、安易な復帰に反対キャンペーンを張り、沖縄の今日を予見するような強い懸念を示したことで有名になった。今でも政治家や企業経営者に隠然とした影響力を持っている。
「おお!安次嶺爺は良く知っている。実は家の親父が一番尊敬している人の一人さ。俺も親父に連れられて、何度かパーティーで会っている。そうか。あの爺さんがいるのを忘れていたよ。それは良いアイデアかもしれない」島袋は遠くを見るような目をして何かを思いだすようにしてから、急に真顔になって呟いた。
「実は今が一番の正念場なんだよ。金武湾に面した高台に親父の会社の土地があって、そこにシェールガスの最終貯蔵タンクを作り始めたところなのよ。今までのパイロット施設の100倍位大きいもので、来年の3月には完成予定さ。海底への掘削機械もそれに連動するパイプラインも準備はほぼ整っているので、何時本掘が始まってもいいようになっているが、まだ肝腎の認可が下りない。こんな状況なのさ。上地との面談が重要な鍵になりそうだ」
島袋の風貌からは思い描けないような、やはりいろいろ苦労があるんだろうなと感じながら、新垣はこのプロジェクトを何とか応援し、成功させなければと強く心に誓っていた。このプロジェクトの向こうに、行き詰まって閉塞した沖縄の現状を打開する未来が見えたような気がしたからである。
「来週後半、夜はなるべく明けておいてくれ。会談がセットされ次第連絡するから」そう言って今夜の飲み会はお開きになった。

翌日の新垣の動きは早かった。上地議員の地元秘書に電話を入れ、翌週の予定を聞きだすと知事室に出向き、知事の細かな行動予定から上地議員との会食の日時を割り出した。そしてその日の二日前に沖縄入りする夜の飛行機の到着便に合わせ宿泊予定のホテルに会談を設定した。秘書を通じて本人の了解を得たところで当日の出席者をどうするか新垣は悩んでいた。島袋と自分だけでなく、彼の事業を援助している沖電の比嘉も加え、更に沖縄の重鎮安次嶺爺を同席させ、一気に上地の取り込みを計るべきではないか。そもそも琉球独立と言ってもどんな大義があるのか、そのプロセスが現実的で実現可能性があるのかを考えないと余りにトッピな空想に過ぎないようにも思え、じっくり計画を作り上げないとすべてが霧散しかねない。新垣はことの重大さに身振いした。
二日後の夜、新垣と島袋の姿は首里城に近い丘の高台にある瀟洒な洋館の中にあった。ここは安次嶺 崇の自宅である。庭には形の良い琉球杉やガヂュマルの木・羊蹄木・黒木といった亜熱帯地方特有の高木とハイビスカスやユウナの低木が植えられており、手前の棚の上には鉢に植えられた趣味の胡蝶蘭が白と薄紫の花を品良く咲き揃い、決して大きくは無いが全体に上手くまとまった奥行きのある落ち着いた雰囲気の庭園になっている。1階の応接間から庭を見ているとどこかの熱帯植物園にでも紛れ込んだような錯覚を覚えてしまう程居心地が良かった。
「やー、お待ちどうさま。県庁の課長さんと島袋玄順君の息子さんというのはなかなか面白い取り合わせじゃのー。今日はどうしました?」笑顔で応接間に入ってきた安次嶺は右手にステッキを持ち、少し足を引きずりながらもはっきりと通る声で話しかけた。昔の力強いイメージは消え、体全体が小さくなったような印象を持ったが、時折相手を見つめる目には昔の力強さが残っていた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。いろいろご相談がありましてお知恵をお借りしに参りました」二人がソファーから立ち上がって挨拶をすると
「おおー、ソロソロ来る頃じゃないかと思っておった」と目を細めて嬉しそうに言うと
「まあまあ、座って。君の親父さんが大変心配しておるし、東京からは何とかして欲しいと言われるし、どうするか思案しておったところじゃ。ところで二人の関係は?」
「はあー、琉大の同期で、同じ琉球歴史研究会にいて歴史や文化を研究し、議論してきた仲間です。私は卒業と同時に県庁に入り財務一筋今日まで勤めてきました」新垣が簡単に自己紹介すると
「何時までも弱体化した日本の霞ヶ関に頼っていては明日の沖縄が見えないというわけじゃな」安次嶺は新垣が言いたいことをずばり先に言って笑った。奥様に先立たれた後、身の回りの面倒を見るため一緒に暮らすことになった奥様の妹である美津枝おばさんが入れた、熱いコーヒーを二人にすすめながら
「しかし、宗一くんが進めている事業は沖縄にとっても、日本にとっても最重要課題であることに間違いは無い。金も掛かるし、雑音も多くなる。それは話が進めば進むほど益々大きくなるのは覚悟せねばなるまい。この事業をどう沖縄の基幹産業として育てていくかという問題と、自立する沖縄の青写真をどうするかという問題を併せ解決していかないと結局沖縄の現状に変化をもたらす事にはならないし、未来が見えないことになる」安次嶺の使った自立する沖縄という言葉に今まで彼が主張してきた琉球独立からは程遠い現状維持に近い考えの変化を感じ、新垣は質問した。
「今日お邪魔した理由は正に島袋君のレキオ資源開発がすすめる事業をどうサポートすべきか。それは今後の沖縄のあるべき姿を取り戻していく作業とリンクさせて考えたいと思っている訳です。結局沖縄はどう有るべきなのかという問題です。今安次嶺爺は自立する沖縄と言われましたが、今の日本の中で自立することが本当に意味あることなのか。経済的自立だけを考えれば県内の基幹産業を大きくしていけば、それも現実は大変難しいですが、可能かもしれない。しかし、補助金だのみでやってきた過去からすれば国から何の財政的な支援を受けなくても県として独自に運営できると言う意味では画期的ですばらしい前進だと思いますが、それはあまり意味が無い。歴史も国の成り立ちも違う日本と琉球が、1609年の薩摩侵攻から明治に入って1879年の琉球処分によって完全に日本の一部にされてしまった原点に立ち返り、それで良かったのか?どうあるべきだったのかを問うべき時ではないかと思う訳です。日本と一緒になった功罪の功は他の東南アジアで見られたヨーロッパの列強国からの植民地化が避けられたこと。中国の混乱に巻き込まれないで済んだこと。復帰後は県として補助金頼りではあっても、財政破綻することなく今日まで来れたこと。罪は薩摩藩の密貿易の片棒を担がされ、収益の大半は薩摩藩に流れ、琉球国の発展にあまり貢献しなかったこと。明治以降は常に構造的差別を受け、日本の楯として多くの犠牲を出しながら、復帰後も国の意向に従い教科書には我々の原点となる琉球の歴史が全く語られること無く、子供に教えることすら出来ないこと。そしてそれ故に過去の歴史がドンドン忘れ去られ、地域社会を支えてきたユイマール精神や家族制度、習慣・風習が本土化の波の中で琉球そのものが見えにくくなっていること。これは自立だけで解決できる問題ではないと思っていますが・・・」新垣のコメントを受け、笑顔を消した安次嶺は呟く様に、
「確かに昔からの大きな問題提起で私も多いに悩んできたテーマです。経済的な自立と精神的自立、この両輪を廻していくことこそ新しい琉球の姿が描ける時であり、どちらが欠けてもうまくいかない。まずその前に我々の最終ゴールとは何かを考えてみたい。琉球国の日本からの独立、それは歴史を紐解くと当然帰結する結論のように思われるが、先ほどの日本と一緒になった功罪でみたように、経済的に自立できなかった沖縄にとっては日本のなかで平均の給与所得が何時まで経っても最下位にも拘らず、今日皆がそこそこ食えて、何不自由なく生活できるようになった現実は日本のお陰と認めざるを得ない。私が復帰運動盛んな時、新聞で、自分たちのアイデンティーを確認しないで安易に日本に飛びつくと後で後悔するぞと警鐘を鳴らした意味はそこに有った訳さ。しかし当時は貧しかった。本当に貧しかった。誰かに助けてもらわないと、自分たちでは食えなかった。アメリカでも日本でもどちらでも良かったが、特にアメリカの占領下では、ゼロからの復興に成功した日本しか選択肢は無かったと思う。わしの警鐘に多くの人が賛成してくれたが、大きな流れの中ではブレーキの役割も果たせなかった。島袋君のお父さんも当時の仲間で大変残念な思いをしたものさ。しかし、今考えれば仕方の無いことだったと思う。今、島袋君が進めようとしている事業を琉球自立の為の経済的柱にするという考えは、今まで失敗続きで成功しなかった両輪の一つがやっと成功しそうで、念願の豊かな沖縄を作る第一歩が踏み出せる可能性が見えてきた。その意味では皆で大事に育てていかないといかん。私が今考えている琉球国への途のりはもう一つの車輪をどう廻し始めるかだと思っている。まず一番大事なのは子供たちへの教育ョ。正しい琉球の歴史を教えることから始めたい。そのためには今の文部科学省が勧める社会課の内容に沖縄県では琉球の歴史を追加するようにする。中国や韓国では歴史教育の中で日本軍の戦争時の残虐行為を誇張し、歪曲して意図的に日本に対し反日感情を煽るような教育が行なわれているが、決して嘘を教えて日本に反感を抱かせるというのではなく、日本とは違った歴史的背景のある沖縄と日本・中国との関係をしっかり確認しておく。そしてその中からどう有るべきかを考え・選択していく。それが正しい方法のような気がしている。私のゴールは日本領の自治政府‘琉球国’と言ったところかな。どれ程の自治権を認めさせるかはもちろん交渉次第になるが、国といってもすべてを新しくという意味ではなく、国防や外交といった金の掛かる問題は今のまま日本に任せ、政治・経済分野の財政・税・金融そして社会・教育・法律等で如何に沖縄らしさを加味できるか、自立した政策を自分達で決めていけるようにする。独立というと国に対する武力による革命や反乱という暴力的なイメージになるが、そうではなくて、静かなる変革運動というか、穏やかな独立運動というか、そんな形態をイメージしている。中国が香港返還の際一国二制度を取り入れたが、この日本にそれを導入出来ないか考えている。自立は決して独立より後退した考えではないと思っているがネ。恐らく時間が掛かって私の生きている間に実現は無理な話になるだろうが・・・。さて、少し喋り過ぎたかな。若い君たちの意見を聞こう」安次嶺爺は静かに言ってテーブルの冷たくなったコーヒーに口を付けた。
「大変ありがとうございます。かなり頭が整理されました」新垣が礼を述べると
「いや、まだまだよ。具体的な行程表はこれからでそれは君たちの仕事だ。そして急がねばならない。琉球の歴史が遠く霞み始めているからネ。僕は島袋君のことは前からお父さんに聞いていたので、事業よりも大学で研究してきた琉球文化を積極的に教育界や学校関係者に啓蒙する仕事をしてほしかった。これは重要な両輪の一つだからね。しかし、事業を始めた思いは今の沖縄を何とかしたいという同じ根っこから出ているので、何とか成功させねばならない。今日の訪問の目的だが、僕は国からのプレッシャーに目くじらを立てる必要はないと思っているがどうだろう。国が国家プロジェクトとして資金援助してくれるなら大変美味しい話で乗らない手はない。県も一緒に乗ってしまって全体として強烈に前に進めていく。ただ余計なシロアリどもを付けないように気を配る必要はあると思うが・・・」安次嶺爺はさっきから聞き役で黙ったままの島袋に目を向け、話すよう促した。
「どうも東京から来る連中にはいまひとつ信用がおけないというか、腹の底が見えないと言うか、親父の会社がそうであったように、一緒にやったらすべて取られてしまうような気がして安心できないんですョ。結局地元の会社だけではこのプロジェクトは賄い切れないんだから東京組に任しなさいとなる。確かに少人数で動かしている現状は外から見ると危なっかしいのかも知れないが、これからの沖縄のために今が踏ん張りどころかなと思ったりして・・・」
「少し理念に走りすぎているようだネ、島袋君は」安時嶺爺は笑顔で優しく言った。
「事業の成功・失敗は理念に関係ない。長いこと大学で研究生活を送ってきた君にはちょっときついが、最後はお金・すなわち事業を支える資金さ。利益を求めて世界中を駆け巡る膨大なマネーはいつでも虎視眈々と美味しいチャンスを狙っているので、もちろん変な話に乗ると綺麗さっぱり持っていかれるが、その辺の見極めが重要になる。それは長年の経験が物言う分野かも知れないので、人材を揃えないといかん。やっと念願の沖縄に基幹産業が育ちそうだと言う時、失敗は許されない。これは大変な責任だと思う。特に理念がしっかりしている君たちが参画しているだけに成功させねばならない。いろいろな投資会社や商社その他が数多くアプローチして来ていると思うが、どこと一番話が進んでいるんだ」
「いや、まだ何処とも具体的な話は進んでいません。沖縄電力が強くサポートしてくれていますので、今後の進め方を相談しているところです」
「恐らく、沖電も近い将来支え切れなくなると思う。それ程大きなプロジェクトだということサ。日本にある多くの候補地の中で、私財を投げ打って一番に手をつけた君には多いに敬意を払っているし、君のお陰で国もやる気になり、実現可能性が大変高いところまで来ている。もちろん、これから何が起こるかは未知数だが、先に進める価値は十分にあるわけョ。そこでどのように持って行くかだが、君が一番嫌がっている、国家プロジェクトに格上げしたい霞ヶ関の連中の思惑に乗っかってしまうというのはどうかね。一緒に大手商社やエネルギー関連の大手石油会社等いろんな会社が乗ってくると思うが、島袋君の会社と沖縄県が中心に居て事業をコーディネートする仕組みを作れば将来的に沖縄に金が落ち、財政面の大きな支えになっていくんじゃないか」
島袋は口をへの字に結び、腕を組んだまま天井を見上げ沈黙を守っている。心なしか頬のあたりが紅潮し、返答の言葉を捜しているように見えた。暫くしてフーと息を吐くと安次嶺爺に向かって
「分かりました。霞ヶ関の意向に乗りましょう。それがこれからの沖縄を考えた時、最良の道であると信じます。事業の成功を考えると、未経験の自分にはそろそろ限界を感じていたのも事実です。いい機会かもしれません」
「うんうん」と安次嶺爺は優しく頷くと新垣に向かって
「国家プロジェクトもいいが、県としても強く絡んで常に中核にいないと皆持っていかれるからね。財政的に最大限の支援体制を作る必要があると思うんじゃ。しっかりせんといかんぞ」
「はい。それはもう。実は、来週上地議員がこちらに来られて、最終的な採掘権の県の認可について知事と話し合いがある予定です。もちろん島袋の会社に対し認可を出さないよう働き掛けをすると踏んでおりますので、会談前にこちらの意向を説明する機会を設定しました。今日のお話をベースに安次嶺爺にも是非ご参加頂く訳にはいきませんか」新垣の言葉に困った顔をした安次嶺は
「行きたいが、最近出歩くのが億劫になってのー。足が痛くて、杖を使わないと動けない。行かない代わり手紙を書いてあげよう。上地と知事に君たちの思いを伝えて置くようにしよう。それで良いかな」
二人は深々と頭を下げ安次嶺邸を後にした。時刻は午後11時を過ぎていた


3. 国家プロジェクト

夕方の便で那覇空港に着いた上地代議士が、市内にあるリーガロイヤルホテルにチェックインしたのを確認して、新垣と島袋そして沖電の比嘉の3名がホテルのロビーに集まった。午後六時を過ぎていた。地元秘書である具志堅の案内で最上階にあるスイートルームの応接室に行くとまだ部屋には誰も居なかった。応接室には真ん中に背の低い長方形のテーブルが置かれ、その回りに革張りの落ち着いた雰囲気の三人掛けと一人掛けソファーが二つずつ配置され会議や陳情には十分な広さを保っている。地元秘書が入れてくれたコーヒーを飲みながら20分程雑談をしていると、隣のベットルームに続くドアーが開いて日焼けした大きな体の上地が顔を出した。聞きなれたいつものだみ声で
「いやー、お待たせしました。汗っかきなもんだからシャワーを浴びてきました」ラフな軽装スタイルで現れた上地は3人が立ち上がるのを見て、
「まあ、そのまま、そのまま。話は大体聞いています」島袋と比嘉の差し出す名刺を貰うと、3人掛けのソファーの中央にどんと座った。
「新垣君、この間は東京ではお疲れ様でした。うまいことこちらの要請が通りそうですョ。農水と経産には念を押しておきました。しかし、やっぱり沖縄はいいねー。戻るたび感じるのは空気の味が違うことだ。実にほっとするから不思議だョ。ところで、君たちは、食事は済んだのかい?まだなら一緒に食べながら話を聞こうか。ここに何か適当に運んで貰えないかなー」秘書の具志堅を呼ぶと、午後の8時からホテル内のレストランに予約を入れているという。時計を見ると、まだ6時半を回ったところである。
「じゃー、話を先に済まそーか。レキオ資源開発の仕事の現状とこれからの見通しについて聞かして欲しい」
島袋は茶封筒から資料を取り出すと全員に配り、会社の概要と現在までの仕事の現況、そしてこれからの見通しを丁寧に説明した。島袋の説明に補足する形で沖電の比嘉が沖縄のエネルギー事情の現在と将来見通しを述べ、新規エネルギ-開発事業を支え・協力していく立場の現況を追加した。資料を見ながら上地は
「君の会社の従業員は何人かね」
「全部で5名です」
「そんな規模でこれからのこの大きな事業を続けていけるか?今までかなりの資金を注ぎ込んだようだが、はっきり言って資金面と人材面から今後事業を続けていくのは無理じゃないか。海外での資源開発の経験のある帝国開発あたりと組んで進めるのが順当と考えるが・・・」
話が一気に本題に入ったのを感じた新垣は県として支援体制の整備を検討していること。沖縄の基幹産業を創る観点から中核となるべき沖縄の企業の育成が必要なこと。それに沖電を中心とした沖縄にある企業連合の支援体制が動いていることを強調した。しかし、上地は納得せず、
「僕はこの事業は資金面から考えて国家プロジェクトとして進めるべきと考えておる。国から資金を引き出す為には世に知られた資源開発の専門会社を核に事業形態を整備しないと出るものも出なくなるんじゃないかと心配しておる。県の立場も分かるが、もっと大きな視野で考えないと・・・。」
「霞ヶ関の意向を受けて事業形態を見直すことは、ある程度しょうがないと思いますが、その中核に県とレキオ資源開発がいる点は今後の沖縄を考えるとき、譲れない重要ポイントになります。その点は議員にも是非分かって頂きたい。やっと長年の懸案であった沖縄を支える企業が育つ可能性が見えてきた段階で、中央にそっくり取られてしまうのは避けたいと思っているからです」
新垣の強いコメントに一瞬困惑の色を浮かべたが、すぐ打ち消すと
「しかし、君たちはこの事業の成功の他に何を期待しているの?安次嶺爺から来た手紙にも似たようなことが書いてあったがよく分からなかった。まさか国から金を巻き上げておいて上手くいったら独立でもしようなんて考えてるんじゃーないだろうネ。まあー、それはそれで面白いけど・・・。ふぁははは」
「いや、そうなんですよ。沖縄の自立の道を探したい。その為には経済的な自立が担保されないと全く動けないのでこれが第一歩と考えているわけです」先ほどまで静かに丁寧に話をしていた島袋が少し強い口調で話しに割り込んだ。髭ずらの顔で上地を見据えた目だけが異様に光っている。
「僕は長年大学で琉球の歴史を勉強してきました。その結論として沖縄は日本から独立すべきだと考え、その為には経済的な自立が不可欠で、沖縄を支える基幹産業が必要なのです。今回の事業に私財を投げ打った理由はそこにあります。しかしやはり私個人の力ではどうにもならないことを思い知らされました。膨大な資金がないと資源開発は進まない。その解決策として国内・外の投資家と組んで仕事を続けるか、日本の国家プロジェクトとして進めるか。霞ヶ関の動きを見ると、どうも自分達でやりたそうにしているのでそれに乗ってしまうのが面倒ない方法じゃないかと。先生もこうしていらしている訳だし、国の要望には何でも応えたいと思っていますが、私の会社を含め沖縄の会社をプロジェクトから排除することだけは許しません。この点を押さえて頂ければすべてオーケーです」
この相手に押し付けるようなコメントに顔を一瞬強張らせた上地は
「成る程、良―く分かった。このことは沖縄の長年の懸案事項だったからネ。しかし今のままでは県から本掘する認可は無理だろう。早急にジョイント企業を集め県から国に国家プロジェクトとして申請することと、同時に県への採掘権の承認を得るようにすればスムーズに先に進むんじゃないか。君が了解してくれれば話しは早い。候補の会社は幾つかあるので後日連絡しよう。これで全て上手く行きそうだ」
上機嫌になって皆を見回す上地に対し、採掘権の申請にストップを掛けているのはお前たちだろうという怒りの言葉が喉まで上がってきたが、島袋はそれをグッと飲み込んだ。
「それでは明日の沖縄の前祝に一緒に夕食に行こう。ホテルのレストランに予約が入れてあるようだから一緒にどうだ。わしの後援会長も同席するが気にせんで一緒に飲もう」
上地は自分の計算通りに揉めることなくまとまった会談に満足し、熱心に食事を誘ったが、3名は次の機会にと丁重に断り部屋を後にした。ロビーに下りると不機嫌な顔をした島袋は二人に
「どうだ、飲みに行かんか?」と誘いを入れたが、新垣は明日早朝から会議が入っているので失礼すると言ってロビーで別れると、自分の車が置いてある地下の駐車場に続く階段の方向に歩き出した。行きつけの料理屋に行くつもりの島袋は比嘉を誘ってロビーを真っ直ぐ正面玄関の方に抜け、外に出るとタクシー乗り場に向かった。午後に振り出した雨は既に上がっていたが、舗装された道路はまだ濡れていた。雨上がりの11月の夜は静かで頬を撫でる風に冬を感じさせる冷たさが混じっていた。

ホテルでの会議から2週間程経った12月の1週目お昼過ぎ、新垣の携帯電話に島袋から連絡が入った。
「先日の会談で確か上地は国家プロジェクトにするため新たな会社を紹介するて言ってたよな。今日まで全く無しの礫で連絡が無いんだよ。何か揉めてる様な話は聞いてないか?」
日常の忙しさの中で気にはなっていたものの、十分フォロー出来ていなかった新垣は
「ごめん!何も聞いていない。担当課にその後の動きをチェックして見る」電話の後、すぐ産業振興課の予算編成で良く知っている城間課長に状況を問い合わせると、新しい動きは何もないという返事であった。しかし、逆に聞かれたのは、以前提出されたレキオ資源開発の本掘の認可申請書は相変わらずペンディングのまま放置されているにもかかわらず、申請の際添付された試掘した結果の報告書が最近持ち出された形跡があるので、そちらでコピーを取るため持ち出したかという問いであった。そのような事実は無いと返答したものの、恐らくこれは上地と知事の会談の際、秘書室の誰かが持ち出してコピーし、それが上地側に渡ったものと容易に推察された。しかし、それは伏せたままにした。使用目的は参加を希望する会社に極秘で今までの経緯を検討させる為渡されるものと推定され、所有権の問題も含め後で問題にならなければ良いがと不快な思いが胸を過った。その後も何の動きも無かった。

12月中旬に入って島袋から再度電話はあった時、新垣は直接上地に会って彼の意向を確認しようと心に決めた。今の状況が続く限り、県として予算の計上もできないし、レキオ資源開発が準備している次のステップにも入れないからである。来年度の予算審議が続いている国会で議員達が多いに忙しく連日議論に明け暮れていると考えれば無しの礫も納得できるが、県にとって最重要な案件を県選出の議員が放って置く理由は現実的には考え難く、国会対応に忙しい霞ヶ関にしても国家プロジェクトとして動かす為には一日も早い事業形態にまとまることが望ましいはずである。何故動きが悪いのか。誰がそれを止めているのか。上地に直接質すのが一番早いだろう。東京への出張予定に会わせ何とか本人を捕まえ意向を聞いてくるよと島袋に約束したが、添付資料のコピーの話は伏せた。状況が進まない上に、要らぬ心配を掛けるべきではないと判断したからである。電話の中で父親からの連絡として、気になる情報が寄せられた。安次嶺爺が家で階段から落ちて転倒し入院したようだという。高齢なだけに容態が心配されるが、その内一緒にお見舞いに行こうという話で電話を切った。

東京での忙しい日程の中で、上地と議員会館の中にある事務所で会うことが出来た。秘書の具志堅がアレンジしてくれた時間に事務所に行くと、上地が居て迎えてくれたものの二人で会うといっても人の出入りが激しく、ひっきりなしに掛かってくる電話の対応で落ち着いた話はほとんど出来なかった。しかし、彼が考えている事業主体となる会社が、レキオ資源開発の他に日本を代表する資源開発会社として帝国開発と沖縄の会社の琉球土木であることが分かった。帝国開発は霞ヶ関の意向であると考えられるが、琉球土木は琉球建設のグループ企業の一つで、元々は島袋の父が社長として沖縄でトップのグループ企業に成長させたものである。今は東京の大手ゼネコン会社に吸収され、経営者はすべて変わっているが、相変わらず建築・土木・港湾という基礎的な工事全般を広くカバーしている沖縄の有力企業の一つである。県知事の選挙の際の最大の支持母体であることでも有名であった。事業全体の構想は既に出来上がっているようで、上地は国会の日程次第だが、年明け早々には関係者を集め、那覇で旗揚げの準備会を立ち上げたいと語っていた。名前の上がった会社の担当窓口となる責任者の名詞のコピーを貰い、レキオの島袋に渡す了解を取った。

年が明け1月に入っても沖縄は太陽が出ている限り温かく、冬の寒さを感じることは無い。唯、海を渡って吹いてくる北風が強い日は気温がたとえ15度以上であっても体温が奪われ、体感温度が10度以下に感じ、温かさに慣れている沖縄の人々には暖房器具やコートの準備を急がせる。

2月中旬の吉日、上地が希望していた国家プロジェクトを目指す資源開発会社設立記念パーティーが那覇市内のホテルで盛大に行われた。新会社名を琉球資源開発機構とし、東京の資源開発会社である帝国開発と沖縄の琉球土木を核としたジョイントヴェンチャーが創られ、沖縄電力を始とするエネルギー関連会社や大手商社等数多くの関連会社が名を連ねている。国家プロジェクトの魅力とその期待される果実の大きさが真に参加企業の数に表れていた。参加企業の会長、社長、役員はじめ沖縄経済界の主力のメンバー、それに県からは知事を始とすると関連部局の部長、課長、沖縄選出の国会議員、県と市の議員達、当然上地議員や新垣、島袋の顔もあった。来賓として経済産業省の担当局長、課長、更に採掘予定の地元自治体の長といった実にそうそうたるメンバーが300名以上集まっていた。しかし、その中に安次嶺爺の姿はなかった。昨年の12月に倒れて以来ずっと入院が続いているようで、容態の改善がみられない状態が続いていた。来賓の挨拶が続く中、島袋の立っている会場の後ろの方にある柱の側に新垣が寄って話しかけた。
「大変な盛会だが、参加企業間の関係は上手く行っているのか?」
「いや、予想通りレキオは蚊帳の外さ。中々のプロ集団が集まってきているのは確かで、仕事は進みそうだが、今までやってきた試掘の結果についても、もう一度見直したほうが良いのでは、なんて話まで出る始末で何かやってられなくなりそうだよ」
「それは金武湾での本掘が見直されるという意味かい?」
「無いとは思うが、期待する産出量とそれに掛かる経費、すなわち費用対効果の問題で、2000M以上の深海での作業になる石垣やもう一つの東シナ海の方がはるかに大きなリスクと経費が掛かるものの、収益が大きい方が良いのではと言う意見さ。当然計算した結果、金武湾と決定したんだがね。金は国から出るんだから数字の大きい方が対外的なアピール度は良くなるなんて言い出す奴が出てくるのよ」髭ずらの顎を撫でながら、一人憂鬱そうな目をして遠く演壇の方を見つめていた。そこには指名を受け、拍手の中登壇する上地議員の姿があった。
「しかし、そんな中にもレキオに対し、強く敬意を払ってくれる人間も居てさ。何処から入手したか知らんが、俺が書いた試掘結果のレポートに大変感激したと言ってくれてさ」
「それは、何処の誰だい?」コピーの行方が気になっていた新垣が慌てて聞くと、島袋は気にする風もなく
「会議で会った帝国開発から派遣される佐久間という、今回の事業の現場責任者を任された男なんだが、レポートの全体計画の緻密さと結果分析の正確さ、今後の課題と進め方の方向性に全面的に賛成で、これからも一緒に是非やりたいと言ってくれた。俺が専門外のど素人と知って目を回していたがね。年齢的には我々と同じなんだが、中東での石油探査の経験が豊かで、スケールが大きく、性格的に大変面白そうな、今回のプロジェクトも彼に任せておけば何とかしてくれる、そんな雰囲気のある男なんだよ。組織が大きくなると上ばかり気にする人や自分のことばかり気にする人など、実にいろいろな人がいるものだと感心しちゃうよ」
「今日の会に、その彼は出てないのか?」
「さっきも探してみたが、残念だが来てないようだ。会社の同僚によると、アメリカ出張中でシェールガス採掘現場の視察とその資料収集に走り回っているようだ」
「安次嶺爺の姿が見えないが、どんな状態なんだ?お見舞いに行きたいと思っているが・・・」話題を変えて新垣が聞くと、
「あまり良くないようよ。入院中に精密検査をしたら腫瘍が見つかって、それが結構あちこちに転移しているので、あまり長くないようだと親父が言ってた」
「そうか。高齢だしな。早くお見舞いに行くようにしよう。今週末か来週末、一緒に行かないか?」
「うーん」と腕を組んで暫く考えてから島袋は
「よし、じゃ来週土曜日の午後3時に南部総合病院の入り口で会おう。時間取れるか?」
新垣は背広の内ポケットから手帳を取り出し、空いているのを確認して、そこに予定を書き込みながら
「見舞い品を何にしようか?彼の好きな甘いものか、胡蝶蘭か、フルーツの組み合わせか・・・」
「お前に任すよ」と島袋は言いながら、沖縄のばら色の未来を熱く語る上地の方をじっと見ながら
「どうも奴の話は調子が良すぎて、信用できないんだなー」と呟いた。
「しかし、彼を上手く取り込まないと話は進まないし、国との関係もギクシャクしちゃうだろ・・・」
「金を引き出すには良いかも知れんが・・・。安次嶺爺が言っていた問題は両輪のもう一方さ。全くメドが立っていないだろう」顎鬚をポリポリ掻きながら太い眉を眉間に寄せ、いつもの考え事をするポーズで
「やっぱり俺は事業に絡んで基幹産業作りの役より、琉球の歴史教育や琉球から沖縄に続く人々の生活を支えてきた宗教や習慣・文化を見つめ直す役割の方が性に合っている気がしてさ。実は今何が出来るか考えているところなんだよ」
「随分私財を注ぎ込んでここまで来た訳だから、ちょっと引き下がれないだろう。回収の目途も立ってないし・・・」
「いや、元を取ろうとは鼻から思っていないのでそれは良いが、もうこれ以上金は出せ無いし、プロジェクトの形も出来てきたし、ソロソロ俺は潮時かなと感じているのよ。唯バトンを渡すことになる沖縄の会社が元々親父の会社を乗っ取った連中で、彼らがこのプロジェクトの中心に座りたがっていると考えると複雑な気持ちさ。意地でもレキオの名前を残してやろうと思うこともあるが・・・」
パーティーに参加している多くの人々は、国家プロジェクトへの期待の大きさから、皆こぼれんばかりの笑顔と幾分上気した赤ら顔を寄せ合い、嬉々として互いのこれからの協力を誓い合っているのに対し、会場の後ろの方で話す二人の表情は厳しかった。二人を見つけて挨拶に来る関係者も頭を下げるだけで直ぐ側を去っていった。上地の秘書の具志堅も何か話が有りそうな素振りで近づいて来たが、二人の厳しい雰囲気に挨拶だけで別の賑やかなグループの方に足を向けて離れていった。一通り予定されていた人々の挨拶が済むと、沖電の会長による乾杯の音頭の後、沖縄の伝統芸能である琉球舞踏が始まり会場は一気に華やいだ雰囲気になった。ビールの入ったグラスを片手に声高に談笑するグループがそこここに見られ、これから始まる世紀のイベントへの期待が会場一杯に膨らんでいるように見えた。

南部総合病院入り口で見舞いの花を抱えた新垣が島袋の来るのを待っていた。もう約束の3時はとうに過ぎていた。15分や20分の遅れは沖縄時間といって意にかえさないが、もう30分を越えていた。携帯に電話を入れようかとポケットを探っていたら携帯が鳴った。
「はい、どうした。島!具合でも悪くなったか?」新垣の問いに島袋は
「連絡遅れてすまん。会議がもう少し掛かりそうで、遅れても病院には必ず行くから先に爺と話していてくれないか?」
「分かった。じゃー先に部屋に行ってるぞ!」と返事はしたものの、一人でいくことになって急に心細い感じで、彼が来るまで待つのが良いかななどと心に湧き上がる迷いを振り払いながら中に入った。
安次嶺爺が入院している部屋は直ぐ分かった。入院病棟の最上階にある特別室で、そこは介護に当たる人も一緒に泊まれるシャワー室も付いたホテルのような一室であった。部屋を覗くと、以前、自宅を訪問した際、コーヒーを入れてくれた奥様の妹の美津枝おばさんが応対に出てきた。
「先生は今寝てらっしゃいますが、少しお待ちになりますか?」
「ええ、待ちますよ。それでどんな具合ですか?」見舞いの花を渡し、花瓶に刺してくれるよう頼みながら容態を聞いたが要領の良い返事は無くて、見舞いの方とは良くお話されていますので少しお待ち下さいと言ってカーテンの中に消えた。入り口のドアを入ると中が直接見えないようカーテンで仕切られた狭い待ち合わせがあり、椅子が二つ用意されているが、狭いし窮屈な感じがしてナースステーション前にあった広い面会用の場所で待つことにした。そこにはテーブルや椅子そして飲み物が買える自販機も置いてあり、子供が二人遊んでいた。窓際に立って外の景色を見たり、放り投げてある週刊誌に目を通しながら呼び出しを待っていると、部屋の確認の為ナースステーションを覗く島袋を見つけた。急いで来たとみえ、額に薄っすら汗が浮かんでいた。
「おーい、島!こっちだ」
「やー、遅れてすまん。爺は?」
「今お休み中なので、目覚めるまでここで待っているところさ。ちょうど良かったよ。間に合って」
そこに付き添いの美津枝おばさんがお目覚めですと声を掛けて来たので二人は後に付いて部屋に入った。広い開放的な部屋で、窓際には見舞いの花が沢山飾られていた。その中に先程渡した花もあった。窓から外が覗けるようにベットが置かれ、安次嶺爺は上半身が起きて下半身が下がるようソファーに座る形にベットを調節してもらって、部屋に入っていった二人をじっと見つめていた。人と会うときはいつもこのようにしているのであろう。また一段と体が小さくなったように見えた。始め部屋に入った二人に焦点が合わない感じで怪訝な顔をしたが、すぐ誰が来たのか分かった様子で、顔を崩した。
「おう、良く来てくれた。君たちの話が聞きたいと思っていたところだ。先日のパーティーは大変盛会だったそうじゃないか」少ししゃがれた、小さい声で話しかけた。声の響きに昔の勢いは感じられない。
「ええ、大変な盛会で、多くの関係者が沖縄だけでなく、東京からもプロジェクトに関連する大手の会社や霞ヶ関のお役人まで300人以上お集まり頂き、関心の高さが良く分かりました」
新垣が県の職員の立場で当たり障り無く答えると
「県としての支援体制はどうなっている?」と突っ込んだ質問が来た。体は衰えても、頭はまだまだ冴えているようだ。
「はい、県の支援措置としては まず産業振興課に国家プロジェクト対応チームを置き、国への事務処理を担当、予算の獲得や新会社の事務所設置・人員配置等の調整を、仕事が軌道に乗るまでお手伝いします。また県の財政措置として、私の担当ですが、国家プロジェクトが認可された段階で、国と相談しながら1000億の交付金の中から最大10億円の支援を考えております」
「人も金も県として最大限協力すると言うわけじゃな。フムフム!期待度が大きいの。国はどの程度予算を付けそうか?」
「初年度は国家プロジェクトとして恐らく300億で、翌年度からは年800億から1000億位が注ぎ込まれると想定されます」
「なるほど、規模が大きいな。島袋君!その中で君の会社レキオの役割はどうなる?」
「ええ、それなんですよ。新会社の形が整ってきたので私の役割はもう終わったように感じています。爺が以前言われた、失われていく琉球人の誇りと文化を取り戻す作業に戻りたいと思うようになったのです。それで何から手を付けたら良いか考えているところです。しかし、これが意外に難しい問題で、大学に戻り執筆活動をする中で新聞等への啓蒙活動が良いのか、学校関係者向けの教材作りから始めるのか、新しい勉強会組織を作って影響力を広げていくのか。一体自分一人で何処までできるのか疑問と不安で先が良く見えないんですよ」
「一番大事なポイントだな。今上げたポイントすべてを同時進行の形で取り組まないと手遅れになる可能性が高い。現代の一番の厄介ものは‘私に拘泥’し、‘公の精神・魂の欠如だ’と考えておる。価値観の変革無しにはもう先に進めないところまで来ていると感じているんじゃ。一人じゃすべては出来ないので、取敢えずまた大学に戻ったらどうじゃ? そして仲間を集める。あまり時間は無いが、それからじゃね。それが最終的に新しい沖縄・琉球国を創りだす原動力となるのを期待したいが・・・。そうなると君の会社はどうなる?今のままという訳にはいかんだろう」
「名前を残しておくという考えもありますが、新会社への仕事の移行が済んだらさっぱり身を引くのが良いかなと・・・。ただ今まで使ってきた機材や重機・設備等投資額が大きいので、これからも必要になる物について新会社が購入してくれるよう交渉中です。全体の半分も戻らないと思いますが・・・」
「新会社は沖縄で君のお父さんが作ったグループ会社の一つの琉球土木が中心になって工事が進むことになるのか?皮肉なもんだ。ただ、君が動くことで国も動き始めた訳で、きっかけを作った会社の名前が消えるのは実に寂しい話だし、次の仕事に差し障り無ければ残しておいた方が良いと思うが・・・」
「良く考えて見ます」島袋の返事をじっと目を覗き込むようにして聞いた後、ゆっくり顔を窓の方に廻し、病室の窓から外に広がる景色をながめた。日が傾いて日差しが直接病室に届くことはなくなっても、外はまだ日差しを受けて木立の葉が夕日に美しく輝いていた。沖縄では2月でも木々は枯れることなく豊かな緑の葉を付け青々と茂っている。暫くの沈黙の後、安次嶺爺は
「僕の命もそう長くないと思うので、君たちが新しい動きを作ってくれたら嬉しいし、安心して君たちに未来を託していける。その努力を是非今後ともお願いしたい」嬉しそうに笑みを浮かべ、両手を二人にゆっくり差し伸べた。かなり疲れた様子が見て取れたが、顔は晴れ晴れとしていた。二人は安次嶺爺の痩せて骨と皮ばかりになった手をしっかり握り返した。温かいぬくもりが心の奥まで沁みてくるのを感じた。
「お疲れのようですのでまた来ます。早く元気になって退院出来るよう頑張って下さい」新垣が手を握ったまま優しく言うと、安次嶺爺は二人の顔を交互にじっと見つめて
「うん、うん。ちょっと疲れた」といって目を閉じた。
安次嶺 崇が亡くなったというニュースが流れたのは、見舞いの日からちょうど10日後であった。あたかも若い世代に自分の思いを託すべく、二人の訪問を待っていたかのような、あっけない永遠の別れであった。沖縄の大きな異端児が一人静かにこの世から去っていた


4. 島袋の戦い

大学に戻ることを決めた島袋はまず今まで琉球大学と鹿児島大学で15年以上取り組んできた琉球の歴史の記録をまとめることから始めた。この5年間、准教授のポストを捨て、資源開発という全く別分野に頭を突っ込み、専門家に教えを請い、朝から晩まで一から勉強もし、少しは分かるようになってきたつもりでも所詮素人に毛が生えたようなもので、専門家の前では歯が立たない。しかし、大学に長くいたことで大学関係の多くのブレーンに支えられてここまで来れたというのが実態であった。形が出来、資金の目途も立ち、事業が継続できる組織とスタッフが揃えば、最早現場に島袋の居場所はなかった。事業のきっかけを作ったパイオニアとして、月に一度現場で行われる現況報告会で作業が行程表通り進捗しているか報告を聞くだけで十分であった。恐らくその訪問頻度もこれから月日が立つにつれ、島袋の新しい取り組み次第で、三ヶ月に一度、半年に一度になっていく可能性が高かくなると予測された。それは、これからの資源探査が資金面や事務手続き面で、新垣を始めとする県が中心にいて全体をコントロールしてくれるので、透明性さえ担保されればすべて任せておけば良いことであり、彼自身が細部にまで目を配る必要がないという状況にあると言えた。恐らく4~5年後には確実に結果が出てくるので、それが予想以上なのか以下に終わるのか、これからの沖縄をうまく支える産業に育てられるのか、大事な問題ではあったが、死ぬ前に安次嶺爺と約束した彼が早急に取り組まなければならないもう一方のテーマの方がもっと難しく、時間の掛かる難題で、一刻も早く手をつけねばならない状況にあった。彼の気持ちは完全にそちらに切り替わっていた。
彼が今までいろいろなところで発表している原稿や収集した資料は、元いた研究室や自宅の書斎に山積みされているので、その辺りから整理し直し、分かり易い中学校や高校などで使える琉球歴史読本的なものにしたいと考えていた。また同時に琉球歴史研究会という勉強会を立ち上げ、オープンな形で参加者を募り週一回のセミナーを続けることにした。特に力を注いだのは中学・高校の社会や歴史を担当する先生に対するセミナーで、今まで何の疑問も抱くことなく、自分たちの生まれ育った郷土の歴史を全く教えてこなかった現実を知ってもらうこと、そこには日本と異なる独自の歴史の流れがあること、琉球時代から現在の沖縄に至る600年を越える時代を連綿と支えてきた人々の生活があり、その底流に流れる言語・風習・慣習・宗教・祭・ゆいまーる精神・モアイという生活に根付いた相互扶助会等に見られる精神構造や生活文化とそれを支え続けてきた琉球の言葉を見つめ直すこと、セミナーを通じて沖縄の原点に帰って、沖縄の豊かな歴史の厚みを見直すことから始めたいとする島袋の長年の想いが込められていた。少し時間は掛かるかも知れないが結局ここからしか始まらないという想いが強かった。それは毎日テレビやラジオ、インターネット、携帯電話、スマートフォンの普及で昔とは比較にならないほど膨大な量の情報が溢れている現代にあっては、今まで積み上げられてきた文化や言語すべてが日々薄められ、日常から遠さけられ、忘れ去られようとしている。その危機感を多くの人と共有したいと強く願っているのが、彼の行動の源となっている。
大学に戻るといっても昔の准教授というポジションに戻れる訳も無く、無給の一人の研究生から全て始めなければならない。自分の部屋もなければ助手もいない机一つの状況で、ゼロからの出発であった。幸い独り身で有り、親の遺産もあり、資源開発に多額の投資をしたとはいえ、生活に困るほど困窮しているわけではないので当面の研究生活は続けられる。
そんな中で嬉しい情報が有った。准教授時代助手として一緒に仕事を手伝ってくれた當間茜が教授の秘書としてまだ大学に残っていてくれたことである。准教授時代一緒の研究室の同僚で2年先輩の現教授知念稔に挨拶に行ったとき、教授室の隣にある秘書室でパソコンに向かって仕事をしていた當間茜は、彼が大学へ戻ることを事前に聞いていたようで、部屋に入ってきた島袋を見つけると満面の笑顔で立ち上がり
「先生!お久しぶりです。戻って来られて大変嬉しく思います。お話は教授から伺っておりますので是非またご一緒にお仕事のお手伝いができればと期待しております」と仕事の手伝を申し出てくれたことである。當間茜は彼が准教授時代に雇った助手で、当時20代後半のすらりとして目鼻立ちのはっきりした、笑顔の美しい沖縄美人で、自分の意見をはっきり言える、聡明な女性であった。既に結婚はしていたものの、そんな雰囲気は微塵もなく、頼んだ仕事はきっちりまとめ、いつも期待以上の仕上げをしてくれていた。独身のまま研究生活を続け、琉球大の研究生、鹿児島大の講師そして35歳で琉球大に戻って准教授になった島袋には、彼女の献身的な仕事ぶりとその能力にはいつも驚かされ、仕事を超えた人間的な魅力を感じていた。出来ることなら結婚しても良いと考えるほどお気に入りであった。しかし、当時既に結婚している相手を奪い取るほどの情熱は残念ながら島袋にはなかった。今も独身を続ける理由の一つは彼女以上の女性に今日まで出会っていないことが大きかった。昔のイメージが話し方や笑顔に残っていて、思わず髭ずらの顔が綻んでいた。
「教授は居らっしゃる?」
「えー。でも今電話中で終わり次第ご案内します」
「昔とちっとも変わっていないネ。君は」
「いいえ!もう十分に中年のおばちゃんになりました。先生もね。白髪が増えましたよ」
「そうか、もう10年位になるのかな、僕が大学辞めてから」
「あら、やだ、まだ7年ですよ。ご一緒に仕事させて頂いたのが6年間でとても楽しく充実していました。先生のお陰で沖縄を見る目がすっかり変わりましたから。もっと続けたかったのに急に大学をお辞めになるので・・・」
「そうか!あの時は急な決断だったので君にも迷惑をかけたね。どうも昔から思い込むと一気に走り出す悪い癖があって・・・」
「またお手伝い出来ると良いんですが・・・。教授の電話、終わったようですのでご案内いたします」
島袋の訪問をインターフォンで教授に告げると、立って部屋のドアーを開け、中の
ソファーまで案内してくれた。
今の彼は彼女を雇う余裕もなく、教授の秘書として働いている以上彼が自由に彼女を使える訳は無かった。しかし、彼女は時間の遣り繰りをうまくつけて、昔のように少しでも役に立ちたいと手伝いを申し出てくれた。教授黙認の形で、平日は秘書の仕事は午後5時で切り上げ、その後は、なるべく島袋の居る研究室で過ごすようにしてくれた。そして、時間の掛かる調べ物などは、土曜日や日曜日も厭わず、彼の手足となって働いてくれた。昔まとめた発表論文はもともと彼女も資料集めから係わっていた経緯もあるため、彼の意図する内容にも理解があり、手助けして貰う人としては最高のパートナーであった。夜遅くまで資料の読み込みを二人で行った後など、連れ立って一緒に食事に行き、居酒屋で飲みながら話し込むことも増えてきた。
茜は島袋が大学を去って程なく離婚を決めていた。結婚後亭主の家族と一緒に暮らしていたが、外で働きたい彼女と家で家事全般を見て欲しい亭主とその家族の意見の違いが徐々に膨らみ、良く有るパターンの家庭内人間関係のギクシャクにまで発展し、ついには子供がいなかったことも幸いして離婚を決断することになったようである。しかし、その事実はしばらく周囲には伏せられて来た。当然島袋にも知らされず、これから大学で彼の上司になる2年後輩の教授もそういったプライベートな問題を口にすることはなかった。資料の整理で遅くなり、当然断られるだろうと思って誘った食事に、素直に一緒についてきた彼女の口から始めて事実を知らされた時、驚きと同時に直感的に自分を待っていてくれたのだと理解した。
「ホー、知らなかった、僕にとっては嬉しいニュースだが、そんな思い切った結論で、揉めることはなかったの?」
「良く話し合った結果ですから。嬉しいニュースなんて、本当ですか? 先生にそう言って頂けると嬉しいです。私は先生にお会いして新しい自分を見つけたと思って、とても感謝しているのです」島袋を見つめる眼差しには偽りのない、心からの信頼と尊敬の思いが込められていた。極自然な成り行きとして、二人はお互い一人身の気安さと便利さから、大学の近くに借りている彼女のマンションに泊まることが多くなり、前からそうなることが決まっていたようにお互いを強く求め合い、深く愛し合った。深い関係になるにつれ、自分にとって相手が掛け替えのない大事な存在であることを強く意識するようになっていた。楽しそうに話しながら連れ添って歩く二人は、仲の良い夫婦そのものであった。まとめの仕事は彼女の献身的な手伝いのお陰で思いのほか順調に進んでいった。二人が一年ほどかけてまとめた琉球歴史読本は話題になることも無く、一時期本屋に並べられたが、そのまま返品となって返されてしまうケースが多かった。また、企画されたセミナーへの参加者は少なく、週一回、90分の10回シリーズに応募者が4~5名ということもしばしばで、さすがの島袋も心が折れそうになり、これを続けても意味があるのか深刻に悩むこともあった。そんな時、支えになってくれたのはやはり学生時代の友人である新垣であり、同じ研究会にいた多くのメンバーであり、何と言っても側で手伝う當間茜の存在であった。彼の趣旨を訝る者もいたが、多くは理解し積極的に学校関係者や教育委員会に働き掛け、地区毎の先生達の集まりがあると声が掛かるようになっていった。嬉しいニュースもあった。昔彼が学生時代入っていたサークル‘琉球歴史研究会’が若い現役の学生たちによって再興されることになり、顧問への就任と指導を依頼されたのである。同じような依頼は琉球大学だけでなく、他の大学からも声が掛かり、彼の蒔こうとしている種が少しずつ確実に広がり芽を出し始めていることを感じさせた。
 
茜は那覇で食品会社を経営する両親の長女として何不自由のない少女時代を過ごし、高校を卒業後は東京の私立大学に進学した。大学では小さい時から関心のあった自然環境と祭りや慣習・伝統文化という人々の生活様式を昔から規定してきたものは何かというテーマを沖縄と結び付けて勉強したいと希望していたが、東京での学生生活に失望し、無為に過ごす毎日に満足出来ず1年で休学してしまう。自分探しの旅と称してアメリカの州立大学に留学した。大学の寮に入り、多くの友達も出来、アメリカでの生活に慣れて、比較人類学という難しいテーマを見つけ大学生活を順調に送っていた。大学での生活が3年を過ぎたころ、突然父親が仕事中に病気で倒れ入院したというニュースで生活は一転した。クモ膜下出血であった。意識のないまま入院が続くことになり、会社は母親と大学生の弟が継ぐことで茜は卒業までアメリカでの生活を続けられたが、父親の死亡と同時に帰国し、弟と一緒に母親を助けるため会社を手伝うことになった。自分のやりたいことを見付けられないまま急な状況変化に流され、忙しく過ぎていく中、高校時代付き合っていた男友達と再会し、乞われるままに結婚した。結婚しても働きたい茜は、しばらくは弟が継いだ会社を手伝っていたが、弟にすべて任せられるようになると新たな働き口を探し始め、偶然得た友達からの募集紹介で琉大の准教授に就任した島袋の秘書として採用され、琉球の歴史に向き合い自分自身のアイデンティティーに気付くことになるのである。

大学に戻って4年位経った頃、名護にある名桜大学から客員教授のポストへの就任要請があり、生活上の安定が確保されるようになった。沖縄のマスコミも歴史を遡る番組ではしばしば彼のコメントや解説を求めるようになってきた。名前が売れてくると、少しずつ雪だるま式に人が集まるようになり、名桜大学の教授に就任した頃には、那覇で一般向けに行うセミナーでは20~30人位が常に応募してくるようになり、講演会でも予定を上回る希望者が出るようになってきた。教授就任に合わせ茜と一緒に暮らせる自宅を名護市に購入した。茜も琉大教授秘書を止め、全面的に島袋の仕事の手伝いを始めることにした。島袋本人が一番驚いていることは沖縄の人々に知ってほしいとの思いで始めたセミナーが、今では参加者の半数以上が内地から沖縄に来ている人々で占めるようになったことで、その歴史に対する知的好奇心の高さに驚かされる。
琉球の歴史の中で、多くの人が興味を示すポイントが幾つかあった。1300年代のグスク時代と呼ばれる3山に城を構え対峙してきた時代で、今も残る世界遺産となっている数多くのグスク(城)から当時を思い描く面白さ。1400年代に入り尚巴志が琉球王国として統一していく第一尚家時代と尚円金丸が引き継ぐ第二尚家時代に、その王家を陰から支え続けた久米三十六姓として知られ、今も地名が残る久米村にあった中国人村(チャイナタウン)とそこに住んでいたとされる多くの中国系知識人、中でも懐機という謎の参謀の存在や尚家の三司官まで勤めた政治家蔡温の活躍、また、1609年の薩摩侵攻とその後の日本との関係や、その中で薩摩に王と供に連行された三司官の謝名親方が琉球の薩摩属国化を拒否し、義に順じて一人斬首の刑を受けた事実。そして貿易立国として国を維持していく為、中国との柵封体制を堅持しながら日本(薩摩)の意向にも従うという二元外交に走らざるを得なかった琉球王朝。明治時代に入り、1871年(明治4年)頃から明治政府が琉球併合に着手し、琉球処分官を派遣して日本領土化の体制作りを行い、1879年(明治12年)琉球処分として琉球国を正式に日本に帰属させ、廃藩置県により沖縄県が誕生したことへの見方等々である。
それぞれ歴史の大事なポイントは小説として切り取られ、漫画や演劇のテーマとして取り上げられて話題になったり、テレビドラマや映画として取り上げられているので、世の中の琉球の歴史に対する関心と認知度は随分上がったように感じられる。それを裏付けるように琉球歴史めぐりを謳う観光ツアーも多く見られるようになった。一方で琉球の歴史が広く人々の心の中に定着してくるに従い、現実の問題として学校では正式な形で教えられて来なかった現状に対する疑問・不満の声があちこちから上がるようになった。それが強い怒りの声となって顕在化してきたのは教育の現場である。やはり自分たちの歴史を子供たちに教えられないもどかしさは考えれば考えるほど現行制度の矛盾として圧し掛かり、歴史を知れば知るほど個人のレベルでは如何様にも解決出来ない問題に突き当たってしまう。現行の矛盾に一旦気付いてしまうと、無知だった自分に対する腹立たしさも加わり、心の底に深く沈殿する怒りとして刻まれていった。自分たちの歴史である琉球の歴史をこれからどう扱うべきか、子供たちにどう教えるべきか、セミナーに参加した先生方から聞こえてくる率直な感想は
「何故我々は現在の沖縄に続く琉球の歴史を知らずに今日まで来てしまったのか?」
「学校で全く教えられず、それ故教えることも出来ず、無知だった自分が何とも恥ずかしい」
「日本の歴史も大事だが、我々沖縄が引き継いできた歴史はもっと大事で、早く何とか子供たちに教えられるようにしなければ・・・」
「なぜこんな当たり前のことが問題にもならずに今日まで来たのか信じられない」
こうした声は徐々に沖縄のいろいろな方面に少しずつ浸透していった。そして、各地の村や町や市の議会でも取り上げられ、真面目な議論が行われるようになってきた。特に各地の教育委員会で歴史教育の見直し議論は活発で、島袋が作った琉球歴史読本を使って文部科学省の進める日本の歴史教育と平行して沖縄の歴史も教えるべきとする意見が強く出るようになった。同時に各地から上がってくる要望に県議会も無視できなくなり、専門委員会が設置され、県としてどう対応するか本格的な議論が行われるようになった。島袋は専門委員として意見を聞かれる機会が増えてきた。最終的には、国に対し沖縄の独自の歴史教育権を認めるよう要望書がまとめられ、霞ヶ関の文部科学大臣宛に沖縄県の要望として提出されたが、相変わらず国は頑なに要望を認めることはなかった。沖縄県選出の超党派の国会議員らによっても文部科学省への働き掛けが行われたが、国の意志が翻ることはなかった。一部の国会議員は米軍基地問題と同じように、沖縄への国からの交付金獲得の良い材料になるとして利用を決め込むものもいた。
しかし、いろいろな方面からの働き掛けにも拘らず、国は沖縄県だけに独自の歴史教育の内容を追加することは、一律に行ってきた日本国民としての受けるべき教育内容の変更に当たるとして決して認めることはなかった。認められないとする役所の判断は頑なで、一度認めてしまうと同様の要求が他の地域に飛び火し、収拾がつかなくなることを強く懸念しているようであった。

当然この歴史教育問題は、県民の間に熱い不満のマグマとして広く深く人々の心の奥に沈殿していった。これは今まで米軍の基地問題から派生して起こったさまざまな問題に対する積年の根深い不満に加え、6年前に起こった中国漁船を使った魚釣島の占拠事件で、原状回復に向かった沖縄の学生と漁民が大怪我をしただけで犯人の逮捕も出来ず、国際的な恥を晒した日本政府の無能振りと日本を守るべき米軍が傍観者を決め込み、全く動かなかった事実は沖縄県民にとって何の-有益性ももたらさなかっただけでなく、今まで米軍基地の存在を容認してきた人々にも大きな失望に変わり、日本という国家体制の中で沖縄はどうあるべきかという基本的なあり方そのものを問い返す良い機会となっていた。島袋が大学に戻って5年目のことである。



シェールガス採掘

沖縄での資源開発事業は順調に進んでいた。島袋が手がけた天然ガス採掘を引き継いだ国家プロジェクト会社‘琉球資源開発機構’が本掘を開始したのは、新会社を結成した2月末から1年半程経た翌年の8月中旬であった。国家プロジェクトとしての事務処理から事務所の設置、本掘の為の資材搬入、金武湾への作業台座設置工事等準備作業が続き、やっと本掘にまでこぎ着けたのである。普通試掘から本掘まで2年以上は掛かるところを約1年半程で準備できたのはレキオ開発が本掘をイメージして、試掘後すぐに仕事に掛かれるよう十分な検討を重ね準備してきたところが大きく貢献したものと思われる。また、沖縄県がバックアップ体制を敷き、積極的に事業遂行に便宜を図ってきたことも大きな意味を持った。特に掘削作業自体が海上になる今回の事業は金武湾に設置した台座工事でも試掘段階で使用した海底まで打ち込んだ支柱を利用することで3ヶ月以上工事が短縮できている。しかし、それを現場で口に出す者は誰も居なかった。レキオ開発を支えてきた大学関係者や実務をサポートしてきた専門家はすべて手を引いたため、新しく始まる本格的な作業に直接係わることはもうないこと、新会社の主体をなす東京から来た専門家集団が替わって取り仕切ることになったため、試掘段階のレキオの仕事を知るものが誰もいないことと、実務を請け負ってきた作業員は若干新会社の作業員として再雇用されてはいるが、実務を引き継ぐ地元企業の沖縄土木(株)もレキオ開発とは何の関係もなかったからである。唯、レキオの仕事が将来を見据えて準備段階から組み立て・遂行・結果の解析まで綿密で、良く計算されていたことを理解し、見抜いている専門家がいた。今回の事業の現場責任者となる佐久間修治であった。評価の為に極秘に渡された、これまで沖縄の3ヶ所で行なわれた試掘の結果をまとめたレポートとこれからの課題・そしてその進め方の提言書は実に見事で、少人数ながら現実を見通したレキオ開発の島袋の手腕に感銘を受けていたからである。
日本で始めて行われる一大事業を任された現場責任者の佐久間修治は52歳、京都大学の理学部卒で大学院では地質調査を専門に研究してきた関係から、卒業と同時に帝国資源開発に入り、長年中東での油田探査に携わってきた。豊富な現場経験を持つ日本では数少ないプロ中のプロと自他共に認める彼は今回の仕事には打って付けの人物である。国家プロジェクト‘琉球資源開発機構’の立ち上げと共に、その中核となる帝国資源開発会社から、全体を統括する責任者として抜擢された。会社からの信頼も厚く、大柄な体躯で明るく豪快な性格は仲間内の評判もすこぶる良かった。国家プロジェクトを取りまとめ、結果を出す責任の重さを強く感じながらも、新しいことを始める誇りと使命感を胸に、これから始まる作業の最後の行程表作りに神経を集中させていた。仕事を確実に進めるには、大胆で細心な心配りが要求され、想定外の難しい作業も予測されるため、本掘作業が近付くにつれ現場には緊張感が漂っていた。
日本のエネルギーの未来に向けて始まったシェールガス採掘の大事業は、この沖縄の地で確実に動き始めた。これを担う会社の専門家は、これから直面するであろう多くの困難を想定し、佐久間がアメリカ出張でかき集めてきた資料やマニアル本をベースに、本格作業の準備段階から問題解決の為のシュミレーションを繰り返していた。日本では始めてになる事業でも既にアメリカでは多くのシェールガス産出の実績があり、その経験の中に成功と失敗を数多く積み重ねていた。言わばシェールガス先進国であるアメリカのノウハウを丸ごと頂いて参考にしようという戦略である。アメリカが経験し、乗り越えてきた問題の解決法は、これから沖縄で始まる事業を進めていく上で、すべてが参考になると考えられた。採掘上の技術的な問題はほぼクリアされ、採掘法もほぼ確立されていると考えてよかった。ただ沖縄とアメリカの大きな違いは、作業現場にあった。地表から真っ直ぐ地面を頁岩層まで掘り進むアメリカと違い、海上に大きな櫓を組んで海底を掘り進む、言わば海底油田探索と同じ作業が沖縄で行わなければならない。海底を1200mまで掘削する作業はすべて海上に高く組み上げた作業台の上で行われるため、天候によっては海が荒れ作業が出来ないことも考えられた。特に台風の多い沖縄では予期せぬ事態の発生も考えられ事前のシュミレーションは大変重要であった。唯、今回の場合、海上と言っても東シナ海のような波の荒い外洋と違って金武湾内に有る為、海流や波による影響は比較的少なくて済むと予想されている。シェールガス採掘のアメリカでの技術上の問題点や作業手順の注意点などはマニアルとしてまとめてあるため、一つ一つ日本の現況に合わせ、修正を加えながら慎重に作業を進めれば目的は十分に達成できると皆確信していた。
台座に組み上げられた鋼鉄製の物々しい櫓の中心に、1200Mまで掘り進む太いパイプが据付けられ、その先端には強力なドリルが取り付けられた。いよいよ本掘開始の準備が整った。8月中旬の沖縄は、真夏の太陽が出てくると朝10時の段階で30度を越え、強い日差しが肌を焦がし始め、汗を噴出させる。内地のように気温がこのままぐんぐん上昇し36度や37度までなることはまずない。海風がある為、日中で上がっても32度か33度止まりで木陰に入れば涼しい位である。しかし、日差しの強さは亜熱帯地区そのもので、直接皮膚に30分も当てればヤケドになるので、炎天下の作業はヘルメットにTシャツ一枚ではなく、皆長袖シャツを着て、汗拭きタオルを首に巻き、塩と水を飲みながらやることになる。作業をするには一番きつい季節と言える。

記念すべき作業開始の日は恒例の記念式典が行われた。台座に上がれる人数に限りがあるため、絞り込まれた招待者のみの参列となったが、それでも日本初の事業式典という事でマスコミ各社からの取材申し込みも多く、結局70名近くが台座に上がることに成った。湾の中に作られた作業台は予想以上に大きく、昼夜交代でも作業が出来るよう生活に必要なものは全て揃っていた。その日は良く晴れ上がり、午前10時で既に30度を越えていた。関係する会社のトップや国や県の関係部署の課長クラスが作業台に上がり、掘削用ドリルとパイプが動き出すのを待っていた。黙っていても顔や背中に汗が噴出してくる。恒例通り、資源開発機構の社長と来賓の挨拶が済むと、いよいよ作業開始である。スタンバイした多くの作業員の中でひと際図体の大きな現場監督の佐久間の右手が上がり、作業開始の合図に合わせて資源開発機構の社長がモーターを回すスイッチのボタンを押した。ドリルが勢い良くうなりを上げて回り始め、参加者のどよめきと拍手の中、そのままパイプごと静かに海の中に沈んで行った。本掘で使うパイプもドリルも試掘の際の3倍の大きさで、一本50Mのパイプを掘削しながら一本づつ繋いで行く作業がこれから延々と1200M海底下の頁岩層まで続けられることになる。何の問題もなければ、目標の1000Mをクリアするまで1年程掛かる見通しである。それはパイプを通じ掘削して上に上がってきた海底の地層を調べながら回転数や上からの圧力を調節して掘り進む為、結構な時間が掛かることになる。その後の200Mは更に慎重に掘り進め、シェールガスの眠る頁岩層に届くまで更に半年掛かると計算していた。
掘削開始から半年が経過し、既に700mをクリアしていた。途中9月と10月に台風の接近があり、湾が荒れて作業が停止したり、予想外の固い岩盤に当たって掘削パイプの先端に取り付けたドリルにひびが入り急遽取替え工事をやるというハプニングはあったものの全般に計算された工程表通りに進捗していた。むしろ予定より早いペースで順調に工事が進んでいるのは確かで、あと半年程で頁岩層に到達しそうな勢いである。しかし、高圧の水を噴射しながら横穴を掘り進め、発生してくるガスとオイルを上手くコントロールしながら地上まで導き、金武湾に面する崖の上に作られた巨大な貯蔵タンクまで輸送パイプを経て無事貯蔵されるまでが、真に本プロジェクトの本番作業で、これは今まで全く未経験で、何が起こるか分からない未知の領域であった。その為、本格的に天然ガスが採取できるまでにはまだ幾つかの乗り越えなければならない障害が待ち受けていると予測されていた。その一つが頁岩層からガスを取り出す水圧破砕法で、技術的には完成しているといっても個々の地層の厚みや含有量、高深度に伴う高圧との戦い等、米国ではかなりの実績はあるとはいえ、やはりやってみなければ分からない要素が多いと考えられた。
10月の台風は大型で3日間も沖縄に居座ったため、台座の一部と資材が飛ばされ破損する被害が出た。補修に半月程要したものの、その後は順調に進み、翌年の6月の末には1000mを越え、いよいよ頁岩層の眠る1200mに近づいて来た。本番近しという感じで掘削作業は細心の注意を払って進められていた。現場での役割分担で頁岩層に到達後、層に沿って横穴を堀り、高圧水注入と同時に天然ガスの採取に取り掛かる担当技術者たちにもかなり緊張感が漂い始めていた。現場責任者の佐久間は高圧水粉砕法に使う塩酸や硫酸をどうするか、使用すべきか止めるべきかまだ悩んでいた。濃度の濃い酸を水に混ぜて高圧で頁岩に注入すれば層が脆くなり、中に閉じ込められ液状化して固着していたガスが溶け出し易くなるため、作業の効率が良くなることは十分理解している。しかし、それが周囲に漏れた場合の環境へのリスクが大変高くなる。現にアメリカでは周辺土壌や地下水への悪影響から訴訟問題が幾つか報告されていた。沖縄では漏れるとしたら金武湾への流出が考えられるので社会問題となって大きく跳ね返ってくることが予想されるため、担当技術者との打ち合わせの中でその対応策が幾度も話し合われたが、最終的には現場責任者の佐久間の判断に任されることになった。佐久間の最終判断はアメリカで使用されている有機溶媒を塩酸だけとし、その濃度をアメリカで使用されている濃度の半分以下にして多少の作業効率は落ちるとしても環境に十分配慮しながら採掘作業を続けようというものであった。更に塩酸を使用する理由は、万が一漏出事故があった場合の対策として、等モルの苛性ソーダ液を常時保管しておき、注入することで塩酸と化学反応させ塩と水に変えることで金武湾への影響を最小限に止めることが出来ると考えたからである。
作業開始から一年三か月、11月末になってドリルの先端が頁岩層に達したことが確認された。これからは更に慎重に作業を進めなければならない。試掘のデータと表層からの計器測定で15m程の厚さの層が南北に走っているのは確認されているのでまず真っ直ぐに今まで通りに直進させ層の中間点まで掘り進み、先端のドリルを横穴用に取り替え、まず南向きに一本目の高圧水を注入する横穴を300mほど掘り進めることにした。これからの作業を支える一番重要な技術は唯一日本で改良を加えたもので、遠隔操作のできる自走式のドリルと高圧に耐えられる炭素繊維で出来た自由に曲がるフレックスなパイプを使って行われる。フレックスパイプの太さは1200mまで掘り進んできたパイプより一回り細く出来ていて、中を楽に上下できるので横穴堀りには実に適している。高圧の塩酸を含んだ水を吹きかけながらドリルを回し、ゆっくりと頁岩層内を自由に掘り進んでいくことができる。一本目の300mの横穴から、ガスとオイルがどれ程吹き出してくるか、それを見ながら層全体からの生産量を推定し、今後の層内への横穴堀の数と掘り進む長さの手順を決めなければならない。
実に順調に作業は進んでいた。心配された酸の漏出もガスの突出もなく、佐久間の計算通りの行程で横穴を掘り始めてから3ヶ月程で目的の300mに達したのを確認してすべての作業をストップ、横穴用ドリルとフレックスパイプをゆっくり引き抜く作業に入った。高圧で吹きかけられた酸性溶液によって頁岩から徐々にガスとオイルが溶け出し始め、作業台に取り付けた減圧装置でパイプ全体を減圧にしてやると一気に地下1200mからガスとオイルが噴出し、金武湾に面して作られた貯蔵タンクに導かれた。オイルは直ぐに出なくなり、すべてガスに変わった。一本の穴に向かって層に眠っていたガスが揺り動かされるように少しずつ溶け出し、減圧によって地上に出るときは何百倍にも膨れ上がり、ガスとなって採取されるのである。
本掘開始から約2年を経過し、最終的に300mの横穴が2本掘られ満足のいく結果が出始めた。この時を待っていた国も県も、そしてこの事業に参加してきた多くの企業も、ガス噴出の結果に大きく安堵すると同時に地上での作業が忙しくなった。まだ最終生産量が確定したわけではないので、糠喜びにならないよう皆一様に抑えた発表になっているが、込み上げて来る喜びは隠し切れず、日本で初めてのシェールガス採掘の成功と、これから始まるビジネスへの期待の大きさは測り知れない。エネルギー革命とも言われるシェールガスは資源の乏しい日本にとって、そして沖縄にとって未来への明るい大きな一歩となるに違いない。しかし、現場責任者の佐久間は周りが浮かれて騒ぐ程、逆に今の300mの横穴2本でどれ程のガスが得られるのか大いに不安であった。層に高圧の塩酸液を掛け亀裂を作ることで、層全体を脆くし、層に眠っていたガスやオイルを開けたパイプから取り出す作業は、アメリカで多くの実績があるとはいえ、日本では初めての経験であり何が起こるか想像が付かない。日本で改良を加えた横穴採掘技術がスムーズな結果を可能にしたと考えていたが、余にもコンピュータの計算通りで何の問題も起こらずガス採取に至ったので、中東で多くの苦労を経験してきた佐久間にとっては、逆に隠れた大事な見過ごしがあるようで不安が残っているのである。ただ、塩酸による環境への影響の問題はこれからで、作業が進むにつれリスクが大きくなるので気は許せない。作業台周辺の金武湾で毎週定時に海水のpHを測り、漏れのチェックはこれからも欠かせない。
ガス採掘成功のニュースは大学に戻った島袋の耳にも届いてきた。大学で琉球歴史読本を作成したものの全く注目されることなく、勉強会やセミナ-の企画で忙しく走り回るも、いっこうに人は集まらず、焦燥感だけを募らせていた島袋にとって強い励みとなるものであった。また、安志嶺爺と生前に約束した車の両輪がいよいよ回り始めたという感慨が強く胸を打った。
「こちらも少し急がねば・・・」
毎日を忙しく送る島袋の姿は、採掘現場から消え、現れる回数もほとんどなくなっていた。



6. 沖縄自立への道

島袋と當間茜が一年程掛け、協力しあって作った琉球歴史読本は、今まで日本の歴史教育の中で語られることのなかった沖縄の歴史を分かり易く一冊の本にまとめたものである。読み物としても面白く、また、中学生や高校生の教科書としても使えるよう工夫されていた。しかし、出版当所書店に並べられ、多少の宣伝はなされたものの全く話題になることもなく、半年後にはすべて島袋の手元に返品されてしまった。本のまとめの作業を続けながら、同時に歴史セミナーや勉強会を立ち上げ、消えて行く人々の沖縄の歴史に対する関心を取り戻す為の地道な活動に対しても人は全く集まらず、島袋の強い志とは裏腹に、空しく長い年月を費やすことになった。一時は自分のやっていることすべてが徒労であり、止めてしまった方が良いのではと一人深刻に悩むこともあった。そんな時、強い励ましとなったのは、何より側に居て助手として手伝ってくれている當間茜であり、県庁に勤める友人の新垣を始めとする大学時代の仲間達であった。落ち込む島袋を、周りが盛り上げる-ことで、挫けそうな心を前向きにし、地道な活動を支えてきた。また、亡くなった安次嶺爺との約束も活動を支える強い原動力となっていた。こうした地道な活動が、辛うじて将来への希望に繋がっていた。
全体の潮目が変わってきたのは、活動を始めて3年目が過ぎる頃からで、少しずつ雰囲気が変わり始めた。初めて参加した人から紹介を受けた人がまた別の人にという具合に少しずつ広がり、関心を持った人々はもっと深く史実を知るため、次のセミナーに参加するという良循環が見られるようになって来た。ちょうど沖縄で行われている国家プロジェクトのシェールガス掘削事業が最終段階に入り、ガスの眠る頁岩層に掘削パイプの先端が到達したタイミングと一致していた。島袋の作ったレキオ資源開発(株)が始めた事業が、国家プロジェクトの先駆けとなり、今に続くきっかけを作ることになったが、島袋の頭は、薄らいで行く沖縄の歴史に対する人々の関心をどうやって取り戻すかに完全に切り替わっていたため、もはや開発事業に対する未練は消え、採掘の現場に顔を見せることもなくなっていた。
初めの動きは、中学校や高校の社会や歴史を担当する先生を対象とする琉球の歴史勉強会やセミナーの中で、現場の若い先生方から発せられた声であった。沖縄のもつ独自の歴史は子供たちに教えるべきではないかと言った声があちこちから上がり始めたことである。何故沖縄では自分達の歴史を学べないのかという素朴な疑問から、問題意識を持った先生方が周囲の人々と話し合っていく中で、変わらない現状を打破するには、正しいと思うことはもっと積極的に自分達の実際の授業の中で実践するべきであるとして、具体的な行動を取り始めた。こうした情報が流れると、次々に同調する動きが出てきて、島袋が琉球大から名護の名桜大に移った頃には、あちらでもこちらでも、お互いが連絡を取り合いながら、自然な形で実践する先生が多数出てきた。琉球歴史読本を使い、日本の歴史教科書に対応する形で琉球の歴史を取り上げ、子供達に教え始めたのである。一人が始めたことが、ドミノ倒しのように連鎖反応を起こし、どんどん多くの学校に広がって行った。琉球歴史読本が教材として取り上げられ話題になってくると、学校として無視できなくなり、学校内で先生同士の議論が始まり、それが校長・副校長との議論になり、次第に生徒の親が加わった地域全体の議論となっていった。当然校長から地域の教育委員会に話が広がり、マスコミにも取り上げられるようになると、地域選出の議員が加わって、あたかも静かな湖面に投げられた小石が、波紋を作り周りに広がっていくように、次第に村から町・市そして県へと議論は広がっていった。結論は明白で、国は沖縄に対し沖縄固有の歴史を盛り込んだ歴史教育の内容に変更せよというもので、言わば教育権の地方分権化の要望である。実に反論の余地のない当たり前の要望であったが、北海道から沖縄まで全国均一の教育内容を求める国の姿勢とは相容れないものであった。それでも、実践する先生の数が増えれば増えるほど、危機感を持った国からの教職員への圧力が強くなってきた。国の意向を受けて圧力を掛ける立場の教育委員会の指導員や校長、副校長の動きも激しくなってきた。偏向教育は国の意向に反するとして琉球歴史読本の使用を止めるよう指導するものであったが、議論を深めていくに従い、今先生方がやっていること・やろうとしていることは決して偏向でも何でもない、極当たり前の日本の歴史に琉球の歴史を重ねた、沖縄として教えるべき内容のものであることに気付かされることになる。必然的に現状の矛盾と、指導という名の無知で理不尽な行動を取っている自分達に向き合う結果となってしまい、矛盾に気付いた者は一転して実践する先生の立場を支持するようなり、また、支持するに至らぬまでも、保身に走る校長や副校長は徐々に議論から逃げ、何も言わなくなっていった。勿論、国の意向に従い余計な教育内容の変更は認めないとして大騒ぎする者もいたが、大多数の各市町村にある教育委員会も、他の授業に支障の出ないよう気を付けて下さい程度の指導で現状を黙認するところが多くなってきた。教育の現場では逆に議論の盛り上がりに合わせ、琉球歴史読本を教材としてどのように使うべきか、現在使われている教科書との組み合わせ方や具体的な指導法について研究する検討会ができるほどであった。琉球歴史読本を取り上げ、使用する学校が沖縄全県に渡り次第に増えていった。島袋が大学に戻って5年が経っていた。

中学の社会の先生をしていた県庁勤めの新垣聡の妻・結衣は、今は那覇市内の学校の副校長をしており、この議論の中心的役割を担っていた。教育委員会への働き掛けや、PTAとの懇談会などでの積極的な行動は、島袋が投げかけた問題提起に、同じ大学の同じ研究会に居た者として答える義務があるという強い思いが込められていた。今まで疑問を持ちながらも体制にどっぷりつかったままで今日まで何もしてこなかったという、自分自身に対する罪の意識に近い感情が働いていたのも確かであった。セミナーや勉強会に参加した先生方が始めた動きは、収まることなく県内に浸透し、地域の親を巻き込み強い支持を得るようになってきた。圧力を掛ける立場の地域の教育委員会も立場を改め、地域の議会を通じて県に文部科学省が進める日本の歴史教育に、沖縄では沖縄の歴史を加えて子供達に教えることが出来るよう、教育内容変更の要望書が次々上がり、教育内容の全国一律で均一化を求める文部科学省の方針と対立した。頑として認めない国をどう説得するか、島袋の活動が始まって5年目に入る頃には県議会内に検討委員会が設置されるまでになった。当然島袋は専門委員としてメンバーに選ばれ、また、新垣結衣も先生方を代表するメンバーの一人として検討委員に選任された。県議会に大きな影響を与えることの出来る検討委員会で発言ができ、最終要望書を取り纏める作業に加わることは、島袋が初めから望んでいたことであった。
新聞やテレビ・ラジオで琉球の歴史が取り上げられる時は、決まって彼はコメンテーターとして呼ばれ、意見を求められた。テレビの画面に登場することも多くなって、そこで語られる波乱に富んだ魅力的な琉球の歴史秘話は、多くの人々に日本とは違う独自の歴史を歩んできた沖縄の歴史に興味を持ってもらうのに十分な内容であった。今までの地道な活動が、やっと実を結び始めたことを意味する。
3年目位から少しづつ上がり始めた人々の関心は、学校関係者や教育委員会を中心とした問題意識の変化と高まり、それがマスコミで度々取り上げられたことで相乗効果を生み、一気に話題に火がつき、あちこちで議論が沸騰するようになった。島袋が琉大から名護の私立大に移った4年目には、セミナーでも講演会でも今まで人集めに苦労してきた頃と違い、会場はいつも満員に近く、いろいろな機会に呼ばれることが多くなった。当然島袋一人ではすべての要請に応え切れなくなりつつあった。そんな時、彼の代理として秘書の當間茜を共同執筆者として送るようにすると、始めは緊張感から話に余裕がなく、作った原稿通りに話すだけで精一杯であった茜も、慣れるのにさほどの時間は掛からず、笑顔が可愛く、テレビ受けする端正な顔立ちと機転の利く頭の回転の良さが評判になって、直ぐに知名度が上がり、お茶の間の人気者になった。テレビ局からの逆指名さえ入るようになってきた。5年目に入り、県議会に設置された国に対する対応策を検討する委員に選任された島袋は、公の仕事が増え、茜の手助けなしでは身動きできないほど忙しくなっていた。マスコミへの対応や比較的小さな講演会等は、茜にすべて任されるようになった。
この盛り上がりは、今まで長く沖縄で続いてきた米軍基地撤去運動や普天間基地の移転に伴う辺野古沖埋め立て反対・オスプレイ配備反対運動で見られたのと同じ、国に対する県民の意思表示の一つではあるが、運動の内容や参加者が基本的に違っていた。どちらかと言うと従来の参加者は、利害が強く絡んだ人に加え、組合の活動家や地域の活動家を中心とした特定の人々による運動という、イデオロギーが先行しているイメージが強くて、一般の人には中々入り難い雰囲気があった。しかし、今回の動きは活動の中心が次世代の子供たちに沖縄の歴史をどう教えるべきかと言う教師達に、地域の母親・父兄が加わり、一緒になって現状を変えなければ納得ならないという生活に根ざした底辺の厚い、言わばイデオロギーを越えた動きと考えて良く、政治的な党派をも超えたものになっていた。米軍基地絡みの問題では、常に国の安全保障と地域の生活をどう守るかという議論に帰結し、どこか遠い所で、二つの噛み合わない議論が行われることになり、地域の生活を守る戦いには、所詮地域エゴに過ぎないというレッテルが貼られ、分が悪く、最終的に国から幾ばくかの交付金を獲得することで問題がウヤムヤにされ、解決しないまま議論打ち切りとなっていたのとは明らかに違っていた。

一方、沖縄の経済を支える基幹産業の育成を目指して始めたシェールガス採掘はいよいよ結果が出始めていた。頁岩層を掘り進めていたパイプから念願のガスとオイルが噴出したというニュースが流れ、予想をはるかに超える量のガスが期待出来るという未来予測が連日マスコミを賑わしていた。作業の続く金武湾周辺では、ガス関連、オイル関連の会社による処理プラントや貯蓄タンクの増設工事、その他関連工事が相次ぎ、沖縄の雇用問題が一気に解決したような活況を呈していた。今後40~50年程は沖縄の基幹産業として県の財政を十分支えることが出来ると期待された。その間に更にもう一本東シナ海にシェールガス探索井戸を掘れば、沖縄はもはや国からの補助金依存体質から脱し、十分に自立していける経済基盤が構築できるようになると考えられ、かつて島袋と新垣が安次嶺爺と話し合った二本柱の一つが、やっと念願かなって成就出来そうなところまできていた。

沖縄は元々革新系の組織が強い土地柄で、社会党・社会平民党といった戦後日本で活躍した政治集団が、他の地域ではもはや消えてしまうか変質してしまっている状況でも、ここではまだ生き残っていた。それは長年米軍統治時代に行われてきた、強制的な土地の接収に絡む基地問題を抱え、それに派生するさまざまな問題(米兵による少女レイプ事件、米軍ヘリの沖縄国際大学への墜落事故等々)が、日本の安全を守ると言う名目で今日まで沖縄の人々の生活を侵害し、第二次大戦中は、沖縄そのものが日本の捨石とされて多数の人々が圧殺され、その後も政治的・地域的差別を受け続けてきた所に深く根ざしていた。県議会の構成比は、現在保守系に比べ革新系の議員の数がやや多くなっているものの、県行政のトップを選ぶ県知事選挙は毎回保革の大激戦となり拮抗した戦いが続いていた。しかし最近の議会を巻き込んだ歴史教育問題は様相を一変させた。すなわち一つのテーマについて、保革の対立で議論が進められてきた従来型から、国と地方という民主主義の根幹を揺さぶるような対立が、ここに来てはっきり目に見える形で人々の目の前に展開されるようになったのである。沖縄の歴史教育問題には保革の対立も、政党間の対立も全くなかったからである。現状の不自然さに気が付いた人々の思いは、いつの間にか燎原の火の如く県全体に広がり、今まで日本に帰属する事で起こってきたさまざまな地域差別問題が、すべて自分達が参加して決められない現実を多くの人に気付かせる結果となったのである。自分達のことは自分達で決めると言う自決権こそが、決定的に今まで欠落していた問題であることに気付くことで、当然自分たちの思いを阻害する現行の制度や法律そしてそれを楯に権力を行使する国という目に見えない怪物の存在を意識し、自分達では物事が決められない植民地的な現状を変えるには、自決権や自治権を持った自立した県を目指すべきという意見に集約されてくる。その結果として、日本から自立した沖縄自治州を作ろうという意見や、昔の琉球国を復活すべきとする独立論まで幅広い議論となって、国の対応次第では自分達による、自分達のための県あるいは国家建設が必要ではという人々の意識の変化をもたらした。
沖縄県の国からの自立・独立も辞さずという意識の変化は、既存の政党の枠を超えた新たな受け皿が必要となり、多くの現役の政治家を含め、様々な意見を巻き込んだNGO組織“沖縄の未来を考える会”が結成されることになった。そして、その代表には政治家ではなく民間の大学教授で、県議会の検討委員会で最終要望書をまとめた専門委員の島袋崇一が選ばれた。副代表には同じく検討委員会の委員を務めた副校長の新垣結衣が、代表補佐として當間茜が指名された。新たな運動の受け皿と言っても、従来の政党組織が行なってきた広報・宣伝活動や地域の行事への参加等とは異なり、NGOの主な活動の場はネットである。登録されたメンバーによるソーシャルネットワークを使った、すなわち、NGOのホームページに設けられた意見交換サイトやそれに派生する形で設けられたツイッター・ラインを利用し、問題提起されたテーマに対する自由な意見表明と議論の場を提供することで、一方的な議論になることを避け、多くの意見の中から全体の方向を見出し、次の方針を決定するやり方である。日々の動きは細かく、短くツイッターに呟かれ、ラインにコメントされると、多くのフォローアーによって激励されたり、批判されたり、日常のやり取りの中でお互いが繋がっていくという、今までに見られない運動形態が基本になっている。運動の輪は人それぞれが持ついろいろの思惑を秘めながら、県全体に広がっているので、NGO組織の役員の役割は、さまざまな意見のまとめ役と、そして全体の運動の方向性を指し示す役割を担っていたが、その草の根的な地域密着性は歴史教育問題に留まらず、身の回りのあらゆる問題に広がり、その影響力は次第に既存の政党に負けない程大きいものになっていった。その具体的な例としては、県内の市長選や町長選で候補者が掲げる公約がNGOの活動に批判的あるいは曖昧で自分の意見を明確にしない場合、確実に落選する結果となって現れた。過去にも何度か同様の動きがあって、国の補助金に頼らない、自立した県となるための方策がいろいろ議論されてきたが、どの議論にも県民全体を取り込む程の魅力はなく、県の財政を支える基幹産業がなく、観光収入に頼る現状への不安が先行して支持を広げるだけの力には成り得なかった。しかし、多くの県民を巻き込んだ今回の動きは明らかに今までとは違う何かを持っていた。まず、こういった地域を巻き込む動きに敏感な多くの政治家がメンバーとして加わっているにも拘らず、運動の主体は多く女性が担っていること。学校の教師であったり、PTAで協議に加わってきた地域の主婦達が地域の代表として県全体に広がるNGO組織を支えていた。そして選挙運動への参加呼び掛けや個々人の意思表示が決定的に違うのは、昔選挙でしばしば活躍した勝手連的な動きにプラスして、お互いのコミニケーション・ツールがソーシャルネットワークを使うことから、自宅に居て議論に参加できるPCやタブレット・携帯端末を持つことで、若者から年寄りまで普段政治や教育問題に関心のない人々も、年齢に関係なく幅広く自分の考えを述べ、運動に参加できるようになったこと。自由な意見交換が可能になり、十分な議論の中で方向性を見出していく作業が出来ることは運動そのものに厚みをもたらし、劇的に運動の質そのものが変わったことを意味する。危機感を持った現役の政治家やこれから政治家として活躍したいと願っているものが、挙ってNGO組織に入る理由はそこにあった。人それぞれが持つ多くの思惑や偏見・行き過ぎた私的な批判といった、生活に根ざすが故のもろもろの問題が噴出すネット上の意見交換の中で、方向性を如何に見出していくか、よくある意識的なデマや悪意のある情報操作による個人攻撃を排除し、冷静な判断が出来るようにするルール作りが必要で、NGOに参加し、ネットでの議論に参加するための条件が設定された。まず身分を明らかにし、匿名性を禁止、発言の趣旨をいつでもフォローできるようにした。これにより無責任なネットの炎上といった現象を防止できるようになった。勿論、沖縄を支える基幹産業が実現しそうだという明るい見通しが後押ししているのも確かであったが、もう東京から来る政治家や官僚の耳障りの良い上っ面だけの甘い言葉は誰も信じないし、目に見える形での具体的な回答や解決策以外信用出来ないという覚悟に近い心情が人々の心の奥に秘められているようであった。しかし、確かに今までにない盛り上がりと広がりを見せる歴史教育問題ではあったが、それがどれだけ持続し、沖縄の未来を切り開く力に成りうるかは誰にも分からなかった。

委員会がまとめた最終要望書は、県議会議長と県教育委員会委員長名で文部科学大臣と総理大臣宛に提出された。内容は琉球時代から具体的な史実に基づき、それが現在の沖縄の生活習慣となり、祭りの原点となって日本とは違う文化として定着している事実を述べ、それを受け継ぐ子供たちに正確に歴史教育として伝えなければならない重要性を説いている。
独立した国家であった琉球王国が、1609年の島津藩の武力侵攻によって藩直轄となり、1879年、明治政府による日本への併合措置によって沖縄県が誕生し、太平洋戦争では、日本を守る最前線として20万人以上の多大な人的被害を被りながら、その後米国統治を経て、1962年の琉球政府立法院の施政権返還に関する要望決議を受け、10年後の1972年、日本復帰を果たす。しかし、本土並み復帰を求めた沖縄県民の声は無視され、日米両政府間の密約の下、治外法権の米軍基地はそのまま残り、県民の加重負担は放置されたまま今日に至る。沖縄県民の意志と要望が反映されることなく決められてきた歴史の現実を要望書の前段で取り上げ、琉球王国として日本とは全く異なる独自の歴史と文化と言語を持って歩んできた沖縄に対し、均一で偏りのない教育を目標にする日本政府の方針が押し付けられてきた実態と、沖縄の過去の歴史をすべて消し去り、一切触れず、日本で使われてきた教科書をそのまま使うよう強制されてきた現実は、沖縄にとって到底受け入れられるものではなく、国の一方的な決定ですべて決められてきた従来のやり方に、強い反省を求めるとする要望書になっている。これは、かつて沖縄が米国政府の統治から日本復帰を強く望んだからと言って、日本の歴史を学ぶ重要性は理解できるものの、自分たちの歴史を省みないこと、消し去って一切触れてこなかったことの理不尽さが帳消しされるものでもなく、要望書の最後に、県民の強い要望に応えようとしない国の対応が続く限り、これからの沖縄と国との良好な関係を維持することは難しくなるだろうという警告文で締めくくられていた。
しかし、今回の盛り上がりが、決定的に教育問題から沖縄の未来を考えた政治問題に流れが変わり、更に多くの教育にも政治にも関心のない一般の人々に直接火を付けるきっかけとなったのは、何気ない當間茜のテレビ番組での一言であった。要望書の素案を地元のテレビ局が、その時々の話題をいろいろの立場の視聴者と専門家をスタジオに集め議論する人気討論番組で取り上げ、これを解説する立場から専門委員を務めた新垣結衣と島袋の代理で當間茜が一緒にテレビ出演していた。今日まで県議会の中で、超党派で纏め上げられた国への要望書の内容が紹介され、その意義と今後の対応について多く議論された。茜は最後のコメントで 
「これが国から無視されるようであれば、沖縄が日本という枠に留まる理由はなくなるでしょう」と発言した。所謂沖縄の日本からの自立・独立宣言である。軽くさらりと流したこの発言に対し、テレビ視聴者からの反応は予想をはるかに超える数多くの賛否が寄せられた。そして、それ以降新聞やブログ・ツイッターというメディア媒体に対し大量の投稿が続くことになる。当然強烈な反対の意見も述べられたが、圧倒的多数が賛同で、この盛り上がりをどのようにこれからの県政に反映させるべきか、そして沈静化させるべきか、県や町で選ばれた知事や市長、議員だけでなく、教育行政を預かる教育委員会のメンバーもその成り行きに神経を尖らせることになった。議論はいろいろなレベルで沸騰し、もはや学校レベルだけでなく地域ごとの自治会、婦人会、青年会や沖縄独特のモアイの集まり等、さまざまな機会で議論されることになった。多くの意見は
「茜の意見に賛同する。国も県も今まで散々我々を騙し続けてきたので、これを契機に周りの不具合を洗い直そう。そして、我々の意見が反映される町や県に作り直そう」
といった声が多数上がり、中には過激な意見として
「この要望が通らなかったら、もう許さん。日本から独立を真面目に考えよう」とか
「我々が自立せな~、何~んも変わらん」といったさまざまな意見が述べられ、一つの教育問題の枠を越え、皆の意識はもはや十分に政治問題として認識していた。従来からの基地問題や尖閣諸島問題への政府の対応に対する長年の不満や、心の奥に沈殿していた怒りが一気に噴出したように、県全体を覆う自立・独立への動きとなって大きなうねりを生み始めた。歴史教育の見直しを求める動きは明らかに国に対峙し、自分たちの手に国が持つ権限を取り戻して行こうとする、昔大阪で始まった大阪都構想という、日本の地方分権化を求めた運動に良く似た形になってきた。地方の道州制化は結局、大阪のトップが交代した段階で話がウヤムヤになってしまい、実現まで行かずに消えてしまったが、沖縄で始まった自立・独立への動きは、今までの人々の長年の不満の上に、下から上に押し上げてくる津波のように、大きなうねりとなって村や町を覆い、県全体を包んで静かに国の対応を見守っていた。

NGO組織の役割が地域社会の中でかなり大きな力を持っていることを証明する事案が相次ぐようになった。沖縄の歴史を教育現場で実践し始めた頃、国の意向を受け、町の教育長と町長が強烈に実践する教師に対し圧力を掛け、止めさせようとした事例がいくつかあった。転勤や辞任まで求める過酷な対応であった。この事実に対し、後にNGO組織内で問題提起され、その事実関係の調査と責任の所在を明らかにする作業が行なわれた。出た結論は、町長のリコールと教育長の解任であった。それは決してトップダウンの一方的な結論ではなく、誰かがネット上に問題提起し、個人の誹謗・中傷ではない、過去の事実関係をいろいろな角度から検討し、彼らの取った行動の評価がそのポジションに相応しくないとなれば、次のステップとして解任やリコールの手続きに進むことを最終的にNGOの役員会が了承した。静かな、そして丁寧なプロセスを経ることで、いったん方向性が決まると次の動きは実に早く、それに対する反対の意見が軽く一蹴されたとき、確実に結果を出すことになった。NGO組織の手法は、疑いなく無視できない程の政治的な力を持つようになっていた。村や町や市で行なわれた選挙で、NGOが推薦した人々が選ばれることが多くなり、その影響力と強い信頼感は今までにないほど地域にしっかり根ざしたものになっていた。機を見るに敏な政治家がこの動きに反応しないわけはなく、政党を超えて次々NGOに参加するようになったことは十分に理解できる動きである。彼らはこのNGOを利用して自分の地盤を固めたい、盤石な支持母体として利用したいという思いが強く作用していると思われるが、逆にその行動そのものが多くの人々に見られ、沖縄の将来に本当に有意義かどうか評価されることになった。
要望書が提出されてから半年が経過し、国の判断がそろそろまとまる時期に来ても何の反応もなかった。しかし、霞ヶ関の中ではさまざまな議論が交わされていた。国が変な対応を取ると、沖縄が日本からの独立運動に走りかねないという複数の地元有力者からの情報をもとに、その対策が話し合われていたのである。いろいろなシュミレーションが行なわれ、結論として多少の混乱は有っても沖縄が独立や自立に至るほどの大きな動きにはならないとして、要望は従来からの国の方針通り拒絶された。NGO組織を中心とした県全体を取り込んだ、静かで幅の広い大きなうねりが本土からは良く見えなかったのである。

6-1: 怒りの県民抗議集会

沖縄県に伝えられた国の最終結論は、県民に大きな落胆と怒りを呼び起こした。直ちに10万人規模の大きな抗議集会が呼び掛けられ実施された。主催者は県議会議長と県の教育長で、超党派で要望書をまとめたことから、多くの議員の名前が呼び掛け人として上げられていた。また、国への要望書をまとめた、島袋宗一や新垣結衣ら専門委員のメンバーも呼び掛け人になっていた。集会は予想をはるかに超える25万人規模の大集会となり、会場に入りきれない人々は周辺の道路に溢れた。面白いことに、参加者の半数以上が女性で占められていた。集会では強い怒りと同時に、もう国に何も期待せず、自立する県を目指してこれからの方向性を明確に示す決議を求める集会となった。すなわち、次回の県知事選では、国からの自立・独立を強く掲げる我々の代表を選ぶこと、そして、住民投票による我々の意思確認を早い機会に行うこと。過半数以上が自立あるいは独立を求める結果であれば、もはや何の躊躇することなく、県の行政を司る為のあらゆる必要な権限を国から奪取すること。そして、それぞれの分野毎に専門部会を県議会に設け、その具体的行動計画の検討に入ることが求められた。しかし、この結論が集会で了承されるには多くの混乱が有った。超党派で国と対峙してきた県や市・町の議員達の中で、保守派で、沖縄では少数派になる民進党議員は、国との関係を重視する観点から、歴史教育問題での国の決定には反対するが、それを越えた国との全面対決には同意できないという立場で、集会での決議に反対し、強行するなら退場すると主張した。通常であれば、参加者全員でこぶしを突き上げ、反対を叫び、国の対応に強く反対する決議文を読み上げ、集会は無事終了する。従来型の集会をイメージしていた議員達は、世間に我々の意志をアピールできたことで、すべての目的は達成できたと判断したはずであった。しかし、集会への参加者の意識は反対表明に留まらず、歴史教育問題を踏まえ、沖縄の今後のあり方を見据えた取り組みをどうするかに関心が移っていたのである。市民や県民によって選ばれた議員は、選んでくれた庶民の意志を代弁する大事な役割を担っている。予想を超える参加者の前で、国の拒否反応に対する具体的な対応策を問われたとき、従来通りの意志表明だけで良しとする態度では、到底人々を納得させることができないほど状況は変わっていた。ネット上での議論で、従来通りのやり方では何も変わらないことを十分学習してきた参加者の多くは、次のステップについて散々議論してきているので、通り一遍の反対意見を表明することで自分の役割が終ったとして帰ろうとする議員達を、参加者は許すことはなかった。次の行動を迫る会場の熱気は安易な妥協を許すほど甘いものではなかった。国の今回の決定を予想していた多くの人々は、これからの沖縄の自立・独立に向け動き出す強い覚悟を一人ひとりに求めていた。しかし、ネットでの議論の内容を知らない議員達は、この熱気にたじろぐだけでなく、容易ならざる雰囲気に、一瞬どう対応するか思い悩んだ。ある者は大声でそんな決議は認めないと怒鳴り、立ち上がって演壇を降りた。ある者は頭を抱え、どうなっているんだと呻いた。参加者からの妥協を許さぬ問い掛けに、議員の仕事は、この問題に限らず、やるべき事は山ほど有るんだといくら強弁してみても、何の説得力も持たなかった。選挙で選ばれた議員のみが、沖縄の市民・県民の意見を代弁できる立場にあり、外に向かって声を上げることが出来ることから、民意を正しく汲み取り、自分の考えを進化させて行かないと、そこには大きなギャップが広がり存在価値が無くなってしまう。比較的若い議員達は、日頃からネット上で議論されている内容に参加し、自分の意見を述べてその反響を身をもって感じているので、民意が今までの抗議集会で行なわれてきたやり方ではもはや納得させられないほど参加者の意識が進んでおり、要望書への拒否の回答を読み込んで、教育問題を超えた次の対応を求めていることを理解していた。しかし、従来通りの問題を限定し、反対声明を読み上げることで良しとする議員達には、この予定の倍以上の参加者が集まり、その半数以上が女性であり、異様な熱気でこれからの対応を迫る雰囲気を理解できなかったのである。

予想された通りの国の反応に、歴史教育の現場の先生達は実に冷静で、いつも通り文部省指定の教科書に、島袋と茜が作った琉球歴史読本を重ねる形で、検討会が推薦するやり方に沿って授業は行なわれていた。これにはもはや地域の教育委員会も学校の校長・副校長も何も口を出すことはなかったし、それを支えるPTAも了解していた。その意味ではこの定着した歴史教育の沖縄方式は国の方針に関係なく、確実に全県に広まり実施されていることから、既に解決済みと言っても良いのかもしれない。更に新しい動きとして、各学校の国語の教師達が琉球時代から使われていた沖縄の方言“しまくと~ば”を積極的に授業で教え始めたのである。1972年の復帰後、学校での使用を禁じられていた言葉がやっと日の目を見ることになったのである。
当然NGO組織の中では、要望書に国が拒否したことに対する対応策が、ネットを通じ活発に意見交換されていた。自立や独立を求める声が多く出されるものの、その求める最終形態をどうするか。そしてそれを実現する為に何から始めるべきか。具体的な行程表はどうあるべきかといったさまざまな問題を抱え、意見の交換は延々と続いていた。沖縄の今後のあり方を自分の問題として捉えた真剣な議論である。表面に表れないネット上の議論と平行し、各地で計画されて行なわれる抗議集会や県全体を取り込んだ大きな抗議集会など動きは活発で、国の決定の不当性と教育権の地方分権化を認めるよう求める決議が次々に採択され、マスコミ向けに発表された。はじめは国の決定に抗議するものであったが、次第に沖縄の意志を反映させる為にはどうすべきかという、ネット上で議論されている内容が抗議集会参加者にも広く伝わり、明らかに自立・独立に向けた方向に議論が変わっていった。
はじめ強く日本からの独立と琉球国の建設を主張していたグループも、ネット上の話し合いの中で、当然一国となると担わなければならない外交や防衛といったかなり専門的で費用を要する問題は小さな沖縄県には荷が重過ぎるのではないかという意見に押され、最初から国の独立を謳うのは日本との軋轢が大きくなるばかりで、交渉する上で幅を広げておく方が得策ではないという意見に徐々に集約されてきた。そして、香港がイギリスから中国に返還されたとき、中国が取った一国二制度という対応策が現実的ではないか、すなわち日本という枠の中にありながらも、政治的権限や教育権・県の財政を支える税金の徴収権を含む経済的決定権・独自の文化を守る文化権や司法権・県民を守る警察権等、すべて霞ヶ関に中央集権化されている現状の改革なしには、自立した県として自己決定権を沖縄に取り戻すことが出来ない。一つ一つの権限を沖縄がどう取り戻して行くか、その現実的やり方と対策について多くの集会参加者も、ネット上での議論と同時平衡的に問題意識を深めていった。しかし、どれ一つを取っても実現可能性の観点から難しく、国の行政機関との権限の奪い合いになり、今回の教育権の地方分権化の要望に対する拒否反応と同様、すべてに対し相当の反発が予想され、やはり最終的には独立しか選択の道がないとする意見も根強く残っていた。あらゆる妨害活動が行なわれる可能性が高いことから、その活動はすべて慎重に行なわなければならない。

しかし、この歴史的な集会を機に沖縄の雰囲気は一変した。人々の日常生活には何の変化も見られないものの、沖縄の将来を見据えた人々の目には、明らかな変化を求める新しい沖縄の姿が見え始めていた。ネットでのさまざまな議論の中で、もっとも喫緊の課題は、一年後に控える県知事選挙にNGOとして誰を推薦するか、現職の知事は健康上の理由で早々と引退を表明しているので、多くの名前が上がる中、今回の歴史教育問題で協力的であった県議会議長や教育長を推す意見が多く出された。唯、年齢的に共に70歳を超えているので今後国と対峙しなければならない状況を考える時、タフな活動を期待するには少し無理があると判断された。これからの沖縄を引っ張っていける若くて強烈な個性のある人物が求められたが、中々一本に絞りきれない。人に好かれて信頼感があり、カリスマ性のある人が良いという意見が多かった。数多くの自薦他薦の中から、テレビですっかりお馴染みになった大学教授の島袋宗一や新垣結衣の名前も候補として挙げられた。その中でも今回の大きな意識の転換をもたらすきっかけを作った當間茜を推す意見が多かった。政治経験のない者が上手く国と対峙して交渉を進められるかという強い懸念は誰でも抱く心配事で、本人達も全くその気がなかった。
NGO如き素人集団に県政をかき回されては叶わんとして、先日の集会で激昂し演壇から退場した民進党の議員達は、知事の座を死守すべく早々と候補を一本化し、着々と準備を進めていた。保守党で国政では与党である民進党は、日本の舵取りを任かされている首相を輩出している現状から、沖縄でも行政のトップは是非とも自分達が推薦した者を当選させたいとして早くから準備作業を進めて来た。国との協調路線により多くの予算を確保し、豊かな沖縄を実現していくという従来からの方針に従い、沖縄の経済界、土木・建設業や農業・漁業の関係団体等の支援を受け、早々と候補者を一本化するのに成功し、各地で動き始めていた。県の議会では革新系政党4党が連携することで与党となり、議会の運営に当たっているが、単独で過半数を占める所はなかった。知事選への対応は独自の候補を擁立できずに、先日の集会以降、政党並みに影響力をもったNGOを無視できないことから、NGOとの話し合いの中で推薦候補者を決めていく戦略に方向転換し、共に協調する意向を示していた。知事選での立候補者は、政党色を出さず、全員無所属で出馬するため一見分かり難い。それは政党を全面に出すと多くの政党に関心のない人々には全くアピールしないため、地域の長を決める選挙ではどの政党も取ってきた方針である。県の行政のトップは、そもそもあらゆる立場の県民に対してどのように行政サービスを実施するかを決める県の最高行政機関であることから、選挙戦略としては当然かもしれない。今まで国から多額の補助金を受け、長い間恩恵を受け続けてきた沖縄経済界としては、国の意向を受け、現政権と関係の強い民進党の要請に手のひらを返すようにノーとは言えない立場から今回の知事選でもいち早く支持を表明していた。しかし、内実はそれ程単純ではなかった。利益を多く享受してきたとはいえ、歴史教育問題では国の政策に強く反対したように、今まで多くの問題を抱え、散々煮え湯を飲まされ、我慢を強いられてきた沖縄の歴史を知らぬものは誰もいない。沖縄の歴史教育問題を通じ、改めて思い知らされ、気付かされた我々のアイデンティティーをどのように確保すべきかは、沖縄に住むすべての人々の長年のテーマであり、経済界といえども一枚岩では有り得なかったのである。


6-2: 沖縄県知事選挙

NGOの最高責任者である島袋は今後の沖縄の方向性を決める大きな一歩となる知事選挙にどう対応するか悩んでいた。登録されている会員の数は10万人を超え、テーマ毎のフォローアーはその三倍以上いると思われるので、従来の政党活動より影響力を持っていることは明らかであった。人々の期待の大きさを考えると、候補者の人選は正にキイポイントになる。仕掛け人として運動を引っ張ってきた責任上、自分が候補者として立つべきか、誰も適任者が居ないとなったらそうせざるを得ないかと言う覚悟は出来ていたが、本当に自分が適任者であると言う自信はなかった。大学の仲間達や県の専門委員会の仲間たちからもお前しかまとめられるものはいないのではと言う意見が強かった。そんな時、親友の新垣聡から新しい沖縄を目指すには、案外女性が適任ではないかと言う提案があった。最近では県庁内でも良い仕事をして周りに強い影響力を持つ女性が多く出てきていること。それがまだ制度的に中々日が当たらず、組織的には旧態然としているが、知事に女性がなったら雰囲気が一気に変わるだろうと言う提案である。現にNGO“沖縄の未来を考える会”の活動の主体が女性であることを考慮すると、これは実に妥当な考えに思えた。しかし、誰を推すべきか?適任者はだれか?今までの流れから何人かの名前は上がっていたが、皆固辞されている。男性の場合は、是非自分がと言った自薦組が多くて悩むことはないが、県全体に名が知れ、影響を持つ女性となると、テレビに出演することが多く、日本からの独立発言で一気に有名になった當間茜位しか思い浮かばない。自分との関係では、まだ婚姻届は出していないものの、深く愛し合って一緒に暮らしている茜を知事候補として推薦することは、自分のもとから巣立って行く‘旅立ち’を意味するようで、一度固辞された経緯もあってなかなか話題として切り出せなかった。しかし、候補者選びが始まって-一ケ月が過ぎ、もうすぐ二ケ月を経ようとしてもなかなか決めることが出来なかった。沖縄の県議会では与党になる革新系の政党間で中々統一候補を絞りきれず、対立候補となる野党民進党の候補者は、既にあちこちの団体の推薦を得て着々と準備を進め先行しているのに対し、対抗出来るだけの力を持った候補者が見当たらないままずるずると時間ばかり経過していた。県全体への影響力を考えると、NGOの推薦無しにこれからの選挙は戦えないとして、連日強い申し出が島袋のもとに来ていた。島袋の頭には女性の候補者として、當間茜と新垣結衣の二人しか思い浮かばなかった。どちらを説得すべきか。共にNGOの運営では重要な役割を担っているので、知名度も大衆受けする容姿・弁舌・性格等どれをとっても問題なくクリア出来ているが、政治家として求められる、タフで粘り強い交渉力と必要な時は強烈なリーダーシップが発揮できるかどうか、心配し始めると限りがなかった。どちらも前に固辞されているので強い躊躇いがあったが、二人の名前はネット上に前々から上がっていたので、会って再説得の話を切り出しても意外に驚く風もなく、
「エー、まだ誰も決まってないんですか? これからの沖縄にとって大事な選挙ですのにネ」と二人とも自分の問題と言うより、現状を強く心配して瞳を曇らせた。新しいタイプの知事候補として、ネット上では圧倒的に茜の人気が高かったが、人気だけで候補を選定して良いのか、島袋は悩んでいた。しかし、直接二人に会うと、最初は強く固辞していたものの、現状を心配して
「何とかしないといけませんネ。私達に知事のようなポジションが務まるのかしら?」
意外に簡単に、そして、明るく前向きなコメントが帰ってきた。
「茜、あなた出てみたら?ネットでのみんなの期待は絶大ヨ」 結衣から強く推されると茜は、
「先生がそんなにお困りになっているなら考えても良いですが、本当に私で大丈夫かしら?」
突然降って沸いた話に、元々好奇心の強い茜は、明るく不安と興味の入り混じった複雑な感情を吐露した。
「先生が出てみなさいと言われるのなら考えて見ますけど、私、政治のことなど全くの素人ですし・・・」
「今は逆にそういった政治の垢に汚れていない人を求める傾向が強いように感じているがネ。勿論、沖縄の未来を見据えた芯のしっかりした人でないと困るし、いい加減な気持では出来ないことも確かだからネ」
「その意味では、茜は正にピッタリよ。先生の分身なんだから」島袋のコメントに結衣が付け加えた。
「正式に出るとなったらいろいろ準備が必要なので早い方が良い。庶民の日々の生活に関係する行政サービスについて大いに勉強する必要があるし、県の財政・経済政策・福祉政策から許認可事業等もろもろのことについて勉強し、県政の概略を知らないと仕事にならないし・・・。やらないといけない事案が山ほどあるのでこれからは忙しくなるヨ・・・。当面大学の専門家を集め、チームを組んで選挙対策と勉強会を立ち上げねばならない。大変だが沖縄に新しい風を吹かせてみるか!」
島袋は茜の覚悟の程を確認したことで安堵しながらも、一方で一抹の寂しさを感じていた。やっと自分の懐に捕まえることができた小鳥が、今また周りのエネルギーを吸収し、大きく逞しく成長した親鳥となって、自分から飛び立ってしまう姿が脳裏を掠めたからである。強い知的好奇心と限りない向上心は、茜が心の奥底に秘める特質で、仕事の速さ・飲み込みの良さとして現れる。今回の彼女の決断は、これから多くの人と接していく中で大きく成長し、スケールの大きな女性として育っていく可能性を秘めていた。

島袋から関係する政党の代表に候補者として茜が了承したことを報告すると、経験不足に対する心配の声はあっても反対する意見はなかった。どの党も彼女には好印象を持っていて、共同して支えていける代表に相応しいとして歓迎された。マスコミへの正式な発表は先送りされ、選挙公約をどうするか、特に沖縄の日本からの自立・独立をどのようにアピールしていくか、各グループから選任された専門スタッフによって連日議論され、調整され、選挙戦略と戦術が練り上げられていった。沖縄県の与党の統一候補としてマスコミに正式発表されるのは公示の2か月前と決まり、それまで彼女の身辺整理と必要と思われる知識を頭に叩き込むための勉強会が極秘でセットされた。要望が有れば、話をしに講演会や地域での集まりには、いつも通り出席した。身辺整理で問題になったのは島袋との関係で、親しい人には二人が一緒に暮らしていることは良く知られていたが、正式な結婚届を出している訳でもなく、細かなことに気を使わない性格の二人は全く気に掛けて来なかった問題である。しかし、正式に知事候補者となった場合、今の宙ぶらりんの関係のままでは、相手からの結構な攻撃材料となり選挙どころではなくなる可能性が高かった。大至急婚姻届を提出し、正式な夫婦となること。しかし、広く世間に名前が通っているのは當間茜なので、これからも當間茜のまま夫婦別性を通すこと。また、以前婚姻関係にあった家族とトラブルになるような点がないか細かく洗い直された。これからは彼女の一挙手一投足が注目され、ニュースとなってテレビや週刊誌に取り上げられることが多くなるので特に注意が必要になる。同時に茜は知事として最低限知っておくべきいろいろの分野について、専門家との勉強会が連日夜遅くまで続けられていた。予測される投票日までの準備期間としての約10か月は、あっという間に過ぎていった。NGOと共同歩調を取る政党との共催になる講演会では各地を巡りながら沖縄の未来を語った。地域毎にNGOが中心となった勝手連的な組織が出来、応援活動が動き始めると、ネットを通じた情報交換にも積極的に参加し、地域の問題点を取り上げ、解決策を語り合う勉強会にも可能な限り出席した。地域の催し物での挨拶回りにも顔を出し、組まれたスケジュールを毎日こなして行くだけで月日がドンドン過ぎていった。
公示2か月前に知事候補として正式に茜の名前が発表された頃は、実質的な選挙運動が一番の盛り上がりを見せているころで、相手候補の動きも激しく、この頃から茜をターゲットにした誹謗・中傷が、予想された通り激しく流され始めた。特に沖縄の自立・独立を目指す茜の選挙公約に対しては、国に敵対すれば補助金交付がなくなり、昔の貧しい沖縄に戻ってしまうとか、独立に走れば県内は混乱し、アメリカと中国の代理戦争が始まるとか、中国軍が侵攻してきて尖閣諸島だけでなく、石垣島や宮古島等も乗っ取られ大混乱が起こるといった沖縄の将来の姿についての議論が多く語られ、今までにない未来選択選挙として注目を集めた。
選挙2週間前の公示日は両陣営とも実質的に選挙運動終盤戦に入っており、組織固めと浮動票の取り込みに躍起になっていた。保守陣営は日本から自立・独立をすると大変な混乱を招くとして人々の不安醸成に力を入れ、茜陣営は各地の勝手連の活動を中心にしながら、以前から続けているネット戦略で、新しい沖縄を皆で作ろうと呼びかけた。選挙戦終盤になっても結果を予想するのが困難な程情勢は拮抗し、混沌とした状況が続いていた。保守陣営では、東京から政権を担当する民進党の大物代議士や現役大臣まで応援に駆けつける程の力の入れようで、歴史教育問題への対応の拙さから、沖縄の人々の政府に対する不信感の高まりを何とか払拭したい思いが見え見えで、昔よく見られたバラマキ選挙そのものになっていた。しかし、女性を中心とするNGOの活動は予想以上にしっかりしていて、ネット上での意見交換は相変わらず盛んに行われ、地域で開催される集会への参加も積極的に行われていた。表面に現れない分、従来の組織固めによる票読みでは誰にも読み切れない部分があって、混沌とした状況が続く要因の一つとなっていた。ネットによる活動の弱点は、不特定多数の人による妨害が簡単なことで、それを防ぐためにすべてを登録制にし、自分の意見に責任を持たすようにしたにもかかわらず、選挙に入ると大量の妨害メールが送られてきて、正常な議論ができなくなるよう悪質な妨害工作がしばしば行われるようになった。茜に対するもっともらしい個人攻撃も多く、従来通りの少人数でのネット対応では対応し切れない状況が頻繁に起こっていた。しかし、茜の人気は落ちることなく、逆に叩かれる程に皆に支持され県全体に浸透していった。これは茜に対し何か新しい未来を期待するような、言わば今まで騙され続けてきた沖縄の歴史の裏返し現象として新しい希望を託しているといっても良いかもしれない。
茜が訴えた自立・独立のための工程表は、まず知事就任から一年半後に予定されている県議会選挙と同時に住民投票を実施すること。そのため県議会に住民投票条例制定を具申し、住民投票が成立するための細かな条件をとりまとめる。住民投票実施によって県民の意思確認を行い、半数以上の賛成が確認できれば、県の自立、すなわち県の自己決定権を実現するため、現在すべて霞ヶ関に集中している権限の一つ一つを県に取り戻していくこと。歴史教育問題に対応するための専門委員会と同様、各分野毎に専門委員会を県議会に設け、あらゆる平和的な手段と方法で国と対峙し、国が認めなければ独立も辞さないという固い決意のもとにタフな交渉を続けること。そして、そのプロセスの全てをインターネットで公開し、広く県民と情報を共有する中で、何が問題なのかを一つ一つ検証できるようにすること。特に重要な課題となる県の財政問題と米軍基地問題では、国の補助金なしには立ち行かない財政状況から脱するため、身の丈にあった収支の実現と県独自の税金徴収権の確保を目指す新たな対策を掲げ、国とその実現のため交渉を開始する。それは具体的には沖縄での企業活動・経済活動で得たお金の本土還流をストップさせるために、沖縄独自の環境税を立ち上げること、そして個人に認められている故郷(ふるさと)納税制度を企業にも適用し、積極的に地元に税を還元させることである。そして過去から多くの問題を引き起こしてきた元凶である米軍基地問題解決には沖縄の意思を強く反映させるため、日米両政府の交渉の場に沖縄の代表を加えるよう交渉すること。
今回の歴史教育問題で思い知らされた日本政府の対応は、今までの沖縄の日本復帰以降何度も体験してきたことの繰り返しであり、日本政府への過度な期待は容易に裏切りとして跳ね返されることをしっかり学んだ人々の答えとして、今後の交渉に活かされることになる。

投票日前日の最後の立会演説会は恒例となっている県庁前広場で行われ、道路に溢れてしまうほどの支持者に囲まれ、その熱気は最高潮に達していた。茜を応援してきた各党の代表が最後の応援演説を行い、明日の勝利を誓った。演壇には今まで顔を出すことのなかった夫の島袋の姿もあった。この10か月間新しい挑戦に走り続け、逞しく日焼けした茜への慰労の気持ちと、茜を支持し集まってくれている多くの人々に心からの感謝を込めたメッセージ述べ、特に妻の予想外の頑張りに対する賛辞の言葉には多くの人の温かい笑いを生んだ。新しい沖縄への重大な第一歩となる知事選挙に勝利し、自己決定権のある自立した県を目指してともに歩こうと呼び掛け、大きな拍手と喝采を受けた。新しい沖縄を作るための連帯の挨拶が続き、最後に茜が今回の立候補の意味と変革の必要性とその先にある希望を力強く語った。大きく盛り上がった最後の立会演説会が終了した後、熱気の残る那覇から、島袋と茜は自宅のある名護市に島袋の運転する車で向かっていた。茜が自宅で寝るのは大よそ2週間ぶりのことである。
「お疲れさん。良く頑張ったネ。途中で音を上げるんじゃないかと心配していたけど、本当に逞しく・強くなったヨ」 島袋に労いの言葉を掛けられ、茜は長い緊張感から解放された安堵の表情を見せた。
「本当に疲れたワ。途中で自分がどうかなってしまいそうで怖かったくらい」そう言って、いつものやさしい笑顔を見せ、助手席のシートを半分ほど後ろに倒すと、フーと大きなため息をついて目を閉じた。明日の結果次第では、もっと過酷で、凄まじく忙しい毎日が続くであろうことは、二人には容易に予想されたが、それには触れず、今は早く帰って疲れた茜をぐっすり休ましてあげたい気持ちだけで、夜の10時を過ぎ、車の数がめっきり減った高速道路を北に向かって一気に走っていた。島袋は心の奥で、こんな状況に茜を巻き込んでしまったことへの罪の意識を時々強く感じていたが、茜は逆にドンドン変化する周りの状況を受け入れ、楽しんでいるようにさえ見えた。
県民の審判を受ける選挙当日を、二人はこれまで暮らしてきた名護市の自宅で迎えた。走り続けた10か月の間、茜は組まれたスケジュールに合わせて動いていたため、自宅に帰れるのは週の内3回位で、それも夜遅くに帰って翌日早朝出かけるという強行軍が多く、自分でゆっくり料理を作り、夫と十分な話をする余裕など全くなかった。ただ島袋は独身が長かったこともあり、自分で何でも出来ることから茜がいなくても毎日の生活に困ることもなく、逆にハードなスケジュールをこなす茜の姿を見るたび、彼女の体を気遣って、過酷な現場に放り込んでしまった自分の責任の重大さに悩み、罪の重さを感じていた。沖縄は離島が数多くあり、支持者からの要望に応じて動き始めると1週間出ずっぱりになることも多く、特に公示後の2週間はほとんどホテル暮らしになってしまった。各地を転々と飛び回りながら夜は打ち合わせというスタッフとの二人三脚が続いたからである。

6-3: 新たな知事の誕生

投票日の当日は久しぶりに二人だけで迎えることができた。朝7時、NGOのスタッフからの電話で目を覚まし、ネット対応について打ち合わせた後、茜の作った朝食をゆっくり取りながら新聞に目を通した。昨日までの選挙戦について多くの人がコメントしている。やはり一番の興味は沖縄の人々が日本からの自立・独立を掲げた茜にどれ程の支持が集まるか、そしてそれがこれからの新しい動きとなって日本政府と対峙するまでの大きなうねりになりうるか、過去に記録されている独立運動の歴史なども取り上げながら、本日の集計結果を見守りたいとしている。午前10時過ぎに近くの中学校の体育館に設けられた投票所に二人で出かけると、多くのカメラマンやマスコミ関係者、地元の支持者が待っていて、茜の投票までの一部始終がカメラに収められた。投票後のインタビューで茜は
「今回の選挙戦を通じて多くの人々の熱い思いと手ごたえを感じることが出来ました。今夜の開票結果が楽しみです」と笑顔で答え、自信の程を口にした。家に帰るとPCに向かい、毎日の日課であるNGOと自分のホームページをチェックし、応援活動への感謝の意を送り、ツイッターに今日の予定を呟いた。午後には那覇にある選挙事務所に戻って夜の開票速報を待たねばらない。近くのホテルと事務所を往復しながらその間にも雑誌やテレビ局のインタビューに応じるといった、分刻の予定が入り時間がどんどん過ぎて行く。夜の8時から始まった選挙速報はどのテレビ局も結果の予測が立てられず、翌朝までの大接戦になることを伝えていた。予想通りの接戦が続き、茜の勝利が判明したのは翌日の早朝であった。その差は2千票を超えず、県民の意見は完全に二分割される結果となった。
事務所は、徹夜で結果を見守っていた多くの支持者と結果を聞いて駆け付けた支持者で溢れ、茜が挨拶に顔を出した瞬間は、拍手と歓声で興奮が最高潮に達し、もはや沖縄の独立が達成されたかのような喜びに包まれた。爽やかな笑顔の茜の傍に立つ島袋も興奮を隠しきれず、集まった知り合いと抱き合い喜びを分かち合った。
「ありがとうございました.皆さんの支持のお蔭で、新しい沖縄に向けた第一歩を踏み出すことが出来ました。自立する沖縄を目指し皆さんと一緒に一歩ずつ歩んで行きたいと思います」茜の言葉に早朝のまだ夜も明けぬ那覇の空の下で、この周辺だけが異様に明るく、人々の喜びと喧騒に沸き立っていた。全く新しいタイプのスターが沖縄に誕生した瞬間である。

当選の歓びに沸いた一週間は矢のように過ぎ、県庁のトップの座に就いた茜は、秘書室から回って来る山のような書類のチェックとスケジュールの打合せに毎日格闘していた。沖縄県民150万人の行政サービスを担うトップとして重責を背負い、どうメリハリを付けていくか、従来の施策の踏襲の部分と改革する部分を明確にするため、従来の仕事が丸投げされていた外郭団体の見直しと県の各担当部署に全ての仕事の内容の緊急度・重要度の見直しと改善の検討を命じ、県が行うべきことと市町村を含む外部に任すべきことを峻別し、内側からの変革を進めるため、優秀な若手の登用と抜擢を進めることとした。特に女性の登用は県庁全体のモチベーションを引き上げるためにもぜひ遣らねばならない点であった。更に必ず出て来る反対の声にどう対応するか、国との対応の仕方や、議会への対策、住民から上がって来る要望と陳情の処理の明確化、責任の重さと沖縄の自立・独立を目指すとした公約の実現に向けた活動とこの公約に賛成しない半数に近い人々にも平等に行政サービスは行わなければならない現実の前で、いかにリーダーシップを発揮するか、難しい課題に取り組む真摯な姿を常に県民に向け発信していくことが多くの人々の信頼を勝ち取る唯一の道と茜は信じていた。如何に優秀な行政のプロを使いこなすか、県庁に勤める多くのプロの英知を集め施策に反映させていくのが知事の役目、国の交付金に依存した県の財務体質をどう改革していくか、幸いにして金武湾で採掘しているシェールガスが成功し、県財政の大きな柱になりつつあることから、赤字体質の地方自治体の中にあっては、まだ沖縄は良い方で放漫経営にならないよう注意さえしていけば自立の道も見えて来る可能性がある。
沖縄県の一番の問題は、県全体の面積の10%以上を占める米軍基地の扱いである。沖縄本島のあちこちに米軍基地関連の飛行場、その格納庫、通信施設、海軍基地、実弾射撃訓練場、米兵とその家族のための住宅、その福祉対策としてのゴルフ場や運動場、買い物のためのスーパーから生活を支える水道・ガス・電気、そして使用する車のガソリン支給や税金免除と鉄柵で囲われた治外法権の軍関連施設は、まさに別世界で、すべて国の思いやり予算で賄われている。日本全体の安全保障のために沖縄県が強いられる犠牲の構造は、歴史的な東西冷戦下での米国の恣意的必然とはいえ、沖縄にとって認められるものではない。政府も沖縄の声に配慮し、海兵隊の訓練を国外や国内の他の県に移して行ったり、航空機騒音の軽減のため夜間訓練に制限を設けたりと努力している姿をいろいろアピールしているが、米国と日本との間で結んでいる不平等極まりない地位協定内容の見直しの議論は行われず、運用面の改善に留めていることは、本質的な現状の改革には至らず、いつまでも誤魔化し続け、不満の爆発を抑えるための最後の手段として財政支援の一括交付金が毎年国から支給される形が常態化され続けてきた。霞ヶ関の官僚機構にとって問題の先送りと現状維持には、一番お手軽で余計な手間が省けることから今日までず~と取ってきた方法である。それに対し沖縄県の対応も根強い反対が地元にあっても、積み上げられたお金の前では、政治家も地元の有力者もいつの間にか、地元の人々への物わかり良い説得者に変わり、逆に基地問題は国からお金を引き出す手段として使われてきたのが今日までの歴史である。しかし、今回の知事選では様相が一変した。半分の人々が従来通りを希望したとしても、当選したのは変革を求める新しい知事であり、それを支える多くの人々がいることも事実である。いろいろな甘い言葉や不安を醸成するような言葉にも揺るがず、従来のやり方を変えてほしいという強い意志が人々を支えていた。
沖縄の歴史教育問題で高まった県民の意識は、自分たちでは何も決められない中央集権化した現状認識から自分たちで決めるための自決権を取り戻す動きとなり、沖縄のアイデンティティーを取り戻す動きにまで昇華してきた。すなわち徹底した地方分権化の動きであり、この動きに国が反対すれば自立・独立への大きなうねりに容易に変わる可能性を秘めていた。その沖縄の象徴として茜の県知事就任が実現した意味は大きいと思はれるが、中央集権化の頂点にいる霞ヶ関の認識は、相変わらず交付金と地方交付税の分配による財政的締め付けと事業の許認可権限を利用することで、すべて自分らの意のままに出来ると信じていた。今回の新しい知事の誕生にも実に冷淡で、沖縄の振興策を話し合う協議会の開催延期により公共事業を減らし、一括交付金をカットして財政的に締め付ければ、すぐに根を上げて簡単に手なずけることが出来ると踏んでいた。後は地元での議会を中心とした知事の対応策に対する反対運動が盛り上がれば、結局退陣に追い込まれるか、霞ヶ関に頭を下げて助けを乞うか、道は二つに一つしかなく、任期の4年を待たず、せいぜい2年で潰れると見通していた。しかし、知事を中心としたブレーン集団は、国の財政的締め付けに対する対応手段として、沖縄環境税の創設とふるさと納税制度を個人だけでなく法人にも適用し、沖縄での企業活動によって得た利益の全てを法人税として国に吸い取られる現状を改革するため積極的に地元への寄付を呼び掛ける対抗策を打ち上げた。国の財務省が独占する税の徴収権の一部を県にも認めさせることは、財政的に地方が自立する第一歩であり地方分権の一番有効な方策である。所得の1%を環境税として徴収し、企業の沖縄での活動拠点への2%利益還元によって楽に1000億円程の税収が見込め、国による財政的締め付けから解放される。もちろん、この対抗手段は国の根幹を揺るがす重大問題であることから、国は真っ向反対で決して認めないと考えられるが、今後、地方分権に積極的な政党に政権交代すれば、将来実現可能性のある要望事項となり、地方が自立的な財政運営を可能にする第一歩となるので大変重要な課題である。交付金がカットされることへの対抗策としては、同じように苦しむ他の地方自治体からの支持も期待でき、タフな国との交渉は予想されるものの十分検討に値するものと考えられる。
つい近年の事例でも、或る知事時代に米軍普天間飛行場の辺野古地区への移転問題で、当初県外移設を公約にしながら、結局、国の積極的な沖縄のための努力と3000億円を超える一括交付金による財政支援に対し埋め立て工事の開始を許可してしまった経緯があった。普天間飛行場の危険回避のために辺野古の海の埋め立てを許可するという問題のすり替えの愚挙を行なった知事の責任は重く、国の口約束と財政支援のその後は、今までの歴史で繰り返されてきた例と同じで、首相と大臣が変わった2年後から徐々に焦点がボケて、約束の日米地位協定の不平等是正は進まず、国の財政逼迫を理由に交付金も削られ、多くの米軍基地関連施設の存続に対する見返りとして従来通りの1000億円の支援に戻ってしまった。甘い言葉と財政支援に踊らされ、長年の人々の苦しみを知りながら、又もや霞ヶ関の術策に絡め取られた愚かさは、長く沖縄の歴史の中で今でも語られている事例の一つである。確かに県の行政サービスを維持拡大して生活を豊かにしていくには財政的な裏付けが必須で、日本国中の地方自治体が財政危機に喘いでいるのも事実である。超高齢化社会の到来により、生産人口の減少と医療・福祉関連費用の増大が共通の原因として挙げられ、日本だけでなく成熟した先進国の解決すべき共通の大きなテーマとなっている。財政の拡大が無理な時代になっても、国からの交付金と借金で補う手法はとっくの昔に破綻しているにもかかわらず、相変わらず踏襲され、景気の回復によって簡単に、そして一気に解決できるという昔からの楽観論がいまだに国や県の役人の間では健在なのである。というよりも強固な前例主義と踏襲主義が昔からの役人の仕事のやり方であり、枠からはみ出すことなく堅実にそしてコツコツと仕事をこなすのが一番とされてきたのも事実であり、それが戦後の日本を支える原動力であった。時代の流れを先取りし、新しい目標や方向性を決めるのは政治家の役割であり、役人はその具体化のために施策を実行することが本来の姿であるはずなのに、それをやってこなかったことが今日の日本の役人天国を生む大きな要因となっている。それでは何か新しい施策は在るのだろうか。沖縄県の知事として茜が打ち出した方針は、身の丈に合った財政運営を目指し、何でも国に頼ってきた従来の方針転換を計ること。地域の活性化のために、地元にあるNPOやNGOとタイアップして自分たちで出来ることは自分たちでやるということを原則に、沖縄のユイマール精神(お互いの助け合い精神)を前面に押し出したこと。これからの行政サービスの主流は住民との共同作業であり、お互いの助け合い活動にあるというのが茜の打ち出した新しい方針である。特にこの方針が生かされるのは膨れ上がる医療費と福祉関連の事業で、収入の増えない地方自治体で賄い続けることは到底不可能で、財政破綻を待つのみであり、それを救える唯一の方法はユイマールと考えたのである。
茜が公約として掲げた中で国が最も嫌がる方針は、強固な基盤として築いてきた各省庁が持つ各種権限の地方分権化である。特にテーマとなっている地方の自立・独立といった、自分たちのことは自分たちで決めるという自己決定権の要求は、国にとって絶対的に認められない方針であった。なぜなら霞ヶ関は自らの存在意義を否定しかねない重大問題を含むと認識しているからである。沖縄の歴史教育問題で内容の変更と教育権の地方分権化を求める動きに文部科学省が拒否を示したのが良い例である。行政改革や経費削減、人件費の圧縮、小さな行政組織と地元の人的資源の活用、経費の効率化とユイマール精神の復活と活用、これらの施策は霞ヶ関にとって痛くも痒くもない、謂わば放って置いて好きに遣らせておけば良い地方の課題の問題で、それが自分たちの足元を揺るがさない限り余計な干渉はしない。しかし、いったん自分たちの権限を脅かす可能性が出てくるとあらゆる手段を用いて潰しにかかるのが今までのやり方であった。沖縄県がこれから遣ろうとしている国の財政締め付けに対する税の徴収権の要望や県民に約束した住民投票も、現在の秩序を正に破壊しようとする危険な動きであり、国にとっては決して認められるべき行為ではなかった。しかし、所詮一地方の問題であり、歴史教育問題と同じように、財政的な締め付けと現制度を維持するためのあらゆる法的手段を駆使すれば簡単に抑えることが出来ると国は考えていた。

住民投票の実施については、まず県議会においてその細かな実施要項を定めた県条例の制定が必要で、いろいろな条件を議論し内容を検討しなければならない。知事からの提案に対し当然保守派の会派からその実施の必要性について強い反対があり、特に知事選敗北で煮え湯を飲まされた民進党からの反対の声は、県民を混乱させるだけの意味のない提案であるとして、強烈なものがあった。しかし、公約実現のためにはどうしても必要なステップであるところから、検討委員会を県議会内に設置し、県議会選挙が予定されている1年半後の実施を目途に内容の検討に入った。議論のポイントは住民投票の有効性を問う投票率をどうするか。そもそも住民投票に反対の保守系議員は50パーセントを最低限クリアしなければ結果に関係なく無効とする高いハードルを設定し、妨害工作を国の総務省のアドバイスを元に行った。通常選挙のように投票者の過半数が自立・独立に賛成であれば住民の意思としてそれを認めることにしたい改革派に対し、認めたくない反対派は、投票率50%以上、賛成が3分の2以上の結果のみ有効とする、ほぼ達成が不可能な条件を満たした場合にのみ有効性を認めるとした。将来の県の姿を決める重大な選挙になるので条件がきつくなるのは当然であるというのが保守派の主張である。人々の長年の怒りが自立・独立に向かおうとするとき今度は制度的なハードルによってその動きを未然に阻止する対応策に出たのである。確かに保守派のコメントにも一理があって、重大な意味を持つ住民投票が成立するには、少なくとも有権者の半分以上が興味を持って投票行動に出るのでなければそもそも投票自体意味のないものになってしまう恐れがあること。通常の選挙では政治への不信から関心が低くなり、投票率が年々下がる傾向にあり、酷いときは40%に至らぬ場合も出てきている。その過半数を獲得しても本当に民意が反映されていると言えるのか甚だ怪しい。それでは3分の2以上の賛成があれば民意を反映したと言えるのかについても同様で、結局住民にとって将来を掛けた大事な岐路になる投票では、単に民主主義の基本である多数決による過半数獲得だけでなく、全体の関心の度合いを測る投票率を考慮することの意味は多いにある。もちろん、保守派の目的は厳しい条件をはめることで自立・独立を目指す動きにブレーキを掛けたい思惑が見え隠れしている。しかし、県民の豊かな生活を守り育てていくのが行政サービスの基本であることから、自立・独立の意味をしっかり自覚し、自らの意思を明確にするためにも、敢えてこの厳しい条件である有権者の投票率50%以上という条件を受け入れ、その過半数の賛成によって民意の成立とすることで妥協した。1年半後に目標を設定したのは、ちょうど県議会選挙が予定されていることから住民投票と一緒に行うことで経費の負担を省くことが出来ることと、県の隅々まで議員選出のために多くの運動員が動くことになるので当然投票率が上がり、自立・独立の意味を問うのに絶好のチャンスと考えたのである。従来からの県民への変わらぬ行政サービスを実施しながら、同時に議会選挙と住民投票に向けて確実に準備を進めていった。

茜の公約の行政改革では県庁改革のため各部署の若手課長・係長を中心とした業務改善委員会が作られ、そこには一人以上の女性を入れることとし、積極的な女性の登用を計ることにした。現在の女性が役職についている割合は10%に満たない状況で、部長職は誰もいない0%である。これを茜の任期が終わる4年後までに部長を含め30%を超えるよう目標を立て、毎年年度末に達成度をチェックすることとした。また、外部から女性活用の専門コンサルタントを招いて知事へのアドバイザーとし、各組織のトップである部・課長との定例ミーティングを行い、女性活用の現状認識と改善の方向性について議論することで、組織の上からと下からの話がかみ合うように配慮した。これは改善委員会に選ばれた女性や若手の者が上からの無言の圧力で自由な発言が出来なくなるのを防ぐためと、組織内の風通しを良くするためである。PCを使って知事とのホットラインも開設され、日常業務の問題点があれば直ちに直接報告できるようにしたが、これにより現場の担当者や実務者との距離が縮まり情報伝達が早くなるメリットがある反面、弊害もあって、組織の部課長を飛び越えて情報が上まで来ると、部課長のメンツを著しく傷つける結果になることから組織がガタガタになるデメリットがあるのでその運用には気を付ける必要がある。各部署内の改善と同時にやらなければならないのは、組織の縦割り構造からくるセクショナリズムの排除で、県庁内では縦の情報以外に組織を横断する横からの情報が入りにくく、同じような仕事を複数の部署でやるといった非効率が発生する。これはお役所仕事の特徴の一つで、所属が長くなり、人間関係が濃くなってくるとお互いに仕事上の遠慮が出て、決して他人の仕事に口を挟まない・批判しない・狭い自分だけの専門領域を作るという不文律ができ、特に使命感の強い若い人には、やる気をなくし緊張感が欠如する。県庁はそもそも県民へのサービス機関であり、県民の生活向上ために仕事するという本来の姿が薄らぎ、いつしか自分のため・自分の所属する組織を維持するために仕事を作るようになってしまうので、常に今の仕事が誰のための仕事か原点に戻って反省し、やる気を失わないよう努力する必要がある。

沖縄県の一番の問題は米軍基地問題である。関連する施設が多く点在し、土地問題・騒音問題・環境問題・駐留する米軍人が引き起こす様々な犯罪等その他もろもろの関連問題に帰着する。日米安保条約に基づいて、日本の軍事的不備をアメリカが補うという構図が出来上がり、そのために必要で広大な土地と膨大な経費を日本が提供する。アメリカの核の傘のもとで戦後日本は経済活動に集中できたことで経済を大きく発展させるのに成功し、アジアで初めて先進国の仲間入りするほどに成長した。アメリカは同盟国の安全を守るという大義名分のもと国際戦略の拠点として日本を利用してきた。東西冷戦の時代はソビエトに対する前線基地として、ベトナム戦争とその後の中東湾岸戦争時代には強力な補給基地として、そして時の流れと共に中国が台頭しアメリカの経済と軍事的優位を脅かし崩しかねない程に成長すると、その監視基地として利用し常に沖縄は国際戦略上の重要な役割を担ってきた。日米双方にとってともにメリットのある安保条約と言えるが、問題は日本にある米軍基地の70%以上が小さな島である沖縄本島に集中し、結果として多くの関連する問題が沖縄県に集中的に起こってしまう事である。米国の統治時代からの負の遺産と言っても、復帰後問題が起こる度に基地の縮小・土地の返還・不平等な地位協定の改善等両政府への要望が決議されて来たが、米国政府は日本の国内問題であるとして真剣に取り合わず、日本政府も安保条約維持と復帰時の密約問題や外交交渉の稚拙さが絡んで、重要な問題として取り上げることはせず、霞ヶ関の論理で無視され続け、地方交付税の割増しと一括交付金の支給という財政的な飴を配ることで常にねじ伏せられてきた。結局自分たちの意思が届かない・決められない植民地的な地位に貶められてきたのである。今までの歴史を振り返れば自立・独立への要求は必然的な帰結とも考えられるが、その実現可能性という観点から押さえて置かねばならない大事な点がいくつかある。
まず多くの県民の支持を獲得し拡げていく必要があること。住民投票による意思の確認がそれに当たる。今回の知事選で自立・独立を訴えた茜が勝ったとは言え、その差はわずかなもので、状況の変化によっては何時でも逆転する可能性がある。次の知事選で保守派の候補が再び復活するかも知れない。住民投票で県民の圧倒的多数が賛成となれば、政治的環境は一気に米軍基地の縮小・廃止に向け動き出すことになるであろう。その意味でも住民投票の結果が重要な指標になる。第二番目は日本政府を動かす有効な手段として国際的な機関との連携である。国連にある脱植民地化特別委員会へのアピールや、ニューカレドニヤがフランスから独立する際に支援した非同盟諸国会議の各国首脳へのアピールによって国際的な連携を深め、内外の支持を得る努力が大事になる。国連という公の場で沖縄の歴史と植民地的な現状を知ってもらうことで自立・独立の動きの正当性が支持されれば、実現可能性は格段にアップする。今まで無視続けてきた霞ヶ関に対し、二つの条件が揃えば交渉がかなり遣り易くなると思われる。現状のようにいつも陳情という形で東京に頭を下げ、お願いを繰り返してきた上下関係を続ける限り交渉は決して進まないし、特に沖縄の一番の問題である米軍基地問題の解決には米国政府が絡むだけに、さらに交渉は難しくなる。日本からの自立・独立を目指すという切り札を示すことで日本政府と対等な関係を作り、はじめて日米両政府が真摯に向き合い沖縄の基地問題の解決策を話し合うようになると期待できる。解決の糸口を探るために沖縄県の担当者を加えた話し合いも可能になるかもしれない。茜は知事就任後すぐに県庁内に国際的な動きに対応できるよう手を打っており、担当者として選挙対策チームの一員であった国際政治の専門家宮里武士氏を大学からアドバイザーとして向かい入れていた。特命で主に国連の動きとアメリカ政治の動きに目を光らせ、独自のチャンネルの構築と効果的なアピールの方法を模索してもらうことにしている。住民投票の結果次第では活動を公にし、今後のアクションプログラムを具体的に作成して国連という国際舞台で議論が出来る機会をつくることを目指している。また、沖縄県の成立に絡み、明治政府が行った琉球処分の対応が国際法に照らすとき、韓国併合と同様国際法違反の可能性があり、日米両政府の沖縄に対する植民地的対応の基本的人権侵害とあわせ明確な判断を求めることにしている。

茜はNGOやNPOといった民間の組織を利用することで行政改革を進め、特定の利権構造に穴を開け無駄を省きたいと考えていた。東京の霞ヶ関が日本全体を統括する権力の集中する頂点だとすると全国の47都道府県のそれぞれにもしっかり地方の利権構造が出来上がっていて、それが県レベル・市レベル・町レベル・村レベルと規模は小さくなるにしても行政上の決定権があり、税金という美味しい餌の分配権限を握った者たちが権力を持つという構図が出来、国・県・市・町・村と網の目のように連なる戦後70年以上かけて出来上がった強固な利権構造は知事が変わった位で簡単に崩れるほど軟な構造はしていない。本来政治家が持っていた立法権はいつの間にか行政を司る公務員に取って代わり、政治家の陰に隠れてあたかも政治家が差配しているよう表面に出ることなく後ろからすべて操れるようになると、東京の霞ヶ関から地方の末端まで巨大な行政組織による官僚支配が日本全体を覆い、大手を振って予算の編成から執行まで好き放題に行えるようになっていった。政治家は官僚の作った原稿通り演じてさえいればすべて安泰で、深刻な問題が起きることはない。時々やる気に燃えた若い政治家がこの巨大な官僚機構に改革のメスを入れようと立ち上がるが、半年から一年持たずに大きな渦に巻き込まれ消えてしまうか弾き飛ばされて辞任に追い込まれる。茜が選挙で国からの自立・独立を掲げて当選したとき、霞が関では長くても2年は持たないと冷笑された自信の根拠は、まさに過去の多くの事例にあった。やはり重要なのはそれぞれの地方に住む住民の意識が変わり, 多くの声が出て来ない限り変化は起きないし、新しい形も生まれない。その意味では沖縄での教育問題をスタートにした子を持つ親、特に女性を中心とする新しい動きは今までとはかなり違って見えた。従来との一番の違いは、個々人の意見の表明や議論のやり方がすべてNGO法人を通じ、パソコンやスマートフォンといったネットを駆使して行われているので、多くの問題を簡単にお互い投げかけ合うことで、問題の本質は何かを議論出来る姿勢にあった。それが住民運動に厚みを増し、多少の圧力にも負けない強さとなって人々の心の中に定着し、時間が掛かっても解決策を求め続ける姿勢となって表れているように思われた。住民投票の実現に向けて多く議論されている点は、沖縄県に住む住民の意思確認と同時に県の将来のあるべき姿を自分の問題として考える良い機会となっている。茜が知事選で訴えた自立・独立を達成するための重要なステップなのである。
県議会選挙と住民投票を一緒に行う計画には予想通り国からのいろいろな圧力が掛かってきた。法律違反であるとか、独立を扇動するのは国家反逆罪にあたるとか、まず沖縄県選出の国会議員に対し強い圧力が掛かり、それと同時に霞ヶ関の中央官庁から県庁職員幹部に対し、あらゆる省庁の仕事上のチャンネルを通じて知事の仕事が進まなくなるよう裏から目立たない形で働きかけが行われた。知事の行為は県民を危険な状況に導く大変危ういものであるという県民に向けたキャンペーンが行われ、県の動きにブレーキを掛けることに躍起になっていた。しかし、不思議なもので巧妙な圧力が県に対し加えられれば加えられるほど人々の意思は逆に強まり、国の意思とは反対の方向にまとまっていった。
県議会選挙と住民投票が近づくにつれ、県内各地での妨害工作は露骨に激しくなっていった。右翼グループと見られる県の内外から来た者たちの活動と見られ、自立・独立派として活動する候補者に対し、自宅や家族、選挙事務所や選挙カーまで嫌がらせや暴力事件が目に見えて多くなっていった。宮古島では対立する候補の支持者間で殴り合いの暴力事件まで起きて入院騒ぎにまで至っていた。県を二分化する勢いで対立は益々先鋭化し、緊張感がいやが上にも高まって来る中で一番心配していた事件が起きた。知事宛てに送られて来た郵便小包が爆発して、県庁の秘書室の若い女性職員が開けようとして手と顔に重傷を負ってしまったのである。これは完全に知事を狙ったテロ事件であり、犯人の逮捕はもちろんその背後にいる主犯グループをあぶり出さねばならない。目的は明らかで、知事の主張する沖縄の自立・独立の動きを抹殺したい過激な右翼グループの犯行とみられ、県議会選挙での一連の妨害活動の一つとみられる。しかし、県警の必死の捜索にもかかわらず、要として犯人を捕まえるには至らなかった。益々混沌としてきた沖縄の社会情勢は県の経済面での影響も出始めていた。国からの予算執行の締め付けにより公共工事の発注が遅れ始め、県内の大きな国の交付金に頼った工事が出来なくなってきたのである。当然県経済界の土木工事関係者や農業団体から不満の声が上がり、この原因を作った知事への風当たりが強くなってきた。知事選ではあれ程好意的であった地元マスコミも、国からの予算締め付けによって県が発注する工事が遅れている現状を、知事の方針が原因であるように取り上げ、あたかも知事の方針がそもそも誤りであったような報道に変わってきた。

知事は相変わらず日常業務を忙しくこなしながら、一番の支持母体であるインターネットサイトのNGOグループ‘沖縄の未来を考える会’には日々葛藤し悩むような課題について呟いたり、コメントを流していた。当然予算の執行への国からの巧みな妨害についても、個人や組織の非難による訴訟問題に発展しないよう気づかいながら情報発信を続けていた。また県の広報誌にも積極的に意見を述べ、知事が今何を考え仕事をしているのか分かり易く解説し、問題となっている点についてもきちんと整理して県民に提示するようにした。こうすることで誰もが県の行政サービスの内容を理解し、問題となる課題の原因について十分察知することが出来た。女性を中心としたNGO組織の活動は今回の県議会選挙でも重要な活動を展開しており、各地区での候補者選びから過去の活動内容の点検・立候補の目的とこれからの沖縄にとって必要な人材であるかについて細かく採点され評価されていた。新たな候補として女性が多く推薦され立候補することになったのは、今回の大きな特徴で全体の半数を超える勢いである。地域の有力者として利権を懐に入れていた議員たちには、保守・革新に関係なく多くの人々によって厳しく評価され選別されることになった。

6-4: 住民投票

県議会議員選挙と住民投票による日本からの自立・独立を問う日本では初めての選挙が近づいてくると、前回の知事選同様全国の注目が集まり、連日マスコミの凄まじい取材合戦と選挙結果の予測、更に県民の選択の行方に注目が集まった。住民投票では今日まで強く守られてきた国と地方の中央集権的な上下関係を拒否できるのか、一気に独立を目指すのか、どの程度の自立を望むのか興味は尽きない。住民投票では投票用紙には4つの選択肢が印刷されており、沖縄のこれからのあるべき姿について適当と思われるものに○を付けるようになっている。選択肢の1.は現状維持で良いとするもので、余計な変革は求めず今のままで日本の都道府県47の一つである沖縄県を維持するというもの。選択肢の2.は条件付き現状維持派で、沖縄で常に問題となってきた米軍基地の縮小・廃止が図られるのであれば難しい自治論も独立論もいらないとするもの。選択肢の3.は自己決定権のある高度な自治権を持った県として自立することを目指すもの。国が最終的な権限を持つ現在の上下関係ではない司法権・立法権・教育権・財源を確保するための税の徴収権・財政権の諸権限を県に取戻し、一義的に県議会の議決が国の法律と同等ないしそれ以上に認められることを求めるもので、県の議決は執行権も合わせすべてにおいて優先されることを求めるもの。選択肢の4.は独立を目指すべきとするもので、かつての琉球王国のように日本からの完全独立すなわち一つの国として外交権や防衛権を含むあらゆる権限を自分達たちが持つというもの。選択肢の2.と3.は日本という枠に留まりながらも自分達の問題意識を限定的に米軍基地問題だけに絞るのか、自己決定権のある自治権を明確にして本来あるべき地方自治体を目指すのか、日本の枠に留まるという意味では共通するが、国から取り戻す権限を選択肢の3.は自立した県となるための多くの権限を県に取り戻すべきとするのに対し、選択肢の2.は現状維持のまま沖縄で一番の問題である米軍基地の縮小・廃止に関連する権限(犯罪を起こした米兵の調査権・逮捕権・裁判権)に絞り、その収得を目指すとするもので現行の不平等な地位協定の改定も当然含むことになる。これには県の議決を国が無視できなくするための地方自治法の改正を求めることになる。日本の安全保障に絡む日米外交・防衛交渉の重要な一部分であり、県に参加できる余地はないとされてきたが、地元の声を無視し人々の生活権を脅かし続けてきた米軍基地の存在とそれにより派生する様々問題は、明らかに著しい人権侵害であり国連憲章が禁止している基本的人権の否定にあたる。長年、日米両政府が解決の努力をせず放っておいたことを考えれば、米軍基地問題は何よりも優先して解決されねばならない沖縄の最重要課題である。これさえ解決できれば面倒な議論はどうでも良いし、それ以外は何も望まないという、長年無視され・苦しめられてきた庶民の感覚を一番に代弁しているのが選択肢の2.であるのかもしれない。解決の難しさはさておき、生活者にとって偽らざる現実的方向性を示す選択肢の一つとして入れられた経緯があった。しかし,この解決策を模索し、議論を詰めていくと結局選択肢の3.か4.に限りなく近づく可能性は否定できない。

投票日が近づくにつれ、連日のマスコミ報道の過熱ぶりに煽られる形で、いやが上にも県民の期待と不安が膨らんできた。県議会議員の選挙より明らかに住民投票の行方に注目が集まっている。150万県民が将来の県の姿をどのように捉えているか、知事選で皆に約束した日本で初めての住民投票が実現し、日本からの独立を求めるのか、現状維持か、自己決定権のある自治権の拡大を求めるのか、その投票結果に大きな関心が集まり、日に日に熱を帯びて人々の話題も議員選択の関心より、沖縄の未来選択選挙である住民投票を如何するか、家でも職場でも地域の集まりでも話題になるものの、皆多くは悩んでいるように見えた。日頃からNGO法人で茜知事の成立に活躍し、その後も各地域の選挙や公共のトラブルについてPCやアイフォン等で継続的に議論を重ね問題解決に力を発揮しているNGO法人グループ‘沖縄の未来を考える会’は、知事の立場と同じで独立派というより霞ヶ関からあらゆる権限を県に移管させ、対等な関係を構築するなかで高度な自治権を持った県にする以外沖縄の未来はないとする意見が強く、その動きに国が強く抵抗するのであれば、独立も止むを得ないとするもので、その意味では立場が明確で分かり易く、まだ多く悩んでいる人々への説得性は大きかった。地域の公共問題や選挙運動で活躍してきた機動性の良さはここでも発揮され、女性を中心とした草の根運動的な活動は健在で、多くの人々へ影響力を保っていた。しかし、NGO組織としてすべて意思統一されているわけではなく、多くの議論の中でやはり今までの沖縄の歴史を振り返るとき、日本からの独立を目指す以外にないとする人々と、沖縄県にあくまで自己決定権のある自治権が保障されるようになれば、日本という枠を出て、敢えて茨の道を歩む必要はないとする意見もあって人それぞれである。ただ、共通認識として今の中央集権化した体制のままである限り沖縄にとって何も変わらないという点では皆一致しており、変革なしに明日は望めないという現状認識に大きな差はない。当面のターゲットをどこに置くのか。米軍基地の縮小・廃止に目標を限定するのか、自己決定権のある自治体を目指すのか、結局すべてを解決するには独立するしか道はないのか。住民投票で人々は何を選択するのかその結果に注目が集まった。多くの政党、政治団体、右翼から左翼まで日本全国から沖縄に集まり、それぞれがいろいろのチャンネルを通して拡宣活動を行うため、投票日の一週間前くらいからはホテルの予約が全く取れない程の異常状況になっていた。

住民投票の仕掛け人である當間知事は、夫の島袋と共に名護の地元で事前に不在者投票を済ませ、選挙当日は県議会選挙の結果と住民投票の結果を那覇にある知事公舎で待っていた。即日開票の結果は翌日の午前2時頃までには出るはずである。住民投票の成立要件である投票率50%以上は心配していた程の事はなく、最終的には55%を超え60%に迫る勢いを示していた。これは全国的な盛り上がりから多くのマスコミが沖縄に張り付き、連日新聞やテレビを通じ現況報告を流すため、いやが上にも県民は関心を持たざるを得ない状況に追い込まれたことも一因である。お蔭で前回・前々回と投票率が50%を割っていたものが、10%以上高く60%近くまで上がりそうな結果が期待された。
「現状維持で良いとする人々と、独立を目指すべきとする人々が何パーセントを占めるか。それによって国に対するインパクトが大きく変わるので結果が待ち遠しいね。誰が当選するかよりこっちの方にどうしても興味が行ってしまうよ。これは全国初の試みになるので茜の公約の一つが達成できたわけで、良くまー上手くここまで国と議会を説得できたものだね」と島袋がテレビの開票速報を見ながら呟くと
「国は法の整備が出来ていないので待てというし、県議会は成立の条件をどうするかで揉めるし、一時は諦めかけたこともあったのよ」新しいお茶を夫と自分の茶碗に注ぎながら茜が答えた。
「独立を希望する人々が何パーセントになるかが今回の一番の興味になっているでしょう。でも私は3割を超えたら大成功で4割を超えることはまずないと見ているの。理由はこれだけ豊かになって生活に困っている人はほんの一握りが現実でしょ。自分達の思い通りにいかなくって、毎回問題になることと言ったら米軍の基地問題くらいで、社会への不満を持つ人々もさほど多くない。歴史教育問題で見たように現状を変えようとしたとき初めて自分たちでは何も決められない中央集権化した官僚制度の現実に気づき、自立した自治政府的な地方自治体にすべきという議論になるけど、歴史も文化も言語も習慣も日本と明らかに違うのだから沖縄は独立して国を作るべきとはなかなか人々の心がまとまらないと思うの。あなたの言うのも分かるのよ。何にも決められない現状で一つ一つ問題を詰めていけばやはり独立しか道はないという結論になるかもしれないけどそれには随分と時間が掛かりそうよ」
完全独立派の夫より茜はかなり柔軟な考えで、結局話を突き詰めると独立しかないと茜自身意識はしているものの、別にいろいろの考えを持つ多くの人々が住む沖縄で、平和で満足度の高い生活を保障するため少しでも自分達が自分達の意思で市や町や県の将来を決めることが出来ればそれで良いという考えが強く、それ程独立に拘ってはいなかった。柔軟な考えの上に立って住民投票の結果を見ながら、進むべき方向への舵取りはこれからも可能と考えていた。

結果は茜の予想通り、現状維持派18%、米軍基地縮小・廃止派31%、高度な自治権獲得派24%、独立派27%で米軍基地関連問題への取り組みを重視する条件付き現状維持派が31%と一番多かった。現状維持派が条件付きを含めると49%で過半数に達せず、自立派・独立派の51%が僅かに上回った。しかし、米軍基地関連の問題は日本の安全保障をどうするかという外交交渉の絡む大きな問題であるため、県が問題解決に絡むためには、自立した自治権を持った県として国と対等に米軍基地問題を話し合い出来るようにしない限り解決は無理で、今までの無視され続け、交付金の配布で誤魔化され続けた歴史を見れば明らかな通り、何よりも米軍基地をなくし平和な島にするという願いは、日本の枠に居てはとても叶いそうにない矛盾を内包することになる。それでもなお独立でもなく、高度な自治権を持つ自立した県でもなく、当面の問題である米軍基地の縮小・廃止さえ解決できれば他は何も求めない、それ以上の難しい議論は後回しという庶民の強い思いが読み取れる。これは人々の思いが自立派やもはや独立しか解決の道がないとする独立派との距離が、意外に近くて何時でも状況次第で乗り換えが利くとも解釈できるし、両派に対し一線を引いて様子を見ているとも解釈できるので今後の県の対応次第で数字は変わって来ると思われる。自立派も独立派も米軍基地問題の扱いではスピード感の違いはあっても、縮小・廃止を強く求めていることに変わりがないので、条件付き現状維持派を加えると、県民の意思として80%を超える人々が米軍基地問題の現状からの明らかな変化を求めていることは重要で、長年解決を先延ばしして来た日本政府への根強い不信が読み取れる。やっと実現出来た初めての住民投票の結果をどう読み解き、如何に応えるかこれからの政治の課題は実に重い。優先課題として米軍基地問題がトップにくるものの、国の持つあらゆる決定権を一つ一つ地方に移し、自己決定権のある自治体としての県に成長させない限り問題の解決は難しく今後の県の対応が重要になる。
県議会選挙の結果は相変わらずの保革伯仲で今回も革新系が過半数を占めたが、小さな政党の寄合い所帯の合計で、ここにも住民投票との矛盾が見られる。それは沖縄では保守系の支持者の中にも現状変革を求める人々が多くいることを示している。今回の特徴としてNGOの“沖縄の未来を考える会”が推薦した女性候補が全員当選したことで、保守系の女性と合わせると全体の半数近くを女性が占めるようになり、日本の他の県議会や市議会では見られない新しい動きとして注目が集まった。もはや沖縄では、小さな政党よりNGO組織の方が政治的影響力は大きくなっている現実を認めざるを得なかった。

2年前の知事選挙と今回の住民投票の結果を踏まえ、国との関係をどう変えていけるか、知事のリーダーシップが問われることになる。直ちに独立に向け走り出すことにはならないものの、問題はかなり明確に絞られており、県民の80%以上が沖縄への米軍基地偏重による過重負担が解決しない限り、いくら日本の安全保障上必要で不可欠な施設であると説明されても納得できない問題であり、国の対応次第で何時でもくすぶり続ける独立運動に火が付く可能性を秘めている。茜はテレビで選挙の結果と住民投票の結果を見ながら、どうしたら自立した自治体として県の意思を国に認めさせるか、無視できないようにするには如何にしたら良いか、国と対峙するために何をすべきか、歴史教育問題で文部科学省と対峙した時、結局国は沖縄の要望を拒否したことで逆に県民の多くが憤り、かなりの意識改革に繋がった。そして、教育現場ではもはや実践という形で国の指導を無視して沖縄の歴史教育は行われており、今では誰もクレームをつける人はいない。しかし、米軍基地の縮小・廃止は実体として機能しているものを、地元の意思だけで動かすことはできない。問題が起こる度に県の議決として国に基地機能の縮小と過重負担の改善を要望しても今まですべて無視されてきた歴史があるため、国を動かしている霞ヶ関の高級官僚達、特に外務省と防衛省の高級官僚達の国の意思は常に地方の意思を上回るという固定した上下関係の意識改革こそが必要になっている。しかし、霞ヶ関に陣取り、国会議員をも自由に操ることができる力を持った官僚機構は、戦後の敗戦の混乱から立ち上がり、効率よく今日の日本を作り上げるのに有効であった中央集権体制が今では逆に非効率で新味に欠け、自分達の仲間の利益に反する問題には間違いなく反対し、あらゆる手段を使って問題を骨抜きにすることで権益を守ってきた。閉鎖された官僚社会が出来上がると本来の公僕としての在るべき姿は忘れ去られ、自分達の利益のために、そして組織とその権益を守るために動くようになる。官僚の中央集権体制は強固で揺るぎなく、多少の波風にはビクともしない堅固な組織として日本の中央に聳え立ち、日本の隅々まで手足として働く下級官僚達を従えた巨大なネットワークが完成している。自分達は国を動かし、国のために働いているのだという強い自負が、自閉的な共同体を作り官僚腐敗のもととなる特権を享受できるシステムを作り上げ、いつしか自分達こそ待遇を含めたあらゆる面で生涯に渡り不安のないよう手当され、保証されるべきとして万全のシステムが営々と築かれてしまった。公務員天国の完成である。本来霞ヶ関をコントロールすべき立場の国会議員が専門性の弱さと国家観の欠如から全く立場を逆転し、各省庁の大臣には官僚からのご進講という名の勉強会で教育を受けることで完全に彼らの軍門に下り、各省庁の作る政策の旗振り役を演ずるしか主な役割はなく、三権分立という民主主義の基本をも揺るがしかねない由々しき状態になっている。例え政策上の失敗があっても官僚は誰も責任を取らないし、仲間同士で隠蔽して傷がつかないようにするため、もはやどこにも怖いものはない。但し、制度的にはあくまでも国民に奉仕する行政府の人間であるため、各大臣の黒子の立場に変わることはなく、表舞台に出ることはない。立場への不満を持つ者は地元に帰り国会議員に転身するか、関係する民間の業界に天下りすることになる。これが昔から指摘されてきた‘政官業’癒着のトラヤングル構造である。
それでは彼らには弱点はないのであろうか?霞ヶ関と効果的に対峙するには如何すれば良いか。やはり一番の効果的な力となるのは、広く団結した地域の人々の声であり、その声を代弁できる立場の国会議員が自ら良く勉強するようみんなで尻を叩いて奮起させることで立法府の権限を守り、行政府のチェックを行うという民主主義の原点に戻ること。結局この原点回帰が一番の早道であると考えられる。そして、それに加えて国連での決議のような国際社会からの反応を引き出すことで霞ヶ関に効果的なプレッシャーを作り出し、自分たちだけの論理で誤魔化すことができないようにすることも有効策の一つであろう。


6-5: 長い自立・独立への道のり

今回の住民投票の結果を受けて、茜知事は直ちに県のアドバイザーとして知事就任当初から特命で調査と研究を依頼してきた国際政治の専門家・宮里武士教授を知事室に召集した。今後の対応を検討するためである。教授の提案は沖縄県が成立したそもそもの経緯が国際法違反の疑いが強いこと、米国政府への影響力を持つ人脈を活用して米国から基地問題に対するコメントを引き出すこと、国際社会から見た日米両政府の長年の沖縄政策は県民の意思を無視した植民地政策に当たることから、県が本腰を入れて国際社会に対応すれば、国連を通じた日本政府への働きかけは十分可能で、無視の出来ない大きなインパクトとなって霞ヶ関を揺さぶることが出来るという判断である。
茜知事は早速県として米軍基地問題に対する国際社会への今後の対応策を発表することにした。
まず歴史的に独立国家であった琉球王国へ1872年に琉球処分官を派遣し、力による合意強制と1879年の琉球処分による日本への琉球併合は明らかな国際法違反に当たること。その後の沖縄で行われた使用言語(しまくと~ば)の学校における使用禁止策にみられる強制的同化政策や戦後の米軍による土地の強制収容による一方的な基地建設は植民地的な政策そのものであり、国連が禁止している人権侵害に当たること。はなはだしい人権侵害が日米両政府によっていまだに沖縄県で続いていることを、国連を通じて広く国際社会に訴えていくとした。
そして、沖縄にある広大な米軍基地問題の解決こそが住民投票でしめされた現在の沖縄の一番の重要テーマであり、県として引き続き基地の縮小・廃止の広報活動を強化していくこと。
次に、沖縄のNPO法人の代表者が国連の人権委員会や同作業部会に参加し、2008年と2010年、更に2014年の3回に渡り、日本政府に対し沖縄が被っている差別や米軍基地の押し付けによる人々に保障されるべき基本的人権の侵害に対し是正勧告を行っている事実を重視し、県としてこの活動を積極的にサポートすることとした。
また、これらの県の活動については、宮里教授の人脈を通じ米国政府の要人に向けた十分な説明と、県としてのロビー活動も同時に行う。
更に、明確な国際法違反については、日本政府の反応次第で国際司法裁判所での判断を仰ぐことにしたいと考えていること。これは今まで問題が起こる度に県や市や町の議会決議により国に是正を申し出てきたやり方では何の効果もないことを十分学習して来たからである。

県の方針は知事から議会に諮られ、その妥当性をめぐり活発な議論が行われた。当然、国の政権与党で沖縄の野党である民進党は徹底した反論を繰り広げ、国との無益な対峙を避け今まで同様に国との協調関係を維持すべきであり、それが沖縄の生き延びる道であると主張した。党本部に対し自分たちのメンツが潰れないよう配慮した発言でもある。特に、国連での活動が独立派のNPO法人の活動を援助することになり、県としての公平性に欠けるという論理を展開した。しかし、県の立場は独立派への援助というより、国連で沖縄の歴史的な事実関係と現状を広く国際社会に知ってもらうことが目的で、既に国連で活動しているNPO法人との協調は何ら矛盾するものではなく、先の住民投票で県民の80%以上が要望した米軍基地問題の解決を進めるため、国際舞台で問題を顕在化させ、議会決議だけでない別の角度からの日本政府への圧力を加えるためには必要な活動であると考えていた。知事はこれからの活動に弾みがつくよう意識的に議会の承認を求めることで、誰が何を考えどのように行動を取るか広く県民に見て・聞いて・判断してもらうために、敢えてこのような議会からの支持を求める行動に出たのである。米軍基地問題に対する対応は独立派が速やかにすべて返還させることを求め、高度の自治権派は自分たちの意思決定権の獲得に重点を置く立場から、全面返還というより危険性の高いところから順次縮小・廃止に向かうべきとして、条件付き現状維持派と似た対応になる。対応に違いはあるものの住民投票で明確な県民の意思が出ているにもかかわらず、案の定、或は意識的に国の与党に当たる民進党は強烈に知事の方針に反対した。しかし、この方針は意外に大きな影響を日本政府だけでなく米国政府にももたらした。NPO法人だけでの活動では日本の大きなマスメディアが全くと言って良い程取り上げなかったのに対し、県が乗り出すことでその活動の詳細が広くメデイアを通じて日本中に報じられ、何が問題なのか話題として多くの人々の目に触れることになった。これは政府にとって誤魔化すことのできない一番の厄介な問題であり、強いプレッシャーである。特に国際法違反の疑いが濃い問題は、明治政府が犯した問題として逃げることは出来ない。国の継続性に絡む問題で現政府がしっかり調査し、誤りであったら正式に謝罪をし、現状回復は無理としても何らかの対応は必須である。
茜は知事として常に心がけているいくつかのポイントがある。一つ目は透明性の確保で、県が進めるすべての政策とそれに対する予算の配分、そしてそれは誰が実行するのか。結果としてどうなったかまで明らかにすることで住民とのトラブルや業者間の過度な競争や談合を防ぐため可能な限り情報を公開した。二つ目は県庁改革の柱となる予算のゼロシーリング方式の採用で、各部署からの来年度予算編成案を作成する際に基準とする前年の実績プラスαではなく、ゼロから見直してどうなるかを判断するようにした。既得権や前例主義による予算の計上を極力排除するためである。そして知事選で公約した若手職員と女性職員の活用の一環として従来からの政策の見直しや新規の取り組みへの提言を多く盛り込むようにした。三つ目は外部有識者(主に大学の専門家)を県のアドバイザーとして広く意見を聞き、公的機関としての在り方や限られた予算をどうのように配分すべきかについてプライオリティーの付け方等を外部の目で見直すようにした。四つ目は地域で出来ることはできる限り自分達でやる、を合言葉に地元のNPO法人を立ち上げ、元気なお年寄りやボランティア団体と積極的に共同作業が出来る環境整備を行い、極力無駄を省くと同時に介護・福祉関係の事業を効率化と経費の節減をはかるようにした。五つ目は県庁で決定した内容を公表する広報活動を月に一回発行している県の広報誌とホームページでの紹介だけでなく同時に新聞やテレビといったマスコミへの積極的なアピールとネット戦略を加味してインターネットを使った情報発信を行い行政サービスの現状と課題の明確化を図るようにした。いずれの項目も多くの地方自治体で行われていることなので、特に目新しいものはないかもしれないが、優秀な県職員の支えのもとで日々の行政サービスに支障をきたすこともなく2年が過ぎ、公約の住民投票も実施でき、大きな変革を期待した人々にとってはさほど変わらぬ現状に不満を抱き、失望を口にする人もいたが、住民投票で示されたように多くは急激な変化を望まず、当面米軍基地問題の縮小・廃止に向け国と交渉せよという要望をどのように具体化できるか対外担当として招聘したアドバイザーの元に専門家会議を設置して、国との対峙の仕方や方法論を検討してもらうこととした。知事の姿勢は一貫していて、世界一危険な米軍の普天間基地の即時返還とこれ以上沖縄に基地は作らせないという態度は、国が強く要望している普天間の代替え基地を辺野古に作るという方針と鋭く対立するが、80%を超える圧倒的多数の県民には支持されている。昔ある知事が当選時の公約を巨額の交付金と引き換えに国の方針へ公約変更を表明して大ひんしゅくをかった辺野古移転計画は地元の反対で宙に浮いたままその後も生き続け、今日に至ってもくすぶり続けている問題である。代替え基地を認めない限り返還はあり得ないとする国の姿勢で、運用面の改善は認められるものの依然として普天間基地の基地機能は残されたままである。国の安全保障問題でも地元の意見・要望を無視してことを進めることは、民主主義の基本原則に反するという最も初歩的な第一歩が沖縄の基地問題では今日に至っても守られていないのである。
国に対峙する姿勢を堅持する知事に対し、当選以降沖縄県への国からの交付金や補助金が削られ始め、現状の県の予算を維持するための交付金1000億が怪しくなってきていた。知事が進める予算のゼロシーリング方式は、予想される国からの嫌がらせに対する対応策の一つであり、また、県の財政を守るため県による税の一部徴収権の獲得も重要な対抗策である。知事の任期の4年間ではなしえないような盛り沢山の改革方針が示されているが、知事本人は一つ一つ丁寧に実施していけば意外と簡単に道は開けると考えていた。霞ヶ関も県議会の野党民進党も次の知事選では必ずや巻き返を計り、従来からの国との協調路線に戻すという大方針の元、知事の弱点探しに走って汲々としていた。国の指導を無視して住民投票を強行実施した沖縄県への国からの嫌がらせもその一つで、当然陰に陽にいろいろ形を変えて目立たないように行われた。公共事業で港湾整備や道路整備・農業振興のための耕作放棄地対策等の認可が遅れ、結果として交付金が削られた。国の許認可権を用いた嫌がらせは各省庁を通じて行われるため一つ一つはあまり目立たないが、恐らく知事が音をあげ、或は周囲の反対の声が大きくなって行政運営に支障が出るようになるまで続くものと思われる。知事は当選以降沖縄県のエコアイランド構想を打ち上げ、太陽光発電や風力発電・潮の流れを利用した海流発電等の自然エネルギーを利用した発電システムに切り替え、現在ほぼ100%の火力発電に頼っている現状を変えたいと民間の沖縄電力(株)と大学・ベンチャー企業からなるプロジェクトを県の全面支援の形で立ち上げた。国からの資金援助を期待したが残念ながら実現せず、計画を縮小して県が保証人となり民間の金融機関からの融資を受けて事業を続けることにした。予算をゼロシーリングにすることで霞ヶ関の嫌がらせに対抗し、身の丈に合わせた予算編成に組み換え無駄を省き、従来からの行政サービスに支障をきたすことの無いよう配慮した。県議会や県庁内のあちこちの部署から出る不満や反対の声を押さえ調整と最終の取りまとめを行い、強烈な知事へのサポート役を買って出たのが、企画部で既に部長に昇進していた新垣聡であった。知事の片腕としてそして知事の夫である島袋宗一の友人として、陰に陽に燻る不満や反対の声を押さえ、霞ヶ関との調整や県選出の国会議員への働きかけを積極的に行うことで知事の方策を強く支持した。知事の一貫した姿勢はいろいろな形で県民に伝えられ、また同時に個々の政策に対する県議会の反応や国の反応について事細かにメディアやネットを通じ情報開示されているので知事に対する県民の信頼は上がることはあっても下がることはなく、霞ヶ関が当初考えた二年は持たないであろうという見込みは大きく外れることになった。米軍基地問題では同一のテーブルに座ろうとしない防衛省の対応と陰険な形で予算をじわじわと締め上げて来る国の対応には、中央集権化した構造と切り捨てられる地方の意思と要望の現実が良く見え、地方自治の在り方や民主主義の基本ともいうべき主権在民の形が改めて問われることになった。県の広報便りやネットを使った情報公開で多くの県民は現状を知り、どうあるべきか一人一人が問われることになる。国の意思に従わない知事が悪いのか、あくまで沖縄の総意として対峙すべきなのか。特に関心の高い米軍基地問題は国の責任である外交と防衛にかかわる問題であり、国の安全保障の問題である。米軍基地があることによって増大している地元への危険性の除去を沖縄振興策や交付金という経済政策で解決しようとしてきたこと自体がそもそも間違いで、問題の解決には決してならないことを認識すべきにもかかわらず、県に解決できない問題であればこれを利用して、国との取引材料に国庫から金を引き出すという従来からの対応策で良しとしてきた県の姿勢を茜知事は変えようとし、それによって引き起こされる困難もみんなの知恵と努力で解決しようと県民に問いかけているのである。困難の多くは予算編成がスムーズにできなくなって従来からの県の行政サービスが出来なくなってしまう可能性が高くなり、国に逆らう知事の姿勢を批判するグループの活動が活発になったことは事実である。しかし、霞ヶ関が予想した2年を持たず自ら崩壊するとした国の思惑に反し期待したほどの盛り上がりはなく、逆にゼロシーリングの予算編成作業や身の丈に合った行政事業への改革方針転換にも理解を示す人は多かった。それは県庁内で知事を支える新垣聡を中心とした若手職員グループと多くの女性職員の協力のお蔭であり、県議会で新たに選出された多くの女性議員達の党派を超えた支援も大きな支えとなった。また、ネットを通じた情報公開とNPOとの協力関係も知事を支える原動力となっていた。この動きは今までの地方自治体と国との関係を根本から見直す原動力となって日本の新しい沖縄モデルとして注目が集まった。身の丈に合う行政サービスとは従来の箱物や道路を次々作ってきたやり方を変えることであり、自分達のことは自分達で決めるという自決権を持つ地方自治体を作ることである。行政サービスを維持するための予算の確保が国の邪魔によって維持できなくなった場合、やはり対抗策として当然税の徴収権の実現を求め、より強く地方分権を求めることは必然的な流れで、国の抵抗次第によっては独立まで視野に入れた動きにならざるを得ない。中央集権化した現体制に風穴を開けるための沖縄の試みは、戦後の日本の体制を切り崩すきっかけに成るかも知れないと期待された。

6-6: 国際的な圧力

国連の人権委員会から日本政府に対し4回目の是正勧告が出された。県の方針発表から10か月が経過していた。今回は沖縄に集中する米軍基地問題だけでなく、長く続いてきた沖縄の言語や歴史教育に対する過去の強制的な同化政策が、今でも続けられており歴史上の琉球人が沖縄人となっても基本的人権侵害を受け続けていることを指摘し、早急な改善を求めるとする勧告文ある。これは過去の琉球併合処分の国際法違反を踏まえた勧告になっており、日本政府だけでなく米国政府に対するインパクトは相当強いものになったと考えられる。対応次第では世界に恥を晒すことになりかねない問題であり、日本の外務省と法務省・内閣法制局はその対応に窮した。これは今まで見たことの無い事態で、強固な権限を集中させ中央集権体制のトップに君臨してきた霞が関の自信崩壊の始まりである。沖縄問題のそもそもは琉球の歴史を知らず、問題の本質がどこにあるのかさえ考えることがないまま今日まで来た、庶民の声を代弁すべき政治家の責任と国の政策を取り仕切ってきた霞ヶ関の問題意識の無さにあった。それは無理のない話で、日本の同化政策の一環として歴史教育では琉球の歴史を全く取り上げて来なかったため、優秀なはずの官僚達の頭には沖縄の生活者の声の意味も歴史的背景も理解しようがなかったのである。
今までどちらかというとローカル的な報道しかして来なかった内地のマスコミ各社も、国際的に取り上げられた問題を無視する訳にはいかず、多くの番組で問題の根っこにある琉球の歴史を取り上げ、専門家を交え分かり易い解説に努力するようになった。琉球時代に遡り薩摩藩(島津藩)が琉球王国に侵攻して国王を拉致し、九州まで連行した上で藩への従属化を承認させる書類に強制的にサインを求め、当時、明王朝との柵封体制により貿易の特権を認められていた琉球王国から利益の上前をはねることに成功し、それが明治時代に至るまで続いた事実や、琉球王国が米国・オランダ・フランスとの間で修好条約を結び、独立した国として国際的に認められていたにもかかわらず、明治政府による強制的な琉球併合と沖縄県の設置が決定された史実の解説は、多くの人々に沖縄問題の本質は何かを考える良い機会と関心を抱かせるに十分な効果があった。第二次大戦後の米軍統治の歴史の中で、小さな沖縄本島に日本にある米軍基地の70%以上が集中し、それに伴う様々なトラブルが頻発し、1972年の日本復帰後も状況は全く変わらず、多くの問題を引きずりながら今日に至る歴史が明らかにされると美しい観光地沖縄しか知らなかった多くの内地の人々にも沖縄の声を理解しようとする意見が出るようになった。

県庁内では知事と宮里教授を中心に関係者が集められ、今後の対応について特に国際司法裁判所への提訴の可能性につき議論されていた。天皇を頂点とする日本の形と全く異質の歴史を持つ沖縄をはっきり認識してもらうには提訴により白黒付け、公式な謝罪と原状復帰を求める中で将来の自立・独立のスタートとするべきとする意見と、提訴しても国内問題であるとする日本政府の意見で裁判所の結論が得られないで終わる可能性もあり、国内的にも国際的にももう少し問題の醸成に努め、住民投票で少なくても自立派と独立派が圧倒的多数派になるよう努力が必要であるという拙速を戒める意見も出てまとまらず、結局もう少し状況を見守ることになった。
知事と共同歩調をとる議会関係者も霞ヶ関の対応に怒りを募らせていた。新知事誕生以来、沖縄の振興策を話し合う政策協議会が一度も開催されることなく、じわじわ予算の締め付けを強めている現状に対し県独自の税の徴収権を求め国と戦っていた。教育権の地方分権化の要望と同様頑なに認めない国の姿勢に、やっと国会議員達が立ち上がり始めた。沖縄問題は基本的には政治的な駆け引きをするべき問題ではなく、また、保守・革新の対立する問題でもない。国連が指摘した基本的人権の問題であり、それに気付いた国会議員たちが遅ればせながら専門家を招いて勉強会を開いたり、過去の沖縄から出された要望書に対する国の対応について調査したりと、党派を超えて政府の沖縄への対応に声を上げ始めたのである。立法府の国会議員が行政府の官僚に良いように使われて来た中央集権体制を打ち破るには、やはり住民から選ばれた国会議員が頑張るしかなく、政党を超えた動きが出てこない限り現状は変わらない。
霞ヶ関は現状の締め付けをこれからも続けることで現職の知事を窮地に追い込み、次の知事選挙では国との協調路線を掲げる新しい候補者に代わってもらうというシナリオを描き、現政権党の方針を先取りする形で巧妙に事を運んでいた。しかし、沖縄では新知事誕生以来、情報公開が徹底されており、国への要望書・意見書はすべて地元マスコミやネットを通じ公にされ、国の対応も一つ一つ丁寧に公開され問題点も含め県民に知らされてきた。知事と県議会の議員そして国会議員がタッグを組んで動き出せば、そもそも各省庁の官僚達はトップの大臣の黒子役でしかなく、地方への理不尽な対応に対する抗議を受けると、大臣の対応は自分の指示ではないので調査して善処するとして常にその場凌ぎの約束に逃げるため、黒子の官僚はこの対応を忌々しく聞くしかなかった。
昔地方分権化構想を打ち上げた政党や人権問題に関心のある議員達は沖縄県の対応に理解を示し、沖縄の振興事業を決定する振興会議の開催延期で公共事業を遅らし、露骨な沖縄への予算の締め付けに対する県による独自の税徴収権獲得の要求や、昔の歴史教育に対する教育権の地方分権化要求も現在の米軍基地縮小・廃止の要求も、そもそもの理由が沖縄の人々の意思を無視して行われて来た基本的人権侵害の改善要求に由来することを考えれば、極めて当たり前で支持されるべき正当性があり、非難されるべきは今まで放置して来た政府の対応で、野放しの官僚支配こそが問題であると表明する議員や政党が現れ始めた。また、沖縄の動きに触発された他の都道府県も国の補助金や交付金で縛られていた財政の見直しと独自の行政サービスの在り方について模索を始め、国と地方との関係の見直しの動きの中で本格的な地方分権の議論が活発になり新たな取り組みが動き始めた。

沖縄では次の知事選挙の動きが出始めていた。人気の高い現職の當間茜知事に対し、巻き返しを狙う政権与党が推薦する候補者選びが活発で、特に、自立・独立を目指す現職の知事を国としてどうしても落選させる必要があった。それは沖縄が火をつけた地方分権化の動きを潰し、日本政府の沖縄政策に対する国際的な批判をかわすには、国との協調路線を取る人物を知事にしない限り問題は収束しないし、このまま行けば霞ヶ関の築き上げた特権を危うくする危険性が高いと考えているからである。沖縄県から出て来る要望書や意見書はことごとく今までの国の施策に反するもので、それに同調する国会議員が増えていることから従来のように無視するか、交付金の配布で済ましてしまう状況になくなっている。沖縄の政治状況は県内の保革の対立から国との対峙に変わりつつあり、次の住民投票の結果次第ではくすぶり続ける独立論に火が付く可能性さえあった。茜知事の公約は住民投票を4年毎に行うこととし、経費節減のため県議会選挙と同時に行われることになっているので、知事が続く限り住民投票による県民の意思確認が行われる。米軍基地の縮小・廃止に進展が見られない場合、自立・独立を求める声が強まる可能性があるので、これを潰したい国としては何としても次の2選を阻止し、元の良い関係に戻さねばならないと考えていた。

茜知事を中心としたブレーン集団は次の一手をどう打つか悩んでいた。県民への行政サービスを遅滞なく公平に実施しながら、国との関係では住民投票で示された米軍基地縮小・廃止を進めるため、まず未だに実現していない世界一危険な普天間基地の返還を急ぐ必要がある。しかし、防衛省や外務省の大臣宛てに要望書を上げても、国の意思として認めるかどうかの判断を下すのは、官僚機構のトップである霞ヶ関であり、いくら県民の意思を尊重しろと叫んでもいつもと同じく無視され切り捨てられる。結局、霞ヶ関はいくら正当な要求であっても自分達の論理や利益に反するものは現行の法律や過去の事例を盾に決して認めないのでアプローチの方法を変える必要があると考えた。まず、従来通り要望書は国に上げて拒否の理由を質し、それが正当かどうかの判断をマスコミと国会議員とネットに流して意見を問うようにした。これを繰り返すことで本質が見えて来るので結構効果はあると期待された。また、同時に国連人権委員会からの4回目の是正勧告に対する外務省の反論についても県として正式に事実誤認による誤った反論であることを明らかにし、国際的に納得のいく対応を求めるとして国と対峙した。1879年の琉球併合が国際法違反の疑いが濃いことに加え、日本にある米軍基地の70%以上が沖縄県に集中し、沖縄県民の意思を無視した様々な人権侵害の原因になっていることを国際司法裁判所への提訴という形で世にアピールすることも決定した。国内からの圧力と国際的な圧力を一気に日本政府に掛けることで霞ヶ関を揺さぶり、地方に対する高圧的で一方的な従来の対応を続ける国の姿勢は世界の目から見ると不信感と影響力の低下を生み、信用を失いかねないことを知らしめる意図があった。更に、県の選出の国会議員への積極的な働きかけは当然ながら、県選出の議員と共に沖縄の政策に理解を示す議員だけでなく、多くの政党へのアプローチも欠かさなかった。それは民主主義のルールでは沖縄選出の議員数は圧倒的に少なく、多数決の原則からすればいかなる要求も国会では通らないことになるため、沖縄への理解者・同調者を増やす必要があった。まず沖縄の歴史を知ってもらうこと。誰でも断片的な知識はあるものの、日本の歴史教育ではほとんど沖縄について触れて来なかったので過去に何があって問題の本質は何処にあるのか全く知らずに今日まで来ている人が大多数なのである。体系的に勉強してもらう必要があるので各政党には沖縄問題担当者を置いてもらうよう働き掛け、機会ある毎に一緒に勉強会を開き、沖縄の主張への理解を深めてもらうと同時に自分の政党内での議論を広めてもらい一人でも多く同調者を増やす狙いがあった。歴史の中で1879年の琉球併合は力による強制的措置で国際法に違反している可能性があり、その後の琉球語(しまくと~ば)の使用禁止に見られる強制的な同化政策も植民地でよく行われて来た政策で人権侵害に当たること。第二次大戦では最後の地上戦の舞台となった沖縄は、多くの民間人が犠牲となり、その後長く米軍による統治国となった。その間強制的な土地の収用という植民地的な振る舞いにより多くの米軍基地とその関連施設が作られ今日まで引き継がれている。1972年に日米両政府で交わされた沖縄返還協定により日本に返還されるが、本土並み復帰を求めた沖縄県民の意思は完全無視されたまま締結され、現在の沖縄の政治状況を規定するものとなっている。しかし、その内容は密約の問題や土地の保障問題等の不備が多く指摘され、不完全な協定であることが明らかになってきた。この不完全協定を廃棄できれば沖縄県は協定の縛りから解放され、無条件で国と対等に向き合えるようになると期待できるので政党や国会議員への働き掛けは十分に意味のあるアプローチと考えられた。政権与党である民進党への働き掛けには残念ながら色よい返事は帰ってこなかった。

いろいろの角度からの沖縄県のアプローチは霞ヶ関に一定の効果を生み始め、危機感を持った役人は自分達の関係する部分について過去に遡り勉強を始めた。しかし、琉球時代にまで遡って沖縄の歴史を学んだ者は何処の省内にも居らず、国の政策決定の前後だけを調べても背景となる歴史を知らないと十分な理解が進まない。専門家を呼んでの勉強会と各省庁の担当者レベルでの情報交換を進めながら、沖縄への対応と国際社会への対策を話し合っていた。ある会合後の身内だけの小さな懇親会の席でアルコールが入って口が軽くなると、日頃のストレスを発散させるように本音が出始めた。国家の財政が1000兆円を超える国債を抱え、借金返済に悩む財務省の若い高官は
「今まで随分と沖縄には財政面で面倒見て来たが、もう勝手に独立でも何でも好きに遣ってくれって感じだよ。」とかなり乱暴な沖縄切り捨て論が出ると、他の出席者からも次々と日頃口に出せないコメントが語られ始めた。外務省や防衛省・総務省の役人からは
「いや、沖縄の独立の動きには気を付けないといけない。住民投票の結果で独立派が27%に押さえられている内に何とか手を打たないと。中国がどう出るか読めないので尖閣諸島問題の比じゃなくなる可能性があるからね・・・」とか
「次の知事選では現職知事の2選が確実視されているのでその後の4年間は今よりもっと厳しい対峙が予想される。対応次第では沖縄県内で独立派が勢力を拡大する可能性も高くなり、その前に国として何か手を打った方が良いと思うがね」
「手を打つといっても問題は米軍基地の縮小・廃止の解決に絞られているので金で沖縄を説得できないなら米軍の説得しかないんじゃないの」
「国際的な批判が高まれば国の信頼を落しかねない。再選が決まった時点で、批判が国連などで広がる前に何らかの落とし何処を探しておかないと拙いことになるね」といった県との妥協を模索する意見も出て、その対応に苦慮している姿が窺える。
外務省のアジア太平洋・オセアニア地区を担当する山崎健二は最近勉強したんだがと前置きしながら
「米国の信託統治国であったマーシャル諸島やミクロネシア連邦が自立・独立に関する話し合いの中で、いろいろの選択肢の中から米国と自由連合協定を結び、防衛権は米国に残したまま最終的に独立する道を選んだ経緯があった。純粋な独立国というより自由連合国と呼ぶのが正しいと思うが、それぞれの国は外交権を行使して国連に加盟し、自らの手により独自の国家運営を続けている。防衛権の見返りに財政援助資金(コンパクトマネー)の提供を毎年受けてはいるが、沖縄との関係を考えた時、意外に参考になる政策になると気付いたんだが・・・」
「それは面白いね。住民投票の結果を見ても、まだまだ独立派は少ないので今のまま封じ込めておいて、大事な防衛権を維持する方法として考えても良いね」防衛省の担当者が呟いた。
「日米安保条約の下、日本の防衛は米国の核の傘下で守られてきた。そのため広大な米軍基地と関連施設のために土地を提供し、膨大な運営費を日本が支払っている。唯、日本にある米軍基地の70%以上が米軍の統治時代からの延長で沖縄に集中していることが問題で、日本の防衛政策と沖縄の要請を今後どう折り合いをつけるか重要なポイントになるね」
「その点では世界で一番危険な普天間飛行場を無くせば、代替え基地云々で揉めるより簡単に現状維持ができるんじゃないの」総務省の担当者のコメントに加え、財務省の担当者が
「外務省も防衛省も、もう少し強く米国に普天間基地の返還と、日本国内での米軍基地建設はもはや無理であることを主張出来ないのかね。これ以上問題を引っ張るのは国益に反することになると思うよ」
「沖縄が1879年の琉球併合が国際法違反であり、1972年の沖縄返還協定の廃止を主張し野党の国会議員や政党に働き掛けているけど、法務省や内閣法制局の本音はどうなのかね。もちろん、いろいろ反論することにはなると思うが・・・」
「我々はついつい今の与党に肩入れしてしまうが、将来の政権交代も起こり得るわけでもっと国益を優先させて考えないとね」
「国内的にこれからも揉め続け、更に、国際法違反などという外交上の恥の上塗りはゴメンだね」
「米国との2+2交渉で米軍再編計画の見直しの中に普天間基地とその関連施設の移設を入れられないか」
「もし、普天間基地とその関連施設のフィリピンあるいはグアムその他への移設が可能になったら、沖縄の不満の半分以上が解決するので、残った米軍基地と施設はそのまま利用することで日本の防衛機能は従来通り維持できるのでは・・・」
各省庁の役人から出た発言はいろいろな思惑を込めながら、今後の見通しや課題・対応策など様々な方向に発展し少なくても今後の政府内での協議に影響を与えそうな雰囲気を感じさせる。
沖縄の国に対する多方面からのアプローチがかなり効果的に実を結び、影響を及ぼしつつあることを強く実感させた。

6-7: 茜知事再選を目指す

沖縄の民進党を中心とする保守グループは知事選挙の半年以上前から、選挙対策本部を立ち上げ候補者選びと県内の組織固めの準備をスタートさせた。県の財政が苦しくなっているのは国と協調姿勢を取らない知事の責任であり、このまま放置すれば沖縄県の財政は破綻の危機に陥ると宣伝することで何とか知事の椅子の奪回を目指していた。候補者は名前の広く知られている現職の国会議員を担ぎ出すことに成功し、早くからその準備に取り組んでいた。
一方、茜陣営は全く動く気配はなく毎日の行政サービスのやり繰りに忙殺されていた。同陣営の誰もが次も茜で行くと信じて疑わなかったからである。唯、気になる点として茜がどこに行くにも身の回りの警護を担当するSPを付けずに動きたがることで、ときには秘書なしで出かけようとすることである。夫の島袋もその点をきつく止めるよう注意しても中々直らなかった。多くの人に支持されているとはいえ、当然邪魔で抹殺してしまいたい存在であると心の底から考えている連中もいて、用心するに越したことはない。しかし、茜は沖縄に関してはそんなバカなことは起こり得ないと信じていた。県民の要望に耳を傾け全力で奉仕すること、それが現在の自分の役割であると信じて疑わなかった。その為なら何でもやるし、どこにでも行って話を聞こうとしていたのである。市町村から上がって来る要望や様々な行事への出席要請にすべて答えていたら体がいくつあっても足らないので、都合がつかない場合は失礼のないよう副知事や担当部長に代わってもらうことになる。しかし、どうしても知事に来てほしいという要請では、時間を限り2~3か所を掛け持ちで回るケースもあった。特に、県の方針と国との関係で対峙せざるを得ない状況ではあらゆる機会を通じて、その背景と何故県としてそのような方針になったのかを説明するようにして皆の理解を得る努力をした。ある会場では話を終えて帰ろうと演壇を降りた所で、近づいて来た男性がいきなりナイフを抜いて茜を刺そうとした事件があった。幸い傍にいた人が機転を利かし、素早く暴漢に足蹴りを入れため刺すタイミングがズレて茜はほんのかすり傷で難を逃れた。会場は一時大騒ぎになり、マスコミにも大きく取り上げられたが、捕まえた犯人は九州の右翼系暴力団に所属する組員であることは警察の調べで判明したものの、その背景を語ることもなく真相は闇のままになっている。茜が受けたショックは大変大きいはずなのに、その後の行動に変化はなく、周りの心配をよそに何事もなかったように忙しいスケジュールを淡々と熟していた。当選以来、公人としての活動にある種の覚悟が出来て、また一段と逞しくスケールが大きくなったそんな印象すら周囲の人々に与えている。
選挙まで半年を切って正式な立候補者は誰になるのか、既に出馬を決めている保守グループの候補者に対し、何の意思表明をしていない現職知事を応援する革新グループの対応が注目され、このまま茜知事が2選を目指すのか新しい候補を立てるのか、流石に近辺が騒がしくなってきた。茜はすべて夫の島袋に任せているので特段生活に変わりはないものの、担当記者や内地から来るマスコミ関係者からの質問に答える機会が増えてきた。茜の夫に打ち明ける本心は
「自分に代わる適当な人を早く見つけて頂戴。忙し過ぎて自分を見失いそう。誰か見つかれば、何時でも降りるわよ」であったが、マスコミの前で本音を明かすことはない。大幅に入れ替わった沖縄の県議会とは茜の政策を全面的に支持してくれているので良好な関係を維持できており、知事選挙に向けての不安は全くなかった。ネットで活躍するNGO組織‘沖縄の未来を考える会’の代表である夫の島袋の意向も、小さな政党の寄り集まりで成り立つ県議会与党の推薦も、人気・支持率ともに高い現職の茜しか候補者はいないで一致しており、もう一期4年間は茜で行こうという暗黙の了解が既に出来ているようであった。新たな立候補を目指す人もそれを探すような政党も全くなかった。それだけ今までの政治家にはない茜の誠実な対応と情報公開というオープンな姿勢が広く県民に受け入れられている証であろう。
知事選まで3ケ月を切り、正式な県議会与党候補としてマスコミ発表が行われた。席上NGO組織代表の島袋や各政党代表から、現職の當間茜知事を正式な立候補者として推薦し、再選を目指すことが宣言された。そして、同時に4年間の総括も行われ、公約の内容の検証とその達成度について評価された。自己決定権のある地方自治体の実現を目指すとした方針の達成度はまだまだ実現には程遠く、達成度はゼロ。しかし、それを阻む原因が県民の前に明らかになり問題の根深さや難しさを知らしめた点は評価されるとした。行政改革ではゼロシーリング方式の導入と若手職員の活性化や女性職員の登用が進み、達成度65%。公共事業(学校や地域の防災対策・公園の維持管理)や福祉行政(老人介護・生活保護)におけるNPO法人の活用はまだまだ不十分で35%の達成率。方向性はこれからも変わらず進めるとして、それを許さない中央集権化した国の形に沖縄としてあくまでも挑戦する方針を明らかにした。公約通り住民投票が実施できたことは画期的なことで達成度100%、今後も4年毎に続けて行くべきとし、第一回投票で80%以上の県民が求めた米軍基地の縮小・廃止を次の4年間も引き続き実現を目指して日米両政府に要求を続けて行くとした。新規事業としての地元産業育成については自然エネルギーによる電源の多様化を目指しているが、まだまだ十分な進展が見られず継続事業としてこれからも続けることになった。総合評価としての点数は55点でかなり厳しい採点になったが、これからの一層の奮起を期待し、全面的に支援を続けていくとするマスコミへの発表会となった。
選挙活動は前回同様県内各地につくられた勝手連がNGOと協力して、ビラ配りから演説会や講演会の手配まできめ細かく行い、茜はそのスケジュールに乗る形で月日がどんどん過ぎていった。注目度の高さも前回同様全国レベルで、内地の主要なマスコミが沖縄に一堂に会する賑やかさであった。沖縄の問題を好意的に取り上げられることが多くなったのは、県の広報活動や多くの勉強会の成果が表れ、沖縄の主張に対する理解が格段に進んだ結果であると思われた。選挙戦では、相変わらず、茜に対する個人的な誹謗中傷が流され、露骨な妨害工作も行われていたが、茜陣営はあまり気にすることも怯むこともなく、淡々とそれぞれが担当する役割を熟していた。投票日が近づくにつれ、妨害工作がエスカレートし両陣営の運動員同志による諍いや暴力騒ぎ・ポスターへの悪戯等が起きて、いやが上にも緊張感が高まってきた。

投票日の前日、茜は自宅のある名護市で久しぶりに夫と一緒に過ごすことができた。11月になると亜熱帯の沖縄でも夜になると、庭の木々の間から吹き込む風が涼しく心地良い。普段は茜が那覇の知事公舎に、夫は名護の自宅に住んでいるのですれ違いが多く、最近ではお互いの忙しさから殆どプライベートで会う機会が減ってしまった。たまに会っても会議の場であったり、講演会の会場であったりと多くの人の目のある場所が多く、知事という肩書を背負っている以上個人的な話をすることはまず無理で大いにストレスを感じる瞬間でもある。しかし、茜は自分を沖縄の歴史に目覚めさせ、今の立場まで引き上げ・成長させてくれた夫への感謝と尊敬の念は大変強く、お互いの信頼関係に揺るぎはなかった。一方で夫の島袋宗一は、茜を分刻みの忙しくて敵も多い過酷な現実に放り込んでしまった罪の意識が変わることなく続いていて、たまに会ってお互いに目を見つめ合うとき、相手を思いやる優しさや愛おしさに交じって済まない気持ちと沖縄のためにもう少し我慢して頑張ってほしいという複雑な感情が眼差しの奥に溢れてしまう。
「結果は分からないけど、恐らくマスコミの読み通りだともう4年こんな生活が続くことになると思うので、済まないがよろしく頼む。沖縄だけでなく全国レベルで、政治の世界に確実に新しい風が吹き始めていると感じる」好きなコーヒーを自分のカップと茜のカップに淹れながら島袋が呟くと
「しんどい思いはあるけど、結構楽しくやっているのよ。あまり心配しないで」と明るく茜が答え、コーヒーカップを受け取ると一口啜った。
「まあ、美味しいコーヒーね。相変わらず自分でコーヒー豆を挽いてるの?」
「そうよ。特注品さ」
「やっぱりこうしていると心がゆったりして来て、毎日のバタバタが嘘みたいね。新垣聡さんや奥様の結衣さんの東京での活躍を聞いてる?国会議員や政党への勉強会で沖縄の歴史に関するレクチャーを担当してくれて大きな反響が出ているらしいの」
「聞いてるよ。歴史を知れば、日本とは違う琉球のアイデンティティーについての理解が深まり、実に不誠実な政策を長年押し付けてきたことが恥ずかしくなるし、無神経なゴリ押しも出来なくなると思うので知ることの大切さを再認識させられた。霞ヶ関の官僚達にもレクチャーしたいけどね」
「国連からの日本政府に対する是正勧告と県が国際法違反を国際司法裁判所へ提訴したことのインパクトはかなり強かったようで、その対応に政府内でかなりゴタゴタしている話はいろんな筋から聞くよ」コーヒーを飲み干して続けた。
「更に追い打ちを掛けた1972年の沖縄返還協定の無効の訴えは、密約問題が絡んでかなり面白くなるんじゃないの」
「私が再選されたら、次の4年間が勝負ね。もっともっと内外から国を揺さぶって何らかの結果を出すようにしないと・・・」やる気満々の茜を見るにつけ、こんなにも逞しく成長した姿に嬉しさと一抹の寂しさを感じていた。茜の立候補を初めて決断したときの予感が的中したようだ。十分に独り立ちした茜は、もはや島袋の庇護が必要ない程大きく逞しく才能を開花させ、自分の信ずる道を歩み始めていた。明日の午前中に近所の投票所で投票を済ませた後、開票結果を見るため那覇に移動してホテルで待機、結果発表と同時に選挙事務所に向かい多くの支援者・マスコミの前で今回の選挙活動の総括を行う。ほぼ勝ちは疑いなく、前回の二千票弱の僅差ではなくてどれ程の得票差になるかが一番の関心事になっていた。
各マスコミで午後の8時から恒例の開票速報が始まり、独自に集計した出口調査の結果から9時前には茜の当選確実が発表され、直ちに全国に向けニュース速報が流された。事務所は集まった多くの支持者で溢れ、割れんばかりの歓喜の賑わいになっていた。全国的に関心が高まったのは、地方の自治体が自分達の自決権を求めて国と対峙し、あらゆる国の締め付けや妨害工作にも決して怯まず、凛として筋を通してきた姿勢に全国から支持と賛同の声が高まり、民意を無視して進めて来た歴代の内閣とそれを支えてきた強大な権力を持つ官僚機構への批判が大きくなっていることと、それを今までチェック出来なかった国会議員達の責任を問う声も同時に大きくなってきたことである。行政府と立法府が上手く機能せず、黒子役の霞ヶ関に全て牛耳られてしまった日本の政治状況はまさに危機的状態にあると言えるのかもしれない。最終的な開票結果は茜が37000票以上の大差を付けて再選され、多くの県民に理解され支持されていることが示された。
この結果を受け深刻なダメージを受けた民進党は、国全体への影響を食い止めるため、単なる一地方の選挙結果であることを強調し、何ら国の政策に影響はないとした。しかし、沖縄政策に関係して来た各省庁の担当者はずっと深刻に受け取っていた。このまま放っておけばいずれ独立運動に火が付く可能性があり更に深刻な事態を招くことから、国益を守るため国の政策の変更もあり得るとして政策の全面見直し作業に入った。外務省は国連への対応と国際司法裁判所へ提訴された日本の国際法違反問題への対応を担当し、防衛省は沖縄が独立に向け動き始めたときの日本の防衛政策への影響を、そして、総務省は地方自治体が自決権をもった場合の国との関係とどの権限移譲が可能かそれぞれ検討することになった。
外務省のコメントは、国連への対応はそれほど深刻に考えなくて良いとした。それは今までも人権侵害の有無についての証明が難しく、見解の相違としてあいまいにされるケースが多かったからである。しかし、国際法違反についての解釈は多くの学者に聞いても日本に分が悪く、100年以上前のこととは言え謝罪と賠償で責任を正式にとるか、事前の話し合いで結審前に訴訟を取り下げるかの対応を求められるとした。
防衛省は反省を込めた検討結果をまとめた。前回の住民投票の結果は、独立派が27%でまだ問題視する程大きな影響を持つとは考えられない。世界一危険な普天間基地の撤去は代替え基地建設でのみ可能として来た日米両政府の合意では、米軍基地の縮小・廃止とこれ以上沖縄に新しい基地は作らせないという県民の意志を無視することになり、結局解決の糸口も掴めずズルズル先延ばししていけば国への反発を加速させ、独立派に勢いを付ける結果となる。次回の住民投票では50%近くまで跳ね上がる可能性が考えられ、これからの日本の国防政策を考える時由々しき事態になる。中国の東シナ海や南シナ海で活発化する軍事行動に対応するため、沖縄の果たす役割は大変重要であり、中で揉めている状況ではない。対応の遅れで将来に禍根を残さないためにも毎年行われている2+2の日米協議の席で普天間基地機能の分散か移転を提案し、国の政策が地方の要望に優先されるとしても従来のやり方を修正し、民意を無視した一方的で高圧的なやり方では軋轢を生むばかりで現状の解決にはならないことを反省すべきとした。
総務省は、霞ヶ関の常識として自分達が独占してきた権限を地方に移譲することは許されないと長年考えてきた。それは美味しい利権を失い、せっかく築き上げた自分自身の立場を否定することになるからである。しかし、沖縄が突き付けた問題提起は地方自治についての基本を問うもので、民主主義の根幹に触れる問題である。出来るだけ沖縄に話を限局させ、国への影響を最小化させながら皆の納得を得る解決策を模索していた。一つのヒントは以前懇親会で話の出た米国とその統治国との関係で防衛権を残しながら自立を認める自由連合構想である。沖縄の希望する自決権のある自治体として独立自治州構想を認め、外交権と防衛権を日本政府に残しながら自分達の自由裁量で税金の徴収から予算編成・配分まで国の制約を受けることなく自治州内で行う。国からは外交権・防衛権の見返りに毎年1000億円程度の予算補助を行えば、独立の根拠がなくなり現状維持が可能になる。もちろん、普天間基地の返還と辺野古への代替え基地建設断念が条件になるが・・・。
上記の検討結果は内密に各省庁の大臣を輩出している民進党に意見書として提示され政治判断を求めたが、予想通り拒絶された。米国との信頼関係が損なわれるというのが理由であった。しかし、これは今後の日本の国益を考慮した対応策であり、党派を超えた政治的判断が必要になるとして政府内での了解を求めた。沖縄の歴史に理解のある保守系の大物政治家は
「そろそろ沖縄への政治的差別を止めないと県民の怒りが爆発して取り返しの付かないことになるので金で問題を誤魔化すやり方はもう止めた方が良い」
「もっと沖縄の歴史を勉強しないといかんな」といった声も聞こえてきたが、党として具体的な動きになることはなかった。
「沖縄がどう出るか反応を見ながら我々の対応を最終的に判断するようにしよう」という様子見と重要な判断の先送りで、官僚任せの姿勢は変わらなかった。

しかし、官僚サイドからのこのような動きは今までなかったことで影響はいろいろの所に出始めた。内容を嗅ぎ付けたマスコミがスクープ記事として特集を組み、負けずと他社も情報収集に当たり霞ヶ関界隈を中心とした情報合戦の騒ぎになった。当然野党サイドからは賛成の声が多く上がり、政府の一貫性の無さが批判され、沖縄の置かれた特異な立場がより一層全国レベルで明確になった。しかし、今のままでは内外からの批判に耐えられないとして、国益を守る観点から見直し案を検討してきた霞ヶ関は、それを理解できない民進党には政権交代の可能性をチラつかせながら説得工作が行われた。いかなる政党も霞ヶ関の官僚機構が支えない限り行政府も立法府も機能しないというこれまでの実績が自負となっていて、行政府を握る民進党もその例外ではないことを示していた。
「沖縄の勝手は絶対許さない、許せば必ず他県へ波及し国の威信が崩れる」とする強硬な保守派が多数居る民進党の反対論者を抑え、沖縄への内密な打診が二期目の知事就任から僅か3ヶ月目という早期に行われることになった。早速、知事を支えてきたブレーン集団が極秘に集められ、国の真意の分析と対応が検討された。独立論者である茜の夫、島袋宗一は沖縄の独立を阻止するための巧妙な罠であることを看破し、
「国連からの是正勧告と国際法違反の訴えに対し、国際司法裁判所への提訴取り下げを条件に沖縄の要望を飲むというのは、国の立場が不利になると見通した結果であり、沖縄のための方針変更ではなく、国際的な信用失墜により傷が付くのを避ける、自分達のメンツを守るためだけの変更であるのでこの提案には断固乗るべきではない」とした。しかし、茜は
「県民の幸福は独立が保障するものではなく、生活者の不安を一つ一つ取り除いていくことにある」とし
「普天間基地の返還と辺野古の工事中止が認められれば一番大きな沖縄の不安が取り除かれ、自立した本来あるべき自治体としての権限が沖縄に付与されることは、これまでの県の活動が報われたことを意味し、長らく続いて来た国と地方の上下関係を修正できる画期的な意味を持つ」と主張した。そして
「この機会を利用し、直ちに国との内容の詰めに入るべし。そして、心配される国の本気度を確認しましょう」と夫の意見に真っ向反対したため議論は紛糾した。
「国が要求している訴訟の取り下げについては拒否し、このまま決着が付くまでしっかり続けるべきである」とする島袋と
「県の意向がどれだけ汲み取られているかが一番大事で、訴訟にそれ程拘る必要はない」とする茜の意見に分かれた。妥協案として
「国との話し合いの中で、本気度が確認できたら訴訟の断念を、怪しい含みを感じたらそのままで結審を待つこと。本気度チェックの大事なポイントは裏取引をしない透明性の確保と政府から国会承認を得るための法案提出時期を明確化させること」という方針で一致した。また、茜の意向として
「この問題は次の住民投票で県として決着を諮るべきテーマであり、国との話し合いのデッドラインは次の県議会選挙が予定される一年半後までとし、それまでに具体的な自治の在り方を明らかにし選択肢の一つに加えるべきである」とした。
会議は現実論者の茜知事に賛同する声が多く、国際政治の専門家である宮里教授と法律の専門家そして県の新垣部長を中心に国との話し合いに応ずることになった。ある程度話し合いが進み、国の本気度が確認され全体の輪郭が見えてきた段階で、県庁内に知事をトップとしたプロジェクトチームを立ち上げることにした。更に、県議会には検討委員会を設置して新しい県の姿についての議論を深め、受け入れ態勢作りとその準備を始めなければならない。しかし、安全保障に絡む防衛権と国の外交権を除いた霞ヶ関が握っているすべての権限を一括して地方に移譲するというのは、言葉でいうほど簡単ではない。多義にわたる法律の整備からシステムの変更、受け入れ態勢の整備、更にそれに伴う人員の配置やその他もろもろと細かな調整作業が必要となり時間とお金が掛かることになる。これを如何に効率良くこなして行くか課題山積であった。また、最終的には国会での承認を経なければならないので多くの政党や政治家の理解と支持を得なければならない。一方で、霞ヶ関には、意識的に時間を掛け委譲を引き伸ばして権限を守ろうとする動きすら見え隠れし、県の提訴取り下げを急がせ、結局何もなかったことにしてしまおうという霞が関内部の動きすら見えてきて油断も隙もない。まさに島袋が当初心配した国の罠に嵌る恐れさえあった。
県庁内に設置したプロジェクトチームは、それぞれの分野の受け皿作りを始めると同時に最終的には国会の承認を得るために、支持してくれる野党だけでなく政権政党の民進党にも県選出の国会議員を通じ働きかけが行われた。幸い保守議員の中には歴史的差別を自覚していて県の自立の動きに賛成する議員も多く、働き掛けは比較的容易であった。しかし、民進党全体に了解を得るのは大変な作業で、沖縄の歴史も事実関係も分からない、或は、最初から興味のない人々を対象に説得を試みることはほぼ不可能に近く、多くの努力はすべて東京という大都会の闇と喧騒の中に消されていった。
沖縄が日本の国の枠内に留まる限り、安全保障に絡む防衛権と外交権を除いた権限といっても円通貨に関する金融庁と日本銀行の持つ権限に県が絡むことはないし、厚生省が持つ薬の承認権限等も県が絡むことはない。国の持つ権限の法的整備を含めた一括譲渡を目指すものの、内容の一つ一つを精査し県として自分達で持つべき権限と当面必要としないものを明らかにし、国会承認に向けた窓口業務を担当する総務省と精力的に議論を続け、最終法案作りのための協力を惜しまなかった。しかし、国会に提出する最終法案の内容は各省庁が関連する業務毎に作られ、各省庁から提出される案をベースに全体を調整し一本にまとめて行くのでどうしても作業の進行にバラツキが生まれてしまう。作業提出が遅れぎみの省庁には大臣を通じ、或いは省のトップの事務次官からの圧力によってスムーズに作業が進むよう進捗状況に目を光らせて置かねばならない。他の省庁の業務内容は原則不干渉という長年の不文律をも無視してまとめ作業は行われた。同時に各政党への内容の説明も不可欠で、国会で法案が通るための情勢分析ではほぼ半々でまだ過半数に達していないと見られ、もう一段の努力が必要であった。
県として権限の委譲を受けたい項目の一番手は何といっても財務省の持つ財政を賄う税の徴収権である。自立・独立に向けた新たな動きの成否に係る重要項目であるため委譲を受けた場合の試算結果とあらゆる税(法人税、所得税、消費税、不動産収得税、相続税、関税、ガソリン税や車に関する様々な税金等々)の妥当性と改善の余地に関する議論を深めなければならない。社会全体を隅々まで網の目のように張り巡らされ、機能している税金の網を県に合うシステムに作り替える必要があった。
また、歴史教育問題で大きく盛り上がった教育権の地方分権化についても早急に取り戻すべき身近な課題である。これまでの経緯から考えると文部省は、沖縄に対し最早何も文句を言うことはないと思われるが、教育委員会制度の在り方や教員資格の基準・試験制度と採用方法等議論すべき課題は実に多い。
更に、身近な問題として県民の生活を守る警察権も重要な課題になる。特に米兵による犯罪が頻発する沖縄としては治外法権として特別扱いされないよう地位協定の見直しを行っていかねばならないし、司法権(憲法を含めた刑法、民法、商法、労働法等々)の見直しも将来的に必要になると思われる。
また、他国との貿易を独自に振興させていくために経済産業省が握っている許認可権限を全面的に県に委譲させる必要がある。
権限の委譲が実現すれば、産業振興策や港湾整備事業、農業振興策の一つとして耕作放棄地対策をその都度国の関係省庁に陳情という形で頭を下げ、交付金や補助金を得るための東京詣でを繰り返してきた今までの上下関係が変わり、自分達の裁量と判断で地域に合った対策が打てるようになる。県の自立した自由な判断と運営が可能になると期待される。それ故、何よりも年間どれ程の予算枠が確保できるかの試算結果が重要で、現行の税率のままで良いのか改善の余地はないのか、防衛権と外交権を国に残す見返りとしての財政資金の額はいくらが妥当か良く議論をしなければならない。財源確保のための税徴収権を手にすることは、今まで沖縄県で経済活動をしていた企業の利益が全て内地の本社に吸い上げられ、法人税や所得税として国に入ってしまっていたものが、県の税収として使える財源になることであり、間接税の消費税や酒税、たばこ税を含めた全ての国税も同様である。現行の地方の財源は、直接税の住民税と事業税がメインで間接税の地方消費税分等細かく規定された枠内で計算され戻されたものだけである。当然不足分は国からの政策絡みの交付金や各省庁からの紐付き補助金交付に頼ることになってしまうため、国の裁量権を生み、国の権威を増大させ、国と地方の上下関係が出来上がる。地方を操る中央集権的な仕組みを生み出す現行のシステムこそがその元凶であったことを考えると、沖縄の自立の持つ意味はとてつもなく大きい。財源は地方経済の命でありながら、地方が自らの手にその権限を握ろうとしないのは、強大な権力を持つ国への反逆行為になることを懸念し、国家犯罪に当たるので権力には従順にという地方の役人に巧妙に刷り込まれた間違った国家主義に基づくもので、民主的な地方自治体のあるべき姿がしっかりイメージ出来れば十分解決できる問題である。裁量権を決して手放そうとしない国には現状を維持し権力を守りたい十分な理由があり、地方には地方の正当な理由があれば現行のシステムの変更を求めることは地方の自治を確立する上で大事な要求である。結果的に国に逆らうことになっても従順で何も言わないことよりもずっと地方の自治を確立する上で大事なステップになる。権力の象徴でもある税金の徴収システムを地方に移譲することは地方の財源を自らの手に握ることになり、自由な裁量権と同時に自らの重大な責任をも背負うことで、正に本来の地方自治体の醍醐味そのものを手中に収めることになるのである。

各省庁内での作業が順調に進み、総務省がまとめた最終法案が政府案として政権党の民進党に内示されたのは茜の二期目の知事就任から一年を過ぎていた。霞ヶ関の真摯で国益を掛けた素早い取り組みを評価した県は国際司法裁判所への提訴の取り下げを決定し、通常国会での審議により沖縄が自立した自治権を保障された県として認められた段階で、具体的な取り下げ手続きを開始することになっている。しかし、まだ国会で法案が本当に承認されるかどうかは不確実で、最終的に国会議員が賛成・反対のどちらに投票するか分からなかった。それは全国から国会議員として選ばれ、地元の都道府県を代表する立場で沖縄問題に向き合う時、自分の出身地はどうあるべきかについて一人一人が問われるからである。今まで意識して来なかった地方自治の在り方や国と地方の関係を、沖縄だけが上手く政府を抱き込んで自立してしまうことは、自分達が取り残され、抜け駆けされたようにも感じられるため、本当に法案への賛成をしても良いのか判断に迷っている議員が与党だけでなく野党にも意外に多くいた。勿論、初めから沖縄の勝手は許さないとして強硬な反対論者もいるので裁決で沖縄の自立が確定するかは微妙なところにあった。
いよいよ通常国会の沖縄問題小委員会での審議が始まり、与野党から法改正の意義に関する質疑と沖縄の知事を委員会に召集し、沖縄の目指す自治体の姿、国との関係、米軍基地問題、自立した後国の支援なしに自分達だけで県の運営ができるのか等々多くの質疑が行われた。連日のマスコミによるトップの報道から全国的な関心の高さが見て取れた。3日間の審議の後、本会議に上程され裁決の結果は見事に賛成が過半数を超えて成立し、日本の枠内とは言え沖縄県は晴れて自立の道を歩むことが出来るようになったのである。

国会審議を見守ってきた沖縄の人々の大多数は、状況が大きく人々の望む方向に進展したことに安堵し・喜びを腹の奥底で噛みしめた。今まで政治家や官僚に騙され続けてきた歴史を知る人々には、まだ信じられないとする人も多く、これほどスムーズに審議が進み、あれ程反対が多かった法案が賛成多数で可決されるとは思いも寄らず半信半疑のままであった。霞ヶ関からの自立を望んだ沖縄にとって、皮肉にも霞ヶ関の政党や政治家に対する影響の大きさがここでも発揮され証明されてしまった。
県庁内では国会の本会議の模様が全職員に見えるようテレビ放映されていて、可決の瞬間は全庁舎が唸りに似た大きなどよめきと拍手に包まれた。知事就任以来の念願叶った瞬間である。そのとき茜は大阪に居た。沖縄の動きに触発された関西の5人の知事が一堂に会した知事会が開かれ、既に萎んでしまった日本の道州制の復活を話し合うため、今話題の中心にある茜知事をゲストに今後の方向性を議論していた。会議の途中秘書からのメモを見た座長が立ち上がって国会審議の結果を報告すると、会場は拍手に包まれ茜のもとに握手を求め皆が駆け寄った。
「念願が叶いましたね。すばらしい!おめでとう!」
「皆さんの応援のお蔭です。本当にありがとうございます」いつも冷静な茜もこの時ばかりは感激で胸を詰まらせていた。茜の携帯電話には多くの知人友人からお祝いのメールが届き、その反響の大きさを思い知らされた。会場の外には茜知事の出席を聞きつけたマスコミが集まり、知事達のコメントを取ろうと詰めかけ騒ぎが大きくなっていた。会議は知事会としてこれからも沖縄に続くよう継続して討議していくことを決めお開きになったが、マスコミ対応を座長に任せて、茜は会場裏からこっそり抜け出すとそのまま沖縄に戻るため伊丹空港に向かった。車の中でメールをチェックしていると、夫の島袋からの短いお祝いメールを見つけた。無性に会って彼の声が聴きたいと思った。そして
「私の役割はもうこれで終わりよ。早く解放して頂戴」彼の困った時の顔を思い出しながらそう夫に言いたかった。
「あまりに順調にここまで来れたことに感謝と恐怖すら感じるワ。責任の重さに潰されそうで、新しい人に早くバトンタッチしたいの」そんな思いを心に浮かべながら茜は沖縄に向かう機内の人となっていた。
知事の会見は県庁に戻った夕方の6時から開くという事前の連絡にもかかわらず、那覇空港に着くと多くのマスコミ関係者と乗降客で到着ロビーは身動きが取れない程混雑していた。警備員の誘導で迎えの車に向かって歩き始めた茜を冷たい目でじっと見つめる男が外に出るための自動ドアーの所に居た。一昨年の講演会で終了後、演壇から降りた茜をナイフで切り付けたあの男であった。誰も彼に気付く人は居なかった。人混みが少しずつ外に向かって動いてくるのを見ながら、ドアーの横で茜が外に出て来るのをじっと待っていた。タイミングを見計らいカメラマンの後ろから傍をすり抜けると茜の横に並び強く体をぶつける様にして隠し持った鋭利なナイフを胸に一突き刺し込んだ。今回は避ける暇も防御の術もなくまともに攻撃を受けてしまった。声もなく倒れこむ茜を見て、瞬間周囲の空気は凍り付き驚きと恐怖で全ての色が消えたように見えた。一瞬の予想もしない事態に周りの人も何が起きたのか分からない程の素早さで凶行は行われたが、倒れた茜を助け起こそうとした警備員が盾となって次の攻撃は避けることが出来た。その後の混乱は想像を絶するもので、茜を医務室に運び傷口を抑えて救急車を待つ一方で、現場では多くの人により犯人は取り抑えられ、直ちに警察に突き出された。全く逃げる様子もなく、前回の失敗で傷付いた彼のプライドを回復するための逮捕覚悟の手慣れた犯行と見られた。

救急車で近くの病院に搬送された茜は直ちに緊急手術が行われ救命措置が夜を徹して行われた。歓びの日が一瞬にして暗転し、生死をさまよう茜に対し支持者を含め多くの県民の回復を願う祈りが続いた。肺を貫通し心臓に傷をつける程の深い傷を受けたため大出血と呼吸困難を起こし、何度も危篤状態に陥った。懸命の救命措置の結果幸いして何とか一命は取り止めたが、何時なんどき予期せぬ事態を招く可能性が高く油断は許されなかった。回復までに4~5か月の時間を要すことが予測され重い後遺症も懸念された。ニュースを聞いて病院に駆け付けた多くの人々は、またもや右翼の凶行を防ぎ切れなかった無念さと生死を彷徨う現実の非情さにボー然と肩を落とし言葉を無くした。集まった女性の支持者達は皆泣いていた。病院内での夫・島袋の落胆と憔悴は言葉を掛けるのも憚れるほど激しく、暫くは恐らく何も手に付かない状態になると思われた。現職知事が暴漢に襲われるという異常事態は日本全国を震撼させただけでなく、世界に配信され平和なイメージの沖縄に似合わないあまりの野蛮な凶行に驚きと自立後の政治的不安定を心配する声が多く上がった。
自立する沖縄がやっと動き始めた記念すべき日が、同時に、その実現に努力して来た第一の功労者である知事を死の淵まで引きずり込む凶行が行われるという悲しい日になってしまったことは、沖縄に暮らす人々にとって恐らく永遠に忘れることのできない自立を勝ち取った記念日であり、人々の自由な発言と活動を力で圧殺しようとする裏社会の動きを決して許さないとする決意の日にもなったと思われる。茜知事が入院している間も行政サービスに休みはないし、予定されている日々の行事やイベントへの協賛や出席要請、市町村から県への様々な苦情から要望・陳情まで日々の動きに特段の変化はない。唯、知事のいない県庁内は自立が認められたことに伴う業務内容の組換えや引き継ぎ、組織の変更と全ての業務システムの見直しが行われるため、事前のプロジェクトチームによる受け皿作りで準備はしてきたものの落ち着くまで数週間は要すると思われた。緊急事態の今は副知事が行政のトップとしてすべて差配することになるが、実務を取り仕切れるのは部長の新垣聡で、国との調整段階から県の代表として参加し議論を続けて来た知事を支える影の実力者として混乱する現場を上手く整理し、問題が出ないようシステムの調整と市町村との連携を指示してきた。‘沖縄の明日のために、自分達の政策は自分達の手で’を合言葉に職員全員が国に頼らない自立した県に向かって行政サービスを進めていく強い覚悟を心の奥に秘めていた。それぞれの所属現場で新しい希望と不安の入り混じった気持ちを胸に、全員が前に進み始めた。茜知事が無事退院できる日までに新生沖縄の姿を築きたい。それが新垣を中心としたプロジェクトチームの強い思いであった。
死の淵から生還した茜知事は順調に回復していた。周りの人の無理はしないでほしいという思いとは裏腹に、一日も早い復帰に向け一人黙々と努力していた。入院から2週間後には点滴用の袋をキャスターにぶら下げたまま院内のウォーキングを始め、ひと月後には場所を知事公邸に移してベットの上で知事の業務を再開した。NGOのホームページやブログ・ツイッターへの茜の元気なコメントは多くの人々に安心と勇気を与え、新生沖縄を支える市民・県民レベルの分厚い支持層となっていた。県警察本部の徹底した捜査にも拘らず、犯人の背後関係を洗い出すことは出来なかった。常識的には単独犯行とは思えないため右翼のヒットマンとの関係が噂される大物政治家が後ろで指示している可能性が高いと思われたが、本人からの供述が得られることはなく、真相はまたもや曖昧なまま闇の中に消えていくことになった。
いよいよ元気になった茜知事が現場復帰する日が近づいて来た。登庁の朝、知事を支え続けて来た仲間達、県庁内の幹部や全ての職員、守衛さんからドライバーまで、茜知事の元気な姿を一目見ようと集まった人々の顔は、茜の初登庁以上に賑やかで歓びに溢れていた。紙吹雪の舞う県庁入口はマスコミ関係者と人々で溢れ、まるでこれからお祝いでも始まるような雰囲気で知事の乗る車の到着を待っていた。
「こんなに早い復帰で本当に大丈夫なのかしら」という人々の心配を吹き飛ばすように、到着した車から笑顔の知事が降り立つと皆の拍手とおめでとうの歓声に包まれ、用意された大きな花束が贈られた。元気に手を振り歓声に応える姿は実に清々しく、生死を彷徨う程の入院をしていた面影は全く感じられなかった。まさにこれから第二幕の始まりである。自立した沖縄が自らの足でどちらに向かって歩き出すのか? 米軍基地を残したままで次のステップは何か? 外交権と防衛権を手中にして日本からの独立に向かうのか、茜知事のこれからのリーダーシップに注目が集まる。自立した新生沖縄を率いる茜知事に対する期待と彼女なら決して我々を裏切らないという人々の強い信頼感が知事と県民を結びつける原動力になっている。これからの沖縄をどう舵取りしていくのか、その責任の重大さと世間の注目度の高さはこれからも変わらず続いていくものと思われた。

沖縄 その自立・独立の歩み(1)

沖縄 その自立・独立の歩み(1)

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-17

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