サイド・ストーリー

漠然と死の隣で過ごしていた青年の、再生の物語。

第一章
1(二〇〇四年)
隣のテーブルに座っている女の手の動きを目で追っているうちに、僕はすっかり夢中になってしまって、目の前の女に問い詰められている事などすっかり忘れていた。
目の前の女というのは、二年前から一緒に住んでいて、僕の生活費の全てを出してくれている。その間僕はセックスを提供してきた訳だけど、どうやらそれだけでは満足出来ずに、心まで欲しいらしい。さっきから僕の行動を詮索してくる。

「だから何処に泊まったの?私が夜勤を終えてマンションに帰った日の朝よ」
「一昨日だろ?沖ちゃんの家に居たんだ。ヒロミの帰りが遅くなるって言ったら、うちにおいでって言うからさ」
「最初、コンビニに行っていたって言ってたわよね?どうして嘘をつくの」
「ヒロミが心配するからさ。だから」
「沖ちゃんと寝たの?」
「寝てないよ」
「寝たでしょ」
「寝てない」
「沖ちゃん。ケンと寝たって言っているわよ」
「寝てない。たとえ寝たとしても、心まで奪われてない」

隣のテーブルに座っている手の綺麗な女は、銀色に光る指輪を窮屈そうに回しながら、こちらに視線を投げかけたりしている。

「どうして誰とでも寝るの?」
「誰とでも寝たりしない。ちゃんと選んでいる」
「お金、貰ったでしょ。沖ちゃんにお金貰ったでしょ。幾らで寝たのよ」
「寝てないし、お金も貰っていない」
「私、知っているのよ。ケンがどういう男か知っているのよ」
「知らないよ。ヒロミは僕のことなんか、何も解っていない。だいたいさあ、僕が沖ちゃんとやった日の朝、ヒロミはその洗ってないペニスを美味しそうにしゃぶっていたじゃん。僕がやった後、ペニスを洗わない事も知らないだろ。おまえは僕の何を知っているって言うんだよ」
女は悲鳴を上げた。僕はその場を立ち去った。後ろから何か聞こえる。でも、僕は何の興味も抱けなかった。

僕はスターバックスをあとにすると、沖ちゃんの務めている病院に向った。そしてロビーに座ってナースセンターをずっと見ていた。
僕が所有している唯一の有益な物。膨大で自由な時間。
二時間を少し過ぎたところで沖ちゃんが出て来た。
「沖ちゃん。昨日の分」僕は手を差し出した。沖ちゃんはいつもと変わらない表情で、僕を見た。
「こんなところに来るなんて反則よ。それに給料日に渡すって言ったじゃない」沖ちゃんの顔は笑っているが目は怒っている。
「そっちがルールを破ったんだ。僕が守る義理はないだろ」
「何の話?」
「ヒロミにあの事、言っただろ?」
「言ってないわ」
「あいつ知ってたぞ」
「誓って言ってない。ヒロミ先生には何も言ってない。ただ……」
「ただ?」
「ただ、立山さんには言ったかも」
「立山さんは、ヒロミの部下だろ。何て言ったんだ?」
「美味しかったって。言ったのはそれだけよ」
「それを何処で言ったんだよ。ヒロミの部屋と立山さんの部屋は内線で繋がっているぞ」
沖ちゃんは「あっ!」と言って口に手を当てた。
彼女は奇麗だけど、思慮が浅い。今年で二十九歳になるらしいが、こんな女が看護師としてやっていける、この病院が少し心配になった。

家、と言ってもヒロミのだけれど、帰るとヒロミがリビングのソファーで横になっていた。真っ白な三人掛けのソファー。四人はゆっくりと座れる手の込んだデザインのテーブル。そして五十インチの薄型のテレビ。それらがゆったりと配置できるだけの広さがあるリビング。そして、ダブルベッドとドレッサーとマッサージチェアがこれまたゆっくりと配置できるだけの広さのある寝室。そして、以前は納戸として使っていた小さな部屋。
それが僕の部屋だ。

ヒロミと初めて会ったのは二年半前。僕が二十二歳の時だ。医者ばかり集まる会合の後、ヒロミと立山は、僕がバイトをしているバーにやってきた。
「Jに紹介された」
立山はヒロミの座るテーブルを離れ、僕の居るカウンターに来るなりそう言うと、もと居たテーブル、と言うよりはヒロミを気にしながら、何度も振り返った。店の中は混んでいて、立山の座って居た椅子だけが、雑踏に取り残された子犬みたいに孤独だった。
「何処から来た?」と僕は聞いた。
「カトマンズ」と立山は用心深く答えた。
「トンネルは?」
「ねずみの通り道」
僕は笑った。立山もほっとした顔をした。僕はふきかけのグラスをカウンターに置くと「ようこそ」と言った。
立山は医者らしいが、決してそうは見えなかった。軽薄で、奥行きのない人間に見えた。もっとも、奥行きのない人間なんてこの世には一人もいない、とも思う。立山の事を本気で愛している女だっているはずだ。その女にとって立山は、軽薄という言葉から最も遠い存在なのかもしれない。

「金を払えば誰とでも寝るって本当か」立山はそう言う事で得でもするかのように、嬉しそうな顔をした。
「そうですね。誰とでも寝ますよ。たとえあなたとでも」
「噂は本当だな」と言って、立山は声を上げて笑った。
僕は立山に買われた。良い条件だった。立山の指定したホテルの部屋に入ると、中にヒロミが居た。そういう事かと思った。立山は医者でありながら、仲介屋でもあるらしい。

立山が仲介をしたのは一度ではなかった。これを機会に何人かの女が僕のいるバーに来て、僕は立山から金を貰って、その女と寝た。女は金を立山に支払ったが、立山がいくらピンハネしているかは解らなかったし、特に知りたいとも思わなかった。しかしその仲介関係も、ヒロミが僕を独占すると宣言すると、終わりを向かえた。どういう師弟関係かはわからないが、立山はヒロミにだけには逆らえないらしい。
   ◇   ◇   ◇
沖ちゃんは、そういう意味では久しぶりの客だった。立山はヒロミを恐れて仲介こそしなかったが、僕を金さえ払えば誰とでも寝る男として、沖ちゃんに紹介した。沖ちゃんは直接僕に話を持ちかけて、僕は沖ちゃんの要求を全て満たした。そしてヒロミがそれを知った。何らかの方法で。
   ◇   ◇   ◇

「洗ってないペニスの話しは冗談だから」と、僕はソファーに向かって言った。
「解っているわ。沖ちゃんと寝るの、初めてだったんでしょ」ヒロミは天井を見つめたまま、ぼんやりとした声で応えた。僕は天井の声が反射してくるのを待って、「ああ」と言ってうなずいた。
時々僕は無性に、女を傷つけたくなる。完膚なまでに、立ち上がれないくらい、徹底的に。そうやって僕は辛うじて世界とつながる事が出来た。

「こっちへ来て」とヒロミが言う。ソファーの上から、乱れた髪で。潤んだ瞳が僕を見ている。体だけでなく、心までいかれている。僕がソファーに座ると腕を首に絡み付けてくる。
ヒロミが顔を近づけると、寝起きのにおいがした。
「愛しているわ」と、ヒロミは眠そうな声で言う。そして僕の唇を求めてくる。僕はそれを受け入れる。もう一度「愛しているわ」という声が僕の耳に届く。その言葉は、僕の心の何処かに嫌な角度で突き刺さる。それは次第に僕を混乱させる。胃の奥から、何か嫌な物が出て来くるのがわかる。全てを吐き出したらどんなに楽だろう、と思う。
ヒロミが僕の上に乗り、舌を絡めて来る。いつものように、ねっとりとしていつまでも終わらない。僕が小さな咳をすると、ヒロミは絡めるのを止め、僕を上から見下ろす。唾液の糸が、いつまでも二人の唇をつないでいる。やがてそれが切れると僕はヒロミを手繰り寄せ、耳元でささやく。
「これが終わったら、今月分をくれないか」
ヒロミの体が一瞬、硬直する。そして僕を哀れみながら見下ろす。
「あなた、心が壊れているの?」
僕はうなずく。そして天井の暗い場所に向かって話しかける。
「何処を探しても、僕の中からは何も出てこない」

2(二〇〇一年)
「上質で甘美で何処までも昇りつめて、果てても果てても欲しくなるセックスを与えられる事が、あなたの唯一の存在理由で存続理由よ」
そう教えてくれたJは僕に体を売ることを勧めてくれた。
僕はまだ二十歳そこらで(正確には二一歳だ)なのに全てを失ったと感じていて、何のより所もなく暮らしていて、だからJの言葉は一種の啓示に近くて、僕はそれにすがって、生きることにした。そしてJが初めての客となった。
Jは四十代半ばの既婚女性で、会社をいくつか経営していて、夫はアメリカ国籍を持つ黒人だった。
僕とJが寝たのは、ただの偶然に過ぎない。家賃滞納でアパートを追い出されて、朝まで飲んでいた店がたまたまJの店だっただけだ。僕はその日から果てしなく繰り返されたセックスの後に(それが何日後だったかは忘れてしまったが)Jに誘われた。
Jは全てが終わってシャワーを浴びてスーツに着替えると、僕に厚手の封筒を渡し「半年間はあなたを独占するわ」と言った。僕は奉公でもするみたいに半年間、Jのそばに居た。
半年が経つと、年季が明けたみたいに僕は開放され、Jの経営するバーで働き始めた。Jは僕の体を求めなくなった代わりに客の紹介を始めた。

最初の客、Jを勘定に入れれば二番目の客は男だった。名前はダダ。彼は男を捨てて女になったばかりの男だった。僕は無くなったペニスの辺りを愛撫しながらダダをオーガズムに導くと、金を受け取った。
何かが折れた気がしたけれど、気のせいのような気もした。Jに買われて半年も経つんだ。今更だと思った。
僕らはJが用意した、おそらく所有しているであろうタワーマンションの一室で会って、一つの夜を共に過ごした。そしていつの間にかダダは姿を消し、いつも僕は一人で朝を迎えた。ダダは寝起きの顔を他人に顔を見られる事は、肛門を見られるよりも恥ずべき事だと考えているようだった。
ダダ。変な名前。でも僕はその名前を割りと気に入っていた。
「もっと腰を上げて。ダダ、脚を広げて。力が入ってる。ダダ、もっとリラックスして。ダダ、ゆっくり息を吐いて。ダダ……」
Jが言っていたように、ダダは何度も果て、再び何度も昇りつめ、飽きることがなかった。
「ケン。どうして解るの?僕が今、一番欲しい場所が。僕さえ気が付かなかった場所さえ。ケン、あなたって天才よ。もっと触って。もっと入れて。僕の色んな場所を色んな角度で。色んな物を使って。ケン、僕をもっと遠くへ運んで」(ダダはおかまなのに自分の事を僕と呼んでいて、僕は最後まで抵抗があった)
そうかもしれないと思った。僕には理解できた。ダダが何を求めているのか。どうして欲しいのか。どうすれば、オーガズムへ導くことが出来るのか。その最短距離が。

Jを除くと二番目の客は女だった。結婚しているがまだ若い。身なりは良く、経済的には何の問題もなく、豊かに暮らしている女性。
僕は一目見て、彼女がMであることがわかった。しかも並大抵の、半端ではないドM。驚くべき事に、幸か不幸かそんな自分の資質に、彼女は全くと言って良いほど気が付いて無かった。
だから僕が、初めて彼女を殴った時に、彼女は自分の身に何が起こったのか、全く理解出来ていない様子で、驚いて苦痛で顔を歪めた。僕はうな垂れた彼女の身体を抱き締め、髪をなで、頬を撫で、瞼にキスをした。彼女は潤んだ瞳を閉じた。
僕が再び手を振り上げ、まだあどけなさの残る頬を打つと、彼女は仰向けに倒れ、白くて小さな背中はえびぞりになった。そして何度も、ごめんなさいと言った。彼女はガタガタと震えながらも、下半身はシーツがびっしょりになるくらい濡れていた。
次に会ったとき、彼女は僕の奴隷となった。タワーマンションのクロゼットには、ロープや手錠や首輪、鞭、ロウソク、アイマスク、バイブやローター、ボンテージや口かせで見る見るうちに一杯になった。僕が部屋のドアを開けた瞬間から僕が出て行くまでの間、僕はあらゆる手を尽くし、彼女を違う世界に導いた。彼女がいつも居る場所と全く違う場所へ。

Jは他にも何人かの豊かで個性的な客を紹介してくれたが、大抵はごく普通のセックスを好む、ノーマルと言われている人達だった。だけど、性癖というのはどんな人にでも、ある。
定期的に多くの人と多く交わるとそれがよく解る。それは、密かに何処かに潜んでいる。
後ろからでなくてはイケないハル。
明かりを点けていないことには濡れないナツ。
乳首を攻められることのみに、喜びを感じるアキ。
誰かの視線を感じないことには興奮しないフユ。

僕は、丹念にウイークポイントを責めた。そういうものを発掘する才能が僕にはあった。きっと神様が用意してくれた最後の僕の生きる術、なのだろう。
僕は多くの人と交わった。体と体とを擦り合わせ、泥のように。どちらの所有物かわからなくなるくらい強く、擦れて無くなってしまう位に激しく。 そしてJから開放されて半年後、Jの紹介で立山が店にやってきたのだ。
   ◇   ◇   ◇
Jの客とJのタワーマンションの部屋以外で会うのは初めてだった。
立山の顔も性別も知らされていなかった。教えてもらっていたのは、苗字と子供じみた合言葉だけだ。(カトマンズとねずみの通り道だ)
立山もまた僕に客を紹介した。Jと同じように定期的に。ただ、Jとは何かが違っていた。セックスをする場所が違っただけではなかった。(立山の客はいつも自分で行為に及ぶ場所を提供した)
Jの客は限定的だった。または洗練されていた。求めているものが明確だったし、それが僕には手に取るように解った。僕らはそれらを、丹念に舐めつくし、無くなるまで貪った。そして後にぼんやりとした満足感と報酬以外、何も残らなかった。僕らは限定された部屋の空間でのみ交わった。部屋の外で、個人的に会う事は無かった。またその必要も無かった。
そういう意味で立山の客は、大衆的だった。デパートの中を無目的に歩き、あらゆる店に入り何も買わずに出て行く客に等しかった。そして生活の延長線上に交わる行為があった。境界線が曖昧で、油断すると僕の領域に入ってきた。
立山が紹介する客の中で、ヒロミは最も個性的だった。変態で金持ちで、能力の高い医者でもあった。会う度に、僕にあらゆる性的快楽を要求した。僕はひとつひとつ、問題を解くみたいにクリアしていった。ヒロミの要求は留まる事を知らなかった。僕らは色んな場所で交じり合った。ホテルのバスルームで、ベランダで、そして屋上で。屋外でもした。車の中、公衆便所、Jの店の閉店後の床の上。僕達は薬を打ち合い、色んなネバネバした液体と共に混ざり合った。何度も、何度も。
或る日「愛している」とヒロミが言った。快楽と薬で意識が朦朧とする中、心を震わせるような声だった。僕も「愛している」と言った。でもそれはただの言葉だった。何処を探しても心なんて見つけることは出来なかった。
そしてその日、ヒロミは最も大衆的な客の一人となった。
   ◇   ◇   ◇
ヒロミとの関係が始まって半年後、僕はJに呼び出された。Jが所有し、Jの客といつも職業的セックスで使用していたタワーマンションに。
Jは部屋に入って来るなり、僕を抱きしめ、しばらくの間僕の胸に顔を埋めた。僕はJの細い身体を抱いた。細いけれど全てを包み込み全てを拒絶する強さが彼女にはあった。だけどそれが、今日は感じられなかった。Jは僕をソファーに座らせ、自分も向い側に座ると、「いつから立山と組むようになったの?」と言って僕を責めた。
「ケンに立山を紹介したのは間違いだった。あいつはあなたから搾取しているわ。私はそんな事はしない。私はあなたに目をかけてきたつもりよ。私はあなたをずっと見て来た。ずっと。ずっとよ。ケン。もっとあなたを知りたいの。何処にもいかないで。誰とも組まないで。ヒロミという女が来たわ。あたなを欲しいと言っていた。断ったわ。もちろん。あなたを誰にも渡しはしない。あなたが欲しいの。全てを見ていたい。記憶に刻みたいのよ。どんな行為でも。ケン」
Jの責めるような眼差しはやがて、懇願へと変わっていった。Jは僕に心を求めていた。でも、J。それは間違った行為だ。僕らの間で、そんなことをしてはいけない。それはルール違反だ。J。それは最初から決められていた暗黙のルールだったはずだ。Jの乾いた唇。目じりのしわ。潤いを無くした手。ギラギラ光るダイアモンドがそれを悲しくさせた。かつては気品に満ちていた。もしかしたら、ここから抜け出せるかもしれないと期待した。勘違い?ただの暇と金を持て余した寂しいだけの女。
「だから、カメラを仕込んだのか?」
僕は、聞くつもりのない言葉を口にした。どうだっていいんだ。そんな事。でも、出てしまった。
「知っていたの?」
Jのうろたえた声。こんなJを初めてみた。そして見たくはなかった。いつもよりずっと老けて見えた。

ここのドアを決して開けてはいけないと、Jから再三念を押されていた部屋(僕は、その台詞を聞くたびに鶴の恩返しの事を思い出した)のドアを蹴破って中に入ると、画面を四分割した二台のモニターがいくつかの部屋を写していた。
画面の中にはうなだれたJの姿があった。そしてベッドルーム(そこには暗視カメラが備え付けてあった)バスルーム、トイレに全部で八台のカメラが設置されていて、二台の録画機がその全てを記録していた。
ここでJは僕たちが帰った後に、ひとりでオナニーにふけっていたのだろう。もしくは、先に部屋に入って、リアルに見ていたのかもしれない。気が付くとJは僕の後ろに居て、全てを脱ぎ捨てていた。
一年ぶりに見るJの裸体。僕は小さく目をそらせた。
「あなたを見ることが好きだった。あなたが誰かと交わっているのを見ると嫉妬でおかしくなりそうだった。でも、それと同時にとても興奮した。セックスでは味わえないくらい激しく興奮して、深くイクの。この場所は、何物にも変えがたいものなの。お金じゃ買えない場所なの」
Jは僕にしがみ付いた。僕の服に手をかけ、だらしなく寄りかかり、ただの老女になった。僕はJの身体を押し退けた。その身体はとても軽くて、カラカラと音が出そうだった。  
「J。君は買ったんだよ。この部屋も、この機材も、僕も。僕は買われても平気だった。何も感じなかった。見られる事も平気だった。Jが見ている事は知っていたよ。その対価を僕はちゃんと貰っていた。それ以上でもそれ以下でもない。だから、僕達は上手くやっていけたんだ。僕が欲しかったものは……」何だって言うんだ?僕が欲しかったもの。期待していたもの。僕は、心なんて欲しくなかった。何も欲しくなかった。僕はただ、居場所さえあれば、それで良かった。

Jがただの老女になって一週間後、立山がやってきて、
「ヒロミがキミを独占したがっている」と僕に伝えた。提示された金額はたいしたものだった。
「他の女と寝ることは許されない」と立山は言った。独占すると言う事は、そういう事なのだ。しかしそれも悪くはないのかもしれない。僕はいささか、たくさんの道を走りすぎた。道を一つにすれば、僕が何処へ向っているのか、判るかもしれない。
僕はヒロミだけの物になった。でも収入も、飼われていると言う事実も、何も変わらなかった。

3(二〇〇四年)
ギラギラと輝くナイフが僕に向けられている。女は両手で握り締め、ガタガタと震えている。僕は恐怖を感じない。それにも増して望んでいる。真っすぐに、僕の胸を貫く事を。震えていた刃先が止まるとそれはゆっくりと僕の皮膚に届く。そして心臓に達する。胸に熱いものを感じる。
本当に感じるんだ。
僕はあふれ出る血を手でぬぐう。ねっとりとしたものが手にまとわりつく。そして、とてもホッとする。
そんな映像に僕は、ずっと捕らわれている。目が覚めると、僕はいつも右手で左の胸を確認する。服は乾いている。そして何も起こっていない事を知る。僕は何故起っていないのか、不思議に思う。
記憶をたどる。そしてそれが、夢だった事を知る。いつものことだ。いつも顔が見えない。いつもの事なのに僕は、夢と知るのに時間がかかる。それはリアルで生々しい。もしかしたらヒロミとやった薬の後遺症なのかもしれないと思う。

二日前の事を思い出している。沖ちゃんと寝て、それからヒロミに嘘をついた。「ヒロミ先生には絶対に黙っておいて」と沖ちゃんが言ったからだ。そして昨日、ヒロミがスタバで大声を上げた。しばらくは、いや、永遠にあの店にはいけない。まあ良いや、と思う。スタバなんてこの近くに何の脈略も無く何軒も在るんだ。一つくらい減っても、体制に影響はない。
沖ちゃんに病院で会った。ヒロミにばれたからだ。何故だろう?
今回は特別なんだ。季節はずれのイベントみたいなものだ。ちょっと興味があっただけ。深い意味はない。
僕はさらに思いだす。家に帰るとヒロミがいた。ソファーで寝ていた。ヒロミが僕を求めてきた。何度も。何度でも。僕達は夜遅くまで混ざり合った。そして今。僕は自分の部屋に居る事を知る。ヒロミの納戸として使われていた部屋。今は僕が使っている。机と本棚とベッド。それしかない。何故、真っ暗なのか思い出した。この部屋には窓が無いんだ。だからカーテンも無い。明かりを点ける。目が慣れるのに時間がかかる。机の上に剥き出しの現金が置いてある。
ヒロミに飼われている。それが今の僕だ。

沖ちゃんの給料日を待って、僕は久しぶりに外に出た。勿論、沖ちゃんに金を払ってもらう為だ。沖ちゃんは二階建ての木造賃貸アパートに住んでいる。いかにも、看護師的といえば看護師的だ。一人暮らし。二十九歳。独身。同世代の女性よりは多少給料が良い。でも贅沢は出来ない。都会で生活するには現金が欠かせないのだ。でも、依存していない。僕よりも数段立派だ。
沖ちゃんの部屋に上がると、一週間前に来たときよりも数段、散らかっていた。前回、僕らが一晩過ごしたときには綺麗に片付いていたのに。
修行僧みたいに、物に執着せず限りなくシンプルに部屋を使う人が居る。
沖ちゃんもその一人だと思っていた。でも、違う。全然違う。雑然として、というか散乱している。誰かが悪意に満ちて、壊したみたいに。
でも、きっとこれが本来の姿なのかもしれない。前回は僕を招き入れる為に、精一杯の努力をしてくれたのだ。まさか給料日当日に僕が来るとは思ってもいなかったのだろう。まさか僕が沖ちゃんの勤務のシフト表を手に入れているとは思わなかったのだろう。(僕はヒロミのパソコンのパスワードを知っている。そしてそれは僕の名前だ)
沖ちゃんは僕が来たことに驚きを隠せない様子で「とにかく上がって」と言って僕を部屋に引き入れた。
僕はソファーに座った。前回は沖ちゃんと二人でここに座って、僕はこの上で沖ちゃんを何度も絶頂に導いた。鏡には僕たち二人が繋がっているのが写っていて、それを二人でいやらしい言葉を使いながら、眺めた。接合部は色んな液体でギラギラしていて、入っているところを見て沖ちゃんは更に興奮して、それから潮を吹いた。
僕らは終わった後、ドライヤーでせっせと乾かした。ソファーが今も少しだけしみになっている。僕は鼻をつけて、においを嗅ごうとした時、沖ちゃんは僕の正面に立って、何かを差し出した。そして「お金、取りに来たんでしょ?」と言った。
僕はソファーから顔を上げた。茶封筒。今もあるんだ、と思いながら僕は中身を確認した。
「1,2,3,4,5枚。確かに。でも、沖ちゃん。単位が違っている。桁が一つ違うだろ」
沖ちゃんはちょっと困った顔をして、これから、くすくすと笑いながら
「だって、このまえ5枚だって言ったでしょ。手のひらを広げて。てっきり五千円だと思ったわ」と言った。
僕はため息をついた。つきながら言った。
「沖ちゃん。そんなわけ無いじゃん。僕はもともと乗り気じゃなかった。安い買い物じゃないとも伝えた。金をドブに捨てるようなものだって。でも、一度もイッた事がない。どうしてもイキたいって言うから請け負ったんだ。請負って意味わかるよね?成功報酬って事だよ。君は満足した。そうだろ?僕は受取る権利がある」沖ちゃんは小さなため息をつきながら横を向いた。
なんてレベルの低い会話なんだろう。解っている。金だって本当はどうだっていいんだ。金なら持っている。うんざりするほどある。持っているやつらから取れば良いんだ。そんな事は解りきっている。
でも、これは筋の問題だ。約束は守るべきものだ。
「解っているわ。でも無いの。今は無いの。必ず払うから、今日は帰って。すぐに……」沖ちゃんの声が急に消えた。フリーズしたみたいに。顔や口や身体が硬直している。真っ直ぐに玄関の方を向いている。そして固まっている。僕は嫌な視線を感じて振り返った。
若い男が立っていた。小柄で短髪でエネルギーが有り余っている。今にも吠えて噛み付きそうなくらい前傾姿勢で僕を、にらんでいる。
「誰だ。てめえ!」男は開口一番そう言った。低い声だった。でも見るからに僕のほうが年上だ。てめえは無いだろうと思った。一応、初対面なんだから。
「孝子。誰だ?こいつ」
今度は僕をまるで、この場に居ないかのように無視して沖ちゃんに向かって叫んだ。沖ちゃんは孝子って言うんだ、と思った。
沖孝子。悪い名前じゃない。
「なんだ、おまえ。まだ持ってんじゃんかよ」凄い巻き舌。イタリア映画みたいだ。僕には、真似できない。僕は色んなものが、欠けている。
男はテーブルの上にある5枚の千円札を見つけた。封筒から札がはみ出している。男は土足で家の中に上がりこみ、テーブルの上の封筒をわしづかみにして、ズボンのポケットにねじ込んだ。そしてしばらく部屋を物色すると
「やっぱりここか」と言いながら携帯電話を拾い上げ、それもポケットに入れた。
なんだ。忘れ物か、と思った。どうやらこの男はさっきまでここに居たらしい。そして僕と入れ違いに出て行き、再び、偶然、あるいは必然的に戻ってきた。男は部屋を熊みたいに右往左往して他に金目の物は無いか見て周り、最後に本棚を一蹴りすると、本をばらばらにして出て行った。あとにはうなだれた沖ちゃんと無関係な僕だけが残った。

「すごいね」僕はしばらくして、声をかけた。他に思いつかなかった。こんなときに気の利いた台詞なんて、思いつけない。慰めると言うのともちょっと違う気がした。これは個人的な二人の問題なんだ。
「なんだか、かっこ悪いわね。私」床に座ってうなだれていた沖ちゃんは、照れくさそうに笑った。
「確かにかっこ悪い。でも、元気の良い少年だ」僕はいつも、適当な言葉が出てこない。
「彼、まだ若いのよ。ごめんね。口の利き方知らなくて。音楽やってるんだけど、なかなかね。才能はあると思うんだけど」
「彼の事が好きなんだ?」僕が聞くと、沖ちゃんは首を横に振った。
「最初はね、とても好きだったわ。はじめてなの。人を好きになったのって。この歳で変だけど、こんなにありありと、くっきりと、人を好きになったのって、はじめて。今もね、好きよ。以前と変わらないくらい。でもね、一方でもう駄目かなって思うの。私がいるとあの子、駄目になるんじゃないかって。それにね、私も抜け出せなくなるんじゃないかって。お互いに依存しあっているの」
「金、貸してるんだ」僕はまたどうでも良い事を聞いている。
「いいえ。貢いでいるのよ」沖ちゃんは、とてもハッキリとした口調で答えた。そして続けた。
「収入、無い人だから。時々ああやって……来るの。知っているのよ。私が離れられないって。あの人が書く詩がね、好きだったわ。寝る前に、読んでくれたの。私が眠りに付くまで。本当は優しい子なのよ。私が駄目にした気がする」そう言うと、彼を慈しむように、側にあったテディーベアを抱き上げた。

「どうして僕を買ったんだ?」
テディーベアは目が一つしか無かった。
「そうね。あんな事、するべきじゃなかったのかもしれない。でもね、抜け出したかったのよ。こんな生活から。自分を汚してみたかったのかな?違うわね。ぐちゃぐちゃになって、そしてフラットになりたかった。別の世界に身を置いてみたかった」
「それは成功した?」
「ええ。自分が想像していた以上に効果があったわ。私ね、前にも言ったけど、イッた事がなかったの。セックスでオーガズムを感じた事が無かった。個人差があることは知っているわ。愛情と無関係な事も。でもあの人、最初は私を一生懸命、いかせようと努力してた。色んな物を使って。随分長い時間。でも、駄目だった。もうちょっとのところで閉じちゃうのよ。光は見えているの。あと少しなの。でも、あと一歩で、それは閉じられてしまうの。何かの象徴かしらね。あなたの話しを聞いたわ。立山さんから。どんな女でもいかせる事が出来るって。だからお願いしたの。
確かにあなたは私をいかせてくれた。何度も、何度も。何度も気を失いかけたわ。息をすることも出来なかった。光が見えたわ。今まで見ていた光。そしてその先に行くことが出来た。別の場所に運んでくれたわ。
今でも彼の事が好き。だけど私の中で確実に何かが変わったわ。それが実感出来る。今なら、別れられそうな気がする」
「彼に言うんだね」
「言うわ。全てを。その事であなたに迷惑がかかっても構わない?」
「ああ。どうせ僕には失くすものなんて何もない。好きなだけ、口実に使って、構わないよ」
「ケン。あなたって、意外と良い人ね。友達になれそうな気がする」
「残念ながら、友達は欲しくないんだ。欲しいのは、僕が欲しいのは、金だけだ」
沖ちゃんは、ちょっと笑った。そしてその後に、寂しそうな顔をした。僕は冷たい人間なんだ、と思った。何処かで無くしたんだ。心を。
それが何時何処でなのか、僕は自覚している。

「お金、来週取りに来て。必ず、用意しておくわ」
沖ちゃんは最後にそう言うと、僕をアパートの下まで見送ってくれた。夕陽が薄い雲を赤紫に染めていた。
次の週、僕はスキップしながら階段を上り、沖ちゃんの玄関のドアをノックしていると、後ろから誰かに刺された。僕は頬に冷たいスチールのドアを感じながら、夢の続きを見ている気がした。

第二章

匂いが僕を誘う。
人工的なものと、野生的で生命力の溢れるものが入り混じったような、香り。それは僕の鼻腔に侵入し、ちょっとだけ留まり、すぐに何処へ出て行ってしまった。僕は追いかけるみたいに、目を開けた。
目の前に、大人の女性が居た。見たことは無い。綺麗な人。僕の顔の何処かを、じっと見ていた。目が合うと、何かが何処かに触れ、僕の心の中に入ってきた。
彼女は僕の意識の覚醒に気が付くと、座っていた椅子から立ち上がり、僕の枕もとにあるナースコールを押した。彼女の服が僕の頬に少しだけ触れた。再び彼女の香りが僕の鼻腔に侵入し、前とは比べ物にならない位、満たした。

沖ちゃんがやってきた。当たり前のことだけど白衣を着ていた。僕は、意識の沼にはまり込んでしまったみたいに思考が先に進まなかった。そして進むべき道も見つからなかった。
進むべき道。いったい僕に何があるというのだろう?
沖ちゃんは泣いていた。でもそれが何故かは、解らない。両手を顔の前で合わせ、何かを喋っている。声が聞こえる。でも理解できない。先ほど僕の鼻腔を満たした香りは、もう何処かへ行ってしまった。彼女の姿は、何処にも見当たらない。僕はその香りを欲しいと思いながら、背中から来る鋭い痛みを感じ始めた。
そうだ、と思った。そうだ。僕は誰かに、後ろから刺されたんだ。

沖ちゃんが姿を消したすぐ後に、他の看護師を伴って、ヒロミがやってきた。僕の身体に触れ、事務的な診断をしながら、でも目には涙をため、終わると事務的な手付きでカーテンを閉じた。
少し経ってまたカーテンが開く。ヒロミが今度は一人で入って来る。そして涙をこぼしながら僕の頬に手を当てる。
「良かった」と言いながらキスをする。
僕はされるがまま、身動きが出来ない。身体を動かそうとすると鋭い痛みが背中に走る。痛みに耐えながら僕は、あれは誰だったのだろう、と思う。僕の意識の覚醒の瞬間に立ち会った女性。段々と記憶に自信が無くなってくる。でもまだ、香りの記憶が残っている。それは僕の鼻腔に張り付いている。
大きく息を吸う。
再び痛みが走る。
でも、僕は感じる。
匂い。
僕は思い出す。
顔。
僕は必死で繋ぎとめようとする。

ヒロミは僕の胸に顔を埋めている。いつものヒロミとは違う匂いがする。病院独特のすえた、消毒の匂い。それを隠すためにヒロミは大量の香水のコレクションを持っている。僕はヒロミの重さを感じながら再び眠りにつく。
それが今出来る、精一杯の抵抗だった。

何日かが、無為のうちに過ぎて行った。刑事が来て、僕に幾つか質問をした。僕を刺したのは、沖ちゃんの男だった。当たり前すぎて、ちょっと笑ってしまった。刑事に不審がられた。でも、それで終わり。その後は、何も無かった。

その日の午後、怖いくらい真っ青な空を見ていると、沖ちゃんが僕の病室に音も無く入ってきた。
「ごめんなさい」と沖ちゃんは言った。
「いいんだ」と僕は言った。
本当に良かった。僕だって犯罪ぎりぎりの事をやっているんだ。胸を張って生きている立場には、いない。
それに僕は、と思う。声に出して言ってみる。
「それに、僕は・・・」
でも、そこから言葉が続かない。何かが、有る。そして、先へ進めない。

沖ちゃんは僕の目を覗き込む。沖ちゃんの瞳に僕が写っている。抜け殻のような僕。やがて沖ちゃんは、彼との顛末を話しはじめる。彼に出来なくて、僕に出来た行為を、彼に告白した事。そして別れ話。彼は激昂し、暴れ、殴られ、行方がわからなくなってしまった。
沖ちゃんはその直後、僕と彼が会っていることを知らない。男が沖ちゃんに暴力を振るい向かった先は、僕のところだった。彼は律儀にも確かめようとしたんだ。沖ちゃんの言っていることが本当かどうか。
男は、ヒロミのマンションに居た僕を呼び出し、僕の胸倉をつかんだ。腕は怒りで震え、目には涙をためていた。
「本当のことを言え」と男は僕に向かって叫んだ。
相変わらず、言葉遣いを知らない男だった。僕は男の襟首を掴み、両手首を交差させ、男の首を締め上げた。そして気を失いかけたところで、男の下腹部を蹴り上げた。
鈍い感触がつま先に伝わる。男は前のめりに倒れ、アスファルトに顔をこすり付けた。僕を見上げる。瞳を潤ませて。僕は見下ろしながら、本当の事を全部教えてあげた。
どんな淫らな言葉を、沖ちゃんの耳に届けたのか。
どんな淫らな体位で、沖ちゃんを何度もイカせたのか。
「コツがあるんだ」と僕は言った。
「ひざまづいて教えを請うなら、教えてやる」とも。
男のうめき声。
僕はそれを背中に感じながら、自分の部屋に戻った。

僕はそんなどうでも良い事を思い出していた。沖ちゃんの話しは上の空だった。事の顛末。そんな事、どうでも良かった。
僕は沖ちゃんのアパートで交わした会話を思い出している。沖ちゃんが望んでいたもの。沖ちゃんがずっと見ていた光。その先にあるもの。
「フラットになりたいのよ」と、沖ちゃんは言った。「違う場所に運んで欲しい」とも。その先にある、まだ見ぬ世界。

今度は僕がその光を追いかけている。眩しさで目を細め、手をかざしながら、一歩一歩、光に向かって進む。僕は強い光に包まれて、何も見えない。やがて意識が身体を離れ、前へ前へと進み僕は何処かに放り出される。下半身が熱くなり、ドクドクと波打つ。僕を包んでいた光の束は徐々に収束し、ゆっくりと視界が広がる。そして僕は理解する。僕が本当に望んでいたもの。渇望していた、その先にある、心。
僕は、誰かに命を奪って欲しいと、心の底では、望んでいる。僕は今、はっきりと理解した。今まで歩いていた道は、死の淵だったのだと。

「いいんだ」と僕はもう一度言った。はっきりと、自ら言い聞かせるように。窓の外から、入道雲が怒った様に僕を見ていた。
夏、と思った。
「窓を開けてくれないか」と沖ちゃんに頼んだ。熱い風が部屋に流れ込んだ。
変化。
別れられない。それが沖ちゃんの結論だった。
「待つわ。いつまでも」そう言って、入ってきたときよりももっと静かに、そして軽やかに、沖ちゃんは出て行った。

僕は自分のペニスに触れてみた。射精の跡は無かった。僕は少しだけ悲しい気持ちになった。


病院の廊下はどうしてこんなに、無機質で殺風景なのだろうと思う。これじゃあ、傷は癒えても、心は癒えない。そんな事を考えながら、湿っぽい暗い廊下を車椅子に乗せられ、リハビリに向かっていると、正面からヒロミが歩いて来るのが見えた。
今更だが、ヒロミは長身である。170センチ。白衣を着たヒロミは、それはそれで、颯爽としていたが、僕はヒロミよりも幾分小柄な、ヒロミの横に居る女性に目が行った。彼女は病院に居る患者にありがちな、ピンクのフリースを着ていたが、誰よりも際立っていた。
更に二人は僕に近づいてくる。僕の車椅子を押している看護師は、一度だけ立山を通して抱いた事がある。彼女は不感症ではなかったが、その代わり処女だった。今では立派な母親になっている。仕事が速いのである。
「ヒロミ先生よ」処女は僕の耳元に息を吹きかけながら、嬉しそうにそう言うと僕の肩に手を置いた。
ヒロミはさっきから僕の存在を理解している。それなのに、無視している。ずっと隣を一緒に歩く女性との話しに夢中なふりをしている。
ポケットに手を突っ込んでいる。手を突っ込むためにあるポケット。それ以外に存在意義がない。
存在意義、と思う。僕の存在意義と存続理由。僕は今、それさえも失っている。勃起しない体になった事を、ヒロミは知らない。
やがてヒロミはゆっくりと視線を下に落とす。最初から決めていたみたいに。いや、たぶん決めていたのだろう。
三メートル手前に来るまでは、意地でも視線を下げまいと。

「Hello! stranger」最初に言葉を発したのは、ヒロミではなく隣の女性だった。クリアな発音。ナタリーポートマンの映画を思い出した。
「こちら、クミコさん。ケンの生還第一発見者。どうしても私、手が離せなくて、ちょっとの間、あなたの事を見てもらっていたの。そうしたら偶然、あなたが目を覚ましたのよ」
この香りだ。偶然じゃない。僕はこの香りを追いかけて目を覚ました。
「あなたの事は、ヒロミ先生から詳しく聞いているわ」クミコさんはそう言うと、澄んだ瞳を真っ直ぐに僕のほうに向けて微笑んだ。柔らかな微笑み。品があった。少なくとも、この暗くすえた死の匂いのする病院の廊下では一生かかっても巡り合うことが出来ないくらい、奇跡的な微笑みだった。でも、ヒロミはいったい何処まで僕らの関係を話しているのだろう?たぶん、全て。ヒロミはそういう女だ。
「二人はどういう関係?」
僕は他に聞くことが思いつかなかった。まさか、いったい何処まで喋ったんだと、ヒロミを問い詰める訳にもいかない。
「患者と主治医よ」ヒロミは、当たり前じゃないというような口調で答えた。
クミコさんは再び微笑んだ。微笑みながら
「最近はどっちが患者でどっちが主治医か解らなくなってきているけどね」
そう言って、ヒロミと顔を見合わせた。
「私達、同じ歳なのよ」とヒロミが言った。僕は、クミコさんの顔を見た。見ない訳にはいかなかった。
三十九歳、と思った。
クミコさんは実年齢よりもずっと若く見えたが、よく見ると目じりに小さなしわがあって微笑むとさらに広がった。
でも、と思う。
でも、美しい。
何かに惹かれるという経験を久しぶりにした気がする。理由も留保も無関係に、静かに、でも強く、理不尽に僕は惹かれた。
僕の中にいつの間にか、彼女の場所が出来た。それは僕に遠い昔にあった場所を思い出させた。そして何故か、少しだけ残酷な気持ちになった。好意と悪意が交錯して、どちらとも、いくら経っても消えてなくらなかった。

クミコさんと再会して数日が過ぎた。傷の痛みは癒え、車椅子を卒業した。僕はクミコさんの病室の前に一人で立っていた。相部屋だと思っていたけれど、意外にも個室だった。部屋の番号と一緒に名札がかかっていた。
久望子。良い名前だ。僕はまたひとつ、気に入ったものを見つけて、良い気分になれた。
部屋のドアをノックすると、久望子さんの声がした。中へ入るとベッドの上で書き物をしていた。便箋は真っ白で、まだ何も書かれていなかった。久望子さんは僕の顔を見ると小さく微笑んで、真っ白い便箋を裏返しにした。そして「随分良くなったみたいね」と言った。それから久望子さんはゆっくりとペンを置いて肩まである髪をかき上げた。顔色が良く、健康的だった。病院のベッドが似合わない人だと思った。
「邪魔だった?」と、僕は聞いた。
久望子さんは、感じのいい微笑を僕に返してくれた。
「暇なのよ。時間だけはたくさんあるわ。ケンと同じ。ケンと呼んで良いかしら?ヒロミがいつもそう呼んでいたから、うつっちゃって。実は既にヒロミとの会話では、私もそう呼んでいるの」
気さくな話し方だった。まるで、ずっと友達だったみたいな。
「良いよ。みんなそう呼んでいる。でもヒロミと、僕のどんな話しをしているんだい?」
僕が聞くと、久望子さんは声を上げて笑った。
「色々よ。色々」
「たとえば?」
「そうね、たとえば、あなたの女性関係とか」
軽くめまいがした。
「何処まで聞いているの?」
「わからないけど、全部だと思うわ」
「ひとつ言ってみて?」
「沖ちゃんの事とか」
「それはみんなが知っている」
「レアなやつ?」
「そう。誰も知らないような」
「J」
なるほど。簡潔で判りやすい。ただし、最悪だ。
「そこまで話しているんだ。全てに近いね」
僕は落胆の色を隠すのに精一杯だった。ちょっとだけ、会話が途切れた。
微妙な間。もしかしたら顔がこわばっていたのかもしれない。うつむくと、久望子さんと目が合った。
「ヒロミはおしゃべりじゃないわ。私が聞き上手なの。つい喋っちゃうのよ。たぶん」
的確なフォロー。親切なんだ。
「別に良いんだ。隠してる訳じゃないし。自慢してる訳でもないけどね」
「自慢にはなるんじゃない。いったい何人の女の子と寝たの?」
「さあね。数えたことはないよ。仕事だからね。それに、寝たのは女だけじゃない。男もオカマもゲイもSもMも。あらゆる人間が相手なんだ。でも、一貫しているのは、みんな病んでいる」
「病んでいない人なんていないわ」
「そう?久望子さんも?」
「ええ。大きく、病んでいる」
「どこか悪いようには見えないけど」
「人は見かけによらないものよ」
そう言うと久望子さんは目じりを細めて微笑んだ。チャーミング、だと思った。
「ところで誰に手紙を書いているの?」
と僕は聞いた。久望子さんはちょっと考えてから
「友達よ」と言った。
「古い友達。遠くに居る、長い間会っていない友達」
男?と聞こうとしたけど、止めておいた。まだ、多くの事を知りたくはなかった。僕にはたくさんの時間があり、久望子さんにもまた同じようにたくさんの時間があるのだから。

四度目に久望子さんに会った時は、一週間が過ぎていて、僕の中で久望子さんは一週間分、大きくなっていた。彼女は一人で、照りつける夏の日差しの中、病院内の芝生の上を歩いていた。
僕は廊下でそれを見かけ、しばらく様子を眺めていた。彼女は木陰にあるベンチに座り、芝生の何処か一点を見つめ、それに納得がいくと便箋を広げ、書き物を始めた。だけどそこからは何一つ進まなかった。視線は便箋と芝生の間を緩慢に行ったり来たりしていた。それは何かの修行のようにも見えたし、訓練のようにも見えた。時間はゆっくりと流れ続けた。じりじりと照り付ける熱い太陽は全てを許しているようだった。
僕は緑の中を歩き、彼女の隣に座った。良い香がした。いつか僕の鼻腔に入り込んだ香りだ。
久望子さんは僕に気が付き、また静かに便箋を伏せた。書きかけの便箋は真っ白なままだった。
「静かだね」と、僕は言った。
木の上では蝉が狂ったように鳴いていたけど僕はそう感じた。
「そうね。静かに感じるわ。地球の端っこに、取り残されたみたいに静か。いくら叫んでも、何処にも届かない静けさが、ここにはあるわ」
久望子さんは美しかった。夏の暑さで上気した顔が、美しさを一層押し上げていた。
「地球は丸いから、端っこは無い」と僕は言った。久望子さんは真っ直ぐに僕を見た。心を射抜くような視線だった。久望子さんのクールな声が僕に届いた。
「ケンって、意外と意地悪なのね」
僕らはお互いに顔を見合わせて静かに笑った。薄い唇から白い歯がこぼれた。
その歯は唾液できらきらと、光っていた。僕はその唾液が愛おしくて仕方なかった。欲しい、と思った。
能動的。良い傾向だった。僕は能動的に、彼女の中に入りたかった。彼女の柔らかい部分に、僕の固いものを、何度も入れ、汚し、仕事とは無関係に、ただ、犯したかった。
機会、と思った。そんな機会が巡ってくるのだろうか。そして僕はその時、男として回復しているのだろうか。
「男?」と、僕は聞いた。
久望子さんは、最初、何を聞かれたのか理解出来ない様子だった。
彼女は手元の便箋に目をやった。そして何も書かれていない、罫線だけの便箋を表にし、手のひらで優しくなぞった。彼女は緑の芝生に目をやった。そして遠い目をした。何処か遠いところを見ている。
過去。過去を見ている。
「そうよ。男」久望子さんはそう言うと、静かに立って、何処かへ行ってしまった。あとには暑くてうるさい夏だけが残った。


九月になっても、夏の暑さが衰えることはなかった。僕のペニスだけが、萎えたままだった。
僕は久望子さんの病室へ、足しげく通った。だけど、彼女が一人で居ることは一度も無かった。いつからか、久望子さんの病室は、患者と看護師のたまり場になっていた。いつもドアが開け放たれ、いつも、他の誰かが居た。
彼女の母親は、毎日見舞いに来ていて、午前中はずっと病室に居た。午後に顔を出すと、今度は父親が居た。僕は白旗を揚げながら、久望子さんの病室の前を素通りした。僕は彼らと、世間話が出来るほどまだ大人ではなかった。
ある日、僕は彼女が一人で居るのを見かけた。開かれた扉の向こうには、人の気配がなかった。
機会、と思った。奇跡とも。
久望子さんはベッドで横になっていて、目を瞑っていた。透き通るような寝顔だった。僕はそのまま引き寄せられて、顔をずっと見ていた。それは、見る角度によって、表情が変わった。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
唇は無防備だった。再び、機会と思った。
久望子さんの唇。でも性欲をそそるものではなかった。薄くて、乾いている。
でも、機会。あるいは、チャンス。
奪えば、それを僕の唇で覆えば、何かが変わるかもしれない。
啓示。あるいはインスピレーション。
僕は救いを求めている?
何かを期待している?
しかしその機会は、一瞬にして失われてしまった。久望子さんが目を覚ましたからだ。

「Hello! stranger」
久望子さんの寝起きの甘い声。僕と初めて交わした台詞。見知らぬ人。今でも久望子さんは僕の事を何も知らない。
「久しぶり。随分人気者なんだね」僕は皮肉を込めて言った。
でも、通用しなかった。
「そうでもないわ。みんな差し入れが目当てよ。母が毎日、山のように買ってくるから。それに、似たもの親子なのよ。母も人が好きで社交的なの。誰かと分かち合わずには居られないのよ」
的外れな答え。故意か無意識かわからない。
「何度か、逢いに来たんだ」僕は直球を投げた。
「そう。全然気が付かなかった。声をかけてくれたら良かったのに。父も母も歓迎したわ」
「残念ながら僕は、社交的じゃないんだ」
「そう?下半身は随分社交的なのにね」
そうかもしれない、と思った。でも、ひどい。決して間違いじゃないから、口には出さなかったけど。でもひどい。ちょっとだけ、傷付いた。
傷つくなんて、何年ぶりだろう?硬く閉ざした心。それが僕の生きる術だった。そうしないことには、生きて、生き続けてはいけなかった。でも、久望子さんは僕の閉ざした心をすり抜けて入ってきた。そして僕は、久望子さんを受け入れている。全面的に。
「明日、退院なんだ」と僕は言った。言いながら、僕は不思議な気持ちになった。僕は求めている。強く。
「退院の事は、知っていたわ。明日、私から会いに行くつもりだったけど」
僕は救われた気持ちになり、ほっとする。
「ヒロミから聞いたの?」
「そう。私の情報源は、全てヒロミよ。ヒロミはね、あなたの事が本当に好きなのね。毎日あなたの話しばかりよ」
「僕はただ、ヒロミに飼われているだけだよ。恋愛感情とは全く別のものだ」
「ヒロミは、そうは思っていないわ。きっかけはどうあれ、彼女はケンを愛している。形はどうあれ、深く愛しているわ」
「ヒロミの気持ちがどうあれ、僕の気持ちが左右されるものじゃない」
「確かに、そうね。世の中、そう単純に事は進まないわよね。でも、彼女の気持ちは純粋よ。その事をあなたは知るべきだわ。年上の忠告として」
「久望子さんは、経験豊富なんだね」
「恋愛経験は、あなたにかなわないわ。少なくともセックスをした人数では圧倒的にかなわない。でも、人の心を見抜けない点ではあなたよりも数段上よ。これは年上の忠告として聞いて欲しいの」
「人の心を見抜けないようには見えないけど」
「人は見かけにはよらないものよ。これも忠告の一つね。年上の」
「忠告が好きなんだね」
「あなたが心配なだけよ」
「心配してくれているんだ。もしかして僕の事が気になっている?」
「まさか。でも、可愛そうな人だとは思っているわ」
「可哀そう?それは僕の職業的なものかな?これでも僕は、今の職業に満足しているんだけどね。プライドを持ってやっているし、それなりの達成感もある。必要とされている職業だよ。誰にでも出来る仕事じゃない。ねえ、久望子さんが退院したらさ、僕と寝てみない?僕のやっている仕事を、知って欲しいんだ。久望子さんとだったら特別に無料にしとくよ。いままでとは別の場所につれていってやる」
「興味がないわ。セックスには興味がないの。経験も少なければイッた事もないけど、興味もないの」
「イッたことがない?それは残念だ。生きている意味が半減する。試してみようよ。世界が広がる。僕にまかせておきなよ」
「遠慮するわ。無料でも、嫌。お金をくれても、もちろん嫌よ」
「食わず嫌いなんだね」
「快楽よりも大切なものを知っているだけよ」
「それは愛、なんて言わないよな?」
「それは愛なんかじゃないわ。もっと具体的で手にとって触れられるものよ」
「そんなもの、有ったら見てみたいな」
「いつか見せてあげるわ。でも、今日は出て行って。疲れたわ」
久望子さんはそう言ったきり、遠くを見た。窓には夏の暑さがはりついていた。僕はただ、理解して欲しかっただけなのに、ここに居る理由を失ってしまった。出て行かなくてはならない。言い過ぎてしまったことを後悔した。でも仕方ない。取り返しはつかない。僕は出口へ向かおうとした。
出口。出て行くための扉。さよなら。でも、そこには知っている男が立っていた。二度と会うはずもない、会いたくもない、殺してしまいたいほど憎い男が、そこには、居た。

「どうして、お前がここに居るんだ。医者になるの、辞めたんじゃなかったのか?随分、探したんだぞ」
この男におまえ、などと呼ばれる筋合いはなかった。今でも憎しみは変わらない。ナイフがあったら刺し殺してしまいたい。全てはこの男のせいだ。僕の転落。この男さえ居なかったら、真央は今でも僕の恋人だったんだ。
出て行きたい。この場所から。でも、僕は足がすくんで動けなかった。僕は久望子さんを見た。彼女は僕の顔を見て、ゆっくりと視線を男に移した。
彼女は事もあろうに、微笑んでいた。今まで僕に見せたこともない、満面の笑み。
「永田教授、いつ帰国していらしたんですか?」久望子さんは、親しそうに話しかけた。
永田。僕の目の前で真央を奪った男。憎悪が加速する。でも僕はがたがたと震えているだけだった。

何処をどう帰ったのか、わからない。後ろから久望子さんの声が聞こえた気がしたけれど、それも今となっては自信がない。ふわふわとした記憶。とても曖昧で、漠然としている。
僕は病室で、ここでの最後の夜を過ごしていた。沖ちゃんの男の事を思い出した。哀れな男。僕に身も心も叩きのめされて、最後には犯罪者になった。刺し殺したい気持ちは、僕にもよく解る。でもやっぱりあの男には我慢が足りない。僕が受けた仕打ちは、あんなものじゃなかった。
真央の事を考えた。柔らかで暖かかった真央。僕の全てだった真央。でも、もういない。僕を裏切り、僕の心を引き裂いた。僕の目の前で。再び僕は、死の淵を歩き始めた。やがて淵の底からたくさんの手が伸びて来て、僕の足を掴んで離さなかった。
カーテンが揺れた。久望子さんが立っていた。暗闇の中、悲しい顔をして、僕を見下ろしている。久望子さんは側にあった椅子に腰を掛けた。そして僕の手を握った。僕は目を瞑った。久望子さんの手の感触が僕の手に伝わる。それは今までのどんな手よりも柔らかく、生命力に満ち溢れ、暖かだった。僕は小さく握り返した。気持ちが伝わった気がした。意識の流れは物理的なものなのかもしれない。
「大丈夫?ケン。昼間、顔を真っ青にして帰って行ったから、心配になって来たの。本当はもっと早く来たかったんだけど、あのあと、色んな人が来たから」
彼女の声は、夜に吸い込まれそうなくらい小さかったけれど、僕の中にしずしずと、入ってきた。
「永田とは知り合いなの?」僕の手は、少し汗ばみ始めた。
「知り合いって程ではないわ。ここへ来たばかりの頃、廊下ですれ違っただけ。でも、主治医でも、担当医でもないのに、病室へやってくるの。随分、しつこく誘われたわ。昼間のあなたみたいに。あんなに露骨じゃなかったけど」
「頼むから、一緒にしないでくれないか。あんな男と一緒にしないで欲しい」
「一緒にはしてないわ。人を見る目は養ったつもりだから」
彼女の瞳が僕を見ている。
「やつに、口説かれたんだ?」
「そうね。たぶん、そうだと思う。でも、それ以上は何もなかったわ。何も。ヒロミがガードしてくれたから。それからは、何もなし。それにね、そういうの、慣れているのよ。昔から。私って、見た目が綺麗でしょ」
「自覚しているんだ?」
「ええ。自覚しているわ。自分では嫌いなところばかりだけれど、男の人は、こんな顔に引かれるって自覚している。でも、実際の私と違うところを好きになられるのって、苦痛なのよ。見当違いもはなはだしいわ。まあ、本当に好きなのかは、怪しいところではあるんだけどね」
「どういう意味?」
「ちょっと見栄えがして、連れて歩いて、自慢したいだけなのよ。みんな。気持ちなんて、無いわ」
「たいした自信なんだね」
「自信ではないわ。事実なの。私にとっては悲しい事実。色んな人に、口説かれたわ。好きだって言われた。結婚して欲しいとも。でも、みんな、薄っぺらなのよ。真剣じゃないの。本当の私を、誰も見ようとはしなかった。私はただの、普通の心を持った普通の女の子だったのに。だから、気が付かなかったわ。色んな人が近寄って来たせいで。本当の私に気が付いて、そしてそこを真剣に好きになってくれて理解して、愛してくれた人を、私は見過ごしたの。解らなかった。見抜けなかった。取り返しが付かないことをした」
「それが、手紙を書こうとしている相手なんだね」
何かに当たった。久望子さんの心の奥底に深く隠されていた何かにコツリと僕の言葉が、当たった。そしてその音は、やがて久望子さんの優しい言葉になって返ってきた。
「そうよ。それが今、私が向き合っている人」

静かな夜に横たわる、小さな沈黙。僕らは始めて向き合えた気がした。少なくとも僕は、彼女と初めて対等に話しをしている。
「彼のことが好きなんだね?」と僕は聞いた。
「それはどうかしら」と久美子さんは応えた。そして、しばらくの沈黙の後、「解らないわ」と言った。そして
「それにもう、そんな段階ではない気もするし」と付け加えた。
「どういう段階?」
「最終段階よ」
「それはどういう意味?」
久望子さんは僕の質問には答えなかった。その代わり、握っていた手を離し、その手で僕の頬をそっと撫でた。柔らかい掌は温かで、僕の頬に伝わった。まるで子供を扱うみたいに、久望子さんは僕の頬や鼻や目を何度も撫でた。やがて僕の唇を親指の腹で触れた。再び僕らは目が合った。黒い瞳。僕の心の中を見ている。
「キスして」
上手く声にならなかった。でも、久望子さんにはちゃんと届いた。理解してくれた。彼女は小さく微笑んだ。そしてゆっくりと首を横に振って、駄目よと言った。たぶん、そう言ったと思う。声にならない声。
「ケン。あたなの話しを聞かせて。永田とあなたの間に何があったのか、知りたいの」
今度はちゃんと聞こえた。久望子さんの声。久望子さんが、永田と呼び捨てにした事だけで、僕は救われた。

久望子さんの手は、僕の唇を離れ、再び僕の頬を、ゆっくりと撫でた。つるつるした掌は、とても心地よかった。やがて僕の首筋や喉や、そして胸に手を当てた。鼓動が、久望子さんの手を通して僕に伝わった。自分の心臓の音を感じたのなんて、何年ぶりだろう?ゆっくりと、大きく、ドクドクと鳴っていた。
生きている、と思った。僕は生きている。死との境界線に居た。だけど、僕は今、確実に生きている。久望子さんの手。彼女もまた、確実に生きている。
「生きているわ」と、久望子さんは言った。それは僕に、生き続けて、と聞こえた。僕の危うい、生きるための希薄な力を、見透かされているようだった。
僕は胸の上にある久望子さんの手を取った。そして強く、握り締めた。生き続ける。それは正しい方向なんだ。彼女は僕を導こうとしている。救おうとしている。そして僕は、救われている。でも、その前に僕はけりをつけなくてはならない。彼女の言うとおり、僕は話さなくてはならない。黒い塊を全部、吐き出すために。
深夜、僕は語り始めた。久望子さんの手の温もりと生気と、微かに香る性欲を感じながら。

第三章
1(一九九八年)
六年前、僕は十八歳で高校生だった。父は開業医で、僕は後を継ぐために医学部を目指していた。毎日が勉強漬けだったけれど、特に苦痛じゃなかった。小学生からずっと塾通いだったし、中学からは柔道を始めて体力にも自信があった。それに、僕には同じ大学を目指している恋人が居た。
真央。
小柄で色白で、綺麗な女の子だった。僕らは同じ塾に通って、同じ図書館に行って、そして週末、僕の部屋でセックスをした。
処女と童貞。全てが初めてだった。これが正しいやり方なのか、さっぱり解らなかった。でも、幸せだった。真央に触れているだけで幸せだった。彼女の存在だけで、僕は医者になるプレッシャーを乗り越える事が出来た。彼女は僕の全てだった。彼女は僕の生きる理由でさえあった。

僕らは同じ私立大学の医学部に合格した。そして僕は、田舎を離れ、都会で一人暮らしを始めた。二LDKのマンション。入学当初は、週末に真央が泊まりに来た。しかし一ヶ月もすると、真央は寮を出て、僕のマンションに転がり込んだ。
同棲。僕らはいつも一緒だった。大学でも家でも。マンションの地下には合格祝いに父から買ってもらったオープンカーを停めていた。アルファ・ロメオ スパイダー。僕らはそれで色んなところをドライブした。歴史を創るみたいに、コツコツと。
彼女と一緒に居ることは、僕にとって空気を吸うようなものだった。どんなに長い時間一緒にいても飽きる事はなかった。けれど、絶対に必要な事だった。
僕らは色んな話しをした。小さかった頃の事も、将来の事も。僕は、真央と結婚するつもりだった。子供の名前まで決めていた。でも、結局のところ僕らは高い壁に囲まれた狭い世界で生きていたんだ。僕らしか住んでいない狭い国の中で。

2(二〇〇〇年)
転機が訪れたのは、三回生になる直前だった。春休みにちょっとした旅行に出かけた。ヨーロッパの小都市を巡るささやかな旅行だったけれど、それでも二十日間、留守にした。
僕らは久しぶりにマンションに戻った。メールボックスには大量の郵便物が入っていた。僕らはお互いのものを分け合ったけど、ほとんどが僕のものだった。真央のものは、美容室からの案内とレンタルビデオ店からの更新の葉書だけだった。
僕宛の中に、見慣れない封書があった。無機質な茶封筒で、不動産会社からのものだった。理由は全くわからなかった。見当も付かなかった。開封すると、督促状だった。家賃を滞納しており、これ以上待てないという内容だった。僕は一瞬、他の誰かの郵便を間違えて開封したのかと誤解した。名前を確認した。間違いはなかった。僕の名前だ。
家賃。僕は、これまで自分で支払った記憶がなかった。全て、実家の母に任せていた。僕の通帳には生活費のみが振り込まれ、面倒な手続き、たとえば、水道代だとか電気代だとかの引き落とし手続きは、母がやってくれていた。僕は毎月の生活費を銀行口座から引き出すだけで良かった。つまりどうしようもない、ボンボンだったんだ。
家賃が支払われていない。僕は銀行に行って記帳した。残高は千円にも満たない額だった。引き落とせるはずがなかった。
僕は実家に電話をした。変な話しだけれど、その事を思いつくのに随分時間がかかった。そして実家に電話をするのは、久しぶりの事だった。
平日の昼間。誰も出なかった。病院にもかけた。でも、繋がらなかった。
僕は真央の待つマンションに戻った。真央は新聞を広げていた。そして、その前でしゃがみこみ、呆然としていた。僕は真央の視線を追って、紙面に目を移した。
「倒産」の文字。そして父の病院の名前。新聞に自分の馴染みのある風景が載るというのは不思議な感覚だった。電話が繋がらないはずだ。僕は、妙に納得した。でもそのあとから、とてつもない不安が僕を襲った。事の重大さは僕の許容量を超えていた。どうして良いのか、わからなかった。大き過ぎる。遥かに。僕のちっぽけな力ではどうすることも出来なかった。
事態の把握。僕達が日本を留守にしていた二十日間で、僕は生活の土台の全てを失っていた。破産は過剰な設備投資によるものだった。僕には一切の支援というものがなくなってしまった。幸い、前期分の学費は既に振り込まれていた。取りあえずの猶予がある事がわかった。でもそれも僅かな期間だった。事は急がれていた。僕はマンションを解約し、小さな古いアパートに移った。そして、生まれて初めてアルバイトを探した。
家庭教師の口がいくつか見つかった。時間が空くと肉体労働もした。一晩中、倉庫に入って荷物を整理する仕事だった。単調できつい仕事だったけど、金になった。
真央もまた、アルバイトを始めた。サラリーマン相手にカウンター越しで接客する仕事だった。僕は真央の協力に感謝した。そしてこんな事に巻き込んでしまった事を申し訳ないと、心から思った。時間が出来ると、僕はその店に顔を出した。いつも客が溢れていた。僕は真央の顔を見ているだけで、心が安らいだ。離れていても、心は通っている。目と目が合うと、真央は僕だけの為の特別な笑顔を見せてくれた。それは真央が他の客に見せる、どんな社交辞令の笑顔よりも綺麗で真央の心が伝わってくるようだった。
でも、状況はひとつも変わらなかった。僕には相変わらず金が必要だった。半年後には、後期の授業料を支払わなくてはならない。私立大学の医学部の学費。学生が働いて支払う額を遥かに、超えていた。
僕らの生活にちょっとずつ、ずれが生じ始めた。僕に余裕というものが少しずつ失われていった。僕は金のことばかり考えるようになった。そして疲弊していった。次第に真央の店に顔を出すこともなくなった。
朝起きると、まだ真央は寝ていて、時々、酒の匂いがした。そして化粧も取らず、泥のように寝ていた。僕は朝の挨拶もしないまま、家を出ることが多くなった。やがて、僕らの生活は完全にすれ違いとなった。真央が家に帰らないこともあった。僕もまた一日、家に居ない事が多くなった。ずっとずっと、働き通しだった。そして、暑い夏がやってきた。長くて暑い、最後の夏休みが。

僕は焦っていた。授業料の支払いの期限まで残り僅かなのに、全く目処がたっていなかったからだ。夏休みが始まって、数日たった日の朝、僕は電話の音で目が覚めた。かけてきたのは、あまり親しくはないゼミの仲間からだった。良い話しがあるから、出てこないか、という誘いだった。金になる話しなんだとも言った。
一瞬躊躇したが、断る理由は何処にも見当たらなかった。僕は待ち合わせの場所に出かけて行った。友人は、大学の玄関で待っていた。僕が到着すると、友人は僕に対して無関心を装うようにして廊下を歩き出した。僕は仕方なく、あとをついていった。
ある部屋の前に来ると、友人は立ち止まった。そしてあごで僕に入るように指示した。冷たい目だった。感情というものが欠落していた。僕は仕方なく中へ入った。友人は付いてこなかった。静かにドアが閉められた。そして、中には男がいた。それが、永田だった。
当時の永田はまだ、僕が通う大学の准教授だった。それでも、本を出版したり、マスコミに顔を出したりしていてまずまずの有名人だった。僕でさえ、知っていた。また、雲の上の人でもあった。
そんな永田が僕に、どんな用事なのだろうと思った。本当に金の話しをするのだろうかとも、思った。永田は良く磨かれたシックな机に手を置き、イタリア人がデザインしたアルミフレームがむき出しの総革張りの椅子に深く腰掛け、僕にも座るように促した。僕は目の前にあったパイプ椅子に腰掛けた。

「君の事は良く知っている」と永田は太い落ち着いた声で切り出した。僕は永田の言葉を心の中で反芻した。僕と永田の間に、接点というものがまるで無かったからだ。そして父の病院の倒産の事を言っているんだと思った。僕は話しの続きを待った。
「ここで話すことは決して口外しないし、また、口外してもらっては困る」と言って、永田は一呼吸置き、僕に目で同意を求めた。僕は小さくうなづいた。
「近々、教授選がある。私は勝ちたい。どうしても勝ちたい。君も、私の事を少しくらいは知っているだろう。人気はあるがコネがない。コネがないと、上に行くのは難しい。君には金がない。そして金が必要だ。金がないと医者にはなれない。そこで相談だ。これから我々が話す事は、誰も知らない。どこにも、出ない。我々だけの秘密だ。先程の君の友人は、ただの使い走りだ。何も知らない。私もこういう立場だ。秘密は守る。君に頼み事がある。是非引き受けて欲しい」
永田のしゃべり方には抑揚がなかった。それがむしろリアルさを増した。僕はいつの間にか、何かの決断を迫られようとしていた。永田は続けた。
「女に会って欲しい。ただの女ではない。教授の奥方だ。今回の教授選において、要となる人物の一人だ。その奥方が君を気に入っている。向こうからの指名だ。財津教授。君も知っているだろう?」
「父の後輩です」と、僕は答えた。財津教授とは家族ぐるみで付き合っていた。大学に合格した後に、父と挨拶に行った。奥さんも知っていた。でも、これはあくまで印象だけれど、財津教授が教授選に影響力があるとは思えなかった。どちらかというと温厚な研究者タイプだったからだ。
「明日の夜、指定するホテルに出向いて欲しい。場所は明日、連絡する」
一方的だった。趣旨がわからなかった。秘密を共有しようと、永田は言う。でも、何が秘密なのか、さっぱりわからなかった。
「僕に、何をしろと言うのですか?」と、僕は聞いた。
「それは明日、説明する。今日、私がした君への依頼の件は誰にも喋るな。誰にも、だ。承知したら帰ってくれ。もうゲームは始まっている。断るんだったら、この場で、はっきりと断ってくれ」
僕は、承知した。それ以外に選択肢はなかった。最初から、そして最後まで主導権は永田にあったんだ。

次の日、僕は一日中家に居て、じりじりと電話を待った。何もしないことが、これほど苦痛だという事を始めて知った。僕はずっと走り続けてきた。小さな頃からずっとだ。暇であることは一度も無かった。常にプランがあった。真央との暮らしもそうだ。穏やかだった生活が二年間続いたけれど、そこにでさえも、予定がありプランがありするべきことがあり、そして実際に行われた。僕はそんなプランにそって行われた数々の出来事を思い出しながら、いつかかってくるかわからない永田からの電話を永遠に感じながら待ち続けた。
夕方になってようやく、永田から電話があった。永遠にも必ず終わりがある、と思った。
「六時にホテルのロビーに来てくれ」と、永田は言った。
あと、一時間しかなかった。僕に考える時間も迷う時間も無かった。そして、永田からの具体的な説明も無かった。僕は一着しか持っていないスーツに袖を通しながら、このスーツを着て財津教授の家に挨拶に行った時の事を思い出した。それはたった二年前の出来事だったけれど、永遠に昔に感じた。
ロビーでは永田が待っていた。そして僕を待合室のソファーに座らせて、隣に自分も座った。永田は内ポケットから、封筒を取り出した。無地の茶封筒で、ふっくらとした厚みがあった。
「これを夫人に渡してきて欲しい。大事な書類だ。落とすなよ。一〇一五号室だ」
それだけ言うと、永田は僕を立たせ、種馬に仕事をさせるみたいに、僕のしりを手でたたいた。
立ち位置を把握するには、情報が少なすぎた。教授選。財津夫人。ホテルの一室。中身の分からない書類。僕に何をしろというんだ。夫人が僕を指名したという。何故だ?
僕は予測もつかないまま、エレベーターに乗り込み、気がつくとドアの前に居た。
一〇一五号室。ノックをすると廊下の突き当りまで響いた。遠くに居たボーイがピクリと反応し、こちらを見たくて仕方の無いといった動作をした。訓練されていると、思った。見たくても、見ない。プロなのだ。僕はそんな無益な努力を強いた自分を少し責めながら返事を待った。カチャリという音がする頃には、僕の頭の中に不幸なボーイの姿はなかった。あるのは目の前にこれから繰り広げられるであろう、未知なる現実だけだった。

財津夫人は深紅のワンピースを着ていて首には大きな真珠のネックレスをしていた。僕は俯いたまま、顔を見ることが出来なかった。財津夫人は僕のスーツの襟に手で触れて
「良いスーツね」と言った。そして
「少しやせた?」と僕の目を覗き込むように言った。
「お久しぶりです」と僕が言うと財津夫人は僕の手を取って「さあ」と言いながら僕を部屋の奥へ招きいれた。そこには大きな白いソファーがあり、すぐ横には黒いシーツで覆われたダブルベッドがあった。どうして良いのか、全くわからなかった。
僕は促されるまま、ソファーに腰を掛けた。包まれるような、深みのあるソファーだった。夫人は僕の隣に腰を掛けた。夫人の重みで僕の身体は傾き、肩と肩が触れ合った。僕は身体の位置を修正しようとしたけれどソファーの深さがそれを拒んだ。夫人はもう一度「やせた?」と僕に聞いた。
「以前お会いしたのは、二年前ですよ」と僕が言うと、
「そうだったかしら」と夫人は言って、再び僕の目を覗き込んだ。そして
「お父様、大変だったわね」と付け足した。
触れている肩が熱かった。そしてとても弾力があった。無駄な肉がたくさん付いている。そんな感じだった。
「今日は、永田准教授に言われて来ました」と僕は言った。夫人の顔を見る事が出来ずに前を向いて喋った。夫人は僕のほうを向き
「知っているわ」と、言った。頬に視線が痛かった。
「私が頼んだの。あなたを使って届けるようにって。会いたかったのよ。とても。あの人の息子に」
僕は夫人の顔を見た。見ない訳にはいかなかった。どんな顔をして、喋っているのか。どんな顔をして、父のことをあの人なんて言っているのか。
僕は立ち上がった。内ポケットから封筒を取り出した。手が少し震えた。
「これを、渡すようにと言われました」僕は茶封筒を取り出した。夫人は僕の手を掴み、必要以上に僕の手に触れ、ゆっくりと封筒を受け取った。夫人は上目遣いでソファに座ったまま
「確かに」と言って、中身を確かめようともせずに「もう、行っても良いわよ」と、言った。
僕は逃げるようにして部屋を出た。さっきのボーイはもう居なかった。廊下は静まり返り、僕の混乱はどこにも反映されてはいなかった。

ぐったりと疲れて一階のロビーに降りると、永田が待っていた。永田は再び僕をソファーに座らせ、セカンドバックから茶封筒を取り出して
「今度は一一〇五号室だ」と言った。
僕は永田の言っている意味が解らなかった。
「今日、これからまた、誰かに会うんですか?」と聞くと
「あと三人に渡す。我々に残された時間は少ないんだ。効率的に動かなければならない」と、言って潜水艦の中に居る無慈悲な司令官のような顔をした。
僕は疲れた身体をふるい起こして、封筒を受け取り、内ポケットにねじ込んだ。エレベーターのドアは開いていたけど立ち上がるのに時間がかかった。
一一〇五室のドアをノックすると今度は見知らぬ女性が立っていた。うちの大学の教授夫人らしい。僕の顔を見ると、夫人は部屋の中に招き入れた。部屋の作りは、財津夫人の部屋と同じものだった。ソファーに座ると夫人は僕の対面に座った。
「お父様には、お世話になったのよ」と、初対面の夫人は言った。僕は、頭を下げて茶封筒を渡した。夫人は当たり前のように受け取り、すぐにバックにしまった。そして顔も見ずに
「お父様によろしく」と言って、夫人は立ち上がった。帰れ、という事なのだろう。僕はロビーに戻り、永田から新たな茶封筒を受け取った。そして次に行くべき部屋の番号を聞いた。
その後、二人の夫人に会ったが何れも似たようなものだった。でも、何故、父なのか、解らなかった。何故、父が、教授選に影響力があるのか。しかも、強く。僕の手にはますます負えなかった。永田の指示に従うだけで精一杯だった。疑問は降って沸いてきたが、それを深く掘り下げるだけの、体力が残っていなかった。僕は疲れていた。へとへとになった。最後の夫人の部屋を出ると、エレベーターでロビーに降りた。永田の姿は無かった。ボーイが僕の姿を見て、駆け寄ってきてメッセージを渡した。
「明日また、同じ時刻に同じ場所で」
僕は頭が混乱したけれど、それ以上考える事が出来なかった。ただ、父の事が気になって仕方がなかった。

次の日も同じようなものだった。
三人の夫人に、茶封筒を届けた。部屋番号と夫人の顔が違うだけだった。どの夫人も「お父様によろしく」と言った。まるでそれが、合言葉みたいに。何かで繋がっていた。でもその何かがわからなかった。
三日目も同じだった。三人目を終えてロビーに戻ると、永田が深々とソファーに腰を降ろして僕を待っていた。僕は永田の前に座って、次の指示を待った。永田は、笑っていた。これまでの険しい、どちらかというと不安を抱えているような表情とは一変していた。僕を確認すると、僕を真っ直ぐに見据え
「終わりだ。これで終わった」と言った。
「全部で十人ですね」と言うと、
「ああ」と言って、満足げにうなずいた。
手が込んでいた。何かの戦略があるはずだ。十人の女。そして父。線が繋がらない。情報が少なすぎる。でも、と思う。真実は必ずある。その先に。
「明日、君の取り分を渡す」と永田は言った。そして
「明日、同じ時間に一〇一五号室に来てくれ」と付け足した。
その報酬がどれだけのものか、僕には見当もつかなかった。

ホテルの廊下というものは、どうしてこんなに暗くて長いのだろうと思う。三日間の修行のような行為で得た感想は、その程度のものだった。でも、僕はこの陰鬱とした通路のドアの中に、様々なものを見た。そして実際に、様々な世界があるという事実を体験した。僕らの思惑以外にも、ここで繰り広げられている宿泊という目的以外のものが、たった今もうごめいている。僕にはそれらを感じる事が出来る。その淫らな息遣いを感じる。感じながら僕は、長く暗い湿っぽい廊下を歩き、指示のあった一〇一五号室のドアをノックした。陰鬱な廊下に音が響く。でも、その先は、ドアの向こう側はこの廊下とは全く別の世界だ。それがホテル。
それがホテルの存在理由で存続理由だ。
ドア越しに顔が見えた。それは永田ではなく、財津夫人だった。僕は、あまり驚かなかった。少しずつではあるが、ボールが的に当たりつつあった。
財津夫人は白いパイル地のガウンを着ていた。僕の顔を見るとにっこり笑って「いらっしゃい」と言った。そして、僕の手を取り、部屋の奥に招き入れた。前回と同じ部屋だ。何もかもが同じだ。唯一違うのは、テーブルの上にワインとチーズが乗っている。そしてグラスが二つ。空のものとそうでないもの。テーブルに赤い光を落としている。
僕はソファーに座った。白いソファーだ。財津夫人は僕の向かい側に座った。ハイバックのソファーに深々と背中を預け、脚を組んでいる。白い太ももが、そしてその奥が見え隠れする。僕は初めて夫人を女として意識した。夫人と言っても母よりも一回り年下だ。そして僕よりも一回り年上。
「今、一人でワインを飲んでいたの。仕事が上手く行ったから。とても上手く行ったわ。半分はあなたのお陰。どうしてだかわかる?」
そう言いながら夫人は空のグラスにワインを注いだ。
「僕が父の息子だからでしょ」と僕は言った。
夫人は波に出来る光のように笑って僕にワインを勧めた。僕はグラスを手に取った。良い香がした。グラス越しに夫人を見た。画像がゆがんで見える。それは夫人の心を映しているようでもあった。
「あなたを警告につかったの。あの人達に」
夫人はそう言うと赤い液体を口に含み、咀嚼してゆっくりと飲み込んだ。白いのどが波打ち、それは体内に注がれた。
「僕を脅しに使ったのですね」と、僕は言った。
もう一度、ワインを体内に注ごうとしていた夫人の手が止まった。グラスを口から離し、グラス越しに僕を見た。再び顔が歪んだ。笑っているように見える。そして実際に笑っていた。声を出して笑い始めた。
「ケン。やっぱりあなたは、あの人の息子ね」
夫人はそう言うと、赤い液体の入ったグラスを僕に傾けた。僕の白いシャツは流れるように紫色に染まった。夫人は立ち上がると僕の横に座った。そして
「私達の目的は同じなのよ」と言いながら、グラスを持った手を僕の首に廻しワインを口に含むとそれを僕の口に注ぎ込んだ。半分の液体は僕の体内に入り、残りの半分は僕の身体を伝い、ぼたぼたとソファーの上に落ちた。
夫人は僕の口から唇を離すと、テーブルにワイングラスを置き、今度は両腕を僕の首に絡みつけ、生暖かい舌を僕に注ぎ込み僕の奥まで入れてきた。僕は抵抗することも参加することもしなかった。夫人は執拗に貪り続けた。
僕の口に飽きると、僕の紫色に染まったシャツをむしり取り、僕の肩や胸に染み込んだワインを嘗めはじめた。やがてそれは僕の腹から下半身に移り、ズボンのファスナーを下ろすと僕のペニスをあらわにし、
「あの人とそっくりね」と言いながら、するすると、のどの奥までくわえ込んだ。僕は、勃起していた。そして、あっさりと今まで出したことがないくらい大量に射精した。夫人はそれらのものを全て体内に取り込むと、
「美味しいわ」と言って、手の甲で唇をぬぐった。そして
「気持ちよかった?」と僕に聞いた。
僕は直ぐ射精してしまったことで、夫人に逆らうことが出来なくなってしまった。それはまるで、抵抗していたのにいつのまにか後ろ手に縛られて身動きが取れなくなってしまったかのようだった。
「ケン。私達はパートナーになるの。あなたにはお金が必要。私には娯楽が必要。永田には権威が必要。上手くやっていけるわ。三日間であなたが配った封筒の中には、ある文書が入っているの。私達にはあの人達に貸しがあるのよ」
「私達って?」と僕は聞いた。
「私とあなたのお父様よ。これはちゃんと知っておいて欲しい。私とあなたのお父様とはかつて、心でも肉体でも繋がっていたの。シンプルに言うと愛人だった。色んな事情で別れてしまったけれど。もちろんあなたのお母様は知らない事よ。あなたの胸にしまっておいて欲しい。でも、知っておいて欲しいの。私とあなたの信頼関係の為に。あなたのお父様との関係は終わっている。二年前に。でも、まだ心は生きているのよ」
朝。夫人は僕の為に新しいシャツとスーツを取り寄せてくれた。そしてそれは、これからの僕の仕事着となった。
僕は、これからの作業を、一人でこなした。夫人からリストを受け取り、ホテルに教授夫人を呼び出した。受け取る額はあらかじめ夫人が決定し、それを僕が伝えた。日取りは、すぐに決まる時もあれば、何日もかかる場合もあった。右から左に動かせる額ではなかったからだ。僕はホテルに出向き、哀れな教授夫人達から現金を受け取り、最後に
「永田の事をよろしく」と伝えた。それぞれに、色んな反応があった。罵倒する者や泣き出す者まで居た。でも全員指定された金を払った。
僕は現金を女達の目の前で数え、それを夫人の元へ持ち帰った。その度に僕らはセックスをした。僕らは、同じホテルに部屋を取り、ベッドの上で金を数えると、札束をシーツの代わりにして交わった。夫人はいつも、違う体位や違うプレーを要求した。僕は真央の事が頭から離れなかった。僕のために夜遅くまで働いてくれている、真央。彼女がこのことを知ったらどんなに嘆き悲しむだろう。
父の事も気になった。かつて父が愛したであろう女を僕は抱いている。この女は今でも父を愛していて、女は父の身代わりに僕を求めている。真央を裏切っているし、倫理にも反している。
でも、それとは別に僕の中に、今までとは違う自分が生まれた。そしてその違う自分がやがて、僕の中で大半を占めるようになった。
淫らで欲望のままに振舞う僕は、段々と夫人にのめり込み、最初は夫人の指示だったものを自ら進んで行うようになった。僕は色々な技法やテクニックを身に付け、夫人を喜ばせた。そして夫人をイカせる事に、僕は更なる喜びを感じた。それは、今までに経験のない感覚だった。愛情のないセックス。欲だけに全てが支配されている。僕の世界観が変わろうとしていた。真央への愛は微塵も揺らがなかったが、その一方で僕は確実に変化していった。
父と夫人との関係は一連の取立てで、おぼろげに判った。一介の開業医が何処まで関与していたのかはわからない。だが、大学への医療器具の納入に父と夫人が絡んでいた。そしてリベートを受け取ったのが、リストに名を連ねた人達だった。彼らはかなりの額を、医療器具のメーカー、もしくは父から受け取っていた。その動かぬ証拠を夫人と永田が手に入れた。それが封筒の中身だ。
この一連の作業が終わる頃僕は、一年間の授業料の半分以上を手にしていた。夏休みは残り僅かだった。そんな折、僕は再び、永田から呼び出されて、真夏の大学の教室に居た。


永田は僕を目の前にして「君の働きには非常に満足している」と切り出した。
「君を使ったことで、これほどまでに効果があるとは我々も予想外だった」と、続けた。
「つまり僕が彼女達にとっては、リアルな証拠となったわけですね」と僕は言った。
永田は満足そうに「その通り」と言ってうなずいた。そして、「君のお陰だ。まったく女というのは欲深い。旦那達の慌てた顔が目に浮かぶ。お陰であとの作業が随分と遣りやすくなった」と続けた。
「やり方は別として、報酬には感謝しています。僕のほうこそ、予想以上でした」と僕は言った。
「でも、まだ、必要な額には届いていない」と永田は返した。
僕はうなずいた。
「もうひとつ、仕事がある。そして君にとっても私にとってもこれが、最後の仕事だ。この仕事が教授選における、鍵となる。君にも是非、協力して欲しい。君には、まとまった報酬を約束する。もう来年まで授業料の心配はしなくていい。思う存分、勉学に打ち込める。恋人にも迷惑をかけない」
永田の最後の言葉に僅かな違和感があった。ほんのささくれ程度の、気にも止めない程の違和感。でもその時は、達成感のほうが上回っていた。新たな目標。新たな仕事。まとまった報酬が約束されている。僕は彼らの秘密を握っている。いつでも心中できる。僕に失うものは何もない。だから、彼らは僕を裏切らない。そういう確信が何処かにあった。
「今度は何をしたら良いのですか?」僕は身を乗り出して聞いた。
「今からが本格的なショータイムだ」と言って、永田は説明を始めた。
僕は絶句した。それはあまりにも、僕の想像をかけ離れていたからだ。でも、もう後戻りは出来なかった。

一週間後の夜。それは始まった。場所は、そこを目的とする人以外、決して足を踏み入れないような狭いに路地に面したところで、暗くて狭い階段を地下に降りた一番奥のショーパブだった。そして、いささか本格的な、まだ幕の下ろされた薄暗い舞台の上に、僕は居た。
僕は固い椅子に全裸で座らされ、腕を後ろ手に、足は片方ずつ椅子の足に縛られていた。全く、微塵も身動きが取れなかった。縛るほうは、プロなのだ。最後に僕は、タイガーマスクのかぶりものを頭からすっぽりとかぶせられた。どんな哀れな姿なのか全くわからなかったけれど、想像するとぞっとした。

「顔は隠すから安心しろ」と、永田は言った。
「俺も参加するんだ」とも。
「観客は、老人ばかりだ。毎日が退屈な連中だ。金と暇はあるが、刺激がない。そういう連中が、ショーを楽しむんだ。一瞬の苦痛と羞恥心を我慢すれば良い。コツは、心を真っ白にする事だ」

僕が永田の台詞を思い出していると、大音響で曲が流れ始めた。古いブリティッシュロック。ライブエイドを提案した人物が率いたバンドだ。でも、名前が思い出せない。僕はいつの間にか一人になり、舞台袖に向かって座っていた。暗かった舞台にスポットライトが当たり、僕の影が床に色濃く落ちると、一気に幕が上がり、僕の姿が大勢の前にさらされた。客席の方から歓声が上がった。
僕の視界は、マスクを被っているので極端に狭くなっている。僕が横を向くと、客席が見えた。二十人前後の観客が、飲み食いをしながら僕を見ていた。僕は恐怖と羞恥心で、全身に鳥肌が立った。汗をかいているのに、寒さで震えた。
突然、耳の側で空気を切るような鋭い音がした。客席から舞台袖に目を移すと、ボンテージファッションに身を包んだ女が現れた。手に鞭を持っている。それを床に打ちつけながら僕に近づいてくると、いきなり僕の頬を打った。
観客はどよめくが、マスクをしているのでにぶい痛みでしかない。だけど僕の後ろに回り背中を打つと、今までに体験したことがない鋭い痛みが全身に走しり、身悶えた。更に女は、僕の全身をくまなく打ちつける。僕の身体には何本も赤い線が走り、交差した。
「哀愁のマンディ」
僕は突然思い出した。この音楽。ブームタウン・ラッツが歌っていた。アメリカで実際に起きた銃乱射事件を歌った。撃ったのは女子高校生だった。月曜日が嫌いだった。だから殺した。
女は卑猥な言葉を口にしながら、ピアノの旋律に合わせて僕の身体を執拗に攻め続けた。僕はじっと耐えた。月曜日は嫌いだと口ずさみながら。
永田は「ただ耐えるんだ」と言った。「直ぐに終わる」と。
僕は真央との新しい生活の事を考えた。また、もとに戻れる。マンションからアパート暮らしになったが、二人だけで過ごせる時間が取り戻せる。この作業を終えれば、僕らに平穏が訪れる。
僕は耐えた。段々と身体の感覚が麻痺してきた。こんなショーを見て興奮するやつらが居るんだと、そう思う余裕も出てきた。
僕は横を向いて再び観客を見た。殆どが、老人だった。もしくはもうすぐ老人になろうとしている連中だった。女も居たけれど、男のほうが多かった。テーブルにはゴージャスな食事とゴージャスな飲み物が所狭しと並べられていた。肉を今、まさに口にしようとしている老人と目が合った。だけれど、それは一瞬で、老人の目は美しい姿で鞭を打つ女に釘付けだった。老人の視線は、ゆっくりと左右に何度も動いた。そして最後に僕の後ろで、視線を止めた。女は僕の後ろから鞭を使って、僕の首を絞めた。手が拘束されていて、僕はどうすることも出来ずに長いうめき声を上げた。
舞台袖に、タキシードを着た男が立った。三〇代後半の、長身で何処に出しても恥ずかしくないような格好をしていた。そしてマイクを持って喋り始めた。
「皆様、お待たせしました。これからがいよいよ本番です。ここに居るのは、手元の資料でもご承知の通り、金に困った苦学生。若干二十歳。幼馴染の恋人と同棲中。さあ、今日もまた、心の砕ける音を存分にお楽しみ下さい。It’s show time!」
割れんばかりの拍手だった。何かが始まろうとしていた。想定外の何かが。僕だけが、何も知らないで居た。

舞台袖から、ベッドの上に乗った全裸の男と女が二人、ゆっくりと黒子達に押されて入ってきた。
ベッドは医療用のキャスター付でシンプルなものだった。男はあぐらをかき、女は正座をし、互いに向かい合っていた。僕からは男の背中が見え、女の胸が男の背中で、見え隠れしていた。女は大きなアイマスクで目隠しをされて、耳には小型のヘッドフォンをしていた。小柄な色の白い女で、小ぶりだが形の良い胸をしていた。だけど、髪をまとめていたのと、大きなアイマスクのせいで、年齢の見当はつかなかった。
二人を乗せたベッドは僕のすぐ側まで来て、止まった。黒子たちは退散し、舞台の上は、奇妙な格好をした二組の男女と、舞台袖のタキシードの男だけとなった。
タキシードが、ベッドに座っていた男に目配せすると、男はそろそろと立ち上がり、女の肩に手を置いた。音楽は鳴り止み、辺りはしんと静まり返った。男は振り返り、僕を見た。
永田だった。永田が全裸で、立っていた。そしてペニスを大きく膨張させ、天に向かって花開かせていた。
永田の向かいに座っていた女は、大きくなった永田のペニスに手を添え、亀頭を口に含んだ。ぺチャぺチャとした音が、静まりかえった会場に響いた。それは、目を閉じると、雨だれの音にも聞こえたが、目を開けると淫らな音以外の何物でもなかった。女は蜜でもついているかのように、美味しそうに丹念に、ペニスの先から奥まで、赤くて小さな舌を這わせた。
女の目を覆っているアイマスクは安眠用の黒くて大きなもので、女の白い肌を際立たせていた。その下には小ぶりだけれど真っ直ぐ筋の通った鼻が、鼻腔を小さく動かしながら生きるために呼吸していた。細くて長い舌は、ペニスを舐めるために生まれた別の生き物みたいに、はいずりまわっていた。
僕は痛いくらいに勃起していた。でも、誰も何もしてはくれなかった。
やがて女は、永田の腰に手を添え、喘ぎ声を上げながら、頭を前後に振り始めた。そしてそれは次第に速度を増し、それに呼応して、喘ぎ声も大きくなった。
永田の手はずっと女の肩に添えられていたが、次第に、腕や手の筋肉が硬直して、ブルブルと震えだした。手の力はさらに強くなり、女の肩に永田のつめが食い込んだ。永田がうめき声を上げ、次に大きく息を吐くと、女の動きが一瞬止まり、ゆっくりとしたストロークに変わった。
僕はずっと女の唇を見ていた。すぼめていた唇から白い液体があふれ出した。それはあごからのどを伝い、白い胸を通って正座していた太ももに落ちた。女ののどは、何度か波うち、残りの全てを飲み干した。
タキシードの男が舞台袖からゆっくりとマイクを持って、ベッドに近づいてきた。永田のペニスは射精したばかりなのに、ずっと天を仰いでいた。それを見たタキシードは、指さしながら
「さすが、バイアグラ。衰えを知りませんね。こんなにたくさん、出したのに、まだ勃起しています。みなさんも、処方箋をバンバン書いて、この素晴らしい薬を、売って売って売りまくりましょう」と、観客に向かって言った。
そして女のヘッドフォンを外し、女のすぐ側に立ってマイクを向けた。
「美味しそうに飲んでいたね」タキシードが聞くと、女は小さくうなずいた。
「いつも、飲んでいるの?」と聞くと、再びうなずいた。
「同棲している彼のも、飲むのかな?」
女は一瞬ピクリと顔を上げたが、次にゆっくりと大きく首を横に振った。
「そうなんだ。彼とはこんな事は、しないのかな?それは残念な彼だね。顔が見たいな」そう言ってタキシードは一人で笑って僕に一瞬視線を向け、また女に戻した。
「じゃあ、彼とはどんなプレーをするのかな?」
タキシードは再び女にマイクを向けた。
「彼とは、半年近く、していません」
女の声は、喉に何かがからんだみたいに擦れていた。たぶん、精子がまだ、喉に残っているのだろう。小さく、咳払いをした。
「どうして?」タキシードが再び、マイクを向ける。
女は俯いて、小さくつぶやくように
「全然、気持ちよくないから」と言った。
タキシードと再び目があった。誰かが僕の心臓を握り締めた。血の流れが止まり、搾り取られるような、感覚。

真央だ。

「彼とは、いつもどんな体位でやっていたの?」
「正上位」
「感じた事はある?」
「一度も」
「本当は、どんな体位が好きなんだい?」
「バックから突かれたり、縛られたり」

真央だ。真央の声だ。

「真央!」
僕は叫んだ。でも僕の声は、首を鞭で後ろのSM女から締められていて、上手く声にならない。

「真央!」
再び、叫ぶ。
一瞬、女の身体が反応した、気がした。
タキシードは再び、女にヘッドフォンを付け、今度は口にボール状の口かせをし、目隠しを付けたまま頭から拘束具をかぶせた。
永田は女の後ろに回り、手を付かせ四つん這いにさせた。僕は永田と向かい合う形になった。目が合うと、壊れたように笑い出し、それを止めると、今度は女の腰に手を添え、壊れたように女を後ろから突き始めた。そして突きながら、ずっと僕の目を見ていた。
女の腕は、突かれる度にブルブルと震えた。眉間にしわがより、何かに耐えているようにも見えたが、やがてあえぎはじめた。声は口かせで曲がって聞こえた。でも、間違いはなかった。
真央の声。そして真央の身体だ。
いつも、真っ暗なところでしか、真央を抱いた事がなかった。だから、見ても最初はわからなかった。でも、僕の手や腕や身体は、真央の身体を覚えている。間違いない。

「真央!」
僕は叫んだ。声は会場に響いた。
僕の後ろのSM女は首を絞めるのを止めて、僕を後ろから鞭で打った。
「真央!」
僕はあらん限りの力を絞って、叫び続けた。でも、真央には届かない。
真央の耳はヘッドフォンで完全にふさがれていた。

永田はさらに激しく、後ろから真央を突き、手は真央のしりをわしづかみにした。真央は大きなあえぎ声を上げ、口からは唾液をだらだらと流し、ベッドのシーツを汚した。
僕は叫び続けた。全身の有らん限りの力を使って、椅子をガタガタと鳴らし続けた。喉の感覚が段々と無くなっていく……。
それでも叫び続け、声にならない声を出し続けた。
タキシードが真央の口かせを取った。真央のあえぎ声が、はっきりと僕の耳に届く。それは今までに聞いたどんな声よりも淫らで陶酔し、快感で溢れていた。僕のペニスは勃起していた。猛烈な怒りを感じながらも、僕の意思とは無関係に、今までに無いくらい硬直した。
真央は腕で体重が支えきれずに、ベッドの床に顔を押し付けた。永田が後ろから、真央の結ばれた髪を解くと、真央は髪を振り乱し、獣のように唸り、淫らな言葉を叫び続けた。
永田は執拗に、後ろから真央を突き続けた。その度毎に、真央は違った声を上げた。真央の唇は、だらしなく開かれ、舌を出し、はあはあと口から息をし、唾液をシーツに溢し続けた。
再び、タキシードがやってきて、真央のヘッドフォンと目隠しを取った。顔は乱れた髪で覆われ、いろんな液体でまみれていた。でも、この目。この眉。鼻。口。全てが一致した。やっぱり、間違いなかった。真央だ。一縷の望みが、完全に絶たれた。
僕は叫んだ。真央の名前を。でも、声にならなかった。喉に鋭い痛みが走り、大きく咳き込んだ。
今度は、SM女が僕の後ろから、僕の顔を隠していたマスクを鷲づかみにしてはぎ取った。顔に冷たい風が当たった。僕は息を吹き返した。残っている力をかき集めた。口の中に唾液をためて、大きく息を吸った。そして全身を使って大きくふりかぶり、真央を目掛けてつばを飛ばした。血の混ざった赤い塊は、放物線を描き、喘いでいる真央の頬の側に落ちた。
一瞬、真央の全ての動きが止まった。真央は顔を上げた。ゆっくりとした動作で。そして、うつろな目で僕を見た。髪は乱れ、汗でまみれていたけれど、それは真央の顔だった。僕と目があった。真央の目は、大きく見開かれやがて硬直した。ゆらゆらと瞳が揺れた。かつて、僕の知っている真央の瞳だった。その瞳は潤んでいた。そして僕が写っていた。
再び、永田が後ろから突き始めた。真央の瞳の中の僕が消えていく。沈んで行くように、もとの淫らな顔に戻って行く。
待ってくれ。
待ってくれ。
行かないでくれ。
行くな。
戻ってきてくれ。
戻って来い。
僕は、叫び続けた。でも、真央は再び、快感の中に溺れていった。身体も、心も。

真央は僕の目の前で果てた。何度も、何度も。僕は叫び続けた。喉から血を流しながら。でも、もう、届かなかった。真央は、狂ったようにあえぎ続けた。何かに取り付かれたように。そして最後には、失神し動かなくなった。


その後のことは、よく覚えていない。気がつくと、僕は縛られたまま、観客席側のソファーの上で毛布に包まっていた。横には知らない女装した男が座っていた。そして「大丈夫?薬、多かったかしら」と声をかけられた。
僕の意識はうつろなままだった。
「永田先生がさ、明日、また来るって。渡したいものがあるからって」
この男か女かわからないようなやつを、とりあえずは殺してしまいたいと思ったけれど、そんな力はどこを探しても残ってはいなかった。

次に目を覚ますと、目の前に永田が座っていた。スーツを着込み、足を組んでいた。磨かれた靴に照明が反射して、眩しかった。僕は目を細め、ソファーから起き上がろうとしたけれど、今度は違ったやり方で、手足を縛られていて、身動きが取れなかった。
隣には昨日見たおかまが座っていた。声を出そうとしたけれど、喉に激痛が走り、しばらく身悶えた。
「悪く思うな」と、永田は言った。
「これしか、選択肢がなかったんだ。俺にも、君にも」
ふざけるなと思った。そして殺したいと思った。殺意とはこれほどまでに、リアルなものだと解った。手にとって触れるよりも明らかな感情。僕は全身の力をこめて動こうとした。でもびくともしなかった。
「無理をするな。プロが縛っているんだ」と永田は言って隣のおかまを見た。そして「一人で縄をほどく事は不可能だ。諦める事が次へのステップとなる」と言った。永田はソファーの上に転がっている僕を見おろし、足を組みなおした。
「君の働きには、満足している。上出来だった。シナリオ通りだ。これほどのショーが完成するとは予想していなかった。これで俺は確実に教授になれる。変な世界だろ。でもこれが大学病院なんだ。あいつらは、自分達の都合の良いグループを作って、好き勝手なシステムを構築している。そしてその中で生きている。誰もが退屈している、誰もが嘘をついている。そうやって生きていると、段々と生きているという実感がなくなってくる。若いうちはまだいい。生きているだけで満足感が得られる。でも歳を取り、老いを感じるようになると、生き続けるという事だけで苦痛になる。実感が得られなくなる。生きている実感が欲しくなる。血が見たくなる。形あるものを壊したくなる。そして最後には心の折れる音を聞きたくなるんだ。
一度、その音を聞いてしまうと、もう一度、聞かずには生きていけなくなる。あそこに集まっていたのは、みなそういう連中なんだ。心の折れる音を聞くために集まった。大金を払う。いくら払っても惜しくはないんだ。その音を聞くことで彼らは、生きながらえる事が出来る。しばらくは。そしてまた、麻薬が切れたみたいに、それを求める。俺みたいなやからに、要求する。あれをやれ、あれをやれ、と」
僕はずっと、永田を殺す方法を考えていた。何度も、何度でも、殺してやりたかった。僕の真央を僕の目の前で、めちゃくちゃにした。心の折れる音?ふざけるな。何故、そんなものを俺が聞かせなくちゃならないんだ。自分の音でも、聞かせてやれば良いんだ。あの腑抜けた老人達に。でも何故、真央がここに居たんだ?永田とどこで繋がっていたんだ?いつから?何故?

永田は僕の心の混乱を無視して、話しを続けた。
「君には金が必要だった。短期間のうちにまとまった金が。俺には、後ろ盾が必要だった。あの連中を利用するのが一番手っ取り早かった。これは、ある意味、運命なんだ。最初から定められていた。こうならざるを得なかった。今回の事は忘れろ。おまえさえ、全て忘れたら、何も無かった事になる。決して口外はされない。金だけは残る。おまえはまだ、若い。いくらでもやり直しがきく。何も考えずに金を受け取れ。まとまった金だ。あと二年間の学費が十分にある。その先の事は、まあ、自分でなんとかするんだな。俺も今回の事は、忘れる。全て忘れる。おまえとは、これっきりだ。だから、これを受け取れ」

永田は紙袋を僕に投げてよこした。現金の束が、顔をのぞかせた。

「いいな。忘れるんだ。全て。それが、今のおまえが医者になれる、たった一つの道なんだ」
永田はそう言い残して、消えた。あとにはおかまと現金だけが残った。
おかまはジャックナイフを取り出すと僕を拘束している全てのロープをザクザクと切った。身体のしびれは残っていたが、十分に動けた。僕は手足を伸ばし、屈伸をし、おかまが立てなくなるまで腹を蹴り上げた。
僕はジャックナイフを持って地上に出た。久しぶりに太陽を見た気がした。
「忘れるんだ」と、永田が言った。
良いだろう。でも、まずは殺さなくてはならなかった。何をさておいても。
忘れるのは、それからだ。

アパートに真央は帰って来なかった。当然と言えば、当然なのかもしれない。
ショー当日の朝の事を思い出した。真央はまだ、僕の知っている真央だった。布団の中でいつものように、泥のように眠っていた。小さな身体で、小さな寝息をたてながら。
でも、今は違う。全てが変わってしまった。昨日の夜に全てが変わった。一瞬の出来事だった。真央は僕の目の前で真っ二つに引き裂かれ、全く別の女になってしまった。生まれ変わったみたいに。
でも、実際には僕の知らないところで、秘密裏に事が推し進められていた。僕だけが知らずにいた。いつからだろう?いつから真央と永田は男と女の関係になってしまったのだろう?いつから、あんな淫らな女になってしまったのだろう?何故、あれほどまでに、奴隷のような女になってしまったのだろう?真央と永田との接点はいくらでもある。同じ大学に居るのだから。でも、理由がない。永田と真央が寝る理由が。
僕は同じところを何度も何度も行ったり来たりした。でも、何処へも行けなかった。何処へもたどり着けなかった。情報が不足していた。知る必要があった。何かの糸口さえ見つかれば先に進めそうな気がした。

三日たって、ようやく声が出るようになった。その日の午後、僕は財津夫人の自宅に居た。教授は留守だった。何かを知っているとすれば、この女だと思った。いや、知らないはずはなかった。僕と永田を結びつけたのはこの女だ。真央とも無関係であるはずが無かった。
僕は、夫婦の寝室で財津夫人を、僕がされたような方法で縛り、夫人の首にナイフを突き立てていた。
「僕は物覚えが良いほうなんですよ。一度聞いたら理解できるし、それは耳で聞いても身体で覚えても同じなんです。効果的なロープの縛り方なんて、とっくに覚えてしまいました。望んで覚えた訳ではありませんけどね」
夫人は全裸でドレッサーの前に座わり、そんな僕の愚痴にもならない台詞を震えながら聞いていた。そしてすっかり変わってしまった僕にどう対応したら良いのか、わからない様子だった。
僕はもうずっと、夫人の身体にナイフで線を描きながら同じ事を質問しているが、なかなか納得のいく答えが聞けない。
「あなたには、僕の覚悟がわかるはずだ。僕にはもう、失うものなんて、何もない。これで最後だ。今度こそ、ちゃんと答えて欲しい。おまえたちは真央に、何をしたんだ?」
夫人の乳房には何本もの赤い線が走り、線からは血がにじんでいた。僕はたるんだ夫人の首筋に、ナイフの先端を突きつけると、切り裂きたい衝動を必死で我慢した。夫人はそんな僕の殺意を感じ、重い口をやっと開いた。
「世の中には知らないほうが良い事がたくさんあるわ。知らずにいる事で、真っ直ぐ歩ける事だってある。あなたには、そうして欲しかった。この一連の出来事を全て忘れて何も無かった事にして、今までの生活を続けて欲しかった。それがあなたの為だから。でも、それが難しい事は私にも解る。あなたは出口を求めている。だけど私には、その方向を指し示す事しか出来ない。
あのショーは、私が段取りをしたの。永田が私のところに来て、あなたの話しを始めた。懐かしいあの人の息子。でも、耳を疑ったわ。あなたが窮地に立たされている。私はあなたを助けたいと思った。その事に嘘偽りはないわ。でもそれ以上に、私は今の立場が大切だった。安定した生活。教授夫人としての地位。永田にはそれを脅かすだけの材料があった。あいつは、私とあなたのお父様が渡した、リベートのリストを持っていたの。とても悩んだわ。そして全てを満たすにはこうする事以外に、方法がなかった。
永田の目的は単純で明確だったわ。教授になること。そのために、権力のある教授達を取り込む事。その手段が私にはあった。そしてそれを満たせば、それ以上のものを私に要求してくることはないと、永田は約束した。
私の役割は、あなたをショーの舞台に立たせること。そしてそのためにはあなたを信用させ、なおかつ弱みを掴むことだった。だからあなたと寝たの。あの人の息子と。
あなたが言うように、物覚えは速かったわね。飲み込みも早かった。応用力もあった。才能もあった。私のほうがあなたとのセックスに、のめり込みそうにもなったわ。でも、私の仕事はあくまでもあなたに真央さんを裏切らせ、あなたの弱みをつかむ事だった。そして永田からの誘いを、断れなくする事だった。上手く行ったわ。怖いくらいに。あなたは、ショーの仕事を引き受けた。
真央さんも、ショーのために必要な素材だった。他の誰かという訳にはいかないわ。わかるでしょ?あなたのパートナーは彼女以外に居ない。二人が舞台に立ってはじめて意味があるの。
真央さんを舞台の上に立たせるのは、永田の仕事だった。永田がどんな手段を使って彼女に近づいたのか、私は知らない。知る必要もなかった。本当よ。ショーの時に、はじめて顔を見たわ。綺麗な娘ね。品があって。高校生の時からつきあっいるんですってね。ショーのパンフレットには、私が書いたわ。二人がどれだけ何不自由なく、幸せに暮らしていたのか。どういう風に、転落していったのか。そして、どれだけ、お金が必要だったのか。こういう場面設定がたまらなく受けるのよ。あの退屈な老人達には。
ケン。もっと賢く生きて。全てを忘れて。簡単な事よ。上手に生きないと、損ばかりするわ。生きるって、大変な事なんだから。あのお金を使って、大学を卒業するの。立派な医者になるの。お父様の意思を継いで。
だから、早く、この縄を解いて。もうすぐ主人が帰ってくるわ。主人にばれたら、大変な事に……。」
僕は夫人を縛ったまま、永田のもとに向かった。
必要な情報も、殺す価値もなかった。

闇を駆け抜けた。
大学の永田の部屋に入ると、永田は大げさな机の上に手を乗せ、大げさな椅子に座り、僕を待っていた。夫人が連絡を寄こしたのだろう。財津教授に縄を解かれて。
「何故、来たんだ」と、永田は言った。僕を諭すような声だった。
「真央を返せ」
僕は叫んだ。窓のガラスが波を打った。
「あれほど忠告しただろ。忘れろと。理解できなかったのか」
永田の声も大きくなった。
「真央を何処へやった?」
僕は持っていた紙袋の中から札束をつかむと、永田に向かって何度も「何処だ」と叫びながら、ありったけの力を使って、ありったけの現金を投げつけた。帯は切れ、ばらばらになった一万円札は宙を舞いハラハラと床に落ちた。幾つかは、永田の顔や身体に当たり、幾つかは窓や本棚に当たった。
永田はただ、僕を見ていた。僕は投げる度に殺意が増した。ひとつひとつ、積み上げるみたいに、それは大きくなった。
投げるものがなくなると僕は、内ポケットからジャックナイフを出して、刃をあらわにした。
「今度は、俺がおまえを切り裂く番だ」
僕は永田に向かってナイフをゆっくりと左右に振りながら、間を詰めた。永田は、椅子から立ち、後ずさりした。
どうやら、僕が本気であることを、やっと理解したらしい。
「真央は、ここには居ない。でも、ちゃんと居る。あの女は、お前に返す。だからこれ以上近づくな」
永田の声は震えていた。
「真央に、どうやって近づいた?」
僕の声が、紙くずで埋め尽くされた部屋に吸い込まれる。しばらく沈黙があった。月明かりが僕の持つナイフに反射した。
「真央が働いている店に偶然入ったんだ」
永田は何かを確認するみたいに、ゆっくりと答えた。
「嘘をつくな」
僕はさらに近づいて、左右に振っていたナイフを真っ直ぐ永田に向けた。
「現実を見据えろ。お前のやろうとしている事は、犯罪だ。そして誰も救われない。真央は納得している。お前の元に帰るつもりだ。何があっても恋人同士だろ?将来を誓い合ったんじゃないのか?この金で、幸せをつかめ。真央の分の学費は彼女に渡してある。それでやっていくんだ」
この男は今更逃げようとしている。僕から、そして自分の罪から。真央を残して。口先だけの中身の無い男。その場限りの言い訳。
「何故、真央に学費が必要なんだ?」僕はまた一歩、永田との間を詰める。
「おまえ、何も知らないんだったな。いい気なもんだ。彼女がどんな思いであの舞台に立ったのか知らないんだな。真央も、おまえと同じように金が必要だったんだ」
永田がいつもの永田に戻った気がした。人を馬鹿にしたような、勝ち誇ったような喋り方。
「嘘をつけ。真央は僕のためにあの店で働いてくれたんだ。僕の実家の病院が倒産して、僕の学費が払えなくなった。だから、真央はあの店でバイトを始めた」
「本当に、そう思っているのか?幸せなやつだな。真央にも金が必要だったんだ。真央の学費はな、ずっとおまえの親が出していたんだ」
「嘘だ。何のために僕の親が真央の学費を出すんだ」
「おまえ、真央の親の事を何処まで知っている?真央の何を知っているんだ?」
知らなかった。何も知らなかった。裕福なのか、貧乏なのか、職業は医者なのか、そうでないのか、何から何まで知らなかった。真央は一言も言わなかった。まるで、触れた事がなかった。僕も気にした事がなかった。でも、何故だ?今まで、さりげなく、だけどきっちりと、真央によって避けて来た話題なのだろうか?

「おまえの親はな、真央を買って、おまえに与えていたんだ。変な虫がつかないように。おまえが変な女に捕まらないように。おまえがちゃんとした医者になるように、おまえのパパが買って与えていたんだ。金持ちって良いよな。高校生のうちからパパがセックスをさせてくれるんだから。最初、真央から聞いたときには、耳を疑ったよ。どこまで親馬鹿なんだってな。
だけど、状況が変わった。おまえの親が借金を背負った。当然、今までの補助がない。真央も生きていかなくてはいけない。あの子の両親は居ないんだよ。幼い頃に二人とも亡くなって、親戚中をたらいまわしにされた。だけど、裕福な生活を夢見た。親が居なくても、裕福になる権利くらいあるだろう?
真央も、金が必要だった。おまえと同じだ。医者になりたい。だが大学生が汗水たらして働いたくらいじゃ、たいした金にはならない。あの店でな、身体を売っていたよ。俺が最初の客ではなかった。十人ほどとお金を取って寝たと言っていた。酔った客が相手だった。でも売春の世界はそれほど甘くはない。いつか怖い連中がやってくる。だから俺が保護したんだ。そしておまえの存在を知った。偶然だ。
真央には秘密にして、プランを練った。あの会場にいたジジイ達の殆ど全員と真央は寝ている。効果的な演出のために、是非とも必要な行為だった。でも、真央にとっては、金のためだ。夢をつかむ為なんだ。
おまえにはわからないさ。全てが用意されていてレールの上を歩いているやつに、あの娘や俺の気持ちはわからない。欲しいものを手に入れるためにはな、何かを差し出さないと神様は許してはくれないんだよ。だから真央は、おまえを差し出した」

「嘘だ。真央はそんな女じゃない。おまえが騙したんだろう。薬を使って、弱みにつけこんで脅したんだ。許さない。絶対に許さない。おまえの教授への夢は今日でおしまいだ。俺の医者になる夢も捨てる。刑務所で暮らすことにする。そして、おまえには死んでもらう。罪を償え」

ジャックナイフは永田の胸を目掛けた。腕が伸び、空気の切れる音が耳に届く。ナイフは何度も宙を切り、荒い息使いが生々しく部屋を覆った。僕は間合いを詰め、永田を部屋の隅に追い込む。ラストだ。これで終わりだ。僕は永田の心臓を目掛けて一気に右腕を押し出した。一瞬にも永遠にも感じられる時間が僕の前を流れた。再び時間が正常を取り戻すと、ナイフは永田のシャツをかすめ、後ろの壁に突き刺さった。永田は僕の手首を押え、さらに永田の指は僕の手首に食い込む。僕は永田に押され、本棚に背中をぶつけると、足を取られ倒れた。そして、その弾みでナイフが床にからからと転がった。それは月の明かりを受けて生を受けた小動物に見えた。
僕は、犬のようにナイフを追いかけた。
誰かの足元でナイフが止まったが、暗くて顔が見えない。影は一歩前に出て、手を伸ばしナイフを拾う。月の明かりが顔を照らした。
真央だった。
「やめて」
真央の声だ。
「ケン。もうやめて。お願いだから」
今にも消えてなくなりそうな、闇夜に吸い込まれそうな細い声。そして、僕の知らない顔をしている。
「真央、何故ここに居るんだ?いったい、どういうことなんだ?」
あらゆる疑問が一度に吹き出した。会いたかった。色んな事を聞きたかった。いったい、何がどうなっているんだ?
「愛しているのよ。この人を私は、愛しているの。この人が必要なの。この人無しでは生きていけないの。もう、線を越えてしまった。とうの昔に超えてしまって、後戻りは出来ないの。もう、私とケンは、終わっているのよ。何処へも行けないし、私の帰る場所は、あなたじゃないの。何も要らないの。もう、私には何も必要ない。この人の側に居さえすればいい。この人の何かの役にたちさえすれば、それで良いの。
私を殺しなさい。あなたは、この人が憎いでしょう。殺したりないくらい、憎い。あたなの気持ちは解る。でも、この人を殺すことは私が許さない。絶対に、許さない。この人を傷つけるくらいなら、私が死ぬわ」
あっという間の、出来事だった。
真央は拾い上げたナイフの柄を持ち、刃を自分にかざした。そして腕を高らかに上げ、次の一瞬で、刃を胸の奥深くに沈めた。血はほとばしり、胸を赤く染め、時間が止まった。ほとばしる血のしずくは弧を描き、ゆっくりと地上に落下した。
時間が動き出すと真央はその場に糸が切れたみたいに倒れた。
僕は立ち尽くしているだけで、動くことが出来ない。永田が真央を抱き起こした。真央の顔は既に、真っ青だった。
死ぬ。真央が死ぬ。僕は、現実を見つめた。僕の置かれた、目を覆いたくなるような現実。愛していた真央。彼女も僕のことを愛していた。半年前までは。今年の春までは、僕らは、穏やかで、優しい空間に居た。
何かが変わった。何かが変化した。時間が、濁流のように流れ始めた。制御が利かなくなった。
守られていたんだ。今までは。それが、放り出された。大自然の荒野の真ん中に。猛獣がやってきた。数えきれないくらい。僕は、なす術もなく、奪い去られた。全てを。
現実。
真央。
僕は、君を既に、失っている。
それが現実。
真央が永田の手で運ばれていく。何処へ行くんだ?でも、身体が動かない。僕はどうすればいいんだ。教えてくれ。僕は、どうすれば。誰も教えてはくれない。どこにも書いてない。考えろ。考えろ。自分で、自分の頭で考えろ。今がそのときだ。誰も助けてくれない。考えるんだ。今すぐに。
身体中、汗でびっしょりだった。考えれば考えるほど、頭の中が白くなった。僕の視界から真央が消えていく。永田に抱かれて。
真央。
真央。
大きな物音がした。部屋の外が慌しくなった。知らない誰かが、大声で叫んでいる。
真央。
僕は逃げた。
僕は逃げだした。
真央を見殺しにしてひたすら走った。足が自分のものじゃないみたいだった。何度も転んで壁にぶつかった。僕は転がる石のように、大学から、そして全てから逃げ出した。
アパートに帰ると、ぶるぶる震えながら眠ることも出来ずに、布団に包まって、何日か過ごした。時々、睡魔が襲ってきた。
僕はとても浅い眠りの中を彷徨った。そのうちに、寝ているのか起きているのかわからなくなった。時々、テレビをつけた。でも、どこのテレビ局も大学病院で起きた女性の事件を報道してはいなかった。
真央の安否が気がかりで仕方なかった。大量の血。胸を貫いたナイフ。その映像は僕の網膜にこびり付いていた。
彼女は僕を裏切った。僕を徹底的に、上から下まで全部。もう、僕の面影の無くなった真央。彼女の心の中に僕は居ない。
僕も彼女を裏切った。財津夫人と寝た。何度も。その事実が、僕の心の平衡をかろうじて保てる唯一の材料だった。
どのくらいの間、そういう生活をしていたのか、思い出せない。アパート管理会社の人達がやって来て、僕に出て行けといった。やがて、電気もガスも水道も止められた。僕は部屋を見渡した。真央の記憶のつまった数々の品。どれもが真央を思い出さずには居られなかった。
ふと、出て行こうと思った。ここから出て行こう。玄関を出ると、久しぶりに外の空気を吸った。少しだけ、心が軽くなった気がした。月明かりに誘われて歩き出した。全てを残して歩き出した。
知らない店に入って、ビールを飲んだ。血液とアルコールが混ざるのがわかった。心臓は心拍数を早め血液を大量に送り出し、身体中を駆け巡った。

そして、その店でJに会ったんだ。真央が今、どうしてるのかは解らない。その事は今日までずっと、避けてきた。でも、たぶん、死んでないと思う。永田が教授になれたということは、そういう事なんだろう。きっと。

5(二〇〇四年)
久望子さんはずっと僕の顔を見ていた。一度も目を反らさずに、僕の話しを聞いてくれた。時々、頷いたり、眉間にしわを寄せたり、ため息をついたり、怒った顔をしたり、真剣な眼差しをしたり、した。
僕が視線を外しても、ずっと久望子さんは僕を見ていてくれた。誰かに、真剣に話しをしたのは、始めてだった。そして真剣に受け入れられたのも、始めてだった。
僕が話し終わると、久望子さんは僕の頬を手で撫でた。いつまでも、何度でも撫でた。そして
「この話しの、一番の美点はね、あなたが今、こうして生きていることよ」と、言った。

僕は、理解されたと思った。久望子さんに、僕は理解された。それは、快楽よりも、愛よりも、ずっとずっと大切で今の僕には必要な事なんだと思った。

僕は眠りについた。何年かぶりに心安らぎ、深く深く眠った。
目が覚めると、朝が違って見えた。昨日までの曇った朝が、晴れていた。

第四章

退院して、僕はヒロミのマンションに戻った。
ここへ帰るつもりはなかったのだけれど、退院の時の久望子さんの言葉が、僕をそのままここに居続けさせた。
「いずれ私もここを出て行くわ。あなたはヒロミの側に居て。そうしてくれたら私も安心できる。ヒロミは私の友達だし、彼女は自分が思っている以上に弱い人間よ。ケンとは、比べ物にならないくらい。だからヒロミの側に居て欲しいの。次に私達が会うときは、何が起こるのかしらね。奇跡みたいな事が起きそう。それを私は心から願っているわ」
ヒロミと居れば、久望子さんにもう一度会える。それが僕の本音だったのかもしれない。
でも僕は、ヒロミとの生活を苦にしていた訳ではない。むしろ楽しんでいた。僕は、料理を作り、ヒロミの帰りを待ったりもした。浴槽を丹念に洗い、床を拭き、便器さえも磨いた。ヒロミは驚いて「また刺されたら良いのに」と、冗談にもならない軽口を言ったりもしたけれど、僕も生活に彩りが生まれたみたいでそれを楽しんだ。
目標を持つために、また手に職を付ける為に、通信教育を始めた。家にいて一人で出来る仕事は世の中にたくさんあった。僕は新聞広告を広げ、片端から案内書を取り寄せ、その中から一番自分に合うと思われるものを選んだ。パソコンでグラフィックを作成する仕事だ。
パソコンは技術の習得に必須と、案内には書いてあった。僕は電気屋に行って、手ごろな値段のパソコンを購入した。金には不自由はしていなかった。けれども、女を利用して得た金で将来に備えたものを買うというのも、なんだか落ち着かない気分だった。何か不当な手段で大切なものを得ている気がした。だけど仕方ない。目下、僕の資産の全ては、そういう金なのだ。
テキストが送られて来ると、僕は毎日パソコンに向かった。そしてコツコツと演習を進めた。向き不向きは別として、少なくとも何か知らない事を習得するという作業が僕には必要だった。昨日までは出来なくても、今日は出来る。そういう目に見えた進歩や変化が僕の心を勇気付けた。
僕は自分が思っている以上に、心がささくれていた。かつて、ヒロミの存在が、ヒロミの僕への気持ちが、いつも吐き気がするほど嫌だった。愛というのに、うんざりしていたのだろう。いつ、壊れるかわからない愛。不変のものなんて存在しない。そんな当たり前のことを僕は身を持って体験し、裏切られたと思い、僕を違う人間に変えた。だけどそれも、紛れもなく僕自身だ。僕の中の何処かに、ちゃんと居た人格。どの僕も正しい。やがてその違った二人の僕は、お互いに歩み寄るだろう。そして新しい僕になる。
テキストの作業を終えると僕は、一人でコーヒーを作って飲んだ。やがてそれが日課になった。冷たい風の吹く中、ベランダの椅子に座って暖かいコーヒーを飲むというのは、なんとなく今の僕の心情に合っていた。
取り巻くものは厳しくても、たった一つのものに、すがって生きているのだ。

僕は熱くて黒い液体を身体の中に染み込ませながら、久望子さんの事を考えた。彼女はあの病院の中で、かつて彼女を愛していた男に手紙を書いているのだろうか。いったい彼女は、何故あの病院に居るのだろうか?とても重い病気を抱えているようには見えない。
僕は彼女のことを全く知らない。歳がヒロミと同じで、知っているのはそれだけだ。彼女は僕を受け入れ、そして拒絶している。高い壁があるんだ。そしてその中に入れる権利があるのは、手紙を書こうとしている相手だけなのだろう。久望子さんは自分の大切な場所をちゃんと空けている。彼のために。僕には、そんな場所があるのだろうか?誰かのための特別な場所。
かつてそれは僕の中に在った。真央が居た。だけど彼女は居なくなった。消えたんだ。そしてその場所は、まだ誰からも占有されずに、残っている。
ヒロミがその中に、いつか入って来るのだろうか?僕は自分の大切な場所にヒロミが入ることを許すのだろうか?わからない。僕にはまだ、色んなものが終わっていない。ただ、方向が見えてきただけなんだ。これから僕が向かおうとする場所は、おぼろげながら見えてきた。だけどその先に久望子さんは居ない。ただ、側で見ていてくれるだけだ。マラソンランナーに伴走する監督みたいに、ぴったり、と。
僕の妄想が森に迷い込んだところでヒロミが帰ってきた。僕は玄関に迎えに行き、お帰りといって、キスをした。

ヒロミといつものように食事をする。今夜は僕が作ったシチューだ。ワインの赤が白いテーブルに影を落とし、わずかに揺れている。僕の思考に財津夫人と居たホテルの部屋の風景が入り込むが、すぐに何処かへ行ってしまう。
僕はさっきから、ヒロミに聞こうとしている。久望子さんの病気はどの程度のものなのか。いつ、退院するのか。タイミングを見計らっている。久望子さんの「いつかここを出て行くわ」という声が聞こえる。でも出来ない。ヒロミは僕の顔を見ながら食事をしている。視線を反らさずに。
一切れのチーズをつまむために、一瞬だけ目をそらし、また僕に視線を戻す。まるで、僕から視線をそらすことで多大な不利益をこうむるみたいに。

「どうしたんだ?」と僕は聞く。
「なんでもないわ」とヒロミは言ってテーブルに置いた僕の手にそっと触れる。新婚のカップルみたいな、風景。
僕はそんな風景に馴染んでいる。ヒロミの笑顔を見ると、ほっとする。そして今まで傷つけていたことを、とてもすまないと思う。まともだ。
僕は、久望子さんの事を話題に出すのを先送りにする。いつか解れば良い。今はこの、穏やかな空間に他のものを持ち込みたくないと思う。

夜、ヒロミを抱く。僕のペニスは背中を刺された後遺症で萎えたままだが、ヒロミは僕の上に座り、僕の頭を両手でかき乱しながら、愛していると呪文のように何度も言う。僕はその声を、以前とは比べ物にならない位、心地良く聞く事が出来る。僕はペニスの代わりに指を挿入し、ヒロミを絶頂に導く。僕はヒロミのあえぎ声を聞きながら、まだヒロミに飼われていると思う。是正するのはここからだ。自立しよう。一日も早く。


退院して一ヶ月が過ぎた。毎日が単調に過ぎていく。でも、充実している。
朝起きると僕はまずコーヒーを入れた。直線的でスタイリッシュなケトルでコーヒードリップに湯を注ぐと、ほのかな、だけどそれと解る香りが部屋中を満たした。
朝食を用意するとヒロミを起こした。ヒロミはどんな勤務体系の日でも、僕と一緒に朝食を取った。そのまま出勤する日もあれば、寝てしまう日もあった。何れにしても朝、僕達はコーヒーの香りを囲みながら朝食をとり、いくつかのささやかな話しをした。
僕は部屋で一人になると、パソコンを起動し、テキストに向かった。僕の技術は格段に進歩していた。このまま行くと近い将来、金を取れるレベルまでになるかもしれないと思った。複雑なグラフィックを描けば描くほど、パソコンの処理速度は遅くなった。ビデオボードを追加しなくてはならない。僕はそんな知識まで身に付けていた。
昼食は近所のスタバに出かけた。いつかヒロミが僕を罵った店からさほど離れてはいない別の場所だ。スタッフは僕が毎日通っていると顔を覚えてくれた。レジに立つと今日の天気や気温など、当たり障りの無い話をした。昼食、と言っても十一時半を少し過ぎたばかりなので、空いている。僕はソファーに座り、通りを行きかう人を眺める。それに飽きると本を読んだ。小説なんて読むのは何年ぶりだろう?そんな娯楽があることすら、忘れていた。僕は読みかけの本をテーブルに置くと、高いけれどちっとも美味しくはない、でも新鮮で品質の高いサンドイッチをほおばり、あまり美味しいとは言えないコーヒーを飲み(あくまで個人的な意見だが、僕が入れたコーヒーの方が断然美味しかった)昼食という作業が終わると再び、本のページを繰った。
何故、この場所に毎日訪れるのか。僕はこの空間に金を払っている。シックな内装。座り心地の良いソファー。静かな音楽。ちょっと暗めの照明。客席に目を移すと外国人男性が日本人女性に英会話を教えている。しかも金を取っている。学習している人も居る。音楽と電子辞書を持って、理解に苦しむような分厚い本と格闘している。そんな誰でも受け入れる、多国籍な空間が僕を安心させた。いつまで居ても、とがめる者は誰もいなかった。
午後は図書館で本を読んだ。経済や会計に関する本だ。僕はそこで、今まで欠けていた社会的常識に触れた。そしてそれは、これから僕が一人で仕事をやっていく上で必要な知識だった。世の中の仕組みを理解していないと上手く生きていけない。それが僕の住んでいる国だ。
夕方になると買い物をして、マンションに戻った。そして夕食を作った。ヒロミと一緒に食べる事のほうが多かったが、ヒロミに夜勤が入ったり残業になったりすると、僕は一人分だけ作って、一人で食べた。
一人で居ても、寂しいと感じた事は一度もなかった。毎日の単調で変化のない生活が心地よかった。変化は無いが、ちょっとだけ進歩のある生活。穏やかで、誰にも迷惑をかけずに、誰からもとがめられない。そして誰からも理不尽な指図をされない。目標を定め、あとは余計な事を考えずに、ひたひたと歩いた。落下運動と同じだ。力は要らない。重力に身を任せる。だけとちゃんと進んでいる。確実に。そしてたぶんいつか、たどり着く。何処だかわからない場所に。

今夜は、ヒロミが夜勤の日だった。僕は一人分の食事を作り、食後にコーヒーを入れた。窓を開けると冷たい風が頬を撫でた。本格的な冬が、そこまで来ていた。僕は空を見上げた。黒い雲に覆われて、星は見当たらなかったが、月が雲を引き裂いて、顔を覗かせていた。
満月、と思った。月を眺めるなんて、何年ぶりだろう。僕はここのところずっと、随分久しぶりな事ばかりしている。引き裂かれた雲は徐々に裂け目が広がり、空が明るくなった。僕はベランダに出て、コーヒーカップを持ち、そんな空を眺めていた。身体が冷えると、ひざ掛けを持って再びベランダに出て、デッキチェアーに座り、星が輝くまでになった空を眺め続けた。コーヒーは冷たくなった僕の身体に優しく、心まで暖めてくれるようだった。
ふと、星が流れた。流れ星なんて、見た事があったのだろうか?思い出せなかった。小さな頃の記憶をたどった。小学生の時の野外授業。キャンプファイヤー。修学旅行。中学生の頃の林間学校。夏休みの別荘。
でも、心がたどり着いたのは、久望子さんだった。今日まで上手に避けて来たのに、思いもかけず、当たってしまった。彼女は今頃、どうしているのだろう?今の僕をほめてくれるだろうか?僕は久望子さんの言いつけを、ちゃんと守っている。彼女の示した方向を僕なりに解釈し、実行している。久望子さんに会いたくなった。久望子さんに今の僕を見てもらいたかった。やれば、出来るじゃない。と言ってもらいたかった。久望子さんに会いに行く。良いアイデアだ。思いつきにしては悪くない。
僕は冷え切った身体を引きずりながら、部屋に戻った。その夜は、いつまでも眠れなかった。


次の日の朝、ヒロミは帰ってこなかった。夜勤だから朝の八時には帰宅しているはずだ。僕はいつも通りに二人分のコーヒーを入れた。ベランダに出ると息が白くなった。暫く通りを眺めていたが、ヒロミが帰ってくる気配は無かった。
夕方、図書館から帰宅してもヒロミの姿は無かった。僕は居間のソファに座り、暗くなり始めた壁紙に目をやった。一点だけ黒く染みになった場所が先に暗くなり光を失った。それから徐々に部屋は暗闇に覆われた。
サイモンとガーファンクルの古い歌を思い出した。サウンド・オブ・サイレンス。暗闇を友達にする歌だ。僕は孤独を感じた。どうしてだろう?今まではそんな事を感じた事などなかったのに。
僕はソファーから動けずに部屋が真っ暗になるまで座っていた。そして寂しくて死んでしまううさぎを想った。
僕はいつのまにかソファーの上で眠ってしまっていたようだ。窓の外がちりちりと明るかった。ヒロミが帰宅した気配はなかった。テーブルの上もキッチンも全てが昨日のままだった。
いい歳をした女が帰ってこない。僕は心配するべきなのだろうか? わからなかった。そもそもヒロミが家を何日か留守にすることがこれまでにあったのだろうか?少なくとも僕が退院してからは無かったが、それ以前がどうだったかなんて、全く思い出せなかった。
とにかく、病院に行ってみよう。そうすれば、全ての謎は解ける。手間さえ惜しまなければ簡単な事だ。真実は直ぐ先にある。もしかしたら久望子さんにも会えるかもしれない。そう思うと、少し身体が軽くなった。


二ヶ月ぶりに病院を訪れた。病院を取り囲む公園は圧倒的に紅葉していたけれど、僕がずっと感じている変化は、赤い景色ではなく僕自身だった。
ここに久望子さんが居る。そう思うだけで心が高揚し躍った。昨日までのシンプルな生活を思った。一本道を進むような単調な生活。心を封印し、その周りを名前も無い衛星みたいにぐるぐると周っていた。報われないラピュタのロボット兵みたいに。
血がざわざわした。何かいけないことをしている。そんな気持ちにもなった。僕は混乱した頭をかかえながら、長い廊下を歩いた。かつて、何度も通った場所。染み付いた記憶。僕は感じている。僕が強く求めている事を。彼女に再び会うことを。会って話す事を。
彼女の求めているものと僕が与えられるものは、上から下まで全部違う。悲しいくらい圧倒的に全く。それでも僕は、好むと好まざるにかかわらず会わなくてはいけない。彼女からインスピレーションを得る為に。
でも、僕は呆然とする。彼女の部屋の前で立ちつくす。あるべき場所に久望子さんの名前がない。室名札が空になっている。ぽっかりと、まるで月の無い十五夜みたいに。
僕は少し開いているスライドドアをすり抜けて、久望子さんの部屋に入った。中はがらんとしている。見たことも無い看護師が最後の備品を整理して持ち出そうとしている。僕と目が合い彼女は軽く会釈をする。
それにどんな意味があるのかわからない。明らかなのは、久望子さんが居なくなった事だけだ。看護師が出て行くと僕は寂しいくらい一人になった。そして本当に寂しくなる。悲しいと思う。何もない。何か残してくれても良いのに、と思う。外の風景が目の中に映る。でも、見ても見ても僕の記憶には残らない。残っているのは久望子さんの面影だけだ。遅かったんだ。もう少し早く決断していたら、彼女が退院する前に会えたのに。
久望子さんは僕が退院するときに、いずれここを出て行くと言った。それはいつか、居なくなることを意味していた。そんな簡単な事さえ僕は、後回しにしていた。いつもそうだ。僕は大切な事を傍観してしまう。悪い癖だ。いつまで経っても直らない。進歩が無い。でもこれは、喜ばしい事なんだ。久望子さんが退院した。病気が治って新しい人生を始める。何処かで。
何処へ行ったのだろう?彼女はいったい、何処に移り住んだのだろう?これから何を始めようとしているのだろう?やっぱり僕は彼女の事を何も知らない。
行き場のない壁に当たって立ち往生していると、痛いほどの視線を背中に感じ、振り返るとそこにはヒロミが立っていた。ヒロミは僕と同じで立ち往生しているようにも見えたけれど、ヒロミの目は何処も見ていなかった。ただ立って、居るだけだった。
僕は今更ながら、ヒロミを探しに病院に来た事を思い出した。

「病院に泊り込んでたの?」
僕がヒロミに聞くと、ヒロミは小さく笑った。否定も肯定もしない笑いだった。
「久望子さん。退院したんだね」
僕は、独り言のようにつぶやいた。誰に向かって言ったんだろう。たぶん、何もない部屋に向かって。僕の言葉は、何処にも行かず、何処にも響かずに、ただ落ちていった。沈黙がじりじりと続いた。
ヒロミは僕の言葉を拾い集め、繋ぎ合わせてポケットに入れ、
「久望子から預かったものがあるの」と、僕のために、僕に向かって言った。そして白衣のポケットから封筒を取り出した。
花柄の封筒だった。いつも久望子さんが使っている便箋に似ていた。似ているけれど少しだけ違う。たぶん、世代が交代したのだろう。いったい何冊の便箋を彼女は彼の為に使ったのだろう。僕はヒロミから封筒を受け取った。とても軽いのだろうけれど、重く感じた。本当に重く感じた。さらに厚みもあった。僕の名前が表に書いてある。名前だけだ。ケンへ、と。僕はヒロミの前で封を切って手紙を取り出した。中性的な綺麗な文字だった。でもある意味個性的でもあった。僕はヒロミの前で目を通したが、何も頭に入らなかった。ヒロミは何も聞かなかった。僕はヒロミに向かって
「今夜は帰ってくるの?」と聞いた。
ヒロミは「今夜は早く帰るわ」と言って部屋を出て行った。僕を一人にしてくれたんだと思った。
僕は、もう一度手紙を取り出し、彼女が僕のために書いてくれた文字を見た。そこには僕のための文章と、僕への依頼が書いてあった。依頼の内容は要約すると次のようなものだった。
「急ぐ用事ではない。ただ、あなた以外に頼める人が今の私には居ない。気が向いた時で構わない。同封してある手紙を、彼に渡して欲しい。あなたから直接、会って渡して欲しい」
別の紙に住所と名前が書いてあった。日帰りするには、遠い場所だった。そして、彼の名前は僕と同じだった。
ケン。
久望子さんは彼を僕と重ねていたのかもしれない。
僕は、彼宛の手紙を取り出した。封筒は久望子さんがいつも使っているものだった。僕は彼宛の封筒を太陽に透かしてみたけれど、何が書かれているのかは、もちろん解らなかった。ただ、黒い影が写し出されただけだった。


次の日からまた、平坦な生活に戻った。テキスト、スタバ、図書館。
僕は牛歩戦術をする国会議員みたいに、じりじりと目標に向かって過ごした。それはあまりにもゆっくりで何が目標だったのか、忘れてしまいそうな時もあったけれど、でも、見失うことはなかった。
僕は時々、久望子さんからの手紙を眺めた。封筒を手にとって、物理的に眺めるだけだ。そうしないと、読んでしまうと、引き込まれてしまいそうな気がした。僕は、遠くから、久望子さんの依頼の事を考えた。
久望子さんは僕に、直接、彼に渡して欲しいと言った。それは、ごく当たり前の依頼のような気もした。僕は電車に乗り、彼の住所を尋ね、彼に手渡す。僕はこの街から僅かな間だけれど、離れることになる。考えてみたら僕は随分長い間、この街に居続けている。久望子さんの彼が住んでいる、また、かつて久望子さんが過ごしたかもしれない街を訪れるのも悪くないと思った。だけど、僕は何かがひっかかった。不自然な何かだ。僕の生活が平坦であればあるほど、その不自然さは、不自然さを増した。
僕は漠然とした違和感を抱えながら、日々を過ごした。そして手紙の事はなるべく考えないように努めた。まだ、時期ではないような気がしたからだ。僕はしかるべきタイミングに彼の元へ届けるべきだと感じていた。何の根拠もなかったけれど、そうなのだ。
ヒロミはあれから、家を空ける事はなかった。何事もなかったかのように僕達は過ごした。僕もあえて、外泊した理由を聞かなかった。
久望子さんが言っていたように、ヒロミは僕を愛していた。愛の定義は色々あるだろうが、それを越えて明らかだった。僕はヒロミの愛に身を任せていた。このまま真っ直ぐに行けば、何処かへたどり着く。でも、そこは決して悪い場所ではないはずだ。とにかく、行けるところまで行ってみよう。それが僕の出した結論だった。

一ヶ月が、あっという間に過ぎた。再び、満月の夜だった。空は澄み渡り、月を邪魔するものは、何も無かった。時々、薄い筋状の雲が月を横切ったけれど直ぐに何処かへ行ってしまった。まるで意図したように、その夜は月が主役だった。僕はこのまま、真っ直ぐに歩くだろうと思った。真っ直ぐに歩いて、ヒロミと子供を作るのも悪くないかもしれないと思った。ヒロミは僕の子供を愛してくれるだろう。それは、どんな岩石よりも硬く確かな事だった。もしかしたら形を変えるかもしれない。ヒロミにはヒロミのやり方があるはずだ。僕はそれを認めよう。好きにして良い。僕に異論は無い。そのうちに僕は、その中で生きる糧を見つける。小さな世界の小さな糧。でも僕は満足するだろう。僕に残されたものでやっていく。残されたものというのは、選ばれたものなのだから。

月はずっと輝いていた。こんなに月を眺めるのは初めてなのかもしれない。他にすることも無かった。ヒロミは珍しく早く寝ていた。朝が早いのだ。
いつか、月に住める時代が来るかもしれないと思った。こんなに近いんだ。手を伸ばせば届きそうだ。そうなれば、僕は月に住もうかな。一人でも良い。月にどんな職業があるのかはわからないけれど、月になら僕にぴったりの職業があるかもしれない。ヒロミは月に住む僕に手紙をくれるだろうか。切手を貼って。どんな切手を貼れば月に届くのだろう。誰が届けてくれるのだろう。いったい、どのくらいの時間がかかるのだろう。現代の郵便システムの成熟を思った。リーズナブルで確実だ。でも、どうして久望子さんは、彼に宛てた手紙に切手を貼らず、僕に託したのだろう?僕は月を見上げた。さっきまで輝いていた月は厚い雲の中に居た。

僕は一人、月明かりの消えたマンションのベランダにいた。スポットライトの消えた舞台みたいだと思った。その小さな種子のような疑問は、僕の胸の奥で発芽し、やがて大きくなった。
一番に考えられる事は、彼が既婚者だという事だった。そしてそう考えれば考えるほど、手に馴染むように、しっくりと来た。久望子さんは危惧したのだ。彼の奥さんが久望子さんからの手紙を受け取って、中身を見てしまう事を。それを回避するために誰かが直接、彼に手紙を手渡す必要があった。でも、と思う。僕は彼の顔さえ知らない。届ける人が僕でなければいけない理由は何処にも無かった。
行けば解る。僕が彼を訪ねて行けば、それはやがてはっきりするはずだ。僕はその疑問を解決する必要があった。目の前の霞がかった視界をクリアにするために。そして真っ直ぐに進み、正しい場所にたどり着く為に。
行くべき時が来たんだと思った。明日、彼に会いに行こう。僕と同じ名前の、久望子さんの大切な彼に会いに行こう。そこから全てが始まる。
そこから全てが、回り始めるんだ。

次の日、僕は病院のベンチの上に居た。久望子さんが夏の暑い日、よく座っていた場所だ。夏は木陰になっていた場所が、冬の太陽の高度の低さと落葉で、さんさんと、陽が当たっていた。僕はベンチに腰を降ろした。ほんの少しだけベンチの座面が温かだった。
僕は久望子さんからの手紙を封筒から取り出した。一度、軽く目を通しただけの手紙。丁寧に読んでしまい、もう何も得るものがなくなるのが怖かった。久望子さんが消えてなくなってしまいそうだったからだ。でも時期が来たのだ。僕は、今なら踏み出すことが出来る。わかるんだ。本能的に。僕は手紙に目を落とした。流れるような綺麗な文字だった。

「ケン。久しぶり。もう随分長い間、会っていないわね。顔を見てない。
あなたに初めて会った時、びっくりしたわ。あまりにも顔が綺麗なんですもの。整っている、というのとはまた違うけれど、綺麗だと思ったわ。それが私のあなたに対する第一印象。そして、名前が同じだということにも驚いた。私が悪戦苦闘して、手紙を書こうとしていた相手。あなたも知っているわね。同じ名前なの。でも、驚いたけれど、あとになって納得したわ。繋がっているんだって。運命なんだって。私達が、この病院で出会った事は、最初から決まっていて、そして、心を通わせあえたのは、とても自然な事だったのね。あるいは、必然だったのかしら。私とあなたは特別な関係なの。あなたの心の奥に触れる事が、私の役目だった。そしてそれは達成されたと思っている。
退院してからのあなたの様子をヒロミから聞いたわ。これからもヒロミを大切にして。彼女はあなたを愛しているわ。間違いなく、何の問題もなく真っ直ぐにあなたを愛している。これ以上確かな事はないわ。それを実感しなさい。彼女にはその資質があって、あなたを本当に救ってくれると思う。私にはそれがわかるの。だから安心して彼女に身を任せて。
それと、もうひとつ、私からあなたに、お願いがあるの。こんな事をあなたに頼むのは、私があなたにこれまで言ってきた事と少し矛盾があるのだけれど、(もしかしたら、ケンを混乱させることになるのかもしれないけれど)あなた以外に頼める人が今の私には居ない。
同封の手紙を、彼に届けて欲しいの。急ぐ用事ではないわ。あたなの都合の良い時で構わない。するべき事が見つかって、生活が落ち着いて、それからで構わない。直接、彼に届けて欲しいの。実際に出向いて、彼に会って、届けて欲しい。ちょっと遠いけれど、我慢して。旅費は同封します。何処かの小説でこれと同じシーンがあったわね。でも、それとは趣旨も種類も違うわ。同じなのはとても重要だということ。
いつか、会いましょう。全てが終わった時に」

僕は、三度読み返した。それは、かつてないほど、僕の細胞に染み渡り、血となり肉となった。僕はベンチから腰を上げるとヒロミの居る病棟に向かった。天気は穏やかなままだった。


僕は、照明が点滅する病院の廊下を歩きながら、ずっとヒロミの事を考えていた。ヒロミは最初、僕を金で買っていた。金で僕の身体を使って快楽を求めていた。そして僕はそれを余すところ無く与えることが出来た。ヒロミの要求を、それ以上のものを、提示する事が出来た。ヒロミはそれらを全て飢えた狼みたいにむさぼった。やがてヒロミは僕に心を求めてきた。単純で真っ直ぐで純粋な愛を。僕はそれをずっと拒み続けた。僕は逆に、大きく振りかぶり、故意に深く傷つけた。それでもヒロミは僕の側に居続けた。執拗なまでにずっと。
そして今、僕は勃起しない身体になった。本当の意味での快楽をヒロミに与える事が出来なくなった。それでもヒロミは僕の側に居続け「そんな事、気にしなくていいのよ」と言った。「指を使ってくれたらそれで満足。指が折れたら、その時はまた、別の方法を考えましょう」と冗談も言った。ヒロミ程の女が、金も地位もある女が、どうして僕にこだわり続けるのだろう。全くもって不安定な僕にそれほどの価値が何処にあるのだろう?僕には自信がなかった。全然なかった。セックスを抜きにしたら僕はただの、いや、それ以下の社会的に無価値な男なんだ。
長い廊下の照明器具は申し合わせたように所々点滅をしていて、音が耳障りだった。それは不安定な僕の象徴である気もした。ひとつ、ひとつ、僕は点灯している照明器具を数えた。十箇所連続でクリアして、僕は少しホッとした。廊下の突き当りを曲がった。点滅している器具はひとつも無かった。僕は歩き続けた。ヒロミと話しをしなくてはならない。
でもやっぱり僕は、かつて久望子さんの部屋だった病室の前に居た。彼女の名前は、もちろん無かった。室名札は空欄のままだった。僕はかつて彼女が居た部屋の壁に手をついた。何ら変わらない普通の壁だ。そして今まで点いていた照明が、小さな音をたてて消えた。久望子さんの部屋の前だけが暗くなった。僕は暗くなった廊下でぼんやりと部屋の中の事を考えた。かつて久望子さんが居た部屋。彼女がかつてここに存在した。そして僕の心に耳を傾けてくれた。でも、もう居ない。ここには存在しない。僕はその事実を確かめたかった。ちゃんと、もう一度自分の目で確かめたかった。僕は、ドアの隙間から中を覗いた。部屋は誰のものでも無かった。僕は部屋の中に入った。窓からは太陽の陽が差し込んでいた。冬の太陽は力なく、それでも部屋を少しだけ暖めていた。僕は悲しかった。彼女の不在がではない。僕の弱い心が悲しかった。進歩のない心が悲しかった。僕は外を眺めた。紅葉は終わり、木々の幹は何枚かの葉を残しただけで、黒くて細いものを天に突き立てていた。外の世界だけは順調に変わらずに見えた。おそらく来年も同じ時期に同じ風景が見られるだろう。僕は来年の今頃、何処で何をしているのだろう?僕だけが取り残されている。枠から外れている。でも仕方ない。前に進むしかないのだ。ヒロミに話そう。今日、この街から離れる事を。そしてケンという人に会うことを。僕は視線を出口のドアに移した。でもそこには永田が立っていた。そしてそれも何かの象徴に見えた。

永田は随分前から僕を見ていたのかもしれない。僕と目が合っても特に驚いた様子はなかった。そして部屋の中に入ってきて
「すっかり冬だなと」言った。
僕は再び、外の景色に目をやった。直ぐ側の木の枝に、紅葉し終わって赤黒くなった大きな葉が、しがみついていた。僕は中学のときの英語の授業で習った物語を思い出した。原因不明の病で入院している男の子が、病室から見える一枚の葉が枯れて落ちるとき、自分も死ぬと信じてその葉を見守っている話しだ。結局、あの葉は、どうなったのだろう?男の子はどうなったのだろう?全然思い出せなかったし、何故こんな時にこんな話しを思い出すのかもさっぱり解らなかった。つばを飲み込むと大きな音がした。ズボンの後ろのポケットに手をやり、ナイフを持っていないことを少しだけ後悔した。
永田は僕のそんな仕草を見逃さなかった。僕から一歩離れ
「随分おまえを探したんだ」と言った。僕は永田を下から上まで眺め
「今度こそ本当に殺すぞ」と言ったけれど、殺意は沸いてこなかった。
永田は僕がナイフを手にしないことが解ると、再び外に目をやり
「本当に探していたんだ」と言った。赤黒い大きな葉は、今にも落ちそうだった。

もう随分前から僕は、四年前のあの夜の中に居た。血で真っ赤に染まった床の上に僕は立っていた。永田に抱き起こされた真央。漆黒の闇の中に逃げ出した俺。
「真央は生きているのか?」
赤黒い葉は、揺れながらも枝にしがみついている。
「真央は無事だ。傷は少し残ったが後遺症も無く、生きている。だがもう彼女は居ない。私から去ってしまった。大学も辞めた。今は違う男と暮らしている。もうすぐ結婚するそうだ」

強い風が吹くと、赤黒い葉はあっさりと枝を離れ、ひらひらと地面に舞い降りていった。男の子は死んだのだろうか?いや、生き続けたに違いない。教材とはそういうものだ。残酷な結末など、ありえない。
沈黙は随分長く続いた。再び強い風が吹き、遠くの木々の葉が何枚も宙を舞った。男の子は死なない。きっと明るい結末が待っていたのだ。そうに違いない。たとえ何枚もの葉が落ちようと、人はそう簡単には死なない。深く刺さったナイフから生き延びた真央のように。
真央。生きてさえ居てくれたら、それで良かった。

「ここは、久望子さんの部屋だったな」長い沈黙を永田が破った。永田の口から久望子さんの名前など聞きたくはなかった。何処までまとわり着いてくるんだ。二度と口にして欲しくない。もう二度と、この男と関わりを持ちたくない。でも再び、永田は喋りだした。
「久望子さん……」僕はこぶしを握り締め、壁に打ちつけた。
「久望子さんなんて気安く呼ぶな。それから決して彼女に手を出すな。絶対に近づくな」永田は僕の顔を不思議な目で見た。
「近づくなって、おまえ、何も知らないのか?」
小さな沈黙があった。カチカチと音を立てて一つ一つが繋がりはじめた。
僕は何かに弾かれて振り返ると、入り口にヒロミが立っていた。ヒロミは両手で口を覆い、目を震わせていた。僕はヒロミに向かって言った。どういう訳か、声が震えた。
「何も知らないって、どういうことなんだ?」ヒロミは何も答えない。もう一度聞く。
「どういう事なんだ?」
ヒロミの溢れる涙を見て、僕の声の震えが増した。ヒロミの視線は、僕に注がれていた。だけど何処も見てはいなかった。そして搾り出すように話した。一歩一歩手探りで漆黒の闇を進むように。
「満月の夜に、久望子は、ここで死んだわ。ここで、一ヶ月前に、亡くなった。苦しまずに、静かに。ご両親に、看取られて」
僕は天を仰ぎ、溢れてくるものをなだめ、冷静になるように努めた。でも駄目だった。溢れるものを止めることは出来なかった。僕は部屋を見回した。彼女が居た部屋だ。久望子さんが存在していた空間。僕は彼女の気配を感じることが出来た。彼女のにおいをかぐ事が出来た。あの時の香りだ。僕を死の淵から救ってくれた。かすかに残っている。あの香りに、名前をつけよう。何がいい?何か素敵な名前を。でも、何も思いつけなかった。
「死んだって、どういうことだよ。おまえ、主治医だろ。久望子さんが死ぬって知っていたんじゃないのか?」
ヒロミは黙っていた。そして真っ直ぐに僕を見た。でも焦点が定まらない。
「どうしてだよ。どうして黙っていた?僕に何故隠していた?ずっと前から解っていたんだろう?彼女が死ぬって、助からないって、解っていたんだろう?どうして話してくれなかったんだ?」
ヒロミの揺れている瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「だって、ケン。あなたに話したら……」
涙は大きな塊となって、溢れ続けた。
「あなたに話したら、久望子が死ぬってケンが知ったら、あなた、後を追ったでしょ?久望子の後を追ったでしょ?ずっと死に場所を探していたでしょ。ずっとそうだった。ケン、あなたはずっとそうだった。いつか死ぬつもりだった。何かのきっかけをずっと探していた。私には解っていた。ずっとそう感じていた。だからあなたは引き寄せられたのよ。無意識のうちに、惹かれていた。それは死のにおいがしたからよ。久望子の死のにおいをあなたはかぎ分けたの。だから惹かれていたのよ。そして、あなたは、久望子が助からない事を知って、自ら命を絶っていたの。それが私には解るの。愛しているから。だからあなたには、言えなかった。何も話せなかった。あなたを、愛していたから、あなたを守りたかったから」
ただ、呆然とした。そうかもしれないと思った。ヒロミの言う通りだ。僕が引き寄せられたのは死のにおいだったのかもしれない。理不尽なまでに暴力的な力で引き寄せられた力の正体は、久望子さんから発せられた、死のにおいだったのだ。

僕はポケットから封筒を取り出した。もう何度となく、光にかざしてはため息をついた、中身のわからない、久望子さんが彼に宛てた手紙。
ここに全てが書かれてある。おそらくは包み隠さず。彼女がこの病室で何を考え、何を恐怖し、何を彼に託したのか。それは僕ではなく彼に、だった。久望子さんは僕に、何も残さなかった。何も伝えなかった。僕には隠しておきたかったんだ。自分がやがてこの世から去ってしまうことを。僕には理解できた。久望子さんが僕に伝えられなかったことを。ヒロミが言うように、僕がそれを知れば、僕は後を追っていたかもしれない。今でも、まさに今、僕は引き込まれそうになる。見えない力で、強引に有無を言わされずに僕は、引力よりも強く引き付けられている。死の底へ。
 だけど、いやだから、僕は知らなくてはいけない。誰に何と言われようと、どんなに軽蔑されようと、ここに何が書かれてあるのか、今すぐに知らなければならない。そうしないことには、心が壊れてしまいそうだった。
 僕は封を切り、久望子さんが彼に宛てた手紙を取り出した。見慣れた便箋。流れるような文字。久望子さんの言葉。そしてそれはとても短い文章だった。

「ケン。あなたによく似た人を見つけたの。とても似ている。不安定なところや、真っ直ぐなところや、そう、何もかもが。
彼をあなたに託すわ。そして教えてあげて欲しい。私達の事を。私達の全てを。そして彼を助けてあげて」

真っ白になった。心の黒い部分が真っ白になった。それはありありと手に取るようにわかった。僕のくすぶっていた醜い心に、久望子さんの言葉が光を当てた。彼女は、なおもさらに超えていたのだ。僕の浅はかな想いを遥かに。それは、愛や快楽を超えて、具体的で手に触れられるものだった。
 久望子さんは一人で逝ってしまった。僕だけならまだしも、彼にさえ知らせずに。それは明らかに意図した事だった。久望子さんは彼に対して、何を残したのだろう?僕よりも遥かに歴史の古い彼に、何も残さないはずは無かった。久望子さんが彼に残したもの、託したもの、それは僕自身だった。久望子さんは残された時間を、彼の為に使うのではなく僕を生かす為に使った。
「奇跡みたいな事が起きそう」と久望子さんは言った。僕が退院の時だ。僕が生きながらえて彼と会う事が、彼女の最後の、残せる形だったのかもしれない。

 僕はヒロミに久望子さんの手紙を渡した。ヒロミは読み終わると、ゆっくりと大木が寿命を全うするみたいに、その場に座り込んだ。ヒロミの長い脚は折り畳まれ、それはアフリカの草食動物を思わせた。僕はアフリカのサバンナを思った。きっと夕陽が綺麗だろう。でも、海に落ちる夕陽を見る原住民は少ない。

「ヒロミ」僕は座り込んだままの女に声をかけた。
「久望子さんは自分が死ぬことをいつ、知ったのだろうか?」
 ヒロミは真っ直ぐに僕を見据えて答えた。
「ケンに会う前から知っていたわ。最初の手術の後、私が告知した。最後まで戦ったわ。一人で。それが彼女のやり方だったのよ。久望子は自分がケンに対して、死に向かわせる存在である事も知っていたわ。だからあなたに知らせなかったの。隠せるものなら、ずっと隠し通しておきたかった。それが久望子の私に対する遺言だったわ。彼女と私を許して」
僕はヒロミを抱きしめた。顔を上げると夕陽が目にしみた。


夜、僕は駅のホームでサバンナの夕陽の事を考えながら、久望子さんの死を思った。そして彼女に残されていた時間の事を思った。
久望子さんは「病んでいない人なんかいないわ」と言った。「人は見かけによらないものよ」とも。そして自分も「大きく、病んでいる」と言った。
久望子さんは残された僅かな命を僕のために使ってくれた。僕の死のにおいをかぎわけ、僕の心の中の腫瘍を丁寧に取り除き、ゆっくりと正しい道に導いてくれた。自分の病と最後まで戦いながら。
僕はヒロミの事を思った。これほどヒロミが愛おしいと感じた事はなかった。ヒロミ。僕はキミにとても感謝している。今まで僕にぴったりと寄り添い、離れずに居てくれたことを。そして僕の未来を信じていてくれていたことを。僕には自信がなかった。全く無かった。だから変わらずに居た。変わることが出来なかったんだ。でも、今、僕は変わりつつある。久望子さんが変えてくれた。僕を救ってくれた。今は全てに感謝している。僕を変え、再生する機会を与えてくれた全てのものに。ヒロミ、僕が帰ってくるのを待っていてくれるかい?僕はここに居る。ヒロミと同じ場所に。

 駅のホームにアナウンスが流れ、新幹線が滑り込んできた。僕は一瞬、吸い込まれそうになる。世の中は死で満ちている。僕は首を振った。僕は生きる。それが大きな方向であり、目的であり、導き出された結論なんだ。
 届けよう。彼に。久望子さんが残してくれたものを。それは僕自身であり、彼女と過ごした数ヶ月間だった。僕は駅のホームの公衆電話から、教えてもらった彼の携帯電話の番号に電話をした。思っていたよりも、若々しい声だった。僕は新幹線に乗り込んだ。心がはやった。

彼はまだ、久望子さんの死を知らない。



おわり

サイド・ストーリー

サイド・ストーリー

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2012-01-15

CC BY-NC-ND
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