輝く白を知る
真面目に書く長編は初めて。かなり歪で文章力は底辺ですが、走ってみようと思います。
何かの作家さんに影響されている感は否めません。ご了承ください。
作中に出てくる柴崎創先生は、昔私が書いていた小説の主人公です。その時は先生ではありませんでしたが、今回このような形で再登場してもらいました。創君は今とは性格真逆な高校生でした。
『プロローグ』
将来の夢とか、未来への希望とか、そういう一見綺麗で透明感のある言葉には、必ず相応の対義語が存在する。
絶対に叶う夢なんてない。目に見える希望なんて存在しない。綺麗なままの願いなんて、きっとどこにもありはしない。
そんなこと、最初から分かっていた。
「暁人、何を見てるの?」
不意に声をかけられて、背中に人の気配を感じた。
放課後、今はもうほとんど使われていない、美術室。そんな所に来る人間は一人しかいないから、振り向かなくても、誰がいるのか分かる。いつの間に入って来たのだろう。俺は人の気配に鋭い方だと思うのだが、こいつが相手だとどうも気が抜けてしまう。
らしくない。それほどこいつに慣れてしまったということなのか。癪にさわりながらも、俺は黙って、持っていたスケッチブックを渡した。開かれたページには、小さな花束の絵が描いてある。
声の主、速水律は、それを見てああ、と察したように言った。
「懐かしいな。いつ描いたんだっけ。」
「一ヶ月前くらいだから、そんな懐かしむようなものでもないよ。」
「そうだっけ。でも、上手く描けたんだよ。特に向日葵。綺麗だと思わねえ?」
得意気にそう言って、俺にスケッチブックを返した。何が楽しいのか、にやにやと笑っているその姿に、何故だか既視感を覚えた。
俺はスケッチブックに目を落とした。ページいっぱいに花束が描かれている。そして、いくつもあるその花の中でも、ひときわ目立っているのが向日葵だった。
太陽のような大輪。絵の具で描かれていると分かっていても、光って見える黄色の花弁。それでいて優しい印象を受ける、撫でるような筆使い。
見ているうちに、口元が緩んできた。それはこの描き手の無邪気さと、本当はこんなに輝いていなかった、向日葵に向けての笑みだった。
「…うん、そう思う。」
俺は言った。心からの言葉だった。
「綺麗だと、思うよ。」
律の目が、嬉しそうに細まる。白に近い不思議な色の髪が、窓からの隙間風に揺れている。
俺は、零れそうになる切ない記憶を押し隠して、彼の笑顔の前にいた。
まだ秋が深まる前、凍えるような冬の手前の、そんな一幕だった。
『始まり』
それは、穏やかな日差しの降る卯月の候。
桜色に覗く新緑が好きだと知った、十五歳の春だった。
東京の都心から、電車で数分。都会の喧騒からは少しだけ離れたこの場所に、俺の通う高校はある。
入学式を二週間前に終え、自分と一緒に入学した生徒達の緊張も、少しずつ解れてきたように思う。当初は割り当てられたクラスの中で、それぞれがお互いに距離を縮めようと笑みを浮かべ、教室内はしばらくぎこちない空気が満ちていた。それが二週間で、気の合う仲間に別れてふざけあう余裕さえ生まれている。人間の持つコミュニケーション能力は、自分が想像していたのよりもずっと高いのかもしれない。休み時間、目の前で楽しそうに喋る女子達を見て、そんなことを思った。
まあ、あいにく俺は、そういった能力においてはカテゴリーエラーだけれど。
人が集まる場所には極力行きたくない。
友達と仲良くしている自分は想像できないし、しようとも思わない。
高校生らしくない自覚はあるけれど、そんな自分を悲観するような感受性も持ち合わせていない。
自分の席から見える景色が、見慣れているような気がするのも、きっとそういうことなのだろう。
今日の授業はすでに終了しているため、生徒達は次々に教室を出ている。数人残っていた男子も、いつの間にか視界から消えていた。
放課後の殺伐とした空気は、それでもいくらかの価値はあると思う。一人の方が落ち着く奴だっている。賑やかな笑い声が苦手な人間だっている。俺はそういう類の一人だった。人が嫌いなわけではないけれど、俺は多分、他の人達よりも少し付き合いが苦手なのだ。
理由は分かっている。十分すぎるくらいの理由が、ちゃんとある。
でも、そんな話をする相手がいないのも、事実だった。
今日も今日とて、人の失せた教室の中、自分の席で頬杖をついている。窓際の一番後ろの席は、小学生の時から変わらない、俺の特等席だ。窓の隙間から緩い風が入ってくる。むず痒い、春の風だ。まぶたがだんだん重くなってくる。春の陽気に眠くなるのは人間の摂理だろう。外の景色がぼやけてきた。
このまま寝てしまおうかと、そう思っていた時。教室の扉が開いた。
「一ノ瀬、まだ残っていたのか」
知った声に、下がりかけていたまぶたを押し上げる。振り向かなくても、誰かは分かっていた。
「もう皆帰ったもんだと思ってたんだけどな。何してるんだ?」
「花見、みたいなものです」
「花見…ここからじゃ、桜は見えないけどなぁ」
適当な答えを真に受けたのか、真面目な答えが返ってきた。どうやらこの人は、教師という肩書きよりも、よほど単純な漢だ。
声の主は、クラス担任の柴崎創だった。担当は英語。帰国子女らしいが、本人は純粋な日本人だ。短く切られた黒髪に、同じ色の瞳。背が高くて、顔立ちも整っているが、そんなもの男の俺には全く興味のないものだ。
柴崎は教室に入るなり、教卓のあたりで何かごそごそやっている。その教卓の上には、技術科目の教科書が山と積まれている。今日配られて、名前だけ書かせて回収したものだ。無駄な過程だと思ったが、その前後の柴崎の説明を聞いていなかったから、回収した理由は知らない。
俺はまた黙って外を見た。確かにこの教室からじゃ、校門から校舎まで続く桜並木を見ることはできない。この学校の並木道は、近所では有名らしく、立派なソメイヨシノがずらりと並ぶその景色は、都心の人工的なそれとは迫力が違った。今朝はもうほとんど散って葉桜になっていたが、登校初日はもう満開で、これが春だと言わんばかりに大きな花をつけていた。見事な咲きざまだったと思う。あれなら、新緑の季節になっても人々の目に映えるだろう。
ふと、並木の裏側にあるこの教室の前を、桜の花びらが飛んで行った。
今日は風が強いらしい。
「お、あったあった」
斜め前方から、のんきな声が聞こえてきた。探し物が見つかったらしい。彼は大きなため息をついて、そのまま帰るのかと思いきや、こちらに視線を寄越してきた。
「…と、いうわけで。一ノ瀬、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
どついうわけで?
俺は初めて柴崎の方を向いた。彼は教科書の山を示して、爽やかな笑顔をおれにむけた。
「この教科書を、技術教室のある特別棟まで運ばなきゃならないんだけど、俺一人じゃ無理だろう。だから手伝ってほしい」
「なんで俺が」
「困っている人を助けるのは人間の常じゃないか」
たとえ相手が教師であっても、と柴崎はつけくわえる。今度は俺がため息をついた。
この眠気の中、重い教科書を運ぶなんて、想像しただけで疲れる。面倒くさいことこの上ない。
でも、眉間に皺を寄せている俺とは対照的に、柴崎は笑顔のままだ。端正な顔がさらに爽やかさを増している。その笑みは相手の善意を信じて疑わない子供のようだった。
俺はまた小さくため息をついた。断る適当な理由も浮かばない。考えに考えて、俺はやっと重い腰を上げた。
全く勘弁してほしい。
ここ、私立常瀬高校は、都内でも有数の進学校として有名であり、また広大な敷地を持つマンモス校として知られている。学部も普通科、理数科、美術科、音楽科と多彩で、それに伴って生徒数も多い。しかし学部ごとに校舎が別れているため、同じ学校に通っていても、違う学部の生徒同士が顔を合わせるとこは少ない。せいぜい登下校中か、特別棟を利用する時くらいだろう。現に、この学校には俺の従兄弟も数人在籍しているが、学部が違うため、今まで一度も見かけていない。
「そういえば、特別棟にはまだ行ったことがないか、一年は」
教科書を前に抱え、校舎同士を結ぶ渡り廊下を進む。柴崎の呑気な声に、返事をするのも面倒だった。
「授業が始まれば、行くことになるけどな。特別棟はこの学校で一番古い建物なんだ。普通科はあまり使わないし、よく使うのは美術科と音楽科…特に美術科かな。なんと美術室が三つもある」
それは多いな。
「廊下にも、絵がたくさん飾ってあるんだ。今年の入学試験で、受験生に描かせた絵が。すごいよ、みんな本当に中学生か描いたのかって思うほど迫力があってな」
柴崎は喜々として語る。芸術科の入学試験では、学部に応じて実技試験が課される。美術科なら絵、音楽科なら歌や楽器の演奏。他にも分野別に課題があるらしいが、普通科の俺には全く縁のないものだ。
「そういえば、今年の推薦入試で入った生徒の中に、すごいレベルが高い子が入ってきたって、先生が言ってたな。名前、なんだっけ。美術科の子だったと思うんだけど」
そう呟いてうんうん唸っている柴崎は、見た目こそ大人だが中身は案外幼いように見えた。何というか、威厳がない。若い教師に威厳なんて求めてもしょうがないのだけれど。
特別棟に入ると、アルコールのような臭いがした。美術の材料だろうか。鼻にツンとくる刺激臭は慣れなくて、長くいると頭が痛くなりそうだった。
「これは、どこまで運べばいいんですか」
「一ノ瀬のは、第二美術室。今は使われてなくて物置みたいになってるけど、そこの机の上に置いてくれればいいよ」
「先生は」
「俺は音楽室だから、こっち」
突き当たりに来ると、道が左右に別れていた。柴崎はその左を顎で示して、
「一ノ瀬は左に行って。進めば表札が見えてくるから」
そう言って、自分は右に折れた。俺もそのまま左に進もうとする。
去り際、不意にこっちを振り向いた柴崎は、
「今日はありがとう。美術室、一年では一番乗りだな」
と、彼の特徴的な低い声で悪戯っぽく笑った。
普通科の校舎とは違って、少しレトロな造りの特別棟は、高校というより大学のような印象を受けた。廊下も視覚に何だか茶色いし、壁の色だって色褪せて変色している。金持ち校が。壁塗りにケチるほど貧乏なわけでもないだろうにと、歩きながらぼんやりと思う。
廊下には、柴崎の言う通りたくさんの絵が飾られていた。有名らしき画家のものもあれば、生徒が描いたものもある。
まるで小さな美術館のように、ずらりと並べられた絵。その中に、『新入生入学試験』という枠で区切られた作品があった。
テーマは『いつか見た夢』。漠然としたその主題に、それでも描き上げられた作品たちが、枠に入れられ飾られていた。
俺はそれを流すように見ていた。正直、俺には絵のことなんてちっとも分からない。どんなに優れた絵であっても、それが芸術と呼ばれる類のものなら、俺には到底理解できないものだった。イラストなら好きだが、本当の美術には興味がなかったのだ。
俺はぼんやりと歩を進めて、やがて『最優秀選考』という札のついた作品の前に来た。
テーマは確か、『いつか見た夢』。確かにそうだ。そのはずだ。
それは多分、眠っている時に見た夢のことだろうと思っていた。現に、今までの絵はほとんどが非現実的なもので、不思議な描写が多かった。
しかし、これは。今目の前にある絵は、本当に夢の中の話なのだろうか。
描写はいたってシンプルだった。白い地の色に、左右から手が伸びているだけ。本当にそれだけの絵だった。
右から伸びる手は、小さく薄汚れていて、傷だらけのように見えた。特に手の甲に、大きな傷が走っている。そしてそのボロボロの手が伸びる先に、差し出されるような白い手が描かれている。それはボロボロの手よりもずっと大きくて、でも細く優しい形をしている。その二つの手が、触れるか触れないかの距離感で描かれているのだ。
特別何か高い技術を使っているようには思えない。描けと言われれば描けるような気もする。でも、そうじゃない。きっとこれは、そんな簡単に描かれたものじゃない。俺には絵のことなんて分からないけれど、これはこの描き手にとっては『いつか見た夢』だったのだろう。色はほとんど使われていない。ただ手の輪郭の筆使いが繊細なことは、素人目にも分かる。
助けを求めるような夢が、そこにある。
それを救おうとしている誰かが、そこにいる。
そう思った瞬間、俺はその場から動けなくなった。
ただじっと、吸い込まれるようにその絵を見つめ続ける。
だから、こちらを見ている視線に、近づいてくる足音に、俺は気づけなかった。
「その絵、そんなに見惚れるほど綺麗だと思う?」
唐突に、声をかけられた。澄んだ高い声だった。
俺は我に返って、声の方を向いた。
そこには一人の生徒が立っていた。襟の黒いブレザーを着ている。美術科の制服だ。その服装から男だということは分かったけれど、思わず目を瞠ったのは、そいつの髪の色だった。
金髪よりも、もっと薄い。白に近い不思議な色の髪。それが、男にしては長く、肩口で揺れている。よく見れば目の色もそれと同じだ。
俺はロマンチストではないし、ファンタジー好きでもないけれど、彼の色は魔法のように綺麗だった。綺麗だと思った。
不思議で、どこかふわふわと浮いているような、そんな澄み切った色だ。
俺は驚きと戸惑いで、黙ったままそいつの顔を見ていた。すると、無表情だったその顔に、不意に可笑しそうな笑みが浮かんだ。
「変な顔」
透明感のある声でそう言うと、彼は俺の隣に立った。俺はさらに戸惑ってしまった。
彼はそんな俺には意も介さず、同じように絵を見上げた。身長は俺よりずっと低くて、俺の肩が丁度彼の耳の位置だった。
「最優秀選考だって。大袈裟だよなぁ。もっと上手い人はたくさんいるのにさ」
「…あんたは、」
俺はやっと口を開いた。彼は少し低い位置から俺を見上げた。
大きな瞳が、すぐ近くで光っている。
「あんたは、誰?」
「俺?」
俺の問いに、きょとんとした顔を一瞬見せて。そしてすぐ察したようにまた笑った。
細く白い指が、絵の下の表札を示す。
そこには『速水 律』という名前が書いてあった。
「俺の名前」
そう、彼、速水律本人は答えた。
日本の名前だ。てっきり外国人かと思ったのだが、違うのだろうか。
「あんたが描いたのか、この絵は」
「そうだよ。失敗作だけど」
「失敗作?」
「左の手の形が、あんまり思い出せなくて。想像で描いたんだ。だから、偽物。この左の手は、本物じゃない」
偽物、本物。よく分からないけれど、これは誰かの手をモデルに描いたということだろうか。そんなもの、見る人には見分けなんてつかないと思うのだが。
速水律は、その絵を撫でるように手でなぞった。細くて華奢な、男っぽくない手。
その手の甲に、絵と同じ傷痕が走っていた。
「あんた、何でこの絵、見てたの?」
視線はそのまま、彼は俺に問う。
何で。そんなことを訊かれても、俺には答えられなかった。自分でも理由をよく分かっていなかったから。
でも、何だろう。何だか、違和感があるのだ。
「…何が描きたかったのか、分からなくて。あんた、何を描いたんだ、これ?」
「夢だよ」
「眠ってる時の?」
「ううん、ちょっと違う」
じゃあ、と問い返すより先に、速水律は首を振る。長い髪がサラサラと揺れた。
「言葉通りだよ。いつか見た夢だ。それ以上もそれ以下も、ないよ」
穏やかなその言葉に、これ以上の詮索を拒絶しているのを感じた。俺は口をつぐんで、紙の上の二人に視線を戻した。隣に人がいるのに、何の抵抗も覚えなかった。
そうして、どれくらい並んで絵を眺めていたのだろう。不意に、抱えた教科書の重みを思い出した。そうだ、これを届けるためにここに来たのに。
忘れていた、と、横にいる美術科専攻に尋ねる。
「なあ、第二美術室ってどこだ?」
「この廊下の奥から二番目だけど。それ、教科書運ぶの?」
「強制労働だけどな」
「じゃあ、手伝ってやるよ」
そう言って、速水律は半分ほどの冊数を俺の腕から抜き取った。そのまま歩いて、こっちだと顎をしゃくってくる。
そして、多分、この時。
今日という日の、朝を迎えたあの時から、こうなることは決まっていたのかもしれない。
「そうだ、あんたの名前も教えてよ」
もし俺が、担任の頼みを聞いたりしなければ。
こんなところまで、足を運んだりしなければ。
俺が、彼と出会わなければ。
身を千切るような悲しみも、泣きたいくらいの幸せも、知ることなんてなかったはずなのに。
俺は少し間を空けて、その名前を口にする。
「一ノ瀬…」
不思議と、抵抗はなかった。
「一ノ瀬、暁人」
真っ白だった俺の世界が、この出会いによって、どんな色に塗られていくのか。
あの頃の俺は、世界の残酷さも、幸せも何も知らない、ただの子供だったのだ。
輝く白を知る
一章、終わりです。文章力が事故起こしてます。
続きは書けるかなぁ。書きたいなぁ。