雨がやんだら(1)
海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。
どんよりと分厚い雲のせいで薄暗い部屋には、電子音が定期的に鳴り響き、ベッドの上ではかつて華やかな世界の住人だったという女が、この無機質で残酷なメトロノームに合わせて、痩せた胸を上下させていた。
少年はその女の傍らに腰かけ、点滴に繋がれた女の細くなった右手を両手で優しく包み込んでいた。
「花田……博之君だね」
少年は私の問いかけに、女の右手を握ったまま頷いた。
「私のことは……」
「あなたのことは、大江さんから聞いています」少年――花田博之が答えた。華奢な身体の割に、太い声だった。「僕を捜してるんでしょう?」
私は「そうだ」と答えた。
「よく……わかりましたね」
「こういうことをやって、メシを食ってるんでね」
「僕を捜すように頼んだのは、誰です?」博之が私に訊いた。
「悪いが、そういうことには、答えられないことになっている」
「そうでしたね……」博之は女に視線を向けたまま、小さく笑った「でも……察しはついています」
「誰だと、思ってるんだ?」
「それを当てたら、どうして僕がここにいるのがわかったのか、話してもらえます?」
私は「いいだろう」と答えた。
「理事長……いや、あの人は、学院長って呼ばれたがってたんだ」私に横顔を見せたまま博之が回答を披露した。「僕を捜すように依頼したのは、学院長ですね。違いますか?」
「その理由は?」
「学院長は見栄っ張りで、気の小さい人なんです。僕が突然いなくなったことで、あなたのような人を雇うとすれば……そう考えて、真っ先に浮かんだのが学院長でした。他の人なら、警察に頼むはずです」
私は自分の博才の無さに、思わず苦笑がこぼれた。いや、それよりも博之の勘の鋭さを、洞察力の高さを褒めるべきなのか。
とにかく、約束は守らねばなるまい。私はここにたどり着くまでの経緯を、博之に話し始めた。
一
二週間ほど前のことだった。
私はその日、小さな仕事が立て続けに舞い込んだために、溜まりに溜まってしまった経費の計算やら請求書の作成といった事務処理を、午前中いっぱいかけて済ませた。慣れないデスクワークをこなした頭を休ませるためには、すかさず一服――といきたいところだった。しかし、一向にすっきりとしない空を眺めながら煙草を喫ってしまうと、またぞろ無精者の血が騒ぎ出す恐れがあったので、私は作ったばかりの書類を抱えて近所の郵便局へと足を運んだ。無精者といえどもメシを食わねばならず、そのためには〝できたてほやほや〟の書類を相手に届けなければならないのだ。
すべての書類を郵送したついでに立ち寄った行きつけの〈オリオンズ〉では、〝特製ランチ〟――今日のメニューは、豚肉のショウガ焼き定食だった――をカウンター席で平らげた。食後は早々に事務所に戻るつもりが、マスターの村田が口にした「コーヒーをご馳走してやる」の一言にだまされて、開幕ダッシュに失敗したマリーンズへの愚痴につき合わされる羽目になり、私が〈オリオンズ〉を出る頃にはすでに十四時を回っていた。
事務所のある雑居ビルに戻ると、一階のエレベータホールで、黒のポークパイハットをかぶり、淡い水色の上着にループタイという粋な恰好をした男と出くわした。同じフロアに事務所を構える鈴木という男だった。
鈴木は私を認めると「お客さん、来てたよ」と教えてくれた。
「そうですか……」
「あんたの事務所の前で、待つように伝えといたから」
「それは、ありがとうございます」お礼の後で続けた。「ところで、鈴木さんは、お出かけですか?」
「ええ。ちょっと仕事でね」
鈴木は軽く右手を挙げ、「ごめん、急いでるんだ」と言って、小走りで雑居ビルを出ていった。鈴木とは、とある依頼がきっかけで時折飲み歩く仲になったのだが、彼の稼業がなんであるのか、私は未だに知らなかった。ともかく、慌てて飛び出さねばならぬほど、忙しいということなのだろう。悪いことではない。
私は鈴木の背中を見送り、エレベータを使って事務所のある五階まで上がった。
ガタガタと音を立てて五階に止まったエレベータを降りると、鈴木が教えてくれたように、私の事務所の前に人影があった。五十絡みの中肉中背、ダークブラウンの背広を着た男は、エレベータから降りた私を見つけるなり、大きな声で「こちらの事務所の方ですか?」と訊ねてきた。
本来、私の事務所に訪れるような人間は、声をひそめたがるものなのだが――私は軽く頭を下げるだけで応えて、彼の前を通り過ぎた。鍵を使い事務所のドアを開ると、応接セットに男を通す。
仕立てのいい三つ揃いの背広を着た男は、持参してきたマニラ封筒を応接セットのソファに置くと、名刺を差し出した。「突然、申し訳ございません。私、林と申します」
受け取った名刺には〈学校法人聖林学院 学院長兼理事長 林信篤〉と刷り込まれ、住所は武蔵野市と記載されていた。
「今日、こちらにお伺いさせていただいたのも――」男――林信篤が、彼に私の事務所を紹介した人物の名前を挙げた。それは、以前に引き受けた土地売買に絡んだ個人投資家の身辺調査を依頼人した男の名前だった。「――彼と僕は、高校時代の同期でしてね。彼が言うには、あなたの仕事振りは素晴らしいとのことでしたので……」
「それは、ありがとうございます」私の仕事振りはお世辞半分として聞いた。なんにせよ、真面目に仕事はこなすもの、ということだ。
「で……今日はいったいどういうご用件で?」
「我が学院の生徒のことについて、ご相談したいことがありまして……」
「私に臨時で教師になれ……とでも、仰るのですか?」
「そうではないです」林は苦笑で私の軽口を否定してから、本題を切り出した。「実は……我が学院の生徒がひとり、行方がわからなくなってるんです」
「それは、尋常ではありませんなァ……その行方がわからなくなった生徒さんというのは?」
「ハナダヒロユキという子で、我が学院の四年生です。あ……他校に合わせると、高校一年生ということになります。我が学院は、中高一貫ですので」林が傍らに置いたマニラ封筒を私に差し出した。「こちら……なんですが、ハナダヒロユキ君について資料をまとめてきました」
私は林に断りを入れてから、封筒の中身を取り出した。ハナダヒロユキに関する個人データ――おそらく学校に保管されている資料を焼き直したものなのだろう――とハナダヒロユキの写真、そして〈聖林学院〉の入学希望者向けのパンフレットも同封されていた。
――商魂たくましい理事長さんだ
無精者の私は、見習わなければならないだろう。ただ、理事長には申し訳ないのだが、私にはこのパンフレットを見て心を躍らせる子供がいない。
「あの……個人情報ですので、取り扱いには――」そこまで言って、林が恐縮して頭を掻いた。「すいません。〝釈迦に説法〟でしたね。どうぞ、ご覧になってください」
古い言い回しをする林に頷いて応えて、私は渡されたハナダヒロユキに関する資料に目を通した。
ハナダヒロユキ――花田博之、十六歳。身長一七六センチ、体重五八キロ。成績は学年でトップクラス。部活動は、入学時からバスケットボール部に所属――などなど、箇条書きにされた個人情報の他に、これまで彼の担任を務めた教師たちとバスケットボール部のコーチによる花田博之への印象も記載されていた。彼に接した大人たちは、おしなべて〝真面目でおとなしい〟と印象を綴っていた。
同封された写真には、バスケットボールのユニフォームを身につけた色白で細身の少年――鼻筋の通ったなかなかの美男子だった――が写されていた。なにより私が気になったのは、少年のカメラに向ける眼差しだった。その眼差しにあるのは、この年頃にありがちな見えるものすべてに対する敵意だとか、怒りではなかった。黒い瞳の奥には、心の裡を見透かされまいとする強い意志のようなものがあった。それが少年――花田博之に大人びた印象を与えているとともに、年齢にそぐわない影を際立たせているように感じられた。
「それで、この……花田博之君が姿を消したのは、いつ頃のことです?」
「十日ほど……前になりますか」
私は事務所の壁にかけてあるカレンダーに視線を走らせた。林の言う〝十日ほど前〟は、五月二十日前後ということになる。未成年者の捜索依頼は、ゴールデンウイークや夏休みなど長期休暇が終わった直後に舞い込んでくることが多い。
――旅に出た息子が帰ってこない
――都会に出たまま娘が戻らない
そういった遊びの時間が終わったことに気づかずにいる子供たちを捜すことも、私の仕事のひとつではあった。ただ、今回は時期がずれている。そして、私にはもうひとつ気になることがあった。
「しかし、なんですなァ……こういった依頼は、普通は親御さんからされるものなんですが、なぜ理事長のあなたが?」
「彼は、我が学院の寮生なんです。ですので……彼の行方がわからなくなったことについては、学院長である私の責任でもあります」
「なるほどね……ということは、この十日ほどの間、理事長たちで博之君を捜索したんですか?」
「はい。一般職員も、教職員も総動員して捜せるところはすべて捜したんですが……見つかりませんでした。学院長として、一刻も早く彼を見つけて、そして姿を消してしまうまでに悩んでいたものはなんなのか、聞いてあげたいんですが……」林が両手の指を絡ませてきつく握った。懺悔室に入った悩める信徒のように。
「警察への捜索願は?」
「出していません」林が目を伏せて答えた。
「出してない?」
「ええ。あまり表沙汰にしたくないんです」あっさりと答える林の私を見る目は、教育者である〝学院長〟ではなく、経営者である〝理事長〟のそれだった。「実のところを言いますと、花田君の保護者には、我が学院へ多額の寄付をしていただいています……今後の学院の運営を考えれば、花田君の捜索は警察にではなく、あなたにお願いしたいと考えています」
私に失踪者の捜索をわざわざ依頼に来るのだ。警察には頼めない理由があるのだろうと思ってはいたのだが――ここまで正直に話されるとは考えていなかった。まあ、隠し事をされるよりはマシだ。
「わかりました。お引き受けしましょう」
「ありがとうございます」林はソファから立ち上がると、私に深々と頭を下げた。
私は「おかけください」と言って、林に腰を降ろさせてから、ひとつお願いをした。「博之君の同級生であるとか、寮で同室の生徒さんにですね、ちょっと話を聞きたいんですが……協力していただけますか?」
林は渋い顔をして、しばらく考え込んでから答えた。「……しょうがありませんね。ただし、私が同席することを条件にさせてください」
「それは、ちょっと困りますなァ……」
「どうしてです? 他の生徒たちも彼がいなくなったことに心を痛めています。私は、彼らのケアをしなければならない」
「この花田君が姿を消した理由が、学校生活にあるのだとしたら……林さん、理事長でもあり、学院長でもあるあなたが同席していたら、生徒さんたちには話しづらいこともあるんじゃないですか?」
「確かにそうかもしれませんが……」林は再び渋い顔をしたが、今度は即座に回答した。「やはり、ダメです。私が同席することが条件です。花田君の失踪の理由が、我が学院にあるのなら、なおさら私は、彼らの話を聞かなければならない」
私を見つめる目は、〝学院長〟のものになっていた。ころころと〝目の色〟を変える依頼人だった。
結局、林の同席については、私が折れることにした。これ以上、私が意地を張ってもしょうがない。聞き込みができる環境を作ってくれるというのだから、それだけでも〝御の字〟だと思うことにした。
「……わかりました。同席していただいても、構いません」
「我が学院の校訓は『誠実・真摯・明朗・高潔』です。生徒たちが嘘をついたり、その場凌ぎなことを言うわけが、ございません」林は鼻息荒く胸を張った。そして、背広の上着から取り出したスマートホンを操作してから続けた。「では、どうでしょう。明後日、土曜の五時半に我が学院の男子寮に来ていただくというのは?」
私は「問題ありません」と答えた。
「ご足労をおかけします。我が学院の男子寮の住所は、お渡しした入学資料の方にも記載されていますので、そちらをご参考になさってください」
それから、依頼料についての説明など事務的な打ち合わせをした後で、これから会合があるという林は〝理事長〟の目をして私の事務所を出ていった。
私は林が事務所から姿を消した後、煙草にブックマッチを使って火をつけて、林が残していった入学希望者向けのパンフレットを眺めた。それから、パソコンを使って〈聖林学院〉について、検索をした。
検索結果やパンフレットに書かれた内容によれば、〈聖林学院〉の創始者は林信勝という人物で、昭和初期に創立されていた。創立時は〈林学園〉という名称だったが、敬虔なクリスチャンであり今回の依頼人でもある創始者の孫、林信篤が三代目の〝学院長〟に就任した二十年ほど前に、商業主義ではなく豊かな人間育成を掲げてキリスト教の教義を教育方針に取り入れ、校名も〈聖林学院〉と変更し、中高一貫教育の学校として現在に至っている。資料を見る限りでは、武蔵野の緑地に囲まれたオフホワイトを基調にした校舎など、環境も悪くなさそうだった。部活動は全国クラスまでの実力はないが、都大会ではそこそこの成績を収めているようだ。国立大学や有名私立大学にも現役で進学した生徒も輩出していて、少子化のこのご時世でも、入学希望者は後を絶たないらしい。
どうやら、私は久しぶりに上客を引き当てたようだ。そうとなれば、大きな仕事を引き受けるに当たって、気合いを入れなければならない。
今晩の夕食は、前祝いとして〈新世界菜館〉で豪華な中華料理としゃれ込むことに、私は決めた。
二
翌々日の土曜日、私は三鷹駅の北口に降り立った。
東京は最先端の都会だと言う。しかし〝最先端の都会〟だといったものを感じさせるのは、東はそれこそ隅田川までで、隅田川を越えてしまえば、そこはかつて〝川向こう〟と呼ばれた下町情緒溢れる町並みになる。そして西は新宿までで、新宿から一歩西に進めば、武蔵野丘陵の風が吹き抜け、新宿からJR中央線で三十分離れた三鷹駅前ともなると、風に漂う緑の匂いは色濃くなっていた。
〈聖林学院〉の男子寮に行くには、三鷹駅北口からバスを使わなければならないのだが、どのバスに乗ればいいのやら――バスロータリーをうろつく私に、ひとりの少女が声をかけてきた。「どうされました?」
身長は一五〇センチほど。よく陽に焼けたショートカットの少女だった。部活動の帰りなのだろうか、トレーニングウェア姿の少女は、大きなスポーツバッグを肩からかけていた。
「〈聖林学院〉の男子寮に行きたいんだけど……どのバスに乗ればいいのか、わからなくてね。よかったら、教えてもらないかな?」
「〝ハリコー〟ですか……それなら、こっちです」少女はそう言って、私をバスロータリーの真ん中にあるバス停へと案内してくれた。少女は時刻表を見て言った。「あともう少ししたら、バスが来ると思います」
私は少女にお礼を言ってから、気になることを訊いた。「〝ハリコー〟っていうのは、〈聖林学院〉のことなのかな?」
「そうです。あの……アメリカにハリウッドってあるじゃないですか。アメリカのことを〝米国〟って漢字で書くみたいに、ハリウッドを漢字で書くと〝聖林〟ってなるんですって。だから、ハリウッド学院……ほんとなら〝ハリ学〟になるんでしょうけど、語呂が悪くて……だから、略して〝ハリ校〟。この辺の人は、みんなそう呼んでます」
「なるほど……それで、〝ハリ校〟ね」商業主義ではなく豊かな人間育成を掲げた学校の校名が、商業主義映画の総本山と同じとは皮肉なことだった。理事長、いや学院長である林はそのことをわかっているのだろうか。
「では、きみはその……〝ハリ校〟の生徒さん?」
少女が顔の前で手を振り、目を丸くした。「そんなに頭良くないですよォ」
豊かな人間育成を掲げた学校には、明るく利発というだけでは、入学できないようだった。
「そうか、きみは違う学校なんだ。いや……きみが〝ハリ校〟の生徒だったら、学校に関係する人たちは、鼻を高くするだろうと思ってね」
「お上手ですね」少女が笑顔で答えた。陽に焼けているせいなのか、白い歯がきれいに見えた。
「そんなに、上手かな?」
「はい」私の問いかけに少女は笑顔のまま頷いた。丁寧にお辞儀をしてから言った。「それじゃァ、わたしは失礼します」
「ありがとう」と答えて、私はバス停を去る少女の背中を見送った。
お目当てのバスが姿を見せたのは、暇つぶしとして煙草でも喫おうかとワイシャツの胸ポケットに手を伸ばしたときだった。そのバスに二十分ほど揺られて、目的のバス停に到着した。このバス停からの道筋は、事前に調べて頭の中に入れてある。私は梅雨入りが間近であることを感じさせるすっきりとしない空の下、バス通り沿いを歩いて惣菜屋の角を左に曲がり、三〇〇メートルほど歩いた先にある目的地へと向かった。
〝ハリ校〟こと〈聖林学院〉の男子寮は、〈武蔵野郵便局〉の裏側にある住宅街の一角にあった。〈林学園〉時代から使用されている建物らしく、長年の風雨にさらされた白い壁が色あせていた。入口に掲げられている〝聖林学院男子寮 誠真寮〟という看板と、〝当学院関係者以外の立ち入りを禁じます〟の注意書きがなければ、四階建ての集合住宅のような佇まいだった。寮の中に入るには、入口脇に儲けられた受付で許可を取らなければならないシステムになっているようで、受付のガラス戸の中では、守衛も兼ねているのだろう初老の男が睨みを利かせていた。
受付で名刺を渡し、五時半の約束で訪問した旨を告げると、痩せぎすの初老の男は、眼鏡を外して私の名刺を確認した。私の稼業を知った男が、ガラス戸の向こうから私をまじまじと見つめてくる。
「五時半の約束って、なんの用件なの?」眼鏡をかけ直して男が言った。彼がこの受付に座る前に就いていた稼業が、私と同じであっただろうことを、その目つきと口調が雄弁に物語っていた。
「理事長の林さんから、聞いてませんか?」
私が林の名前を出すと、男は眼鏡の奥にある目を見開いて、慌てて手元を探った。ようやく見つけたメモに目をやり「申し訳ありません。少々お待ちください」と言って立ち上がると、慌ただしく奥へと姿を消した。
時間にして煙草一本分の間、受付の前で待たされた。それから入口のドアが内側から開けられ、先刻の初老の男が顔を出した。受付の中にいるときにはよくわからなかったが、初老の男は私より頭ひとつ分背が高く、一九〇センチはありそうだった。初老の守衛は、その長身をすくめて「どうぞ、お入りください」と私を男子寮へ招じ入れた。中に入ると、入口のロビーはフットサルをするには充分な広さがあり、私から見て左には、病院の待合室のようにソファが数台据えられていた。
「本日は、遠いところご足労をおかけしました」ロビーの中央で待っていた女が、礼儀正しく頭を下げて言った。 黒のパンツスーツ姿の女は、年の頃は三十手前といったところで、ヒールのある靴を履いているとはいえ、私とそう変わらない背をしていた。黒髪を引っ詰めて頭の上で団子状にしているので、小さな顔が余計に小さく見える。それにしても、受付の男といい、彼女といい〈聖林学院〉の職員募集要項には、身長制限でもあるのだろうか。
「わたくし、〈聖林学院〉の森と申します」女が手にしていた名刺を差し出した。女の名刺には〈聖林学院 教務課主任 森真砂子〉とあった。「申し訳ございません。学院長の林なんですが……急遽、外せない会合が入りまして、わたくしが代理で付き添わせていただきます」
「まァ……仕方がないですね」あれこれと口を出してきそうな林がいないのは、幸いだった。「で、生徒さんには、どこで話を聞かせてもらえるんですか?」
「こちらへどうぞ」真砂子が先を歩き始めた。後についていく私に真砂子が言った。「二階の食堂に、花田君と同学年の子たちを集めています」
奥にある階段を昇り二階へ。階段にも、食堂で生徒たちが上げる嬌声が、漏れ聞こえていた。
真砂子が眉間にしわを寄せた。「うるさくて、申し訳ありません……」
「構いません。あの年頃に、〝静かに待ってろ〟なんてのは無理な話ですよ」
「そうでしょうけど……お恥ずかしい限りです」
「それに今日は土曜日だ。なにもなければ、彼らも、どこかへ遊びに行っていたんでしょう?」
「……ええ、おそらくは」
「私が彼らの歳の頃は〝半ドン〟でしたけど……土曜日のこの時間帯なら、遊びに出かけてましたからね」
「〝半ドン〟?」真砂子が立ち止まった。難しい顔をして、首を傾げる。
どうやら、私の使った単語は、彼女の世代には通じないらしい。私は、これから彼女より若い世代と話をしなければならないのだが。
「行きましょう」真砂子を促して、先を急いだ。
真砂子を先頭にして、食堂に入った。食堂には三十人ほどの生徒たちが集められていた。そのうちの五、六人が立ち上がって、なにやらはしゃぎ回っていた。漏れ聞こえてきた嬌声の中心は彼らなのだろう。生徒たちは真砂子と私が食堂に入ったことを気づいていないようで――いや、気づかぬふりをして騒ぎ続けていた。
――生徒たちの心のケアをしなければ……
そんな科白を言っていた林であれば、卒倒しかねない状況だった。
仁王立ちになった真砂子は、顔を真っ赤にして叫んだ。「静かにしなさい!」
細身の身体からは、想像できない腹の底から出た低い声だった。大半の生徒たちの喧噪が静まったものの、中心になって騒いでいた五、六人はまだ立ち上がったまま嬌声を上げて続けていた。
真砂子が、彼らのひとりを指差して言った。「池畑君、席に座りなさい」
アメリカのプロレスラーがデザインされたTシャツに、短パン姿の少年が肩をすくめて席に着いた。いっしょになってはしゃいでいた生徒たちも、彼に続いて席に座る。この少年が、この学年で悪ふざけをするリーダー格で、大人たちに目をつけられているのに違いない。そこかしこから「またあいつだよ」「いつものことさ」とでも言いたげな視線が投げつけられていた。
一度、大きく息を吸って真砂子が生徒たちに言った。「今日は、花田君のことについて、こちらの方がお話しを聞きたいというので、集まってもらいました。みんなも知ってるとおり、花田君がこの寮から姿を消して、二週間が経ちました。わたくしたち学院側としても、彼に早く戻って来て欲しいと考えています。だから、みんなも協力をしてください」
生徒たちの視線が私に集まった。どの目にも不満の色が見て取れた。この寮の門限が何時になるのかまでは知らないが、彼らにとってなけなしの休日を奪い去ったのは私なのだ。彼らの中でも、敵意を剥き出しにしていたのは、先刻真砂子に池畑と呼ばれた少年だった。
口を開いたのは、その池畑だった。「隣のおじさんは、なに? 警察の人?」
「警察の人だったら、どうする気だ?」
私が答えると、池畑は挑むように視線をぶつけてきた。彼らの年頃で言う〝ガンをつける〟というヤツだ。だが、私が正面から見据えてやると、池畑の方から先に視線を外した。彼には申し訳ないが、この手のことに関しては年季が違う。
「こちらの方は……」真砂子が私をちらりと見て続けた。「警察の人ではありません。わたくしたちが、花田君の捜索をお願いした方です」
生徒たちは「おおォ」と歓声を上げ、私の稼業の名前を口に出し合った。
真砂子は、再び騒ぎ始めようとする生徒たちを睨みつけておとなしくさせると、私に言った。「どうぞ、お話しください」
私は他人前で話すときの誰もがやる儀式――咳払いをひとつして、生徒たちに問いかけた。「この中で、姿を消す前の花田君について、様子がおかしいとか……なんでもいい。なにか、気づいた人はいるかな?」
生徒たちが、思い思いになにかをしゃべり出したのだが、食堂がざわつくだけで、なにも答えは返ってこなかった。ざわついた生徒たちに、いらだちを隠せない真砂子の耳に顔を寄せて小声で訊いた。「ここの寮は、個室ですか?」
「いいえ、個室はありません。基本的にはふたり部屋ですけど」一向に静まらない食堂を見据える真砂子の口調には、明らかにトゲがあった。
私はまた爆発しかねない真砂子に言った。「花田君と同じ部屋の子、同じクラスの子だけを残して、あとは返してください」
真砂子が怪訝そうに私を見た。「どういうことです?」
「この調子じゃ、話が進まない」
「申し訳ありません……」事実を突きつけられた真砂子は、恥ずかしそうに頭を下げた。それから真砂子は生徒たちに向き直ると、大きく息を吸って腹の底から声を出した。「はい、聞いて! 花田君と同じ四年A組以外の生徒は自室に戻って構いません」
一瞬の沈黙の後、大半の生徒たちが立ち上がり、また食堂は賑やかになった。ざわつきに負けない声量で、真砂子がひとりの生徒に言った。「それと、花田君と同じ部屋の……池畑君も、ここに残ってください」
この一言で生徒たちからは笑いが起こり、自室に戻れることになった生徒たちは、あからさまに不満の表情を見せた池畑の肩をからかうように叩いて、食堂を出ていった。
静けさを取り戻した食堂に、池畑を含めて十一人の生徒が残された。真砂子が食堂の中央にある六人掛けのテーブルに集まるよう告げると、彼らは椅子を持ち寄り、肩を寄せ合うように腰をかけた。私と真砂子はあえて席に着かずに、立ったままでいた。
私は残された十一人の生徒にもう一度、同じ質問をした。「ここ最近の花田君の様子について、教えて欲しい」
池畑を除く十人の生徒たちが一斉に首を傾げた。池畑は、不貞腐れたかのように私たちと視線を合わせようとはしなかった。やがて、ひとりの生徒がおずおずと手を挙げた。淡いブルーに染められたイタリアかどこかのプロサッカーチームのレプリカユニフォームを着た大柄な少年だった。おそらく彼は私よりも、背が高いだろう。
「なに? 井原君」真砂子が声をかけた。
「あの……博之の様子がおかしいのが、わかってたら……みんなで寮を出てかないように、引き留めていたと思います」声変わりをしていないのかと思わせるように、大きな身体の割に声は高かった。
「そう……じゃァ、花田君の様子は、いつもと変わらなかったのね」
真砂子の問いかけに、池畑を除いた十人が頷いた。
「みんなで引き留めたはず……花田君っていうのは、人気者だったんだね」
私の言葉に池畑が突然、笑い声を上げた。テーブルに額を押しつけて、腹を抱える。ひとしきり笑ってから、池畑が言った。「そうだよ、博之は人気者なんだよ」
「どうして、人気者なんだ?」
「それは、井原に訊いた方がいいんじゃない?」からかうように池畑が答えた。
「池畑君、真面目に答えて」真砂子が言った。
「だからさァ、井原に訊いた方がァ……」池畑の悪ふざけは止まらなかった。
私は右の拳をテーブルに叩きつけた。生徒たちは首をすくめ、真砂子は息を呑んだ。
「お前に訊いているんだ。こっちは、花田博之を見つけないと、食いっぱぐれることになるんだよ。おとなしく質問に答えろ」私は声を荒げることなく、もう一度、池畑を正面から見据えて言った。「どうして、彼は人気者なんだ?」
池畑は、あからさまに怯えた表情を見せて小さくなった。
――少し脅かしすぎたか
真砂子は、私をきっと睨んでから優しく声をかけた。「池畑君、答えてあげて」
「はい……」私が期待した以上にうなだれてしまった池畑が、絞り出すように答えた。「先週、学力テストがあったんだけど……」
私がちらりと視線を送ると、隣の真砂子が固い表情のまま、小さく頷いた。私は池畑に先を促した。「それで?」
「博之は、テスト前に問題を教えてくれるんだ」
「テストの問題を教えてくれるって、それ……カンニングのこと?」真砂子が割って入った。
「違うよ。問題を教えてくれるだけ。あいつ、普段は勉強なんてしないくせに成績だけはいいんだ。それで理由を訊いたら……先生の性格だったり、授業してるときの先生の様子を見てれば、どんな問題が出るかが、読めるって言うんだ。百発百中ってわけじゃないけど……それだけで、七十点は取れるって言ったから、去年ぐらいから、みんな……テストのときは博之に、どんな問題が出るのか訊くようになったんだ――」
「――だから、博之の様子がおかしかったら、みんなで引き留めていたはずだって言ったんです」最初に発言した井原が後を引き継いだ。
「そういうことなのね……」真砂子が目を閉じて、眉間に右手をやった。
「あいつ、みんなが言うほど優等生なんかじゃないんだよ。それなのに、博之がいなくなっただけで、こんな騒ぎになって……なんでなんだよ?」池畑が真砂子に訊いた。
真砂子は、池畑を正面から見つめて答えた。「学院長は、花田君だから捜してるんじゃありません。池畑君でも、井原君でも……学院の生徒なら誰でも、学院長は今回のように必死になって捜します」
「ほんとに?」と訊き返す池畑に、真砂子が柔らかい笑みで頷いて応えた。
私が雇われた理由は、〝博之の保護者がこの学院に多額の寄付をしている〟からだった。もっとも、それは林が〝理事長〟として判断したことであって、〝学院長〟である林の生徒に対する思いは、真砂子が池畑に伝えたとおりなのかもしれなかった。
私は話の流れを本題に戻すべく、池畑に訊いた。「……さて、きみにばかり訊いて申し訳ないが、花田君がいなくなった日のことを訊いてもいいかな?」
「いなくなった日って言っても……俺が朝、目を覚ましたら、もう博之はいなかったんだ」池畑が、今度は素直に答えを返した。私の脅しよりも、真砂子の一言と微笑みが効いているのは明白だった。まさに〝北風と太陽〟だ。
「それは、何時ぐらいのことだ?」
「俺は、いつも七時に目覚ましをセットしてるから……」
「なるほどね……じゃァ、で部屋から無くなっているものは、なかったか? 例えば彼の携帯電話とか」
「なんにも無くなってないよ。そりゃァ、財布とかは持っててるだろうけど……特別なにかが、なくなってなるなんてことはないし。俺の金も盗られたわけじゃない」
「彼の携帯電話は?」
「あァ……博之は携帯電話持ってないんで」
「携帯電話を持っていない?」
「はい。池畑の言うとおりです。博之は必要ないって言ってました」答えたのは井原だった。
彼らの世代で、いや今のご時世で携帯電話を必要ないと言い切ってしまとは珍しい。先刻聞いたテストへの取り組み方といい、どうやら花田博之という少年は、一筋縄ではいかないようだ。
「あ、そうだ」池畑が声を上げた。なにかを思い出したようだ。「博之が、いなくなる前の日の夜のことなんだけど……」
「なんでもいいから、教えてくれる?」と真砂子。
「うん。博之が言ってたんだ。寮に電話がかかってきて、それで……三年ぶりにオヤジと話したって」
「そんなはずないわ。夏休みや冬休みには、ご実家に帰ってるはずだもの」
「でも、博之がそう言ってたんだよ。嘘じゃないよ」
必死に訴える池畑と、首を傾げる真砂子に私は言った。「理由はどうあれ、彼が三年ぶりに父親と話したと言ったことは、事実でしょう。その他には、なにか言ってなかったか?」
池畑が首を横に振ると、井原を含めた他の生徒も同じように首を振った。
「じゃァ、彼……花田君がこの寮から姿を消したとして、行きそうな場所とか、立ち寄りそうなところを、知らないか?」
少しの間を置いて、池畑が代表して答えた。「わかりません……」
他の九人の生徒たちが頷く中、ひとりの生徒が隣の井原に耳打ちをした。なにかを告げられた井原は、「馬鹿ッ」と言って彼を軽く小突いた。井原ともうひとりの生徒が、場をわきまえずじゃれ合っているようには見受けられなかった。
「きみは、なにか知っているのか?」私は井原に耳打ちをした生徒に訊いた。
井原に気を使ったのか、その生徒はうつむいて私の質問に答えなかった。黙ったままでいる耳打ちした生徒に井原が発言を促した。「勝矢、お前が話せよ」
「勝矢君、ちゃんと話して」真砂子が勝矢に言った。
井原に耳打ちをした生徒――勝矢が、小さい声で話し始めた。「あの……僕は井原に、博之は〈ヴェルマ〉に行ったんじゃないかって言ったんです」
「〈ヴェルマ〉というのは?」私は訊いた。
「駅前にある喫茶店です。学校の帰りとかに、よく寄ってくんです……」
勝矢の声は最後の方はよく聞き取れないほど、小さくなっていった。それもそのはずで、私の隣にいる真砂子の目が、相当に怖いものになっていた。
今度は私が〝太陽〟になる番のようだった。私は真砂子に釘を差した。「この際、校則違反は、どうでもいいでしょう?」
「今は……そうですね」真砂子は、渋々と頷いた。
真砂子を説得した私は、勝矢に彼ら〝行きつけ〟の喫茶店〈ヴェルマ〉の場所を訊いた。「その……〈ヴェルマ〉という喫茶店は、どこにあるんだ?」
「三鷹の駅前なんですけど、北口の――」
勝矢が〈ヴェルマ〉の場所を詳しく説明する間、池畑は両手で前髪をかき上げて、天井を見つめていた。井原や他の生徒は、すべてを諦めたかのように視線を落としていた。
――また、別の溜まり場を探せばいいのさ
そう慰めてやりたかったが、真砂子がいる手前、口には出せなかった。
「これで、よろしいですか?」厳しい顔のまま、真砂子が訊いてきた。
「では……最後にひとつだけ」
真砂子が身振りで「どうぞ」と私に質問をするよう促した。
「花田君と一番仲のいい生徒は、誰だろう? 教えてくれないか」
生徒たちの視線がひとりの生徒に集まる。私と真砂子の目も、自然と彼らの視線が集まった先へと移った。
「きみなのか?」
「な、なんだよ」予期せぬ二十四の瞳による〝集中砲火〟に、彼は動揺してしまったらしい。池畑は殊更、強がってみせた。それから、右手の人差し指で自分を指差して続けた。「俺……ほんとに?」
十人の生徒が一斉に頷く。それを見て、真砂子は顔を伏せた。肩が小刻みに震えている。
「どうも、きみらしいな」
「そうかなァ……」難しい顔を作って池畑が首を捻る。
「あァ、そうだ。自分から一番仲がいいと名乗り出るヤツは、信用ならないからな。それに……」
「それに?」
「確かきみは、花田君と同室だったよな?」
池畑が私を見上げて頷いた。「そうだけど……」
「それは、好都合だ。きみたちの部屋を、調べさせてくれ」
「マジかよ……」私の申し出に、池畑は顔をくしゃくしゃにした。真砂子を見上げて、助けを求める。
「池畑君……花田君を捜すためなの。協力してあげて」真砂子が池畑を正面から見つめて答えた、
この一言が効いたようで、「しょうがねェなァ」と悪態をついてから、池畑はいかにも渋々といった口調で、私の申し出を了解してくれた。
「きみの協力に感謝する」少し芝居がかった科白を返すと、池畑が腕を組んでニヤリと笑った。生意気なガキだ。思わず苦笑がこぼれる。
私は話に取り残された恰好になってしまった十人の生徒に言った。「ありがとう。これでお終いだ」
「あなたたちだけ、残してごめんなさい」真砂子が生徒たちに深々と頭を下げた。「ただ、花田君のことは、ここだけの話にしておいてね」
「はい。わかりました」井原が代表して答えた。
「ありがとう」真砂子がもう一度、頭を下げた。
「森さんから、頼まれたんだもんな」〈ヴェルマ〉という喫茶店を教えてくれた勝矢という少年が言った。
この言葉を合図に、生徒たちは立ち上がった。彼らの真砂子を見る目から、彼女へ寄せる信頼の大きさがうかがえた。一礼をして、井原を先頭に生徒たちが踵を返す。
それぞれの部屋に戻る生徒のひとりに向かって、真砂子が叫んだ。「池畑君!」
呼び止められた池畑が、ばつが悪そうに頭を掻きながら振り向いた。
私は大きくため息をつき、真砂子は眉間にしわを寄せた。食堂の入口では、井原たち生徒があきれ顔でこちらを見ていた。
「冗談だよ、冗談」池畑がニヤリと笑った。
三
〈聖林学院〉の男子寮――誠真寮といったか――の二階は、先刻まで私がいた食堂やら、浴場で占められていて、三階と四階が生徒たちの部屋だった。池畑と花田博之の部屋は三階にあり、私と真砂子は池畑の後に続いて階段を昇った。三階は、廊下を挟んで向き合うように部屋が並んでいた。廊下がリノリウム貼りということもあって、学生寮というよりどこかの診療所のようにも見えるが、ドアの横に表札代わりにかけられた色とりどりのプレートが、ここは芽生えたての自立心と覚えたての反抗心を両手にした若い世代が、生活をする場所なのだ、と主張していた。
「生徒たちが、自由にデザインしてるんです。こういったところに、生徒たちの個性が表現されますので。自分という個性をいかに表現するか、これが我が学院の――」見学に訪れた入学希望者、あるいはその親たちに何度となく言った科白なのだろう、バスガイドよろしく、真砂子が説明を始めた。ただ、彼女には悪いが途中からは、私の耳を素通りしていくだけだった。
端から数えて七番目の部屋、ホラー映画のポスターのように、黒字に真っ赤なインクで血が滴る様を模して書かれたプレートがかけられた部屋――私には、なんと書いてあるのか読み取れなかった――の隣で、池畑が立ち止まった。
「ここだよ」
彼らの部屋のプレートは、白地に黒のマジックで「池畑純二」「花田博之」と、それぞれの名前が書かれているだけだった。字体もなにも凝らずに、池畑か博之のどちらかが書きつけたものだった。
「きみたちの部屋のヤツは、随分と〝シンプル〟なんだな」言葉を慎重に選んで言った。
「あァ、これね。これ、博之のアイデアなんだよ」
「花田君の?」
「そう。博之がさ、みんなゴテゴテに塗りたくったヤツにしてるから、俺たちはシンプルにしようぜって言ったんだ。その方が、逆に目立つって」
「なるほどな。確かに、その作戦は正解だ」
「でしょォ」と池畑が勝ち誇った笑みを浮かべた。
――調子に乗るなよ。お前のアイデアじゃないんだぞ
釘を刺す言葉は飲み込んでおいた。
池畑がドアを開け、私たちは部屋の中に入った。三歩ほど進むと、池畑は立ち止まって後ろ振り返った。彼が気にしているのは、私ではない。今まさに部屋に入ってこようとする真砂子だった。
「なに……かしら?」と真砂子。
「いや、あの……あのね」池畑が口ごもった。
「はっきり、言いなさい。池畑君」食堂のときと同じように、真砂子が腹から声を出した。
池畑が顔をしかめて、私を見つめてきた。受信してしまった以上、SOSには応えてやらねばならない。
私は真砂子に言った。「森さん……あなたは、外で待っていてください」
「いや、しかし……学院長に言いつけられているので、わたくしが立ち会わないと」
「そうでしょうが、ここは私に任せていただけませんか?」
「そういうわけには、いきません」と言い切った後、真砂子が慌ててつけ加えた。「あの……別に、あなたが信用ならないとか、そういうことではないんです」
「そんな難しい話じゃありません。逆の立場になって、考えてみてください」
「逆の……立場?」
「ええ。あなたが彼ぐらいの年頃だったとして、見知った学校の職員とはいえ、異性を部屋に入れるのには、少なからず抵抗はあるでしょう?」
「少なからずどころか、抵抗があるに決まっています。ですが、今回は花田君を捜すためですし……それに彼は――」
「そうです。女子ではなく、男子です」真砂子の言葉にかぶせることで、発言を遮って続けた。「男でもね、いろいろと気恥ずかしいんです。だから、彼の気持ちも、汲んでやってください」
唇を歪めてしばらく考え込んだ後、真砂子が言った。「ですが、後々、問題になるようなことだけは……」
「それこそ、そこは私を信用してください」
「……わかりました」
ようやく私の、いや池畑のお願いを承諾してくれた教務課主任を廊下に残して、私は部屋のドアを閉めた。
「ありがとう……ございます」一連のやり取りを見ていた池畑がお礼を言った。殊勝な顔をしていた。
「気にするな」と声をかけ、池畑の背中を軽く叩いてやる。「さァ、部屋を見せてくれ」
案内された部屋は八畳ほどの広さで、両方の壁に向かって対称に、机とベッド、クローゼットが置かれていた。左右のどちらが、花田博之のものであるのかは、一目瞭然だった。右側の壁は、三枚のポスターで飾られていた。アメリカのプロレスラーたちだ。そのうちのひとりは、池畑が着ているTシャツにプリントされた長髪で顔色の悪いプロレスラーだった。もうひとりは最近のハリウッド映画で見かける褐色の肌をした筋骨粒々の男で、最後のひとりは、銀髪の男でポスターには〝NATURE BOY〟と書かれている。私が子供の頃には〝狂乱の貴公子〟と呼ばれていた男で、彼が未だ現役であることに、いささか驚かされた。
「プロレスが好きなのか?」
「うん。特にWWEは最高だよ」
「じゃァ、きみの夢はプロレスラーか?」
「いいや、違うよ」池畑が私を見上げた。挑むような目をしている。しかし、先刻のように敵意を剥き出し、というわけではなかった。「プロレスラーってゆうかさ、こういうイベントをプロデュースしたいんだよね」
格闘技として、あるいは試合の勝敗を前面に押し出した我が国のプロレスと違って、アメリカのプロレスは一大イベントとして、派手にショーアップされている。また年間を通してのストーリーが組み込まれていて、スポーツとしてよりもエンターテインメントとしての要素が濃い。かつて我が国のプロレス・ファンの間では、アメリカン・プロレスは競技性が低いとして、評価を低くする向きがあったのだが、時代は変わったらしい。
「俺がさ、日本のプロレスを変えてやるんだ」池畑が目を輝かせて言った。
「大きく出たな」
池畑ははにかんで頷くと、小さな声で呟いた。「ただ……プロデューサーになりたいってことは、誰にも言わないでくれよ」
「どうして?」
「なんか、恥ずかしいんだよ。俺、そういうキャラじゃないし……」
生きていく上で、なんらかの役割を演じなければならないのは、どの世代も変わらないことのようだ。私は口外しないことを約束した。
私の言葉を聞いて、ちょこんと池畑が頭を下げた。まったく、先刻までの威勢はどこへやら、だ。
「……さて、花田君の手がかりを探すから、少し手伝ってくれ」池畑にそう告げて、私は左側の壁に沿って置かれたクローゼットを開けた。
クローゼットの中には、制服である紺色のブレザーとグレーのスラックス、通学用の黒革のカバンと、しばらくの間はクローゼットの〝肥やし〟にしかならないコートとフライトジャケットが吊されていて、私服と思しきTシャツやジーンズやらが、きちんとたたんでしまってあった。
「あ、カバンの中身は空っぽだよ」黒革のカバンに手を伸ばした私に、池畑が言った。「博之、教科書とかノートは全部、学校に置いてきてるんだ」
確かにクローゼットから取り出したカバンは軽く、念のためカバンを開けてみれば、池畑の言うとおり中身は入っていなかった。
「なんか、いちいち持ってくのが、めんどくさいって言ってて……」
私に説教をされると思っているのか、池畑の声は段々と細くなっていった。だが、私は彼を説教する気にはならなかった。なんのことはない、私も花田博之と同じことをしていたからだった。ただ、私と花田博之との違いは、私の成績は散々で、一度たりとも優等生と呼ばれることはなかった。
黒革のカバンをクローゼットに戻して、私は池畑に訊いた。「どうだ、なにか変わったことはないか?」
「わかんないよ」中を覗いた池畑が答えた。
「よく見てくれ。なんでもいいんだ」
「うーん」もう一度、覗き込んで池畑が答えた。「……そういえば、バッグが無くなってる」
「バッグ? どんなバッグだ」
「えーと……ね。モスグリーンのバッグだよ。肩からかけるヤツ」
「いつも、持ち歩いてるバッグなのか?」
「うん。あいつ、いつも出かけるときには、本とかを入れて持ってくんだ」
「結構、大きいバッグだから、着替えとかを入れてったかもしれないな。だけど、どんな服を持ってったかは、わかんないや」
「わかった。ありがとう」これ以上、クローゼットの中から手がかりを探し出すのは難しそうだ。所詮は男同士なのだ。同居している相手がシャツを何枚持っているかなど、興味がなくても、おかしくはない。
クローゼットを閉めて、机へと向かった。机の上は、雑然とした池畑の机とは違って、きちんと整理されていた。キャンベルのスープ缶を模したペン立てと、土曜日が〝半ドン〟だった世代からは、思いもよらないものが置いてあった。ノートブック型のパソコンだ。池畑の机の上にも同じ型のノートパソコンが置いてあった。
私はノートパソコンを開いて、池畑に訊いた。「ひとり一台あるのか、これが?」
「そうだよ。あと……電源入れても無駄だよ」
「どういうことだ?」電源スイッチに伸ばした手を止める。
「起動するのに、パスワードがいるんだ」
「パスワードか……きみは、知らないのか?」
「博之のパスワード? 知らないよ。だって、パスワードは、プライバシーを守るためにあるんだろ」池畑は、言わずもがなといった口調だった。「俺のだって、博之には教えてないんだから」
「まァ、そうだろうな……」私はこの手のパスワードを解除する術を知らない。このパソコンから情報を引き出すことは、諦めるしかなった。
ノートパソコンを閉じて、机の抽斗を引いてみたが、開くことはなかった。鍵がかけられているのだ。他の三つある抽斗も試してみたが、すべて鍵がかけられている。小さくため息をついてから、念のため池畑に訊いてみた。「……開け方は、知らないよな?」
池畑は「知らないよ」と即答した。本音では「当たり前だろ」と言いたいに違いない。昨今やかましいプライバシーの保護というヤツは、この若い世代にまで浸透しているのだ。
次に私は、机の横に置かれた本棚を調べることにした。失踪者の行き先をうかがわせる書籍が置かれていることは、間々あることなのだが――ざっと眺めてみた限り、彼の行き先を仄めかすような本は見当たらない。
「博之……本好きなんだよね」私と並んで本棚を眺めていた池畑が言った。
「そのよう……だな」
池畑の言うとおり、花田博之という少年は読書家のようだ。本棚には、初めて見るタイトルの漫画から文芸書まで、雑多なジャンルの書籍が並べられていた。小林秀雄の『モオツァルト』、坂口安吾の『桜の森の満開の下』――なにより、大デュマの『モンテ・クリスト伯』とベスターの『虎よ、虎よ』が、隣り合わせて置かれていることに目を引かれた。どうやら花田博之とは、文学談義に花を咲かせることができそうだ。ただ、そのためには彼を早々に見つけ出さなければならないのだが。
池畑が言った。「俺……この間、博之から本を借りたんだよね」
「なんて本だ?」
「ちょっと待って」と言って、池畑が自分の机に向かった。雑然とした机の上から一冊の本を取り出す。「これだよ」
手渡された本には、所々に付箋が挟んであった。これを挟んだのは、池畑だろう。同好の士であろう花田博之であれば、こういう真似をしないはずだ。
『流行り廃りが、商売さ』というタイトルの新書で、著者は〝下山文明〟とあった。かつては専門書として重宝した新書も、いつのころからかビジネス書や啓蒙書まがいのタイトルが増えている。この新書も、その類なのだろうか。
「イベント・プロデューサーになりたんだったら、読んだ方がいいって貸してくれたんだ」
「で、読んでみて、どうだったんだ?」
「うーん。わかったような、わかんないような。でも、面白い本だよ」
「そうか……よかったな」理解できなくとも、内容を面白いと思えたのであれば、夢の実現へ一歩前進したと考えていい。夢が詰まった付箋だらけの新書を、池畑に返して訊いた。「だけど、花田君は、どうしてこの本を持ってるんだろう?」本棚に並べられた本とは、あきらかに毛色が違う。
「博之も、イベント・プロデューサーになりたいんだって」
「きみと、将来の夢が同じというわけか」食堂で井原や勝矢といった生徒たちが、花田博之と一番仲がいいと言った理由はこれだ。
「うん。博之のオヤジさんが、いろいろとイベントをやってるんだってさ……それで、興味を持ったらしいんだよね」
先日、私の事務所を訪れた〈聖林学院〉の理事長、林信篤から渡された資料には、花田博之の保護者は水産会社を経営していると記載されていた。〝地産地消〟やら〝地域振興〟という言葉をよく耳にする。水産会社の社長としては、その流行に乗らない手はないと、様々なイベントを仕掛けているのだろうか。
池畑が私の脇腹をつついて、強い口調で言った。「今の話、俺が言ったって言わないでくれよ」
「どうしてだ?」と訊くと、池畑が目を伏せたので、私は先刻の池畑の科白を借用してみた。「花田君も、そういうキャラじゃないってことか?」
伏せていた目を上げて、池畑が答えた。「まァ……そんな感じかな」
「わかった。誰にも言わないでおいてやる」
池畑の顔に、友人の秘密を守りきった安堵の色が広がる。
私は本棚から離れ、机の端に浅く腰をかけた。「花田君ってのは、どういう子なんだ?」
「どういう子って言われても……」自分の机から椅子を持ち出して、池畑も腰を降ろした。
「さっき、食堂じゃ〝みんなが思うほど優等生じゃない〟って言ってたよな」
「あれは、つい……」うつむいて口ごもる。
「〝優等生じゃない〟ってことは、煙草とか、酒とかをやってたってことか?」
「お酒は……その……」うつむいたまま、池畑は言葉を濁した。
こっそりと飲んでいるのだ。もしかしたら、鍵のかけられた花田博之の机の中には、酒瓶が眠っているのかもしれない。まあ、彼らの歳で酒を飲むのは、通過儀礼のようなものだ。酒の件については、深く言及するつもりはない。
「だけど、俺たち煙草は喫わないよ」顔を上げて、反論してきた。「だって、煙草なんて、田舎のヤンキーがやるもんだろ?」
〝田舎のヤンキー〟呼ばわりは、愛煙家を少しだけ寂しくさせた。とはいえ、相手は少年だ。ひどい仕打ちであろうと、耐えねばなるまい。
気を取り直して、私はもうひとつの質問をした。「じゃァ、薬……ドラッグはどうなんだ?」
「ドラッグ? やってないよ」首を激しく横に振って強く否定する。「あれは人間をダメにするもんでしょ」
「それが、わかってれば、大丈夫だ」
微笑みかけてやると、池畑は椅子の上で誇らしげに胸を張った。
「……だとしたら、花田君が〝優等生じゃない〟っていうのは、どういうことだ」
「だから、さっきは、そう言っちゃっただけで、先生たちが思ってるような、おとなしいヤツじゃないってことだよ」今度は口ごもらずに答えた。「俺たちと一緒に、遊びに行ったり、はしゃいだりもするんだぜ。それなのに……」
「真面目でおとなしい……大人たちには、彼だけが、そう思われていると」
「そうだよ。だから、つい……」少年は、自らの胸に沸いてしまった嫉妬心を恥じているようだった。「だけど、あいつを〝ハブ〟になんか、したことないよ。ってゆうか、みんな博之を頼りにしてるんだ」
「テストの勉強もしないで、点数稼ぐ方法を知ってるってヤツだな」先刻食堂で聞いたことを、そのまま口にした。
「それだけじゃないよ。あいつ、みんなを盛り上げるのが上手いんだ。だけど、どこか冷めてるっていうのかな? みんながはしゃいでるときでも、一歩引いて、ああした方がいい、こうした方がもっと楽しくなるって教えてくれるんだ」
「ひとりだけ、冷静だということか?」
「うん、そうだよ。文化祭とか、体育祭とか……盛り上がるのも、あいつのおかげなんだよ」
イベント・プロデューサーとしての手腕は、花田博之の方が池畑より二歩も三歩も先を行っているらしい。
「それに、先生たちに、バレずに済んだことも、いっぱいあるし」まくし立てるように話した池畑が、顔をしかめていた。今度は、口を滑らせてしまったことを、悔いているのだ。
その池畑が声を張り上げた。「あれ?」
――ごまかすにしては拙い、いや〝かわいい〟手じゃないか
「あのな、きみから聞いた話を、誰彼構わず話すつもりはないから、安心しろ」プライバシーを探るのが仕事なら、プライバシーを守るのも、私の仕事なのだ。
「そうじゃないよ」
あっさりと答える池畑に言った。「だったら……なんだ?」
「あのね、今、気づいたんだけど……」池畑の視線は、私の肩越しに本棚に向けられていた。「写真が無くなってるんだ」
「写真……なんの写真だ?」
「オフクロさんと写ってるヤツだよ。いつも本棚に飾ってあったんだ」
振り返って、私も本棚を見た。本棚には私好みの書籍が並んでいるだけで、写真は見当たらなかった。
「あいつ……大事な、大好きな写真だって、言ってたんだよ」池畑の目は、なにかをごまかそうとしているものではない。
「その大事な写真が、無くなってるんだな?」
「うん。博之……持ってたんだよ。きっと、そうだ」
鍵がかけられているせいで、机の中を確かめることはできない。だからといって、池畑の言葉を否定することはできなかった。なんにせよ、確実な手がかりをこの部屋から得ることは、できないだろう。
私は机の端から腰を上げた。「ありがとう。話はここまでだ」
「役に立ったかな?」
「ああ、充分に役立った」
「そう、だったら……博之のこと、絶対に見つけてくれよな」池畑も椅子から立ち上がる。
「見つけられなかったらな、俺は食いっぱぐれることになるんだよ」
これは、私自身に発破をかける言葉でもあった。
四
ドアを開けると、真砂子が立っていた。部屋の前で待ち続けていたようだ。
部屋から出てくる私に、真砂子が緊張した面持ちで言った。「終わりましたか?」
「はい。終わりました」
「そうですか」真砂子の表情が、少しだけ柔らかくなった。
私は振り返って、廊下に顔を出した池畑に言った。「悪かったな。きみばかり、つき合わせてしまって」
「そんなことないよ。俺も結構、楽しかったし」
「池畑君……」真砂子が大きくため息をついた。
顔を曇らせた真砂子を見て、池畑がニヤリと笑う。それは、先刻食堂で見せた、あのいたずら小僧の微笑みだった。私が苦笑で応えてやると、池畑は早々にドアを閉めて、部屋に引っ込んでしまった。
機先を制されてしまった真砂子は、眉間にしわをよせた。それから、私に向かって深々と頭を下げた。「申し訳ございません。今後は生徒指導を徹底いたします」
「いや、あまり気になさらずに」
「それで……花田君を捜す手がかりは?」真砂子が頭を上げて、訊いてきた。
「あると言えば、ある。無いと言えば、無い。そんなところですかね」率直に答えた。我ながら、頼りない回答なのだが。「ただ、先ほど食堂で聞いた話では、オヤジさん……花田君の保護者が、絡んできているようなので、理事長とは一度、打ち合わせをしなければならないでしょうね」
「わかりました。打ち合わせの件につきましては、わたくしの方から、学院長に伝えておきます」
「お願いします」
「あの……ひとつ、おうかがいしてもよろしいですか?」私を正面から見つめて、真砂子が言った。
私は「どうぞ」と答えた。
「今まで、池畑君とふたりきりでしたよね?」
「ええ。そうですが……」
「彼と話をしている間、先ほどのように、暴力に訴えるようなことは、してないですよね?」
「暴力に訴える? さっき食堂で、私がテーブルを叩いたこと……ですか?」
「ええ、そうです」
「あなたを驚かせたのなら、謝罪します。ですが、あの程度のことは、暴力とは言いません。暴力というのは、拳であろうが、言葉であろうが、もっと理不尽に人を傷つけるものです」適当に思いついたまま言葉を並べただけであることを悟られぬよう、私はすぐにつけ加えた。「ですから、安心してください。池畑君に暴力を振るうような真似はしてません」
「そうですか……暴力に訴えていないのであれば、わたくしもこれ以上、問題にはいたしません」
答える様子を見る限り、なんとか真砂子の理解を取りつけることができたようだった。
「それで、今度は……私の方から訊いても、いいですか?」
「なんでしょう?」
「この寮に入るとき、受付を通ってきたんですが、あそこにいる方は、こちらの管理人も兼ねてるんですか?」
「ええ、そうです」
「住み込みですか?」
「いいえ。日中だけです。夜間は、別の者が勤務しています」
「そうですか……」腕時計を見ると、十八時を過ぎていた。「そろそろ……交代時間ですか?」
「はい。そうです……ね」真砂子も腕時計を確かめて答えた。
「花田君が姿を消した日のことを、聞きたいんです。よろしいですか?」
少し考えてから「問題ありません」と真砂子が答えた。
「ありがとうございます」私は受付に向かって歩き始めた。
食堂のある二階からは、油の匂い――今晩のおかずはトンカツだとか、鶏の唐揚げなのだろう――がしてきた。油の匂いは一階のロビーにも強く漂っていた。食べ盛りの腹を満たすということは、私が考えているよりも、一大プロジェクトなのだ。
強い油の匂いをかき分けるようにしてロビーを横切り、『管理人室』とプレートが貼られたドアをノックする。
「どうぞ」ドアの向こうから、若い声で返答があった。
ドアを開けると、二十代前半の男が事務机の前で立っていた。やはり〈聖林学院〉の採用基準には身長制限があるのだ。男の身長は一八五センチほどあった。ゆるいウェーブのかかった長めの髪を後ろに撫でつけている。洗いざらしのジーンズの上に、サーフボードと椰子の木がデザインされた青いTシャツを着ていたが、マリン・スポーツとは無縁のように色白の青年だった。
「どちら様です?」青年が言った。
「和泉君……こちらは、花田君の件で調査をお願いした方です」答えたのは、私に続いて管理人室に入ってきた真砂子だった。「花田君がいなくなった日のことで、お話を聞かせて欲しいということなので……」
自己紹介の手間が省けた私は、上着のポケットから取り出した名刺を手渡した。
「はァ……」青年――和泉は情けない相槌を打って、私の名刺に目をやった。
「和泉君、清水さんは?」と真砂子。清水というのは、受付で私を応対した初老の男のことだろう。
「清水さんですか? 清水さんなら」と言って、和泉が振り返った。
和泉の視線の先では、白髪頭の男が呆けた顔をして、開け放った窓の外に煙草の煙を吐き出していた。
「清水さん!」真砂子が、食堂で生徒たちを叱りつけたときと同じように、腹の底から声を出した。
突然、名前を呼ばれた初老の男が、肩をすくませてこちらを見た。声の主が誰であるのかを認めて、顔をしわくちゃにすると、慌てて煙草を手にしていた携帯用の灰皿で揉み消した。背を丸めて、おずおずと歩み寄ってくる。背を丸めてみても、この部屋の中で、一番背が高いのは彼――清水であることに変わりはなかった。
「清水さん、生徒たちの目に入るような場所で、煙草はやめてくださいって、お願いしてましたよね」
「面目ない……つい、気がゆるんでしまって」
「それと、寮にいる生徒たちにとって清水さんは、一番身近な大人だから、毅然とした生活態度を示してくださいとも、お願いしてますよね」娘ほどの年齢が離れた真砂子の叱責は続いた。
「まァ、まァ」と言って、眉間に深いしわを寄せた真砂子と、大きな身体を小さくしてうなだれる清水の間に入った。「取り敢えず、私の仕事をさせてください」
私が管理人室を訪れたいと申し出た理由を思い出してくれたようで、真砂子が口をつぐんだ。清水は私の方を見て、右手で手刀を作り顔の前にかざした。
私は一呼吸分の間を置いてから、質問を始めた。「花田君が、姿を消した二十日ほど前のことを、訊かせてもらえますか?」
「いいけど……その件なら、理事長たちに、もう報告してますよね」若い和泉が答えた。口調には、あからさまに不満の色がにじんでいた。
「あのな……」和泉の肩を、清水が軽く叩いた。「こういう商売の人はね、信じられるのは、自分の耳で聞いた話だけなんだよ」
清水の言葉を聞いて、彼に名刺を渡してあったことを思い出した。そうだとしても、ものわかりがいいのは、先刻の〝助け船〟が効いているからなのだろうか。
「俺も、ここで管理人をやる前は、こちらと同じ商売やってたから、わかるんだよ」まだ納得がいっていない表情の和泉を諭した。
「清水さん……でしたか。あなたも、以前は……」
清水は大きく頷いて言った。「三年前まではね。あんたと同じ商売だったんだ」
おそらく、その前の稼業も、私と清水は同じ稼業であったに違いない。しかし、それを確かめる気はさらさらなく、私は今しなければならない質問をした。「花田君は、七時には部屋にいなかったそうです。寮を出て行く際には、この受付の前を通らなければならない。彼を見かけたとか、なにか気づいたことはありませんでしたか?」
「ちゃんと、報告したんですけど」と当てつけるように前置きをして、和泉が答えた。「花田……君がいなくなったのは、木曜日でしょ。平日は、その時間帯ぐらいから、部活に行く子とかで、制服着たのがいっぱい通るから……それにまぎれて、気がつかなかったんですよ」
真砂子に視線をやると、彼女は小さく頷いて「わたくしは、そう聞いてます」と言った。
「嘘は言わない方がいい」私は和泉に言った。
「嘘って、俺はほんとのことを……」
顔を赤くして、反論をする和泉を遮って私は言った。「だったら、どうして、花田君の部屋のクローゼットに制服が残ってるんだ?」
和泉の顔がさらに赤くなった。怒りではないことは、明白だった。なにかを言いたいのだろうが、言葉が見つからないようで、口を半開きにしたままでいた。
「本当のことを、教えて欲しい。受付の前を通る花田君を見たのか、どうか」
隣に立った清水が深々と頭を下げた。「すみません。嘘の報告をしました」
「どういうことなんです? 説明してください」と真砂子。
「実を言うと、その時間帯は朝メシを食いながら、引き継ぎをしている時間なんです。それで目を離している間に、出てったんだと思います」
真砂子が唇を固く結んで、鼻から大きく息を吐いた。
「だけど、あの時間帯は、こいつ……和泉も一番疲れてる時間帯なんだよ。ちょっと気がゆるむことだってあるさ。俺も気がつかなかったんだし……見逃してくれとは言わないけど、わかってやってくださいよ。その後で、和泉だって花田を捜したじゃないか」清水は、和泉をかばうことも忘れてはいなかった。
「結局、ヤツには〝まかれて〟ますけどね」和泉が不貞腐れたように呟いた。
――せっかく、かばってもらったってのに
「要するに……」私は結論を――いや、事実のみを語った。「あなた方は、花田君が姿を消した当日のことに関しては、なにも気づいていない……と、いうわけですね」
清水は恐縮して頷いてから、和泉の背中を叩いた。
「どうも、申し訳ありませんでした」と、ふたりで声を合わせて頭を下げる。
「正直に話していただければ、結構です」
頭を上げた清水が、切り出した。「だけどさ、あの花田って子がいなくなったからって、こうやって人雇ったりして……理事長は、彼に随分とご執心なんだねェ」
言い回しは年相応に古臭くなっているものの、先刻食堂で真砂子に池畑が問いただしたことと、同じ趣旨だった。
当然、彼女の返答も同じ内容になる。「そんなことはありません。花田君であろうと、誰であろうと、学院としては――」
「まァ……いいよ」清水は、真砂子に最後まで言わせなかった。興味を無くしたのか、右耳の後ろを人差し指で掻きむしった。
真砂子が腹を立て始めていることが、隣にいる私にはひしひしと伝わってきた。
私は清水に訊いた。「どうも、話を聞いてると、あなたは花田君に、あまりいい印象を持ってないように、思えるんですが……」
清水が指の動きを止めて、顔をしかめた。顔に深いしわを刻んだまま、真砂子を見た。和泉は居心地が悪そうにあらぬ方向に目をやった。
「どうぞ、正直に仰ってください」真砂子が、きつい目で清水を見つめた。
清水は真砂子から目を逸らして、私の方を向いた。「正直なところ、いい印象はないね」
「どういった印象なんです?」
「なんてのかな……かわいげがないっていうのかな。なに考えてるのか、わからないんだよね。俺たちを馬鹿にしてるんじゃないかって感じるときもあるしね」
和泉が後に続いた。「いや、清水さんの言うとおりですよ。あいつのあの目……あれ、絶対に大人を馬鹿にしてる目ですよ」
先日、手に入れた花田博之の写真を思い出した。強い意志を感じさせる黒い瞳。教師たちのクセを見抜き、出題されるテスト問題を予想してしまう目――底の浅さを簡単に見透かされてしまった大人たちにしてみれば、かわいげのない少年に映るのだろう。しかし、彼は同世代の少年たちの間では頼りになる存在なのだ。先刻、池畑が語ったことがなによりの証拠だった。
「花田君はそんな子では、ありません」真砂子が強い口調で、ふたりの言葉を否定した。池畑の言葉を聞いていなくとも、彼女は生徒たちと接する中で、私と同じことを感じているようだった。
この当たりが潮時だった。「お忙しいところを失礼しました。もう、結構です」
「あれ、もういいのかい?」清水が言った。
「ええ。当日の朝について、話が聞ければ、充分です。正直に話していただいて……ありがとうございました」〝役立たず〟と口にしないだけの優しさは、私にも備わっている。「お仕事に戻ってください」一礼して踵を返す。
ドアノブに手をかけて振り返れば、深々と頭を下げた清水が、ふてぶてしい和泉の背中を先刻よりも強く叩き、頭を下げさせていた。
管理人室を出ると、今度は真砂子が最敬礼をした。「お恥ずかしいところ、お見せしてしまって……申し訳ありません」
「まァ、気にせんでください」
「ですが……」真砂子の目尻は下がり、眉間のしわは一層深くなっていた。
「こういった状況でも、なんとかするのが、私の仕事ですから」先刻の池畑のときのように、私自身に発破をかける意味合いの強い言葉を口にした。
「よろしくお願いいたします」
「……さて、私はこれで失礼します。いろいろとありがとうございました」
「いいえ。こちらこそご足労をおかけしました。駅までお送りいたしますので、こちらへ」真砂子が受付とは反対側へ行くよう促した。
私は「お構いなく」と答えた。
「いいえ。学院長から、申しつけられていることですし、駅までお送りいたします」
踵を返して歩き始めてしまった真砂子に断りを入れる余地はなさそうで、私は彼女の厚意――いや、林の厚意に甘えることにして、真砂子の後に続いた。ロビーを一番奥まで歩き、先刻降りてきた階段の前を通り過ぎた先にある鉄製のドアを真砂子が開けた。
ドアの向こうは、四台停められる駐車場になっていて、トヨタ・センチュリーが一台駐車されていた。真砂子は小走りでセンチュリーに向かい、後部座席のドアに手をかけた。後に続いた私は、迷わず助手席のドアを開けた。
「ご覧になっておわかりでしょうが、私は後部座席に座るような柄じゃないんです」戸惑いを見せる真砂子に私は言った。
「そういう柄ってあるんですか?」
「もちろん」私は胸を張って答えた。
真砂子は口元に手をやって、おかしそうに笑った。「おかしな方ですね」
私は彼女に微笑みを返して、助手席に乗り込んでドアを閉めた。
運転席に回った真砂子はエンジンをかけると、センチュリーをスタートさせた。彼女は巧みなハンドル捌きで大きなセンチュリーを操り、住宅街の狭い道路を通り抜けていく。私なら確実に二回は車体の側面に傷をつけている。
〝無傷〟のセンチュリーは、右折をしてバス通りに出た。路上駐車をする宅配便のトラックを追い越して、センチュリーを流れに乗せたときに、真砂子が口を開いた。「池畑君のことなんですが……」
「彼がどうしましたか?」
「本当に暴力は……」
「振るってないですよ。別に腹も立ててない」高級車の助手席は、乗り慣れていない身分にとって、座り心地の悪いものだった。後部座席に座らなかったのは正解だ。「むしろ、受付のふたりの方に、腹を立ててますけどね」
「本当に申し訳ありません……」真砂子の耳が赤くなっていた。
どうも、私は言葉が悪い。話題を少年たちのことに戻さなければ。「まァ、あの年頃のガキ……いや、失礼。あの年頃の少年は、背伸びして大人と対峙したがるものなんじゃないんですか? その辺りのことは、私よりあなたの方が詳しいはずだ」
「確かに、そういった傾向はあります」真砂子が答えた。「ですが……あなたは、あの年頃の子供たちの扱いに、慣れてらっしゃるようですね」
「慣れてなんかない。経験論です。こう見えて、私もあの年頃のガキだった時代があるんです」
赤信号に合わせてセンチュリーを停めた真砂子が、再びおかしそうに笑った。「本当におかしな方ですね」
信号が青に変わり、再びセンチュリーがバス通りを走り始めた。三台前を行く路線バスが、道を塞ぐ恰好になっているため、バス通りには車が連なり、センチュリーの走るペースはゆっくりとしたものだった。
「私の方からも、ひとつ質問があるんですが……」私は助手席から彼女に訊いた。「あなたこそ、子供の扱いに慣れてらっしゃる。教務課の職員というよりも、彼らの担任のように思えましたが?」
「そう見えました?」そう言って彼女はフフっと小さく笑った。「実は……昨年まで当学院で教師を務めていました。ただ、教壇で勉強を教えるだけでなく、生徒たちが生活する環境を向上させたくて……学院長に相談をしましたら、今年から教務課の職員として、学院を支えてみないかというお話をいただいたんです」
「去年まで、先生だったんですか……教科はなにを?」
「それは、花田君を捜すのに必要な情報ですか?」
「いいえ。ただの個人的な興味です」
前をむいたまま、真砂子が今度は声を上げて笑った。人生で一度も煙草を喫ったことがないだろう真っ白い歯が見えた。
「国語です。専門は古文になります」
それから他愛のない世間話をふたつほどした頃、センチュリーは三鷹駅のバスロータリーに到着した。突然現れた高級車にバスを待つ人々の視線が注がれているのを見て、〝後部座席に座る柄ではない〟と言って助手席に座った判断は正しかったのだと思った。
助手席のドアに手をかけた私に、真砂子が言った。「本日はありがとうございます。花田君の保護者については、わたくしから林に伝えておきますが、その他のことで林に伝えておくべきことはありますか?」
「そうですね……花田君の写真ですが、画像ファイルかなにかで構わないので、メールで送ってください。私のメールアドレスは、理事長がご存じです」
「わかりました。わたくしから必ず伝えます」
「お願いします。それと、ここまで送ってくれて、どうもありがとう」助手席から降りてセンチュリーに背を向けた。
「ちょっと、待っていただけますか」車の中から、真砂子が声をかけてきた。
「なんでしょう? まだ……なにか」
「その……勝矢君の言っていた〈ヴェルマ〉に行かれるんですか?」
「そうですが……」彼女の言うとおり、花田博之や池畑たちの溜まり場である〈ヴェルマ〉に足を運ぶつもりだった。
「わたくしも、一緒に伺います」
「あなたが……どうして?」
「やはり、自分の目で確認しておきたいんです。彼らがどういう生活を送っているのか」
林が付き添いであった方が楽だったかもしれない。彼であれば、あの食堂での生徒たちの様子を見て、卒倒してしまって終わりだったはずだ。
「車を置いてきますので、ちょっと待っていていただけますか」
センチュリーはバスロータリーを駆け抜けていった。私に反論をさせる間もなく飛び出したのに、高級車だけあって、立ち去る姿は優雅だった。
ひとり取り残された私は大きくため息をついて、その後ろ姿を見送るしかなかった。
雨がやんだら(1)