practice(139)






 革ベルトのよれた穴に留め金を通して,前にも後ろにも見失いやすいあの輪っか。それでも慌てているからといって,くれぐれもちぎれない様に指先で慎重にずらすことをもってして,腕時計を身に着けることを終わりにしようと考えているジャックは,今日着けようとしていたネクタイピンが全く見当たらないことにいらだちがトントンと募り,先に部屋から飛び出した大きな声で,まだリビングに居るはずのデイジーに呼びかけた。
「おーい!俺のネクタイピン,何処に行ったか知らないかー!?」
 つづく廊下をひた走る静寂,いや,今朝のテレビが発信する音は,微かに照明を消した暗さを帯びつつ,始まった雰囲気を軽快に醸し出したまま,本題らしい話し声だけが判別つかずに聞こえてくる。一日の始まり,ジャックはもう一度同じ言葉を,ただし先程よりも大きさと距離を得るために顔をすぐそこである部屋の外に出してから,冷えた空気をむしり取るぐらいに繰り返そうとした。ただそれは叶わない。リビングの窓が開いていたためであり,大声を張り上げての体裁の悪さを気にしたためだ。何せデイジーがそれをよく嫌うとジャックは知っている。朝にしたことがあるジャックたちの喧嘩は常に風通しがよく,低いトーンで,長く続ける気を失くす仕上がりとなる。六時何十分,七時前,七時何分。言いたいことは夕方以降に回し,今はとにかく片付けよう。ええ,そうね。分かったわ。じゃあ,あなたはそれを持って。私はこれを持つから。ジャックでもいい,ええ,私でも。
 二人してノズルをシャワーに切り替えて,お皿にシンクを洗い切る。使い終わったタオルを手渡し(日によっては受け取って),それを持って洗濯槽の扉は閉まり,柔軟剤の容器は縦にちゃぷっと振られて,使われる。お互いの帰宅時間を短く交わし合う。ジャックもデイジーも思う,それで終わり。窓も含めて,戸締りは最後になるものという。その前に靴べらは貸し合い,靴べらをそのまま置いて出る。
  デイジー,デイジー!おーい!俺のネクタイピンを知らないかー?何処に行ったみたいなんだ。デイジー,おいデイジー!知らないのかー!?見当たらないんだ,いつものところに。あるはずだったんだ,ここに。銀色のやつだよ,装飾が粗い,使い込んだあれだよ,あれ。おい,デイジー,
「デイジー!」,ジャックは言う。
 つづいている廊下がその存在を狭くしているリビングで,カタカタというブラインドだと分かっている。紐を引っ張る,紐を引くことをしていたデイジーがそんなところで操作を放棄してしまう。いや,二人とも,かとジャックが思う。ブラインドの底みたいな,固いところがぶつかるといけないからと,丸テーブルに飾ってある絵画の安いレプリカは移動させたというのに,だとも。絵柄は花が淡く描かれているというどこでも見かけそうな一枚に,高いレンガの壁に沿って歩く男女,食器皿に置かれた実りのいいフルーツの数個,古い電話帳の上にとりあえず二つを乗せまま,背後の民芸品の並びに妙に合うものだから。と,立って現れ,すでに使った食器を手にしたデイジーは窓も廊下も見ることなく,まっすぐにリビングを去った。一人だと,備え付けたバーカウンターにとりあえず置かれたであろうその食器。カタカタというブラインド。鈍い塊みたいな日光が床に反射して,腕に巻いたベルトが一応止まったあとですっぽりと抜け,時間がないからといって慌てたりせずに,くれぐれもちぎれない様に指先で慎重にずらしていき,腕時計を身に着けることを終わりにしようとジャックは考えている。それとネクタイピンも。ジャックはもう一度デイジーの名前を呼び,あのネクタイピンは何処に行ったかを知らないかと聞いた。切り替えられたシャワーがシンクの底を叩く音を確かに響かせながら,廊下ともリビングとも言えない位置でデイジーは,
「知らないわ。何処にあったかも,何処にあるかも。いつものところに無いというのなら,ね。今日は諦めて,違うのにしたら?まだあるでしょ?ネクタイピン。」
 そう言って指を差し,食器を鳴らして,カンファレンスの都合で今朝はゆっくりという出勤を遅らせていた。ネクタイピンは確かにまだある,とジャックは思った。そして,時間の余裕も無いとも。自室の方へと戻り,クローゼットを一度開けて,しかしすぐにそこを閉めたジャックは小物入れの下から二段目の抽斗を引き,見て,そのまま上の抽斗も開けた。仮眠用のベッドに投げてあるスーツの色と,ネクタイの模様を見比べて(「二色のストライプ。」と),ジャックは考える。
 ネクタイピンは確かにまだある。けれど,と言わずに。 それから沈黙は部屋の外に出て行った。床の光は水たまりの様に固まって,ひょいっとまたぐことを必要とするかのように映す。どこに行くにも,どこに向かうにも。
「何だったら朝の一杯を飲みながら,ここでその在り処でも探す?」と,デイジーは冗談のように言う。タオルで手を隠し,重なったお皿を取り上げる度に,お皿からは付いたお湯が滴り,伝って,そこに点々とした。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-12

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