スクランブルエッグ
彼女のつくる朝食には、いつもスクランブルエッグがあった。ご飯のときも、トーストのときも、いつも。
「…おはよう」
「おはよ、直生」
今日も彼女はスクランブルエッグを作っている。卵焼きが作れないとか、目玉焼きが苦手だとか、そういう理由じゃないことはわかっているけれど、彼女が朝食にスクランブルエッグを作る理由がぼくにはどうしてもわからない。決してスクランブルエッグが嫌なわけじゃないが、いつもそうだとだんだん不思議に思えてくるのだ。
顔を洗ってリビングへ戻ってくると、温かな朝食が綺麗に並べられていた。ぼくに気づいた彼女は、ふんわり笑う。
「朝ごはん出来たし、食べよう?」
うん、と頷いて、彼女の向かいに座った。トーストとスープ、サラダ、ウィンナー、そしてスクランブルエッグ。いつも通りの綺麗な朝食に、揃って「いただきます」の挨拶をして、食べ始める。不思議ではあるが、彼女の作るスクランブルエッグはどうしようもなくおいしいのだ。
しかし、今日は少しだけいつもと違った。いつも通り、ぼくの向かいに座って朝食を食べている彼女に、どこか奇妙な違和感を覚えたのだ。フォークを動かしていた手を止めて、彼女を見つめる。すると彼女はゆっくりと瞬きをして、舐めるようにぼくを見た。
「…直生、どうかした?」
口元に微かな笑みを浮かべてそう言うと、一口、スクランブルエッグを口に運んだ。そこでぼくは気づいたのだ。この違和感の正体に。
「ねえ…」
「なあに? さっきから直生、なんだか変よ」
絞り出した声は何故か震えていた。喉もからからだった。だけどぼくは言わなきゃいけない。心臓がどきどきと音を立てて、妙にうるさく感じた。
「左利き、だったっけ…?」
ぼくの知る彼女は右利きだったはずだ。字を書くときも、箸を使うときも。それなのに今日ぼくの前に座る彼女は、左手にフォークを持っている。彼女は僕を見つめてなにも言わない。フォークを左手に持って、黙ったままだ。
「なんか、言ってよ…」
そう言うと、彼女は口元を妙な笑顔で歪めて口を開いた。
「…気づいたこと、それだけなの?」
彼女がフォークを机に置き、左手で髪を耳にかける。言葉の意味がわからなかった。彼女の顔をいくら見つめても、感情が読めない。息が荒くなる。心臓がもっとうるさくなって、ぼくは彼女に恐怖を覚えた。なにも言葉を発せないでいるぼくに、彼女はふう、とため息をついて立ち上がった。
「もう、おしまいね」
彼女はくるりと僕に背を向けて、そのまま家から出て行ってしまった。閉まった玄関のドアの音にはっとして、ぼくはすべてを悟った。彼女はもう、ここへは戻ってこない。
彼女の左手の薬指には、綺麗な指輪があった。付き合い始めてからずっと彼女が作り続けていたスクランブルエッグは、未来を表していたのだ。
了
スクランブルエッグ
要は自分が浮気相手だったはなし。