緋色の迷宮

緋色の迷宮

序章



『私を見つけてねー
必ず、あなたの元に還るから。』


白い手が、彼に差し伸べられる。
ツゥッと、流れ出た真紅の液体が、指先を伝ってポタポタと滴り落ちる。


『必ず、私を探し出してー
待っているからー
ずっとー』


闇の中、血で染まった腕が、ゆっくりと、彼の目の前を滑り落ちていくー



「ソニアー!!」


彼は、自分の叫び声で目が覚めた。
全身が汗で、グッショリ濡れている。
呼吸(いき)を荒げながら、彼は震える手で、漆黒の髪をかきあげた。


また、あの夢ー


まだ治まらない、荒い呼吸(いき)を繰り返しながら、彼は胸を押さえた。
心臓も、早鐘を突くように、鼓動を打っている。

両手で顔を覆って、彼は啜り泣くような、溜め息を付いた。

何度、この夢を見たのだろう。
数えきれない位、繰り返された悪夢ー
この先、どれ位この悪夢を見なくては、ならないのかー

彼は、ベランダに出て、風に吹かれた。
夜明けの風は、まだ身を切るように冷たかったが、悪夢で熱に浮かされたような身体には、心地よかった。

朝焼けが、辺りを眩いばかりに赤く染め上げ、照らし出している。


『私を探して』


彼女の声が木霊する。


探しているのにー
ずっとずっと、探しているのにー!
彼女はどこにもいない。


「どうして…見つからないんだ、お前はー」


彼は、キツく瞳(め)を閉じて、呟いた。


あなたの元に還るからー
そう言ったのに。
この世界にも、いないのだろうか。
俺が、見つけられないだけなのか?


「ソニア…」


彼の口から漏れた声は、悲痛な響きに満ちていた。


お前を救えなかった…これが、俺への罰なのか?


彼は、冷たい風に吹かれながら、うなだれたまま、身動ぎもしなかった。
やがて、顔を上げた彼の、黒曜石のような瞳は、固い決意を宿していた。


「必ずー必ずお前を見つけ出すー!」


どんなに、時間(とき)が流れようとー
どれ程、悪夢に苦しめられようとー!

必ず、この手に彼女を取り戻すー!
俺の全てだった、あの娘をー

彼は、自分の手をジッと見つめ、グッと拳を握った。
朝日が、生の象徴のような、眩い光を投げ掛けて、闇の静寂(しじま)を、突き崩す。

彼は朝日を一瞥すると、部屋の中へ消えていった。

第一話



風が耳元を吹き抜けていった。
苑美は、誰かに呼ばれたような気がして、振り向いた。
そこには、唯、甘い柔らかな春風が、渦まいているだけだった。


そんな筈ないわねー
空耳だわ。


苑美は、肩をすくめた。
そう思いながらも、いつも誰かにー何かに、呼ばれているような気がしてならない。

それが、自分を見つけてくれるのを、ずっと待っているー
たぶん、生まれたときから、ずっとー

苑美は頭を振った。


そんな夢みたいな事ばかり、考えてるから、“夢見る夢子さん”なんて、アダ名つけられるのよ。


親友の香織に付けられた、大嫌いなアダ名ー
もう一つのアダ名は、もっと嫌いだった。


「おはよーネンネちゃん!」


噂をすれば影。
香織が、苑美の最も嫌いなアダ名を、呼びながら肩を叩いた。


「そのアダ名は、やめてって言ってるでしょ!」


苑美は、ムゥッとふくれた。
唯でさえ、子供っぼいのを気にしているのに、神経を逆撫でされる。

大学四年生だというのに、苑美はよく、高校生に間違われた。
生来のあどけなさに、清楚で可憐な容貌。
見る者、が守ってやりたいと思わせる、儚げなどこか頼りなげな風情。

派手で華やかな、女王然とした香織の美貌とは、対称的な美しさは、人を惹き付けるのだが、苑美自身には全く自覚がない。

自分には、魅力がないと思っている。
実際には、苑美には、簡単に手を出してはならないと思わせる、品格のようなものがあって、気軽に声をかけるのを、躊躇する男は多かった。

必然的に、男に誘われたりする事が少ない訳だが、苑美には、自分を過小評価する癖があって、自分はモテないのだと、思い込んでいる。

とはいえ、苑美の初々しさに惹かれて、交際を申し込む輩も、いない訳ではない。
苑美は、片っ端から断った。

それで、男に興味がないとか、潔癖症とか噂されているので、それに興味を持って、近付く不逞の輩もいる。
自分には、そのテの男しか、近付いてこないと、苑美は思い込んでいる。

最も、苑美にはどうでもいい事だった。
誰に声をかけられても、心が動かない。

物心ついたときから、自分は何かを待っている。
漠然とそう感じていた。
それが何なのかー男なのか、女なのかーいや、人間なのかさえ、わからないままー


何を待っているのか解れば、自分で探しに行けるのにー


苑美は、心の中で溜め息を付いた。


「アンタ、また男振ったんだって?」


苑美の心中など、知らぬ気に、香織が話し掛ける。


「モテないモテないって、言い寄るオトコ、片っ端から振ってんの、アンタじゃない」


苑美は、素っ気なく答えた。


「どうせ、私を落とせるかどうか、賭けてるような人ばかりよ」

第二話



香織は眉を吊り上げた。


「アンタ、その被害妄想、どーにかなんない?」


香織には、わからないわよー


香織は、大輪の花のような、華やかな美貌の持ち主だ。
黙っていても、男が寄ってくるし、サバけた姉御肌の香織は、それをあしらうのが上手だった。

苑美は、家庭環境のせいもあって、自分に自信がない。
必然的に、万事に奥手で、引っ込み思案で控えめだった。
特に異性にはー

だが、一番の原因は、苑美自身が、誰にも興味が持てないところにあった。


だって…みんな“違う”んだもの…


誰かと、付き合ってみようかと、思った事がないではない。
交際を申し込まれた中には、真剣で真面目そうな男性もいた。

実際に付き合えば、自分が何かを、待っているなんて、“夢見る夢子さん”的発想から、抜け出せるかもしれないー

だが、そう思っても、土壇場でそれを、振り切って逃げてしまう。
心が拒否してしまうのだ。
“違う、この人じゃない”とー


「全く、勿体ない。
オトコの方で寄ってきても、アンタ自分で潰しちゃうんだもん」


香織は、まだブツブツ言っている。
現実主義者の香織に、苑美の感じている、奇妙な感覚を話しても、一笑に附されるだけだろう。
苑美は、香織に聞こえないように、ソッと呟いた。


「だってー“違う”んだものー」


ひとしきり、ブツブツ言って気が済んだのか、香織はコロッと話題を変えた。


「今日は撮影所でしょ?
一緒の撮影だよね」


苑美は、香織と一緒に、小さな撮影所で、モデルのバイトをしていた。
香織に誘われて、始めたものだ。

モデルと言っても、TVに出るような、華やかなものではない。
ショッピングモールとか、大手スーパーなどの、チラシが多かった。

そういったチラシで、モデルに興味を持つ者はいない。
自分に自信がない、苑美でも気楽にできた。
全身の仕事が多いし、身体だけなら、均整が取れている自信があったからだ。


「ええ、チラシ商品のモデルよね」


チラシモデルとはいえ、収入は普通のバイトとは、格段の差がある。
月に数回で、普通のバイト一ヶ月分位、稼げる。
人見知りの気がある、苑美には、ありがたい。

香織の方は、本格的にモデルを目指している。
美貌も容姿も性格も、香織にはうってつけだと、苑美も思う。

苑美の方は、単なるバイトだ。
どちらかといえば、隅に隠れていたい、苑美には無縁の世界である。

もうひとつ、モデルを扱うような仕事なら、人脈も広いだろうと考えて、香織の誘いに、乗ったのだった。
自分の探しているものが、何なのか、解りはしないかと、微かな期待を抱いてー

第三話



「ちょっと、間空いたでしょ?
私、先週も行ったら、カメラマンの内村さん、骨折で入院だって!」


苑美は目を見張った。


「ええ?!
大丈夫なの?!」


香織は、人差し指を下唇の下に当てて、首を傾げた。


「ん〜、右足を単純骨折だから、重症じゃないケド、一ヶ月は安静だって」


そこで、香織はクルリと振り向いた。


「でさ、有吉さんトコ弱小じゃん。
カメラマンいなくて、大弱り。
有吉さんが、無理矢理後輩だって人、引っ張ってきたんだけど」


香織は、グイと苑美に詰め寄った。


「それが、物凄いイケメンなのよ!
そんじょそこらの、芸能人なんて、目じゃないって感じ!」


香織は、瞳(め)をキラキラ輝かせている。


「そ、そう…」


香織の迫力に、苑美はタジタジである。


「今日もいる筈よ。
自分の目で、直接確かめるのね!」


イケメンのカメラマンに会えるので、香織は上機嫌だ。


そんなに、イケメンなのかしら…


苑美も女である。
ちょっと、興味はあった。
人間は、顔ではないけれど、見るだけなら、イケメンがいいに決まっている。

撮影所に入ると、スタイリストの南が、衣装を抱えてきたのに、出くわした。


「あら、レイカちゃん、ソニアちゃん」


レイカは香織、ソニアは苑美の、モデルのときの呼び名だ。
チラシなどに、名前を載せるときなど、使っている。

華やかな世界に、憧れている香織は、好んで使っている。
苑美も本名を使って、大学の知り合いに、知られたりしたくないので、便利だった。


「丁度よかったわ。
これ、今回の衣装。
向こうに運んでおくわね」


両手に抱えた衣装を、指し示すと、南は急ぎ足に行きかけた。


「あ、南さん、今日カレはー?」


高山は足を止めて、振り返った。


「来てるわよ。
有吉さんと、打ち合わせしてるわ」


南は、ほんのり頬を染めている。
香織が囁いた。


「撮影所の女性は、みんなカレに、ご執心よ」


どんな男性(ひと)なんだろう?


苑美も、ますます興味が湧いた。

挨拶を口実に、有吉を探すと、撮影用の舞台の奥のテーブルで、打ち合わせ中だった。
話題の主は、後ろ姿がチラッと見える程度だ。


「後にした方がいいんじゃない?」


苑美は、香織に囁いた。
香織は、ちょっと残念そうな顔をしたが、すぐに思い直したようだ。


「そうね。
どうせ、撮影のときに、顔を拝めるわ。
衣装合わせ、しちゃおっか」


香織は、先に立って、舞台裏の更衣室へ向かう。
苑美も後を追いかけたとき、テーブルの方で、物音がしたので、振り返った。

第四話



有吉が、書類らしきものを持ち上げ、苦笑いしていた。
話題の主が、頭を下げている。
紙コップが、転がっていたのを見ると、コーヒーか何かを、こぼしたのだろうか?


結構、そそっかしい人なのかしら?


そう思いながら、苑美は更衣室に向かった。
何となく、後ろ髪を引かれながら。

これが、運命の邂逅になるとは、夢にも知らずー

衣装合わせで、サイズのチェックなどを終えて、出てきた苑美に気付いて、テーブルで有吉が手招きした。


「こっちこっち」


苑美が近付くと、有吉は立ち上がった。


「ソニアちゃん、紹介するよ」


気のせいか、名前を聞いた瞬間、後ろ向きの男性の身体が、硬直したようだ。
男性が立ち上がって、振り向いた瞬間、苑美は息を呑んだ。


うわぁ…


香織の言葉に、少しも誇張はなかった。
男性は、素晴らしい容姿の持ち主だった。

長身でスラリとした、均整の取れた身体。
鼻筋の通った、端正な顔立ち。
艶やかで真っ直ぐな、漆黒の髪は少し長めで、首筋を覆っている。
涼やかな目元。
瞳は、さながら黒い宝石ー
黒曜石のように美しい。


香織達が、舞い上がるのも無理ないわー


苑美も思わず見とれた。
だが、男性の息を呑むような外見以上に、彼を覆っている、深い翳りが気になった。


どうして、この人、こんな瞳(め)をしているのかしらー


まるで、深淵を覗いたような、黒く暗い瞳ー
何か救いようのない、悲愴で沈痛な色(カラー)が、彼を覆っている。

青年の苦しみや痛みが、伝わってくるようで、苑美は、胸が締め付けられる思いがした。

苑美を見た、青年の瞳(め)は、驚きに見開かれた。
一瞬、激しい衝撃と動揺が、その瞳(め)に浮かぶ。


「水瀬静生くん。
大学の後輩でね、カメラが扱えるんで、無理矢理駆り出しちゃった」


有吉の説明を、上の空で聞き流しながら、苑美は、水瀬の焼けつくような視線を、痛い程感じていた。

余りに、強く激しい視線に、苑美は息苦しくて、いたたまれない思いだった

呑気な有吉は、全くその場の、張り詰めた空気に気付かず、紹介を続けている。


「水瀬くん、彼女はソニアちゃん。
あ、本名じゃなくて、撮影所(ここ)での呼び名だけどね。
バイトで時々モデルやってもらってる」


有吉は、苑美に視線を転じた。


「今日の撮影、彼にしてもらうからね」


水瀬の、底知れぬ感情の浮かんだ瞳(め)に、見据えられて、唯うろたえながら、苑美は何とか答えた。


「はい、あの…は、初めましてー
よろしくお願いしますー」


苑美の言葉に、水瀬の瞳(め)に、言い様のない、深い失望と絶望がよぎる。

第五話



「俺がわからないのかー」


水瀬は、そう呟いたようだ。


「え?」


苑美は、聞き間違いかと思った。
どういう意味か、聞き直そうかと思ったが、激しい動揺は一瞬で、水瀬は既に、冷静で冷やかな態度に戻っていた。

それは表面(うわべ)だけで、水瀬の心の中は、行き場のない、抑圧された感情が、激しく渦巻いて、爆発しそうだった。


「さ、ソニアちゃん、着替えちゃって。
ちゃっちゃと、撮影済ませちゃおう」


能天気な有吉の声に、苑美はホッとして、誰にともなく頭を下げて、更衣室へ駆け出した。

背中に、水瀬の視線を、痛い程感じながらー


肘でつつかれて、水瀬は我に返った。
有吉が水瀬をマジマジと見ている。


「水瀬くぅ〜ん、ウチの女のコに、手ぇ出さないでよ」


水瀬は、返事に詰まった。


「いや、そんな…」


有吉は、苑美の駆け去った方向に、目をやった。


「ふぅ〜ん、ああいうのが、タイプだったのかぁ〜
清純派好みだったんだねえ」


水瀬は黙っていた。
有吉は、こういう事には、妙に鋭い勘がある。
迂闊に喋らない方がいい。
今は余りに、動揺が大きく、上手く受け流せない。


「あ、準備できたみたいだ。
しっかり撮ってくれよ。」


本当は、それどころではないが、撮影を済まさないと、帰してくれそうにない。
有吉は、小柄で非力に見えるのだが、人に有無を言わせないものを、備えている。

理由を説明する訳にもいかない。
頭がおかしいと、思われるのがオチだ。

水瀬は、ありったけの理性と冷静さを、かき集めて、何とか撮影を済ませた。
あくまでも、表面(うわべ)はクールで、無表情を装って。

撮影終了後、有吉が、飲みにでも行こうと、しつこく誘うのを、冷ややかに断って、水瀬は足早に去っていった。


「ん〜ああゆークールなトコ、たまんないわねえ〜」


香織が、ウットリした顔で言う。


「そうかしら…」


苑美は、思わず口に出していた。
香織が、耳聡く聞き付ける。


「あら?
もしかして、ネンネちゃん、あの人に興味持った?」


香織のからかいに、苑美は思わず、頬を染めた。


「そっ、そんなんじゃないわよ!」


唯…気にかかるだけ…


苑美の様子に、香織は真顔になった。


「やめときなよ。
あんな男(ひと)が、私達なんか、本気で相手にする訳ないじゃん。
ましてや、アンタみたいに、オトコに免疫ないネンネちゃんなんて…」


苑美は、嫌いなアダ名で呼ばれた事で、余計に神経を逆撫でされた。


「違うってば!
それに、そのアダ名で呼ばないで!」

つい、言い方がキツくなる。


「私、用事があるから帰るわ」


眉をひそめている、香織を置いてきぼりにして、苑美は撮影所を出た。
一人になって、気持ちを落ち着かせたかった。
どうしようもなく、揺らいでいる気持ちをー

第六話



水瀬は、家に帰りつくと、グラスに酒を注いで、立て続けにに煽った。
心の中で、喜びと絶望が責めぎ合う。


見つけたー!!
やっと、見つけたー
あの娘だ!
ソニアの生まれ変わりー
永い間、探し続けた愛する女ー!
漸く、巡り合えたー


水瀬の胸の内を、鋭い歓喜が貫いた。
それはすぐに、苦い絶望にとって代わる。


『彼女』は、俺を覚えていないー
ずっと探していたのにー
必ず、俺の元に還ると言ったのにー!


「ソニア…」


両手で顔を覆い、水瀬は、テーブルに肘をついて、苦しげに恋人の名前を呼んだ。


『彼女はソニアちゃん。
本名じゃないけどね』


ふいに、有吉の言葉が、脳裡に蘇って、水瀬は頭を上げた。


そうだ。
『彼女』は、仮の名前に『ソニア』を選んだ。
無意識に、前世の名前をー
魂(こころ)のどこかに、刻まれているのではないか。
遠い前世(かこ)の記憶がー
俺と愛し合っていた時代(とき)の想いがー


水瀬は一筋の光明を、見出だした気がした。
絶望に蝕まれそうな、闇の中で、水瀬はその光明に縋りたかった。


俺のように、前世の記憶など、覚えている方がおかしいのだ。
『彼女』に、記憶がなくても当たり前の話だー


水瀬は、目を閉じた。


待つしかないのかー?
『彼女』の記憶が戻るまで。
また、待たねばならないのか?
いつまで、待てばいいのだろう?
俺の心は、この重責に耐えられるのだろうかー


水瀬は深々と、溜め息をついた。


何故、俺には前世のー『彼女』を失った時代(とき)の記憶などあるのだろう。


“お前は、未来永劫その記憶を背負って、生きるがよい。
私の邪魔をした罰だ”


闇の中で、『彼女』を失うきっかけを作った、邪神が嘲笑う。
水瀬は、目を見開き、唇を噛み締めた。


何が罰だー!
そんな事は認めないー!!
邪な思惑で、俺から唯一の光を、奪い去った魔物がー!


そのときの、情景が蘇る。
最後に抱きしめたとき、彼女は、冷たい骸になっていたー

思わず、また目を閉じた、水瀬の脳裡に、苑美の姿が浮かんだ。
ソニアとは全く違う面差し、姿形ー
体型もソニアより、華奢で小柄だ。


だが、紛れもなく『彼女』ーソニアの生まれ変わりだ。
そうだ、彼女は生きている。
生きて、今ここにいるー!

今は、それだけでいいじゃないか。
この腕の中で、冷たくなっていったソニアー
そのときの、張り裂けそうな、魂(こころ)の痛みを思えばー


水瀬は、またグラスを煽った。


何としても、『彼女』を取り戻すー!
生きて、呼吸をして、温かい肌をした愛する女を。
どんな事をしてでもー


端正な顔立ちが、厳しく引き締まる。
黒曜石の瞳(め)が、危険な程に煌めいた。

第七話



苑美は、アパートに辿り着くと、倒れ込むように、ソファーに座り込んだ。
何だか、もの凄く疲れている。


何だろうー
何かーとてつもなく重要な事を、忘れてるみたいなー


苑美は、ソファーにもたれかかって、目を閉じた。


きっと、あの人のせいだわー


水瀬はあのとき、俺がわからないのかーと、言ったように聞こえた。


私、あの人とどこかで会った?
いいえ、そんな筈ない。
一度でも会ってたら、忘れるなんて、あり得ないわー


苑美は、水瀬の際立った容姿を、思い返していた。


カメラマンなんかしてるより、モデルか俳優の方がピッタリよねー


水瀬なら、どこにいても、何をしていても、人目を引くに違いないが。


どうして、カメラマンなんて、やってるのかしら?


最も、カメラマンは無理矢理、頼み込んだのであって、本業ではないと、有吉が言っていた。


本業って何かしら…


気が付くと、水瀬の事ばかり考えている。
苑美は、頬を染めて起き上がった。
これでは、水瀬にのぼせ上がっている、香織達と何ら変わらない。


でもどう考えても、やっぱり、私があの人を、知ってる筈ないー


あのとき、瞳に深い絶望の影を、見たような気がしたのは、自分の思い込みだろう。
苑美は、そう思った。

水瀬を覆っている、余りにも暗い影にー瞳に宿る深い翳りに、苑美は息が苦しくなる程だった。
あれ程、憂いと翳りに満ちた瞳は、見た事がない。

きっと、そのせいで、そんな風に感じたんだわー
あんな人が、私なんかに、関心を持つ筈ないもの。
でもー


あれ程、恵まれた容姿を与えられながら、水瀬は何故、あんな瞳(め)をしているのだろう。

絶望、哀しみ、孤独、渇望…
それらに満ちた瞳は、苑美の心から離れなかった。

それが、自分のせいだとは、苑美はまだ知る由もない。
余りに、それが心から離れず、苑美は怖くなった。

水瀬に会った事で、全てが変わってしまいそうな気がする。
こんな気持ちに、なった事はない。

こんなに、自分を惹き付ける、水瀬が怖い。
こんな気持ちになる、自分が怖い。
苑美は、強い戸惑いと不安に混乱するばかりだった。



数日後、前々から決まっていた撮影があって、苑美は仕方なく、撮影所に出掛けた。
今回は苑美だけで、香織は一緒ではない。


弱小の有吉のプロダクションでは、簡単に代わりは見つからないだろう。
そう思うと、苑美には断れなかった。
こんな、不安定な気持ちで、水瀬には会いたくなかったのだがー


撮影所には、スタッフの人もいるんだから、大丈夫よー


苑美は、そう自分を励まして、重い足取りで、撮影所へ向かった。

第八話



撮影所に着くと、中はガランとしている。
誰もいないようだ。
苑美は戸惑った。


どうしたのかしらー
今日、撮影の日よね。


キョロキョロ、辺りを見回していると、奥から声がするのに、気が付いた。


よかった、誰かいるみたいー
有吉さんかしら?


ドアをそっと開いて、中を覗いてみる。
途端に、心臓が飛び出しそうになった。

中にいたのは、水瀬だった。
椅子に掛けて、ケータイで、誰かと話している。
眉間にシワを寄せているのを見ると、楽しい話ではなさそうだ。


「ええーそれで?
ええ…戻れそうにないー
じゃあ、今日の撮影は中止でー
え?…いや、それは…
そう言われてもー
もしもし?もしもし、有吉さん?!」


どうやら、電話を切られたらしい。
水瀬は、苦い顔で電話を切った。
忌々しそうに舌打ちして、横を向いた拍子に、ドアから覗いていた苑美と、視線が合った。

苑美は何だか、酷く悪い事でもしたような気がして、モジモジするしかなかった。

水瀬の瞳には、言い様のない、複雑な感情が浮かんだが、すぐに消えた。
感情を抑制(コントロール)するのは、慣れているらしい。


「あ、あの…誰もいなかったから…どうしたのかと思って」


苑美は、おずおずと弁解した。
水瀬は、眉間のシワを深くしたが、感情の籠らない口調で淡々と答えた。


「有吉さん達は、総出で出掛けた撮影先で、渋滞にハマッてるそうだ。
こっちには、何時に戻れるか、わからないらしい」


苑美は、目を見開いた。


「あの…じゃあ今日の撮影は…?」


水瀬は、また忌々しそうに溜め息をついた。


「期限が迫ってるから、二人でやってくれとさ」


二人…って、私とこの人だけで?!


事の成り行きに、呆然としている苑美に、水瀬は立ち上がって促した。


「サッサと済ませてしまおう。
チラシの商品だ。
1、2時間あれば終わるだろう。
衣装は、用意してあるそうだ」


そう言うと、撮影ルームへと歩き出した。
苑美も、仕方なく後についていく。


数時間、この人と二人きりなんてー
どうしよう、息苦しいー
私、終わるまで耐えられるかしらー


既に、心臓の動悸は、激しくなっている。


どうしてなのかしらー
私は、この人が怖いー
傍にいると、どうしようもなく、不安になる。
自分を失って、引きずられてゆくみたいでー


苑美は、足早に更衣室に入ると、しっかり鍵をかけた。


早くー早く終わらせてしまおう。
私、きっと被害妄想に、取り憑かれてるんだわ。
あんな人が、私を相手にする訳ないのに。

早く終わらせて帰らなきゃ、自分が壊れて無くなってしまいそうー!

第九話



水瀬は、苛立っていた。
こんなに近くにいるのに、抱きしめる事は愚か、『彼女』に触れる事もできない。

衝動に負けそうな、自分を抑えようと、つい態度が冷淡になる。
その上ー


『彼女』は、俺を怖がって、怯えているー


それが、何より水瀬を苦しめた。


どうして、俺が解らないんだー!


心がそう叫んでいる。
激情に流されそうな自分を、水瀬は必死で抑えた。
この激情(きもち)に、流されたら、自分は何をしでかすか、わからない


ともかく、撮影を済ませてしまおう。
滞りなく進めれば、短時間で終わる筈だ。


水瀬は、手早く器材を準備し始めた。
チラシの商品撮影だ。
モデルが中心ではない。
器材も、カメラと照明位で、事足りる。



今日の衣装って、こんなだった?!


説明されていた筈なのに、苑美は顔を赤らめた。
夏に向けての、露出度の高いサンドレス。
とは言っても、年齢層高めを狙って、おとなしめのデザインだ。
香織のような若者は、もっと派手で奇抜、大胆なものを平気で着ている。

それでも、肩が剥き出しで、胸元まで見える。
これを、水瀬の前で着ると思うと、妙に恥ずかしい。
苑美は、そんな思いを無理矢理、頭の隅に追いやった。


仕事よ、仕事!


自分に言い聞かせると、苑美は水瀬のいる、撮影ルームに出ていった。

水瀬は淡々と、仕事をこなす。
的確な指示以外、口に出さなかった。

撮影は順調に進み、最後の撮影衣装に着替えて、苑美は漸く、安堵の溜め息を吐いた、


よかった、これで帰れるわー


サンドレスが引き立つように、アップに結い上げた髪に、花飾りをつける。


誰もいなくて、自分で適当にやったけど、雑誌モデルな訳じゃないから、いいわよね。
それっぽく見えればー


水瀬は、苑美を見ても、全く感情を表さない。


私になんか、興味を示す筈ないわよねー


過敏過ぎる自分を、嘲笑いたくなる。
それでも、いつもの自分より、露出度の高い服で、水瀬の前に出るのは、やけに心もとなく思えた。

苑美は、頭を左右に振った。


バカね、彼は私の貧相な肉体(からだ)なんか、見てないわ。
自意識過剰も、いい加減にしなさい!


だが、苑美は間違っていた。
いろいろな点で。

苑美は貧相な肉体(からだ)などしていない。
それは、自分に自信が持てない彼女の、思い込みに過ぎない。

着痩せするタイプの苑美は、やや小柄ながら、均整の取れた、美しい肉体(からだ)をしている。

服で隠れていると、華奢でほっそりして見えるが、今回のように露出度の高い服だと、それは一目瞭然だった。

その上、苑美は雪のように白く、透明感のある滑らかな肌をしている。
髪を結い上げた為に、ほっそりした、白いうなじが露(あらわ)に見える。

第十一話



「感度いいなー」


苑美の反応に、水瀬が唇の端を上げる。
苑美は、混濁した頭でも、水瀬の言葉に羞恥を隠せない。


「い…や…」


苑美は抗おうとしたが、その動きは弱々しいものだった。
水瀬に与えられる、初めての感覚に、肉体(からだ)は確かに反応し、心は動揺し困惑する。


心と肉体(からだ)がバラバラになりそうー


「助けてー誰…か」


思わず呟いた言葉は、水瀬から逃げたいという思いよりも、自分の混乱しきった心と肉体(からだ)を、救ってほしかったからかもしれない。

その声を聞いた、水瀬の表情(かお)が険しくなる。


「誰も来ない」


水瀬は、凍るような冷たい声で言った。
冷ややかな瞳(め)が、苑美を見下ろす。
苑美の肌をまさぐる手が、激しさを増す。


「誰も助けになど来ないー
あきらめるんだな」


水瀬は、苑美の白い肌を、思う存分堪能した。
その肌に触れたいと、あれ程渇望した、滑らかで柔らかな肌の感触ー

想像より、ずっと豊かで、美しい胸を揉みしだき、ローズピンクの乳首を、更に愛撫する。


「綺麗な色だー」


苑美がどう思っていようと、肉体(からだ)は正直だ。
乳首は固く勃っている。
間違いなく、自分の愛撫に、応えている。
それが一層、水瀬の血を狂わせた。


「あっあ…あ…っ!」


水瀬の愛撫に、苑美は喘いで、撮影の為に敷かれた、絨毯を握りしめた。
瞳に涙が滲む。
それが、嫌悪からか歓びからか、哀しみからか、苑美にはもう解らない。

水瀬は、我慢の限界に達した。
ズボンのファスナーを下げると、これ以上ない位、怒張した自分を開放した。
意識の朦朧とした、苑美の脚を、左右に開かせると、考える間もなく、自分自身で一気に貫く。


「!ひーーー!!」


苑美の目が、大きく見開かれる。
余りの激痛に、声も出ない。

苑美の中に、深く自分自身を埋め込んで、水瀬の腰が、激しく動く。


「や…い…痛い…っ
やめ…」


食いしばった口から、苦痛の声が漏れる。
キツく閉じた目から、涙がこぼれた。
水瀬も、もう自分では、どうにもできなかった。


「力を抜けー
痛いだけだぞー」


苑美には、何を聞く余裕さえない。
そのまま、意識が遠退いてゆくー

水瀬は、一気に歓喜の絶頂へ昇り詰めると、自分自身を解き放った。


「ーっ!」


そのまま、苑美の上に崩れ落ちる。
水瀬は、快楽の名残の甘い余韻に、身を委ねた。誰もいない撮影所の中に、荒い息遣いだけが響く。

漸く、乱れた呼吸も治まって、水瀬はゆっくりと身を起こした。
苑美は、グッタリして、身動きもしない。

第十話



それは、水瀬が抑えようとしている激情を、更に煽り立てた。
苑美の白い肌、女らしいまろやかなフォルム、長い髪に隠れて見えなかった、ほっそりしたうなじが、水瀬を誘惑するように、露(あらわ)に見える。

あの肌に触れたいー
白い肌に指を滑らせ、うなじに唇を押しあて、魅惑的な胸の谷間に、顔を埋めてー

自分の膨れ上がる欲望に、呑み込まれそうになるのを、水瀬は必死で抑えた。

そんな事とは、全く知らない苑美は、言われるままに、ポーズを取っている。
その無邪気さは、罪な程だった。

やっと、最後の一枚を撮り終えて、二人とも心の中で、胸を撫で下ろした。


「お疲れ様でした。
じゃあ、私着替えてきますね」


そそくさと、立ち去ろうとした、苑美の髪から、花飾りが落ちた。
気付いた水瀬が、花飾りを拾い上げ、苑美を呼び止める。


「飾りが落ちた」


苑美は、ハッとして髪に手をやりながら、おずおずと水瀬に近付いた。
水瀬との距離が、妙に近く感じて、心臓の鼓動が早くなる。


「あ、ありがとうございます…」


髪飾りを、受け取ろうとした拍子に、指が触れ合って、苑美はビクッと手を引っ込めた。
花飾りが、床に音もなく落ちる。


「ご、ごめんなさい、私…」


苑美がうろたえて、花飾りを拾おうとした手を、水瀬がグッと握った。


「そんなに俺が怖いか…?」


冷静に聞こえる口調の中に、危険なものを感じた苑美は、思わず恐怖に見開いた瞳(め)を水瀬に向けた。


「わ、私、帰ります…!」


手を振り払って、逃れようとしたが、水瀬は掴んだ腕に、ますます力を籠めて、苑美をグイと引き寄せた。


「帰さない」


低い声で囁くと、水瀬は強引に唇を重ねた。


「や!…んっん…っ」


水瀬は、強引に舌を滑り込ませた。
苑美の舌を捕らえて、絡ませる。

苑美の初めて知る、濃厚な大人のキスー
頭の芯が、クラクラする。
身体から、力が抜けそうになる。

唇がやっと離されると、苑美はそのまま床に押し倒された。
水瀬の唇と舌が、苑美の首筋を這う。


「やっあ…っ」


苑美の肉体(からだ)が、ビクンと震えた。
初めての感覚に、苑美は動揺し、混乱した。

水瀬は乱暴に、サンドレスを引き降ろした。
苑美の胸が、露(あらわ)になる。
苑美は、ハッと我に返った。


「い、嫌っっ!」


肉体(からだ)を捩って、逃れようとしたが、水瀬は、そうはさせなかった。
苑美の手を押さえ込むと、乳首を口に含んだ。


「あっ、や…っ!」


苑美の肉体(からだ)が、ビクンと跳ねた。
水瀬は構わず、乳首を吸いたて、舌で愛撫した。
もう片方の乳首を、指で摘まんで弄ぶ

第十三話



パリン


水瀬の掌で、グラスが割れた。
余り強く握りしめたので、割れたグラスの欠片で、傷付いた掌から、血が流れている。
水瀬は、それにも気付かない。


あんな事をするつもりは、なかったのにー


水瀬は、後悔に責め苛まれた。
撮影所で、自分の欲望に負けて、苑美にした仕打ちにー

撮影の為の衣装は、苑美の女らしいフォルムを、美しい肌を、剥き出しにした。
欲望が、抑えきれない程に膨れ上がった。

何よりも、苑美のあの目ー
水瀬を見る目は、“他人”を見る目だった。
見知らぬ男を怖がり、怯える目ー

目の前にいるのは、確かに、探し求めていた恋人なのに。

かつて、『彼』を見る瞳に輝いていた、溢れそうな愛は欠片もなく、あるのは恐れと怯えー
『彼』をかき抱いた腕は、拒絶するように、自分の身体を抱きしめている。

湧き上がった絶望が、水瀬を乱暴な行為に駆り立てた。
更に、直に触れた苑美の滑らかな肌が、辛うじて残っていた、理性も良心も粉々に打ち砕いた。

思わず握りしめた掌に、痛みが走り、水瀬は初めて、手に怪我をしている事に、気が付いた。
掌を染めた血を、水瀬は見つめた。

禍々しい程に、紅い血の色ー
ソニアが自分の為に流した血ー
自分が、苑美に流させた血ー

ソニアを、あんな目に合わせた自分を、ずっと責めてきたー
それなのに、今また、苑美の心も肉体(からだ)も傷付け、血を流させたー

ソニアを失ったあのときから、水瀬は他人が血を流すのを見ただけで、気
分が悪くなり、吐き気がした。


自分の血は、平気なのになー


水瀬は、掌を目の前にかざし、流れた血を見ながら、自嘲した。

ソニアの身体を、朱に染めた血は、水瀬ー『彼』の身体をも、真紅に染めた。
悪夢を見るようになったのは、それからだ。

どこまでいっても、出口のない、燃えるような緋色に覆われた迷宮の中、彷徨い続け、息も絶え絶えになるー

恋人は朱に染まり、横たわるー
あるいは、血まみれで手招きするー
傍に行こうと、どんなにあがいても、行き着かないー

水瀬は、固く目を閉じた。

苑美の流した涙と、無垢の証しの、真紅の血の色が、閉じた瞼の裏に、またちらつく。

水瀬は片手で顔を覆い、苦悩の溜め息を漏らした。

それなのに、肉体(からだ)は歓喜に満ちていた。
いや、満足してはいない。
苑美ー『彼女』の甘い唇を、滑らかで柔らかい肌を、固く勃った乳首を、肉体(からだ)の全てを味わいたくて、水瀬の肉体(からだ)は、疼いていた。


ダメだー!
もうあんな真似をしてはー


だが、肉体(からだ)は、『彼女』を求めて、荒れ狂っている。

第十二話



苑美の脚を、鮮血が伝っている。
無垢の印の、真紅の血の筋ー
自分が犯した罪の色ー

水瀬は、思わず目を閉じた。
血の色に吐き気がする。

ソニアの指先から、滴り落ちる紅い雫ー

朱に染まったソニアの姿が、グッタリと絨毯に横たわっている、苑美と重なる。

肉体(からだ)を覆った、歓喜の波が引いていくと同時に、罪悪感が津波のように押し寄せる。

水瀬は、あられもない姿で、横たわる苑美の身体を、自分の上着で覆うと、無言でその場を立ち去った。



ここは…どこ…?
私…何をしてたんだっけ?


頭に靄がかかったように、ぼんやりしている。
苑美は、緩慢な動作で、起き上がろうとした。


「痛…っ!!」


肉体(からだ)に、激痛が走る。
その瞬間、苑美はここで何が起こったのか、一部始終を思い出した。

苑美は、自分を見下ろした。
ここで何が行われたか、一目瞭然の、自分の姿ー

撮影用の衣装は、腹部まで引き下げられ、裾は捲れ上がっている。
そして、太股を伝って、脚に流れる血の筋…


「あ…」


自分の身に起こった事が、信じられない。
苑美は、何を考える力もなく、唯、自分の身体を抱きしめたまま震えていた。
その場に呆然と、座り込んだままー

どこからか、時刻を知らせる、鐘の音が聞こえて、苑美はハッと我に帰った。


今…今、何時?!


時刻を確かめると、夕方の4時。
渋滞にハマったという、有吉達が、いつ戻ってきても、おかしくない。


帰らなくちゃー
有吉さん達が帰る前に、ここを出なくちゃー!


苑美は、何とか立ち上がると、ふらつく足を踏みしめて、更衣室へ向かった。
着替えを終えて、逃げるように撮影所を出る。

苑美は、涙が込み上げてくるのを、懸命に抑えて、帰路を急いだ。


ダメ、今泣いたら止まらなくなるー
そのまま、倒れてしまうかもしれないー


何が起こったのか、誰にも知られたくなかった。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
気付くと、苑美はアパートの前に立っていた。

全身の力が、抜けそうになるのを、必死で堪えて、自分の部屋へ、転がり込むようにして入る。
震える手で鍵をかけると、苑美はバスルームへと、駆け込んだ。

着ているものを、全て脱ぎ捨て、浴室へ飛び込むと、シャワーを全開にした。
熱いお湯が、勢いよく苑美を打つ。

苑美は、シャワーの下に崩れ落ちた。
堪えていた涙が、一気に溢れ出た。


「あ…ああっ…あ〜」


シャワーの音が、泣き声をかき消してくれる。
苑美の脚を流れた血の筋が、ピンク色に湯を染めるー


どうしてー?


水瀬の姿が頭に浮かんで、苑美は更に激しく、泣きじゃくった。

第十四話



あきらめる事など、できる訳がない。
だが、急いではいけなかったのにー
自分の感情に耐えきれず、嫌がる『彼女』を、無理矢理犯してしまったー


『彼女』と距離を置かなければー
やっと、見つけたというのにー!
片時も、離れたくなどないー
だがー


水瀬は、心の葛藤を、無理矢理抑え込んだ。


そうしなければ、俺は何度でも、同じ事をする。
傍にいたら、何度でも、力づくで『彼女』を…


水瀬は、頭を左右に振った。


今は…離れるしかない。
そうしなければ、『彼女』は本当に、俺の手の届かないところへ、去ってしまうだろう。


「ソニア…」


水瀬は、恋人の名前を呟いた。
自分を、無条件に愛してくれた女ー
取り戻したい。
何としてでも、この腕のにー!

その為には、一旦『彼女』の傍から、離れる必要があった。
水瀬にとって、身を切られるように、辛い選択だったが、今はそれ以外に『彼女』を守る方法がない。

皮肉な事に、自分から『彼女』を守る為にー

水瀬は、天井を見上げて、目を閉じた。



苑美は、久々に大学に来ていた。
一週間ぶりだろうか。
あれから、熱を出して、寝込んでしまっていた。
肉体的にも、精神的にも、大きなショックを受けたからだろう。


まだ、肉体(からだ)に、あのときの痛みが、残っているみたいー


幸い、大事な講義はなかったので、卒業に響くような事はない。
父親から、無駄な援助は、極力避けたい苑美には、不幸中の幸いだった。

講義が終わって、苑美はぼんやり、窓の外を見ていた。
外は、明るい春の陽光で、満ち溢れていた。
回りは、明るい学生達の声で、さざめいていた。


自分だけが、変わってしまったみたいー

第十五話



魔がさしたーで、片付けられたら、余りに自分が哀れで惨め過ぎるー


「小池さん、どうかした?
顔色悪いよ」


声をかけられて、ハッとした苑美が、顔を上げると、よく同じ講義を受けている男子学生が、心配そうに、苑美を見ている。


「あっ…だ、大丈夫。
ちょっと風邪で寝込んでて、病み上がりだからー
帰って休むわ。
えっと…」


顔は知っていた。
優しい穏やかな面持ちで、かなりのイケメンの彼は、周りの女子学生に、人気がある。


「及川だよ。
及川」


及川は、柔和な顔に、笑顔を刻んだ。


「ありがとう、及川君」


苑美も笑顔を返すと、立ち上がって、歩き出した。
及川はジッと、苑美の後ろ姿を見送っている。


優しい人だわー


優しく温かい笑顔に、波立った胸が、穏やかになる気がした。


あの人と、全く正反対のタイプだわー


水瀬の、暗い眼差しを思い出す。
張り詰めて、今にも切れそうな、糸のような危うさもー
せつなさが込み上げて、泣いてしまいそうで、苑美は足を早めた。

アパートに辿り着いて、苑美はソファーに、倒れ込むように座った。
久しぶりに動いたので、疲れがひどい。


あの人は笑った事があるのかしらー


及川の優しい笑顔に、水瀬の、冷たい程に整った顔が重なる。
その口元は、いつも固く引き結ばれていた。

苑美は、溜め息を付いた。
気が付くと、水瀬の事を考えている。


私は、あの人をどう思っているの?


目を閉じて、自分の心の声に、耳を傾けてみる。
あんな目に合わされたのに、水瀬を憎んだり、恨んだりする気持ちは、不思議な位なかった。

唯、苦しくて、せつなくて、哀しい。
水瀬は、乱暴な行為を、楽しんでいる様子は、少しもなかった。
自分でも、止められない衝動に、突き動かされているように思えた。

水瀬が、欲望だけで、自分を玩具(おもちゃ)にしたとは、思えなかった。
思いたくなかった。

堪えていた涙が、溢れてくる。


バカねー
みんな、自分の希望的観測じゃない。


涙は、後から後から、ポロポロこぼれ落ちる。


私、あの人が好きなんだわー
だから、こんなに苦しくて哀しいー

いいえ、最初からわかってたー
でも、自分の心から、目を背けようとした。
あの人が怖かったからー

きっと初めて逢ったときから、私はあの人が好きだったー

同時に、怖かった。
何を考えているのか、全くわからないあの人がー
そんな人に、こんなにも惹かれる自分がー

これは罰なの?
自分の気持ちを、ハッキリ認めていれば、こんな事にはならなかったの?

第十六話



そんな事は、有り得ないと思いながら、苑美には、そんな気がしてならなかった。


私はずっと、何かを待っていたー
幼い頃から、何なのかもわからないままー
私が待っていたのは、あの人なのではないかー


ふと、頭に浮かんだ考えに、苑美は自分で呆れた。


そんな筈ないじゃない。
私が彼に、釣り合わないのは、誰の目にも明らかだわー


苑美は、深い溜め息を付いた。


私…どうすればいいんだろう…
これから…


逢いたいー
でも逢うのが怖いー


水瀬がどうして、あんな事をしたのか、真意がわからない事が、苑美を苦しめた。


何もかもが、謎だらけー
あの人の真実(ほんとう)の姿が見えないー


苑美は、自分も怖かった。
心も肉体(からだ)も、ひどく傷つけられたのに、それでも水瀬に惹かれる自分が、恐ろしかった。

「私はいったい、どう進めばいいのー?」


苑美は、声に出して呟いた。
答えてくれるものは、誰もいない。



ピンポーン


玄関のチャイムの音に、苑美はハッとして、目を覚ました。
考え疲れて、眠ってしまったらしい。
時計を見ると、夕方6時を回っている。


もうこんな時間?!


苑美は慌てて、立ち上がった。
玄関の覗き穴から、外を覗いて、苑美は目を見張った。


「及川君?!」


驚いてドアを開けると、及川は、はにかんだような笑顔を見せた。


「あの…どうしたの?
どうして場所(ここ)に?」


及川は、モジモジしながら、辺りを見回した。


「あの…入ってもいいかな?
すぐ帰るから。
住人(ひと)に見られて、噂になったりしたら、小池さんが迷惑するだろう?」


苑美は、困惑しながら、及川の為に、ドアを開いた。


「ええ、あの…どうぞ」


及川は、玄関に入ると、ちょっと顔を赤らめながら、苑美に小さな花束を差し出した。


「あのこれ…お見舞いに。
帰るとき、具合悪そうだったから、気になって…
ゴメン、住所は事務の人から、聞き出したんだ」


及川は、まだ何か言いたそうな様子だった。


「あの、小池さん」


花束をもらって、戸惑っていた苑美が、顔を上げる。


「あの…えっと…」


不思議そうな、苑美の大きな瞳に、見つめられて、及川はしどろもどろになる。


「な、何でもないんだ。
じゃあ、お大事に!」


慌てて玄関から、飛び出していく及川を、苑美はポカンと見ていた。


「面白い人…」


普通の人間なら、告白ではないかと、ピンときそうなものだが、苑美には自分を、過小評価する癖がある。

自分なんかに、告白する人間はいないと、思い込んでいる苑美は、及川の気持ちに、全く気付いていない。

第十七話



それでも、及川の訪問は、苑美の心を、ほんのりと温めた。

自分を気遣ってくれる、人間(ひと)がいるー
苑美は、それが嬉しかった。
だがー

心にぽっかり空いた穴は、埋まらない。
及川の優しさは、苑美の心を温めてはくれたが、空洞は埋められない。

この心の空洞を、埋められるのは、水瀬だけなのだ。
苑美は、それに気付いてしまった。


バカねー
そんな事、気付いてしまって、どうするの?


自分の存在など、水瀬にはちっぽけなものだろうにー
苑美は泣きたくなった。

涙を堪えようと瞬きしたとき、苑美は、及川が下駄箱の上に、本を忘れていったのに気が付いた。


どうしようー
追いかけたら、捕まるかしら。


苑美は迷ったが、そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
及川が、忘れ物を取りに戻ったのだと思った苑美は、ホッとしてドアを開けた。


「及川君、本ならここに…」


言いかけて、苑美は本を取り落とした。
ドアの外に立っていたのは、水瀬だった。


「及川君でなくて、残念だったな」


水瀬は、ズイと玄関(なか)に入ると、ドアをバタンと閉めた。


「どうして部屋(ここ)に…?」


呆然として呟く苑美を、見つめる水瀬の目は、氷のように冷たかった。
冷たい光を宿した、瞳(め)の奥で、激しい危険な感情が揺らめいている。


「お楽しみだったのかな?」


お楽しみ…?


意味が解らなくて、苑美は頭の中で反芻して、やっと水瀬の言っている意味が理解できた。
及川の事を、誤解しているのだ。


「ち、違うわ!
彼は、お見舞いにきてくれただけで…」


水瀬は、冷笑を浮かべた。


「お見舞いねー
何の見舞いだか」


水瀬はジリッと、苑美との間を詰めた。
本能的に、危険を感じた苑美は、後退った。

水瀬は、苑美の腕を掴んで引き寄せ、強引に唇を重ねた。


「や…っ!んん…っっ」


唇をこじ開けられ、水瀬の舌が絡められる。
深い、ディープなキスー
頭の芯が痺れる。


「ん…ふぅ…っ」


やっと唇が離れたとき、苑美は息を、弾ませていた。
肉体(からだ)に力が入らなくて、立っているのがやっとだった。


「どういうお見舞いだったか、肉体(からだ)に聞いてみればわかるな」


え…?


どういう意味か、考える間もなく、水瀬は苑美を抱き寄せたまま、寝室のドアを開けた。
ベッドの上に、放り出されるように寝かされて、苑美は我に返った。


「!嫌…っ」


苑美が本能的に、逃れようともがく。
水瀬は構わず、ブラウスを力任せに、左右にはだけた。
ボタンが千切れて飛ぶ。

第十八話



ブラジャーを、乱暴に押し退けると、水瀬は露になった乳首を、口に含んだ。


「ああ…っ!」


苑美が肉体(からだ)を、ビクッと震わせる。
水瀬は、更に乳首を強く吸いたてる。
舌先で乳首をつつき、転がすと、苑美は肉体(からだ)を震わせ、敏感に反応を示す。


「敏感だな。
乳首(ここ)が、感じるのか」


水瀬は、もう片方の乳首を、同じように弄んだ。


「あっあっや…っあっ」


苑美が声を上げる。
明らかに、快感の喘ぎ声だ。
その声が、更に水瀬の情欲を煽る。
水瀬は、乳首を指でギュッと摘まんだ。


「あう!」


苑美の肉体(からだ)が、ビクンと跳ねる。

水瀬は、苑美の胸を揉みしだいた。
しっとりと吸い付くような、滑らかな肌ー
固く勃った乳首を、指で弄ぶと、苑美は更に肉体(からだ)を痙攣させた。

肌は桜色に上気し、瞳は潤んでいる。


「どう…して…?
こんな事ー」


苑美は、涙に潤んだ瞳(め)で、水瀬を見た。


どうして、私にこんな事するのー?
唯の遊びなの?
胸が張り裂けてしまいそうー


「何度でも、同じ事をする」


水瀬は、冷ややかに答えた。


何度…でも?


苑美は、ドキリと胸を震わせた。


私と、関係を続けたいって事ー?


水瀬は更に、低い声で呟いた。


「お前が思い出すまで」


えー?


何の事なのか、わからない。
聞き間違いだろうか?
聞き返そうとして、唇を塞がれた。
舌が絡められ、苑美の意識は、更に混沌としていく。


「ん…んふ…ぅっ」


息を喘がせる、苑美の耳元で、水瀬が囁いた。


「あいつにも、同じ事をさせたのか?」


苑美は驚いて、目を見開いた。


「そんな…!
そんな事してな…あっ!」


水瀬に、耳たぶを噛まれて、苑美は声を上げた。


「本当にー?」


水瀬は首筋に、舌を這わせた。
苑美が、肉体(からだ)を震わせる。


「お…及川君は…唯、同じ大学なだけ…で…何も…あ…っ」


水瀬の愛撫に、翻弄されながら、苑美は誤解を解こうと、必死になった。


「大学…休んでたから…心配して…お見舞いに…っ!」


肌を這い回る、水瀬の愛撫の感覚に、言葉が途切れ途切れになる。


「ふん、わざわざ、部屋(ここ)まで、お見舞いにか?
こんな時間に」


水瀬は唇の端を歪めた。
言葉が嫌に、刺々しく聞こえる。
愛撫の快感で、朦朧としてきた頭で、苑美はぼんやり思った。


まるで、嫉妬してるみたい…


考えは長く続かない。
水瀬が、苑美のスカートをまくり上げた。

第十九話



「まあいい。
肉体(からだ)に、聞いてみればいい事だ」


言うが早いか、水瀬は苑美の下着を引きずり降ろした。


「!あっ嫌っ」


反射的に閉じようとした脚を、水瀬は押さえつけ、強引に開かせた。
顔を真っ赤に染めて、苑美は目をつぶった。
羞恥で、肉体(からだ)が震える。


「綺麗な色だー」


水瀬の呟く声に、初めて、灯りが点いているのに気付いて、苑美は狼狽した。


「感じたんだろう?
ほら、こんなに濡れている」


水瀬の声には、嘲るような響きがあった。
苑美の全身が、羞恥で燃えるように熱くなった。


「それとも、『及川君』との名残で、こんなになってるのか?」


苑美の肉体(からだ)は、今度は屈辱で、カァッと熱くなった。


まるで私が、誰とでも寝るみたいにー!


「ち、違うわ!
彼とは何もー」


まともに話したのだって、今日が初めてなのにー


悔しさに、涙がこぼれる。
逃れようとしても、水瀬にしっかり、押さえ付けられていて、肉体(からだ)を動かせない。


「お願い…離して…!」


水瀬は構わず、苑美の秘所に唇を当てた。


「ひ…!」


唇の感触に、苑美が肉体(からだ)を、ビクリと震わせた。


「い、嫌っ!
そんなところ…!」


水瀬が、満足そうな笑みを浮かべる。


「誰も触れた事は、ないんだな?」


そうよー
何もかも、あなたが初めてなのにー


苑美は、涙が溢れるのに任せた。
惨めな思いを、涙が洗い流してくれればいいと、願いながら。


「男(あいつ)の痕跡は、ないみたいだな」


水瀬の呟きに、苑美は目を閉じて、唇を噛みしめた。


まだ、私を貶めるの?


「『及川君』は、命拾いしたようだ」


冷ややかな水瀬の声に、苑美は、ハッと目を見開いた。


今…何て言ったのー?


「お前に手を出していたら、この世とお別れだったかもしれないな」


水瀬の声には、感情が籠っていないが、瞳の奥には、暗い情念が燃えている。
苑美は、ゾクリとした。


この人ー本気で言ってるー?


「どうしてー?」


思わず、口からこぼれた言葉を、水瀬は耳に止めた。


「どうしてー?」


鸚鵡返しに呟いて、水瀬は自嘲した。


「わからないんだなー
お前には何も」


水瀬の声に、悲痛な響きを感じて、苑美が動こうとしたとき、いきなり唇を奪われた。


「!んっ…んんっ…っ」


さっきより、激しいキスー
舌が絡められ、生き物のように蠢く。


ああ、ダメー
頭の芯が熱くて、何も考えられない。


水瀬は、苑美の肉体(からだ)から、全ての衣服を剥ぎ取ると、自らも衣服をかなぐり捨てた。

第二十話



水瀬は、苑美の肉体(からだ)の隅々まで、激しい愛撫を加える。
手と指、唇と舌が、肌を撫で回し、這い回る。


「あっあっあああっ!」


快感が肉体(からだ)中を包み込み、愛撫の激しさに翻弄され、苑美はたまらず、喘ぎ悶えた。


「どうして…?」


息を喘がせながら、苑美は、頭の中で何度も、繰り返した言葉を呟いた。
水瀬の真意が、わからない。
返ってくる言葉は、謎だらけだ。

胸を這い回っていた、水瀬の手が、一瞬止まった。
乳房をグッと握られ、固く勃った乳首に、カリッと強く歯を立てられる。


「あう…っ!」


苑美の肉体(からだ)に、また強烈な快感が走った。
大きく肉体(からだ)を震わせると、苑美はグッタリと、ベッドに沈んだ。


「イッたのか」


水瀬が、ニヤリと笑う。
苑美に覆い被さるようにして、水瀬は言葉を継いだ。

「お前は俺のものだ。
誰にも渡さないー!
お前がどう思おうと、絶対に離さない」


水瀬の声は、冷ややかに聞こえたが、苑美を怯えさせるような、どこか危険な響きがあった。


「水瀬さ…」


水瀬は、苑美の口を塞ぐように、唇を重ねた。


「んっ!ふ…っ」


舌が絡まり合う。
苑美の頭は、霞がかかったように、考えがまとまらない。


どうしてー?


快感に、かき乱されながら、苑美は心の中で繰り返す。


どうしてそんなに、私なんかに固執するのー?


「まだまだ、これからだー」


水瀬は唇を離すと、更に執拗に、愛撫を続ける。
息を喘がせる、苑美の脚を開かせ、その秘所に、顔を埋めた。
花びらをかきわけ、花芯を唇で強く吸う。


「ひっ!ああー」


苑美の肉体(からだ)を、電流が突き抜けた。
シーツを握りしめる手に、力が籠る。


「やっ、ああぁっ」


水瀬は、更に舌で苑美の花芯を愛撫し、溢れてくる密を舐めとった。


「凄いな…
どんどん溢れてくる」


水瀬は、喉の奥でクックッと笑っている。


「嫌…っ!!
言わないで…
見ないで、お願い…」


言葉の最後は、涙声になる。
羞恥に、苑美の全身が熱くなった。
水瀬に、淫乱な女だと、嘲笑されている気がして、いたたまれない。


「どうしてー?
素晴らしい肉体(からだ)じゃないか。
こんなに感度がいいなんて」


素晴らしいー?


水瀬の称賛は、本心からのように聞こえる。
水瀬は更に、花芯の奥へと、舌を突き入れ、内部(なか)で蠢かす。


「ひいーっっ!!」


肉体(からだ)を襲う、初めての感覚に、苑美の快感の声は、悲鳴に近い。

第二十一話



苑美の肉体(からだ)が、激しく痙攣する。


「ああ、ダ、ダメ…もう…っっ」


一際、大きく肉体(からだ)を痙攣させると、苑美は再び、絶頂に達した。
汗に濡れ、自分の蜜で濡れた肉体(からだ)を、グッタリと横たえる。

そんな苑美の、しどけない姿は、水瀬の情欲は、更にかきたてられた。
水瀬自身は、既に硬くそそりたっている。
もう限界だった。


「もう…いいだろう」


水瀬の声は、抑えきれない欲望に、掠れている。
苑美の脚を大きく開かせると、怒張した自分自身を、花芯に押し当てた。


「あっ、嫌ー!」


苑美の肉体(からだ)が、ビクリと震えた。
顔には、サッと恐怖の色が浮かんだ。
見開いた目に、怯えが浮かんでいる。
肉体(からだ)は硬く強張って、小刻みに震えている。

水瀬は、心の中で自分を罵った。
苑美は、怯えているのだ。
水瀬自身を受け入れる事にー
あのとき、自分の欲望を遂げる事しか、頭になくて、苑美に何の配慮もしなかった。
初めてだった苑美には、大変な苦痛を、与えてしまったのだろう。

あのとき苑美は、痛い、やめてと、泣いて訴えたー
それでも水瀬は、やめられなかった。

あの時点で、己を止められる男が、果たしているだろうか。
そして今また、同じ罪を犯そうとしているー

水瀬は、開放されたくて、荒れ狂う自分自身を抑え込んで、苑美に囁いた。


「力を抜くんだー
できるだけ、優しくする」


苑美は、黙ったまま、あきらめたように、目を閉じている。
肉体(からだ)は、未だに小刻みに震えている。
閉じた目から、一筋、涙がこぼれている。

水瀬は一気に、苑美の中に身を沈めた。
徐々に挿入(はい)るより、辛くないだろうと、判断しての事だ。
せめて、肉体(からだ)の痛みだけでも、軽くて済むようにー


「ーっ!」


苑美は、肉体(からだ)を強張らせた。
一瞬、あのときと同じ、激痛が肉体(からだ)を走る。
が、その痛みはすぐに消えた。

水瀬が、苑美の中に挿入って、そのまま動きを止めたからかもしれない。
一瞬のち、水瀬はゆっくりと、動き出した。


「あっ…」


苑美が、ビクンと肉体(からだ)を痙攣させた。


「辛いかー?」


水瀬が、低い声で囁いた。

苑美は、目を閉じて、シーツを握りしめている。
激しい痛みは、薄れていた。
痛みとすりかわるように、疼くような甘い感覚が、肉体(からだ)の芯から、沸き上がってくる。


「あっ…あ…」


思わず、声が漏れる。
どんどん強くなる、その感覚に、苑美は呑み込まれていく。

水瀬は、ゆっくりと優しく、腰を動かしていた。その動きは、徐々に激しく、早くなっていく。

水瀬がかき集めた、ありったけの自制心は、もう砕け散る寸前だった。

第二十二話



水瀬の息遣いが、次第に激しくなってくる。


「ダメだ、ソニア…
もう、抑えられないー!」


水瀬は、やにわに身を乗り出すと、更に深く、苑美の中へ挿入った。


「あっ!」


苑美が、肉体(からだ)を反らせる。
水瀬は、苑美の脚を掴んで、激しく動き出した。


「あっ、や…っ、あっあっああっ」


水瀬の腰の動きに、ベッドがギシギシ軋む。
水瀬の下で、華奢な苑美の肉体(からだ)は、激しく揺さぶられた。

肉体(からだ)の奥から、沸き上がってくる、甘い痺れるような感覚も、水瀬の動きに合わせて、強く激しくなる。
純粋な肉の歓喜(よろこび)ー

苑美が、水瀬の愛撫で与えられた快感より、強く激しい快楽ー
苑美は、我を忘れて陶酔した。


「ああ、ダメ…嫌…あっあぁあっっ!」


もう、自分が何を口走っているのかも、わからない。
頭の中が真っ白になる。


「ああーっっ!!」


苑美は、一際大きく、肉体(からだ)をのけぞらせた。
さっきより、強烈な絶頂が、苑美の全身が包まれる。
そのまま、肉体(からだ)から力が抜け、苑美の意識は遠のいていった。


「う…っ!」


一瞬遅れて、水瀬も絶頂を迎え、自分自身を開放した。
肉体(からだ)を、大きく震わせ、水瀬は、苑美の上に崩れ落ちた。
激しい息遣いが、部屋の中に響く。



「ふ…うっ」


漸く、荒い息が静まると、水瀬は身を起こした。
苑美はまだ、乱れた息のまま、グッタリと正体もない。

水瀬は、物憂げに髪をかきあげた。
汗ばんだ苑美の身体を、上掛けで覆うと、水瀬はベッドから降りて、身支度を整えた。

そのまま、出ていきかけて、水瀬は振り向いた。
まだ正体もなく、横たわる苑美を見つめる瞳(め)には、複雑な感情が、せめぎあっている。

暫く、苑美を見つめていた水瀬は、目を閉じた。
やがて、何かを決意したように、目を開くと、水瀬は部屋から出ていった。



「最低だな、俺はー」


水瀬は、グラスを片手に呟いた。

心は、自分に対する苦々しさで、いっぱいなのに、肉体(からだ)は、歓喜(よろこび)に満たされている。


「あんな事をするつもりは、なかったのにー」


水瀬は暫く、苑美と距離を置くつもりだった。
苑美をまた、傷付けない為にー
傍にいれば、自分はまた同じ事をするー

その前に、もう一度苑美の顔を見たい思いに、勝てなかった。


ソニアは、俺の顔を見たくないだろう。
遠くからでいいー
姿を見るだけでもー


水瀬は、有吉の事務所で、手に入れておいた住所を頼りに、苑美のアパートを訪ねた。

アパートに来たものの、苑美が都合よく、出てくる訳はない。
どうしようか、思案していたときだった。

第二十三話



苑美の部屋の、ドアが開いて、若い男が走り出してきた。
水瀬は、顔色を変えた。

男は、慌てたように、アパートから、走り去っていった。
水瀬の胸を、焼け付くような嫉妬が渦巻いた。


あの男は、いったいー
まさか、ソニアの恋人ー?!
そんな筈はない!
ソニアが、俺以外を相手にするなんてー

だがー現世(いま)のソニアには、前世のー俺の記憶がない。


嫉妬が、全てを打ち砕いた。
理性も、正常(まとも)に考える能力もー
水瀬は、苑美の部屋に乗り込んだ。
そしてー


そして、また強引にソニアをー生まれかわりのあの娘を犯したー


水瀬は、苦い溜め息を吐いた。
一息に、グラスを空にする。

結局、苑美の言う通りだった。
あの男は、唯の見舞い客で、何もなかったのは、苑美を抱いて解った。


だがーあんな時間に、わざわざ見舞いにくるなど、あいつは『彼女』に、気があるに決まっている。


水瀬は、ギリッと歯噛みした。


ダメだー
離れていたら、奪られてしまうー『彼女』を!


不安、嫉妬、焦り、苛立ちー様々な激しい感情が交錯して、水瀬は目眩を感じて、額を押さえた。


あの娘は、若くて美しい。
他の男が、放っておく筈がない。


水瀬の胸は、また嫉妬で焼け付く。


「ソニアー何故ー」


どうして、お前には記憶がない。
探してと言ったのは、必ず還ると言ったのは、お前なのにー!


水瀬は、すすり泣くような、溜め息を吐き出した。


『愛してるわ』


目映い笑顔で、恋人は愛を囁いた。
白い腕(かいな)を差し伸べて、『彼』をかき抱いた。
その白い腕が、血に染まるー

水瀬は、ハッとして立ち上がった。
また、あの悪夢のイメージー
血の色が、目の前をちらついて、呼吸(いき)ができないー!

水瀬は、荒い呼吸を整えようと、何度も深呼吸する。
額に、脂汗が滲む。
何とか、発作のような息苦しさは、治まった。


ソニアに巡り合ってから、かなり治まっていたのにー


水瀬は、大きく息を吐くと、ソファーに背中を預けて、目を閉じた。
ソニアの姿に、苑美の姿が重なる。


ソニアー
俺が殺したのと同じだー
俺は、彼女を救えなかったー

あれから、彼女を探し求めて、何度、生を受けたのかー
永い時間(とき)、彷徨い続けてー


「やっとーやっと見つけたんだー」


水瀬は呟いた。
『彼女』は、現世(ここ)にいる。
手を伸ばせば、届くすぐ傍にー

悪魔が、水瀬の心に囁く。
強引に奪ってしまえ。
無理矢理さらって、誰にもわからない場所に、閉じ込めてしまえ。
朝も昼も夜も、自分の姿しか、目に触れない場所にー

第二十四話



俺だけしか見ないように、閉じ込めてー


水瀬は、悪魔の囁きを、振り払おうとしたが、耳にこびりついて、離れない。

水瀬は、今日の苑美との、交わりを思い出していた。

無理強いしたとはいえ、苑美は明らかに、水瀬の愛撫に反応して、絶頂に達した。
水瀬自身を受け入れるのも、最初は怖がったが、間違いなく、激しい絶頂を迎えていた。

愛撫に反応する表情(かお)。
甘い喘ぎ声。
羞恥に震える肉体(からだ)は、華奢なのに、女らしい曲線を描いている。

ソニアとは全く違うのに、同じようにそそられる。
何故?決まっている。
それは、苑美が『彼女』だからだ。
魂が、ソニア自身だからだ。

あの声も表情(かお)も、他の誰にも、見られないように、どこか奥深く閉じ込めてしまいたいー

自分だけが、見られるようにー
自分だけを見るようにー
自分だけをー?

水瀬は、ふいに気付いたように、頭をもたげた。


方法はーある。


苑美は、敏感だった。
愛撫に応えて、悶えて喘いだ。
肉体(からだ)に、自分の味を教え込んでやればー

俺から、離れられないようにー
他の誰にも、興味が持てなくなる位、じっくりと時間をかけてー


水瀬は、生身の欲求を満たすのに、商売女しか相手にしなかったが、彼女達は、手練手管に長けている。

容姿に恵まれた水瀬は、こぞって奉仕されたし、彼女達も、奉仕されたがった。
彼女達は、水瀬の技術(テクニック)を、絶賛したものだ。


そうだ、肉体(からだ)を虜にしてしまえばいい。
感じ易くて、経験の浅いあの娘を、落とすなど簡単な事だろう。


「最低だなー」


水瀬は、顔を歪めて自嘲した
女を強姦して、感じていたじゃないかと、せせら笑う人でなしと、同じレベルだ。


水瀬は、真顔になった。
表情が、厳しく引き締まる。


最低でも、人でなしでもいい。
『彼女』を繋ぎ止めておく為なら、俺は何でもやる。


水瀬は、窓から空を仰いだ。


そうしなければ、俺は自分でも、何をしでかすかわからない。


精神状態が、ギリギリなのが、自分でも解る。


また『彼女』を失う位なら、いっそこの手で彼女を殺して、自分もー
そして、再び彼女が生を受けるまで、待てばいい。


自分の考えている事に、気が付いて、水瀬は身震いした。

余りに永の時間(とき)の流離いで、すり減り疲れ果て魂(こころ)は、『彼女』が何一つ覚えていない事で、崩壊寸前にきている。


『彼女』を離さない。
どんな手段を使っても。


自分の正気を保つ事が、『彼女』を傷付け『彼女』を守る。
それも、『自分』から。

余りの皮肉に、水瀬は笑いだしそうになった。


それでも、『彼女』を失えないー!


水瀬は、闇の中で拳を握りしめた。

第二十五話



苑美は、講義を受けながら、ぼんやりと考え事をしていた。

あの日、気が付いたら水瀬はいなかった。
苑美の肉体(からだ)に、情事の痕跡だけを残してー


どうして、あの人は、あんな事をしたのー?


繰り返し、答えが返らない問いを、繰り返す。苑美の口から、やるせない溜め息が漏れた。


「あらぁ、溜め息なんかついちゃって、ネンネちゃんは恋患いかしら?」


からかうように、苑美に声をかけたのは、香織だった。


「そのアダ名は、やめてって言ってるでしょ!」


顔をしかめて、苑美はそっぽを向いた。
香織の、元気いっぱいの明るさが、今の苑美には疎ましかった。


そんなアダ名、もう似合わないんだからー


そんな思いが、チクリと胸を刺す。
自分はもう、何も知らない、無垢な少女ではないー


「あらまあ、いつにも増して、ご機嫌斜めじゃない」


そう言いつつ、全く気にしてはいないようだが。


「まあ、私もあんまり、ご機嫌麗しくはないんだけど」


香織は、大仰に溜め息を吐いた。


「水瀬さん、昨日の撮影で終わりだったのよぅ〜、
ショックだわぁ〜
あの麗しいお姿、もう拝めないなんて!
…あれ?どうしたの、苑美、真っ青よ」


香織が、苑美の顔を覗き込んだ。
たぶん、蒼白になっていたのだろう。


「何でもないわー」


香織の声が、遠くから聞こえるようだ。
座っていなかったら、その場で貧血でも、起こしたかもしれない。


聞いてないー
そんな事、一言もー
もう、あの人には会えないの?
やっぱり、私の事は遊びだったのー?

あのときの言葉も、何の意味もなくてー
あの人の感情(こころ)を垣間見た気がしたのも、みんな私の、都合のいい解釈ー


「何でもないって顔色じゃないよ」


香織は、心配そうに眉をひそめたが、真顔になると、苑美に囁いた。


「アンタ、彼の事好きだったんじゃないの?」


香織の言葉に、ふいに涙がポロポロこぼれる。
香織は慌てて、苑美の手を引っ張って、喫茶室の隅へ連れ込んだ。


「やっぱり、そうなんだ。
また、高嶺の花に恋したもんね」


香織は、溜め息を吐きながら、呟いた。
香織は、たぶん正しいのだろう。
あれ程の容姿を持つ彼が、自分なんかに興味を持つ筈がない。

苑美の胸は、キリキリと痛んだ。
香織は、ハラハラと涙を流す苑美を、黙って眺めていたが、やおら言い放った。


「アンタ、玉砕しちゃいなさい!」


え?


苑美は、キョトンとして、香織を見た。
ビックリしたので、涙も止まっている。


「水瀬さんに、告ってくるのよ!
スッパリ振られれば、気持ちもスッキリするってもんよ!」

第二十六話



苑美は、目をパチクリさせた。


「こ、告るって…どうやって…
住所も何も知らないのよ!?」


香織は、立ち上がって腕組みをした。


「そんなもん、調べりゃわかるわよ!
そうと決まったら、行くわよ!」


ヤル気満々の香織に、苑美はタジタジだ。


「い…行くって…どこへ…?」


香織は、満面の笑みを浮かべる。
この状況での、香織の笑みはとても怖い…


「有吉さんのトコ行って、吐かせるのよ!
あのオヤジなら、住所も知ってる筈だわ!」


香織に引きずられるようにして、苑美は撮影所に向かった。


このパワフルさは、どこからくるのよ…
無茶苦茶だわ…


そう思いながらも、その方がいいのかもしれないーと、自分に囁く声があった。


このまま、いつまでも引きずっているより、いっそ、何もかもハッキリした方が、あきらめがつくかもしれないー


そんな事を思いながら、撮影所に着くと、そこでは一騒動起きていた。


「大丈夫ですか?!
有吉さん!」


「大丈夫じゃないよぉ、早く救急車呼んでよぉ〜」


情けない声で、腹を押さえて、ウンウンいっているのは、有吉である。
どうやら、腹痛を起こしたようである。


すぐに救急車が来て、有吉は大騒ぎしながら、運ばれていった。


「だ、大丈夫かしら」


苑美は心配そうに、香織を振り返った。


「う〜ん…あのオヤジ、拾い食いでもしたのかしらね」


香織は心配そうな素振りとは、全く反対の暴言を吐いている。


「ま、死にゃしないでしょ。
でも、これじゃ住所が、調べられないわねえ」


香織が顔をしかめていると、後ろで、あっという声がした。
振り向くと、復帰したばかりの、カメラマンの内村が、何か抱えて途方に暮れている。


「どうかしたんですか?」


香織に声をかけられて、内村が振り向いた。


「あれ〜、レイカちゃんにソニアちゃん、今日撮影入ってた?
あっ、ソニアちゃん久しぶり〜」


内村が、人の良さそうな、笑顔を見せる。


「いいえ、ちょっと用があって…
有吉さん、大変でしたね」


香織が、モデルとしての余所行き用の顔で、艶やかに微笑んでみせる。


うわぁ…この笑顔で、何人騙されたのかしらー


引っ込み思案で、人付き合いの苦手な苑美には、相手によって、千変万化の香織の性格は、時に空恐ろしいものがある。


モデルより、女優の方が向いてるかもー


それは、表面上の事で、根底の部分では、絶対自分を曲げないのも、知っていた。
だから、親友なのだけれど。

内村は、すっかり香織の手管にハマッて、デレデレしている。

第二十七話



「う〜ん、社長が病院に運ばれちゃったから、付き添いやら、残務やらで、手透きの奴がいなくなっちゃってさぁ」


内村は溜め息を吐いた。
社長とは、有吉の事だ。

「どうしよう。
俺が届けなきゃなんないかなぁ」


内村は、病み上がり後の、久々の仕事で疲れているようだ。

こまめで気遣いのできる内村は、誰にでも好かれる。
顔も、なかなかのイケメンなのだが、惜しむらくは体力がない。

仕事を終えて、一刻も早く、我が家に帰って休みたいのが、見え見えだ。


「何です?それ」


香織が、興味津々で尋ねる。


「俺の代わりに、カメラマンやっててくれた、水瀬君への書類だって。
今日中に届けなきゃって、話してたところへ、あの腹痛でさ」


水瀬の名前に、苑美の心臓がドキンとする。
香織は、獲物を狙う肉食獣のように、瞳を輝かせた。


「それ、私達が行きましょうか?」


さりげなく、しかし猫撫で声で、香織が切り出す。


「どうせ暇だし…
内村さん、お疲れでしょう?
住所さえ、解ればー」


香織は、舌舐めずりせんばかりに、内村の手にした封筒を見ている…ように、苑美には見えた。


「いいのかい?
いや、住所なら社長が控えてる筈だよ」


内村は目を輝かせて、いそいそと、住所を探し始めた。


「すみません、わざわざ」


香織の白々しい、恐縮の言葉に、苑美は背筋が寒くなる。


絶対、女優になった方がいいわー


「いやぁ、俺が行かなきゃならないなら、どっちみち探す羽目になったもんだしさ」


内村は、何も気付かず、住所を探している。
香織が、苑美に目配せをする。


「香織…いいの?」


何だか、内村を騙しているような気がして、苑美は気が咎めた。


「何言ってるの。
これも人助けよ!
見なさい、内村さんの嬉しそうな顔を」


確かに、内村は嬉しそうだ。
こちらに、魂胆があると知っても、同じ反応を示しそうだ。


「あったよ。これだ」


首尾よく、内村から住所をせしめた香織は、また極上の笑顔を見せた。


「ありがとうございます。
内村さんは、お家でゆっくり休んで下さいね。
…あら、電話番号はないのかしら?」


内村が、頭をかきながら、申し訳なさそうに言った。


「うん、電話番号は控えてないみたいなんだ。
行く前に、連絡しようと思ったんだけど…秘密主義なのかなあ?」


水瀬の電話番号が、控えられていないと知っても、苑美には違和感がなかった。
水瀬は、自分以上に人付き合い…というより、人間が苦手なように思える。

香織は如才なく、内村に礼を言い、大判の封筒を受け取って、苑美を小突いた。
苑美は、やっと気付いて、慌ててペコリと頭を下げた。


「あ、ありがとうございました」


内村はニコニコしながらら、二人を見ている。

第二十八話



「とんでもない。
凄く助かるよ。
よろしくね」


撮影所を出る二人に、内村は上機嫌で、手を振った。


「対照的な二人ですね」


残務処理をしていた、事務員が声をかけた。


「ん?うん、でも、二人共、綺麗なコだろう?
レイカちゃんは、華やかな大輪の花みたいだけど、ソニアちゃんは、草原で風に揺れる、可憐な白い花みたいでさ」


事務員は頷いた。


「華やかな大輪の花と、可憐な白い花か…
いや、ピッタリですね。
甲乙つけがたい」


詩人になれますよと、おだてられ、内村は機嫌よく帰り支度を始めた。



水瀬の住所を手に入れた二人は、ファーストフードに腰を落ち着けた。
香織は、自在にケータイを操って、地図を作り始める。

機器が苦手な苑美は、ジュースを飲みながら、落ち着かない気分で待った。


「よし、できた!
転送するわよ」


苑美のケータイに、地図を送ると、香織はポン!と苑美の肩を叩いた。


「じゃ、頑張ってきてね」


苑美は慌てた。


「え?!
私一人で行くの!?」


香織は、ズイと苑美に顔を近付けた。


「当然でしょ。
アンタの問題なのよ。
自分で解決しなきゃでしょ!」


言われて、苑美もハッとする。


そうだ、これは私の問題なんだー
自分で答えを出すしかないんだからー


「…行くわ」


ゴクリと唾を飲み下すと、苑美は決然と、顔を上げた。


香織が、ニッと笑った。


「当たって砕けなさい」


それから、苑美の耳に囁いた。


「もしかしたら、向こうが手を出してくれるかもしれないし、頑張るのよ。
その為にも、一人の方がいいわ」


思わず、頬を染める苑美に、香織は明るく手を振って去っていった。


「ゴメンね…」


苑美は、そっと呟いた。
水瀬と“そういう関係”になっている事は、まだ香織には、言えなかった。


いつか、笑って話せる日がくるといいのにー


苑美は、願わずにいられなかった。



やっぱり、一緒に来てもらうんだったー


思い出したのは、香織と別れた後だった。
自分が、先天的方向音痴だという事に。

方向音痴というものは、たぶんコッチだろうと、見当つけて歩き出した方向が、往々にして真逆だったりする。

苑美も、例に漏れず、散々迷った揚げ句、やっと目的地に、辿り着いたのときには、もう辺りが薄暗くなりかけていた。
出かけたときは、まだ陽が高かったというのに。

水瀬の家が、奥まった場所にあったのも、拍車をかけた。
まるで、森の中の一軒家だ。


何でこんなとこに、家があるのよー!


ヘトヘトになって、辿り着いたとき、苑美は泣きそうになっていた。
それでも、水瀬の家に着いたのだと思うと、いやが上にも、緊張は高まる。

第二十九話



水瀬がどんな反応を示すか、想像がつかない。
迷惑そうに、顔をしかめるか、それともー


だ、大丈夫よー
一応、本物の用事もあるしー
門前払いは食わないわー


苑美は、預かってきた封筒を、ギュッと抱き締めた。
ゴクリと唾を飲み込んで、玄関のチャイムに、手を伸ばしたそのとき、いきなりドアが開いた。


「キャア?!」


驚いて、反射的に後ずさった苑美は、躓いて転びそうになった。
力強い腕が、ガシッと苑美を支える。


「ソニア?!」


水瀬が、驚きに目を見張っているのがわかる。


この人は、いつも私を、この名前で呼ぶのねー


転びかけて驚いた為、心臓がドキドキいっている。
胸の鼓動を抑えながら、苑美は何となく、引っ掛かった。


「ご、ごめんなさいー
ありがとう」


水瀬の肌の感触に、苑美はドキリとして、慌てて身体を離した。
水瀬は、訝しげに眉をひそめている。


「どうして、お前がこんなところにいるんだ?」


治まりかけた、心臓の鼓動が、また跳ね上がった。


「わ、私、あの…有吉さんの書類を頼まれて…」


よかった、ちゃんとした理由があってー


正当な理由がなければ、押しの強くない苑美には、これ以上は無理だったろう。
香織なら、強引に上がり込んだかもしれないが。


水瀬は、無言で苑美を見つめていた。
辺りは暗くなりかけていて、表情はよくわからない。


「…入れ」


水瀬はドアを開いて、身振りで苑美を促した。
苑美は、一瞬躊躇した。
半分、嘘をついて、家(ここ)に押し掛けたのが、後ろめたく思えたからだ。

それに、書類を渡したら、水瀬がどういう態度を取るか、わからないのが、不安をかきたてる。
自分は、聞きたい事を、ちゃんと聞けるだろうかー
水瀬は、ちゃんと答えてくれるのかー


ともかく、自分で踏み出さなければ、何も始まらないわー


苑美は、意を決して、玄関をくぐった。


どうして、この娘は俺の家(ところ)に、来たのだろうー
俺の顔なんか、見たくもないだろうにー


玄関のドアを閉めながら、水瀬は、また眉をひそめて考えた。
苑美の気持ちが、全く読めない。

苑美は玄関で、辺りを見回しながら、モジモジしている。
そのほっそりした、後ろ姿を見ているだけで、自分自身が昂ってくる。

服を着ていると、華奢に見えるが、服の下には、女らしい曲線と、思うよりずっと豊潤な肉体(からだ)が、隠れているのを、水瀬は知っている。

水瀬は、玄関の鍵を閉めた。
今まで、滅多にかけた事のない鍵をー


リビングに通されて、おずおずとソファーに、腰を降ろすと、苑美は水瀬に書類を渡した。

水瀬は、一応書類に目を通す。
カメラマンとして、働いたという証明の、ありきたりな書類だ。
提出期限間近だから、急いだのだろう。

第三十話



水瀬が、書類に目を通している間、苑美はソワソワと落ち着かない。
じっとしていると、緊張が高まる一方だ。
苑美は、緊張を紛らそうと、辺りを見回した。


一人暮らしみたいー
自分の持ち家かしらー
まさか、自分で建てたとか?

そういえば、カメラマンは本業じゃないって、有吉さんが言ってたっけー
本業って、何をしてるんだろう?


バサリと、書類が投げ出されて、苑美はハッと顔を上げた。


「それで?」


水瀬の言葉の意味がわからず、苑美は戸惑った。


「え?」


水瀬は、冷ややかな瞳(め)で、苑美を見下ろしている。
一見、冷ややかにしか見えない、水瀬の瞳(め)の奥に、激しくたぎる感情が隠されているのを、苑美は感じ取った。


「こんな時間に、男の家に上がり込んで、そのまま帰れるとは、思っていないよな?」


水瀬は、苑美に顔を近付けて囁くと、返事も待たず抱き寄せると、唇を重ねる。


「み…んん…っっ」


濃厚なキスに、思考がかき乱される。
舌を絡め、ゆっくりと貪るように、官能を高めるように、キスは続けられた。


「ん…はぁ…っ」


漸く唇が離れたとき、苑美は、すっかり息を乱していた。
身体に力が入らない。
立っているのが、やっとだった。

水瀬は、そんな苑美の様子に、頬に薄く微笑を刻んだ。
そのまま、苑美を抱き寄せて、寝室のドアを開けた。

灯りが点けられて、部屋の全容が見えた。
さほど広くない部屋に、壁の中にクローゼット。
小さな机と椅子。
それから、窓際にセミダブルのベッドー

苑美はベッドを見て、ハッと我に返った。
水瀬の腕の中で、身を固くする。


「あ、あの、わ、私…」


思わず、離れようとする苑美を、水瀬はグイと引き寄せて、自分の方へ向き直らせた。


「今更、何を言っても聞かないぞ。
もう手遅れだ」


水瀬の口調には、奇妙な響きがあった。
苑美にというよりも、自分に向かって、言っているようにー

苑美が見上げると、まじろぎもしないで、苑美を見つめている、水瀬と目が合った。
黒曜石の瞳が、欲望でけぶっている。
苑美の心臓が、ドクンと鼓動を打つ。


「欲しいものを手に入れる為なら、どんな手段でも使うー」


水瀬は低く呟いた。


どんな手段(て)を、使ってでもー


水瀬は、苑美の服の胸元を、グッと握ったが、思い直したように、手を離すと一歩退いた。


「服を脱げ」


水瀬の一言に、苑美が目を見開いた。


「それとも、また引き裂かれたいか?」


冷ややかな水瀬の声が、低く響いた。

苑美はビクリと、身体を震わせた。
先日の、水瀬との間に起こった事が、生々しく甦る。
頬に朱の色をさして、苑美は目を伏せた。

第三十一話



苑美は、震える手を、ワンピースのファスナーに伸ばした。
ワンピースが、苑美の肌を滑って、パサリと足元に落ちる。

苑美は、小鳥のように震えている。
ブラジャーを外そうとするが、手が震えて上手くいかない。


「もういい」


水瀬は、掠れた声で呟くと、グイと苑美の腕を引き寄せて、そのままベッドに押し倒した。
両手で胸を覆った、苑美の腕を引き剥がし、押さえ付ける。

苑美は、抵抗しようとはしなかったが、身体をブルブル震わせている。
水瀬は眉をひそめ、押さえた腕から力を抜いて、囁いた。


「怯えるなー
抗わなければ、乱暴な事はしない」


俺は、この娘を自分のものにしたいだけだー
怯えさせ、怖がらせたい訳じゃない。


怯えるー?
いいえ、怯えてるんじゃないー
唯、恥ずかしくてー
どうにかなりそうー


水瀬は、ブラジャーを押し退けて、苑美の胸を露にした。


「あっ、嫌っ…」


形のいい乳房がこぼれて、ローズピンクの乳首も揺れる。
水瀬が、満足気な溜め息を漏らす。


「ああ、綺麗な乳首だー」


苑美の羞恥は、更に高まった。
水瀬の唇が、乳首に吸い付く。


「うぅっ!」


苑美がのけぞった。
すぐさま、乳首は固く勃った。


「ホントに感度がいいー」


水瀬は、唇の端を上げた。
明るい照明の下、自分の肉体(からだ)の状態も、水瀬の表情も、全部見えてしまう。
苑美は、羞恥の余り泣きそうだった。


「お…お願い、灯り…消して…」


水瀬は、躊躇した。
苑美の美しい肉体(からだ)も、愛らしい仕草も、悩ましい表情(かお)も、見えなくなるのは、余りに惜しい。

だが、苑美の嫌がる事もしたくない。
水瀬の目的は、苑美を官能の虜にして、自分から、離れられないようにする事だ。
怯えさせたり、嫌がる事をするのは、逆効果だ。

実際、苑美は小鳥のように、肉体(からだ)を震わせたまま、泣き出しそうな表情(かお)をしている。

水瀬は、仕方なく、明るい照明を落として、仄暗い室内灯に切り替えた。
苑美は、ホッとしたように、息を漏らした。
固く強張らせた肉体(からだ)から、力が抜ける。


「そんなに、恥ずかしいのか?」


仄かな灯りの下、苑美は真っ赤になったようだ。


「全然、違うんだなー」


水瀬は呟いた。
ソニアは、恥ずかしがったりしなかった。
生まれたままの姿を、日の光に晒して、自分に手を差し伸べたー

確かに、同じ人間なのに、苑美は、極度の恥ずかしがり屋のようだ。
さっき震えていたのも、怯えて怖がっていたというより、恥ずかしくて、震えていたようだ。

姿形が、違うだけではない。
ソニアと苑美は、性格も全く異なっている。

第三十二話



水瀬は、不思議な気がした。
水瀬自身は、記憶があるせいか、前世の自分と何ら変わるところはない。
容姿(みてくれ)が、違う位だろう。

だが、そんな事は、些細な事に過ぎない。
目の前の女は、間違いなく『彼女』だった。

無邪気なソニアを、愛したのと同じように、内気な苑美も、愛おしかった。
容姿も性格も、違うというのに、違和感は全くない。

仄かな灯りが、苑美の白い肌を浮き上がらせている。
水瀬は、苑美の肌に指を滑らせた。
苑美の肉体(からだ)が、ビクンと反応する。

情欲がとめどなく、沸き上がってくる。
水瀬自身は、すぐに硬さを増した。


ダメだー
自分の情欲を満たすのは、後回しにしなければ。


水瀬は、いきり立つ自分自身を、敢えて無視した。
苑美の肉体(からだ)に、自分の烙印を刻み込む為にー
じっくりと、ゆっくりと、時間をかけてー

耳を舌で愛撫すると、苑美は肉体(からだ)を震わせて、喘いだ。


「ここが感じるのか?」


水瀬が、耳たぶを軽く噛むと、苑美は深い吐息を漏らした。


「あっ…ん…っ」


水瀬の目に、不可思議な光が宿る。
水瀬は、唇を滑らせて、乳首をついばんだ。


「あっ…あ!」


更に、苑美の息が上がる。
水瀬は、片方の乳首を、指で強く摘まみ上げ、もう片方の乳首に、歯を立てた。


「ひ!…やぁっ…!」


苑美が、肉体(からだ)を跳ねさせる。
更に、乳首を弄ぶ。
両の指で、乳首をギュッと摘まみ、左右の乳首を強く噛むと、苑美は、激しく肉体(からだ)を、痙攣させた。


「あ…!」


一瞬、肉体(からだ)を強張らせると、苑美の肉体(からだ)から、力が抜けた。


「イッたのかー」


水瀬が囁くと、苑美は顔を背けた。
きっと、真っ赤になっているに違いない。
水瀬の口元に、微笑が登ってくる。
表情がよくわからないのが、残念だ。

水瀬は、まだ息を乱している、苑美の脚を開かせた。
花芯に親指を、擦るように滑らせる。


「!」


苑美が、またビクンと、肉体(からだ)を跳ねさせた。


「こんなに濡れてるー」


苑美の蜜で濡れた指を、水瀬はペロリと舐めた。


「嫌…っっ!」


苑美は、羞恥で全身が熱くなった。
恥ずかしくて、逃げ出したいのに、肉体(からだ)は、もっともっとと、快感を欲して悶えている。

水瀬は、苑美の花芯の奥へと、指を差し入れた。
さっき、絶頂に達したばかりの花芯(そこ)は、溢れる程の蜜で、潤っていた。


「ひ…!!」


苑美の肉体(からだ)が、一段とのけぞった。
水瀬の指は的確に、苑美の、一番感じる部分を探り当て、内部(なか)で蠢いた。

第三十三話



ゆっくりと、内部(なか)で蠢いたかと思うと、激しく花芯の奥で、突き動かされる。
水瀬の指の動きに、苑美は翻弄され、息も絶え絶えになる。


「ここがイイんだろう?感じるだろう?
ホラ…こんなに、蜜が溢れ出てくる」


水瀬は、闇雲に、指を動かしている訳ではない。
苑美の、一番感じる場所を攻めてくる。


「ああっっ!嫌、ダメぇっ!あっああぁっっ!」


苑美は、強烈な快感に肉体(からだ)を貫かれ、激しく身悶えする。


「そうだ、もっとだー
もっと鳴け」


水瀬の指に、一層力が籠る。


「あ…あっ、あー!!」


肉体(からだ)を、大きく痙攣させて、苑美はまた絶頂に達した。
グッタリと、肉体(からだ)を横たえて、唯、ハアハアと息を喘がせる。


どうして…私の感じる場所(ところ)…知ってるの…?


快感に痺れたような、頭の片隅で、苑美はチラリと考えた。
深く考えている余裕はなかった。

水瀬は、愛撫の手を緩めない。
肉体(からだ)の隅々に、舌と唇を、掌と指を這わせる。

掌に舌を這わせられ、苑美はビクンと肉体(からだ)を震わせた。


「あっ…!」


水瀬が、口元を上げる。
まるで、知っていたかのように。


こんな場所(ところ)が、感じるなんてー
どうしてー


苑美は、考えようとしたが、押し寄せる快感に満たされて、疑念は彼方へ消し去られた。
白濁し、朦朧とした頭は、完全に思考能力を失っている。

水瀬は、名前を囁きながら、肉体(からだ)中に、キスの雨を降らせる。


「ソニアー
ソニアー俺のー」


ソニアー?
違うわ、私の名前じゃないー
ああ、いいえーそれも私の名前だわー


ぼんやりとした頭で、考えながら、苑美はまた、何度目かの絶頂を迎えて、肉体(からだ)を震わせた。


「も…う、ダメだ…!」


水瀬は、苦し気に顔を歪めた。
苑美を何度も、絶頂に導きながら、水瀬自身は、まだ一度も、精を放っていない。
我慢の限界だった。

水瀬は、苑美の脚を開かせると、今にも爆発しそうに、いきり立った自分自身を、一気に埋め込んだ。


「〜〜〜!!」


声にならない、快感の叫びが、苑美の口からほとばしる。


「あ…あ…」


水瀬も、言い様のない、恍惚の表情を浮かべる。
ひとしきり、激しく腰を動かすと、限界まで抑えてきた反動で、水瀬は呆気なく果てた。

暫く、荒い呼吸(いき)を繰り返し、絶頂の余韻に浸っていた水瀬は、呼吸が整うと、苑美に目をやった。

苑美はまだ、乱れた呼吸(いき)のまま、恍惚と横たわっている。

仄かな灯りの下でも、肌が汗ばんで、肢体が桜色に染まっているのが、わかる。

今、果てたばかりだというのに、水瀬はまた、自分自身が、硬さを取り戻し始めるのが、わかった。

第三十四話



水瀬はまた、苑美の肉体(からだ)を、愛撫し始める。


「あ…んっ…」


苑美は、まだ夢現の状態で、吐息を漏らす。
甘い吐息が、更に水瀬の情欲を刺激する。

『彼女』を、自分の元に繋ぎ止める為なら、どんな事でもする。
何でもいいから、『彼女』が、自分の側から、離れられないようにする術が欲しい。

それが、肉欲だけの関係でもー
今は、それだけでも、構わない。
それで、『彼女』を、側に置いて置けるならー

その為には、『彼女』の肉体(からだ)に、自分の肉体(からだ)の味を、覚え込ませる必要がある。

そんな思いに、囚われながらも、それとは全く別に、水瀬は、唯、苑美に触れたかった。

探し続けた恋人が、今、目の前にいる。
見ているだけで、心も肉体(からだ)も、痛い程疼く。
とても、自分を抑える事が、できなかった。

水瀬の愛撫に、苑美の肉体(からだ)が、敏感に反応する。


「あっ…ダメ…っ、これ以上は…っ」


水瀬の愛撫が、肌を滑る度に、苑美は肉体(からだ)を、ピクビクと痙攣させた。

さっき、大きな絶頂を迎えた肉体(からだ)は、まだ熱く潤い、痛い程敏感になっている。

再び、執拗に繰り返される、水瀬の愛撫に、苑美の肉体(からだ)は、すぐまた、絶頂へと登ってゆく。


「まだだ…
まだだよ、ソニア」


苑美に、顔を寄せて囁くと、水瀬は唇を重ねた。


「ん…!ふっ…」


舌が絡み合う感触に、苑美の息が弾む。
水瀬の手が掠めただけで、乳首が 張り詰め、固く勃った。


「待っていたんじゃないのか?」


水瀬が唇の端を上げる。
いきり立つ自分を、抑えようとする余り、苑美を嘲るような、冷淡な口調になる。


「ち、違う…あっ!」


固く勃った乳首を、口に含まれて、苑美がビクンと、肉体(からだ)を反らせた。


違わない…
もっと、もっと愛されたい…
こんな風に、愛されてる恋人みたいに…

ああ、でも、そんな風に嘲笑しながら、冷たく言わないでー


こんな状況で、こんなに感じる女だと、水瀬は内心、軽蔑しているのだ。
だから、こんなに冷ややかな態度を、取るのだろう。

自分だけが、水瀬の手管で翻弄され、熱くなり、踊らされているー

水瀬が、どれ程たぎり立つ感情を、いきり立つ自分自身を、抑えつけているのか、苑美は、露程も知らない。
容易く自分を、絶頂に登り詰めさせる水瀬が、唯、恨めしかった。

水瀬の愛撫に、簡単に反応して、快感に溺れる自分が、腹立たしい。
水瀬は、そんな自分を、腹の中で、嘲笑っているのだろう。


酷い人ー
そして、私は最低ー


苑美の瞳(め)から、一筋の涙がこぼれた。
既に、熱い快感の中を漂う苑美には、それが哀しみの涙か、歓喜の涙かもわからない。

第三十五話



水瀬は、さっきと同じように、肉体(からだ)の隅々まで、隈無く愛撫する。

考えたい事は、山のようにある。
なのに、苑美はすぐに、何も考えられなくなった。
巧みな水瀬の愛撫に、引き込まれ、めくるめく、快感の渦に放り込まれる。


「ああっあ、あ、あーっっ」


後はもう、苑美の肉体(からだ)は、貪欲に快感を貪るだけだった。

水瀬の手で、何度も絶頂に導かれ、熱い塊に貫かれ、苑美は唯、喘ぎ悶え続けた。


「ああ…も…ダメ…」


もう何度目なのか、わからない絶頂に達して、苑美は大きく肉体(からだ)を震わせた。
ガックリと、ベッドに身を沈めると、そのまま意識は、遠のいていった。


「ん…う…っ!」


水瀬も、何度目かの絶頂に、ビクリと肉体(からだ)を震わせると、己を解き放った。
ハアハア喘ぎながら、肩で呼吸(いき)をする。


「ふ…うっ…」


荒い呼吸が、やっと治まると、水瀬はベッドによりかかって、乱れた髪をかきあげた。
肉体(からだ)は、まだ汗に濡れ、歓びに満たされている。

苑美に目をやると、グッタリとベッドに、身を横たえている。
呼吸(いき)はまだ、荒く乱れている。


最初から、飛ばし過ぎたかー


苑美は、男女の交わりに慣れていない。
自分の目的の為に、無理を強いたのではないかー

いいや、目的など、言い訳に過ぎない。
それは途中で、いとも簡単に、己の欲望と征服欲にすり替わった。

唯、自分を抑えられなかっただけだ。
苑美を絶頂に導きながら、自分自身も何度となく、精を放った。

苑美に対する欲望には、果てしがない。
こうして、しどけなく横たわっている、姿を見ているだけで、また自分が昂ってくる。

欲望と同時に、言い様のない、愛おしさが込み上げてくる。
水瀬は、苑美を抱き起こして、強く抱きしめた。

滑らかな肌の温もりが、水瀬の胸に染み込んでくる。
柔らかな花の香りが、鼻をくすぐる。
水瀬は、乾いた砂地が水を吸い込んでいくような、感覚を覚えた。


温かいー
誰ー?
ああ、何て安心できるのかしらー


誰かが、遠くで呼んでいるような気がした。


あなたなのー?
私が、ずっと待っていたのはー


汗が引いて、身体が冷えてきたようだ。
苑美は無意識に、水瀬の温かい肌にすりよって、安心したように、寝息をたて始めた。

水瀬の心は、罪の意識と渇望で葛藤する。
自分が、どうしようもない、人でなしに思える。


それでも、手離せないー!
もう二度と、失えない。
この娘だけはー!


「俺から離れるなー」


水瀬は、苑美の髪に触れながら、呟いた。


「でないと、俺は自分で、何をするかわからない」

第三十六話



今度『彼女』を失えば、全てが崩壊するー
俺は、壊れてしまうかもしれないー


水瀬は、苑美を抱きしめながら、痛切に感じた。
記憶がない以上、『苑美』が、自分を受け入れてくれるしか、手立てはない。
だからこそ、その為の手段を、選んではいられなかった。


「俺を拒むなー」


水瀬はそっと、腕の中の恋人に呟いた。
水瀬に身を預けて、深い眠りに落ちている、苑美の耳には、その声は届かない。



苑美は、目を覚まして、ぼんやりと天井を見上げた。


あれ…私の部屋、こんな天井だったっけ…?


起き抜けで、ハッキリしない頭に、次第に昨夜の記憶が蘇ってきて、苑美は飛び起きた。
自分が、一糸纏わぬ姿なのに気付いて、慌てて上掛けをかき寄せる。


そうだ、昨日…
私は、水瀬さんの家に押し掛けて…
それからー


昨日の記憶が、鮮明に蘇ってきて、苑美は全身茹で蛸のように、真っ赤になった。
図々しく、家に押し掛けてきた自分を、水瀬はどう思ったのかー

幸い、水瀬は側にいなかった。
苑美はホッとして、上掛けをキツく、抱き寄せていた手を緩めた。
今の、うろたえる姿を見られたくない。


茹で蛸のように、真っ赤になってるなんて、みっともないったらー


水瀬と、再び関係を持った事は、何の後悔もない。
むしろ、それを望んでいたのではないかー
そんな思いに、苑美はまた赤面した。


でも…どうしてあの人は、私を抱いたのだろうー
男性経験のない私が、自分の手で乱れるのが、面白いのだろうかー


苑美は、そんな卑屈な考えに走る。


バカねー
自分で自分を貶めて、どうするの。


不意に、ジワッと滲み出た涙を、苑美は慌てて拭った。


それでもいいと、自分で思ったんじゃないー
ほんの少しでも、私を気にかけてくれるならってー


水瀬に、そんな思いを抱く女は、星の数程いるだろう。
自分も、その中の、その他大勢の、一人に過ぎない。

十分、解っていながら、水瀬に惹かれる気持ちは、止められなかった。
どうしてなのか、苑美自身にも、わからない

確かに、水瀬の容姿は、ズバ抜けている。
苑美も、初めて見たとき、息を呑んだ。
だが、外見の素晴らしさより、もっと深いところで、苑美は水瀬に惹き付けられた。

おそらく、あの人並外れた容姿を、持たなくてもーたとえば、顔に大きな傷があったとしても、苑美は、水瀬に惹かれただろう。

水瀬の全体を包む、深い翳りー
美しいのに、光を通さないような、暗い瞳(め)ー
痛ましい程の、孤独の影が、苑美を捉えて離さない。

彼は、自分など、どうなっても構わないと思っているー
そんな印象を、苑美は受けた。

第三十七話



危険な感情だと、自分でも思う。
水瀬は、単にそう装っているだけかもしれない。
だが、苑美にはどうしても、そう思えなかった。


私、これから、どうなるんだろうー
どうしたらいいのー?


苑美は、ベッドの上で膝を立てて、顔を埋め、深々と溜め息をついた。



水瀬は、自宅の二階にいた。
至るところに、カンバスが立て掛けてある。
イーゼルには、描きかけの水彩画。
テーブルに、水彩絵具やパレットが、無造作に投げ出してある。
どうやら、ここはアトリエのようだ。

水瀬は、その部屋の奥で、一枚の絵と向き合っていた。
その瞳(め)は、言いしれぬ、深い哀しみと苦悩に満ちている。


「ソニアー」


水瀬は、その絵に額を押し当てて、恋人の名前を囁いた。
絵の中から、微笑んでいるのは、美しい女性だった。

黄金色に輝く長い髪。
紺碧の海を思わせる、碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳。
耳には、瞳と同じ色の、ラピスラズリのイヤリングを付けている。
白い薔薇のように気品高い、鮮やかな美しさー

水瀬が描いた、恋人(ソニア)の肖像画だった。
ふとしたきっかけで、趣味で描いていた絵が認められ、新進画家としては、その世界では、かなり名の知れた画家となっている。

絵を描くのが好きだったし、画家は他の職業より、時間を束縛されない。
ソニアを探す為に、必要な時間も、他の職業より取れる。
水瀬には、渡りに船の職業だった。

ソニアの肖像画は、もう何年も前に描いたもので、水瀬が描いた人物画は、この一枚しかない。

今も、鮮烈に残るソニアの面影ー
忘れた事は、一度たりともない。
記憶だけを頼りに描いた、愛する者の肖像画は、見事な出来だった。

水瀬の記憶に、鮮明に残るソニアを、そのまま再現したと言っても、過言ではない。
だが、それは同時に、哀しみと悔恨に彩られた、苦しみの象徴でもあった。

水瀬は、肖像画を見るのが苦しくて、ずっとしまい込んだままにしてあった。
肖像画を見る度に、失ったものの大きさに、胸が切り裂かれる思いがして、耐えられなかった。

今、こうして肖像画と対峙すると、ソニアを失ったときの、激しい痛みと絶望が蘇る。


もう二度と、あんな思いはしたくないー


水瀬は、肖像画に額を押し当てたまま、瞳(め)を閉じた。


それなのに、漸く巡り逢えた苑美(おまえ)に、俺は何をしているのだろうー


水瀬は、苦し気に溜め息を吐いた。


俺は、間違っているのかー?
いいや、そんな事は最初から、解っている。
でも、止められないー
もう、お前を失うのは、耐えられない。
だからといって、『彼女』を、これ以上傷付けたくないー


「ソニア…
俺は、どうしたらいいんだ?」


水瀬は、肖像画の恋人に囁いた。
恋人(ソニア)は、肖像画の中で、美しい微笑を湛えている。

第三十八話



水瀬は、目を開けると、肖像画を見つめた。


美しいソニアの姿ー
全く、苑美とは似ていない。
ソニアが大輪の花なら、苑美は野に咲く花のようだ。
ひっそりと、草むらに咲き、風に揺れる花ー

その愛らしさと、可憐で儚げな美しさー
あどけない初々しさに、目を奪われるー


『彼女』が、ソニアだとわかるのは、俺だけだろうなー


水瀬は、肖像画にパサリと布をかけると、アトリエを出て、階下に向かった。
外の空気を吸って、気持ちを落ち着かせたかった。

開け放した扉の陰から、水瀬が階段を降りていく姿を、苑美は見ていた。
その顔は、藍をなすったように、蒼白になっている。



苑美は、一部始終を見ていた。

着替えを済ませてから、苑美は、水瀬の姿を探した。
家の中は、人気(ひとけ)なく静まり返っている。
辺りを見回していた苑美は、二階への階段を見つけた。

二階にいるのかもしれないと、階段を登って、開いていた扉から、そっと中を覗いてみた苑美は、水瀬を見つけた。

水瀬は、一枚の絵を見つめていた。
その沈痛な表情に、声をかけそびれていると、水瀬は、その絵を抱くようにして呟いた。


「ソニア…」


シンと、静まり返った部屋の中では、小さな呟きも、ハッキリ聞こえる。


えー?
ソニア…そう言ったの?


苑美は、身体を固くした。
暫くして、水瀬が階下に降りていくのを、見届けると、苑美は部屋の中に、滑り込んだ。
普通の状態なら、そこがアトリエらしい事に、興味津々だっただろう。

だが、今はそれどころではなかった。
苑美は、真っ直ぐ、水瀬が見つめていた絵に向かった。
心臓が、破れそうな程、鼓動を打っている。
苑美は、震える手で、かけられていた布を、サッと剥いだ。

布の下から現れたのは、目も覚めるような、美しい女性の肖像画ー
黄金の巻き毛、碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳、薔薇の唇ー


『ソニア』
彼は、この肖像画にそう、呼び掛けたー


全身から、血の気が引いていくー
頭が、ガンガン鳴っている。
苑美は、立っていられなくて、その場に崩れ落ちた。

全てが、解った気がした。
水瀬が、自分に固執した訳もー


ソニア…ソニア…
私のモデル名と同じー
この人は、ソニアという名前で…あの人が愛しているのは、この人ー!


苑美は、さっきの水瀬の、憂いに満ちた表情(かお)と、悲痛な呟きを思い出した。

たぶん、この女性(ひと)は、今、傍にいないのだ。
別離れたのか、遠く離れているのかー
いずれにしろ、水瀬が彼女を深く愛しているのは、さっきの態度を見れば、火を見るより明らかだ

第三十九話



私ー私は身代わりなんだー
たまたま、名前が一緒だったから、この女性(ひと)の代わりにされただけー


水瀬のような男が、何故、自分を相手にするのか、漸く納得がいった。
それは、余りにも残酷な事実だったけれど。

水瀬が纏う、翳りも孤独も、彼女のせいなのだろう。
それだけ、この肖像画の女性を愛しているのだ。

苑美は、胸を抉られるような激しい胸の痛みに、その場にうずくまった。
焼け付くような嫉妬に、息ができない。


私は、ここにいるべき人間じゃないー
ここには、いられないー!


苑美は、壁にすがるようにして、漸く立ち上がると、よろめくように、アトリエから出る。

動転しながらも、何とか自分の私物をかき集め、そのまま水瀬の家を、逃げるように後にした。

苑美の考えは、ある意味では、ピッタリ合っていた。
別の視点からでは、全く間違っていたのだが。


水瀬は庭で、とりとめない考えを巡らせていた。
曇天の空の下、風が生暖かく湿っている。
空を見上げて、水瀬は眉をひそめる。


これは、雨になるなー


ふと、ドアの閉まる音がした気がして、水瀬は振り向いた。
家の中は、静まり返って、物音ひとつしない。
苑美はまだ、眠っているのかー
水瀬は、何か胸騒ぎを覚えた。

踵を返して、家の中に戻り、寝室を覗くと、中は藻抜けの空だった。
荷物もない。


「ソニアー?」


水瀬の胸騒ぎは、更に強まった。
辺りを見回しても、姿はない。
ふと、階段が目に入り、水瀬は二階に駈け上がった。

アトリエにも、苑美の姿はない。
部屋の中を見回した水瀬は、床に落ちた布を目に止めた。
ソニアの肖像画に、確かにかけておいた布ー

もしかして、苑美は、この肖像画を見たのだろうか?
水瀬はふいに、恐ろしい考えに、想い至った。
さっきの自分の様子を、苑美は見ていたのではないか?


ソニアの肖像画の前で、俺は無防備だったー
ソニアへの想いを、隠そうともしなかった。
苑美には、どう見えたのか?
女の肖像画の前で、悲嘆にくれる男はー


水瀬は、血の気が引く思いがした。
苑美が、ソニアを水瀬の恋人だと思ったのは、ほぼ間違いない。

それ自体は、紛れもない事実だ。
問題なのは、自分がソニアの生まれ変わりー
彼女自身だという事を、苑美が全く知らないー覚えていない事だ。

ソニアの存在を知った彼女が、水瀬をどう思ったのかー

事情は知らなくても、肖像画の前で、悲哀を隠そうともしない程、好きな女がいながら、簡単に自分にも手を出した、不実な男に映ったのではないかー


まさか…このまま、俺から離れてしまうつもりか!?


水瀬は全身に、冷水を浴びせられたような気がした。

第四十話



ソニアをー『彼女』を捕まえなければー!
捕まえて、説明しなければ、全てが崩壊するー
今、『彼女』を捕まえなければ、何もかも手遅れになるー!


水瀬は、とるものもとりあえず、車に乗り込んだ。


こんな事で、『彼女』を失えないー!
どれ程、このときをー巡り逢える日を待った事かー
失ってたまるものか!


黒雲のような焦りと不安が、水瀬の胸を覆ってゆくー
不安を振り落とすかのように、水瀬はアクセルを踏み込んだ。

折しも、曇天の空から、ポツポツと雨が、降り出した。
それは、次第に本降りの雨になり、激しさを増していくー



苑美は、公園のベンチに、ぼんやり座っていた。
いつから、ここにいたのか、どうやって辿り着いたのか、覚えていない。
何もかもが、どうでもいい。

降りしきる雨に、全身ずぶ濡れになりながら、それにも気付かぬまま、苑美は、座ったまま動かなかった。


私、どうして涙も出ないのかしらー


残酷な事実に打ちのめされ、心は麻痺してしまって、何も感じない。
苑美は、ブルッと身震いした。


「寒い…」


苑美は呟いた。
漸く、自分がずぶ濡れなのに気付く。


どうして、私、濡れてるのかしらー
ああ、雨ー雨が降ってるのねー
帰らなきゃー


苑美は、フラフラと立ち上がった。
気が付くと、そこはアパートに近い公園だった。
無意識に、そこまで辿り着いていたらしい。
今の苑美には、どうでもいい事だったが。

雨は、止む気配を見せない。
苑美は、雨に打たれながら、唯、足を運んでいた。
何を考える気力もなく、身体が覚えている通りに、アパートに帰る道を辿ってー

アパートの階段を、ノロノロと上がると、自分の部屋の前に、誰か立っているのが、目に入った。

それが誰かわかったとき、反射的に身を翻して、駆け出そうとしたが、水瀬の方が早かった。
腕を掴まれて、グイと引き戻される。

水瀬も、全身ずぶ濡れだった。
髪から、雨の雫が滴っている。

廊下の淡い灯りに照らされ、雫が煌めく姿は、端正な容貌と相まって、一種妖艶とも言える美しさを、醸し出している。

端正な容貌(かお)は、いつものどこか冷めた無表情ではなく、厳しく険しい表情に浮かべている。

水瀬の顔を見た途端、麻痺していた感覚が、一気に戻ってきた。
胸が、キリキリと痛む。


「離して…!
何をしにきたの?」


水瀬は口を開きかけたが、掴まえている苑美の身体が、ずぶ濡れで冷えきっているのに気付いた。
このままでは、肺炎でも起こしかねない。


「ともかく、室内(なか)に入るんだ。
鍵は?」


有無を言わさぬ、水瀬の気迫に押されて、苑美は渋々、バッグから鍵を出した。

震えながら、何とか鍵を開ける。
水瀬はすかさず、苑美に続いて、室内(なか)に滑り込んだ。

第四十一話



室内は、外よりずっと暖かだった。
苑美は、ホッと息を吐いたが、肌に張り付いた濡れた服が、一層冷たさを増して、思わず身を震わせた。

水瀬は、苑美の様子に眉をひそめた。
早く、着替えさせないと、風邪を引くのは間違いない。


「ソニアー」


苑美は、その名前を聞くなり、身を固くした。


「その名前で呼ばないで!!」


叫ぶように、水瀬に言葉を叩き付ける。
麻痺していた感情が、一挙に胸に押し寄せる。
苑美の瞳(め)から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「誰の…誰の名前なの…
その名前…あの女性(ひと)の名前なんでしょう。
あの絵の…」


水瀬は、目を閉じた。
思っていた通りだった。
苑美は、完全に誤解している。
いや、全部が誤解という訳ではない。

ある一点以外は、全て事実だった。
ソニアが水瀬の恋人だった事も、今も彼女を愛している事もー

だが苑美は、自分がソニアの転生した姿で、水瀬が彼女を、探し求めていた事実を知らない。
身代わりにされただけだと、思い込んでいる。


「あの肖像画を見たんだなー」


水瀬は困惑した。
どう説明すれば、いいのだろう?


「あの女性(ひと)と、同じ名前だったから、私を相手にしたのねー」


苑美は、涙が溢れて止まらなかった。
唯、遊ばれただけの方が、まだマシだった。
少なくとも、相手は『自分』を見ているのだから。


「帰ってー
もう来ないで」


これ以上、惨めにさせないでー!


「違う、話を聞いてー」


苑美は、肩を掴んだ水瀬の手を振り払った。


「触らないで!
あなたなんか、大嫌い!」


水瀬はたまりかねて、壁を拳で、バンッと叩いた。


「ソニア!」


苑美は、ビクッと身を竦めた。
水瀬は、ハッとして一瞬身を引いたが、すぐに苑美を引き寄せて、しっかり抱きしめた。


「悪かったー
つい、気が昂ってー
でもー」


どう、説明すればいいのだろう?
お前は、肖像画の女の生まれ変わりだなんて、誰が信じるだろう。

自分には、前世の記憶があるなんてー
まるで、怪しい宗教団体の教祖か、もしくは頭のおかしい輩の台詞みたいだ。

苑美は、水瀬の腕の中で、唯泣いている。


「身代わりなんかじゃないー
遊びでもない。
本当だー」


水瀬は、苑美の瞳(め)を覗き込んだ。
苑美の瞳(め)に、真摯な水瀬の瞳が映る。


「お前を愛しているー
お前が必要なんだー!」


しっかりと、苑美を抱きしめる水瀬の身体は、微かに震えている。


ホントー?
ホントにー?
信じていいのー?


水瀬の身体から、いろいろな感情が、苑美に、手に取るように伝わってくる。

第四十二話



孤独、哀しみ、絶望、慟哭ー
胸の痛くなるような感情が、苑美に流れ込んでくる。

同時に、自分に向けられた激しい感情ー
渇望、激情、狂おしい程の想いに、魂(こころ)が激しく揺さぶられる。


どうして、こんな感情(こと)が解ってしまうのー?


苑美は、水瀬の感情(こころ)が痛くて、目を閉じた。
涙が、とめどなく流れる。


この人は嘘は言っていないー
全部、真実(ほんとう)の、心からの言葉。
でもー


苑美の脳裡に、艶やかなソニアの姿が浮かぶ。


「あの女性(ひと)はー?」


苑美の呟いた言葉に、一瞬、水瀬の身体が硬直した。


「…ソニアは死んだ。
もう、どこにもいない」


苑美の言いたい事を、察したのだろう。
水瀬は低い声で答えた。
その声には、深い哀しみと苦痛が滲んでいる。


「ごめんなさい…」


水瀬の心の傷に、不用意に触れてしまった気がして、苑美は呟いた。

水瀬は、苑美を強く抱きしめた。
そうしなければ、消えてしまうとでも、言いたげにー


「俺から離れるなー」


水瀬が、激情を抑えた声で囁く。


そう、ソニアの姿をした娘はもういないー
だが、『彼女』は今、目の前にいる。
もう二度と、離しはしないー!


「お前が嫌なら、もうあの名前では呼ばないからー」


水瀬は、苑美をキツく抱きしめたまま、囁いた。
水瀬の心が、揺れて震えているのが伝わる。


この人は、何かを恐れているー
私が彼女(ソニア)のように、逝ってしまうのを、恐れているのだろうかー


クールでミステリアスー
香織は、水瀬をそう絶賛した。
その無表情な仮面の下に、ほとばしるような激しさが、潜んでいる事を、知る者は少ないだろう。

水瀬に身を委ねながら、苑美は深い安らぎを覚えた。
やっと、戻るべき場所に戻ったー
そんな感覚を覚える。


この腕の中は、何て心地いいのだろうー
ずっと、こうしていたいー


苑美をその手に抱きしめて、安堵した水瀬は、漸く平静さを取り戻した。
苑美の肌が、雨に濡れたせいで、冷えきっている事に気付いた水瀬は、身を引いた。

二人共、頭のてっぺんから足の先まで、雨でずぶ濡れになったままだった。


「水瀬さんー?」


抱擁を解かれて、不安げな瞳(め)で、苑美は水瀬を見た。
捨てられた仔犬のような表情に、水瀬はまた、苑美を抱きしめたくなる。


「お前、ずぶ濡れだ。
着替えないと、風邪どころか、肺炎を起こしかねないぞ」


水瀬に言われて、苑美は漸く、自分の状態に気が付いた。
長時間、雨に打たれていたせいで、下着までグッショリ濡れている。

身体は、すっかり冷えきっている。
水瀬の指摘で、その事を自覚すると、急に濡れた服の冷たさが感じられて、苑美は思わず身震いした。

第四十三話



苑美が震えているのに気付いて、水瀬は眉間にシワを寄せた。


「早くシャワーを浴びて、身体を温めた方がいい。
さあ」


水瀬に促されて、苑美は彼を見上げた。


「え、ええーでもー
水瀬さんはー?」


水瀬も雨で、全身ずぶ濡れだった。
苑美のアパートに、着替えがある筈もない。
水瀬は躊躇した。

本来なら、自宅に戻るべきなのだろうが、やっと心が通い始めた矢先だけに、苑美の傍を離れたくなかった。
しかしー苑美は疲れている。
休ませなければならない。
傍にいて、手を出さないでいられるだろうか?

水瀬は迷ったが、すぐに心を決めた。
やはり、今は苑美の傍を離れたくない。
欲望を抑えるのは、拷問に近いだろうが、それでも、今は一緒にいたかった。


「ちょっと出掛けてくる。
着替えを何とかしないとー」


言いながら、濡れた髪をかきあげる水瀬を見て、苑美はやっと、彼が自分同様、全身ずぶ濡れなのに気付いた。


「水瀬さん…あの…?」


言いかけて、クシュン!とクシャミが出た。
水瀬は、また眉間にシワを刻むと、苑美をバスルームに追いやった。


「いいから、早く行け!
それとも、一緒に入るか?」


苑美は、みるみる真っ赤になると、一足跳びにバスルームに駆け込んだ。
水瀬は、思わずクスリと笑った。
苑美が知ったら、見逃したのを必ず悔しがるであろう、人間らしい魅力にあふれた笑みだった。

苑美が、バスルームに消えてから、水瀬はすぐに部屋を出た。
肌に張り付いた、濡れた衣服の気持ち悪さに、閉口しながら、車を発進させる。

とりあえず、衣料品がある店を見つけて、着替えを調達するつもりだった。
その場しのぎだから、サイズさえ合えば、何でもいい。

雨は、まだ降り続いていた。
車は、水飛沫を上げて、街中のネオン目指して、走っていく。
辺りは、既に真っ暗で、夜の帳(とばり)に覆われている。



苑美は、シャワーを全開にして浴びた。
熱い湯がほとばしる。
冷えきった身体に、染み込むような熱い湯に、苑美は思わず、喜悦の吐息を漏らした。

暫く存分に、熱い湯を浴び続け、苑美はやっと人心地がついた。
理性や分別、思考能力が戻ってくる。

自分の下した決断を、悔いる気持ちはなかった。
苑美は、全身で水瀬の心を聞いたのだ。
伝わってきた感情に、水瀬の魂(こころ)に、嘘偽りは全くない。


でもー


嘘偽りはない。
だが、隠している事はある。
苑美は、勘が鋭い娘だった。
だからこそ、水瀬に嘘偽りはないと、信じられた。

その直感が告げている。
水瀬は、何か重大な事を隠しているー
それは、亡くなった恋人ソニアにーそして、苑美にも関わる事だとー

第四十四話



どういう風に関わっているのか、苑美には全く解らないが。


それが解れば、苦労しないわねー


苑美は、溜め息を吐いた。
水瀬の言葉に、嘘偽りはなくても、苑美には水瀬の内情(こと)は、何ひとつ解らない。

冷淡(クール)なのはうわべだけなのだろうがが、未だ謎めいた存在なのは、間違いない。
そんな事で、苑美の信頼は揺るがなかったけれど。
水瀬が、どういう人間なのか、言葉ではなく、魂(こころ)の奥深くで、感じ取ったのだから。


私は、あの人を信じるわー
そのうち、きっと全て打ち明けてくれる。


とりとめなく、考えていた苑美は、自分が、シャワーを浴びている最中なのに気付いて、慌ててお湯を止めた。

手早く身体を洗い、浴室を出て身支度をする。
淡いピンクの、厚手のバスローブにくるまると、急いでバスルームから出た。

水瀬の姿は見えない。
まだ戻っていないようだ。
ホッとすると同時に、ふいに不安が込み上げる。


戻ってくるわよねー


苑美は、頭を振って不安を振り払った。
水瀬の謎めいた言動は、苑美の不安をかきたててしまう。

だが、水瀬はいい加減な人間ではない。
この状況で、黙っていなくなったりしないだろう。


そうだ、鍵ー!


苑美は、ハッと思い出して、玄関に走った。。
さっき玄関を開けて、そのまま下駄箱の上に置いた筈の鍵がない。

念の為、バッグの中も探してみたが、ないという事は、水瀬が持っていったのだろう。


鍵を持っていったって事は、戻ってくるつもりなんだわー


苑美は、漸く胸を撫で下ろして、ソファーに腰を降ろした。
安心したら、急に眠気が襲ってきた。


今日は、いろいろあったものねー


苑美は、大きく欠伸をした。
襲ってくる眠気に勝てず、苑美はウトウトし始めた。



カチャリと、鍵が開く音がした。
ドアが開いて、紙袋を抱えて水瀬が入ってくる。
部屋の中は、電気が点いているが、シンと静まり返っている。

水瀬がリビングに入ると、苑美はソファーに身を寄せて、スヤスヤと眠っていた。


疲れたんだなー


水瀬は、苑美を起こさないように、そっとバスルームに入る。
ともかく、この肌に張り付く、衣服の感触と冷たさには、ほとほと閉口した。

水瀬は、一気に雨に濡れた衣服を脱ぎ捨て、さっきの苑美と、全く同じ事を繰り返した。
シャワーを全開にして、ほとばしる熱い湯に、喜悦の声を漏らす。

水瀬にとっても、長い長い一日が、漸く終わろうとしている。
熱い湯に打たれて、至上の幸福感を味わいながら、水瀬は、今日あった事を回想する。


もう少しで、『彼女』を失うところだったー


それを考えると、熱い湯の下にいるのに、背筋が凍るような思いがする。

第四十五話



皮肉にも、原因は『彼女』自身ー
ソニアの肖像画が、引き起こしたものだ。
水瀬は、複雑な思いを噛みしめた。

苑美は、確かに『彼女』なのに、ソニアは『他人』でしかないのだ。
水瀬にとっては、同じ人間でしかないのにー

気を付けなければならない。
苑美の前で、ソニアの話は厳禁だ。
苑美にとっては、記憶が蘇らない限り、ソニアは水瀬の亡き恋人ー
いわば、恋敵なのだ。


「恋敵ーか」


水瀬は苦笑いした。
こんな展開になるとは、思わなかった。

だが、何よりも喜ばしい収穫はあった。
苑美が水瀬に、恋愛感情を抱いている事は、間違いない。

苑美が、ソニアの身代わりにされる事に、あれ程の拒否反応を示したのが、何よりの証拠だ。

その事実に、水瀬は心から安堵し、深い喜びが湧き上がるのを、抑えきれなかった。
熱いシャワーで、身体の芯から温まりながら、魂(こころ)も熱いもので、満たされていく。

双方が満たされる心地よさに、水瀬は更に、至福の溜め息を漏らした。
勿論、問題が無くなった訳ではない。
苑美には、前世の記憶がないのは、変わらない。

ソニアの事は、うっかり話もできないし、隠さなくてはならない事も、多数ある。
水瀬だけが、抱えなくてはならない問題もー

それでも、そんなものは些細な事に思えた。
一番、欲してやまないものが手に入った。
『彼女』の愛(こころ)ー

記憶がない以上、もう一度、自分を愛してくれなければ、『彼女』はこの手に戻らない。
魂(こころ)が呼び合うなら、きっと応えてくれるー
そう思いながら、水瀬は不安に苛まれた。

ソニアとの蜜月は、遥か遠い昔ー
鮮明な記憶があるのは自分だけで、『彼女』は身も心も、真っ白なまま生まれ、成長した。

このまま、自分を受け入れてくれないのではないかという、焦りと恐れが、水瀬を残酷な行動へ駆り立て、苑美の肉体(からだ)も心も傷付けた。


肉体(からだ)を、奪えば『彼女』を取り戻せるなんて、思った訳じゃないー
あんな事で、『彼女』の全てを、自分のものにできるなんて、思っていなかった。

肉体(からだ)を繋げる事は、唯、『彼女』を繋ぎ止める手段に過ぎなかったー
自分が、肉体(からだ)に与える快楽で、『彼女』を呪縛しようとした事もー

彼女が、離れていかないようにする為の手段ーと言っても、その場凌ぎにしかならないのは、わかっていた。

それでも、『彼女』を失いたくなかったから、どんな手でも使うつもりでー


水瀬は、熱い湯の下にいるのに、冷水でも浴びたように、ブルッと身体を震わせた。


あのまま、歯止めもなくエスカレートしたら、何をしでかしたか、わからないー
それだけ、精神的に不安定に、なってたって事かー

第四十六話



だがもう、そんな手段は、使わなくてもいい。
『彼女』は戻ってきたー
この腕の中に。
『彼女』が、俺を愛してくれるなら、自分で自分が、嫌になるような真似は、しなくて済む。

前世の記憶がなくても、『彼女』が傍にいてくれるなら、それでいい。
今はそれだけでー
細かい事は、後で考えればいい。
だがー


水瀬は、顔をしかめた。


それと、欲望は全く別物だ。
『彼女』に快感を与える事に、罪悪感が無くなった分、欲望が暴走しそうだー
それはそれで、困った事になるー


水瀬は、どちらかというと、小柄で華奢な苑美の姿を、思い浮かべた。
『彼女』には、抑制が効かない。
他の女には、一度も感じなかった、際限のない欲望が、沸々と沸き上がる。

“女をイカせる、技巧(テク)は凄いのに、自分は淡泊だよね”

水瀬が相手にした女達に、よく言われたものだが、それは相手が、『彼女』ではなかったからだ。

前世でも、ソニアに出逢うまでは、そうだった。
『彼』の中では、何かが枯渇していた。
苑美に巡り合うまでの、水瀬のように。

淡白というより、全てがどうでもよかった。
ソニアは、そんな『彼』の前に、天使のように舞い降りた。
輝く日の光と共に。
それは、余りに突然に、無惨に断ち切られたー

水瀬は、ハッと我に返った。
心臓が、破れそうな程、激しく鼓動を打っている。
水瀬は、落ち着こうと、深呼吸を繰り返した。

思い出したく過去ー
血塗られた、前世の記憶ー
それは、愛する者の記憶と表裏一体で、常に水瀬を苦しめた。

水瀬は、シャワーを止めると、水滴と一緒に、振り落とそうとでもするように、頭を左右に振った。
艶やかな黒髪から、銀色の雫が散る。

水瀬は浴室を出ると、身体を拭くのも、そこそこに、無造作に着替えると、足早にバスルームから出る。

狭いアパートの事、数歩進めば、リビングに行ける。
苑美は、まだソファーで眠っていた。
規則正しく上下する胸に、ホッと息を吐く。

あどけない寝顔に、目を奪われながら、別の場所も反応を示す。


全く、これじゃ種馬並だなー

自分に顔をしかめながら、水瀬は苑美の顔が、桜色に上気しているのに、気付いた。


「ソニ…苑美、寝るならベッドに行かないとー」


苑美に触れた水瀬は、眉をひそめた。
何だか、熱い気がする。


「うぅ…ん…」


苑美が、瞳(め)を開いて起き上がる。
何だか、動作が緩慢だ。
水瀬は、ますます眉根を寄せた。


「ごめんなさいー
戻ってきたの、気付かなくてー」


立ち上がろうとして、ふらつく苑美を、水瀬はしっかり抱き止めた。
やはり、気のせいではない。
苑美の肌は、熱を持っている。


「そんな事は、どうでもいい。
お前、熱があるぞ」

第四十七話



熱…?
そういえば、頭がボンヤリして、身体がふらつく…


「大丈夫か?
医者に行った方が、いいんじゃないか」


水瀬の声には、心配そうな響きがあった。
具合が悪いというのに、苑美は嬉しくなった。

私を、心配してくれてるのね…


胸に、ジワリと熱いものが広がる。


「大丈夫ー
医者に行く程じゃないわ。
注射や薬は、嫌いなの。寝てれば治るわ」


子供のような苑美の言葉に、水瀬は苦笑する。


「ホントに大丈夫か?」


苑美を支えながら、ベッドに連れて行くと、水瀬は訊ねた。


「大丈夫…着替えなきゃ…」


苑美は寝室で、パジャマに着替え出した。
熱があるので、思考能力が、鈍っているのだろう。
普段なら、恥ずかしがって、水瀬の目の前でなど、着替えられない筈だ。

スルリと、バスローブを脱ぎ捨てる。
一瞬、白い裸身が灯りの下に浮かぶ。

バスローブの下には、パンティしか身に付けていなかった。
白い肌は、すぐパジャマで覆われて、見えなくなった。

今の水瀬には、目の毒の光景だった。
一瞬見えた白い肌に、即座に反応して、肉体(からだ)が疼く。
水瀬は、苑美から視線を逸らして、自分に毒づいた。


全く、反応良過ぎだろう。
まるで、盛りのついた犬や猫だ。


着替えを終えた苑美は、物言いたげに、水瀬をチラリと見た。
水瀬がそれに気付いて、声をかけた。


「どうした?
着替えたなら、横にならないと」


苑美は居心地悪そうに、モジモジしながら切り出した。


「ええ、でも、あの…水瀬さんは…?」


水瀬は悟った。
苑美は、水瀬がこのまま帰ってしまうのではないかと、心配しているのだ。
消極的な苑美には、ハッキリ聞く事が、できないのだろう。


本当に、ソニアとは違うなー


ソニアなら、ハッキリと、しかし高飛車だったり、媚びるような事なく、素直に自然に、傍にいてほしいと言うだろう。

苑美が、本質的にはソニアと同じ、芯の強い娘なのは、解っている。

水瀬が、激情に負けて手折り、踏み散らしてしまったときも、枯れてしまいはしなかった。

その花はまた、目の前で可憐に咲いているー

水瀬は、胸が熱くなって、思わず言葉に詰まった。


「水瀬さん…?」


水瀬が答えないので、苑美はちょっと…いや、かなり意気消沈した。


具合が悪いから、心細くなってるんだわー
彼にだって、都合があるんだから、一緒にいてなんて、ワガママ言っちゃいけないわよねー


「あの…」


私は大丈夫だからと、言いかけて、苑美はクシャミをした。
その途端、悪寒が走って、苑美は身体を震わせた。

第四十八話



水瀬は目敏く、苑美が震えたのに気が付いた。


「寒いのか?」


さっきまで、熱い位だったのに、苑美は寒気がしてきていた。


「少し…でも大丈夫だから」


苑美は、心配させまいと笑顔を作ったが、水瀬は眉をひそめた。
苑美を見ると、さっきは上気していたのに、顔色が青ざめて見える。


マズイなー
悪寒がくるって事は、熱が上がる前兆じゃないか。


水瀬は、苑美を抱き上げて、ベッドに寝かせると、自分も一緒に横になった。


「あっ、あの…水瀬さん…?」


焦ってアタフタする苑美を、水瀬はしっかりと抱きしめた。

「いいから、おとなしく寝てろ。
寒気がするんだろう?
たぶん、もっと熱が上がる」


水瀬の言う通り、さっきから感じていた悪寒は、徐々に強くなってきていた。
気温が低い訳ではないのに、苑美は断続的に、寒気が襲ってくるのを感じた。

苑美が、悪寒に震わせる身体を、水瀬は引き寄せて、自分の身体に密着させた。

水瀬の腕の中は、温かくて気持ちがいい。
いつのまにか、苑美は水瀬の胸にすりよって、身体を預けていた。


温かいー
人肌って、こんなに温かいのねー
ううん、きっとこの人だから、そんな風に感じるんだわー


衣服ごしに伝わってくる、水瀬の体温はとても心地よくて、悪寒も余り感じなくなった。
代わりに、苑美は何だか、朦朧としてきた。
水瀬の言った通り、熱が上がってきたらしい。


「眠った方がいい。
ずっと傍にいるからー」


水瀬の囁きが、子守唄のように聞こえる。
苑美は、引き込まれるように、微睡みに落ちた。
身体が重くて、沈んでいくような不安な感覚の中、水瀬の腕がしっかり、苑美を抱き止めていてくれる。


この腕の中では、何の不安もないー
ずっと、こうしていられたらいいのにー


苑美は、そのまま深い眠りに入った。

水瀬は、胸に抱きしめている、苑美の様子を伺った。
やはり、案じていた通り、熱が上がってきたらしく、顔が紅潮している。
少し、呼吸(いき)が荒いが、苦しそうな様子はない。

水瀬は、少し安堵したが、こんな事になったのも、自分が軽率だったからだと、自責の念を感じた。
あの冷たい雨に、苑美は何時間、打たれていたのだろう。

苑美にとって、ソニアは『他人』なのだと、肝に銘じなければならない。
今日のような事が続けば、苑美は本当に、自分から離れてしまうだろう。

それにしても、アパートに戻ってきた苑美を、捕まえられて、本当によかったー

苑美が、水瀬の家から、姿を消した後、急いでアパートに駆けつけたが、彼女は戻っていなかった。
探そうにも、苑美の友人も、実家の住所も、行きそうな場所も、何ひとつ知らない事に気付いて、愕然とした。

第四十九話



頼みの綱は、有吉だけだった。
有吉から、友人の香織のケータイを聞き出し、連絡したが、苑美はいなかった。

苑美の友人や、行きそうな場所も聞き出し、片っ端から当たったのだが、見つからない。
仕方なく、アパートに戻って、待っていたのだが、その時間の長かった事といったらー

今、捕まらなかったら、また『彼女』を失ってしまう。
水瀬は、焦りと不安で、何も考えられなかった。
苑美を探しに、駆け出したい衝動を、何とか抑える。

あてもなく、探し回るより、アパートで待っていた方が確実だと、考えたのだ。
今思うと、我ながらよく、そんな思考能力が、残っていたものだと思う。

腕の中の、確かな存在を抱きしめながら、水瀬は微笑した。
今だから、笑える話だが。


それにしてもー


水瀬は顔をしかめた。


後々、厄介な事になりそうだー


有吉を頼った事で、苑美との関係を、自分から暴露したようなものだ。
有吉は、決して悪い人間ではないが、噂好き、詮索好き、お喋り好きだ。

電話の向こうでも、興味津々なのが、手に取るようにわかった。
既に撮影所内は、この噂で持ちきりだろうー

香織も、それに拍車をかけるに違いない。
彼女は、苑美と正反対だ。
行動的で、大胆で、物事に動じない。

そしてー女に有りがちな、噂好き、詮索好き…
突き詰めると、有吉と同じタイプだ。
無論、苑美の友達だから、でっち上げな言動は控えるだろうがー

どっちにしても、彼らの追求は逃れられないだろう。
自分は、有吉達に会わなければ済むが、苑美はそうはいかない。
矢面に立たされるのは、目に見えている。


参ったなー
一難去ってまた一難だ。
まあ、『彼女』を失うのに比べたら、些細な事だがー


水瀬は、溜め息を吐いた。
苑美に目をやると、とりたてて様子に変化はない。
時々、悪寒に襲われるのか、小さく身体を震わせる。
水瀬は、その度に苑美を強く抱きしめてやった。

とりとめなく考えている内に、水瀬も目蓋が重くなってきた。
彼も、苑美を探して、雨の中を走り回った。
精神的な疲れも重なって、睡魔が襲ってくる。

今、苑美が腕の中にいる安心感も、張り詰めた精神(こころ)を、緩ませたのだろう。
苑美を抱きしめたまま、水瀬は眠りに落ちた。



何か…鳴ってる…?
目覚ましの音じゃない…
電話のベル?
変ね…私の部屋には、ケータイしかないのに…


苑美は、電話のベルらしい音に、目を覚ました。
頭を上げようとしたが、身体が動かない。


あれ…何で動けないの?


電話のベルらしい音は、暫く鳴っていたが、やがて切れた。

寝起きでハッキリしなかった頭が、漸く働き始めて、苑美は、水瀬にしっかり抱きしめられている、自分に気付いた。

第五十話



その状況に、苑美は赤面しながら、昨日起こった事を、全て思い出した。
ソニアの肖像画に、ショックを受けて、水瀬の家を逃げ出してー
雨に打たれて、アパートに戻ると、水瀬が待っていてー


“お前を愛してる”


水瀬は確かに、ハッキリそう言った。
その言葉を思い返して、苑美は全身が、熱くなった。


そうだわ…
それから、私、熱を出したんだ…


かなり、熱を出たらしい。
苑美の記憶は、曖昧にしか残っていないが、水瀬が一緒に、ベッドに入った事は覚えている。

高熱で、悪寒に震える度に、しっかり抱きしめてくれた事もー
温かい水瀬の身体に包まれて、熱に浮かされながらも、苑美は、不思議と苦しくなかった。

そっと、額に手をやると、熱はすっかり下がったようだ。
気分もスッキリしている。
苑美は、さっき電話のベルのような音を、聞いた事を思い出した。


もしかして、あれは水瀬さんのー?


自分のケータイは、曲のメロディにしてあるし、バッグに入れっぱなしの筈だ。
そっと、水瀬を見上げると、彼はまだ眠っているようだ。

閉じられた瞳を覆う、睫毛の長さに、ドキリとさせられる。
無防備な寝顔は、端正でありながら、少年のような、あどけなさも、持ち合わせている。


女性が、ほっとく筈ないわよねー


この寝顔を、何人の女性(ひと)が見たんだろうー


胸が、針で刺されたように、チクリと痛んだ。
苑美がモゾモゾしているので、目を覚ましたのか、水瀬が瞳(め)を開けた。

水瀬をマジマジ見ていた、苑美とパッチリ目が合う。
苑美は、慌ててうつむいた。
自分が、赤くなっているのがわかる。


「起きてたのかー
熱は?」


水瀬が、半身起き上がって、苑美を覗き込んだ。
苑美の顔は、ますます赤くなる。


もう、みっともない!
顔が上げられないじゃないー


「さ、下がったわー」


水瀬は眉をひそめた。
うつむいた苑美の顔を、上向きにさせて、更に覗き込む。

「本当に?
顔が赤いぞ」


それは、あなたが見てるからよー!


「で、電話!
さっき鳴ってたみたいよ。
たぶん、水瀬さんのケータイじゃー」


これ以上、凝視されるのに、耐えられなくて、苑美は慌てて、話題を変えた。

苑美の言葉に、水瀬は、ベッド脇のスタンドテーブルに置いた、ケータイを取り上げた。
着信履歴を見るなり、顔をしかめる。
電話は、有吉からだった。


やっぱりかー


入っていた留守電を聞いて、水瀬は溜め息を吐いた。


「どうしたの?」


不思議そうな顔の苑美に、ボリュームを上げて、有吉の留守電を聞かせる。

第五十一話



「水瀬くーん、ソニアちゃん、見つかった?
どうなった?
ちゃんと教えてよね!
レイカちゃんの連絡先、教えてあげたんだからね!
これ聞いたら、連絡してよ!」


苑美は、目をパチクリさせている。


「あの…これ、どういう…
香織…いえ、レイカの連絡先って?」


水瀬は、眉間を指で押さえながら、渋い顔で答えた。


「お前が、どこに行ったか、わからなかったからー
有吉さんに聞いて、レイカって子の、連絡先を教えてもらったんだ。
お前の行きそうな所の、心当たりを聞いてー」


苑美は、昨日部屋の前で待っていた水瀬が、自分同様、ずぶ濡れだったのを思い出した。


あの雨の中、この人はずっと、私を探していたー?


苑美の胸は、ジーンと熱くなる。


「結局、捕まったのがアパートだったから、有吉さん達から聞き出した事は、全く無駄だったな」


水瀬は、苦笑しているが、苑美は首を横に振った。
自分は、確かに愛されているのだ。

それでも苑美には、水瀬の言葉が、信じ切れない。
いや、信じられないのは、水瀬ではない。
自分自身が、水瀬に愛される資格がある事が、未だに信じられないでいるのだ。

自分に自信が持てない事が、苑美の一番のウィークポイントだろう。
ましてや、水瀬の恋人だったソニアは、輝くように美しい。


私なんかが、ホントに一緒にいていいのかしらー


「苑美?」


名前を呼ばれて、苑美の胸が高鳴る。
初めて、自分の名前を呼んでくれたー


「まだ、具合が悪いのか?」


苑美は、慌てて首を横に振った。


「い、いいえ、もう熱もすっかり下がった…」


言いかけて、苑美は言葉を途切らせた。
水瀬が、苑美の額に自分の額を当てたからだ。


「ああ、熱は下がったみたいだな」


苑美の顔は、みるみる真っ赤になった。


そ、そんな事されたら、また熱が上がっちゃうー


快感に酔いしれて、愛を交わすベッドの上にいるときとは、訳が違う。

明るい光の中、正気のときに、水瀬の端正な容貌(かお)を、間近に見せられて、苑美の心臓はバクバクいっている。

苑美は、汗をビッショリかいてしまった。
当の水瀬は、不思議そうな表情(かお)だ。


少しは、自分の魅力を自覚してよー


そういえば、水瀬自身は、自分の容姿を、何とも思っていないようだ。
望めば、モデルにも俳優にもホストのNo1にも、逆玉だって簡単だろうに。

そんな世界には、全く興味がないように見える。
そういえば、衣服もシンプルなものが多い。
今も、普通の白いシャツに、黒のズボン姿だ。

昨日、濡れた服の着替えとして、急場を凌ぐ間に合わせらしいから、ブランドものでも、何でもないだろう。

第五十二話



どこにでもあるものなのに、水瀬が着ると、際立って見える。
天性のものとしか言いようがない。


やっぱり、私なんかと釣り合わないー


苑美が、何だか黄昏ているのを見て、水瀬は眉をひそめた。


「まだ、具合悪いのか?」


黒曜石のような瞳(め)で、覗き込まれて、苑美は慌てて、首を横に振った。


「だ、大丈夫ー
あの、えっと…絵、そう、水瀬さんは、絵を描くのが、仕事かなってー」


それでなくても、昨日散々、水瀬に心配をかけたのだ。
それに、水瀬と自分を比べて、劣等感を募らせていたなど、知られたくない。

苦し紛れに、口から出た言葉だったが、水瀬の仕事を知りたいのも、また本当だった。
有吉が、カメラマンが本業ではないと、言っていた。

昨日は、ソニアの件で、頭がいっぱいだったので、考える余裕がなかったが、あれだけの絵が描けるという事は、画家なのかもしれない。

まだ、水瀬が描いたのかどうか、聞いてはいないが、あの部屋はアトリエのようだった。


「ああ、一応、新進画家として、やっている」


水瀬は、サラリと言った。


やっぱりー


「だからあんなに、素晴らしい肖像画が描けるのねー」

苑美は、思わず呟いた。
波打つ黄金の髪、碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳ー
花のように美しいソニアの姿が、頭に浮かんで、苑美の胸は、ズキリと痛んだ。


私、嫉妬してるー


ソニアの肖像画を見たときの、焼け付くような激しい嫉妬ー
あの絵を見れば、水瀬がどれ程、彼女を愛していたのかがわかる。

苑美の中に芽生えた感情は、今までの人生の中で、感じた事もない程、強く激しくて、一旦囚われると、苦しくて息もできない。

だが、自分に向けられた水瀬の想いも、真実のものだった。
苑美に伝わってきた、水瀬の感情ー
苑美の魂(こころ)を、激しく揺さぶった想い。

それは信じられるのに、何故こんなに、苦しいのだろうー


あの女性(ひと)が、余りに美しいからだわー
私なんか、敵う筈もない程ー


二人が並んだら、これ程似合いの相手は、いないだろう。
マサに、美男美女のカップルで、圧倒される。
それが、ますます、苑美の胸を痛ませた。


私とは、余りに違い過ぎる…


幼いときから、刻み込まれた劣等感(コンプレックス)が、苑美に自分を過小評価させ、卑下させた。

ソニアとタイプこそ違えど、苑美は十分、人目を惹き付ける、美しい娘だった。

パッと人目を引く、華やかさはないけれど、風に散ってしまいそうな、可憐で儚げな風情は、抱きしめて守ってやりたい、保護欲を煽る。

だが、苑美はそんな事は、全く気付いていない。
それでなくとも、自分は人より劣っているという、思い込みがあるのに、ソニアが並外れた美人だった為、どうしても自分と比べてしまう。

第五十三話



結局、これは私の、心の内側の問題なんだわー
水瀬さんを、信じているかどうかは、関係ない。
自分しか、対処できないー


苑美は、溜め息を吐いた。
水瀬は、そんな苑美を見て、眉をひそめる。


さっきから、何だか様子がおかしいなー
熱は下がったのに、まだ気分がよくないのだろうか。
それともーソニアの肖像画が、引っ掛かるのか?


苑美は、ソニアの肖像画を、妙に気にしている。
自分の外見(みてくれ)を、余り気にしない水瀬には、苑美の劣等感が、今一つピンときていない。

いや、気にしないというと嘘になる。
水瀬は、自分の外見が、鬱陶しくてならなかったのだから。
容姿に恵まれない人間が聞いたら、殺されかねない、贅沢過ぎる悩みだが。

だが、外見がよければ、中身などどうでもいい態度が、あからさまな人間ばかりだと、人間不信にもなるというものだ。
そういう意味で、水瀬は苑美と、全く逆のコンプレックスを持っていると、言えるのかもしれない。

水瀬にはまだ、苑美の自分自身への過小評価が、よくわかっていない。
唯、ソニアに対して、いい思いを抱いていないのは、わかっていた。


“同じ人間”なんだがなー


水瀬は、溜め息を吐いた。
真実を告げてしまいたい気持ちは、いつも心にあった。
だが、信じてもらえないのは、目に見えている。

今、一番大事なのは、苑美を失わない事ー
他の事は、二の次だ。
苑美が傍にいてくれれば、それでいい。


ソニアの絵は、処分してしまおう。
苑美が嫌がるなら仕方ない。
あれは、俺が描いた、ソニアの残像に過ぎない。
『彼女』の為なら、惜しくない。


水瀬は、そう心に決めた。
迷いが全くないと言えば、嘘になる。
愛する女の姿なのだから。
だが、あの肖像画が、苑美を苦しめるなら、処分も仕方ない。


俺は二度と、『彼女』を手離したりしないー!


「水瀬さんー?」


苑美に声をかけられて、水瀬は我に返った。
苑美は、何処か不安そうな瞳で、水瀬を見上げている。


「あ、ああ、すまない。
ちょっと考え事をしてて」


苑美が何か言おうとしたとき、水瀬のケータイが鳴った。
水瀬が顔をしかめる。


また、有吉さんじゃないだろうなー


表示を見て、水瀬は渋い顔になった。
有吉からではなかったが、画商の手越からだった
水瀬の苦手な相手だ。
出たくなかったが、仕事の話では、仕方がない。
渋々、電話に出る。


「はい…はい、どうも…
はい…ええ、順調に…え?
でも、あの…あっ、もしもし?!」


一方的に電話を切られて、水瀬は、舌打ちした。
不機嫌な顔で、苑美に顔を向ける。


「すまない、出掛けなきゃならなくなった」


いかにも、嫌そうな態度に、苑美がおずおずと訊ねた。

第五十四話



「誰から…?
有吉さん…?」


水瀬は、首を横に振った。
人間的には、有吉の方がマシだと思いながら。


「いやー仕事関係の人だが、何でも勝手に決めるんで、苦手なんだ。
だが、世話になってるから、断れない」


溜め息を吐いて、髪をかきあげる仕草に、思わずドキリとさせられる。


何をやっても、様になる人だわー


水瀬自身には、全く自覚がないようで、今の電話のせいで、いかにも憂鬱そうだ。

電話の主に会わなければならないのも、気が重かったが、水瀬にはもうひとつ、気掛かりな事があった。


「大丈夫か?
一人でー」


昨日、熱を出して、寝込んだ苑美を、一人にするのが心配だったのだ。


「大丈夫よ。
熱もすっかり下がったし、心配しないで」


苑美は笑ってみせたが、内心は、一緒にいられない事に、ガッカリしていた。
水瀬は、そんな苑美の様子を、吸い取るような瞳(め)で見ていたが、気が付いたように、訊ねた。


「学校はー?」


苑美は、首を横に振る。


「今日は、受けなきゃならない講義はないの」


だから、一緒にいられると思ったのにー


そう思いつつ、ガッカリした素振りは、見せないように努力しながら、苑美は答えた。


「大丈夫だから。
仕事なんでしょう?」


水瀬は頷いた。
それから、ケータイを取り出して、苑美に言った。


「連絡が、取り合えるようにしておこう。
昨日は、電話番号も何もわからなくて、連絡しようもなかった」


水瀬さんの連絡先ー


苑美の表情が、パッと明るくなった。
知りたいと思いながら、自分からは、切り出せなかったのだ。

引っ込み思案の苑美には、自分からは、なかなか連絡できないだろうけれど、水瀬の方から教えてくれた事が、嬉しくてたまらない。


「なるべく早く、切り上げて戻る」


水瀬の言葉に、苑美の心臓が、ドキンと脈打つ。


「え…あの…戻るって、部屋(ここ)に?」


水瀬は眉を上げると、苑美にズイと近付いて、顔を覗き込んだ。


「嫌なのか?」


苑美は慌てて、頭をフルフル横に振った。
頬を染めている姿に、水瀬は微笑した。
苑美は、本当に素直で解り易い。


「今日は無理しないで、おとなしく寝てるんだぞ。
ちゃんと、布団を首まで被って暖かくして」


諭すような水瀬の言葉に、苑美はちょっとムクれる。


「そんな事、わざわざ言わなくてもー子供じゃないんだから」


途端に、グイと引き寄せられて、唇が重ねられる。


「んっ!んん…ふっ…」


舌が絡められ、甘く溶けるような感覚に、全身が包まれる。
水瀬は、やっと唇を離すと、息が上がっている、苑美の耳元で囁いた。


「子供だなんて、思ってないさー
子供にできない事をしたいのに、また熱を出されちゃ手が出せない」


苑美は、耳の付け根まで真っ赤になった。

第五十五話



「俺も昨日は、疲れててよかったな。
でなければ、我慢できたかどうかわからない」


水瀬は、苑美を抱きしめると、また耳元で囁いた。
苑美はますます、身体が熱くなる。
水瀬の口調は、どこか楽しそうだ。


な、何か、私をからかって楽しんでない?


自分ばかりが、オタオタさせられ、掌で遊ばれているようで、苑美は何だか面白くない。


「もう、行かないといけないんじゃない?」


苑美が、わざと素っ気なく言うと、水瀬はクスリと笑った。
苑美の気持ちなど、お見通しのようだ。


「そうだなー
続きは、戻ってきてからジックリとー」


水瀬が含み笑いを漏らす。
苑美の肉体(からだ)が、またカァッと火照った。

水瀬は、玄関のドアノブに手をかけて、思い出したように、苑美の傍に引き返した。


「お前にも、有吉さんから、電話が行くかもしれない。
それから、あのレイカってコからもー」


苑美の胸は、嫌な予感にドキリとする。


「え…?」


水瀬が、ちょっと困ったように、顔をしかめる。


「俺が、お前を探すのに、いろいろ聞いたからー
たぶん、俺との関係を根掘り葉掘り、聞かれると思う。
覚悟しておいた方がいいぞ」


苑美は、漸く事態を呑み込んだ。
さっき、水瀬にかかってきた、有吉の電話を思い出す。

あの様子では、本人に直接確かめるまで、あきらめないだろう。
そして、苑美も標的(ほんにん)に他ならない。


よりによって、あの二人ー


お喋り好きで、詮索好き、ゴシップ好きの似た者同士が、真相を吐かそうと、手ぐすね引いているのが、目に見えるー
苑美は自分が、蜘蛛の巣にかかった、獲物になったような気がしてきた。


ああ、また熱が出そうー


苑美は、頭を押さえた。


「有吉さんには、俺から一応、説明はしておくがー
お前にも、直接聞きたがるだろうな」


そうでしょうねー


有吉とは、付き合いは長くないが、言動を見ていれば、性格が解る。
好奇心旺盛なのを、隠そうともしない。
付き合いの長い香織は、言わずもがなだ。

水瀬は、苑美の動揺を見てとって、顔を覗き込んだ。


「悪かったな。
あのときは、気が動転してて…他にツテがなかったし、後先考えてなかった」


冷静に考えれば、有吉がこの事に、興味を持たない筈がない。
水瀬は、類い稀な容姿を持ちながら、特定の女に興味を示さなかった。

有吉は、どんな美女にも振り向かない水瀬を、密かにゲイなのではないかと、疑っていた節もある。
それが、苑美のような、可憐で愛らしいタイプに、執着を見せたのだ。

好奇心の塊になって、一部始終を聞き出そうと、目を輝かせているのが、目に見えるようだ。


たぶん、ゲイの汚名返上で、代わりにロリコンのレッテルが、貼られるんだろうなー


水瀬は、眉間を指で押さえたくなった。

第五十六話



あのレイカという娘も、同じタイプに思える。
引っ込み思案の苑美とは、真逆のタイプだ。
よりにもよって、有吉と同じタイプとはー

しかも、女の方が、こういう話題には、実にパワフルだ。
苑美も、きっと追求されて、しどろもどろだろう。

水瀬は、不安を感じたが、自分が説明するのは、余計拗れそうな気がした。

水瀬と関係ないところで、女達は勝手に、彼の事で小競り合いをした。
こういう場合、女の話に口を挟むのは、逆効果らしい。

それでも、消極的な苑美に、全部対処させるのは、不安だった。
レイカが、友人である苑美を、そこまで追い詰めるとは、思わなかったが、パワフルな自信家なのは確かだ。


「水瀬さんが謝る事じゃないわ。
香織が、こういう話好きなのは元々だし、私の事心配してくれてるの」


苑美は、溜め息混じりに付け加えた。


「唯ーちょっと度が過ぎるけど」


水瀬は、黙って聞いていたが、苑美を引き寄せて、抱きしめた。


「ー何か問題があったら、連絡するんだぞ。
俺がお前を守るから」


水瀬は、苑美の顔を覗き込んだ。


「必ず、お前を守る。
今度は必ずー!」


黒曜石の瞳に、不可思議な色と、強い決意の光が宿っている。


えー?『今度』は?


「あの…今の…どういう意味…?」


水瀬は答えず、冴え冴えとした瞳で、苑美を見つめている。
やがて、謎のような微笑を浮かべると、苑美から離れた。


「ー行ってくるよ」


そのまま、ドアを開けて、水瀬は出ていった。
後には、苑美が一人取り残される。

意味深な水瀬の言葉が、苑美の耳から離れない。
苑美は、頭を振った。


コーヒーでも飲んで、頭をスッキリさせた方がいいかもー


そう考えたとき、苑美は、自分が空腹なのに気が付いた。
そういえば、丸一日以上、何も食べていないのだ。

苑美は、急いで冷蔵庫を開けて、冷凍食品やレトルト品を、適当に取り出した。
電子レンジで温めた食事を、勢いよくパクつく。
お腹が空いているので、何でも美味しく感じる。

瞬く間に、食事をたいらげると、苑美はフゥッと、至福の溜め息を吐いた。
食後のコーヒーを、まったり飲みながら、漸く人心地ついた思いだった。


水瀬さんは、ちゃんと食べたのかしらー


水瀬も、自分同様、何も口にしていない筈だ。
余り、食べる事に関心があるようにも見えないし、苑美はちょっと心配になった。


仕事関係の人と、ランチ位するわよねー


食に関するだけでなく、水瀬は全てにおいて、関心が薄いように見える。
人間に関してもー


それなのに、どうして私には、こんなに固執するのかしらー


苑美は、両手でマグカップを持って、立ち上るコーヒーの湯気を見つめながら、考えに耽った。
思いはまた、水瀬のさっきの言葉に戻る。

第五十七話



『今度は、必ず守る』


今度?
今度って、どういう意味?


いくら考えても、水瀬に、そんな事を言わせる出来事は、思い当たらない。
第一、知り合ってまだ、数ヶ月にしか、ならないのだ。
苑美は、パタッと、テーブルに顔を伏せた。


「やっぱり、水瀬さんて謎だらけー」


苑美は呟いた。


私の知らないところで、あの人は、私の何を知っているのだろうー
そういえば、撮影所で初めて会ったときもー


『俺が解らないのかー』


確かに、そう聞こえた。
聞き間違いかとも、思ったけど、やっぱりそうじゃないんだわー

私は、どこかであの人に会っていて、あんな事を言わせる何かが、起きたって事ー?
そんな事、ある筈ないわ。
水瀬さんのような人、会ったら忘れる筈がない。

わからないー
私には何もー


苑美は、溜め息を吐いた。
水瀬は、何かを隠しているのは確かだ。
それが、あの謎のような言葉と、繋がっているー


私…何かとても大切な事を、忘れている気がする…
いつもいつも、そうだった。
何かを探して、何かを待って…
でも、それが何かが、わからなくて…もどかしくて…


苑美は目を閉じた。
目蓋の裏に、水瀬の姿を思い描く。
その腕の中の心地よさー
甘い想いに、心満たされる。


やっと、あの腕の中に戻れたんだわー


ふいに、泡のように、心に浮かび上がった思いに、苑美はハッと目を開いた。


今のは何ー?
“ヤットモドレタ”ー?
私、何を考えたのー?


自分の心を探ってみても、その言葉を裏付ける記憶(もの)は、欠片すら出て来ない。

それでも、その言葉(おもい)は、欠けていたパズルのピースのように、苑美の胸の内に、ピタリとと嵌まり込んだ。
それは確信に近いものになった。


「そう…なの?」


私がずっと、探していたのは、あの人なのー?


苑美の瞳(め)から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
泣きたい訳ではないのに、溢れ落ちる涙が止まらない。

そのとき、苑美のケータイの、着メロが鳴った。
苑美は、パッと跳ね起きて、ケータイを見た。
案の定、香織だった。


来たわねー


一気に、現実に引き戻される。
苑美は、深呼吸すると、裁判を受ける被告人の気分で、電話に出た。



水瀬は、手越に指定された場所へ、車を走らせた。
水瀬の絵を認めて、売り出してくれた恩人なのだが、正直好きになれない人物だ。

傲慢で身勝手、人は誰でも、自分に従って当然だと思っているような男。

それでも、絵画の世界では、勢力を誇っている。
財力もあった。
無駄に、波風は立てたく
ない。
力になびくというより、人間自体が苦手な水瀬は、争い事は極力避けて通りたかったからだ。

第五十八話



水瀬の前世ーソニアと愛を語らい、彼女を奪われた時代ーは、血の流されるのが、当たり前な時代ー

水瀬も、幾度となく、目の前で血が流れるのを見た。
何よりも、最愛の女が流した血ー

水瀬は、吐き気を覚えて、車を路肩に寄せて停めた。

ソニアの白い腕から、指先を伝って、滴り落ちる真っ赤な雫ー

消えない悪夢が、また水瀬を襲う。
水瀬は、ハンドルにもたれて、目を閉じた。
息ができない感覚に、襲われる。
額を、冷や汗が伝い落ちた。

いつの時代に生まれても、絶えず悪夢は繰り返され、水瀬を苦しめた。


「ソニアー」


水瀬の口から、恋人の名前が漏れる。
脳裡に浮かぶソニアの姿に、苑美の姿がスッと重なる。
ふわりーと、苑美の白い腕に、抱きしめられた気がした。

息苦しさが、ふいに消えてなくなった。
水瀬は、大きく息を吸った。
呼吸が楽になっている。
水瀬は、シートにもたれて、息を吐き出した。


そうだ、『彼女』は現世(ここ)にいるー
今、俺の傍にー!


水瀬は、目を開けて起き上がった。


苑美に逢いたいー
逢って抱きしめたい。


水瀬は、その思いを無理に振り払って、ハンドルを握り直した。

気に染まぬ事は、早く済ませてしまわねば。
手越の機嫌を損ねると、後々厄介な事になる。
現在(いま)の生活を守る為には、まだ手越の力は必要だ。

まだ不安定な苑美との関係を、しっかり固める為にも、今の生活は守らなければならない。

水瀬は、時計にチラと目を走らせた。
さっきの、白昼夢のせいで、かなり時間を浪費している。

手越は、他人には厳しい男だ。
急がなくては。
水瀬は、アクセルを踏み込んだ。



苑美は香織と、自分の部屋で対峙していた。
香織は、尊大な裁判官よろしく、椅子に反り返って、腕と足を組んでいる。

苑美は、これまた被告人よろしく、項垂れて上目遣いに、香織の顔を窺っている。


「ーで?」


香織が口を開いた。
苑美は、ビクッと肩を竦めた。


「ホントに、モノにしちゃったワケね〜
カレの事」


カレとは無論、水瀬の事だ。
苑美は、顔を赤くしてモジモジした。


「モ…モノなんて、別にそんな…」


香織は、眉を吊り上げて、苑美を眺めた。


「そーよねえ。
男の事なんて、な〜んにも知らない、ネンネちゃんに、そんな事できないわよね。
モノにされちゃったワケだ」


あからさまに、トゲトゲしている香織の言葉に、苑美はますます身を縮める。


「水瀬さんみたいにステキな人が、ロリータだったなんて、残念だわぁ」


香織は、大袈裟に溜め息を吐いた。


何がロリータよ…
私は、香織と同じ歳じゃない。


気にしている事を、ズケズケと言われて、苑美はこっそり、心の中で毒づいた。
賢明にも、口には出さない。

第五十九話



口で、香織に敵う訳がない。
大いに不満ながら、苑美は恐れ入った態度で、香織の前にかしこまっていた。

実際、後ろめたい部分もある。
香織にけしかけられる前から、水瀬と関係が持っていた事を、秘密にしていたのだから。


だって…あんな体験(こと)ー
言えないわよねー


水瀬との、最初の肉体(からだ)の関係は、合意の上ではなかった。
何も知らない苑美の肉体(からだ)に、水瀬は強引に、自分の刻印を捺した。

あのときの事を思い出すと、苑美はズキリと胸が痛む。
それでも、水瀬を憎いという感情は湧かなかった。


きっと、私が心の奥底で、望んでいた事だったからー
でも、自分で自分の心が、把握できないうちに、強引に肉体(からだ)を奪われて、怖くてー
どうしていいか、解らなかったー

蟠(わだかま)りがないと言えば、嘘になる。
だが、水瀬を求める気持ちは、そんな思いを遥かに凌駕していた。


「ちょっと、聞いてんの?!」


香織が、仏頂面で苑美を睨んだ。
苑美は我に返って、慌てて香織に答えた。


「き、聞いてるわよ。
ごめんなさい」


香織は、フン!と鼻を鳴らした。


「まあ、いいわ。
あんな超最高級品、アンタには勿体無いケド、向こうがご執心なんだから、しょうがないわね」


香織は、言いたい事を捲し立てて、満足したのか、態度を和らげた。


「アンタみたいなのが好みなら、私なんか目に留まるワケないもんね。
この女らしいナイスバディーじゃ!」


香織は、自分の見事なボディーラインを、自慢気に見下ろした。


「悪かったわね、貧相な肉体(からだ)で」


苑美は、香織のご機嫌が直ったようなので、胸を撫で下ろしながら、気にしている欠点の一つを言われて、ムゥッと頬を膨らませた。


「ホラ、アンタの一番の欠点はそれじゃん。」


香織は、ビシッと苑美を指差した。


「アンタ、何でそんなに、自分を卑下しちゃうワケ?
アンタは、十分キレイだし、女らしいし、肉体(からだ)だって、十分ナイスバディーだわよ?」


香織は、髪をかきあげながら、付け加えた。


「勿論、私には劣るケドさ」


全く、臆面もなくよく言うわー


苑美は、呆れながらも、自信に満ち溢れた、香織の姿が羨ましかった。
実際、香織は溌剌とした女の魅力を、存分に発散している。


ちょっと、自信に溢れ過ぎな感はあるけどー
香織の十分の一でも、自分に自信が持てたらいいのにー


そうしたら、水瀬と並んでも引け目を感じなくて済むだろうにー
そんな、苑美の気持ちを感じ取ったのか、香織は眉間にシワを寄せた。


「また、そんな情けない表情(かお)してぇ〜
アンタは、私を差し置いて、あんな超最高級品をモノにしたんだからね!
もっと、自信を持ちなさいよ!」


それから香織は、苑美に顔を近付けて、声のトーンを落とした。

第六十話



「でさ、カレシ…どう?」


苑美は、意味が解らず、目をパチパチさせた。


「どう…って…?」


香織は、肘で苑美を小突いた。


「もう、ニブイわねぇ〜!
ま、仕方ないか。
この間まで、清い処女(おとめ)のネンネちゃんだったんだもんねぇ」


香織は、キラキラ目を輝かせて、身を乗り出した。


「勿論、カレシとのエッチの事よ。
あれだけのお面なら、女と場数踏んでるだろうから、相当なテクニシャンと読んだケド。
どぉ?上手だった?」


やっと、香織の言っている意味が呑み込めて、苑美は、火がついたように、真っ赤になった。


「な、な…?
じ、じ、上手って…」


しどろもどろな苑美を尻目に、香織は思案顔で、一人ごちている。


「ああ、でも、逆もあるわよねえ〜
女に不自由しないと、奉仕してもらうだけって事もあるか。
テクニシャンか男マグロか、どっちかよね」


お…男マグロ?


苑美だって、深窓のご令嬢ではない。
奥手で引っ込み思案とはいえ、イマドキの娘である。
一通り、知っている事は知っている。

が、あけすけで大胆な香織の会話には、とてもついていけない。
自分が周りより、奥手なのは認めるけれど、それを差し引いても、香織は、普通の域を超えている気がする。

あらゆる分野においてだが、特にこういう話題についてはー


「で、ホントのトコ、どーなの?」


香織はクルリと振り向くと、好奇心にワクワクしているのが、あからさまな態度で、苑美に顔を近付けた。


「ど、どうって…その…」


香織の迫力に、タジタジの苑美に、香織は口を尖らせる。


「何よぉ、ハッキリしないわねぇ〜
あ、もしかして、実はやっぱり、エッチは超下手な顔だけ男だから、言えないとか?」


香織の言葉に、苑美は思わずムッとする。


「失礼ね!
水瀬さんはとても上手なんだから!
私何度もー」


つい、口を滑らせて、苑美は慌てて押さえたが、既に遅かった。
香織は、してやったりと言わんばかりの、満面の笑みを苑美に向けた。


「そ〜ぉ、上手なんだぁ〜。
苑美みたいな、初心者にそう言わせるなんて、相当凄腕ねぇ」


香織が、首を傾げて、ウフフと笑ってみせる。
そのままモデル雑誌の、表紙にでもなりそうな笑顔が、この際とても怖い。

苑美は、茹で蛸のように真っ赤になりながら、うろたえるばかりだ。
そんな苑美を、香織はマジマジと見ている。

その表情(かお)は、さっきまで、苑美をからかって楽しんでいたものとは一変して、真顔になっている。


「でも、よかったわ。
水瀬さんみたいに、素晴らしい男が見つかって」


香織の真面目な口調に、苑美は目を上げた。

第六十一話



「アンタって、家庭の事情もあるし、届かない夢ばっかり、追いかけてるみたいで、心配してたんだから」


香織は珍しく、真剣な表情(かお)をしている。


「香織…」


いつにない友人の姿に、苑美はジーンと、胸が熱くなった。


「ホント、このままオトコも知らず、干からびたババアになるのかなって」


香織は、自分でウンウン頷きながら、勝手に納得している。


後が悪いわー
誰が干からびたババアよ…


そう思いながら、苑美はムッと、眉間にシワを寄せた。


「それが、顔(みため)良し肉体(あじ)良しの最高級品、捕まえちゃうんだから、世の中わかんないわよねえ」


香織は、フゥッと溜め息を漏らした


あ…味?!


苑美は、ますます赤面する。
香織の比喩は上級過ぎて、苑美にはついていけない。


「ま、私に目もくれず、アンタを選んだような人だから、安心て言えば安心だわね」


自分を選ばず苑美を選んだ事を、喜んでいるんだか、呆れているんだか、わからない。


「水瀬さん、アンタを探すの、スッゴイ必死だったんだから。
いきなり電話かけてきて、アンタが行きそうな場所、教えてくれって」


え…?
そんなに?


苑美の心臓が高鳴った。
水瀬は確かに、有吉と香織に連絡して、居所を聞いたと言っていた。
それで、香織がコンタクトしてくるだろうと、指摘していったのだがー


「そ、そんなに必死だったー?」


香織は、大きく頷いた。


「そりゃあもう!
もう、形振り構ってられないみたいな感じだったわよ。
電話じゃ解らないケド、実際見たら、血相変わってたんじゃないかしらね」


香織は、天井を向いて、溜め息を吐いた。


「それで、こりゃ脈なしだなと思ったのよ。
あの様子じゃ、他のどんな美女にも、目もくれないでしょうね。
アンタ、モノスゴイ愛されてるわぁ」


香織は、ちょっと羨ましげに、苑美に視線を投げた。

苑美は頬を染めた。
水瀬が、そんなに必死だった事は、初めて知った。
そういえば、あのとき水瀬も、苑美と同じように、全身ずぶ濡れだった。

それに気が付いたものの、熱を出したりで、いろいろあって、聞きそびれたままになっていた。

今思えばあれは、単に雨に降られた濡れ方ではない。
水瀬は、あの雨の中、傘も差さず苑美を探し歩いたのだろう。

苑美は、漸くその事実に気付いた。
嬉しさが胸に込み上げる。


「全くねえ〜
人のシュミはわかんないもんだわぁ〜」


香織は、まだブツブツぼやいている。
それでも、ひとしきりまくしたてて、気が済んだのか、香織は腰を上げた。


「ま、仕方ないわね。
アンタにはこの先、こんなチャンスないんだから。
首に縄付けて、しっかり捕まえとくのよ!」

第六十二話



自分は相手にされていなかった事実は、全く無視して、香織は合コンがあるからと、意気揚々と去っていった。


「つ、疲れた…」


台風一過ー
香織が去ったリビングで、苑美はヘナヘナとへたり込んだ。


また、熱出そう…


苑美はグッタリ、テーブルに突っ伏した。
それでなくても、香織のパワフルさには、いつも振り回される。

その上今日は、何を言われるのかと、緊張してビクビクしていたので、疲れ倍増だった。


でもー
その見返りは、十分あったわー


水瀬は、あの雨の日の行動を、詳しく語らなかった。
苑美を探す為に、それ程必死になっていた事を、別に隠していた訳ではないのだろう。

水瀬にとっては、当たり前の事に過ぎず、話す必要もない事なのかもしれない。

だが、苑美にとっては、その事実は、この上なく大切な事に思えた。
ソニアの肖像画の一件以来、水瀬の気持ちを疑った事はない。

あのとき伝わってきた、水瀬の感情(こころ)の全てが、苑美の魂を揺さぶった。
全てが真実(ほんとう)の事だと、信じられた。

だが、実際にこういう事実を、目の当たりにすると、胸が踊った。
自分は水瀬に愛されているのだという、実感が湧いてくる。

女は、いつだって、自分が特別な存在でいたいものー
それが好きな相手なら、尚更だ。
だからこそ苑美は、ソニアの存在が我慢できなかったのだ。

水瀬は、苑美の中に眠っていた“女”の部分を、いとも簡単に引き出してしまう。
精神的にも、肉体的にもー


やっぱり、女の扱いに慣れているからかしらー


軽い嫉妬混じりに、苑美はチラッとそう考えた。
奥手といえども、現代娘である。

昔なら、女が知っているなど、はしたないとされただろう知識も、ちゃんと知っている。

水瀬が、自分に与える快楽が、経験がものをいっているのも、わかっている。


いったい、何人、女を知っているんだろうー
それがたとえ、遊びでもー


何人、関係を持とうとも、それが遊びなのは、解りきった事だ。


あの人が本気で愛したのは、ソニアさんだけー


苑美の胸が、ズキリと痛んだ。
水瀬は、まだソニアを愛しているだろうかー
苑美は、思いきり頭を振った。


よそう!
考え出したら、キリがないわ。


水瀬は、苑美を愛していると言ったのだ。
それが真実(ほんとう)なのは、苑美の全身が感じ取った。

それでも、ソニアの存在は、絶えず苑美につきまとう。
だからこそ、雨の中、水瀬が苑美を探して、駆け回ってくれた事実が、たまらなく嬉しかった。

水瀬がそれを、当然の事だと思ったのなら、わざわざ、話す気はないだろう。
香織が、情報を提供してくれた事に、苑美は心から感謝した。


物凄く、疲れたけどねー

第六十三話



香織が帰って、緊張が一気に解けたせいで、苑美は急に眠くなってきた。


今寝たらマズイわー
夜、眠れなくなるー


そう思いながら、心地よい睡魔の誘惑に負けて、苑美はウトウトし始めた。



『これを私に?』


黄金色の髪が、陽射しに煌めく。
髪と同じ位、碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳を輝かせて、『彼女』は恋人を見た。


『お前の瞳(め)の色と、同じだろう?』


長い黒髪の恋人が、微笑んだ。
彼の掌には、ラピスラズリのイヤリングが、煌めいている。

『彼女』の瞳を移したような、鮮やかな紺碧の対の宝石(いし)が、陽射しを受けて、目映いばかりの輝きを放っている。


『本当、何て綺麗なのー!
ありがとう、嬉しいわ』


『彼女』は、イヤリングを日の光にかざしてみた。
紺碧のラピスラズリを、繊細な金細工が、美しく縁取っている。


『付けてみるといい』


『彼女』は、嬉しそうに頷いて、イヤリングを耳に留める。
『彼女』が顔を上げると、イヤリングの黄金飾りが、シャランと音を立てた。

『彼女』の輝く碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳と、同じ色をした碧瑠璃(ラピスラズリ)の宝石(いし)が、黒水晶のような、恋人の瞳に映る。


『その瞳によく映える。
思った通りだ』


恋人は、満足そうに微笑んで、イヤリングに触れると、そのまま『彼女』の頬に、指を滑らせた。


『原石を見たときから、お前に似合うと思ったんだ。
作った甲斐があった』


『彼女』は、大きく目を見開いた。


『あなたが作ったの?』


恋人の瞳(め)が、優しく笑う。


『昔から、こういう細工は得意なんだ。
久しくやってなかったが、その宝石(いし)を見ていたら、無性に作りたくなった。
魅入られたのかな』


恋人は、『彼女』の耳元で囁いた。


『お前に魅せられたのと同じようにー
ソニア』


『彼女』の頬が、薔薇色に染まる。


『セオー』


『彼女』ーソニアの腕が、セオの首に巻き付けられ、二人の影は一つに重なるー



夢は、そこで途切れた。

苑美は、パチッと目を開けた。


今のは…何?!
夢ー?


夢に出てきた『彼女』は、確かにソニアだった。
苑美が、ソニアの顔を忘れる訳がない。
その妬ましい程の美貌と、水瀬に愛された事実に、どれだけ嫉妬したかー


だから、あんな夢を見たのー?
でもーでも、相手は水瀬さんじゃなかったわ。
あの男(ひと)は、誰ー?!


長身で、長い黒髪の男ー
セオと呼ばれた男は、水瀬ではなかった。
面長の、切れ長で涼しげな目元。
通った鼻筋。
水瀬と、似通った雰囲気はあったが、水瀬ではない。


どういう事なのかしらー


苑美は困惑した。
唯の夢で片付けるには、余りにそれは、現実味があって、生々しかった。
二人の息遣いまで、聞こえてきそうな程ー

第六十四話



考えれば考える程、解らなくなってくる。


これって…水瀬さんが隠している事と、何か関係あるのかしら。


ふと、苑美の頭にそんな考えが浮かんだ。
何の根拠も、確証もなかったけれど、何故か苑美には、それが間違っているとは思えなかった。

苑美は暫く、さっきの奇妙な夢について考えていたが、溜め息を吐いて、頬杖を突いた。


いくら考えたって、解らないものは解らないわー


また、あの感覚ー
パズルの大事なピースが、欠けているような、もどかしい感覚に、苑美は襲われる。
苑美は、頭を振って立ち上がった。


いつまで考えてても、仕方ないわ。
解らないものは、解らないんだから!


気分転換に、身体を動かそうと、苑美は掃除を始めた。
水瀬は、部屋(ここ)へ戻ってくると言っていた。
昨日は、ソニアの一件で精神的にも参っていたし、熱を出した事で、肉体的にも、回りに気を配る余裕もなかった。

散らかしていた訳ではないが、キチンと片付いていない部屋を見られたのは、恥ずかしい。
最も、水瀬の方にも、そんな余裕があったとは思えないが。


今更、片付けてもだけど…
でも、少しでもキレイに見せたいものね。
これが、女心というものかしら…


そんな事を考えながら、苑美は掃除機をかけた。洗濯もしてしまおうと、昨日汗をかいたパジャマやシーツを集めて、バスルームを開けた。
洗濯機は、脱衣場に備え付けてある。

脱衣籠を見て、苑美はドキンとした。
籠の中には、水瀬が昨夜脱いだシャツやズボンが、無造作に入っている。
昨日着替えて、そのまま濡れた服を、置いていったものらしい。


“水瀬さん、凄い必死だったんだから”


香織の言葉が、頭の中に響く。
苑美は、水瀬の服にそっと触れてみた。
服はまだ、グッショリと湿っている。
濡れ鼠になるのも構わず、苑美を探し歩いた証しだろう。

苑美は改めて、その事実の重味を受け止めた。


私の為にー
服がこんなに濡れるまで構わずにー
そう、下着までグッショリー
え?
下着?!


苑美は、ハッと我に返って、両手で広げて眺めているのが、水瀬のトランクスである事に気付いた。


「キャア?!」


苑美は、思わず下着を放り投げてしまった。


バ、バカッッ!
何やってんのよ!


苑美は慌てて、下着を拾いに走った。


もうっ、今更、何、下着位でオタオタしてるのよー!
そんな段階、とっくに越えてるのにー
そう、下着の中身まで知ってるー


頭に浮かんだ考えに、苑美は赤面して、誰もいないのに、慌てて辺りを見回した。

水瀬の肌の感触が蘇ってきて、苑美の胸の鼓動が、一気に跳ね上がった。
裸の胸の感触、肉体(からだ)に回された腕の感触ー
重ねられた肌の感触ーそれからー

肉体(からだ)を這い、愛撫する唇のー
舌の、指の感触ー
肉体(からだ)の芯が、疼くような感覚に見舞われる。

第六十五話



キャー!今のナシ!ナシ!


苑美は、誰も見ていないのに、真っ赤になって、辺りをキョロキョロ見回した。


私って、もしかして淫乱なのかしらー


苑美は、洗濯機を回しながら、ちょっと落ち込んだが、すぐに頭を横に振った。


「違うわ…
相手が、誰でもいい訳じゃないもの」


苑美は呟いた。
肉体(からだ)と心は別だと言う人もいる。
特に男は、欲望だけで女を抱けるという事も、知っている。

肉体(からだ)の構造が、そうなっているのだから、それはそれで仕方ないのだろう。
苑美には、心を伴わない交わりなど、考えられないけれど。

水瀬にしたところで、ソニアを失ってから、清い人生を送ってきた訳ではあるまい。
そう考えて、苑美は顔をしかめた。

ましてや、水瀬は、人並み外れた容姿の持ち主だ
女が放っておく筈がない。
だが、水瀬が容姿(それ)を使って、性を享楽していたとは、到底思えない。

苑美は、初めて会った頃に感じた、水瀬の救いようのない、暗い翳りを思った。
結局、他の女は誰一人、水瀬の心の隙間を、埋められなかったのだ。


私はー?
私は、あの人の心に開いた隙間を、埋められるのー?
ソニアさんが持っていってしまった、あの人の心を、本当に取り戻せるのー?


苑美は、指を組んで目を伏せた。


解らないー
でも、離れるのは嫌ー!
少なくとも、今までの女(ひと)達より、私は必要とされているもの。


洗濯が終わったアラームの音に、苑美は我に返った。
慌てて、洗濯物を取り出すと、自分の洗濯物を放り込んで、スイッチを入れる。


ベランダに干すのは、マズイわよねー


明らかに男物の、水瀬の衣服を見ながら、苑美は思った。
それに、香織が来たり、転た寝をしたりしている内に、時刻は夕方にさしかかっている。
陽が翳り始めている。

洗濯物を室内に干しながら、苑美の手は、また水瀬の下着で止まった。


や、やっぱり…抵抗あるわ…


誰も見ていないのに、苑美は赤面しながらコソコソと、部屋の隅に、水瀬の下着を干した。

水瀬はトランクス派のようだ。
何の変てつもない、無地の薄いグレーのトランクス。
水瀬は、やはりシンプルなものを好むらしい。


ブリーフでなくてよかったー
あっちだったら、もっと生々しい感じで、恥ずかしいものー


苑美は、そんな事を考えながら、やっと水瀬の下着を干した。
暑い陽気でもないのに、グッショリ汗をかいている。


もう、バカみたい。
水瀬さんが見てたら、呆れるわよねー


水瀬はともかく、香織が知ったら、大笑いするのは間違いないだろう。

『だから、ネンネちゃんなのよ!』

高笑いする、香織の声が 聞こえてきそうだ。


もう〜今日はロクな方に、考えがいかないわ!


ゲッソリしながら、自分の洗濯物も干し終わる頃には、辺りには黄昏が迫っていた。

第六十六話



水瀬さんは、洗濯とか、自分でしてるのかしら?


干した洗濯物を、何とはなしに眺めながら、苑美は考えるともなく考えた。

水瀬が、自分の下着を干しているところが、頭に浮かんで、苑美は何だか可笑しくなった。

そうなら、面白い気もするけれど、違うような気もする。
水瀬には、妙に生活感がない。
普通に食べたり飲んだり、トイレに行ったり歯を磨いたりという、人間なら当たり前の、ありふれた日常の姿が想像できない。

もう何度も、肌を重ねているというのに、おかしな話だ。
重ねられた肌は、冷めた外見とは裏腹に、いつも火のように熱い。
確かに生身の、熱い肉体(からだ)ー

苑美は、水瀬の肌の熱さを思い出して、頬を染めた。

何にも執着しないような、水瀬の冷ややかな瞳(め)が、生活感を感じさせないのかもしれない。
何かを諦めたような、冴え冴えとした空虚さがー


そんな人が、私なんかに固執するのは、何故だろうー


嬉しいと同時に、不思議でたまらない。
苑美は、溜め息を吐いて、頭を振った。

この仕草は、今日で何度目だろう。
水瀬と関わるようになってから、考えに耽ったり、溜め息の数が、以前の何倍にも増えた。


「昔はものを思わざりけりーか」


苑美は呟いた。
確か、百人一首か何かにあった句だ。
恋をしている今に比べたら、以前は何と物思いのなかった事かーというような、意味だったろうか?


上手い事を言ったものだわー


時代は変わっても、恋愛の本質は変わらないという事だろうか。
句(うた)の通り、とりとめない考えに耽っていた苑美は、いつの間にか、すっかり暗くなっているのに気付いて、電気を点けた。


夕飯、どうしようー


苑美は、チラとケータイに目を走らせた。
水瀬からの連絡は、何もない。


戻るって言ったわよねー


苑美は、何だか心細くて仕方ない。
不可解な夢を、見たせいかもしれない。
今は唯、あの力強い腕にしっかり抱きしめられたかった。

水瀬は、端正な容貌(かお)をしている。
見た者の目を奪う、美貌と言っても過言ではない。

といって、決して女性的な美貌ではない。
中性的でもない。
ひ弱な感じや、なよなよしたところは、全くなかった。

長身の身体は、均整が取れて、スラリとして姿がいい。
細身で引き締まった身体は、肩幅も広く、腕も胸も、ガッシリと力強い。
俗に言う、細マッチョというものだろうか。

たとえ、容姿が数段落ちても、あの腕の中の心地よさは、変わらないだろうーと、苑美は思った。


返って、もっと見劣りする容姿の方が、女関係でヤキモキしないでいいかもー


苑美は、心密かに考える。

第六十七話



でも…
やっぱり、あの素晴らしい容姿をなくすのは、勿体無いわね…


そんな風に考えている自分に気付いて、苑美は顔をしかめた。


ヤダ…
私ったら、人間は容貌(かお)じゃないわ!
香織のイケメン好きが、移ったのかしら


苑美は、容貌(かお)さえよければいいなどと、思った事はない。
心惹かれた水瀬が、たまたま、素晴らしい容姿だっただけだ。

それも、容貌(かお)に惹かれた訳ではない。
全くないと言えば、嘘になるが、苑美の心を捉えて離さなかったのは、水瀬の暗く翳った瞳だった。

とはいえ、苑美も人間だ。
見るだけなら、美しいもの、カッコいいと思うものがいいに決まっている。

TVなどで見る芸能人が、魅力的なのは、内面と深く関わらないからだと、苑美は思う。


もしかしたら、イケメンで人気のM・Hとか、DV男だったなんて、なきにしもあらずよねー


時刻を知らせる、音楽を耳に止めて、苑美はハッとした。
あちこち、考えを巡らせる内に、知らぬ内に時間が過ぎたらしい。


ヤダ、もう6時?!


今日はよくよく、考えが脱線する日のようだ。
水瀬の事で、悩んでいるだけより、マシかもしれないが。


この時間だと、夕飯は済ませてくるかしらー
とりあえず、買い出しにだけ、行っておこうかなー


自分で食べるだけなら、レトルトでも冷凍食品でも、何でも構わない。
今度は、ケータイを持ってさえいれば、連絡が取れる。

苑美は、ケータイをギュッと握りしめて、バッグを手に取った。



全く、何て事だ!


水瀬は、舌打ちした。
もう、夕方になっている。
手越は、人の都合など、欠片も考えない。
他人は、自分に従うものだと、思い込んでいる。

待ち合わせの時間に、一時間近く遅れた上、一緒の昼食に無駄に時間をかけ、更に水瀬に、絵画展の打ち上げパーティーを付き合わせた。

きらびやかな、虚飾の世界には、水瀬は全く興味がない。
元々、好きではない上に、前世で、その裏の腐食した世界を、嫌という程見せられた。

名の売れた画家と知り合いになるのは、今後の為にもいい事だとは思うが、それで手越に、恩を着せられてはたまらない。


昼食の席でも、しつこく、娘の肖像画の件をもちだすしー
高級料理だか何だか知らないが、全く食べた気がしなかったー


水瀬は溜め息を吐いた。
さっき漸く、引き留める手越を振り切った水瀬は、駐車場に向かっていた。

手越の娘ー真梨恵は、美貌で名の知れた令嬢だ。
真紅の薔薇のような、派手で華やかで、鮮やかな美しさー

水瀬の容姿を目に止めて、父親に何かと頼んでいるらしい。
水瀬に野心があれば、逆玉に飛び付いているところだろう。

生憎、水瀬はそんなものに興味はない。
何より、真梨恵自身が嫌いだった。
父親そっくりな、傲慢さ、身勝手さが、美貌の後ろに見え隠れする。

更に、その裏に父親をも凌駕する、冷酷さと残忍さが揺らめいているー

第六十八話



あんな瞳(め)をした人間は、前世(まえ)に、幾人も見てきたー
自分の為なら、何でもできるタイプの人間ー
そう、人殺しでもー

前世(まえ)の経験が、水瀬に警告する。
あの女は危険だ、近付くなとー
鮮やかな真紅の花の下に、隠された鋭い棘は、引き裂き傷付ける力だけでなく、毒をも含んでいるかもしれないー

それだけではなく、皆が絶賛する、真紅の薔薇のような美貌が、水瀬は嫌いだった。

真紅の薔薇ー
血の色を思わせる、真っ赤な薔薇ー
真梨恵が近付くだけで、血の匂いに、むせかえるような気がする。
あのとき、愛しい女を染めた、真っ赤な血汐に立て込めた匂いと同じー

水瀬は、慌てて幻影を振り払った。
急ぎ足で、漸く車まで辿り着くと、水瀬は運転席に乗り込んだ。

シートにもたれて、大きく息を吸い、水瀬は目を閉じた。


今日は二回目だー
血の色の薔薇に誘発されて、また悪夢に襲われそうになるとはー


水瀬は、吐き気を何とか抑えた。


あれは悪夢だー
もう、前世(かこ)の夢に過ぎない
現実(いま)は、苑美がいるー
『彼女』は、俺の傍にいる。


水瀬は、気を落ち着かせた。
目を開けると、車のエンジンをかける。
車は、滑るように駐車場から出た。


早く、苑美に逢いたいー
逢って、思いきり抱きしめたい。
生きている証の、温かい体温を、直にこの肌で感じたいー!


水瀬は、アクセルを踏み込んだ。

苑美のアパートに着いたときには、もう夕方の6時をとうに過ぎていた。
車から降り、苑美の部屋を見上げて、水瀬は眉をひそめた。
灯りが点いていない。
胸に、軽い失望感を覚える。


買い物にでも行ったのだろうか?
一言、連絡をくれればいいのにー


そう考えて、水瀬は自分が、苑美に何の連絡も入れていない事に、初めて気が付いた。
手越に引っ張り回されて、連絡している余裕がなかったし、悪夢に気を取られて、すっかり忘れていた。

どうしようか、思案したが、水瀬は昨日借りて、上着に入れたままの、部屋の鍵を思い出した。


暫く待っていれば、帰って来るだろうー


苑美の部屋に入ると、水瀬は、ソファーに身を静めた。
溜め息が、口を吐いて漏れる。
やっと解放された、安堵の溜め息だった。


とりあえず、苑美にメールを送る。
本当は、迎えに行きたいところだが、グッと堪えた。

手越と悪夢のお陰で、疲労困憊している。
今、苑美に逢ったら、人目を無視して、抱きしめてしまいそうだった。

同じアパートの住人にでも見られたら、噂の標的にされるだろう。
困るのは苑美だ。
それでなくても、消極的で引っ込み思案の苑美を、矢面に立たせたくはなかった。


ソニアなら、平気だったろうなー


苑美には言えないが、水瀬はつい、ソニアと比較してしまう。
だから、どうという事はない。
余りにソニアと違うので、比べてみてしまうだけだ。

第六十九話



返って、水瀬には、その違いが面白かった。
苑美の言動は、新鮮な驚きに満ちている。
それでいて水瀬には、ソニアとの違和感を感じない。


あれは『彼女』だ。
それに、間違いはないー


水瀬の顔に、笑みが浮かんだ。
ふと、部屋の隅に干してある、洗濯物が目に留まる。
自分のシャツとズボン、それからー
一番奥に、目立たぬようにコッソリと、下着が干してあった。


ああ、昨日、濡れた服を、脱いだままだったー


まだ湿っぽい自分の下着を手に取って、水瀬はクスリと笑った。


どんな表情(かお)して、干したのかなー


苑美は、男の下着など免疫がない筈だ。
恥ずかしがり屋の苑美が、赤面しながら、下着を干している姿が目に浮かんで、水瀬の頬に微笑が上ってくる。

たぶん、目に付かない場所に干したかったのだろうが、狭いアパートの室内では無理な事だ。

水瀬は、再びソファーに身を沈めると、伸びをした。
苑美の部屋は、心地いい空気に満ちている。
精神的にも肉体的にも、疲れていた水瀬は、ウトウトし始めた。

苑美は、スーパーで買い物を終え、帰路に付くところだった。
歩きながら、ケータイのチェックをしようと取り出すと、着信サインが出ている。

ドキリとして、慌てて開くと、案の定水瀬からだった。


部屋で待っている。


何て、簡潔な文章なのー


物事に執着しないらしい、水瀬らしいといえば、水瀬らしいメールに、苑美は笑ってしまいそうになった。


笑ってる場合じゃないわ!
早く帰らなきゃ!


スーパーからアパートまで、歩いて15分近くかかる。


ちょっと遠いけど、品揃えのいいスーパーに来たのは、失敗だったかしらー


そう思いながら、苑美は両手に荷物を下げて、走り出した。
夕方のスーパーは、かなりの人出で賑わっている。

買い物帰りの人が、荷物を下げて走っていく、苑美の後ろ姿を、ちょっと驚いたように見送っている。

10分後、苑美は息を弾ませて、アパートに辿り着いた。


車があると、やっぱり便利よねー


一応、免許は持っているものの、苑美には、事故を起こしそうな強迫観念があって、運転が怖かった。
それに、費用ー
車の購入費用、車検、保険ー

親には、必要以上頼るのは嫌だった。
かといって、学生の自分が、出せる金額ではない。


『普通の親なら、気にかけるもんなのにねえ』


いつか、香織が言った言葉が、頭をよぎる。


あの人達が、私の事なんか、気にかける筈ないわー


ちょっと、苦い思いが胸に広がるが、とうに、あきらめている事だった。
そういえば、水瀬の家族はどうなのだろう?と、ふと苑美は思った。

水瀬は、あの家で一人暮らしのようだー
家族はいないのだろうか?

足に、冷たい感覚が走って、苑美は我に返った。
冷凍食品を入れたスーパーの袋が、足に触れている。

第七十話



いけない、早くしまわなきゃ、冷凍品が溶けちゃう!


苑美は、慌てて階段を駆け上がった。
苑美の来た道からは、部屋の玄関側しか見えない。
部屋に灯りが点いているかどうかは、見えなかった。

急いで鍵を開けて、中に入ると、部屋に灯りは点いていた。
ホッとしてリビングに入ると、水瀬はソファーにもたれて眠っていた。


ヤダ、さっきの私と同じー


何だか、苑美は可笑しくなる。


疲れてるのかしらー
会いたくない人だったみたいだしー


出掛ける前の、水瀬の憂鬱そうな表情(かお)を思い出す。
苑美も、友人の相手で、あれだけ疲れたのだから、苦手な人間の相手は、さぞ疲れただろう。

最も、香織のパワフルさは桁外れで、よく知っている筈の苑美も、グッタリ消耗してしまうのだが。

苑美は、起こさないよう、そっと水瀬に上着をかけた。
音を立てないよう、気を付けながら、買ってきたものを、冷蔵庫にしまう。
しまい終わって、時計を見ると、7時を少し回ったところだった。


夕飯、食べたのかしら?


水瀬が眠っている、ソファーの向かいの椅子に、ちょこんと座って、苑美は考えた。

水瀬が部屋に来たのが、もう少し前として、車を走らせた時間など考えると、食事を済ませるには、中途半端な時間帯だ。


きっとまだだわー
どうしよう、何か作るにも材料がー


買い込んできたものは、ほとんどレトルトか、冷凍食品だ。


ちゃんと、作る材料買ってくればよかったー
でも、料理始めても、音や匂いで、起こしちゃうだろうし…どうしよう?


頬杖を突いて、水瀬の寝顔を見ながら、苑美は迷った。


それにしても、やっぱり美形(キレイ)…


長い睫毛が伏せられた、端正な水瀬の寝顔が、灯りの下に、惜し気もなく晒されている。

起きているときには、感じさせない、危うい脆さや弱さのようなものが、かいまみえて、苑美は何だか、胸が締め付けられる思いがした。

自分の前で、無防備な姿を見せてくれる事が、嬉しかった。


でもー
こんな姿、何人に見せたのかしらー


見も知らぬ女達への、いわれのない嫉妬が、また沸き上がる。


私もあの女性(ひと)のように、美しく生まれたかったー
そうしたら、こんなに他の女(ひと)を、気にせずに済むだろうにー


苑美は、溜め息を吐いた。
脳裡に、花のようなソニアの面影がよぎる。

ソニアー
彼女の事を思い出すと同時に、先刻の不可思議な夢を思い出す。
あの夢は、どういう意味なのかー

潜在意識にあるものが、夢に出てくると、聞いた事がある。


でも、私あんな男性(ひと)、全然知らないわ…


第一、今、気が付いた事だが、着ていた衣装は、現代(いま)のものではない。


映画なんかで、よく見るような衣装だったわー
そう、中世とかの…お姫様が着るような、長いドレスー

第七十一話



前に映画ででも、見たのかしら?
中世のお姫様のラブストーリーとかのー
あんまり、ソニアさんを気にしてたから、それとないまぜになって、あんな夢をー?


一応、筋は通るけれど、何だか苑美は、納得いかなかった。


ソニアさんの恋人ー
そう、セオと呼ばれてたー


長い黒髪が美しい、印象的な美形だった。
クールで近寄り難い雰囲気は、水瀬と似通った印象を与える。
黒水晶を思わせる、不可思議な瞳ー

知っている映画俳優や芸能人を、思い浮かべても、似た顔は見当たらない。
苑美は、匙を投げた。


強いて言えば、水瀬さんに、一番似てたみたいー


苑美は、水瀬の側に寄ると、上から顔を覗き込んで、マジマジと眺めた。


「う…ん」


気配を察したのか、水瀬が目を開けた。
黒曜石のような瞳(め)と、苑美の瞳(め)が、パチッと合った。

うろたえて、思わず身を引こうとした苑美を、水瀬は引き寄せて、しっかり抱きしめた。


腕の中の確かな温もりー
ああ、『彼女』のー苑美の確かに生きている証しだー
今日は、ずっとこうしたくてたまらなかったー


気の進まない一方的な約束は、憂鬱でしかなかった。
その上、いつもの悪夢に見舞われて、水瀬は精神的に、かなり参っていた

こうして、苑美を抱きしめていると、水瀬に巣食っている不安や恐れといった負の感情が、まるで溶けるように消えていく。

いきなり抱きしめられて、苑美は焦って慌てたが、水瀬にしっかり抱きしめられているので、身動きもままならない。
心臓が、ドキドキいっている。


わ、私、汗臭くないかしらー
さっき、急いで走ったからー
でもー


苑美は目を閉じて、水瀬の胸に身を預けた。


何て心地いいのかしらー
この腕の中では、何の心配も要らないー
何だろうー
とても気持ちのいい匂いがするー


暫くして、やっと気持ちが落ち着いたのか、水瀬は、抱きしめていた腕を緩めた。
身体を動かす際、水瀬はちょっと、顔をしかめる。

気持ちが穏やかになるのに、反比例するように、肉体(からだ)の一部が、昂ぶってきている。
苑美の傍にいると、肉体が勝手に反応してしまう。


参ったなー
苑美の前だと、十代の盛りのついた少年(こども)みたいに、自制が効かないー


この場で、苑美を押し倒して、中に挿入(はい)りたいー
どんどん膨れ上がる欲望を、水瀬は目を閉じて、無理矢理抑え込んだ。


ダメだ、無理強いはー
俺は一度、失敗している。
苑美の心も肉体(からだ)も、酷く傷付けてー
取り返しのつかない事態を、招くところだった。


「水瀬さん…あの…食事は?」


自分を抱きしめている腕が緩んだので、苑美は水瀬を見上げて、おずおずと聞いた。


「え?ああー」


時計を見ると、とっくに夕飯の時刻など過ぎている。
最も、水瀬は職業柄、かなり不規則な生活なので、気にならなかった。

第七十二話



食事なんかより、お前を食べたいーなんて言ったら、また真っ赤になるんだろうなー


実際、水瀬はすぐにでも、そうしたい気分だったが、何とか理性を取り戻した。

苑美は、自分より体力がない。
ソニアと比べても、華奢で繊細だ。
ちゃんと食べないと、肉体(からだ)がもたないー


何だか、身も蓋もない考えだなー
俺には体力と性欲しかないみたいじゃないか。


水瀬は、人差し指で眉間を押さえた。
だが、実際問題、苑美には、水瀬程の体力がないのだから、仕方がない。

そして、水瀬の苑美に対する情欲が、際限ない事が、苑美の体力を奪う一番の原因だった。
解っていながら、抑制のできない自分に、水瀬は渋い顔になる。


「水瀬さん?」


水瀬が黙ったままので、苑美が、ちょっと不安そうに水瀬を見上げる。


「ああ、いやーそうだなー
何か食べた方が、いいかもしれない」


特に、お前はー
と、水瀬は心の中で付け加えた。
苑美は、困ったようにモジモジしながら、水瀬に言った。


「でもーろくなものがないの。
ごめんなさい、連絡が遅かったから、ちゃんとしたもの買ってなくてー」


水瀬の口元に、笑みが上る。
そんな事を気にして、小さくなっている苑美が可愛い。

そんな苑美を、目の当たりにして、水瀬のズボンの股間は、ますますキツくなってくる。
水瀬は、心の中で自分を罵りながら、表面上はさりげなく答えた。


「食べられれば、何でも構わないさ。
何かはあるんだろう?」


水瀬は普段から、余り食に対する拘りがない。
口に入れば、何でもいい傾向がある。
今のような状況では、尚更、食べるものなど何でもよかった。


「でも…あるのは、レトルトとか冷凍食品ばっかりよ」


水瀬は、上の空で、適当に答える。


「ああ…別に構わない。
特に好き嫌いはないし」


水瀬さんて…外見(みかけ)と違うというか、ピッタリというか…


苑美は、半ば呆れたような、感心したような気分で、食事の仕度にかかる。

水瀬の外見からは、レトルトや冷凍食品を食べるイメージは、一切ない。
優雅に、フランス料理でも食べる姿が似合っている。

その反面、生活感を感じさせない水瀬は、霞でも食べて生きているのかと、思わせる雰囲気があった。


どっちにしても、料理するイメージは、全くないわねー


水瀬の思惑など、全く伝わっていない苑美は、呑気なものだ。
在り合わせの野菜で、サラダを作ると、苑美は冷凍ピラフをレンジに入れた。


「こんなものしかないけど…」


苑美はおずおずと、皿に移したピラフとサラダを、食卓に出して、水瀬を上目遣いに見た。


どこかの手抜き主婦みたい…
みすぼらし過ぎる…


こんなものが、初めて水瀬に振る舞う食事かと思うと、苑美はテンションが下がったが、水瀬は全く意に介していないようだ。

第七十三話



何の抵抗もなく、レンジでチンしたピラフを、口に運ぶ。
水瀬が食べていると、特売の冷凍食品も、高級料理に見える。


何やっても、様になる人っているのねー


自分も、ピラフを口に運びながら、苑美はマジマジと、水瀬を眺めながら思った。
スプーンを口に運ぶ仕種も、長い形のいい指も、見とれる程美しい。

自分が食べている姿は、どう見ても、安売りの特売品にしか見えないだろうなと、苑美は心の中で呟いた。


「うん、美味いよ」


水瀬が、苑美に微笑んだ。
苑美は、どぎまぎして顔を赤らめる。


「…私は唯、レンジに入れただけよ。
誰がやっても、同じ味になるわ」


こんなものを誉められたら、返って恥ずかしい。
だが、水瀬はサラリと言ってのける。


「お前が作ったから、美味いんだ」


苑美は、真っ赤になって、スプーンを握りしめた。
割り箸だったら、折れていたかもしれない。

水瀬は、本心から言っているようだ。
当たり前の事を言ったような表情(かお)で、平然と食事を続けている。


何で、そんな事を真顔で言えちゃうのよー
だいたい、“作って”ないってば。


苑美は、レンジで温めた料理を、“作った”などと言える程、心臓が強くない。
香織なら、堂々と言えるかもしれないが。


「水瀬さんて、いつも食事どうしてるの?」


苑美は、気になった事を聞いてみた。


「食べに行く事が多いかな。
後はテイクアウトとかー」


苑美の思った通り、自分では作らないようだ。
どうも、食に関心の薄そうな水瀬に、苑美は心配になった。


三食、ちゃんと食べてるのかしらー


誰かに作ってもらったりしないのだろうか?
水瀬なら、自分から言わなくても、候補者は引く手あまただろうに。
苑美は、思い切って聞いてみた。


「誰かに作ってもらったりしないの?」


水瀬は、渋い顔をした。
確かに、食事を作ってあげるとか、見え透いた手口で、家に来たがる女は、いくらでもいた。
そういう女達は、皆一様にしつこくて、水瀬は辟易させられた。

水瀬には、要らぬ世話で、疎ましいだけだった。
そんな下心満載の女達に、家を知られたら最後、夜となく昼となく、押し掛けてくるに違いない。

元々、人付き合いの苦手な水瀬は、ごく限られた人間にしか、住所を教えていない。
ましてや、容貌(かお)目当ての女達に、家の場所を教える気など、毛頭ない。

自分の家を、自由に出入りしていい人間ー
水瀬にとって、そんな存在になれるのは、『彼女』しかいない。
その『彼女』ーソニアの生まれ変わりである苑美は、今、目の前にいる。


え?
わ、私、何か変な事言った?


水瀬が黙ったまま、苑美を見つめているので、苑美は、何だか落ち着かなくて、モジモジした。

第七十四話



やがて、水瀬は口を開いた。


「ーあの家には、女は誰も入れた事はない。」


水瀬は、また不可思議な色を瞳(め)に湛えて、吸い取るような眼差しで、苑美を見ている。
この瞳(め)で見られると、苑美はいつも、胸が締め付けられる思いがする。


「家(あそこ)には、特別な人間しか入れない。
まして、容貌(かお)しか興味のない女なんて、もっての他だ」


苑美の心臓の鼓動が、大きくなる。


それって…私が“特別”って事?


水瀬には、ハッキリ愛の告白までされていて、特別でない訳がないのだが、自分を過小評価してしまう癖のある苑美は、ついそう考えてしまった。

水瀬を信じていない訳ではない。
自分にそんな価値があるとは、信じられないのだ。

勘のいい水瀬は、そんな苑美の心中を、感じ取ったらしく、憮然とした表情(かお)になった。
ほとんど空になった皿の上に、カチャンとスプーンが置かれる。


「俺の言う事を、信用してないみたいだな」


苑美は、慌てて否定しようとした。


「そっ、そうじゃないわ!
唯ー」


上手く、言葉が続かない。


「唯ー何だ?」


水瀬は、苑美の言葉尻を、オウム返しに繰り返し、続きを促した。


「唯…あの…私なんかが、傍にいていい存在なのかって…何だか不安で…」


水瀬に、誤魔化しは効きそうにない。
胸にわだかまっているものを、吐き出した方が、自分もスッキリするかもしれない。

そう思った苑美は、つっかえながらも、水瀬に説明しようと試みた。


「えっと、そのぅ…だから私じゃ、水瀬さんに相応しくないって…」


水瀬は、眉をひそめた。


「何が相応しくないんだ?」


水瀬の面白くなさそうな様子に、苑美は、しどろもどろになる。


「だから、その…容姿とか…」


水瀬は、眉間にシワを寄せて、吐き出すように言い切った。


「バカバカしい。
相応しいかどうかなんて、自分で決める」


溜め息を吐きながら、水瀬は続けた。


「第一、相応しいって何がだ?
俺は大富豪でも、貴族でもない。
容姿なんて皮一枚じゃないか。」


容姿(それ)が、ズバ抜けてるから、問題なんじゃないのー


「だって…私はキレイじゃないもの…」


苑美は、小さな声で呟いた。


「何だって?」


水瀬は、呆れて言葉が出てこなかったが、苑美が、涙をポロリとこぼすのを見て、立ち上がった。。
苑美の顔を、自分に向かせて覗き込む。


「お前は綺麗だよ。
解ってないのか?」


苑美は、おずおずと微笑んだ。
どうやら、本気にしていないらしい。
水瀬は、心の中で溜め息を吐く。
一方で、苑美に触れた事で、抑えていた欲望は、急激に昂まりを見せる。

第七十五話



「ー証明してやろう」


水瀬が、欲望に掠れた声で言った。


「え?」


意味が解らなくて、キョトンとする苑美を抱き上げて、水瀬は寝室へ運んだ。


「あ…あの…っ、水瀬…」


ベッドに降ろされて、慌てる苑美の唇を、水瀬の唇が塞ぐ。


「ん…っ!」


舌が甘く絡む。
貪るように舌が絡み合い、苑美は頭の芯が熱くなり、溶けてしまいそうだった。


「…っは…ぁっ」


やっと唇が離されたとき、既に苑美の息は上がっていた。


「今日はずっと、お前とこうする事ばかり、考えていたよー」


水瀬は唇を滑らせた。
耳の後ろを、舌で愛撫すると、苑美が肉体(からだ)を震わせた。


「あっ…!
水瀬さん…っっ」


水瀬が、耳元で低く囁いた。


「静生、だー」


苑美は息を弾ませながら、水瀬を見上げた。


「しず…き…?」


水瀬が、微笑を浮かべる。


「ーそうだ」


ブラウスの上から、胸をまさぐられて、苑美が肉体(からだ)を、ビクンと反応させた。


「ま…待って…!
まだ、後片付けが…」


苑美は、水瀬の胸を押し戻そうとした。


「そんなもの、後でいい」


水瀬は、苑美の肩を押さえて、首筋に舌を這わせる。


「あ…ん…っ!
ダ…ダメッ、シャワーを…私…」


さっき走って汗かいたからーと言おうとした唇を、水瀬は再び塞いだ。


「ん…ふっ…」


濃厚なキスがもたらす快楽に、苑美の思考力が奪われる。

唇を離すと水瀬は、苑美の手を、欲情して硬く張り詰めた自分自身に、ズボン越しに触れさせた。
苑美の身体が、ビクッと固まった。
みるみる、顔が赤く染まる。


「これが証明だ。
わかるか?」


水瀬の瞳(め)は、抑えきれない欲望に、暗くけぶっている。


「お前が欲しくて欲しくて、こんなになってるー
もう、これ以上待てないー
シャワーの時間なんて、待ってられないんだよ、苑美ー」


苑美が触れている水瀬の欲望の証しは、熱く脈打ち、今にも爆発しそうで、怖い位硬く大きく張り詰めている。


私…のせいで…こんなになってるの…?


肉体(からだ)は、羞恥心に震えながらも、奥底から熱くなり、心はこれ程に、求められる喜びに震える。

今、触れている水瀬自身が、いつも自分の中に埋められ、気が遠くなる程の、強烈な快楽をもたらすのだ。

水瀬の欲望を煽り立て募らせて、水瀬自身に、こんな反応をさせているのが、自分だとは信じられない。
自分にそんな魅力(ちから)があるなんてー

じっくり考えている余裕はなかった。
水瀬は性急に、苑美の肉体(からだ)をまさぐる。


「あ、あぁっあ!」


苑美が甘い声を上げる。
息が乱れ、花芯が蜜で、熱く潤うのが解った。

第七十六話



「くそっ…!
ダメだ…我慢…できない」


水瀬が呟いた。
既に息が乱れている。
今日は、いつにも増して、自分に余裕がない。
苑美の前では、いつもなのだが、今夜は特に我慢が効かなかった。

傲慢な手越の言動は、心身共に、水瀬を疲れさせた。
更に、一度ならず二度も、悪夢の迷宮に呑み込まれそうになり、水瀬の疲労は限界近くに達していた。

ソニアの血の色が、目の前にちらついて、離れないー

苑美の柔らかな肉に、早く、自分を深く埋めたかった。
熱く濡れる花芯を貫き、何もかも忘れて、歓びに震えたいー
自分の中に巣食う闇を、苑美だけが打ち払える。水瀬の気は、逸るばかりだ。

水瀬は、苑美の下着の中に、手を滑らせた。
苑美が、ビクンと肉体(からだ)を震わせる。


「あっ!…や…っ」


苑美の花芯は、既に熱く潤っている。


「濡れてるよ、苑美?
ほとんど触れてないのに」


水瀬が、口元を上げて、笑みを作った。


「嫌っ!だって…」


苑美の顔が紅潮した。
全身が、羞恥で熱くなる。


それは、あなたが触れたからー!


水瀬に触れられただけで、肉体(からだ)が熱くなる。
水瀬が、技術(テクニック)に長けているからだけではない。

触れられただけで、胸の奥までも、熱くなるようだ。
水瀬と繋がる事が、単なる肉の交わりなどではない事を、肉体(からだ)も、教えてくれるようだ。


「これだけ濡れていれば、大丈夫だろう」


水瀬は呟くと、もどかしそうにズボンのファスナーを降ろし、押し込めていた自分自身を、解放した。
苑美の下着を剥ぎ取るように脱がせ、一気に身を沈める。


「ああーっっ!!」


衝撃に近い快感が、苑美を襲う。
十分に潤っていた、苑美の花芯は、膨張した水瀬自身を、易々と奥まで呑み込んだ。


「ん…っ!…は…あっ…」


苑美に、自分自身を深く埋めたとき、水瀬は恍惚感に、全身を包まれた。
余りの快感に、声が漏れる。
苑美の中は熱く、水瀬の全てを包み込んだ。

水瀬が上げた声は、余りに官能的で艶めいていて、苑美をドキリとさせた。


いつも、こんな声を上げているの…?
私が、この声を上げさせたの…?


初めて聞く、水瀬の快楽の声ー
いつもは、快感に混沌としたまま、何も解らない状態で、水瀬の楔は打ち込まれる。

与えられる快楽に、苑美は翻弄されて、水瀬が、快感を得ているかどうかなど、確かめる余裕などありはしない。

今回、いきなり与えられた快感に、肉体(からだ)は、あっという間に、水瀬を受け入れたが、まだ頭はハッキリしていて、考える余裕(ちから)は残されていた。

だが、それも束の間、苑美の肉体(からだ)は、すぐに絶頂へ押し上げられ、同時に頭も白濁し、考える余裕を失った。

第七十七話



「ああ…いい…
何てイイ…んだ…苑美…!」


苑美の中は熱く柔らかく、水瀬自身を包み込み締め付ける。
余りの快感に、水瀬はたまらず、呻くような声になる。

苑美の熱い肉体(からだ)は、、その存在の確かさを、水瀬に教えてくれる。
探し求めたものが、今、現実(ここ)にあるとー

快感に震える肉体(からだ)、自分を抱きしめる腕の感触、悦楽に喘ぐ声ー
その確かな存在の証しの全てが、水瀬を深く安堵させ、更に情欲をかきたてる。

水瀬は、強引と言える程の動きで、苑美を責め立てた。
ベッドがギシギシ軋む。
その上で、苑美の肉体(からだ)も、激しく揺れた。


「や…そ、そんなに…激し…っ!
あ、あ、あっーっ!」


水瀬の激しい動きに、苑美はあっという間に、絶頂に達した。


「くぅっ…!」


同時に、水瀬も果てた。
熱い精を放ち、恍惚に身を浸す。
水瀬は、苑美の上に崩れ落ちると、目を閉じて息が喘がせた。

悦楽の波が、満ち潮のように自分を満たすままに任せ、引き潮のように引いていくのを待つ。

暫くして、自分を取り戻し、身を起こした水瀬の息は、まだ乱れている。
水瀬は、大きく息を吸って吐いた。


「ふ…うっ」


吐息のような息を吐き出しながら、水瀬は全身に生気がみなぎるのを感じた。
苑美と肉体(からだ)を繋ぐ度に、生き返ったような気分になる。

心の闇も、緋色に染まる悪夢の迷宮も、遠く退ける輝く光ー
傍らで横たわり、まだ快楽の余韻の只中の苑美は、水瀬にとって、自分がそんな存在である事を、露程も知らない。

悦楽の名残に、苑美の頬や肌は桜色に染まっている。
そんな苑美の姿を見ていると、また欲望が湧いてきて、水瀬は顔をしかめた。


ホントに、盛りのついた動物か、俺はー
いや、動物の方が、まだ種の保存本能だという、正当な理由があるぞー


水瀬は、自分に毒づいた。
気が付くと、二人とも衣服を着けたままだ。
服を脱ぐ間も惜しい程、焦っていたのかと思うと、水瀬は自分が可笑しくなった。


こんなに自分を見失ったのは、最初に苑美を抱いたとき以来だー


水瀬は、思わず拳を握りしめた。
あのときの事を思い出すと、未だに自責の念が、胸を刺す。
水瀬は頭を振った。

もう、あのときとは違う。
『彼女』の記憶は、戻ってはいないけれど、自分を許して、受け入れてくれたー
今は、それだけで構わない。


いやー


水瀬は、ふと考える。
『彼女』にとって、前世の記憶を取り戻す事は、本当にいい事なのだろうか?

水瀬にとって、ソニアと過ごした日々は、宝石のように煌めき輝いた日々だった。
だがそれは同時に、未だ消えない悪夢をも残したー

血に染まる過去の亡霊(ソニア)は、迷宮に閉じ込めようと、水瀬を誘う。

いや、違う。
あれは、ソニアではない。
自分の負の念が、作り出した幻だ。

第七十七話



ソニアを救えなかった、自責の念ー
ソニアを失った絶望ー
ソニアを奪ったもの、全てに対する怒りー
水瀬の後悔や苦悩が、自分を囚える迷宮を、作り出してしまったのだ。

解っていても、水瀬自身にも、どうする事もできなかった。
水瀬が救われるには、ソニアー『彼女』を見つけ出すしかない。


そして、漸く俺は『彼女』と邂逅したー
『彼女』ー苑美が、俺を覚えていないと知ったときは、奈落の底に突き落とされた思いがしたがー


水瀬は、傍らで桃源郷を彷徨っている、苑美に目を遣った。


「永かったなー」


水瀬は呟いた。


漸く、ここまで辿り着いた。
今『彼女』は、俺の傍にいる。

手を伸ばせば、触れられる。
抱きしめて、肌の温もりを感じる事も、胸の鼓動を聞く事もできる。
笑顔を見て、笑い声を聞いてーそしてー

もう、『彼女』は俺を拒まない。


もうそれだけで、十分な気がした。
このまま、前世の記憶が戻らなくてもー

苑美と巡り逢ったとき、前世を覚えていない事に、あれ程絶望したのは、拒絶される恐れからだった。

苑美が、恋人同士だった前世を覚えていないなら、目の前にいる水瀬は、見知らぬ他人でしかない。
苑美である『彼女』は、今の自分を愛さないかもしれないー

その思いは、水瀬の魂(こころ)を凍り付かせ、精神の均衡を危うくさせ、愚かな暴挙に駆り立てた。


一歩間違えば、本当に『彼女』を失うところだったー


水瀬は、身震いした。
苑美の芯の強さがなければ、本当に、何もかも水泡に帰してしまっただろう。

苑美の可憐で儚げな容姿は、ふとした事で、すぐ枯れてしまいそうな、繊細な花に見える。
人に、守ってやらなければと、思わせるものがある。
だが、見かけのように、弱々しいだけの花ではない。
踏みにじられても、また花を咲かせる強さがある。
自然の厳しさにに耐えうる、野辺の花のようにー

苑美が、自分を許して受け入れてくれたのは、魂(こころ)のどこかで、前世の自分との絆を、感じていたからではないかー

水瀬はふと、そう思った。
だが、今はそれを確かめる術はない。
全ては苑美の、幾重にも閉ざされた、記憶の帳(とばり)の中に沈んでいるー


それならそれで、構わないー
現実(いま)、俺を愛してくれるのならー


水瀬の中で、苑美に無理に、前世(かこ)を思い出させたいと、切望する思いは薄れていた。

勿論、ソニアであったときの、自分との蜜月を思い出して、全ての思いを分かち合えたらーという思いはある。

だが、それは同時に、前世で自分が命を失ったときの事も、思い出すのを意味していた。

現在(いま)も、水瀬を苦しめ続ける、悪夢の場面(シーン)ー
差しのべられた、ソニアの指先から、滴り落ちる血の雫ー

水瀬は、思わず目を閉じた。


大丈夫、大丈夫だー
あれはもう、前世(かこ)の事だ。
『彼女』は、現実(ここ)にいるー!

第七十九話



水瀬は苑美を、しっかり腕に抱きしめた。
苑美の肌の温もりが、確かな心臓の鼓動が、柔らかな息遣いが、水瀬に伝わってくる。

波立ちそうになった気持ちが、穏やかに凪いでいく。
水瀬は、安堵の溜め息を漏らした。


「う…ん」


苑美が、腕の中で身動きして、瞳(め)を開けた。
水瀬と目が合って、今の状況を思い出したようだ。

頬を染めて、視線を落とした苑美は、自分の衣服の乱れに気付いた。
慌てて、捲れ上がったスカートを直そうとする手を、水瀬が押さえた。


「必要ない。
どうせ脱ぐんだから」


言いながら、苑美の服のボタンを外していく。


「あ…あのっ?
水瀬さん…」


水瀬は構わず、苑美の肌を露にしていき、首筋に口付けた。


「ー!」


苑美が、肉体(からだ)をビクンと反らせる。


「静生、だ」


水瀬の手が、苑美の肌を滑る。
苑美の息は、また乱れ始めた。


「さっきは、セーブする余裕がなかった。
今度はじっくりー」


いつの間にか、苑美の服は、すっかり脱がされている。
肌を這う水瀬の感覚に、苑美は甘く喘いだ。


「一度イッてるから、さっきよりもつだろう。
お前といると、抑えるのが大変だ」


水瀬の顔に刻まれた笑みは、面白がっているように見える。
苑美には、余裕の態度にしか思えない。


「そんな冷静な表情(かお)して、からかわないで…っ」


愛撫に我を忘れそうな苑美は、冷静な水瀬の姿に、つい涙ぐんで口走った。
翻弄されて、考える余裕もなく、熱くなっているのは、いつも自分だけー
自分だけが、空回りしているような虚しさが、胸をよぎる。

水瀬は、苑美の言葉に眉をひそめた。
苑美の手を取ると、さっきのように衣服越しに、水瀬自身に触れさせる。
苑美はビクッとして、身を固くした。

さっきも触れたとはいえ、そうそう慣れるものではない。
まして苑美は、経験が浅い上、恥ずかしがり屋なのだ。

水瀬のそれは、さっきと同じように、怖い位に硬く膨張して、ズボンを押し上げている。


「これが、冷静な状態か?
さっきも言っただろう。
お前といると、自制が効かない。
何度果てても、すぐ欲しくなる」


水瀬の声は、欲望に低く掠れている。

苑美は震える手で、水瀬自身に触れながら、目をつぶった。
熱でもあるように、顔が熱い。
怒張した水瀬自身も、やはり熱く脈打っている。


「解るだろう?
さっき達したばかりなのに、またこんなになってるー」


さっきも、そう言われたけど…本当に…私のせいで、こんなになってるの…?


自分に自信のない苑美は、水瀬の言葉を信じきれないでいたが、それでも胸がドキドキした。
だが、すぐに考える余裕はなくなった。


「あっ!」


露になった乳首を摘ままれ、苑美はのけぞった。
水瀬の愛撫は、更に激しさを増した。

第八十話



「さっきは余裕がなくて、ろくに触れてもいないからなー
今度は、心行くまでー」


水瀬は、微かに震えている胸をまさぐり、乳首を、口に含んで吸い立てた。
敏感な乳首は、あっという間に固く勃った。


「あっあ!
ど…して…」


肉体(からだ)を貫く快感に、身を震わせながら、苑美は何とか、言葉をかき集めようとした。


「んー?」


苑美の言葉を、耳に止めながらも、水瀬は愛撫の手を休めない。


「どうして…あ…んっ!
そんなに…なってるのに…
我慢する…っ!」


水瀬は、苑美の耳元に顔を寄せて、囁いた。


「俺だけ満足しても、意味がない。
お前を満足させないとー」


水瀬は、苑美の耳を軽く噛んだ。


「あぁ…っん」


苑美が、肉体(からだ)を反らせて、甘い声を上げる。


「そうだ、いい声だー
その声を聞くと、ゾクゾクするー」


水瀬は、口元を上げて、ニヤリとした。
苑美の官能的な声は、水瀬の情欲を煽り立てる。


俺の手で、存分に鳴かせたいー
これ以上ない位の快楽を味合わせて、絶頂を迎えさせたいー何度でも。

俺の腕の中以外で、こんな姿をさせるものか。
快感に鳴く声も、歓びに悶える姿も、恍惚の表情も、何一つ、俺以外の誰の目にも、触れさせないー!


「もっと鳴けよ。
俺の腕の中で、その可愛い声で、鳴いてくれー」


水瀬は、苑美の乳首に、カリリと歯を立てた。


「あうっ!やっあぁっ…っ!」


苑美が、ビクビクと肉体(からだ)を痙攣させる。


「そうだ。
いい声だーゾクゾクする。
たまらない」


水瀬は、固く勃った乳首を指で弄び、舌で嬲る。
更にまた、カリッと歯を立てると、苑美の肉体(からだ)は跳ねてのけぞった。


「ああ、ダメっっ!あ、ああぁ…」


ベッドに身を沈めて、苑美は息を喘がせた。


「イッたのか?
ホントに敏感なんだな、乳首(ここ)がー」


水瀬は、喉の奥でクックッと笑っている。
苑美は、自分の感じ易い肉体(からだ)が、淫乱だと言われているようにに思えて、羞恥に顔を火照らせた。


「嫌…っ!
それは、あなたが慣れてるからでしょう!
女の肉体(からだ)の、どこが感じるのか、知ってるからだわっ」


苑美はつい、前々から胸に引っ掛かっていた事を、口に出してしまった。
水瀬は、女の扱いに慣れている。

水瀬のような男を、女が放っておく筈がない。
慣れていて、当たり前だと思おうとしたが、苑美の女としての嫉妬心が、顔を覗かせてしまった。

他の女も、自分と同じように抱いたのかと思うと、我慢できない嫉妬が、キリキリと胸を刺す。


「…それもある、が…」


水瀬は、吸い取るような眼差しで、不可思議な色を湛えた瞳(め)で、苑美を見つめている。

第八十一話



苑美は、ドキリと胸を震わせた。
水瀬は、気が付くと、よくこんな瞳(め)で、苑美を見ている。
不可思議な色を湛えた、形容し難い瞳ー

真っ直ぐに自分を捉えながら、懐かしいものでも見るような、遥か遠くを見るような瞳ー
確かに自分に向けられているのに、自分を通り越して、別の誰かを見ているようなー

それは、ソニアなのだろうかー
ソニアを思い浮かべると、チクリと嫉妬が胸を刺した。

それでいて、何故か不安は感じない。
水瀬は、間違いなく『自分』を見ている。
不思議な確信があった。
唯、その瞳(め)で見られると、胸が疼くように切なくなるー

何だか、泣きたいような気持ちになって、苑美は慌てて目を逸らした。


「慣れているかどうかは、関係ない。
お前のどこが感じるか、俺は全て『知って』いる」


水瀬の言葉に、苑美は目を見張った。


「知ってるって…どうして?」


水瀬は答えず、謎のような微笑を浮かべた。
黒曜石のような瞳が、更に深みを増す。
水瀬は、苑美の手を取ると、掌に舌を滑らせた。


「あっ…!」


苑美は、ビクッと身を縮めた。
甘い感覚が、痺れるように全身に広がる。


「面白い場所(ところ)が、感じるんだよな。
妙にそそられる」


水瀬は、クスリと笑って、更に掌に唇を這わせる。


「あっ…ん…っ」


苑美が、震えるような吐息を漏らす。
水瀬は、満足そうな微笑を刻むと、掌から唇を離し、指にも舌を這わせた。

強烈な快感はないけれど、肉体(からだ)の奥が、ジワリと熱くなるような愛撫ー


でも…どうして…?


疑問が心に宿ったが、深く考えている暇はなかった。
水瀬は、愛撫を苑美の下半身に移した。
腰のくびれから、ヘソ、そして太股ー
あらゆる場所に、キスを降らせ、舌を這わせる。


「あっあ、あ…っ!」


押し寄せる快感の波に、苑美は喘いだ。


水瀬は、苑美の脚を広げると、花芯に顔を埋める。


「あ…や…っ!」


苑美が、肉体(からだ)をビクンと痙攣させる。
反射的に、脚を閉じようとするが、水瀬にアッサリ押さえられた。


「いつも、脚を閉じようとするな。
そんなに恥ずかしいのか?」


水瀬は、含み笑いをしながら、熱く濡れた花芯に、舌を這わせた。


「ひ…!やっ…!」


苑美の花芯からは、蜜が滴り落ちんばかりに、後から後から溢れてくる。
水瀬の舌が、蜜を絡めとり舐めとってゆく。


「キリがないなー
洪水みたいに溢れてくるー
そんなに気持ちいいのか」


水瀬は、この状況を楽しんでいるようだ。
苑美は、それどころではない。
羞恥と快感に、頭に血が上る。


「嫌…っ!
意地悪な事、言わないで…!」


苑美は泣き出しそうだったが、すぐに、そんな事を考えられる状態ではなくなった。

第八十ニ話



水瀬の舌が、花芯を愛撫し、奥深く差し入れられる。


「ひ…!あぁ!」


苑美の肉体(からだ)が、弓なりに反った。
快感が、否応なく肉体(からだ)を貫く。
水瀬の舌は、苑美の一番敏感な部分を、的確に捉える。

水瀬の舌が蠢く度に、苑美の肉体(からだ)に、津波のように快感が広がった。


「あ、あ、ん、うぅっっ」


どうして…私も知らなかった、私の感じる場所(ところ)…知っているの?


白濁していく頭の中、疑問がよぎったが、もうそれ以上は考えられなかった。
肉体(からだ)は、貪欲に快楽を求め貪る。

考える理性(ちから)は、心の奥底に沈んでいき、唯、快楽を求めてやまない欲求が、苑美を支配する。

何も考えられない。
考えたくない。
唯、与えられる快楽を貪り、水瀬の肌や、指や唇や舌の感触だけを感じて溺れたい。

水瀬は、花芯に舌を差し込み、捏ね回すように蠢かしながら、苑美の花芽を指で摘まんだ。


「んくぅっっ!」


敏感な花芽を摘ままれて、苑美の肉体(からだ)が大きく跳ねた。
水瀬は更に、舌と唇で花芽を愛撫する。


「!ひっ!ダメぇっ、そ…こは…あ、あ、ああぁー!」


敏感な花芽は、少しの刺激でも強烈な快感をもたらし、苑美は耐え切れず、激しく肉体(からだ)を痙攣させながら、絶頂に達した。

ハアハアと息を荒がせる苑美に、水瀬は覆い被さるようにして、耳元で囁く。


「よかったか…?
素直な肉体(からだ)だな。
奉仕しがいがある」


苑美は、顔を背けた。
見なくとも、水瀬が笑っているのが解る。


また、からかってるんだわー


苑美は、ちょっと拗ねた気分になる。
水瀬との交わりは、いつもこうだ。
気の遠くなるような快楽の波に、押し上げられ引き戻され、翻弄され、無我夢中で何もわからなくなってしまう。

熱くなっているのは自分だけで、我を忘れて晒す恥態を、水瀬は冷めた目で、見ているのではないかー

そう思ってしまう位、水瀬は冷静で落ち着いて見えるのだ。
さっきの、水瀬自身の昂りに触れていなければ、苑美はやはり、そう思っただろう。

更に、自分を卑下する傾向のある苑美は、それが、自分に水瀬を熱くさせる魅力(ちから)がないせいだと、ますます落ち込んだに違いない。


でも…違うみたい…


さっき触れた、水瀬自身の昂りは、布地越しでも、今にも爆発しそうな程、硬く怒張していて、怖い位だった。
信じられないが、水瀬は苑美に欲情して、あんな状態になっていたのだ。


でも…あんな状態で、こんなに我慢できるものなのかしら…


香織にもっといろいろ、聞いておくんだったーと、苑美は密かに思った。
香織は、“現場”での知識も、頭に入っている情報も、苑美とは桁違いだ。

第八十三話



「何を考えてる?」


水瀬の声に、苑美は我に返った。


「え?あの…
ん…!」


苑美は慌てて、何か言葉を探そうとしたが、答える暇もなく、唇が塞がれる。


「ん…ん…っ…は」


水瀬は、やっと唇を離すと、苑美の肩を抱くようにして、顔を覗き込んだ。


「俺とこうしているときに、他の事を考えるな」


水瀬は、険しい表情(かお)になっている。
かなり、気分を害しているようだ。
苑美は、訳がわからない。


え…な、何か怒ってる…?
どうして?


「他の男の事でも、考えていたのか?」


水瀬の頭に、いつかの及川の姿がよぎる。
図々しく、苑美の部屋に入り込んでいた、あの男ー

思い出すだけで、形容できない怒りが沸き上がる。
事もあろうに、自分の一番大切なものに、手を出そうとするなどー!

考えてみれば、水瀬の事情など、周囲には全く関係ない話だ。
当の苑美さえ、真実(ほんとう)の事は解ってはいないのだから。

身勝手な感情だと、重々承知していながら、水瀬は、苑美に近付く男に、激しい憤りを覚えずにいられなかった。
それが、全く根拠のない、単なる嫉妬だと、解っていても。


この娘は俺のものだ。
探して探して、漸く探し当てた俺の恋人(おんな)ー
誰にも、渡すものかー!


水瀬の心中など、知る由もない苑美は、ビックリして目をしばたいた。

水瀬の機嫌が悪い理由が、やっと呑み込めたものの、余りに見当違いな考えに、何と答えていいのかわからない。

まさか、香織に男の生理を習っておくんだったーなんて、考えていたとは言えない。


「私…他の男の人の事なんて…あ!」


苑美の肉体(からだ)がビクン!と跳ねた。
水瀬の指が、苑美の花びらをかきわけ、花芯の奥を抉るように、挿入り込んでくる。


「他の男がー何だって?」


水瀬は、苑美の一番感じる部分で、激しく指を動かした。


「あ、あ!やっ!
そ、そんなに…激しく…し…ない…で…っ」


苑美の肉体(からだ)が、快感に耐えきれず、ビクビクと痙攣する。
水瀬は、指の動きを止めた。


「じゃあ、止めるか?」


中断された快楽に、肉体(からだ)が身悶えして、不満を訴える。


「嫌っ!止めないでー!」


水瀬は焦らすように、わざとゆっくり、指を動かした。


「それで?
他の男がどうしたって?」


自分の花芯の中を、ゆっくりと抜き差しされる水瀬の指の動きに、苑美は快感を覚えながらも、もどかしさを覚えた。
水瀬は、わざと苑美の感じる場所(ところ)を、外しているのだ。


「ほ…他の人の事なんて…考えてない…あっ」


水瀬の指が、苑美の感じる場所(ところ)を、掠めるように動く。


「ああ、お願いー!
意地悪しないでー」


苑美が、涙に潤んだ瞳(め)で、水瀬を見上げる。

第八十四話



苑美の女の表情(かお)が、水瀬の肉欲を更に刺激する。


「そんなに欲しいか?」


水瀬は、苑美の耳元で、掠れた声で囁いた。
水瀬の口調には、どこか謎めいた響きがあった。

苑美はその言葉に、肉体(からだ)の事だけを、聞いているのではないような、含みを感じた。

その間も、水瀬の指は、花芯の奥を刺激する。
水瀬がもたらす悦楽の前に、吹き飛ばされてしまいそうなそうな理性をかき集めて、苑美は水瀬を凝視した。

水瀬の表情(かお)に、ふざけたり面白がっている色はない。
何か、真剣で深い色が、瞳に宿っている。

苑美は、何だか胸がしめつけられるような、せつなさを感じた。
胸に溢れ出る感情は、単なる肉欲とは、全く違うものだった。

水瀬が聞きたいのは、肉体(からだ)よりも、この感情(きもち)ではないだろうか。
肉欲だけでは、こんな思いは生まれない。


「どうなんだ?」


水瀬の指が、また花芯の奥で蠢く。


「ああっ、ほ…欲しいわ!
お願いー全部ー
全部欲しいのー!」


あなたが欲しいー
あなたの心も肉体(からだ)も、丸ごと全部欲しい!
片方(からだ)だけじゃ、意味がないー!


言葉にならない叫びが、苑美の全身からほとばしる。
水瀬は、やはり全身で、それを感じ取ったようだ。
謎のような微笑が、口元に沸き上がる。
やにわに、水瀬の指の動きが早められた。

苑美の肩を、抱きすくめるようにして、花芯の奥に滑り込ませた中指と薬指を、生き物のように動かした。
今度は的確に、苑美の一番感じる場所(ところ)を攻めながら。


「ひっ、あう!あ、ああ〜!!」


苑美は、あっという間に、絶頂に達した。


ハアハアと息を荒げる苑美を見ながら、水瀬は花芯から、スルリと指を引き抜いた。
水瀬の手は、苑美から溢れ出した蜜で、濡れている。


「お前から流れ出した、喜悦の証拠だ」


水瀬は、ニヤリと笑うと、苑美の目の前で、ペロリと指を舐めてみせた。
絶頂で桜色に染まった頬が、更に紅潮する。


「嫌っっ!
言わないでって、言ってるのに」


苑美はギュッと目をつぶって、顔を背けた。
恥ずかしさに、肉体(からだ)が震える。
水瀬は、苑美の顎に手をかけて、自分の方を向かせた。


「どうしてだい。
敏感な証拠じゃないか。
お前は素敵な肉体(からだ)をしている」


苑美は、誉められて嬉しい気持ちもあったが、やはり恥ずかしさが先に立つ。


「だって…」


蚊の鳴くような声で呟きながら、苑美は泣き出しそうな表情(かお)をしている。


ホントに恥ずかしがり屋だなー


水瀬は、溜め息を吐きながらも、それが可愛いとも思えた。
少なくとも水瀬にとっては、自信過剰にひけらかすタイプよりは、ずっといい。

それにー
正直、恥ずかしそうに見上げる、苑美の表情には、妙にそそられるものがある。

この恥ずかしそうな、可憐な表情(かお)が、快感に乱れる様は、たまらない。

第八十五話



ソニアのときには、こんな思いは感じなかった。
ソニアは物事に臆さない性格だったから。

だが、今はそんな事は、どうでもよかった。
苑美の、頼りなげな表情(かお)に刺激されて、水瀬自身はますますそそりたち、我慢も限界に近かった。

水瀬は、ゴクリと唾を飲み込むと、苑美の脚の間に割って入った。
苑美の花芯に、硬く怒張した自分自身をあてがう。


「あっ」


その感触に、苑美はビクッと身を竦めた。
さっき布越しに触れた、水瀬自身を思い出す。
自分を満たし、この上ない快楽をくれる、水瀬の男の証ー

そして、その硬く張り詰めた水瀬自身は、自分をどれ程求めているか、証明してくれる証でもあった。


『わかるか?
お前が欲しくて、こんなになっている』


さっきの水瀬の言葉が、頭に木霊する。
自分は何もしていないのに、こんな状態になっているのだから、自分は求められているのだろう。


でもー他の女(ひと)達にも、同じなのかもしれないー


苑美はまた、水瀬が知ったら、呆れて言葉が出ないような事を考えていた。

無論、そんな事を考えられたのは、ほんの一瞬だった。
水瀬は、苑美の花芯を一気に貫いた。
蜜に濡れた苑美の花芯は、昂り怒張したそれを、易々と奥まで、呑み込んだ。


「ああっ、ひっーっ!」

強烈な快感が、苑美の肉体(からだ)を貫く。
苑美の喉から、悲鳴のような享楽の声がほとばしる。
もう、何もまともに考えられない。


「あっあっ、嫌っ、ダメ…っ、ああっああっ、嫌あぁ〜!」


何が嫌なのか、ダメなのか、自分で何を言っているのかも、把握できていないだろう。
水瀬の腰が、躍動する度に、快感に肉体(からだ)は支配され、苑美の頭は真っ白になる。

肉体(からだ)を密着させて、執拗に腰を動かしながら、水瀬の息も激しく乱れる。
その顔に、この上ない悦楽の表情を浮かべながら。

苑美が見ることができたら、自分との交わりの最中に、水瀬だけ冷めているのではないかという不安など、跡形もなく吹き飛んでしまうだろう。

残念ながら、苑美は与えられる快楽に、何も見えず何も考えられない、無我夢中の境地に入ってしまっている。


「お前は俺のものだー
俺だけのー
誰にも渡さないー誰にもー!」


うわ言のように、繰り返し呟かれる水瀬の言葉も、苑美の耳には入らない。
唯、襲ってくる快感の波に身を委ね、翻弄されるしかなかった。

水瀬は苑美の中に、自分自身を埋め、激しく腰を動かしたかと思うと、焦らすように、ゆっくりと挿入しては引いた。

深く浅く、激しく緩やかにー
巧みなリードに、苑美は唯溺れ、快楽を貪る他はない。

水瀬は、『知って』いる。
どこをどうすれば、苑美が感じるのか、どの部分のどの位置が、苑美に一番快感を与えるのか、全てー

第八十六話



本人も知らない、性感帯を責められては、ひとたまりもない。


「ああっ、ダ…メ…っ
もう…イ、イッちゃ…っ」


苑美は、涙を滲ませながら、激しく喘ぎ、肉体(からだ)をビクビク痙攣させた。

その動きに、苑美の中で水瀬自身も締め付けられる。


「そ…のみ、そんなに、締め付けたら…もたな…っ!」


水瀬が、苦しげに顔を歪めた。
苑美は、そんな事は、露程も気付く余裕はない。


「ああ…ダメ…イク…!!」


一際激しく、肉体(からだ)を震わせ痙攣すると、苑美は感極まって絶頂に達した。
グッタリとベッドに身を沈める。


「う…くぅっ…っ!」


絶頂を迎えた苑美の中で、水瀬自身も一層締め付けられ、耐えきれず己を解き放つ。
ハアハアと、息を荒がせながら、水瀬はガックリと苑美の上に崩れ落ちた。

息を喘がせて、陶酔の表情を浮かべ、汗ばんだ肉体(からだ)を横たえる水瀬の姿は、妖艶にさえ見えて息を呑む程だ。

残念ながら、朦朧としたまま、一足先に桃源郷を彷徨う苑美には、そんな水瀬の姿は見えない。

いつもいつも、苑美の確かめたい事は、水瀬の与える快楽に阻まれて、解らずじまいというのは、皮肉な事実という他はあるまい。
最も、本人(そのみ)はその事実(こと)に、全く気付いていないのだが。

自分を取り戻すのも、水瀬の方が早い。
苑美がやっと、快楽の余韻から抜け出る頃には、水瀬はとうに、涼しげな表情(かお)で、いつもの冷静な自分に戻っている。

本当に自分に、水瀬が満足しているのか、苑美が悩んでいる事など、水瀬自身は全く知らなかった。
自分にとって、唯一無二の存在の『彼女』が、そんな事を考えていると知ったら、二の句が継げない事だろう。
滑稽な悲劇というところか。

だが、苑美の考えるのと、全く違う意味で、満足していないーというのは、事実ではあった。
苑美に非があるのではない。
原因は自分自身にある事を、水瀬は百も承知していた。

水瀬の、苑美に対する欲望にはキリがない。
今も、漸く自分を取り戻し、深い息を吐いた水瀬は、まだ快楽の甘い余韻に、身を浸している苑美を見ている内に、また肉体(からだ)が疼き出した。

自分に舌打ちしながら、膨れ上がる欲望に勝てず、水瀬は、まだ半分夢現の苑美に唇を重ねた。


「…っ、んん…っ」


水瀬に唇を貪られ、苑美は喘いだ。


「み…静生さ…」


息を乱しながら、呼び慣れない名前を、おずおずと呼び掛ける。
水瀬の胸は、それだけで熱くなる。

かつて、ソニアが呼んだのは、この名前ではない。
『彼女』も、現在(いま)は“ソニア”ではない。
だが、そんな事はどうでもよかった。
『彼女』は、“恋人”として、『自分』を呼んでいるー

第八十七話



その喜びは、胸を甘くかき乱すと共に、抑えきれない情欲を、更に増長させる。


「…は…っ」


水瀬がやっと唇を離すと、苑美は吐息とも溜め息ともとれる、深い息を吐き出した。

水瀬は、また火が付いてしまった情欲の赴くまま、苑美の肉体(からだ)に愛撫を加える。


ダメ…これ以上無理よ…


そう思いながらも、苑美はなすがままに水瀬の愛撫を受け入れる。
何度も絶頂を迎えた肉体(からだ)は、とても敏感になっている。
苑美の息は、すぐに弾んできた。

肉体(からだ)は、疲れ果てていても、これ程に求められる事は、やはり嬉しかった。
水瀬が今、求めてやまないのは、他の誰でもない。
水瀬の目の前にいる、自分唯一人ー


他の女(ひと)にも、こんなに激しかったのかしらー


チラリと、そんな思いが頭を掠めたが、すぐにそんな事を考える余裕は、消え失せた。

水瀬は、自分も果てた筈なのに、変わらない強さと激しさで、執拗に愛撫を繰り返す。

苑美の耳や首筋に舌を這わせ、乳首を吸い立て歯を立てる。
花芯から溢れ出る蜜を、唇と舌で舐めとり、花芽を舌先で嬲り、指で摘まむ。

苑美は、肉体(からだ)の奥から突き上げられるような快感に喘ぎ、歓喜にむせび泣き、享楽の声を上げ、肉体(からだ)を震わせ、幾度となく絶頂に達した。

肉体(からだ)が過敏になっていて、何処に触れられても、反応してしまうような気がした。
もう、何度イッたのか解らない。

再び、水瀬の熱く硬い楔を打ち込まれ、一際大きな絶頂を迎えながら、苑美は意識が朦朧として、遠く霞むのを感じた。
そのまま、苑美は気が遠くなり、何も解らなくなった。

水瀬も、共に果てると、苑美に折り重なったまま肩で息をする。
激しい息遣いのまま、暫く身動きもままならない。

苑美と愛を交わすときは、いつもこうだ。
まるで、命を削っているような気にさえなる。

水瀬が、苑美に求めているのは、単なる肉の歓びなどではない。
無論、そんな事は、解りきった事だ。
だが、それだけではない。
水瀬の心の奥底には、消えない不安と恐れがあった。

苑美を抱きながら、もうこれ限りなのではないかという思いに囚われる。苑美をこの腕に抱いて、愛し合える次の機会は、もうないかもしれないとー

それが、飽くなき渇望に結び付いている。
何度肉体(からだ)を満たしても、魂(こころ)が満たされない。
後から後から、湧き上がる飢餓感ー

抑制できない自分の欲望が、その言い知れない不安からきている事にら水瀬は気付いていた。

絶頂で摘み取られた、ソニアとの恋ー
あのときのように、突然この幸福(しあわせ)を、奪われてしまいはしないかー

水瀬は、その不安と恐れを、どうしても払拭しきれなかった。

第八十八話



荒かった呼吸が緩やかになり、水瀬は漸く身を起こした。


「ふ…ぅっ」


上を向いて、大きく深呼吸すると、乱れた髪をかきあげた。
肌はまだ熱く、汗ばんでいる。
目を閉じて、もう一度呼吸を整えると、水瀬は苑美に目をやった。

苑美は肢体も露に、傍らに横たわっている。
グッタリと目を閉じたまま、正体もない。
まだ、息が乱れているようだ。

水瀬は、自分に舌打ちしたい気分だった。
それでなくても、普通、女は男より体力がない。その上苑美は、標準より華奢なタイプだ。

自分の際限ない欲望に付き合わせたら、本当に肉体(からだ)がもたないだろう。
解っているのに、苑美といると抑制が効かない。

さっき、あれ程発散した筈なのに、苑美のしどけない姿を見ていると、また自分自身が昂ってくるのを感じて、水瀬は自分に呆れ、深々と溜め息を漏らした。


何とかしないと、苑美を壊してしまいかねないー


半ば、本気で考えながら、まだ汗ばんでいる苑美の身体を、上掛けでくるみ、自分も傍らに横になる。
また、昂りを見せ始める自分自身を、敢えて無視しながら。

苑美の身体を、しっかりと抱きしめて、水瀬は目を閉じた。
苑美の柔らかな肌の感触と、温かな温もりー
そして、確かな心臓の鼓動が伝わってくるー

それは、全ての恐れや不安を、遠く追いやり凌駕した。
水瀬の口から安心の心地よい溜め息が漏れる。
心が穏やかに凪いで、満ち足りた思いに包まれる。

水瀬はもう一度、苑美をしっかりと抱きしめ直すと、眠りに落ちた。
眠っている間に、苑美が奪われないようにー
この腕の中から、消えてしまわないようにー

今『彼女』が腕の中にいるのは実は夢で、朝になったら自分はやはり、一人きりでベッドに横たわっているのではないようにと、祈りながらー



ガシャーン!!


何かが、割れる音がした。


『ソニアを、湖の主に差し出すだと?!』


怒りにたぎる声で叫んだのは、長い黒髪の若者ー
ソニアに、セオと呼ばれていた青年だった。
テーブルから叩き落としたと見え、砕け散った陶器の水差しの欠片が、そこかしこに散らばっている。


『そんな事は許さないぞ!!』


セオは怒りに燃える鋭い視線を、相手に向けた。
白髪に、長い髭を蓄えた老人は、無表情に彼の顔を見据えた。


『主様が、あの娘を望んでいらっしゃるのだ。
あの御方のお望みなら、何であろうと、叶えねばならぬ。
お前も、一族の長となる身なら、いい加減わきまえぬか』


セオは、怒りに震えながらも、抑えた低い声でキッパリと告げた。


『長になどならぬと、言っているだろう。
邪神に踊らされ、いいなりになって、生け贄を差し出す一族の長など、真っ平だ』

第八十九話



老人は、険しい表情(かお)になると、にべもなく言い放った。


『黙れ、主様を侮辱する事は許さぬ!
あの娘は、主様に所望された事を、むしろ光栄に思わねばならぬ。
お前の私的な一存など、通りはせぬぞ』


老人は振り向くと、後ろに控えていた従者に、手で合図した。
従者は、サッと動くと二人がかりで、青年を取り押さえた。


『頭が冷えるまで、地下牢に放り込んでおけ。』


冷ややかな声で命じる老人を、セオは従者に腕を取られながら、同じ位冷ややかな瞳(め)で見ている。


『変わらないなー
力ある者に従い、その陰で己も肥え太る。
弱者は踏みつけにして、邪神の生け贄にするのも、全く平気だ。
そうやって、長として君臨し、一族も勢力を伸ばした』


冷ややかな瞳(め)の奥に暗い情念が燃えている。
何処かで見たような瞳(め)ー


『俺はそんな一族が、大嫌いだった。
中でも一族の長…父親(あんた)がなー』


抑揚なく淡々と語るセオと、無表情に睫毛一筋も動かさず聞いている老人ー
逆にその静寂には、背筋が寒くなるものがあった。


『ー世迷い言は、それだけか?』


老人は、冷たく言い捨てると、クルリと背を向けて、相手(むすこ)を一瞥もせずに立ち去った。


『ソニアだけはー彼女だけは、思い通りになどさせないー
決してー!』


セオは、血が出る程、唇を噛みしめた。
その姿は、だんだん、白い霧に覆われて、ぼやけて霞んでゆくー


待ってー待ってー!
あなたは誰なのー?!


「待って!」

叫んだ自分の声に驚いて、苑美はパチリと目を開けた。
心臓が、ドキドキと鼓動を打っている。


今のは…何?
夢?唯の夢なの?
ううん、そんな筈ないわ。
また、あの人ーこの間も夢に見た男(ひと)よー!


まるで、映画のワンシーン。
時代がかった服装と物々しい雰囲気ー
親子らしい二人の間に漂う、深い確執と溝ー

ソニアが絡んでいなければ、前に何処かで見た、映画の話だと思っただろう。
苑美は、ある事に気付いて、戦慄した。


あの人ー生け贄って言ってなかった?


生け贄が、何なのかは知っている。
生きたまま、神に捧げられた動物ーあるいは人間ー

たいていは、生きたまま心臓をえぐりだされたり、水に沈められたり、生き埋めにされたりと、無惨な死を遂げた。

日本でも、水難を鎮める為、人身御供にされた実例は、全国各地にある。
いずれも、生きたまま水に沈められたのだ。

苑美は、身体中の血が、冷えていくような感覚を覚えた。
思わず身震いした拍子に、自分がまた水瀬に、しっかり抱きしめられている事に気が付く。


ヤダ、また…ホントにこれ、癖なのかしら。


そう思いながらも、水瀬の肌の温かさに、苑美は安堵してすりよった。


でも、あれはどういう意味なんだろう。


『ソニアを生け贄になどさせない!』


セオという青年が叫んだ言葉が、まだ苑美の耳の奥に残っている。

第九十話



ソニアさんは、生け贄にされたの?!


それも、足元が崩れるような衝撃だった。
だが、もう一つ、余りにも大きな疑問が、頭から離れない。


何故あの男(ひと)が、ソニアさんの恋人なの?
彼女は、静生さんの恋人の筈だわー

それに、あれはーあの服装や建物とかは、どう見ても現代じゃない。
何百年も前の時代みたい…
いったい、どういう事なの?


今回は、唯の夢では片付けられない。
前に見た夢と、同じ名前の同じ人物が、ちゃんとしたストーリーを、織り成しているのだ。
考えれば考える程、わからなくなって、苑美は混乱した。

ソニアが、生け贄にされたかもしれないという事は、肌が粟立つような、恐ろしい戦慄の事実だった。

だが、夢の中の時代背景から考えれば、決して珍しい事ではない。
詳細は解らないが、重々しい部屋の造りや、衣装などから考えて、中世位ではないだろうか?

中世ー迷信が闊歩し、狂気の魔女狩りに血が流された時代ー
いったい、どれ位の女性達が、魔女の濡れ衣を着せられて、火焙りにされたのだろうかー

苑美は、思わず身震いした。
迷信が人々を駆り立て、魔女を作り出した。
同じように、生け贄を捧げる事で、自然災害を食い止められると信じた人々の手で、多くの人間が犠牲になった、そんな時代ー

しかし、セオという青年と、水瀬との関係はー?
時代が全く違うのを考えれば、三角関係というのは有り得ない。
それにー

以前夢で見た二人は、本当に、心から愛し合っているように見えた。
苑美は、セオからラピスラズリのイヤリングをもらって、嬉しそうに頬を薔薇色に染めていた、ソニアを思い出した。

碧瑠璃(ラピスラズリ)の瞳が、朝陽に照らされた海のように、キラキラと美しく輝いてー
あれは、間違いなく恋をする乙女の瞳だ。
今の苑美には、よく解った。

唯ー相手が水瀬ではないだけー

考えれば考える程、混乱するだけだった。
苑美は、瞳(め)を閉じて、水瀬の胸に顔を埋めた。

水瀬の腕は、未だにしっかり、苑美の身体に巻き付いている。
水瀬の胸に、顔を寄せると、確かな心臓の鼓動が、苑美に伝わってくる。

心臓の鼓動と、温かな肌ー
水瀬が現実(ここ)にいる、確かな証拠ー
心臓の音を聞いている内に、苑美の気持ちが、次第に落ち着いてくる。

ふと、水瀬は全て知っているのではないかという考えが、頭に浮かんだ。
あの不可解な夢が、何を意味するのかもー

全て、水瀬が隠している事に、繋がっているのではないかー
苑美が感じている、パズルのピースが足りないような、ピッタリハマらないようなもどかしい感覚ー

その足りないピースは、全て水瀬が隠し持っている。
それは、確信に近い思いだった。
だが、それを聞き出すのは、躊躇われる。

水瀬が、真実を語らないのは、彼自身の為ではないのが、解るからだ。
恐らく水瀬は、苑美の受けるショックや動揺の深刻さを考えると、話せないでいるのだ。

第九十話



苑美がそれ程の衝撃を、受けるような事実なのだろうか。
何も覚えていない苑美には、見当もつかなかった。


どうしたらいいのかしらー


水瀬が口を閉ざしているのは、自分を思っての事なのは嬉しい。
けれど、それを解っていながら、素知らぬふりで、水瀬と一緒にいる自信が、苑美にはなかった。

まして、水瀬が一人でその重荷を抱えて、陰で苦しみ傷付いているとしたらー
それが、苑美には耐えられなかった。
水瀬が、抱え込んでいるのが、自分に関する事だと、敏感な苑美には感じ取れるから、尚更だ。
どういう内容かは、全く解らなくても。


私が知ったからって、何の役にも立たないかもしれないけど、知っているだけで、軽くしてあげられる部分があるかもしれないー


そう思う一方で、無理に聞き出すのは躊躇われた。
思い出させるだけでも、心の傷口を一層こじ開けて、広げる事になってしまいはしないだろうかー

水瀬の傷は、癒えてはいない。
彼の心は、事ある毎に、癒えない傷がパックリ開いて、未だに血を流し続けている。


どうして、そんな事解ってしまうのかしらー


苑美は泣きたくなった。
水瀬の感情(きもち)の昂りは、何故か苑美には、痛い程に伝わってくる。
だからこそ、分かち合いたいと思いながら、水瀬の激しい動揺と困惑を思うと、切り出せなかった。

初めて逢ったときの、水瀬の暗い瞳(め)を思い出す。
苑美の魂(こころ)を激しく揺さぶった、救いようのない程の、深い翳りと苦悩に満ちた瞳ー


瞳(め)ー


苑美は、ハッとした。
さっきの夢で見た、セオの瞳(め)ー
冷ややかで感情を見せない瞳(め)の奥で、暗い情念が激しく揺らいでいた。

夢現の中、何処かで見たと思ったのも道理、セオの瞳(め)は、初めて逢った頃の水瀬の瞳(め)にそっくりだった。

苑美は、ますます解らなくなる。
ソニアを挟んでの、この二人の相似点は、どういう事なのだろうー


「うぅ…ん」


苑美が、さっきから腕の中で、モゾモゾしているのを感じたのか、水瀬は不満そうに身動きして、苑美をしっかり抱きしめ直すと、また寝息を立て始めた。


もうっっ、人がシリアスに悩んでるのにっっ!


苑美は、水瀬にしっかり抱きしめられて、身動きが取れない。
溜め息を吐きながら、窓に目をやると、カーテン越しの外はまだ仄暗く、やっと空が白んできたばかりのようだ。

明け方は、一番冷え込む時間帯だ。
苑美は肌寒さにブルッと震えると、水瀬の身体に密着した。

水瀬の身体は温かい。
心臓は、力強く規則正しい鼓動を刻んでいる。
胸に頬を寄せた苑美の耳に、トクントクンと、途切れる事なく、まるで子守唄のような鼓動が聞こえてくる。

さっきまで、千千に乱れていた心が、穏やかに凪いでいく。
苑美は、水瀬に身を寄せて、またウトウト微睡み始めた。


今は、何も考えず、このままでいたいー
暫くの間このままー
この幸せな気分のままでー

第九十二話



水瀬が目覚めたときは、もう日が高かった。
苑美は、腕の中でスヤスヤと眠っている。
水瀬の口元に笑みが浮かぶ。
起こさないように気を付けながら、水瀬は苑美をギュッと抱きしめた。

水瀬は、苑美が先に、一度目覚めた事など知らない。
ましてや、不可解な夢に端を発して煩悶した事など、微塵も知らない水瀬は、規則正しい寝息を立てている苑美に、ホッと安心した。


昨日、身体に無理な負担をかけなかっただろうか?


それが、一番気にかかっていた。
苑美は、華奢ではあるが健康そうだ。
しかし、体力はまた別物だ。
苑美といると、自分を制御できない。
苑美の体力の限界を越えて、自分だけ暴走してしまう。

こうしていても、血流が一点に集まってくるのを感じて、水瀬は顔をしかめた。


いい歳をして、何てザマだ。
自慰を覚えたばかりの、思春期の少年(こども)みたいにー


その内、自分の方も精力を出し切って、干からびて木乃伊化しても、おかしくないかもなー


水瀬は、眉間にシワを寄せながら、苦笑いした。
『彼女』は、この腕の中から、もう何処にも行かない。
ハッキリと確信して、そう自分に断言できるまで、こんな状態は続くのだろう。


そんな日がくるのかさえ、怪しいものだー


水瀬は、渋い顔をしながらそう思った。
離れていると、不安でたまらない。
また、自分の前から、忽然と消えてしまうのではないかー
そんな漠然とした不安が、四六時中、水瀬につきまとって離れない。

永い放浪の時間(とき)ー
余りにも、永かった。
何度、違う生を受けても、『彼の記憶』だけが鮮明で、自分は『彼』以外の何者でもなかった。

失った愛(もの)を探す事しか、心にはなくー
耳の奥に、邪神の嘲笑う声を聞きながらー


“お前は未来永劫、その記憶をひきずったまま、生きるがよい”


記憶ー
恋人の骸を抱いて、慟哭した記憶ー
それが頭に蘇った瞬間、心臓がドクン!と、大きく鼓動を打った。
呼吸(いき)が、苦しくなる。

鮮血の記憶ー
腕の中で、冷たくなっていく恋人(ソニア)ー
水瀬の前に、また緋色に染まる迷宮が現れる。
迷宮の中で、血に染まった恋人が、ゆらゆらと手招きするー


“ねえ、私はここよー
あなたも早く来てー
私と一緒に迷宮(ここ)にいてー
淋しいのーねえー”


血に染まった手を、恋人(ソニア)が差し伸べる。
邪神の笑みを浮かべてー


「うぅ…ん」


そのとき、腕の中で苑美が身動きした。
水瀬が、ハッと我に還る。

そうだ、『彼女』はここにいるー!
あんな禍々しいものが、禍々しい事を言うものが、『彼女』である筈がないー!

『彼女』はーソニアは言ったのだ。


“私を見つけてねー
必ず、あなたの元に還るから。
私を探し出してー”


あんなものは、邪神の幻だー!
ソニアである筈がない。
消えてしまえー!

第九十三話



迷宮は、血に染まった恋人の幻影と共に遠去かり、消え去った。

唯ならぬ気配を感じたのか、苑美がパチリと瞳(め)を開けた。
水瀬の様子に気付いて、驚いて身体を起こす。


「静生さん?!
どうしたの?!」


水瀬の顔は、血の気が引いて、真っ青になっている。
身体は、汗でグッショリ濡れている。
息も荒い。


「…大丈夫だ」


水瀬は、しっかりと苑美を抱きしめた。
白い柔らかな肌は温かく、仄かに甘く香る。
水瀬は、花の香りのする苑美の髪の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。


『彼女』はここにいる。
さっきのは、唯の幻だ。
邪神の呪いの残骸の上に、俺の自責の念が作り出した迷宮ー


苑美は、水瀬が吐き出す溜め息を聞いた。
胸を揺さぶる、啜り泣くような深い溜め息ー
苑美は、どうしていいのか解らず、水瀬の背中を、ギュッと抱きしめた。

自分を抱きしめる、確かな腕の感触ー
華奢な腕なのに、それは途方もなく力強く、水瀬にみなぎる力を与えてくれる。
水瀬の胸を、暖かな波が押し寄せるように、満たしていった。

乾いた砂地が、注がれた水を吸収するように、水瀬の胸が、苑美の存在に潤い、満たされていくー
苑美の存在自体が、砂に降り注ぐ水の雫なのだ。


「静生さん?」


苑美が、心配そうに水瀬の顔を見上げる。
栗色に近い大きな瞳を、不安で曇らせている。


「…大丈夫だ」


水瀬は繰り返し、微かに微笑んだ。


「悪い夢を見ただけだー」


水瀬が、目を伏せて遠く思いを馳せる。


悪い夢ーか
永い永い時間(とき)の中、逃れられる日は、永遠に来ないのではないかとさえ思った、忌まわしい悪夢ー


だが、今はもう、以前のように身がすくむような恐ろしさは、感じなかった。

苑美がいるからだ。
『彼女』は、この掌の中に戻ってきた。
悲惨な記憶は消せないけれど、もう失ったものの大きさに、打ちひしがれる事はない。

水瀬は漸く、自分の状態に気付く余裕を取り戻した。
汗をかいたせいで、身体がベタついて、気持ちが悪い。


「汗をかいたから、シャワーを借りるよ」


苑美から身体を離すと、水瀬はベッドから出た。
途端に、苑美は真っ赤になった。

それまでの、事態の深刻さに気を取られて、すっかり忘れていたが、二人とも一糸纏わぬ姿で、ベッドの中で抱き合っていたのだ。

苑美は、慌てて目を逸らすと、上掛けを引き寄せてくるまった。
水瀬は涼しい顔で、裸のまま、床に散らばった衣服を拾い上げて、バスルームに消えた。


もうっっ、夜じゃないんだから、裸で堂々と歩かないでよっっ!!


水瀬がいなくなってから、真っ赤な顔を枕に伏せて、苑美は一人ごちた。


でも、具合よくなったみたいでよかったー


苑美は、ホッと安堵の溜め息を吐いた。

第九十四話



さっきの水瀬の顔色を思い返して、苑美は自分の血の気が引く思いだった。


「何をそんなに、一人で苦しんでいるのー?」


苑美は、枕に顔を埋めて呟いた。
単に、体調が悪かったのではない。
苑美には解った。

それに関する水瀬の態度は、どこか壁があって、聞いてはいけないような気がして、今まで何も聞けなかった。
けれど、あんな水瀬の姿を見るのは、耐えられない。

自分が関係しているなら、尚更だ。
悪夢を見る程の、苦しみの原因が何なのか、苑美は知りたかった。

悪夢ー
苑美はさっき自分が見た、不可解な夢を思い出した。
あれは、悪夢という訳ではない。
だが苑美には、訳が解らない部分が多過ぎる。

水瀬なら、全てを知っている。
彼は持っているのだ。
苑美の中で繋がらないパズルに、ピタリと合うピースをー
謎を解く鍵を、全て胸の内に秘めてー

だが、それが恐らく水瀬にとって、何よりも重い足枷になっているのは、間違いない。

今までの水瀬の態度が、それを肯定している。
彼は黙して語らないないけれど。

苑美は、その足枷を外してやりたかった。
自分のように、とるに足らない人間に、そんな思いを抱くのは、思い上がりと嘲笑されても仕方ない。

それでも、水瀬の為に何かしたかった。
水瀬の言動に、嘘偽りはない。
苑美に対する想いは、怖い位に真摯で誠実だ。
というより、他には何も目に入らない感じさえする。

それが、水瀬の翳りを作り、語ろうとしない隠された真実に、端を発しているのは解っていても、それ程求められる事が、苑美に、少しずつだけれど、自信を与え始めていた。

まして、水瀬の端正な容姿なら、どんな美女でも、向こうから寄ってくるだろう。

容姿が全てではないが、それが多大な影響を与えるのも、また事実。
特に、自分に魅力などないと、思い込んでいる苑美が、水瀬のような男に、求められている事実が与える、影響は大きかった。


私も、満更捨てたもんじゃないのかなー


苑美は、チラリとそんな風にも考えたりした。
とはいえ、元が過小評価癖があり、消極的で引っ込み思案な苑美の事、まだまだ、普通の感覚にも及ばない。

しかし逆に、自分に自信があったら、水瀬の言動は火に油ー
鼻持ちならない、傲慢で自信過剰な女になっただろうから、これはこれで 良かったのかもしれない。

それに、水瀬が執拗に自分を求めるのは、水瀬の謎めいた影の秘密のせいだと、苑美はしっかり認識していた。
だから、有頂天になったりはしなかった。

だが、その考えは一方で当たっていたが、一方では全く間違っている。
苑美は未だ、自分がソニアの生まれ変わりである事実(こと)を、露程も知らない。

唯、自分が幼い頃から、待ち続けてやまなかったものが、水瀬だという事は確信していた。


私が、待って待って、探していたのは、あの人ー
幼い子供の昔から、魂(こころ)が呼び続けたのは、あの人だわー

第九十五話



私は、何故あの人を待っていたのかしらー
わからない。
でも、私の魂(こころ)の琴線(いと)が、どうしようもなく震えるー

探しているのが、何なのかも解らない内から、待っていたのー


苑美は、目を閉じて思い返していた。
水瀬に初めて逢ったときー


『俺が解らないのか』


水瀬は、確かにそう言った。
一瞬垣間見た、激しい落胆と失望ー
苑美は、枕から顔を上げ、瞳(め)を見開いた。
初めて、その言葉の意味を、理解できたような気がする。


あの人も、私を探していたの?
彼の方は、私が解ったの?
だから、あんな言葉をー
でもー


苑美は、眉をひそめた。


それじゃ、ソニアさんの事はどうなるの?


水瀬が、ソニアをどれだけ愛していたか、苑美が一番よく知っている。
その事で、嫉妬に胸が張り裂ける思いをしたのだから。

今は、水瀬の気持ちを疑ってはいないが、これを要するに、結局何が何だか解らない。
苑美は顔をしかめて、枕に突っ伏した。


「ダメだわ…
やっぱり、全然解らない…」


苑美は、枕に顔を埋めたまま、溜め息を吐いた。


「何が解らないって?」


ドアの方から降ってきた声に、苑美はビックリして、飛び起きた。
開いた寝室のドアに、水瀬が寄りかかって、面白そうにこちらを見ている。


「いつから、そこにいたの?!」


考え事に没頭していた苑美は、シャワーの音が止んだのも、浴室から水瀬が出てくる気配にも、気付かなかったのだ。

水瀬は一瞬、何かに視線が釘付けになったようだが、すぐに目を逸らすと、笑いを堪えながら答えた。


「さっきから、見てたんが…
百面相が趣味だとは、知らなかったな」


苑美は真っ赤になった。


「の、覗き見なんて、悪趣味ね!」


水瀬は、面白そうに瞳(め)を煌めかせた。


「戻ってきたら、何か言ってるのが耳に入ったから、何気なく聞いてたんだが、百面相まで始まるとは思わなかった」


水瀬は、また笑いを噛み殺しているようだ。


「ところでー
ずっと、そのままいるつもりか?」


水瀬は、苑美にチラリと目を走らせた。


「え?」


言われて、自分の姿に目を落とした苑美は、羞恥に真っ赤になった。
さっき、飛び起きたせいで、何も身に付けていない上半身が、剥き出しになっている。


「何だったら、そのまま昨夜の続きをー」


苑美は、皆まで聞かず、、スッポリと上掛けに潜り込んだ。


「きっ着替えるわ!
その前にシャワー浴びたいから、向こう行ってて!」


水瀬は、また面白そうに、瞳(め)を煌めかせて、口元を上げた。


「そのまま、行けばいいじゃないか」


もうっっ、からかってるんだわー!


「いいから行って!」


苑美の大きな声に、水瀬はクスクス笑いながら、寝室を出ていった。
ドアの閉まる音に、苑美は、上掛けから顔を覗かせて、水瀬がいないのを確認した。

第九十六話



苑美は、ベッドから滑り降りると、散らばった服を拾い集め、急いでクローゼットから、新しい服と下着を出した。

衣服を抱えて、そっと寝室から顔を覗かせた。
細く短い廊下で区切られた、リビングのドアは閉まっている。

苑美はホッとして、急いで寝室の真横にある、浴室に駆け込んだ。
洗濯篭に、昨日着ていた服を放り込み、バスルームに滑り込む。

シャワーの栓を捻ると、流れ出す熱い湯を浴びて、苑美の口からホゥッと吐息が漏れる。
漸く、気持ちが落ち着いた。


全くもうっっ、私がうろたえる姿が面白いんだわ!


少々、中っ腹でシャワーの水量を強くして、全身に浴びる。


いい歳をして、子供みたいなところがあるんだから!


そういえば、水瀬はわざと、苑美がうろたえたり、慌てたりする言動をして、その反応を楽しんでいる節がある。

どこから見ても、落ち着いた大人の男にしか見えないのに、子供じみた部分も持っているようだ。
容姿(みかけ)からは、想像もつかないが。


ふと、シャワーを浴びる手が止まる。


あれ…そういえば、静生さんて何歳なんだろう…?


苑美は初めて、水瀬の年齢を知らない事に気付いた。
今まで、年齢なんか気にしていられない状況が続いていたので、聞きそびれていたーというより、気にもならなかった。


見た目は、二十代半ば位だけどー


確実に言えるのは、自分よりは歳上だという事。
苑美は初めて、水瀬の年齢に興味を抱いた。


他に、聞きたい事は山のようにあるけれど、大切な事は、水瀬の心の中に、土足で踏み込むような気がして、なかなか切り出せない。

だが、年齢の事なら、気軽に聞く事ができる。
寡黙なタイプなので、落ち着いて見えるし、何処か老成しているようにも見えるが、かといって、老けている訳ではない。


少なくとも、夜の方は十代の少年並みなんじゃないかしら?


苑美は、頭に浮かんだ自分の考えに、思わず顔を赤らめて、誰かに覗かれでもしたように、慌てて辺りを見回した。

しかし、これを要するに、水瀬はかなり年齢不詳的な人間だという事で、苑美はますます、興味をかきたてられた。


シャワーから出たら、聞いてみよう。


苑美は何となく、楽しみな気持ちになって、シャワーを浴び始めたが、ハッとして、また手を止めた。

肉体(からだ)中に、昨夜、水瀬が付けた跡が付いているー


「ヤダーこんなにハッキリー
あっ、首筋にも!」


苑美は頬を染めて、肉体(からだ)を見回した。
改めて見ると、到るところに、情事の跡が刻まれていて、昨夜の激しい抱擁を物語っている。
苑美は、肉体(からだ)が熱くなるのを感じた。

しかし、それとは別に、苑美は困惑して呟いた。

「これじゃ、外に出られないじゃないー」


真冬ならともかく、そろそろ薄着のシーズンなのだ。
衣服では、全部隠しきれそうにない。


「とりあえず、跡が薄くなるまで、外出しない方がいいわねー」


ケガをした訳ではない。
一日も経てば、解らない位になるだろう。
苑美は、溜め息を吐いて、シャワーを止めた。

第九十七話



こういう事に鋭い香織が見たら、一発で何が行われたか、見抜いてしまうだろう。

幸い今日は、受けなければならない講義も、モデルの仕事も入ってはいなかった。
苑美は、ホッと胸を撫で下ろした。

苑美は、水瀬との親密な時間を、自分だけの秘め事にしておきたかった。
宝石箱に、大切にしまった宝石のようにー

宝石ー


あれ?今何か思い出しかけたようなー


苑美は、頭を掠めた何かを思い出そうと、額に手をやった。
そのとき、腕につけられた、キスマークが目に入った。


「ヤダ、こんなトコにまで!」


苑美は、ハッとして顔を赤らめた。
肉体(からだ)に無数に残る情事の跡は、水瀬の愛撫が、如何に情熱的だったか物語っている。

苑美は、昨夜の目眩(めくるめ)く時間に思いを馳せて、肉体(からだ)が疼くような感覚を覚えた。


「それにしても、もうちょっと、場所を考えてくれてもいいのに」


苑美は、鏡に身体を写しながら、眉間にシワを寄せてぼやいた。
白くてキメ細やかな苑美の肌は、ちょっと色が変わっているだけでも、目立ってしまう。


「これじゃ、みんなに『Hしました』って、宣伝してるようなものじゃないー」


水瀬は、自分と寝るときも、余裕たっぷりで冷静だと思い込んでいる苑美は、口を尖らせた。
見える場所(ところ)に、キスマークをつけないよう配慮する位、簡単な筈だと思い込んでいる。

水瀬が聞いたら、苦笑いするだろう。
いや、眉間にシワを寄せて、不機嫌になるかもしれない。
実際には、苑美に対して、制御しきれない自分に、辟易しているのだから。

これ程、情熱的に愛された事が嫌である筈はない。
自分が、どれだけ激しく求められたかの証でもある。
だが、その事実が、歴然と皆の好奇の目に晒されるとなると、話は別だ。


「私は、露出狂じゃないんだから」


苑美は、またぼやいた。
香織なら、平然と見せびらかし、相手が如何に情熱的だったか、ひとくさり堂々と、語ってみせる位するかもしれない。
しかし、奥手で羞恥心の強い苑美には、とても無理な話だった。

いつまで見ていても、跡が消える訳でもないので、苑美は気持ちを切り替えようとした。


大丈夫、人前に出る頃には、解らなくなってるわ。
気にしないようにしよう。
それにしても、情事の度に、自分ばかりこんなにヒヤヒヤするなんて、何だか不公平よねー

静生さんの方は、あんな夜を過ごしても、何もなかったような、涼しい顔してるのにー


苑美は、頭を振った。
気持ちを切り替えるつもりが、考えが更に、イジケた方向に走っているようだ。

水瀬は、全てに完璧でそつがない。
自分だけが翻弄されて、弄ばれているような気分になるのは、受け止める自分が、未熟で器量(うつわ)が狭いからなのだー


。私には、本当にあの人を引き留めておくだけの器量(ちから)があるのだろうかー

第九十八話



愛を交わすときだって、私は与えられるだけで…
いつも、自分だけ我を忘れてしまう…


水瀬自身も、自分と熱い時間を共有しているのか、それとも自分だけが昇りつめて、水瀬の方は冷めているのかー
それを確かめたいのに、いつも自分の方が先に、何も解らなくなってしまう。


でも…声を聞いたわ…


苑美はふいに、水瀬が漏らした、悦楽の声を思い出した。
昨夜、水瀬は何か様子がおかしかった。

その原因が、何なのかも気になるが、そのせいなのだろう、水瀬は、愛撫もそこそこに、性急に苑美と交わった。

そのときに確かに、水瀬は声を漏らした。
間違いなく、快感を堪えきれず漏らした、快楽と歓喜に満ちた声ー
思い出すだけで、背筋がゾクゾクするような、艶やかで官能的な声に、苑美の心臓の鼓動は、跳ね上がった。

あのとき、水瀬はどんな表情(かお)をしていたのだろう。
そう考えると、淫らな感覚が肉体(からだ)を突き抜け、苑美は身を震わせた。

いつもは、濃厚な愛撫に心も肉体(からだ)もかき乱されて、何も見えず何も考えられない状態になっている

だが、そのときは水瀬の愛撫が浅かった為、まだ頭がハッキリしていた。
いつも通りの水瀬の愛撫だったら、水瀬の様子に気を配る余裕など、ありはしない。


いつも…あんな声を上げるのかしら…


それは、水瀬が苑美の肉体(からだ)で、快感を得ているという、紛れもない証拠だ。
苑美は水瀬の官能に満ちた声を、自分の肉体(からだ)で喘ぐ声を、聞きたいと思った。

自分の肉体(からだ)に、満足している証しとしてだけでなく、その快楽に乱れた声は、たまらなく魅惑的で、苑美を刺激した。

そのときの表情(かお)も見たいー
水瀬は、どんな表情(かお)をして、イクのだろうー

そんな考えが、頭を占めている事に気付いて、苑美は頬を染めた。
考えが、どんどんエスカレートしていくようだ。


私、どんどんイヤらしくなってくみたいー
いいのかしらー


他の人は、どうなんだろうかー
同じような悩みを持ってたりするのだろうか?

とりとめなく、考えを巡らせたものの、他に経験がない苑美に、解る筈もない。
そういう事は、香織にでも聞けば、一発で解るだろう。

自分の経験に加え、ネットなどで仕入れた、香織のソッチの豊富な知識は、実に多岐に渡る。
ただし、彼女に助けを請う場合は、地雷を踏む覚悟が要るだろう。


絶対、夜の事、根掘り葉掘り聞くわよねー


苑美は、眉間にシワを寄せ、溜め息を吐いた。
しかし、そういう危険を犯してでも、水瀬の官能の表情(かお)を見たい思いは募る。

それは、単純にして複雑な、苑美の想いー
愛する者に、自分に満足してほしい、誰でもが思う気持ちー

苑美の場合、その裏に、自分を卑下する、強い劣等感が隠れているから、尚更その想いが、強いのだ。
苑美自身は、それが他人より抜きん出て強い事に、余り気付いてはいないのだが。

緋色の迷宮

緋色の迷宮

輪廻転生が主軸の、ラブロマンス。 ハーレクイン風の女性向けエロエロドラマ(笑) ちょっとサスペンスミステリー風味も加味してあります。 因みに、阿久津は推理小説大好き! 金田一耕助やシャーロック・ホームズファンです。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-09-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7
  8. 8
  9. 9
  10. 10
  11. 11
  12. 12
  13. 13
  14. 14
  15. 15
  16. 16
  17. 17
  18. 18
  19. 19
  20. 20
  21. 21
  22. 22
  23. 23
  24. 24
  25. 25
  26. 26
  27. 27
  28. 28
  29. 29
  30. 30
  31. 31
  32. 32
  33. 33
  34. 34
  35. 35
  36. 36
  37. 37
  38. 38
  39. 39
  40. 40
  41. 41
  42. 42
  43. 43
  44. 44
  45. 45
  46. 46
  47. 47
  48. 48
  49. 49
  50. 50
  51. 51
  52. 52
  53. 53
  54. 54
  55. 55
  56. 56
  57. 57
  58. 58
  59. 59
  60. 60
  61. 61
  62. 62
  63. 63
  64. 64
  65. 65
  66. 66
  67. 67
  68. 68
  69. 69
  70. 70
  71. 71
  72. 72
  73. 73
  74. 74
  75. 75
  76. 76
  77. 77
  78. 78
  79. 79
  80. 80
  81. 81
  82. 82
  83. 83
  84. 84
  85. 85
  86. 86
  87. 87
  88. 88
  89. 89
  90. 90
  91. 91
  92. 92
  93. 93
  94. 94
  95. 95
  96. 96
  97. 97
  98. 98
  99. 99