ホロコースト・ハウス
Title: ホロコースト・ハウス
Title of the original story: Holocaust House
Author: Norbert Davis
Translator: Kiyotoshi Hayashi
This Japanese translation by Kiyotoshi Hayashi is licensed under a Creative Commons Attribution 2.1 Japan License.
第一章
おれはどこにいたんだ?
目を覚ますと、ドウンはベッドの上にあおむけに寝ていた。帽子が目の上までぐいとひきずりおろされている。しばらくじっと寝たまま用心深く耳をすませた。それから帽子のふちを押しあげ、まわりを見まわす。そこが自分のアパートで、寝ているベッドも自分のベッドだと分かったときはほっとした。
起きあがると、靴が片方しかなかったが、それをのぞけば、すっかり身支度は整っていた。もう一方の靴はたんすの上のちょうど真ん中にていねいに置かれている。
「どうやらきのうの晩は酔っぱらって帰ったみたいだな」とドウンはひとり言をいった。
不快な酔いの残りはすこしもなかった。彼は不快な気分になったことなど一度もない。科学と自然の法則に反する驚くべき事実だが、彼は二日酔いになったことがないのである。
背の低い、小太りの男で、まるいピンク色の、気のよさそうな顔からは、信じられないほど柔和な青い目がのぞいていた。髪はトウモロコシと同じ黄色。頬にえくぼが浮かんでいる。一見すると――二見しても三見しても同じだが――彼はこの世に生まれたお人好したちの典型のように思われた。そのあまりにも人畜無害そうな様子は哀れをもよおすほどである。しかししばらく見ていると、そんな印象がなにやらいぶかしく思われてくる。お人好しにしてもいささか度が過ぎるように見えるのだ。
「カーステアズ! おい、カーステアズ!」と彼は呼びかけた。
カーステアズはドアから寝室に入ってくると、愛想もこそも尽き果てたという目で彼を見つめた。カーステアズは犬である――淡黄褐色のグレートデーンで、生後一年たった子牛ぐらいの大きさがある。
「カーステアズ。きのうの晩は見苦しいところを見せて、すまなかったね」とドウンはいった。
カーステアズは表情をぴくりとも動かさなかった。カーステアズはチャンピオン犬である。超一流の先祖が長々と名を連ねる、堂々たる一覧の持ち主だ。育ちのよい犬らしく、ドウンを好いてはいたが、このようにふしだらな人物を主人と認めることはどうしてもできなかった。いっしょに散歩するとき、カーステアズはいつもはるか前方か後方を歩き、ドウンとの関係を他人に気取られないようにしていた。
彼は一声うなって向きを変えると、静かな威厳のある重々しい足どりで寝室から出ていった。ドウンは非難されてもまるで気にしなかった。そんなことには慣れっこだったのである。彼はベッドから立ちあがり、スーツのポケットをひとつひとつ探っていった。
予想していたように小銭が一セントもなく、財布の中身は空だった。上着のポケットに見たことのないものがひとつあった。金属のケースで、縦と横の長さは大きなシガレットケースくらい。しかしそれにしてはやけに厚みがあった。シガーケースのようにも見えるが、どのみちドウンは喫煙家ではない。どうやらステンレススチール製のようだった。
ドウンは考えこむようにそれを手のなかでひっくり返し、眼を細めて不思議そうに見た。いったいどこで手に入れたのか、見当もつかない。一方の側に小さな押しボタン式の留め金がついている。彼は親指をあててケースを開けようとし、やめた。
ケースを凝視しながら彼は立ちつくした。かすかなさむけが背筋をはいあがり、首の後ろが粒立った。金属のケースは手のなかでますます冷たく重くなったような気がした。ケースは光を受けてキラキラと危険な輝きを放った。
「なんてこった」とドウンは小声でいった。
ドウンは自分の直感を無条件に、全面的に信用していた。ちょうど大勢の人が自分の視力を無条件に、全面的に信用するように。彼の直感は金属ケースが今まで手にしたもののなかで、もっとも恐るべき物体であることを告げていた。
彼はショックを与えないよう慎重にケースをベッドの中央に置き、一歩さがってもう一度見た。今や警告を発しているのは直感以上のなにかだった。それは頭のどこかにある、混乱し、もやもやした記憶だった。彼はケースが危険であることを知っていた。なぜ知っていたのか、その理由は知らなかったけれども。
電話が鳴り、ドウンは居間に入っていった。カーステアズは玄関のドアの前に辛抱強く坐っている。
「すぐ行くよ」とドウンは話しかけて、電話を取った。それ以上はしゃべるきっかけがなかった。受話器をはずすや、声が彼にむかってわめきはじめたのだ。
「ドウン! よく聞け、この飲んだくれのルンペン! 話しおわるまで切るなよ。聞いてるか? おれはJ・S・タゲリーだ。頭がふらふらして思い出せないかもしれないが、貴様の雇い主だ! ドウン、フーテン野郎! 聞いてるのか?」
ドウンはとっさに東洋人のような甲高いキーキー声を出した。「ミスタ・ドウン、ここ、いない。ミスタ・ドウン、遠い、遠い――ティンブクトゥかシャム(註 タイのこと)あるよ」
「ドウン、このろくでなし! 貴様がしゃべっていることくらい分かっているぞ! 貴様の家に召使いはいないからな! いいか、よく聞け! 今すぐ会って話しがしたい。ドウン!」
「ミスタ・ドウン、ここ、いない。残念あるよ」
彼は受話器を置き、電話を台の上に戻した。すぐにまたベルが鳴りだしたが、もう注意をむけようとはしなかった。楽しそうに口笛を吹きながら、彼は寝室に戻った。
顔を洗い、清潔なシャツと替えのネクタイを取りだし身につけた。電話は卒中を起こしそうなくらい、かんかんになって鳴りつづけた。ドウンは上着をバタバタゆすってしわを取ろうとしたが、うまくいかず、あきらめてそのまま着ることにした。たんすのいちばん上の引き出しを開けて靴下の下をかきまわし、三十八口径警察用リボルバーをさぐりあてた。それをウエストバンドの下に押しこみ、上着のボタンをかけ、チョッキで隠した。
ベッドのほうに行き、金属ケースを取りあげ、そっと上着のポケットに入れた。それからまた居間に舞い戻った。
「支度ができたぞ。出かけるか」と彼はカーステアズにいった。
じめじめした、いやな感じの朝だった。どんより黒ずんだ険悪な雲がもくもくと湧き、空は地平線から地平線まで不穏な灰色を示していた。強い風が間断なく吹きつけ、西の山々から鮮烈な冬の気配を運んできた。山頂の雪は谷にむかって探るような白い指を伸ばしはじめている。
ドウンはアパート正面の広い階段の上に立ち、深呼吸して、目の前に広がる丘を見おろした。カーステアズは建物わきの茂みのなかを探索していた。
丘のてっぺんにタクシーの色がぽつんとあらわれ、飛ぶように丘を駆け下りて、ドウンの前を通りすぎた。彼は親指と人差し指をくわえて指笛を鳴らした。タクシーのブレーキがきしんだ。街区の真ん中でUターンし、断続的にエンジンをばんばんと鳴らしながら、めんどうくさそうに彼のほうに戻り、縁石のそばに停まった。
ドウンは突起のついた首輪をつかんでカーステアズを茂みのなかから引っぱりだした。
「おいおい!」運転手はぎょっとしていった。「そりゃなんだい?」
「犬だよ」
「そんなものをタクシーに乗せるんかい?」
「もちろんさ」ドウンは後部ドアを開けると、たくみにカーステアズを座席に押しこみ、自分もあとから乗り込んだ。カーステアズが床に坐ると、立てた耳がちょうどタクシーの天井をかすめた。
運転手は振り返ると、どうしようもねえなといった腹立たしげな目でにらんだ。「いいかい、お客さん、こっちは家畜を運搬する許可は持ってないんだ。貨車でも探すんだね。そいつをおれのタクシーから降ろしてくれ」
「君が降ろせばいいだろう」とドウンはいった。
カーステアズは平然と運転手を横目で見、六センチほどの牙をぎらりとむきだした。
運転手は身震いした。「わかったよ、わかったよ。運が向いてきたぜ――悪い運ばっかりがよ。どこに行くんだい?」
「三番街のはずれ」
運転手はもう一度振り返った。「いっとくけど、三番街のはずれにゃ、なんにもないぜ。使われてない倉庫が三棟。あとはやたら溝が走っていて、雑草が生えてるだけだ」
「三番街」とドウンはいった。「そのどん詰まりに行くんだ」
第二章
爆発する葉巻
三棟の倉庫は――四角い箱が三角形の形に並んでいたのだが――戦災にあった都市の建物のように荒廃していた。割れた窓がぽっかりあいた虚ろな目となって、まわりに青々と茂る、腰の高さほどの雑草を見渡していた。町はこちらの方向に発展するはずだったのだが、そのもくろみがはずれたのだった。逆に町はうらぶれた潰れかけの三つの残骸を残して撤退してしまった。ありえたかもしれない未来の残骸を残して。
「どうだい、満足したかい?」とタクシー運転手がいった。
ドウンは車を降り、カーステアズがついて出て来る前にドアを閉めた。「ここで待っていろ」
「おい!」運転手はびっくりしていった。「まさか、こ、このキリンを置いていくんじゃないだろうな……」
「すぐ戻る」
「とんでもねえぜ! こいつを連れていってくれ……」
ドウンは歩いて離れていった。いちばん手近の倉庫の裏手に回り、傾斜のきつい、砂利のころがる土手をすべり降り、溝のなかに入った。溝は高台になったその地点から北のほうの平地へとうねるように延びている。彼は溝の底に沿って進み、急な曲がり角を次々と曲がった。
溝は雑草が生い茂る丘の斜面の、えぐられたような深い裂け目にぶつかってとぎれていた。ドウンは立ち止まってあたりを見、耳をすませた。人影はなく、物音もしない。
彼は両手をラッパにして叫んだ。「おーい! おーい! だれか近くにいるか?」
彼の声は単調なこだまとなって反響したが、返事はなかった。しばらく待って満足そうにひとりうなずくと、彼はポケットから金属ケースを取り出した。溝を行き止まりまで歩いていき、用心しながら深い裂け目の中心にケースを置いた。
それから向き直って、五十歩ほど溝のなかを退いた。ウエストバンドから警察用リボルバーを抜き、撃鉄を引いて片膝をついた。左腕を支えにして注意深くねらいを定める。
金属ケースは照準器上の光り輝く点になった。ドウンの人差し指は慎重かつあざやかな動きで引き金をしぼった。拳銃は掌にあたって多少とびはねたが、銃声はまったく聞こえなかった。
くぐもった轟音が固いボール球のように溝を伝って飛んできて、鼓膜をつんざき、銃声をすっかりかき消してしまったのである。足もとに土がぱらぱらと降りかかり、ケースのあった丘の斜面に深くまるい穴がうがたれていた。黄色い土が生々しくのぞいている。
「なんてこった」とドウンはいった。自分の声がかすかなささやき声にしか聞こえなかった。ハンカチを取りだし、額の冷たい汗をふいた。彼は魅入られたように丘の斜面にむきだされた穴、ケースのあったその場所を見つめつづけた。
しばらくして深い安堵のため息がもれた。警察用リボルバーをウエストバンドに差しこんで、くるりと向きなおると、溝伝いに歩いて倉庫の裏手に来た。急な土手をよじ登り、腰の高さほどもある雑草をかきわけ、路上で待っているタクシーに戻った。
運転手はおびえた目を見開いていた。「おい、さ、さっき、物音がしなかったか?」
「物音?」ドウンはタクシーの後部座席に乗りこみ、カーステアズを押しのけて坐る場所を確保した。「物音? ああ、そうだな。小さい音がしたな。葉巻でも爆発したんだろう」
「葉巻」運転手は信じられないといった口調でおうむ返しにいった。「葉巻だと? もしかしておれは頭がどうにかなったのか。今度はどこに行くんだ?」
「ターク通りにあるグラスゴー特急っていう食堂車だ。場所は知っているか?」
「探せばわかるさ」運転手は憂鬱そうにいった。「そこでおれはお役御免になるんだろうね?」
グラスゴー特急は老朽化してガタがきていた。真ん中があわれにもたわんでへこみ、調理用レンジのブリキの通気管まで酔っぱらいのように前にかしいでいる。区画の隅っこに斜めになりながらぎゅうぎゅう身体を押しこんでいるのだが、そのみすぼらしい外づらをきわだたせるかのように隣りには巨大な輝くオフィスビルがいかめしく堂々と立っていた。グラスゴー特急はいつもその偉容のかげに隠れていた。
タクシーは店の前で停車した。ここは金融街で、日曜日は人通りがない。客もないままベルを鳴らして進む孤独な市街電車は、別の時代からやって来た訪問者のようだった。タクシーのメーターは一ドル五十セントを示していた。ドウンは運転手に尋ねた。
「そのメーターを動かして二ドルにできるか?」
「まさか。うちの会社をなんだと思ってるんだ?」
「すり替え用の請求書(チェンジオーバー・スリップ)を持っているだろう?」
「ちょっとまてよ!」運転手は憤慨した。「おれが不正を働いているとでも……」
「ちがう。しかしチップは出ないからね、それを料金伝票に含めちまったほうがいい。二ドルって書いてあるのは持ってないか?」
運転手はちょっとのあいだ顔をしかめて彼を見ていた。それからメーターを動かして伝票をポケットに入れ、同じような伝票の束をチョッキのポケットから出すと、それを指でくっていった。彼は一ドル九十セントと書かれた伝票をドウンに渡した。
「今度は警笛を鳴らすんだ。何回も」
運転手は警笛を立て続けに鳴らした。十回ほど鳴らしたとき、グラスゴー特急のドアから男が出てきて、二人をにらみつけた。
「よう、マクタビッシュ。保釈金を払って自由にしてくれないか」
マクタビッシュは階段を降り、歩道に出てきた。背の高い、やせた男で、肩が骨ばっていて猫背だった。頭は禿げ、長いくたびれた赤い口ひげを生やし、疲れて血走った青い目をしている。そでが短すぎる白いジャケットに、染みのついた白いエプロンをつけていた。
ドウンはメーターの請求伝票を渡した。「これが身代金だよ、マクタビッシュ。金を払って、つけにしておいてくれ」
マクタビッシュは苦虫をかみつぶしたような顔をして伝票を見た。「共謀とペテンの臭いがぷんぷんするな。まちがいない」
「そんなことあるものか。伝票に料金がちゃんと印刷されているだろう。この運ちゃんはまじめで誠実な市民だ。とっても親切にしてくれたんだぜ。チップもたっぷりはずむべきだと思うな」
「チップなんか払えるか!」マクタビッシュは断固としていった。「料金分は払うが、それ以上はダメだ――一ペニーもな!」彼はよれた一ドル札を運転手の掌にのせ、その上に十セント硬貨を九枚、注意深くかぞえて置いた。「さあ、持っていけ! ボリやがってずうずうしいにもほどがある!」
彼は運転手をじろりと見たが、運転手は無表情になにも知らないふりをした。ドウンは車を降り、カーステアズを引きずりだした。
「またそのぶさいくな犬を連れてきやがって!」とマクタビッシュ。「そいつに餌はもうやらないからな。つけだろうが何だろうが、うちの上等の肉をそいつの下品な喉につめこむのはお断りだ!」
ドウンはカーステアズを引きずりながら歩道を越え、その尻を押すようにして階段を登り、食堂車に入った。マクタビッシュは二人のあとから店に入ると、カウンターのうしろに回り、仕切り板をしたたか叩きつけた。
ドウンはスツールに腰かけるとほがらかにいった。「おはよう、マクタビッシュ。ヒースと山中の露(註 山中で密造したウイスキーの意味がある)のにおいがたちこめる、うるわしい朝だね。カーステアズにモモ肉のステーキを一ポンド用意してくれ。いいかい、なにも知らない客に出す、水みたいなオートミールがゆにしちゃだめだぞ。カーステアズは口がおごっているんだ。それに胃がデリケートでね。おれはハムエッグとトーストとコーヒー――二人前頼む」
マクタビッシュはカウンター越しに身をのりだした。「料金のかたに何を出そうっていうんだい?」
「たしかに今は一時的に現金の持ち合わせがないが、しかしスイス製の時計が……」
「いいや、そいつは今、うちのレジの中に収まっている」
「よかった。あれは少なくとも五十……」
「白々しい嘘をつくな。質屋で五ドルで買ったくせに。そういうごろつき、ろくでなしとは縁を切るつもりだ。あんたが受けて当然の報いを受けてりゃ、今頃はムショ暮らしをしているんだろうがな。今朝は食わせてやるが、これが最後だ。これっきりだからな。わかったか」
「悲しいなあ。マクタビッシュ、ハムエッグを急いで頼むよ。それからカーステアズにはモモのステーキ肉をミンチにして出してやってくれ」
マクタビッシュは小声で毒づきながら、ガスレンジにむかった。肉がジュージューとおいしそうな音をたてた。カーステアズはカウンターの上に首をつきだし、期待に胸をふくらませて、よだれをたらした。
「マクタビッシュ」とドウンがいった。肉の焼ける音に負けないよう声を張り上げて。「昨日の晩、この店に来たと思うんだが」
「ああ」
「少々――そのう――泥酔気味だったかな?」
「つぶれて、べろんべろん、ブタなみの醜態だった」
「きみはなかなか愉快な表現を使うね。おれはたしかひとりだったよね。勇敢にもひとり孤独をかこっていただろう?」
「いいや、酔っぱらったいかがわしい悪党仲間が一緒だった」
マクタビッシュは肉の大皿をカウンターに置き、ドウンはそれをスツールにおろして、カーステアズが食べやすいようにした。カーステアズは感謝の念をあらわす、低いうなり声をあげ、上品にむさぼり食べた。
ドウンはなにげなくいった。「その――ええと――いっしょにいた友だちだがね。きみはそいつを知っているかい?」
「見たことないね。それに運が続くかぎり、二度とお目にかかりたくないよ。あの面つきはあんたのより気に入らない」
「今日は絶好調じゃないか、マクタビッシュ。おれが友だちの名前を呼んだのを聞いたかい?」
「スミスっていったな」そういってマクタビッシュはハムエッグとコーヒーを持ってきた。
「スミスか」ドウンは口を動かしながら考えこんだ。「ふうん、いい名前だ。おれがどこでそいつを拾ったか知っているかな?」
「拾った場所なら知っている。あいつは大都会の荒野をさまよう魂で、あんたが救ってやったんだといっていたぜ。あんたのアパートの前で飢え死に寸前のところを見つけたってな。そんなことをいうから、あんたがへべれけだって判ったのさ。あいつの腹は風船みたいにふくらんでいた」
「アパートの前」ドウンはじっと思いにふけるように繰り返した。「なにもかも初めて聞くよ。そのスミスとかいう紳士を簡潔に生き生きと描写してもらえないかい?」
「背が高くて、太鼓腹。黒いゲジゲジ眉に、ネズミでも棲んでいそうな口ひげ。黒めがねをかけていて、帽子をかぶり、外套の襟を立てていた。特にひげは目についたな。あんたが引っ張っていいかって、ずっと聞いていたから」
「そうか」とドウンは静かにいった。彼はなぜ金属ケースに直感的な危険を感じたのか、ようやく理解した。酔っぱらっていたとはいえ、謎の男スミスが付けひげをしていたこと――男が変装していたこと、それを見抜くだけの観察眼は働いていたのだ。
ドウンはひとりうなずいた。これで金属ケースの謎の一端は解けた。しかしスミスの正体と、彼がドウンにどんな恨みを抱いているのかという点は、いまだに不明のままだった。
第三章
荒れ狂うタゲリー
そのとき、正面のドアが荒々しく、叩きつけるように開けられ、J・S・タゲリーが顎を引いて、けんかでもするかのように腕をぶんぶん振り回しながら入ってきた。彼は背が低く、ずんぐりしていて、がに股だった。かんしゃく持ちらしい赤ら顔に、獰猛な光を放つ入れ歯をしていた。
「やってくれるじゃねえか」と彼はたけだけしくいった。「やってくれるじゃねえか、ドウン、このフーテン野郎! この三日間、どこに行っていた?」
ドウンは飲みほしたコーヒーカップをマクタビッシュのほうに押しやった。「もう一杯。お下劣なお客さんには静かにするよう注意しろよ。消化に悪いや。やあ、ご機嫌いかがですか、ミスタ・タゲリー。まじめに訊きたいことがあるんですがね」
「なんだ?」タゲリーはうさんくさそうに訊いた。
「こんな男を知っていますか。名前はスミスじゃなくて、黒めがねをかけていない。黒い眉もなければ、黒い口ひげもない。太鼓腹でもなく、わたしの友だちじゃない男」
タゲリーはスツールのひとつにへなへなと腰かけた。「ドウン。良識ってものがないのか?おれの健康や幸せのこともちっとは考えたらどうだ?おれを神経衰弱にしたいのか? おまえに重要な仕事があるから、この三日間あっちこっち捜したんだぞ。それなのに見つけたとたん、横柄な態度で、はぐらかすような、わけのわからん話をしやがって。おまえ、スキーはできるか?」
「今、なんていいました?」とドウン。「スキーができるかって聞こえたんですがね」
「ああ、そういったよ。スキーやスノーシューズやスケートに慣れているか?」
「いいえ」
「じゃ、三十分で覚えろ。これが汽車の切符だ。ユニオン・ステーションから二時半に出る。厚手の下着とウールの靴下をはいて汽車に乗れ」
「どうして?」
「おれが命令したからだよ、このとんちきめ!」タゲリーがほえた。「おろかしくもおまえに給料を払っているのは、このおれだ! 妙なことをぐだぐだぬかさず、いうことを聞くか?」
「やってみますよ」とドウンは約束した。
タゲリーは大きく息をついた。「ようし。シーラ・オールデンという娘が山のウインター・シーズンの初めに、デゾレイション・レイクへ行く。おまえはこれから三、四週間、彼女に何事も起きないよう身辺警護するんだ」
「どうして?」
「彼女がそうしてくれと、うちの探偵社に金を払ったからだ! というより、彼女の後見人の銀行がうちを雇ったんだがな。いいか、よく聞け。シーラ・オールデンの母親は彼女を生んだとき亡くなった。父親は五年前に死んだが、彼女に信託財産を残し、それが今、五千万ドル近い額になっている。彼女は二日後に二十一になり、そのすべてを手にするわけだ。
若い娘が大金を手に入れるってんで、新聞にはいろいろな論評が書かれ、彼女はありとあらゆる頭の狂った連中から脅迫を山ほど受けている。あのデゾレイション・レイクの近辺は今時分は納骨所なみに人気(ひとけ)がない。シーズンが始まるのは一ケ月後だ。銀行は遺産相続に対する世間の騒ぎが一段落するまで、彼女に護衛をつけたいんだ」
ドウンはうなずいた。「なるほど。彼女のおやじさんはどこでそんな金を手に入れたんです?」
「発明だな」
「どんな発明?」
「火薬と爆発物」
「ほう」ドウンは金属ケースが丘の斜面にうがった深くて黄色い穴を思い浮かべた。「どんな爆発物です?」
「いろいろな種類のさ。専門にしていたのは手榴弾とか爆弾に使う高性能のやつだ。だから彼の残した信託財産はあっという間にふくれあがったんだ。ぜんぶ軍需品関係の株なんだ」
「ううむ。おれが彼女の警護に行くことは、ほかの人にしゃべりましたか?」
「もちろんだ。おれの話しを聞こうというやつには全員に。三日間、おまえを捜し回ったことを忘れたのか、まぬけ」
「そうか」とドウンはぼんやりといった。「その娘は山でなにをしているんです?」
「はにかみ屋でな。変人や財産目当ての恋人やいかさま師どもに絶えずつきまとわれているんだ」J・S・タゲリーはため息をついて、夢を見るような、感傷的な目つきをした。「考えて見りゃ、ひでえ話しだ。身寄りのない、かわいそうな子供が――親戚がひとりもないのさ――たったひとりで、なんにもない山の中にやられたんだから。心ない世間に傷つき、途方に暮れている。彼女を愛する者も、庇護する者も、同情する者もいない。忙しくなけりゃ、おれもいっしょに行くところだぜ――彼女には年上の誰か――落ち着きを与えてくれる人が必要なんだ」
「それに五千万といえば、ばかにできない金ですしね」とドウン。
J・S・タゲリーは夢心地のままうなずいた。「そうだ。それさえものにできたら……」彼はふと我に返った。「このくそったれ。気高い人間の感情をえげつないもうけ主義に引きずりおろさないと気がすまねえのか?」
「ええ。あなたのところで働くかぎりはね」
「ふん! ともかく彼女はそういうものから逃げるために山に隠れたんだ。付き添い兼秘書と連れだってな。二人は父親が持っていた別荘にいる。ブリルという弁護士が信託財産の収入を管理しているんだが、おまえが到着するまで、そいつが二人といっしょだ。別荘には管理人もいる」
「わかりましたよ」とドウンはうなずきながらいった。「おもしろそうですね。行けないのが残念だ」
タゲリーはショックで麻痺したようにいった。「残念だって……なに! なんだと! 貴様、気でも狂ったか? なぜ行けないんだ?」
ドウンは床のほうを指さした。「カーステアズですよ。山がお気に召さないんです」
タゲリーは息が詰まった。「貴様、このバカ犬が……」
ドウンは指を鳴らした。「そうだ、こうすればいい。彼を預かってくださいよ」
「こんな化け物をか! お……おれは……」
ドウンは手を下に伸ばし、カーステアズの頭をなでた。「カーステアズ、よく聞けよ。おまえは二、三日、ミスタ・タゲリーのおうちに行くんだ。おまえに好意を持っているんだから、礼儀正しくふるまうんだぞ」
カーステアズはタゲリーに凶暴な目を向けた。タゲリーはぶるぶる震えた。
「さてと」ドウンは快活にいった。「お金をください」
「金!」タゲリーは叫んだ。「前払いで渡した来月分の百ドルはどうなったんだ?」
「よく覚えてませんが、もう百ドルあれば十分です」
タゲリーはうめいた。彼は震える手で紙幣をかぞえながらカウンターの上に置いた。ドウンはそれをまるめると、むぞうさに上着のポケットにつっこんだ。
「なにか忘れていませんかね、ミスタ・ドウン」マクタビッシュがいった。
「ああ、そうだ。タゲリー、マクタビッシュにつけで借りている分を払っておいてください。では、ごきげんよう、みなさん。じゃあな、カーステアズ。すぐ電話しますよ」彼は口笛を吹きながらドアから出て行った。
タゲリーはぐったりとカウンターにもたれて頭をふった。「気が狂いそうだよ。脳みそがやかんみたいに煮えたぎっている」
「こっちもご同様ですよ」とマクタビッシュ。「なんであんなやつにがまんしているんです?」
「はっ! いいかね、やつがミシシッピ以西で最高の――掛け値なしに最高の――私立探偵でなく、うちの支部の好成績がなにもかもやつのおかげってわけじゃなかったら、おれはやつを殺しているよ!」
「無理でしょうね」
「わかってるさ」タゲリーはさえない顔で認めた。「やつならおれとあんたとカーステアズをまとめて殺(や)れるだろうよ、髪の毛一本乱さずに。やつはおれが知っているなかで、いちばん危険な男だ。しかもあのふざけた態度のせいでよけい始末が悪い。なにを企んでいるのか、わかったときには、もう手遅れなのさ」
第四章
デゾレイションにようこそ
ドウンは固いフラシ天のクッションに頭をもたせてこくりこくりと居眠りしていたが、ふと目を開けると、愛想よく目をぱちくりさせた。「なにかいったかい?」
車掌は声を張り上げたせいで顔が真っ赤だった。「ええ、いいましたよ! 十分ほどずっとね! 意識がないのかと思ったじゃないですか! ここがあなたの降りるところです!」
ドウンはあくびをして、背筋を伸ばした。首の筋を違えたらしく、指でさわるとずきりと痛い。
このあたりは路盤が悪く、アーチ型の天井からつりさがる旧式の筒状真鍮ランプがいらいらと小さく弧を描いて揺れていた。先頭からは機関車がしゃかりきになってシュッシュッシュッと煙をはきだす音が聞こえ、車内には石炭の燃えがらのにおいがむっとするほどたちこめていた。車掌をのぞけばそこにいるのはドウンだけだった。
ドウンは訊いた。「おれが降りるとき、汽車は停まってくれるのかい? それとも浮浪者みたいに飛び降りることになっているのか?」
「停まりますよ」と車掌はいった。
彼は機関士とテレパシーで連絡しあっていたのかも知れない。というのは、ちょうどそのとき汽車が停まったからである。機関車のブレーキが悲鳴をあげ、車両は車止めの柱にぶつかって、どきりとするほどの衝撃とともにはねかえり、あらゆる継ぎ目がぎしぎしときしんだ。
「誰かに腹でも立てているのか?」ドウンがたずねたのは機関士のことである。
車掌は憤慨するようにいった。「いいですか。このあたりは勾配がきつくてハエだって歩いて登ることができないんです。登る前に糖蜜に足をつっこみでもしないかぎりは」
ドウンは客のいない空席を見まわした。「まさかおれのために特別列車を走らせたわけじゃないだろうな?」
「まさか!」車掌はこのとんでもない冗談にいっそう憤慨した。「オフシーズンでもパロス乗換駅からここまで毎日往復しないと営業権がなくなるんです。うちの汽車が通ってなければ、ここまで歩かなければならなかったんですよ。さあ、降りてください! こんなところに一晩中坐ってるわけにはいきません」
ドウンは網棚から旅行かばんをおろし、くもった窓の外をのぞこうとした。「まだ雨かね?」
車掌は鼻を鳴らした。「雨ですって! 海岸じゃ、たぶん雨でしょう。でもここは違います。ロッキー山脈を二千四百メートル登ったんですからね。降ろし樋から投げ捨てたみたいに、じゃんじゃん雪が降ってますよ」
ドウンは野外スポーツの愛好家ではない。J・S・タゲリーのスキーだの、スノーシューズだのというせりふをまったく真に受けていなかった。
「雪?」彼はあっけにとられた。「しかしまだ夏じゃないか!」
「山の上じゃちがうんです。一メートルはつもりますよ。それに吹雪いているし。さ、進んでください」
あぜんとした面持ちでドウンはかばんを引きずり、うしろの出口から出た。彼が乗っていたのは最後尾の車両で、唯一の客車だった。プラットフォームの暗闇に足を踏み入れると、雪まじりの風が巨大な氷の手のように顔を打った。ドウンは怒ったようにつばを吐いた。バランスをくずしてよろめきながら鉄の踏み段をおり、冷たく湿った粉末状の堆積のなかに太ももまで埋まった。
機関車の汽笛が勝ち誇ったように鋭くこだました。
車掌はちぢかまったおぼろな影になり、やせた腕を突き出したその姿は腕木式の信号機に似ていた。彼の声が風にのってか細く漂ってきた。
「むこうだよ! 雪おおいを抜けて……行き止まり線に沿って……」
機関車はもう一度いらいらと叫び、汽車を前に突き動かした。
ドウンはかばんを下に放っていたため、雪をかきわけあちこちを探しまわっていた。「待ってくれ! 待て! 気が変わった」
車両のうしろの赤と緑のランプがあざけるように点滅した。車掌のどなる声が白く渦巻く闇を通して不明瞭に、かすかに聞こえた。
「えきは……ゆきおおい……よんひゃくメートル……」
機関車は民話のバンシーのように泣き叫び、雪と闇がたちまちその声を呑みこんだ。
「くそっ」とドウンはいった。
口から雪をはきだし、冷たく濡れた顔をぬぐった。かばんを見つけると線路の真ん中に持っていった。かばんの脇にトップコートをくくりつけていたので、それを解いてもがくように腕を通した。心中にはJ・S・タゲリーに対する黒い怒りがわきあがっていた。
襟を立てて首のまわりをしっかりおおい、帽子を深くかぶって耳を隠すと、彼は背中をまるめて線路の真ん中に立ちつくし、ゆっくりと信じられない思いであたりを見た。どちらを向いても視界は三メートル程度。そこから向こうは雪と暗闇があるばかりだ。人影はなく、線路をのぞけばそこに人がいたことを示すものすらなかった。
「おおい!」
彼の声は遠くへ行って、低い、物思いに沈むようなこだまとなってかえってきた。
「うれしくて涙が出る」ドウンはひとり言をいった。「お前は探偵だろう。名推理できりぬけろ」
適当な推理が思いつかなかったので、まあいいさと肩をすくめ、かばんをつかんで車掌が示した方へ線路伝いに歩きだした。風が荒々しく打ちすえたり、ひっぱったりして彼をよろめかせた。路盤の凍った砂利石が足の下でこすれあった。
下をむいて歩いていると、足先が分岐線にぶつかって転びそうになった。顔を上げると巨大な四角い洞穴みたいなものが口を開けている。正面の吹きだまりを蹴散らしながら、穴にむかって進んだ。気がつくと彼はその内部に入りこんでいた。風も、ひっきりなしに渦巻く雪も、そこまでは届かなかった。
ドウンはしだいに理解しだした。この背の高い、四角い洞穴は木造の雪おおいで、彼が立っている行き止まり線の上に吹きだまりができるのを防ぐためのものなのだ。車掌がどなっていたほかの情報も信頼できるなら、駅はこの行き止まり線のさらに四百メートル先にある。
ドウンは満足してひとりうなずき、かばんを握り直して線路の上をとぼとぼと歩きはじめた。外は暗かったが、雪おおいの内側は墨を流したような闇で、ほんのわずかの光も射さない。闇は袋のようにドウンを包み、彼の前をいっしょに動き、一歩進むごとにますます濃くなっていくような気がした。
彼は方向感覚を失った。線路につまずいて雪おおいの壁にぶつかり、その音が耳を聾するほどのやかましい反響音を生んだ。
小声で毒づきながらドウンはかばんを地面におろし、ポケットをまさぐってマッチを見つけた。親指の爪の先にこすりつけて火をつけ、ゆらゆら揺れる黄色い炎を両手で守りながら前にかざした。
一メートルと離れていないところに男が立っていた――雪おおいの粗い木の壁に寄りかかり、じっとこわばったように立っている。ぎこちなく一方の腕を突き出した格好は、まるで握手をしようと無言のうちに手をさしのべたかのようだった。彼の目はガラスのようにマッチの炎を反射している。
「あっ!」とドウンは驚いた。
男はなにもいわず、動かなかった。背の低い、がっしりした男だ。薄明かりのなかでその顔はざらつき、青ざめて見えた。
「やあ……こんにちは」ドウンは心もとなげにいった。彼は奇妙な、背筋がぞくぞくするような恐怖を感じた。
男は右手を前に突き出したまま、動くことなく、その場に立っていた。ドウンはゆっくりと腕を伸ばしてその手に触った。氷のように冷たく、指は鋼鉄の鉤(かぎ)のように硬い。
ドウンはよろめいて一歩、また一歩と後退した。まわりで影が不気味にうごめいた。マッチが指先を焼き、燃えかすを捨てると、大きな柔らかい掌のように闇がぴしゃりと彼にうちかかってきた。そのとき彼は背後の物音に気がついた――雪おおいの壁に吹きつける雪の音に混じって、こっそり砂利を踏む音が小さく聞こえた。
ドウンは少しずつ首を動かし肩ごしに振り返った。彼は身体を緊張させて立っていたが、そのあいだ、闇が彼の鼓動に合わせて脈打つように思われた。
いくつもの目が彼を見ていた。地面のすぐ上の闇に黄色く光り、目尻がつり上がった三組の目。
ドウンはとめた息が喉元でうずきだすまで立ちつくしていた。二つ一組の目は動かなかった。ドウンはゆっくりと静かに息を吐いた。彼はトップコートに手を入れ、上着の下を探り、警察用拳銃の握りをつかんだ。
そのままゆっくりと手を動かし、上着の下からリボルバーを抜き出す。撃鉄が小さく、冷たく、カチリと鳴った。ドウンは真上に銃を発砲した。
銃声は耳をつんざく雷鳴のようにこだました。目はまばたきして消えた。闇のなかからドウンにむかってどなる声が響きわたった。
「犬を撃つんじゃねえ! ちくちょう、犬を撃つな!」
声は黄色い目があったあたりより、さらにうしろのほうから聞こえてきた。ドウンは片膝をついて、その方向にリボルバーをむけた。
「明りをつけろ。いますぐに」
電灯式のランタンからさっと光が広がり、だぶだぶの青いデニムのズボンをはいた脚と、雪のついた大きなブーツに、ごわごわした生皮のくつひもが見えた。黄色い目はランタンの光があたらない脚のうしろにひっこんで、残忍な警戒のまなざしをむけていた。
「もっと高く。ランタンを高くあげろ」とドウンはいった。
明りはひっかかった舞台幕のようにがくんがくんとあげられた。そのたびに泥くさい羊皮の外套があらわれ、敵意に満ちた目がギラギラ光る、手斧のように細い顔があらわれ、汚れたカモ猟用の帽子と、側面に垂れた耳おおいがあらわれた。男は上背のある身体を奇怪な彫像のように突っ張らせて立っていた。ぎざぎざした、威嚇するような影がそのそばにのびている。
「おれは駅長だ。ここにあるのは会社の所有物だぜ。なにをしているんだ?」
「ここを出ようとしているのさ」
「どこから来た?」
「汽車に決まっているだろう、馬鹿め。落下傘部隊とでも思ったか?」
「そうか」と背の高い男はいった。「そうか。乗客か」
「もちろんだ」
「なるほど。ルンペンかなにかだと思ったぜ。この時期、こんなところに来るやつはいないからな」
「そいつは覚えておこう。明りを持ってそばに寄れ。犬は近づけるな」
背の高い男はゆっくりと近づいてきた。ドウンは彼が片腕であること――ランタンを持つ左腕しかないことに気がついた。右のそでは空っぽだった。
「ここにいるお友だちは誰だ?」ドウンはかちかちに凍って壁にもたれている男を指さした。
背の高い男はなにげなくいった。「そいつか?ああ、ボレイだよ。正式の駅長だ。おれは代理さ」
「どちらかというと死んでいるように見えるんだがな」
背の高い男は細い裂け目のような口をしていた。その薄い唇が動いて、並びの悪い黄ばんだ歯がのぞいた。「燻製ニシンみたいに死んでるさ」
「なにがあった?」
「酔って一晩、雪のなかに寝ころんでたら、板みたいに凍ったんだ」
「いつまでもここに放置しておくつもりか?」
「ひとりじゃ動かせねえんだよ、お客さん」背の高い男は頭を動かして空っぽの右そでを示した。「今晩、持っていってもらうはずだったんだが、忘れたんだろう。また連絡するよ。ここに置いておいたってだいじょうぶさ。この天気なら腐りはしない」
「それは心慰む話しだ」
「死体ってなあ、悪いもんじゃないぜ。塹壕の前の盛り土がわりに死体を積み上げて、その上から鉄砲を撃ったことがある。弾よけにもってこいなんだ、砂袋なみにさ」
「そりゃまたすてきな話しだ。あんたが駅長をつとめている駅はどこだ?」
「もうちょい、まっすぐ行ったところだ」
「先に行け。犬は近づけるな。やつらの目つきが気にいらん」
明りが下におろされた。背の高い男は身体を斜めにしてドウンのそばをすりぬけた。その細い脚はランタンの光を受けて影のように、棒のように動いていった。
ドウンは一方の手にかばんを、他方の手に撃鉄を起こしたリボルバーを持ち、用心深くあとを追った。三歩進むごとに振り返ったが、黄色い目はもうなかった。
雪おおいを突然抜けたかと思うと、前方のカーブしたところに駅があった。黄色い箱のような建物で、峡谷のむきだしの岩に押しつけられるように建っている。雪の付着した小窓からぼんやりと明りがさしていた。
背の高い男はドアを開けた。ドウンはあとについて、四角い小部屋に入った。切符を売る楕円形の窓口の格子のうしろに裸電球がひとつぶらさがっていて、室内を照らしている。二つの壁に沿ってワニスをかけた黄色い長椅子が並び、その二つの壁にはさまれた角に、にぶい赤色に輝くストーブがあった。
ドウンは後ろ足でドアを蹴飛ばして閉めると、かばんを床に落とした。リボルバーはなにげなく右手に持ったままだ。
「あんたの名前は?」
「ジャネン」と背の高い男はいった。彼はカモ猟用の帽子を脱いでいた。はげた頭はたて長で、奇妙に幅が狭い。じっと立ったままドウンを見ていたが、その目はずるがしこく、悪意に満ちた笑いをたたえていた。「こんなところに来るなんて、特別な用事かい? 泊まるところなんかないぜ。峡谷の下にはホテルが二軒あるが、雪山スポーツの時期でなきゃ開いてねえ」
ドウンは頭を動かし外の嵐を指し示した。「あれは雪じゃないのか?」
「たかがシーズン前の吹雪さ。平らなところじゃ、おおかたとけちまう。冬になりゃ、ここいらで二、三メートルはつもるんだ。周遊列車があがってきて――ときには四、五百人がいっぺんに来る――週末は待避線に停まっているんだ」
犬の哀れっぽい鳴き声がし、ドウンの後ろのドアをひっかく音がした。
背の高い男は顔をあげた。「犬をなかに入れていいかね、お客さん?」
ドウンは移動して長いすに坐った。「いいぞ」
ジャネンがドアを開けると、影のような灰色の姿が三つ、こっそりとなかに入ってきた。毛皮の厚い、大きなけもので、先のまるいくさびのような頭をしている。彼らは迂回するように部屋のなかを移動し、反対側の壁ぎわに、静かにじっと一列になって坐った。まばたきせずにドウンを見る目は黄色い、残酷な宝石のようだった。
「人なつっこいペットだな」
「そりを引くのさ、お客さん」
「なにをするって?」
「そりを引く――ハスキー犬だよ。ほら、ここに来る観光客もスキーやスノーシューズにあきちまうことがある。そんなとき犬ぞりに乗せて、ちょいとポケットマネーをかせぐのさ。犬ぞりに乗ったことのあるやつなんてそうはいねえ。大喜びするよ。こいつらは役に立つ犬なんだよ、お客さん」
「せいぜいかわいがってやれ。オールデンの別荘はここからどう行くか知っているか?」
ジャネンの唇がめくれて乱ぐい歯がのぞいた。「あの娘の友だちか?」その声は低く、こわばっていた。
「まだだよ。あんたは?」
ジャネンの目はぎらぎらした赤い切れ目になった。「おお、友だちよ。もちろんだ。友だちにならずにゃいられねえ理由があるんだ」彼は左手で空っぽの右そでをたたいた。「こいつはあの娘のおやじからのプレゼントよ」
ドウンは意味をはかりかねて相手を見つめた。「ほう。どういうことだ?」
「手榴弾さ。海のむこうの中国で戦っていたとき、手のなかで破裂したんだ。腕がもげたよ。オールデンのおやじの工場は中国人どもに手榴弾を売っていたんだ。それにゃ信管に欠陥があってな」
「それは娘の責任じゃない」
ジャネンの唇がめくれた。「おう、もちろんよ。誰の責任でもねえ。事故さ。なんでもありゃしねえ――ひとりの男の右腕がふっとんだだけよ。おれをかたわにして、この地の果てに追いやり、こんなろくでもねえ仕事につけただけ。そうよ、あのオールデンの娘は大好きさ。名前を聞くたびに、うれしくて横っ腹が張り裂けるくらい笑えてくるぜ」
彼の声はひび割れ、顔はゆがんで悪鬼のような表情になった。犬たちは壁ぎわで不安そうに身じろぎし、そのうちの一匹はくんくんと短く鳴いた。
「そうさ」ジャネンはしわがれた声でいった。「もちろん好きさ。あいつのおやじは手を抜いて手榴弾をつくった。娘にもう百万ドル残してやれるようにな。あんたも好きになるぜ、お客さん、もしもオールデンの手榴弾があんたの右腕を吹っ飛ばしたら。ええ? 手足のもげた昆虫みたいに片手でもぞもぞやるたびに好きになるぜ。ちがうか? 腕のつけ根が痛みでうずき、夜中に眠れなくなるたびに好きになるさ。あんたがドヤに泊まって、あの娘が血に染まった遺産を使う。そうなりゃ、あの娘がいとおしくてたまらなくなるぜ。ちがうかい、お客さん?」
男は正気ではなかった。ゆらゆら揺れるように立っていた彼は急にやせた身体をふるわせ、むせぶような、耳障りな声で小さく笑った。
「別荘まで道案内してほしいのか? まかせな、お客さん。喜んで連れていくぜ。オールデン家のためならいつだって喜んで親切にするぜ」
ドウンは立ちあがった。「行こう」彼は落ち着いていった。
第五章
ミス・百万長者
ドウンはまず煙の匂いをかいだ。かすかにつんとくる匂いが風下に漂ってきた。前を歩いていたジャネンが不意に立ち止まっていった。
「あそこだ」
風が一瞬、降る雪をけちらし、ドウンは谷間の入り口にたつ家を見た。そこから彼らが足下に見下ろす平地(フラット)が広がっていた。壁は白い吹きだまりを背景に黒く浮かんでいる。窓はぼんやりと黄色い目を見張っていた。
「ありがとう」とドウンはいった。「ここからはひとりで行ける。手間賃を払いたいんだが……」
ジャネンはやせおとろえた猛獣のように風にむかって背中をまるめ、家を見下ろしながら、自分だけの暗い、苦い思いにひたっていた。しゃがれただみ声がかえってきた。
「金なんかいらねえ」
「じゃあな」
「なに?」ジャネンは振り返っていった。
ドウンは二人が来た道を指さした。「さよならだ」
ジャネンはぎこちなく向きを変えた。「おお、帰るぜ。だが、おれはなにも忘れちゃいねえ、お客さん」二股手袋をはめた左手が空っぽの右そでに触れた。「なにも忘れちゃいねえ。娘にそう伝えてくれ」
「覚えておくようにする」
彼は風にむかって頭を下げ、ジャネンを見つめた。小道をもどる彼の姿がとうとう消えた。短い影のような三匹のハスキー犬を足もとに従えて。ドウンは不安な気持ちのまま肩をすくめ、急な尾根の斜面を下の平地(フラット)にむかって降りていった。場所によっては風が雪を地面からすっかり吹き払っていた。彼は凍った岩の上のかすかな道筋をたどった。
近づいてみると、別荘は思ったよりも大きく、黒ずんで醜悪に見えた。煙突からもくもくと立ちのぼる煙が白いしっくいの屋根の上を横に流れている。小道の先には半分だけ屋根と壁におおわれた小さなポーチがあった。ドウンは丸太造りの階段を上がり、重いドアをこぶしで強くたたいた。
彼は震えながら待った。軽装を通して寒気がしみこんでいた。足はかじかんで感覚がなく、顔の皮はひきつって固くなっていた。
ドアが開いて、男が信じられないといったように目をむいて彼を見た。「どうした――誰だね? どこから来た?」
「ドウン――サバーン探偵局です」
「探偵か! なんと、まあ! 入りたまえ、入りたまえ!」
ドウンは狭い陰鬱な玄関に入った。暖かさがやわらかく心地よい波のように襲ってきた。
「驚いたね!」相手の男がいった。「まさか今晩来るとは――この嵐のなかを!」
「サバーン探偵局のサービスです」とドウンはいった。「ご用命とあれば、どこへでも。おまけにわたしは給料を前借りしすぎていましてね」
「しかしその服装――君、身体の芯まで冷え切っただろう」
彼は背が高く、やせていて、印象的なくらい鋭く頬がこけていた。髪は黒いが、高い額の上から斜めに、奇妙にくっきりと白髪の筋が走っていた。話し方は神経質でたどたどしい。せいていらだっているかのように、意味のない中途半端なしぐさを小さくすばやく行うくせがあった。
「身体があちこち凍りかけてますよ」とドウンは認めた。「この家に暖房設備の整った部屋はありませんか」
「あるとも、あるとも! もちろんだ。こっちへ来たまえ。わたしはブリルというんだ。ナショナル・トラスト銀行にあるミス・オールデンの口座を管理している。法律関係の担当さ。そんなことは、みんな、ご存じだろうけど。このなかだ」
そこは長々とした居間で、高い天井は屋根と同じ形にとがっていた。むこう端には巨大な天然石の暖炉があり、ほとんどびっちりと薪がつめこまれ、炎が小さい青い指をしきりにそのまわりにはわせていた。
「駅から電話すればよかったのに」とブリルはいった。「今日みたいな嵐の晩に来ることはなかったのに」
「ここに電話があるのですか?」とドウンは訊いた。
「当然だよ、当然! 電話、電気、セントラル・ヒーティング、みんなある……ミス・オールデン、こちらはミスタ・ドウン、サバーン探偵局の探偵です。ほら、話したでしょう……」
「ええ、そうだったわね」とシーラ・オールデン。彼女は暖炉の前の長くて低いソファに坐っていた。小柄なやせた娘で、とりすました顔をしている。感心しないといった目つきでドウンを見、それから彼が歩いたあとに残っている雪を見た。つやのない、よれよれの茶色い髪、歯はやや出っ歯で、角縁(つのぶち)の眼鏡をかけている。
「こんな大げさなこと、ぜんぜん必要がないと思うの」とシーラ・オールデンはいった。「探偵に警護を頼むなんて! ばからしい」
「そんなことはないですよ、そんなことは」ブリルはいらだっていった。「必要なことです――こうしなきゃいけないんです。わたしには責任がありますから。ナショナルの連中はわたしのことを、あなたの安全を守る直接の責任者だと思っているんですからね。まじめな話、理にかなった範囲で、あらゆる用心をしなければなりません。わたしはできる限りのことをしているんです」
「わかってるわよ」シーラ・オールデンの声にはかすかなさげすみの響きがあった。「そこの椅子を持って火のそばにいらっしゃい、ミスタ・ドウン。ところで、こちらはミスタ・クローリー」
「やあ」クローリーは陽気にいった。「そんな服装じゃ、この天候には耐えられないよ。泊まるつもりなら、ぼくの服を貸してあげよう」
「ミスタ・クローリーはフリント・フラットの反対側に別荘をお持ちなんです」とブリル。
「ささやかな隠れ家をね」とクローリー。「どってことのない丸太小屋さ。ひきこもって、ときどき孤独にひたるんだ」
彼のアクセントは非常にイギリス的だった。細くて黒い口ひげをはやし、笑うと白い歯が輝いた。その非の打ち所のない美男子ぶりは、雑誌の広告でいつも最新型のスポーツカーを乗りまわす、あの信じられない若者たちとそっくりだった。そのことを彼は自覚していた。茶色い目には魅力がきらきら光り、黒い髪はウエーブし、肌は格好よく日焼けしていた。
ブリルがいった。「ミスタ・クローリーは今日の午後、嵐で道に迷ったのです。で、たまたま――たまたま今日の午後こちらにころがりこんできたのです」
「その通り」とクローリー。「ついていたよ、ねえ?」
「まったく」ブリルは苦々しげにいった。
クローリーはシーナ・オールデンのとなりに腰かけていた。彼は振り返ると彼女に惜しみなくほほえみを浴びせかけた。「いや、まったく今日はついているよ!」
シーナ・オールデンは照れ笑いをした。そうとしかいいようのない笑いだった。クッションの上で身をくねらせ、よれよれの髪の毛に手をやり、厚い眼鏡を通して恥ずかしそうにクローリーを見た。
「泊まっていってくださいね、ミスタ・クローリー」
「そんな必要がありますか?」ブリルはさらに苦々しげに訊いた。
シーラ・オールデンはとたんに敵意をむき出して顔をあげた。「もちろんじゃない! 今晩おうちに帰るなんてむりよ。部屋はたくさんあるんだし、だいたいわたしがもうお招きしたんですからね」
クローリーがいった。「こんな嵐なんか、なんでもありませんよ。ぜんぜん大したことありません。ヒマラヤの嵐がうなるのを見てごらんなさい。あれはちょっとした見物ですよ」彼はシーラのほうに寄りかかった。「でもヒマラヤじゃ、こんなにすてきな相手にめぐりあうことはありませんけどね。不都合でなければ、ミス・オールデン、喜んで泊めさせていただきます。誘ってくれるなんて、あなたはほんとうに親切だ」
「とんでもありませんわ」とシーラ・オールデン。
ドウンは両手を広げて火の前に立っていた。凍てついた身体にぬくもりがじんわりと広がっていった。そのとき、誰かがおぼつかない手つきで彼のそでを引っ張った。
「あなた――探偵なの?」
ドウンは振り返ってもうひとりの女を見た。彼女も小柄だった。シーラ・オールデンよりも小さい。やわらかい、円みのある顔で、ふっくらした唇はやや突き出ている。髪はブロンド、目は非常に大きくて青いが、焦点が合っていなかった。
「こちらはミス・オールデンの秘書です」ブリルがこわばった声でいった。「ミス・ジョウン・グレッグ」
「あなたって、かわいいわ」ジョウン・グレッグは軽く揺れながらいった。「かわいい、小さな、探偵さん」
「ぬいぐるみみたいにかわいいでしょう」とドウン。
「ジョウン!」シーラ・オールデンが鋭くいった。「不作法なまねはやめてちょうだい!」
ジョウン・グレッグはドウンの腕につかまったまま、ゆっくりと振り返った。「わたしに――いっているの?」
「酔ってるわね!」とシーラ・オールデンがいった。
ジョウン・グレッグはやわらかい唇を動かし、慎重に言葉を発した。「わたしが、あんたのこと、どう思っているか、いってやろうか――あんたと、横にいる、そいつのことを」
部屋のなかの緊張は限界まで張り詰めた針金のようだった。全員が立ちつくし、信じられないという目でジョウンを見つめていた。彼女は揺れていた。唇が新しい言葉を発しようとしてゆがんだ。そのあいだ、ガラスのような、まばたきをしない目が、憎々しげにシーラ・オールデンを見ていた。
「あの女――殺して――やる」ジョウン・グレッグははっきりとそういった。
第六章
危険な女
「ミス・グレッグ!」ブリルはぎょっとして息を呑んだ。しかしその場を動くことはなかった。口を開けて立っているだけだった。
「身体があったまるまで待ってくれないかな」ドウンはなにげなくいった。
ジョウン・グレッグはその瞬間にシーラ・オールデンのことをすっかり忘れてしまった。彼女はドウンにゆらりともたれかかるとこういった。「あんたみたいに、かわいい人って、見たことないわ。コート、脱がせてあげる」
ブリルが歩み出た。「わたしが……」
「いいの、いいの! わたしにやらせて!」
彼女は不器用にドウンのトップコートを脱がせ、それを前に捧げたまま、数歩うしろによろめいた。
「かけて――くるわ。かわいい、小さな、探偵さんのコート」
彼女はななめに部屋を突っ切った。ドアのある場所を三メートルほどまちがえ、用心深くあともどりして方向を定め直すと、こんどはちゃんとドアを抜けた。廊下からふらつき気味の足音が聞こえた。
「わたしも少々いただきたいな」
ブリルが彼を見た。「なんです?」
ドウンはグラスを持ち上げるしぐさをした。
「ああ、酒かね! いいとも、いいとも。もちろんだ。ココモ! ココモ!」
スイングドアがきしんで、廊下に出るドアとは反対の側にあるアーチから光がもれた。重々しい足音がしたかと思うと、男がアーチを通り抜け、不機嫌な声でいった。
「ふん、なんだね?」
ドアと同じくらいの広さの肩に、筋肉が盛り上がった長くて太い腕。青いデニムのズボンとチェックのシャツ、その上に白いエプロンをつけている。丈のあるコック帽を、かつては左耳だった醜いかたまりの上に粋な格好でのせている。ぶあつい唇の一方につまようじをくわえ、その目は太い、傷のある眉の下でどんよりと表情を失っていた。
「ああ、頼みがあるんだ」ブリルは神経質にいった。「ウイスキーを持ってきてくれ、ココモ。それから――それからソーダのサイフォンも」
「氷は?」
「今晩たっぷりいただきましたよ」とドウン。
「いや、氷はいらない」とブリル。
ココモは重い足取りとともにアーチを抜け、盆にデカンターとサイフォンと重ねたグラスをのせてすぐにまた戻ってきた。
ブリルは盆を受け取った。「ミスタ・ドウン、こちらはココモ――コックと管理人を兼任しているんです。こちらは探偵さんだよ、ココモ」
「このチビが?」とココモはいった。「探偵だと? はっ!」
ブリルがいった。「ココモ! もう用事はすんだ!」
「はっ!」ココモはドウンをじろりとにらんだ。彼はその巨大な肩を悠然とゆすりながらアーチのむこうへ去った。スイングドアがそのうしろできしんで閉まった。
「まったくもう。ミスタ・ブリル」シーラ・オールデンがきびしい口調でいった。「あなたの使用人の選び方には不満があるといわなければならないようね」
ブリルはどうしようもないといったように両腕を広げた。「ミス・オールデン、何度もいったでしょう、今までミスタ・ディベンがあなたのお世話を一手に引き受けていましたが、彼は交通事故でけがをし、なんの予告もなく彼の義務がわたしに押しつけられたんです。あなたがここに来ることさえ彼から聞いていなかったのです。
あなたから電話があったとき、わたしはすぐに管理人とコックが兼任できて、前もってこの場所をあけておいてくれる人を見つけなければなりませんでした。ココモは立派な照会状をいくつも持っていました――経験もなにもかも申し分なしです。ミス・オールデン、あなただって認めるでしょう、彼は見かけこそがさつですが、非常に腕のいいコックだってことは。それにここに来てくれるような召使いはなかなかいませんよ……」
シーラ・オールデンにはまだ文句が残っていた。「あなたの選んだ秘書だってひどいわ」
ブリルは両手をあげた。「ミス・グレッグはこれ以上は望めないくらいすばらしい照会状を持ってました。彼女に――その――酒を飲みすぎる傾向があるとは、どこにも書いてなかったんです」
「まわりが寂しいからそうなっただけさ」とクローリーがいった。「ビルマの奥地じゃ、そんな連中をいくらでも見たよ。文明に戻ればすぐ直るんじゃないか? ところで、ミスタ・ドウン、どうやってここを見つけたんです? つまり、ぼくでさえすっかり迷ったっていうのに、よそから来た人がここを見つけるなんて信じられないんですがね」
ドウンはグラスにウイスキーを半分、ソーダを半分満たし、ありがたくそれを味わっていた。「駅長さんに案内してもらってね――むこうは渋々だったんだけど。オールデンという名前にあまり好意を持っていないようだった」
「そいつも不安の種なんですよ!」ブリルが心配そうにいった。「あの男は狂ってる――危険です。あんなやつを野放しにしちゃいけない。正気じゃ考えられないような恨みをミス・オールデンに抱いているんです。へたをすると――へたをすると……要するに、わたしに責任がかかってきますからね。話し合おうとしたんですが、やつにすごまれるばっかりで。それにあの犬ども。ミスタ・ドウン、あの男のことは徹底的に調査したほうがいいですよ」
「ああ、もちろんですよ」
ブリルは落ち着きなく細い指で髪の毛をかきわけ、中心の白い筋をくしゃくしゃにした。「こんななにもないところに来るなんて感心しませんな、ミス・オールデン。わたしはたいへんな責任を背負わされてしまいましたよ」彼は上着のポケットを探って、キラキラする金属のケースを取り出した。
ドウンはグラスを唇まで持ち上げようとして、そのまま身体が固まってしまった。「それはなんです?」
「これかね?葉巻のケースだよ」
そのケースはドウンがポケットのなかに見つけたもの――謎のミスタ・スミスから送られた死のプレゼント――とまったく同一のものだった。
ブリルは親指で留め金をパチンとはずし、掌の上でケースを開いてみせた。六本の葉巻がきれいに並んでいた。
ドウンはほうっと長いため息をついた。彼は咳払いしていった。「どこで手に入れたんです?」
ブリルはケースに見ほれていた。「いいでしょう? 大きさもちょうどいいじゃありませんか。これは依頼人からのプレゼントです」
「その人の名前は?」
「スミス。実をいうと、それが妙な話でね。依頼人のなかにミスタ・スミスは数名いるんですが、そのうちの誰がこれをくれたのか分からないのです。とにかくその人は秘書の机の上にこれを置いていったんですよ。いろいろお世話になりました、スミス、って署名のあるメモを残してね――」
「なにが入ってました?」
ブリルは驚いた様子だった。「もちろん葉巻です」
「吸ったんですか?」
「いいや。私は喉のせいで特に軽いやつしか吸わないんです。ケースに入っていたのは雑役夫にやりました。気の毒な男だった」
「気の毒?」
「ええ。彼はその晩、亡くなったのです。町のはずれに掘っ立て小屋を持っていて、蒸留酒かなにかをつくっていたんです――少なくとも警察はそう考えています――で、それが爆発して彼はふきとんでしまいました。とてつもない爆発でしたよ」
「ほう」とドウンはいった。彼はブリルが葉巻を選び、ケースを上着のポケットに戻すあいだ、考え込むように彼を見ていた。
「さて」ブリルは愛想よくしようと努力しながらいった。「なにか楽しい話しをしましょうよ……」彼の声ははっと息を呑む音に変わった。
ジョウン・グレッグが静かに廊下から室内に戻ってきていた。右手でドウンのリボルバーを慎重に握りしめている。彼女はまっすぐ歩き、まっすぐ部屋を突っ切ってソファの前にやってきた。そこで立ち止まり、シーラ・オールデンにリボルバーをつきつけた。
「おい!」クローリーが危険を感じて叫んだ。
ドウンはグラスの中身をジョウン・グレッグの顔にぶちまけた。突き刺すような液体が顔にあたり、彼女は頭をそらした。よろめくように一歩さがると、ドウンはソファを飛び越えて、巧みに下から足をけりつけた。
彼女は仰向けに勢いよく倒れ、ブロンドの頭が床にあたってはねかえった。ドウンは彼女の右の手首を踏みつけ、力のない指のあいだからリボルバーを取りあげた。
ジョウンはくるりと向きを変えて腹ばいになり、両腕で顔を隠した。彼女はあわれっぽくむせび泣きはじめた。ほかの人々は恐怖に凍りつき、茫然として彼女を、そしてドウンを見つめた。
「楽しませてくれるな」ドウンはリボルバーをウエストバンドにしまいこみながらいった。「彼女はよくこんなことをするのかい?」
「うぐっ」とブリルはうめいた。「この女……あやうく……なんてことだ。頭がおかしいんじゃないか! 気の狂った酔っぱらいめ! どこで……どこでその銃を手に入れたんだろう?」
「わたしのトップコートのポケット」とドウンがいった。「うかつだった。しかしこの家に殺人狂がうろついていようとはね」
シーラ・オールデンの顔は紙のように白かった。「その女、ここから追い出してよ! クビよ! 連れてって!」
「わかりましたよ、わかりましたよ」とブリル。「すぐ連れていきます。恐ろしいことだ。ほんとうに恐ろしいことだ。わたしは責任を問われるだろうし……」
「連れ出して!」シーラ・オールデンが彼にむかって叫んだ。
ドウンはかがみ込んでジョウン・グレッグを助け起こした。泣きやんではいたが、全身がぐったりしていた。両腕をだらりと垂れ、目を閉じている。涙がやわらかい頬にジグザグ状のあとを残していた。
「気を失っているようだ」とドウンがいった。「上に運んで寝室に閉じこめておきます」
「ええ、ええ」とブリル。「それがいいでしょう。こっちですよ」
クローリーは心配そうにシーラ・オールデンのほうにかがみこんでいた。「ほら、もうだいじょうぶ。ひどい目に遭いましたね。同情しますよ。マレーで一度、男が暴れ狂うのを見ました。ひどかったなあ。でもあなたは勇敢でしたよ。これを少しお飲みなさい」
ブリルは先に立って居間を抜け、廊下から急な階段をのぼった。天然木の丸太の手すりがついていた。ブリルは階段をのぼりきると、最初のドアの前で立ち止まった。震えが止まらず、毒物にふれるのを避けるように、ジョウン・グレッグの力の抜けた身体からあとじさりした。
「ここですよ」彼はドアを開け、手探りして電気をつけた。「な、なんてひどいことをしてくれたんだ。ミス・オールデンはきっと事務所に文句をいうでしょう。この女、いったいなにを悩んでいたんだと思います?」
ドウンはジョウン・グレッグを窓下の狭いベッドに寝かせた。部屋はむせかえるような熱気だった。彼は窓を見、ジョウン・グレッグの紅潮した顔を見、窓を開けるのをやめた。彼女を見おろしていると、その目が開いて、彼を見あげた。まるい顔から命がすっかり流れ出し、うつろな、無惨な、幻滅の表情だけが残っていた。
「どうしたんだ?」とドウンはたずねた。「話してくれないか?」
彼女はゆっくりと顔をそむけ、ふたたび目を閉じた。ドウンはしばらく待ってからこういった。
「服を脱いでベッドに入りな。ひと眠りして忘れるんだ」
彼は明りを消して部屋を出た。鍵を内側から外側に移し、しっかりと回した。ドアを揺すって開かないことを確認し、ポケットに鍵を入れた。
ブリルはすっかり取り乱したように両手をもみ合わせていた。「ミ、ミス・オールデンには合わせる顔がない。わたしを非難するだろうなあ。みんなしてわたしを非難するんだ! こんな責任はしょいこみたくなかったのに……下に行ってクローリーの悪党を見張らなくては」
「どうして?」とドウンが訊いた。
ブリルが近寄ってきた。「あいつは財産をねらっているんです! 今日、道に迷ったなんて嘘ですよ! ミス・オールデンがいると聞いて、わざわざここまで来たんです! 彼女は感じやすい女の子ですからね、あいつを彼女と二人きりにして下においておくわけにはいきません。事務所から責任を追及されちまいますよ、もしも彼が……いや、もしも彼女が……」
「なるほど」
「いったいどうすればいいのでしょう。ミス・オールデンはきっと腹を立てるでしょう……でも、あいつをこのまま……」
「それはあなたの問題ですよ」とドウンはいった。「わたしの仕事は彼女にいい寄る連中から彼女を守ることじゃない……彼女を愛してない連中から守ることなんだ。わたしはクローリーを見張ったりしませんよ。ああ、疲れた。わたしの寝室はどこです?」
「そこだよ。ドアを開けたままにしておいてくれるね、ミスタ・ドウン。ま、万が一にそなえて」
「万が一にそなえてね」とドウンは同意した。「口笛を吹いてください。びっくり箱から飛び出したみたいにあらわれますから」
「心配でたまらないよ」とブリルがいった。「ともあれ下に行って悪党がおかしなまねをしないように監視しなくちゃ……」
彼は急な階段をおりていった。ドウンは廊下を進んでブリルが示した寝室へ行った。それは小さな部屋で、ショーウインドウに飾られた模型の部屋のようにきちんと整っていた。模造の丸太のベッドに椅子とタンスが備わっていた。
そこもむっとするように暑かった。ドウンは大きなラジエーターが隅に設置されているのを見つけた。近づいてためしに触ってみたが、思わず小声で毒づきながら指をはなした。熱せられすぎて、なかの水が煮えたぎっているのだ。ドウンはバルブを閉めようとしたが、探してもそんなものはどこにもない。
彼はしばらくラジエーターを見ながら、とまどったように顔をしかめて立っていた。この別荘はなにもかも様子がおかしい。ごくわずかだがピントの狂った写真のように。しかし彼はなにがおかしいのか、これだと指摘することができなかった。それがドウンをいらだたせ、彼はいらだたせられることが嫌いだった。だが、そこにあることにかわりはないのだ、得体の知れない禍々しい気配が。
彼はかばんを下に置いてきたことに気づいた。しかしおりて取ってくる気はしなかった。この館にいる人々のことを考えたかった。そして考え事をするならいつだって寝ころがるのがいちばんだ。彼は肩をすくめてベッドにむかい、着衣のままベッドの上に横たわると眠りについた。
第七章
殺人にはもってこいの夜
起きたときは、一気に目が覚めた。ドウンはとっさに周囲に気を配った。もっとも身体は動かさず、目を開けただけだった。寝室の熱気は厚く重苦しい毛布のようだ。白く逆巻く外の嵐とは異様な、非現実的な対照をなしている。
ドウンはじっとしたまま、自分を目覚めさせたものはなんだろうといぶかった。寝室のドアは開けっ放しで、廊下にはぼんやりした明りがともっている。どこからか不気味な家鳴りの音がした。一秒一秒がのろのろと重い足を引きずっていく。そのとき影が動き、寝室のドアの前の廊下にまるみを帯びたシルエットをつくった。
ドウンは手をすべらせて、なめらかな冷たいリボルバーをつかんだ。影はわずかに揺れながら濃くなり、不意にジョウン・グレッグの姿が視界にあらわれた。彼女は廊下をひどく用心深そうに小股に歩いていた。見たところ、ドウンの「寝ろ」という忠告に従ったらしく、ブロンドの髪によくはえる緑のシルクのナイトガウンを着ていた。彼女はドウンの寝室の前で立ち止まり、部屋の中をのぞきこんだ。
やわらかい唇がゆがむように開き、つばが顎にしたたった。恐怖にすくんだ目は見開かれ、右手には刃の広い、狩猟用の短剣が握られていた。
「ようし、いい子だ」とドウンは静かにいった。「そのままじっとしているんだ」
ナイフが床に落ち、けたたましい音を立てた。ジョウン・グレッグが震えながら大きく息を吸いこむと、薄い緑のシルクが胸の上で張りつめた。やわらかい喉に硬い筋が浮かびあがった。
突然彼女は糸の切れた操り人形のようにくずおれた。不格好にねじれ重なる緑のシルクと、白い肉のかたまりになったのである。ブロンドが光を受けて金属のように輝いた。
ドウンは猫のようにベッドを飛びおり、大股に二歩で入り口にたどりついた。ジョウン・グレッグを見るよりも、まず廊下の両側を見渡した。反対側のドアの一つがかすかに動いた。
「そこから出てこい」とドウンはいった。「さっさとしろ!」
ドアはおずおずと少しずつ開き、クローリーがやあと顔を出した。彼は青い短パンしかはいておらず、逆三角形の胴体は汗でテカテカしていた。日焼けしたその顔は薄気味悪い黄緑色を示している。
「やけに暑いね。窓は開かないし。音がしたような……気がしたんだけど……」
「こっちに来い」
クローリーは神経質に唇を舌でしめらせ、一歩また一歩と近づいてきた。「ど、どうしたんだ、彼女は?」
「そこにじっとしていろ」
クローリーは歯のあいだからひいっという息をもらした。「血だ! 見ろ! 手にべったりと……」
ドウンはジョウン・グレッグの横にひざまずいた。両手がぶざまに両脇に広げられていた。まるで昏倒するときも手を身体から遠ざけようとしていたかのようだ。血は指にこびりつき、やわらかい両の掌におぞましい糸を引いていた。ドウンはリボルバーの銃身で彼女が落としたナイフをつついた。
そこにも血が付着していた。取っ手にも、広い刃にも。ドウンは顔をあげた。
「ブリル!」彼は鋭く叫んだ。
どこかでベッドのスプリングがきしんだ。ブリルの神経質な声が「ああ? なんだ? なんだ?」といった。
スプリングが再び抗議するようにきしんだ。白いパジャマを着るとひょろりと背が高く見えるブリルが、ドウンの隣の寝室からあらわれた。つやのある髪は今はぼさぼさだ。彼は光を避けるように片手をあげた。
「なんだ?どうしたっていうんだ?」それから彼の細い顔は大きな万力で引っ張ったように伸びていった。「なんてことだ」彼はささやくようにいった。
夢遊病者のように足取りもぎこちなく、ふらつくように進み出ると「自殺か?」と訊いた。
「ちがう」とドウンはいった。「気を失ったんだ。ミス・オールデンの部屋はどれだ?」
ブリルは怯えきった目をむけた。「まさか彼女が……」彼は喉から押し殺したような声を出した。くるりと向きを変え、廊下を走った。白いパジャマがグロテスクにはためいた。「ミス・オールデン! ミス・オールデン!」
廊下の突き当たりの部屋が彼女の部屋だった。ブリルは両手でドアの鏡板をたたいた。「ミス・オールデン!」度を失ってその声は荒々しかった。彼はノブをひねった。ドアはすぐに開いた。
「ミス・オールデン」ブリルは不安そうだった。
「明りをつけて」とドウンがうしろからいった。
ブリルはドアの内側に手を伸ばし、スイッチをひねった。長い静寂が続いたあと、ブリルが小さなうめき声をもらした。
ドウンがいった。「ここに来い、クローリー。目の届くところにいろ」
クローリーがたどたどしくいった。「しかしだね、ジョウンを――その、ミス・グレッグだけど――あのままにしておくわけには――」
「いいからこっちへ来い」
クローリーはシーラ・オールデンの寝室にそろりそろりと入ってきた。ドウンがリボルバーの銃身をクイと動かすと、それに従うように壁ぎわまであとじさった。ブリルは部屋の中央に立って顔をおおっていた。
「破滅だ」と彼はしめった声でぼそりといった。「法律事務所の共同経営者になるはずだったんだ。警護の仕事をいっさい任せてくれたのに。毎年何万ドルにもなる業務がふいになった。この州から追放されて――二度と弁護士稼業はできない」それはしだいに小さくなって、ぶつぶつという意味不明のつぶやきに変わった。
この寝室もドウンの寝室と同じようにむっとする暑さだった。シーラ・オールデンの身体の上にはシーツが一枚かかっているだけだ。硬直したままベッドに仰向けに横たわっている。喉を耳もとから耳もとまで切り裂かれ、頭の下の枕は血を含みねっとりしていた。骨張った顔はひきつり、小さく、うつろに見えた。近視の目がガラス玉のように明りを凝視している。
ドウンはクローリーに銃を向けた。「話せ」
クローリーはイギリス的な陽気さを取り戻そうとしていた。「だがねえ、君、まさかわたしがやっただなんて……」
「ああ、そのまさかだよ」とドウン。
クローリーの口が声を発することなく開き、閉じた。
「少しはっきりしてきた」とドウンはいった。「おまえはおびえて一瞬口をすべらせたな。ジョウン・グレッグとはどのくらい親しいんだ?」
クローリーはほほえもうとしたが、苦悩にゆがんだしかめ面にしかならなかった。「もちろん、君、なにも知らないよ。あの女性には今日会ったばかりなんだから」
「そんな話は通用しない。ようく知っているんだろう。だから彼女は苦しんだんだ。嫉妬にかられてな。おまえは彼女のヒモじゃないのか?」
「上品じゃないな、そんないいがかりのつけ方は」
「殺しも上品じゃないさ。おまえはジョウン・グレッグのヒモだった。フリント・フラットに家なんか持っちゃいないだろう。どうだ?」
「それはね……」
「いいや、持っちゃいない。ジョウン・グレッグはシーラ・オールデンの秘書になったことと、ここに来ることをおまえに話した。シーラ・オールデンのことは知っていたから、これは自分の魅力で若い娘に取り入る絶好の機会だと思った。
おまえはジョウン・グレッグを計画に加えた――たぶん大金をふんだくって、山分けしようと持ちかけたんだ。ところがいざ会ってみると、おまえはシーラ・オールデンに色目を使い、ジョウン・グレッグはそれがたえられなかった」
「とんでもない」クローリーはこわばった不自然な声でいった。「一から十まで嘘っぱちだ」
「きさま!」とブリルがいった。肉のそげ落ちた頬に血が上り、真っ赤になった。「このちんぴら! 絞首刑にしてやる! いいか――いいか――ドウン! こいつから目を離すな、わたしが銃を取ってくるまで!」彼は興奮して騒々しく部屋を出ると、猛然と廊下を駆けていった。
クローリーはもう平静を取り戻していた。目は冷たく、油断なく、冷酷にドウンを見ていた。ブリルの寝室のドアがばたんと閉まり、甲高い声が荒々しく響いた。
「立て! 立て、このアマ! 気絶したふりをしていることは分かっているんだ。目が開いていたぞ!」
廊下からもみ合うような音がし、ジョウン・グレッグが息もたえだえの声をあげた。クローリーは壁ぎわに寄った。
「やれやれ」とドウンはいった。
足音が乱れながら近づいてきた。ブリルはジョウン・グレッグを手荒く部屋のなかに突き入れた。
「そら!」ブリルは激怒していた。「彼女を見ろ! おまえがしでかしたことをよく見ろ! この恥知らずの売女め」
ジョウン・グレッグは押し殺したような恐怖の声をあげた。血に濡れた手を力なく前に伸ばし、振り返ってクローリーのほうに駆け寄り、その胸に顔を埋めた。
「やっぱりそうか!」ブリルが叫んだ。彼は四十五口径コルト式自動拳銃を握り、狂ったように振り回した。「やつらを見ろ! うるわしきペテン師と殺人犯のコンビだ! しかし、ただじゃすまないからな! いいか、この償いはさせるからな!」
ドウンは隅のラジエーターを見ていた。彼は軽く顔をしかめ、音をたてずにひとり口笛を吹いていた。
「なんでこんなに暑いんだろう?」と彼は訊いた。
「ああ?」とブリルがいった。「なんだって?」
「なんで寝室はこんなに暑いんです?」
「窓には暴風を防ぐ鎧戸がついている」ブリルがいらいらといった。「こんな風の強い日は開けられないんだ」
「でも、どうしてラジエーターがこんなに熱いんです? 中の水は煮たっている。音が聞こえるでしょう」
「なにをくだらない!」ブリルがどなった。「そこでラジエーターについてバカげた質問をしている場合じゃないだろう、シーラ・オールデンが殺され、犯人二人を現場でつかまえたってときに……」
「そんなつもりはないですよ。この家の温度について調べてきます。二人を見張っていてください」
「ドウン、ふざけるな!」ブリルはわめいた。「戻ってこい! おまえは雇われているんだぞ! これは命令だ……」
「見張っていてください」とドウン。「すぐ戻りますから」
第八章
やあ、ココモ
ドウンは廊下を渡って、急な階段をおり、居間を突っ切った。薪の暖炉は活気を失い、今は燃えさしが赤く光っているだけだった。風が吹き込んで煙が煙突を逆流し、くすんだ青いもやがもうもうとたちこめている。ドウンは部屋の反対側にあるアーチを抜けた。
目の前に台所に通じるスイングドアがあり、それを縁取るようにかすかに光がもれていた。押すとちょうつがいがきしんだ。ココモは台所の隅、白く輝くクロム製電気レンジの横に坐っていた。大きなエプロンをつけたままで、丈の高いコック帽を左目にかぶさるよう粋に傾けていた。さっきと同じつまようじを口の端にくわえているようだ。彼がしゃべるとそれがひくひくと上下に動いた。
「なんの用だ、坊や」
「夜は寝ないのか?」
「そうさ。夜更かしでね」
「二階がやたら暑いんだが」
「気の毒だな」
「ここは温水式セントラルヒーティングなんだな。かまどでなにを燃やしている? 石炭か石油か?」
「石炭だ」
「誰がかまたきをしている?」
「おれだ」
「どこにある?」
ココモは太い指で台所の奥のドアを示した。「地下室」
「見てくる」
ココモは口からつまようじを取ると、部屋の隅にはじき飛ばした。「輪回しでもして遊んでな、坊や。おれが癇癪を起こして、てめえをぼろ布みたいにのしてしまうまえにな。ここはおれの管轄区域だ。馬鹿面さげたスパイにうろつかれたくない。そのことはほかの連中にもいってある。今、てめえにも伝えたぞ」
「そういわれてもね」とドウンはほがらかにいった。「やっぱりかまどを見てこよう」
ココモは椅子から立ちあがった。「気にさわる坊やだな。そのおもちゃの豆鉄砲はしまっておけ。さもないと、てめえの喉に突っこむぞ」
ドウンはにこにこしながら拳銃を上着のポケットに入れた。「おやおや、本気でやりはしないだろう、そんなえげつないまねは?」
ココモはすばやくすり足を使ってむかってきた。顎を引き、頭を筋肉の盛り上がった分厚い肩のあいだに埋めるようにして。
ドウンはそれでも笑っていた。彼は左手の人差し指と中指をV字型に突きだし、ココモに目潰しをくらわせようとした。ココモもそうくることはわかっていた。彼は頭を下げるかわりにうしろにそらし、ドウンの力を込めた指を狭い額で受け流した。しかし頭をそらしたとき、ごつい筋肉質の喉が無防備にさらされた。
ドウンの右ショートジャブがまともに喉仏をとらえた。いやらしいほど効果的な一撃で、ココモは息が詰まったような奇声を発し、両手で喉を押さえて苦しそうに頭を左右に振った。口を大きく開け、目は怖いくらい飛び出している。
ドウンはもう一発パンチを見舞った。大きく振りかぶり、コンパクトな身体の全体重をのせた。こぶしが顎の関節にあたると、ココモは一歩うしろにさがり、また一歩さがった。力なく頭を振り、必死に息を吸いこもうとしている。
「手が砕けてしまうな、この石頭」ドウンは平然といった。彼は上着のポケットからリボルバーを取り出し、銃の握りでココモの脳天を殴りつけた。
丈の高いコック帽はへこんで妙にいびつなパンケーキになった。身体から力の抜けたココモはがくんと膝を落とした。ドウンは冷血な手際よさで、同じところを殴りつけた。ココモは顔面から前に倒れ、つやのあるリノリウムの床にぴくりともせずのびてしまった。
あっという間の出来事だった。ドウンはココモを見下ろしながら立っていた。なにごともなかったように、あいかわらず面白がるような笑みを浮かべて。息づかいさえ乱れていない。
「まったくこの手のタフガイどもときたら」彼はそういって肩をすくめた。
リボルバーをまた上着のポケットに入れ、ココモの身体をまたいだ。地下室へ行くドアには新型の差し錠がかかっていた。ドウンは錠をはずし、下に行く急な階段をのぞいた。背後から射す台所の光にぼんやりと照らされている。ドアのまわりを手探りすると電灯のスイッチがあったので入れてみた。なにも起きない。地下室には明りはあったとしても切れているのだ。
ドウンは階段を降りた。台所の光が届かないところに来ると、用心深く足もとを探った。地下室は暖かく暗い洞穴だった。炭塵のにおいがたちこめている。頭の上に手を伸ばし、アスベストに分厚く包まれた暖かいパイプの位置を確認した。それが延びる方向から、かまどは反対側の隅にあると判断した。
セメントの床の上を注意深くすり足で進んだ。どちらの壁にも手が届かない、部屋の真ん中あたりに来たとき、なにかが鋭くひゅっという音をたてて顔の前を通り過ぎた。
彼はぴたりと足を止め、リボルバーに手を伸ばした。顔の前を通り過ぎた物体はうしろの壁にぶつかって鈍い不吉なごつんという音とともに床に落ちた。ドウンはリボルバーを構えたまま、凍りついたようにじっとしていた。なにかにつまずきそうで動くことができなかったのだ。首をかしげるようにして耳に神経を集中した。
前方の闇のなかからささやくような声がした。「そ、それ以上近寄らないで。わたし、シャベルを持っているのよ。こ、これでぶつから」
ドウンはなまなかなことでは驚かないが、このときばかりは、生まれてこのかた、こんなにびっくりしたことはないというくらいびっくりした。彼は口を開けて声のする方向を見つめた。
声が震えるようにいった。「出て行ってちょうだい」
「おおっと、待ってくれ。これ以上近寄らないよ。石炭を投げるまえに話を聞いてくれないか」
「あ、あなたは誰?」
「ドウンという者だ」
「探偵さん! まあ!」
「少なくとも自分は探偵のつもりだがね。あんたは誰だい?」
「シーラ・オールデン」
「ほう」とドウンは無表情にいい、深く息を吸いこんだ。「ふむ、おれは酔っちゃいない。だからこれは現実に起きているんだな。この地下室にいるあんたがシーラ・オールデンだとしたら、上の寝室にいるシーラ・オールデンは誰なんだ?」
「秘書のリーラ・アダムス。わたしのふりをしているのよ」
「ほう。ゲームみたいなものかな?」
「ちがうわ!」
「怒らなくてもいい。訊いただけだよ。ここの明りはどうなっているんだ?」
「電球をはずしちゃったの」
「で、どこにやった? 入れ直すよ。この状況に光を当てるものがほしい」
「いいえ、だめ! やめてちょうだい!」
「どうして?」
「わ、わたし、服を着てないの」
「服を着てない」とドウンは繰り返し、強く頭をふった。「おれは寝ぼけてでもいるのかな。わけが分からない。説明してくれないか」
「リーラとわたしは二人だけでここに来たの。ココモが先に来て、家を使えるようにしていたけど。ココモとリーラはグルだった。ここに着いたら、わたしに銃を突きつけ、地下室に閉じこめたの――この部屋の向こうの部屋よ。リーラはわたしになりかわるんだっていっていたわ」
「ブリルは頭がおかしいのか? リーラ・アダムスがあんたじゃないってことが分からないのか?」
「ええ。法律事務所のミスタ・ディベンがいつもわたしの面倒を見ていたから。ミスタ・ブリルのことは、わたしは知らない。彼もわたしを見たことがない」
「なんてことだ。で、それから?」
「彼らはただわたしをあっちの地下室に閉じこめたの。窓が一つあるけど、二人は格子をはめたくなかったから、わたしの服を奪っていった。そうしておけば窓から抜け出せない。凍死しちゃうもの。駅まで三キロもあるし、方向が分からないわ。それにココモは、わたしが大声をあげたら……」彼女の声はしだいにかすれ、小さな嗚咽に変わった。
「ああ、見当がつくよ」
「あいつは今どこにいるの?」
「ココモかい? 今ちょっと気分が悪いらしい。話を続けてくれないか、最後まで」
「わたし、窓をこわして金属片を手に入れ、それでドアの鍵をこじあけて、ここに出てきたの。暖房システムの動かし方なら知っているし、バルブは地下室にあるわ。それで一階のラジエーターを操作するバルブは閉めて、二階のラジエーターを操作するバルブを思いきり開いたの。それから通気装置を全開にしたまま、かまどに石炭を入れたわ。二階の寝室を暑くしたら、ココモ以外の誰かが調べにおりてくるんじゃないかと思って」
「その通りだ」とドウン。「うまい手を考えたね。わたしも脳みそがあれば、何時間も前におりてきていたんだが。ここにいるんだよ。着るものを持ってくる。もう怖いことはない」
「怖くなんかなかったわ――たいして。ただ――ただ、ココモがおりてきて……」
「あいつはおりてこない。ここにいるんだよ。すぐ戻るから」ドウンは階段を駆け上がった。いつもの陽気なのんびりした様子はどこにもなかった。口を引き締め、その動きは猫のようにしなやかで無駄がなかった。
ココモは台所の中央にうつむけに倒れたままだった。ドウンは音をたてないすばやい動きで、戸棚の扉を開け、アルミニウムのやかんを見つけた。
流しでやかんに水を満たし、注意深くココモのところへ運んだ。それから片足のつま先で巧みに大男をくるりとひっくり返した。
彼は上を向いたココモのうつろな顔にやかんの水をぶちまけた。一瞬の間をおいて、ココモの分厚い唇が動き、水を吹きだした。彼は目を開け、ドウンがじっと見下ろしているのを見た。
「やあ、ココモ」ドウンは穏やかにいった。「ハイ、ベイビイ」
ココモは喉の奥からうなり声を上げ、両肘をついて起き上がろうとした。ドウンは小さく一歩前に踏み出し、顎の下に強烈な蹴りを入れた。ココモのぐったりしたからだが床から浮き上がり、転がって半身がレンジの下に隠れた。彼は二度と動かなかった。
「あとでまたプレゼントをやるよ」とドウンはいった。
第九章
黒い雪
彼は居間を抜けて正面玄関に出た。クローゼットを開け、雪に濡れたトップコートを見つけたとき、階段の上から足を引きずるような、かすかな音が聞こえてきた。彼は振り返った。
ブリルだった。うしろから射す光のせいでグロテスクなほど細身に見えた。腰から曲がったその姿は折れた鉛筆のようだった。
「ドウン!」彼はあえぎながらいった。
両手で手すりをつかんだと思いきや、狂ったような、踊るような足取りで階段をおりてきた。やせこけた足が奇怪なもつれ方をした。つんのめって最後の十段は頭から墜落しそうになったが、ドウンに受け止められた。
顔の皮膚は黄ばみ、頬骨は醜いこぶのようにふくらんでいた。額には長い血の筋がついている。ドウンは彼を階段の上に横たえた。
「ドウン!」彼は絶望にうちひしがれたようにいった。「あのクローリーの悪党め。一杯くわされた。わたしを……わたしを……椅子で殴ったんだ」彼は目をぎらぎらさせ、肘をついて上体を起こした。「ドウン! 君の責任だぞ! わたしをおいていくなんて! 君の過失だ!」
「殴られたのはわたしじゃありませんよ」
「なんだと! わたしをひとりにしてふらふらどこかへ行っているすきに……そうだ、逃げられてしまう! 駅に向かっているんだ! ジャネンが手を貸すだろう! あそこの長物車(ながものしゃ)で……山を下るつもりだ……」
「電話してくい止めましょう」
ブリルは力なく首を振った。「使えないよ。二階のを試した。電話線を切られたんだ。追いかけてくれ! 数分前に出たばかりだ! まだ間に合う! あの女は……はやくは歩けない」
「まさか、この嵐のなかにまた出ていけとでも?」
「ああ、いまいましい男だな! わたしのキャリアがかかっていることが分からないか。わたしが君のところの探偵局を雇ったんだ。そして君はわたしを失望させた! 君はブラックリスト入りだ。訴えてやる!」
「わかりましたよ、わかりました。連れ戻しましょう。それから地下室に女の子がいますから、コートを持っていってください」
彼は玄関のドアを開けた。風が勝ち誇ったように歓声を上げ、霞(かすみ)のような粉雪を吹きつけた。
「明りを持っている」とブリルが弱々しくいった。「やつらは電灯式のランタンを持っている。それが目印だ……」
ドウンはばたんとドアを閉めた。風は峡谷の黒い出口からうなりをあげて猛然と打ちかかってきた。ドウンはトップコートに腕を通そうともがいたが、風がコートをぶざまな帆のようにふくらませ、ドウンもろとも階段から岩の散らばる黒い地面へ吹き飛ばした。
吹きだまりのなかに腰まで埋まってようやく立ち止まることができた。しばらくは曲げた一方の腕を目の上にかざし、肌をぴしぴしと刺す雪を防ぎながらそこに立っていた。突風が襲ってきたとき、平地から斜面を登る道に光のまたたくのが見えた。
ドウンは走り出した。雪で半分目が見えず、風にぐいと引っ張られたり、いきなりとてつもない勢いで押されたりした。足がふらついて倒れそうになったとき、急な坂道の砂利石が靴の下でこすれあった。
明りは頭上高くに見えていたが、距離はずっと縮まっていた。目で追っていると、谷間をあがった尾根のところでまたたいて消えた。
ドウンはコートの下を探って、リボルバーをつかみ、おぼつかない足取りで走るように小道を登っていった。息をすると冷気が喉を突き刺した。空気は薄く澄み、存在感がまるでない。心臓が不快なリズムで鼓動を打ちはじめた。
尾根にたどりついたとき、彼はぜいぜいと息を切らしていた。汗が服の下で冷たい小川のように流れている。ふらつきながら立ち止まって明りをさがした。明りは左手前方に見えた。
彼は向きを変え、執拗に突き進んだ。道はもうそこにはない。雪はちんまりした藪にぶつかって大きな吹きだまりをいくつもつくり、藪は無数の指を伸ばして彼の服をひっかこうとした。
明りはすぐ前方上部のところに揺れていた。その光はいつくもの矮樹が幽霊でも出そうな回廊を形作っているのを照らし出している。それらの木々は風に押されて前のめりになりながら、警戒の目を見張っていた。
ドウンは雪に埋もれた丸太に足を取られ、顔から白い粉雪のなかに倒れこんだ。不屈の意志で四つん這いになり、身体を持ちあげ、コートのそでで雪まみれの顔をぬぐった――と、なかばひざまずくようなその姿勢のまま、彼は身体を固くした。一メートルとは離れていない、目と同じ高さのところに、残忍で凶暴な光を放つ黄緑色の目があった。
「はっ!」ドウンは息を吐きながらそういった。
目は突然その下に鋭い牙を光らせて彼にむかってきた。ドウンはリボルバーをまっすぐ突きだし撃った。雪のなかに突っこんだとき銃身に雪が詰まったのではないか、暴発するのではないか。引き金を引くとき、そんな思いが頭をかすめた。
明るいオレンジ色の閃光が走り、目は消えた。重い物体が雪のなかで足を蹴り、のたくった。ドウンはもがくようにして立ちあがった。別の黒っぽい低い影が雪の逆巻く闇のなかでこっそり彼の横に回りこんだ。
ドウンはリボルバーの狙いを定め、すぐに撃った。弾が命中すると、それに応えるように甲高いキャンという声がし、二つ目の黒い影が胴体を必死にねじ曲げて雪のなかを転がった。
三匹目が闇のなかから大きく跳躍し、黒い筋となってドウンの喉笛めがけてまっすぐに飛びかかってきた。彼はうしろに倒れながら発砲した。鼻の平たい三八口径ピストル用の弾丸は、けものの胸に当たって、その身体を空中で一回転させた。けものはうしろに倒れ、一匹目の脇にぴくりともせず横たわった。
ドウンが起きあがろうと雪のなかをもがいているとき、ジャネンの姿が真上にぼうっと浮かびあがった。なにか大声でしゃべっていたが、風がそれを逆上した意味不明の叫び声に変えてしまった。彼は斧を手にしていた。それを頭の上に振りあげ、思いきりドウンにむかって振りおろした。刃の先端が恐るべき一筋の光を放った。
ドウンはとっさに横に転がった。
「ジャネン!」彼は狂ったように叫んだ。「やめろ! やめろ! 撃つぞ――」
斧の刃先が耳をかすめた。ジャネンはそれを持ちあげ、もう一度振りおろそうとした。
ドウンは今度は避けることができなかった。避けようともしなかった。彼は撃った。コートを留める太いウェブ・ベルトの、草色に光るバックルより上を狙った。
ジャネンは息が詰まったような奇妙な声を出した。斧は空中で動きを止めた。ジャネンはもう一度斧を振り上げようとしながら一歩後退し、また一歩後退した。
「そいつを捨てろ」とドウンはいった。
斧は必死の努力でじわじわと持ちあげられた。ジャネンの息は鋭い笛のような音になった。彼はぐらぐらしながら一歩前に出た。
「そうかい、ベイビイ」
ドウンはふたたびリボルバーの引き金を引いた。鈍い小さなカチッという音がして、あとはなにも起きなかった。それがなにを意味するのか、ドウンが理解するよりも先に、ジャネンがおかしな具合にくるりと回転し、丸太のようにこわばったまま、前のめりに倒れた。
「なんてこった」ドウンは小声でいった。
彼はゆっくりと立ちあがった。すべては一瞬の出来事で、銃声のこだまがまだ力強く風の前を駆けめぐっていた。
ドウンは拳銃を見た。手のなかで物騒なきらめきを放ち、太い銃身には溶けた雪が光っている。彼は弾を込め直さなかったことを思い出した。金属ケースにむかって一発、雪おおいのなかで一発使っていた。拳銃に残っていたのは四発だけだったのだ。彼はそれを全部使い果たした。あの四発のうち、一発でもはずしていたら……。
風が甲高く残酷な喜びの声をあげながら、裸の枝のあいだを鋭く吹き抜けた。
ドウンはふらつく足で前に進み、ジャネンの上にかがみこんだ。男はこときれ、ゆがんだ顔にはもう雪が冷たく白い毛布を薄く積みあげていた。
ドウンは吹きだまりとやぶをかきわけて逆戻りし、小道の堅い地面を探し当てた。冷たさを越えた冷たさに彼は衰弱し、感覚を失っていた。こわばって扱いにくい棒のようになった足を動かして急坂をおり、平地を抜け、乱舞する雪を通して彼を見守る、暖かい、差し招くような窓の灯にむかっていった。
第十章
銃が多すぎる
ドウンは下をむいたまま、やみくもにポーチを進み、正面ドアに行き当たった。ノブを見ると、こごえる手でそれをひねり、やっとこのことで回すことができた。風にあおられたドアは手を離れ、壁に激突して雷のような音をたてた。
ドウンは足を踏みならしながら玄関のやわらかく贅沢なぬくもりのなかに入った。懸命にドアを引っ張って閉めると、ほっと息をしながら左の掌で顔についた雪のしずくをぬぐった。
「銃を捨てろ」
ドウンはびくりとして背中を起こした。ブリルが居間の入り口に立っていた。パジャマの上にドレッシングガウンを羽織っている。ゆったりくつろいだ様子で入り口に寄りかかり、右手にはごつくて黒い、大きな四十五口径自動拳銃が握られていた。
「銃を捨てるんだ」彼は自信に満ちた静かな声で繰り返した。
きれいに櫛をあてた髪に白い筋をくっきりと浮かびあがらせ、目を細めたその姿はひどく役者じみて見えた。彼は大げさに意地悪くにやりと笑った。
ドウンは右手のこわばった指を開いて三十八口径を絨毯の上に落とした。
「どっちにしろ弾は入ってなかったんだ」と彼はいった。
「こっちにこい」とブリルがいった。
彼は入り口からあとじさり、ドウンは彼に従って居間に入った。誰かが暖炉に焚きつけ用の薪をくべたのだろう、赤い炎が貪欲にぱちぱちとはぜていた。
「ミス・オールデンとは知り合いだね」とブリルがいった。
彼女はソファに坐っていた。男物のオーバーコートを羽織っていたが、大きすぎてほとんど二重に巻き付けていた。ロングボブにしたブルネットの髪は多少乱れ、暖炉の火が暖かく照り映えていた。茶色い瞳はおびえて大きく見開かれ、柔らかい下唇が震えている。小さな鼻の頭に炭塵のあとがついていた。
「また会ったね」とドウンはいった。
彼女は返事をしなかった。ブリルがいった。
「君は邪魔になってきたよ、ドウン。ジャネンはどうした?君の銃声が聞こえたが」
「ちょいと射撃練習をしていたんだが、たまたま引き金を引こうとしたときに、ジャネンの阿呆がのこのこ前に出てきたのさ。死んだようだね」
ココモが台所から入ってきた。顎の一方がいびつにふくれあがり、目はドウンを見て険悪に光った。
「油断のならねえ小悪魔め! 今度やっつけるときゃ――」
「楽しみにしている」とドウンはいった。
「あとにしろ、ココモ」ブリルがいった。彼は値踏みするようにドウンを見すえていた。「真相が分かってきたんじゃないかね?」
「もちろんさ。とっくにお見通しだった」
「そうかい」ブリルはあざけるようにいった。
ドウンはうなずいた。「ああ。あんたはディベンが抜けたら、そのあとを受けてシーラ・オールデンの信託財産を管理することになっていた。このサル芝居を計画する時間はたっぷりあっただろう。時期を見計らってディベンを事故にあわせた。シーラ・オールデンがここに来ることは前もって知っていた――たぶんあんた自身がほのめかしたんだ――そして手はずを万端整えた。
まずリーラ・アダムス、シーラの秘書を仲間に加えた。シーラからふんだくった金を山分けすると約束してな。それから力仕事のためにココモを引き入れた。やっぱり金を山分けすると約束して。事前にこのあたりをうろついていたら、ジャネンという変わり者がオールデン家に恨みを持っていることを知った。
あんた方の身代わりとしておあつらえむきの人間だ。起きたことはどんなことでも、いつでも彼のせいにできる。しかしジャネンはおしゃべりだ。あの気の毒な駅長ボレイは、あんた方がやつとよからぬことを企んでいるんじゃないかと疑惑を抱いた。それであんたか、ココモか、ジャネンが――あるいは三人共謀してかも知れないが――ボレイを酔わせ、もしかしたら麻薬も与えて吹雪のなかに放置し、凍死させたんだ。
リーラ・アダムスはシーラ・オールデンの替え玉になるはずじゃなかった。わたしみたいなのがひょっこりやってこない限りは。あんたにしてみれば誰にもここには来てほしくなかった。なにしろ本物のシーラ・オールデンを地下室に閉じこめているんだから。
そこで、だ」ドウンは一呼吸置いて頬をつるりとなでた。
「ジャネンは爆発物に詳しい。あんたはわたしのためにシガーケースのプレゼントをやつに作らせた。わたしが任務につくことは聞いていた。信託銀行が探偵局を雇ったのだし、タゲリーがあんたに、わたしが送られることをしゃべったんだろう。そこであんたはすてきな服を着て、わたしにシガーケース爆弾を渡すチャンスを狙ったんだ」
「ケースを渡したのがどうしてわたしだと分かったんだね?」
ドウンはにやっと笑った。「分からないわけないさ。あんたは正体を隠そうとして、かえって目立っていたんだよ。なにか失敗したとき、自分と事件との関係を誰にも証明されないよう注意していた。
だから雑役夫とシガーケースのおとぎ話をでっちあげたり、ことさら神経質で心配そうな様子をしたり、シーラ・オールデンの仕事を任されたばかりなのだという印象をわたしに植え付けようとしたんだ。真相など知っていそうにない、神経過敏のまぬけに見せかけようとしたんだ。実際あんたはまぬけだがな」
ブリルの唇がめくれた。「そうかね。今晩なにが起きたかも話してくれるかね?」
「おやすいご用だ。わたしを片付けることに失敗し、わたしがここに来ることを知ったとき、偽シーラ・オールデンの秘書を演じる女が必要になった。わたしが秘書がいると思っていることを知っていたんだな。
そしていちばん最初に見つけた女を雇った――ジョウン・グレッグだ。彼女は替え玉作戦のことは知らなかった。そしてリーラ・アダムスを本物のシーラ・オールデンだと思いこんだ。問題だったのは、彼女のボーイフレンド、クローリーも同じようにそう思いこんだということだ。
クローリーはあんたの計画をぶっこわしてしまった。リーラ・アダムスに色目を使いはじめたのだ。あいつは口先がうまい。彼女は夢中になってしまった。彼女は骨ばった、垢抜けない女だったからな。クローリーみたいに、君は美しいとか、息を呑むようだとか、奇跡のようだとか、すべてがすばらしいとか、誰にもおせじをいわれたことがなかったのだ。
彼女はいい気になった。いい気になりすぎて手に負えなくなり出した。クローリーにこれ以上誘惑されたら、彼女は計画をもらすだろう、あんたはそう思った。そこで彼女を殺したんだ。
ジョウン・グレッグは嫉妬で気も狂わんばかりだった。彼女がリーラ・アダムスを殺そうとしたのを見て、あんたもそうしてやろうと思いついたんだろう。そうすればリーラ・アダムスを片づけ、その罪をジョウン・グレッグになすりつけられると考えて。
あんたはマスターキーを持っていたからリーラ・アダムスの寝室に入ることができた。首を切ったあと、ジョウン・グレッグの寝室に行って、彼女にナイフを握らせ、両手を血まみれにした。目を覚ましたとき、彼女は自分が偽シーラ・オールデンを殺したのかどうか、実際分からなかった。わたしがあんたを残して出て行き、彼女とクローリーとの三人だけになると、あんたは彼らに逃げろといった。そして罪をすべて彼らになすりつけるつもりだった。彼らが隠れて出てこないことを見こんでな。
ジャネンはこのあたりをうろついていた。あんたは彼に知らせて、わたしを外に送り出した。ジャネンとやつのクソ狼どもがわたしを片づけてくれると思ってたんだろう。あんたは二回へまをしたんだぜ。最初は階段をおりてくるときの芝居。椅子で殴られた人間はあんたがやったようなあんなおかしな振る舞いはしない。それから地下室に女の子がいるといったとき、興味も示さなかった。役者としては大根だよ。その突拍子もないおつむでこれからどうしようと考えているんだ?」
ブリルは落ち着いていった。「少し計画を変更しなければならないな、ドウン。しかし大したことじゃない――特に君にとってはどうでもいいことだ。わたしが最初もくろんでいたのは、シーラ・オールデンが信託財産を手に入れたあと、一週間ほど彼女の代理権を握らせてもらうことだった。計画通りにいっていれば、わたしは一財産築けたんだ」
「そりゃそうだろう。彼女にインチキ株を何百万株も売りつけてな」
ブリルは軽蔑するような目つきをした。「そんなやぼなことはしない。彼女が持っている数社の会社の株を交互に大量に売り買いして株価を変動させ、そのたびに自分は正しい側にいればいいんだ。
それなら犯罪にはならない。また、彼女は代理権譲渡は自発的ではなかったと、あとから証明することもできないはずだった。そんなことをしたって、わたしとココモとシーラ・オールデンに反論されるだけさ。しかし事態ここに至っては――こうなることを望んでいなかったというわけでもないんだが――ミス・オールデンにはわたしの妻になっていただかねばならない」
ミス・オールデンがはじめて口をきいた。「いやよ」彼女は小さい声だがはっきりといった。
ブリルは彼女に全く注意を払わなかった。「分かったかね、ドウン。最初の計画が失敗しても、ちゃんと善後策は講じてあるのさ。ミス・オールデンがわたしの妻になれば、そのお金はわたしの自由――それは確実だ。もっと肝心なのは、わたしに不利な証言ができないということだ」
シーラ・オールデンがいった。「あなたと結婚なんかしないわ――今もこれからもずっと」
「その気になると思いますよ」とブリル。「なんとしてもそうしていただかなくては。ココモ、ミス・オールデンを別室に連れていって――どういえばいいのかな――説得してみてくれないか?」
第十一章
では、さようなら
シーラ・オールデンが小さく息を呑んだ。ココモが腫れていない方の口の端を歪めて意味ありげに笑った。彼はソファに近づいてきた。
「むこうの部屋は暖かいよ」とブリルはいった。「コートはいらないだろう」
シーラ・オールデンは外套をきつく身体に巻きつけた。襟をつかむ指に力がこもって白くなった。
「やめてよ! そんなことさせないわ……」
「ブリル」とドウンがいった。
動いたように見えなかったのに、今彼は右手に平たい金属のケースを持ち、じっとそれを見つめていた。
「それはわたしのだぞ」とブリルが叫んだ。
「いいや、ちがう、ブリル。あんたのじゃなくて、あんたがわたしにくれたやつだ」
沈黙が薄くて黒いベールのように部屋のなかに広がった。静寂を通して暖炉の火のはぜる音が遠くかすかに聞こえてきた。
「馬鹿なことをするもんだ」ドウンはケースを見ながらいった。「何も知らない振りをしてこんなものを持ち歩いたり、謎のミスタ・スミスがくれただの、なかの葉巻が雑役夫を粉々に吹っ飛ばしただのと、作り話をするとは。このケースに葉巻は入っていない――爆弾葉巻も普通の葉巻も入っていない。火薬だけが詰まっている」
ブリルがこわばった声でいった。「どうやって――どうやって――」
「あんたも抜けてるな。どこの市警察の爆弾処理班にもブラックライト、エックス線、フルオロスコープといった道具があってな。それを使えば怪しげな包みを開封しなくても中身が分かるんだ。知らなかったか? ベイシティの爆弾処理班に友だちがいるから、そいつのところに持っていったんだ。なかをのぞいて、こいつはよくできた手榴弾だと教えてくれた。だから記念品として取っておいたんだ。ほら、受けとめろ」
彼が放ったケースはくるくると回りながら輝く放物線を描いた。ブリルは首を絞められたような恐怖の声をあげた。拳銃を落とし、必死の形相で両手を伸ばしケースをつかんだ。
ドウンは巧みな動きで突進し、ブリルの細い足に体当たりした。その衝撃でケースは宙に放り出され、ブリルは回転して頭から転倒した。頭が暖炉の縁にぶつかりいやな音をたてた。全身がぴくぴくと震えながら硬直し、やがて動きが止まった。
ドウンは転がって上半身を起こし、太くて黒い拳銃の筒先に、ココモのおびえてたるんだ顔を見た。
「やあ、ココモ」ドウンは穏やかにいった。
ココモは指を広げて大きな両手を前に突き出した。飛んでくるはずの弾丸を押し戻そうとするかのように。
「撃つな」彼はか細い声でいった。「撃たないでくれ」
「いいや、撃つぜ」ドウンはいった。
ココモは彼が撃つ気なのだと信じた。彼はドウンになにができ、なにをするか、身をもって体験していた。多肉質の唇が音もなく開いて閉じ、ねばっこい唾液の筋が口の端に光った。
ドウンは立ちあがった。「後ろをむくんだ、ココモ」
ココモはゆっくりとぎこちなく後ろをむいた。ほとんど止まりかけている機械仕掛けの人形のようだった。ドウンは近寄って拳銃の銃身で頭を殴った。
「さすがの石頭も明日は痛みを感じるだろう」ドウンはにこやかにそういって、シーラ・オールデンに片目をつぶって見せた。彼女は茫然と茶色い目を見開いていた。
「怖くなかっただろう? 連中に勝ち目はなかった。連中はたかがアマチュアだし、わたしはプロだ。あのケースは本当はブリルのなんだよ――やつがくれたのじゃなくて。昨日の晩、ポケットからすり取ってやったのさ。詳しく調べるためにね」
彼女は大きく目を見はりつづけた。
彼は玄関に出るドアの方へ行き、電話機を取りあげた。フレンチ・タイプといわれるもので、長い電話線が出ている。その線をうしろに引きづりながら、ドウンは電話機をソファまで持っていき、シーラ・オールデンの横に坐った。彼は受話器に耳を当てた。
「まぬけな連中だよ」彼はシーラにいった。「電話線すら切ってなかった」
彼女はこわばった首を少しずつ回して、ブリルからココモへと視線を移した。「あの人たち――あの人たちは――」
「死んだのかって?」ドウンが代わりにいった。「とんでもない」受話器に耳を当てていた彼は、そのときこういった。
「もしもし。交換手か? ベイシティのJ・S・タゲリー宅につないでくれ。番号は知らない。切らないで待っている」
彼は待ちながら様子をうかがうようにシーラ・オールデンにほほえみかけた。彼女は呼吸も整いはじめ、頬にも少しだけ血の気が戻ってきていた。
「で……でも、あなた、いとも簡単に……とっても速かったわ。その、わたし、なにがなんだか分からないうちに……」
「手は目よりも速し。少なくともわたしのは彼らのより速かった」
「あ……あなたみたいな人、見たことない」
「あなたもわたしも一人しかいないからね」
受話器からガチャッという音がし、J・S・タゲリーの声がいった。
「なんだ? どうした? 誰だ?」
「ドウン――忘れられた男ですよ。ご機嫌いかがですか、ミスタ・タゲリー? カーステアズは元気ですか?」
「きさまか! あのキリンの化け物! 女房の新しいカーテンをみんな引きずりおろしやがった! 百五十ドルもする花瓶を壊したんだぞ! テーブルの下にもぐりこんで背中を突きあげ、食事を床にぶちまけもした! 今はガレージに鎖でつないである。いいか、ドウン、あいつがまたいたずらしたら、象撃ち銃で木っ端みじんにしてやるからな! 聞いているか?」
「あれは若くて力がありあまっているんですよ。きっとわたしがいなくて淋しいんでしょう。許してやってください。それじゃ」
「待て! 待たんか、唐変木! そこはおまえが行くことになっていたオールデンの別荘か? 問題は起きてないだろうな?」
「ええ、だいじょうぶですよ。今さっき片付きました。誘拐と殺人が二件、窃盗未遂と殺人未遂などがありましたがね、みんな解決しました。電話を切ってくれませんか、タゲリー。保安官を呼ばなきゃならないんで」
「ドウン!」タゲリーが叫んだ。「ドウン! なんだと? なんといった? 殺人……誘拐。ドウン! ミス・オールデンは無事か?」
ドウンは彼女を見た。「ええ、無事ですよ、ミスタ・タゲリー。ミス・オールデンは――ぴんぴんしてます」
彼はタゲリーの怒鳴り声に対して電話を切り、シーラ・オールデンにむかってうなずいた。
「こういっちゃなんだが、あなたはとってもすてきだよ。五万ドル持っていなくても、ほれこみそうだ」
シーラ・オールデンの柔らかい唇が驚いたようにまるいピンク色のO(オー)の字になった。次の瞬間それはわずかに動いて弱々しい、揺らめくようなほほえみに変わった。
ホロコースト・ハウス
この翻訳は ManyBooks.net 所収 Holocaust House by Norbert Davis を底本にしました。