Ray

Ray

 月明かりってのは昔から人間と関わりが深い。特に満月の夜は「観月」っていって月を見て楽しむそうだ。豊作を願って供え物をしたりする宗教的な事柄も多い。月見団子なんてのも聞いたことがあるだろう?人間の、小さな神頼みみたいなもんだ。とても風情があって最近ではスーパームーンなんてのも騒がれてる。皆既月食鑑賞なんてのもよく聞く。

 優雅なもんだ、人間にとってはね。これが、影社会にしては大きな意味のある日になる。

 はあ?だから影だよ、あなたのその、足元にある。満月の日ってのは特にしっかりと影が浮かびあがる。あの大きな月明かりを見上げるのは人間だけじゃない、影にとっても大事な日なんだってのを、まず話そうか。



 それは決まって満月の夜だ。周期はだいたい、それに合わさってる。昼間はまだ動きはない。だけど夜になると、動き出そうとするんだ、それは。気づくといつも自分の部屋だが、まるでそれは自分の部屋ではないほどに汚れている。マンションの最上階のとてもいい部屋だ。キッチンと20畳ほどの部屋が繋がっていて見渡しのいい部屋のはずなのに、すごく狭く感じる。他に部屋が2つある。趣味の悪い装飾品が所狭しと置かれ、あらゆるものが散らかっている。それに、靴のまま歩き回ったんじゃないかってくらい、床は泥だらけだ。知らない服が無造作に置かれている。見たことのないものが増えている。

 なんなんだ、いったい。

 僕はそんな部屋を片付け、掃除をし、朝を迎える。磨いたばかりの窓ガラスがキレイに朝日を取り込むと、やっとホッとできるんだ。日差しはやはり、温かい。

 もともと僕には友達がいない。いや、いたのだけれど、離れていってしまった。それもきっとあいつのせいだ。誰とも連絡は取れなくなった。身内も誰も連絡が取れない。何処にいるのかもわからない。それなのに、連絡が次々と携帯には入ってくる。ほら、まただ、スマートホンが振動している。表示は[レイ]となっていた。

「もしもし?」
「あ、兄貴っすか?例のブツもうすぐ宅配で届くと思います。あと、今夜ですがいつもの店にみんな集めときますんで」
「いつもの店?」
「crucifyですよ、何言ってんですか。じゃ、すいません、俺はこれで」

 電話が切れる。crucify、よく行く店だ。僕が行きたくて行くわけじゃない。こんな風に電話がかかってくる。来いと言われることもあれば、今回のように僕がまるで予約でも入れておけと誰かに頼んでいたみたいな、そんなこともある。それにしても、crucify・・・なんて嫌な言葉だ。「人を責め苦しめる」とか「酷評する」とか言う意味を持つ。元はラテン語から来てる。「十字架にはりつける」っていう意味だ。

 ここにいても何もない。食べるものを求めて外に出る。不思議といつも財布には大量の万札が入っている。これを一体どこで手に入れるっていうんだ?わからないことだらけだ。こうやって歩いていても、僕は誰も知らないのに、僕を知っている人がいる。今行ったコンビニの店員もそうだ。ヘコヘコと頭を下げてくる。一体何なんだ。気味が悪いからすぐに部屋に戻る。そして夜まで部屋にこもっている。そんな毎日だ。

 少しして、宅配が届いた。普通ならサインを求められるはずだ。だけどいつもチャイムが鳴らされるだけで、何も言わずに置き去る。「待って!」と急いでドアを開けるが、そこには誰もいない。この階まで上がってくるのも難しいはずだ、セキュリティの厳しいマンションだからね。きっと宅配業者を装っているが僕のことを知っている人物なんだろう。いつも同じサイズのダンボール箱。知ってる、中に何が入っているのか。もう開けて何なのか見ることさえやめた。部屋に持ち込んでそれを部屋の隅に置く。置くのに、気づいたらいつもなくなっている。誰がそれを持ち去るのか。中身はあれだ、白い粉だ。ちょっとヤバイやつ。

 スマートホンが振動するたびにビクッとし、だけどとりあえず出る。だいたいかかってくるメンバーは毎回同じだからだ。出ることにももう慣れた。そうやって1日を過ごして夜がくる。とにかく、夜になると一人になってはいけないと思うんだ。あいつが動き出そうとするからだ。慌てて僕は人通りの多い道を選んで移動する。crucifyへ向かって。

 階段を降りるとその店はある。サングラスにスーツの背の高い外人が入口に立っている。強面のそいつらは、僕には頭を下げてすぐに中へ通してくれる。中に入ってもそうだ、いつもの同じやつら。だけど僕の知らないやつら。きっと僕はここでは権力者なんだろう。だけどここで誰かと一緒にいれば大丈夫なんだ。独りじゃないから。そう心に命じて僕は夜通しここに居る。話しかけてくるやつらには笑顔で返すだけ。それだけで居られる。恐ろしいほどに不気味で、だけど安心する場所だ。

「あ、兄貴。ダメですよ、そろそろ店出なきゃ」

 声をかけてくるやつが居た。[レイ]だ。唇の右端についたピアスが気味悪いくらい光ってる。こいつだけは知っているんだ、僕にいつも何が起こっているのか。僕の知らない事実を。

「いやだ。僕はここにいる」
「ダメっすよ。じゃないとまた俺が怒られますから」
「誰にだ?誰に怒られるんだ?それより、一体何が起こってる?僕に」
「僕?気持ち悪いっすよ。同じ顔して、兄貴は[僕]じゃなくて[俺]っていつも自分のこと呼ぶじゃないっすか」
「だから、そいつが誰なんだ?教えてくれよ」
「それは無理っすね。店を出てもらわないと」

 そう言って僕の腕を掴むと裏口の方にそっと連れて行かれる。細身で小さいくせにやたら力があるんだ。裏口のドアを出ると隣の店との間に小さなライトがついていて。僕はそのライトの下で眩しいくらい照らされる。

「何するんだよ?」
「兄貴に戻ってきてもらわないと、ねぇ。」

 見上げるとちょうどライトの眩しさの向こうに、真っ暗な空が見える。そうだ。満月なんだ、今夜は。ライトの眩しさと大きな満月の光が目の中で交差した瞬間に体がズンッと重くなった。

「サンキュ、[レイ]」

 耳元で声がした。振り向くとそこに僕がいた。いや、僕ではない。だけど同じ顔をした男だ。顔も背丈も服装も何もかも同じなのに、表情がまるで違う。極悪地味たその表情と共に低い声で僕に話しかける。

「いつもいつも面倒くさいやつだ。もう二度と出てくんなよ」
「出て、くるな?どういう意味だ。誰なんだ?おまえは。僕の生活をめちゃくちゃにしてる」
「おっと、それはこっちの台詞だ。お前イチイチ部屋の掃除とかすんなよ」
「掃除して何が悪い。あんなに汚くしているのはお前なのか?」
「お前とか言うな、影の分際で」
「影?」
「お前は俺の影だ」
「何を言ってる。それはお前のほうだろ?」

 そいつは、フンッと鼻で笑った。

「いい加減、自分のことを理解しろ。頭悪いんじゃねえか?」
「どういうことだ」
「お前は自分の両親を殺した。頭おかしくなってな。覚えてないか?もう何年も前だ」
「俺は、親を殺してなんかない」
「じゃあ、どこにいる?どこに住んでる?どこで生きてる?」
「それは、知らないけど」
「お前が殺しただろ。小さい頃からいじめられて。死んでやるって言って両親殺して。それでこんな世界にはいたくないって願っただろ?」
「え?」

 微かに。知っているような知らないような。覚えているような覚えていないような。言われていることを否定しきれない自分がいる。目の前の、自分の顔をしたこの男の言う内容が。

「お前は罰せられたのさ。そしてこの世界にいたくないっていう、その願いが叶えられたんだ。俺はもともとお前の影だった。だけど交代してやった、感謝しろ。見てみろ、俺が作り出した俺は、誰もが認める人間になった。裏社会じゃ俺のことを知らないやつは一人もいない。そしてこうしてこの世界で生きてる。お前が影になってくれたおかげでな」
「そんなことが信じられるはずがないだろ」
「すぐに信じられるさ。ほら、もう体が変化してる」

 そう言われて気付いた。自分の体が薄らと消えていく。そして、吸い込まれていくんだ。ライトと月の光に照らされてできたその暗い影の部分へ。そしてそのまま僕は、この世界から消えた。

 次の満月にはまた帰ってきてやる。そう心に思いながら。


 だけどねえ、そいつはもうこの世界には帰ってこなかった。その日が最後だった。兄貴の本体である人間だ。そして影であった兄貴と入れ替わった。この夜を最後に、完璧に。信じるか信じないかはあなた次第だ。だけどねえ、世の中の1/3はもともと影だったやつが入れ替わって生きてるケースが多い。それが今の世の中だ。いつ頃始まったんだろうな、人間が、生きることを苦しみだした頃か。脳みその中が単純ならよかったんだ。考えることが増えてきた頃、こうやって影が人間として生きることを主張するようになってきた。たった短い人生だろ?そこそこ、7、80年ってとこか?寿命なんてそんなもんだ。それさえもやめたい、死んでしまいたいと思った人間と、生きてみたいと考えた影が交代したところで何の問題がある?だろ?

 そんな世界なんだ、あなたが今いるこの世界ってのは。


 兄貴が本体である人間を消滅させ影として固定させた、それから数ヶ月くらい後のことだろうか。また新しく仲間が増えた。

 新入りが入ると俺の仕事が増える。この世界の説明をする。まぁ、以前はご主人の足元っていう違う角度から影としてこの世界を見てはいたんだろうからごちゃごちゃとした説明は差し控える。聞かれたら答える。とにかく、注意事項をいくつか説明すると、あとは好き勝手やってくれればいいさ、と言う。あんまり面倒見たりするのは得意ではないんでね。何かあれば兄貴を頼ればいいと最終的に付け加えて終わりだ。

 あ、忘れてた。携帯を1つ用意して渡す。俺のナンバーだけ登録してある。あとは自由に使ってくれればいい。同じ境遇の仲間が増えていくだろうし、そしたら自分で勝手に追加してくれよ。俺に用がある時はそれ、その名前クリックしろ。いつでも繋がるから。

 俺の名前?

 [レイ]だ。



 今回の新しいやつはひどく気持ちの弱いやつだった。影から人間に変わった瞬間に少しは悪い部分が勝つもんなんだけどね、なんせもともと暗い闇の世界の生き物、影だったんだから。この世界で生きていた人間と、闇の世界で生きていた影との関係性は難しい。そしてそれが入れ替わった人間はまた、ややこしい。その日はそいつの家を訪ねて玄関先で話をした。

 大事なことはひとつ。

 お前の元人間だったほうのやつが満月の前の日にすっと何もなかったようにこの世界に顔を出すことがよくある。そしてあんたは影に戻ってしまう。もう入れ替わってるのにさ、影のあんたとね。なのにあの手この手で戻ってこようとする。でもまあ、満月の夜に「crucify」に来てくれれば俺がそいつを影に戻し、あんたを人間側のこの世界に帰ってこれるようにしてやる。ただし満月であっても月の光の届かない時は難しいんだ。手は尽くすが次の満月まで戻れない場合もある、気をつけろ。

「crucify」?

 会員制のバーだ。場所は夜にでも案内するよ。自由に出入りすりゃあいい。兄貴がやってる店だ。兄貴ってのは影の世界からこっちの世界に来て、やっと元の人間だったやつを出てこれなくできた最初の人だ。そのためにこの粉が必要ってわけさ。人間が体内に入れるとやばい。かーなーり、やばい。けど影だったあんたにとっては大事なブツだ。これを取り込むことで完全に人間化する。そしてもとの人間だったやつが完全に影化する。どうだ?すごいだろ?兄貴がこっちの世界に来てから研究して作ったブツだ。見た目は危険な瞳をしてるヤバイ感じの人だけど、もともと人間だったほうのやつが頭良かったんだってよ。人間と影とは紙一重だ。兄貴も超頭がいい。今じゃ兄貴に頭が上がらないやつだらけだ。早く影であった過去を消し去りたくてみんなこれを摂取してる。必要になったら連絡くれれば届けるよ、宅配で。

 え?なに?俺?

 俺は人でも影でもないな。どちらかというと影に近いけど、ちょっと違う。よく見てくれよ。俺には影がないんだ。特殊だぜ。[レイ]ってのはどっかの国の言葉では希望の光とかって意味に当たるらしい。まぁ俺には関係ないけどね。全く光でも何でもない。でもあんたらにしたら、そっちになるんだろうな。俺無しでは最初は生きていけないぜ。

 俺みたいなやつはあちこちにいるなあ。ここいらのエリアは俺が仕切ってるけど。違うエリアに行けば別の俺みたいなやつがいる。とにかくみんな、名前は[レイ]だ。面白いだろ?何処かに出かけたときに影のないやつ見かけたらみんな俺と同じ仕事してる、名前が[レイ]ってやつだってことだ。

 こんな感じだ。だいたい新しく影から人間になったばかりのやつはその後、ことあるごとに俺を呼び出す。まぁ、何かあれば携帯で呼んでくれ。仕方ないから来るよ、それが仕事だしな。

 おっと。悪い、言ってたらほら、少し前にこっちの世界に来た奴から電話だ。やっと慣れてきたとこだけどまだブツを摂取するのが苦手でさ、都度呼び出されるんだ。お前もまぁがんばれよ、早く完全な人間になれるようにさ。不安そうな顔をするそいつとの会話は早々に終わらせると、携帯の通話をONにして、俺はそのアパートを後にした。

「はぁ?ブツでまた失敗したのかよ、勘弁してくれよ。待ってろ、今から行くから」

 随分古いアパートだったな、苦労してたんだろ、今のやつの元の人間さんは。そして俺はさっき連絡が入った別のやつの家に向かった。

 あ、影のないやつを見かけたらそいつは[レイ]だって説明をしたけど。これはもともと影だったやつや影と入れ替わろうとしている人間にしか見えないんで。俺の話を聞いていたあなたには見えないと思うぜ、俺のことは。もし見えたとしたら。たぶん、あなたももとは影だったってことだ。あるいは今現在、影にその体を狙われてるってことになる。やばいぜ?それは。

 そう言いながらも俺は、にやりと笑う。人間でもない。影でもない。だからこそ楽しい。何も困ることはない。一生このまま。姿カタチ名前もずっと[レイ]だ。ただし人間と影の関係性の増減で多少増えたり減ったりはするけどな。俺はゼロから出発した当初から存在する[レイ]で、だからこそ[レイ]が全て消滅、なんてことにならない限り消えることはない。だけど消滅するはずないだろ?永遠にこうやって求められる存在なんだからさ。やつらにとっては希望の光なんだよ。

 そうだな、兄貴が完全に人間化してから何人の影が人間になっただろう。兄貴がたまたまうちのエリア出身だったもんだから、知らない間に[レイ]の中でも俺はトップクラスの[レイ]扱いされるようになった。全世界から問い合わせがくる。ブツを扱うための会社を設立するやつとかも現れた。もちろん兄貴が開発したあれだ。人間の目を盗んで取引する。うまいんだ、とにかく影ってのは悪知恵が働くっていうか。世界に流通網を作っていったよ、この数ヶ月で。



 そんな毎日の中、俺たち[レイ]が少しのんびりできる時期がある。新月の頃だ。月明かりの弱いこの時期は人間と影の入れ替わりがほとんどない。特にやることはない。たまーに呼び出されて出向くくらいで。この日は兄貴に呼ばれていた。一瞬姿を消して空へとすぅーっと登っていく。光が流れていく原理と思ってくれていい。流れ星みたいなもんだ。人間みたいに歩くより随分早いんでね。crucifyのある方向へ向けて飛んでいた。その途中でだ、俺のエリアだってのに知らない光が飛んでいた。間違いなく別の[レイ]だ。振り向きながらその光を目で追うと、途端に破裂して消えた。

「え…?」

目を疑った。間違いなく今のは[レイ]のはずだ。俺と同じように姿を消して飛んでいたはずだ。このエリアを飛ぶこと自体あまりない光景だが、それ以前に消えたことがおかしい。何が起こったんだ?人間と影との増減で消されたやつだったんだろうか。だけど、こんな移動中に急に消えることはないはずだ。大抵は存在理由がなくなってひっそりと消えるものなんだ。何かわからない胸騒ぎを覚えながら、俺はそのままcrucifyに向かって飛んだ。



 開店前のcrucifyに入るのは珍しくない。兄貴から新しい情報やら依頼やらが入るときは決まってそうだからだ。

「なんですか?」

 薄暗い店内に入っていくと、奥の深いグリーンのソファに兄貴が座っていた。L字型の大きなソファ。特別な場所であるそこは、薄いカーテンで少し区切られている。だけど店内が見渡せる、階段3段ほど上がった高い位置にある。深めに腰かけて兄貴が足を組んで待っている。隣には見慣れない女性が座っていた。そしてすぐに気づいた。この女、[レイ]だ。だけどあえてそこには触れずにいた。

「新しいブツができた」

 薄らと笑みを浮かべながら、兄貴がそう言う。すると隣の女性が手にした5cm四方ほどの密封された袋を差し出した。いつものように白い粉が入っている。いや、少し、ブルーがかった粉だ。

「新しい、とは?」
「普通より人間化が早い」
「早い?」
「満月の周期に合わせた。ほぼ1ヶ月で影を人間化できる」
「マジですか?今まで何か月、いや下手なやつは何年もかかっていたのに?」

 俺は女からその粉の入った袋を受け取った。にやりと笑う女の赤い唇が不気味だった。

「次にこっちの世界にくる影がいたら試してみてほしい」
「これを、ですか?」
「そうだ。扱い方はいつもと同じだ。ただ副作用がきつい可能性がある」
「副作用?」
「記憶障害が出る可能性がある」
「ええ?面倒くさいな」
「そう言うな。人間化すれば治まる。1ヶ月の間だけだ」
「それが面倒くさいじゃないっすか。まあ、次ので試してみますよ」
「持って帰ってくれ、裏に積んである」
「了解」

 何もない。いつもと同じように俺は店を出た。言われたブツを手にして、また光のように飛ぶ。それにしてもあの女だ。1つのエリアに[レイ]が2人いることはおかしい。仮にそういうことがあったとしても、お互いを知らないのはおかしい。役割分担が自然と出てくるはずだ。そして何より、このエリアの[レイ]なんだったら、新しいブツの仕事をわざわざ俺に頼まなくてもあの女に頼めばいいんじゃないのか?それとも[レイ]だと感じたのは勘違いだったんだろうか。あの、赤い唇だけが不気味に頭に残った。



 次の満月、新しい影が現れた。人間化するためだ。いつものように少しだけ、説明をする。そして新しい、この薄いブルーの粉だ。接種方法を説明すると、新しい影のやつはへらへらと人の良さそうな笑顔で俺の話を聞いていた。

「何か気になる点は?」
「大丈夫。何かあったら電話すればいいんでしょ?」
「あ、ああ。用があれば来るし」
「了解!それにしても楽しみだなあ、ずっとこっちに来たかったんだ」
「そんなにいいか?こっちは」
「いいよ。全然いい!影なんてつまんないもん。影でいて楽しめることって言えば、女の子のスカートの中覗けるくらいかなあ。だってずっと地面にへばりついてるからね」

 くだらねーやつ。俺は何も言わず鼻で笑った。けど相変わらずへらへらと笑顔で俺を見ている。

「あと、あれでしょ?」
「はあ?」

 面倒くさそうに返事をしながら俺はこいつのマンションを出る準備をしていた。それを気にもせずに後ろから話しかけてくる。

「最終的に影と人間が完全に入れ替わるんでしょう?そう遠くないって聞いたけど」

 なんだと?

 振り向くと、そいつは笑っていなかった。口元は微笑んでいるんだけれど、目が笑っていなかった。

「そのためには、早く僕たちが全員人間化しなきゃ、ね」
「どういうことだ?」
「さあ。影社会での話だからなあ。内緒」



 とにかく、だ。先日兄貴に呼ばれたあの日から、おかしいんだ。俺たち[レイ]の情報網は光だったりする。人の目で見えないほどの小さな光伝達だ。もちろん人間には見えない。全世界のあらゆる情報が実は見えない目の前で飛び交ってる。すべて入ってくる。瞬時に捉えて記憶する能力が俺たちには、ある。今みたいに、別のやつと話してる時も、兄貴に指示受けてる時も、俺の周りには見えない速さで数えきれないほどの情報が飛び交っていて、それをキャッチしている。それが、ここ数日途絶えはじめたのだ。交信しようと集中すると、プツンと切れる。

 マンションを後にして、街をゆっくり歩いた。昼間の日本だ。東京タワーが見える。俺の地域。

 ん?やっぱり変だ。

 見えてないはずだ。俺は[レイ]だぞ。ほぼ人間で埋め尽くされているはずのこの地域で、影や人間化途中のやつにしか見えないはずの俺が、どうも見えているっぽい。やたらといろんなやつと目が合う。普段ならぶつかりそうになるのを俺が勝手に避けたり、通り抜けたりする。なのに、今日は向こうから避けて通ってくる。

 どういうわけだ?

 明らかに、何か変化が起こってる。


「そうよ。見えてるわよ。ほぼほぼの人間からあなたが」

 振り返ると女がいた。crucifyで兄貴の横にいた赤い唇の女だ。黒い服、短いスカート。長く伸びた足で歩いてくると俺の前で止まった。

「どういうことだ?お前は[レイ]なのか?」
「そうよ」
「何故この地域にいる」
「何故って言われても、あの人の傍にいるだけ」
「あの人?」

 答えずに女は微笑んだ。

「兄貴、か」

 答えた瞬間、遠くメッセージが届いた。

 -逃げろ-

「え?」

 何かわからないまま、俺は瞬時に光に変わって飛んだ。声のするほうへ。何処かわからなかったけれど、発信された場所へ向かった。1秒もかからずに移動した俺の前にいたのは、別の[レイ]だった。

「ニューヨークか」
「ようこそ、日本の[レイ]」
「逃げろって…どういう?」
「よく逃れられたな、さすがだよ」
「は?意味がわからない」
「港区ってとこを仕切ってんだろ?お前のことは誰もが知ってる」
「なんで?」
「有名だよ、志垣のいる港区だぞ?」
「兄貴か、まあな」
「やっぱり。知らないんだ?」
「なんだよ。勿体ぶらずに言えよ」

 ニューヨークの高層ビルの屋上だった。風が時折吹くと目の前の[レイ]が気持ちよさそうに目を閉じる。何がなんだかわからない状態で早く何かを知りたいのにのんびりと空など見上げて余裕の表情を見せる。なんだ?こいつ。上唇と下唇と、1つずつ目立つほくろがあって、それがニヤって笑うと歪に動く。仲間なのか、敵なのか。わからなくなる。

「俺は見方だ、安心しろ、日本の[レイ]」
「説明しろよ」
「お前の地域にいる志垣だ。人間化のブツ作ったあいつ」
「兄貴がどうした」
「今度は[レイ]を作った」
「は?」
「新しいブツを見ただろう?」
「ああ、薄いブルーの」
「あれのおかげでこの世の3/5の人間はすでに影と入れ替わってる」
「なんだって?」
「今まで気づかなかったのか?まあお前は初めて使ったんだっけ、新しいやつで。でもすでにアジア一帯で広まってる。呑気だな、日本ってとこは。やっぱり平和なんだ?」
「いちいちなんだよ」

 胸倉を掴もうとしたら逆にその手を掴まれた。

「そしてさっきの、志垣が[レイ]を作ったって話なんだが」
「なんだよ」

 俺の手を掴んだまま、そいつは俺に顔を近づけた。

「[レイ]を生産しようとしてる。ブツと同じ要領で。それですべてを支配しようって魂胆だ。それで元々存在する俺ら正規の[レイ]が少しずつ消されていってる」
「なんで消せるんだよ」
「[レイ]を生産してんだぞ?志垣は。俺たちが何で出来てるか知ってるんだよ」
「何で?って」
「人間たちの言う成分ってやつだ。化学式とかわけのわからない何か、あるだろう?人間たちの知識の中には」
「それでどうやって[レイ]を作って消滅させる?」
「わからないから困ってるんだ。志垣にしかわからない」
「なんだよそれ」
「志垣を殺さなきゃいけない。これ以上増産させないようにしなきゃいけない」
「でも、殺したところでもうすでに出来上がってる[レイ]はどうするんだよ?そいつらがノウハウ知ってんじゃねえの?」
「可能性はある。どうやって差し止めるかだ。志垣が作った[レイ]も、消滅させなければ俺たちの存続がやばい」

 そこまで言うと、目の前の[レイ]は俺から少し離れて何処か違う方に視線をやった。俺もそっちを見た。聞こえた。今何処かでまた1人[レイ]が消えた。そして俺らが会ってることも誰かが察知したっぽい。

「帰るわ。また近々」

 そう言い残して俺は急いで日本へ、飛んだ。



 早々に電話が鳴った。今日新しく来た影のやつだ。俺が初めて薄いブルーのブツを渡したあいつ。

「もしもし?」
「あ、[レイ]?」
「どうした?」
「どうしたもこうしたもないよ。兄貴が[レイ]と連絡とれないって怒ってるよ」
「は?」
「知っちゃったんでしょ?兄貴の秘密」
「お前…何でそれ。何なんだ?お前は」
「何って、人間になろうと思ってこっちの世界にきた、影だよ」

「その気味の悪い笑い方やめろ」

 そう言った時には電話越しではなく、俺はもう新しい影の目の前にいた。マンションまで瞬時に飛んだのだ。

「来た。[レイ]」
「お前最初から兄貴とグルか」
「違うよ。人聞き悪いなあ。ただ、さっきcrucifyに行ったらすごくご機嫌悪かったから、兄貴が」

 今日は頭がおかしくなりそうだ。1日でどうしてこうも、いろんなことが展開していくんだ?今まで何にも気づかなかった自分にも苛立ちが溢れてくる。

「ねえ、[レイ]。手を、組まない?」

 そう言うと、俺が昼間に渡したブツを手にしていた。

「僕はこれを摂取しない」
「どうして?人間になるんだろ?」
「違う。本当の目的を、あなたには話すよ」



 彼の名前は外村啓二。本来の人間の姿をした人物は薬品会社の開発をしているらしい。もともと、影が人間化しようとこの世界に出てくる場合、元の人間が生きる気力を失ったパターンが多い。だが、彼の場合は違った。

「言わば、影の世界から送り込まれたって感じかな」

 初めて見た時と同じようにへらへらと笑う。だけど言いながらやはり、目だけは真剣だったりする。

「影の社会がおかしくなってる」
「どういうことだ?」
「もともと人間だったものが無理やり転換されて影になってるんだ、こんなブツのせいで、そりゃおかしくもなる」
「具体的に、どうなってるんだ?」
「影が消えていってる」
「は?詳しく言えよ、そんなんじゃわかんねえよ」
「この、ブツだ」

 手にした例の薄いブルーの粉を目線まで上げた。

「今まで通り、影を人間化させるには普通のブツでいいんだ。だけど、これはちょっと違う」
「何が?」
「これを摂取すると、1度影から人間になる。そしてその後変化を起こし、影に転換されたほうの元の人間が消滅する。」
「消滅って…」
「元の人間は影になってる。その影が消滅する。影を失うんだ。それがどういう意味か[レイ]ならわかるよね」
「もしかしてそれが」
「そう。兄貴、いや、志垣が作る[レイ]だ」
「兄貴の作る[レイ]っていうのは、元は人間なのか?」
「そう。そういうことになる」
「そんな仕組みなのか。でもなんでそれを知ってる?」
「僕はね、いや、僕の本体が、志垣を知ってる。人間化した影の志垣は僕のこと覚えてないみたいだけど。記憶がおかしくなるからね、転換すると」
「記憶が?」
「不要な情報は削除するからね、元の人間の。感情とかそういうのもすべて。志垣の研究が妙におかしいと思って、僕はわざと本体を影側に残してこちらに移動してきた。本体のままじゃ、[レイ]、君が見えないからね」

 そんな仕組みになっていたなんて知らなかった。あまりに無知だ。俺は。「呑気だな、日本ってとこは」そんな言葉が頭をよぎった。ニューヨークのあいつ、いや、全ての[レイ]に情報を送らないと。兄貴による[レイ]の作り方を。だけど、光交信は危険だと思った。兄貴の作った[レイ]が同じような能力を持っているとしたら、感じ取られるからだ。何処まで俺たち[レイ]に近いものが作られているんだろう。

「外村」
「なに?」
「兄貴の作った[レイ]の持つ能力ってどんなものがあるかってわかってる?」
「さすがにそれは。だって[レイ]は特殊すぎるから」
「だよな…。とにかく1度、話はストップだ。また何かわかったら教えてくれ」
「OK。じゃあ手を組むってことで、いいんだよね」
「もちろんだ」



 ニューヨークでは数名の[レイ]が存在を消すようにして集まっていた。そこにうまく俺も飛んだ。

「そういうことか」

 外村から聞いた情報を、光では飛ばさずに少しずつ口伝えで拡散することにした。

「で、どうするかだ」
「ブツの摂取は当分止めるのが1番なんじゃないのか?」
「そうだな、影の人間化はやめたほうがいい」
「ちょっと待てよ。じゃあ俺たちの役割はどうなる?」
「そうだ。人間化する影が全くゼロになったら、俺たちの存在理由もゼロになる」
「すなわち、[レイ]全員消滅、だ」
「それはヤバくないか?俺たち全員消えるんだぞ?」
「もう何百年この仕事やってると思うんだ」
「でもこのまま放置しておいたら人間化した影と新たに作られた[レイ]が増える。結局は俺たちも消されるってことなんじゃないのか?」
「ちょっと待て、おかしい」

 最後に口を挟んだのは唇にほくろのある、あのニューヨークの[レイ]だった。

「[レイ]の作り方はわかった。じゃあ消し方はどうなってるんだ?」
「消し方?」
「ほんとだ、作るときはもともと居る人間を使うんだよな?ブツで変化させるんだろ?だったら消す時は…どうやって?」

「考えられるのは1つ。俺たち[レイ]は人間化した仕事の多いものほど、長く存在できる。だから影の人間化の増減に合わせて、あまり活躍していないものが自然とひっそり消滅する」

「だから、なんだ?」
「そうか、わかった」

 口々に、各地の[レイ]が言葉にする。

「志垣の作った[レイ]が多く人間化に成功すれば、俺たちの中から人間化した仕事の数を超されたものが自然と消滅するってわけだ」
「別に志垣は俺たちを消せるってわけじゃないんだ」
「よかった、じゃあ安心じゃないか。俺たちが仕事をして、人間化の数を超されなければいいんだ。そしたら志垣の作ったほうの[レイ]の仕事数が少ないってことで自然と消滅するんじゃ?」
「超されないようにするには俺たちがひたすら人間化をしていかなければいけない。だけど考えてみろ?仕事すればするほど完全に人間と影が入れ替わってしまうなんてことも起こり得る」
「それは別にいいんじゃないのか?俺たちは仕事をしたまでだ」
「いや、完全に入れ替わってしまったら、その場合も俺たちの仕事はなくなるだろ?人間になりたい影がゼロになるんだ」
「どちらにしても、俺たちの需要はなくなる…ってことか」
「だとしたらどうしたらいいんだ?」

 ふと、俺は思った。

「もう、やめないか?人間化を」

 みんなが一斉に俺を見た。

「どうせ俺たちが全員消滅するんなら、影の人間化をもうやめないか?兄貴の作った[レイ]が仕事できないように俺たちは邪魔をする。活躍する機会さえ与えなければ、俺たちがこれまでにしてきた仕事の数を兄貴の[レイ]は超えることができない。超えない限りは消滅していく一方だ。兄貴の作った[レイ]はそれでたぶん、すべて消せる」

「で?どうするんだ?」

「ブツは人間にとっては麻薬だ。どちらにしてもすべて廃棄する。ブツがなければまず人間化はできないから兄貴の[レイ]は仕事ができない。そしたら人間化する影はなくなる。人間はずっと人間のままで、影はずっと影のまま」

「そんなことって」
「それで俺たちも最終的には仕事が無くなって消えるってことか?」
「今でこそ人間化っていうけど、志垣がブツを作るまでは人間化じゃなくて影が人間と入れ替わるのを手伝うのが俺たちの仕事だったんだ。それが残れば問題ないんじゃないのか?」

「何をどう変化してこんな世の中に変わってしまったのかわからない。けど、人間と影の感情を察知するかのように俺たち[レイ]は出来上がった。もともと、何億年も前には俺たちだって存在しなかったんだ。もとの姿に戻るだけなんじゃないのか?この世界が」



 俺が別の[レイ]と話してきた内容を外村に話すと、その方法にかけてみる価値はあるかもしれない、と言った。俺たち[レイ]は、兄貴の作った[レイ]が仕事できないように邪魔するのがこれからの仕事だ。人間化を手伝わせないように見張るのだ。ブツは見つけ次第廃棄する。作っている施設も少しずつ攻撃していく。そして実際、兄貴の作った[レイ]が消滅していくのを確認できたら、兄貴を殺す。

「誰がやるんだ?それ」

 全世界の[レイ]を代表する。

「俺がやる」



 兄貴に怪しまれないように、みんなが自然に振舞うフリをした。危険なのはあの、赤い唇の女だった。だけど、[レイ]になってそれほど経っていないのはわかっている。彼女が消滅するのに時間はかからなかった。兄貴を殺す計画を立ててから初めて、俺は兄貴に会った。

「どうだ?新しい粉の威力は」

 あの女が消滅する前に何処までの情報を兄貴に漏らしているのかはわからない。こうやって俺に粉について聞いてくるのも、演技なのか素直に聞きたいのか全然わからない。

「いい感じです」
「そうか。今お前が手を貸してる影、あいつにはちょっと人間化を急いでもらいたいんだ」
「え?どうしてですか?」
「ちょっと人手が足りなくて」
「人手?」
「新しいブツの生産が間に合ってないんだ。でもあいつには多めに渡す。1日の摂取量を2倍に増やしてくれないか?」
「え?大丈夫なんですか?増やしたりなんかして」
大丈夫だ、2倍でぎりぎりだ。新月の頃には人間化できるだろう。そしたらまたここに連れてきてくれ」
「わかり…ました」

 たぶん、身近で動いていたあの女が消滅し、他にも兄貴の作った[レイ]が消滅した。早く外村を[レイ]に変化させたいんだろう。

 まずいことになった。

「え?志垣を殺すタイミングが早くなるだけでしょ?」

 外村は相変わらずの笑顔で答えた。

「だってさ、もともとは満月の夜に決行って話だったんだ。半月も早まるんだぞ?」
「いいじゃない。早くやること済んで。それとも[レイ]はその後消滅してしまうかもしれないのが怖いとか?」
「違うよ。俺はいいんだ、もう覚悟はできてる」
「じゃあ、なんで?」
「お前だよ」
「僕?」
「こっちの世界に来てる人間化していない影を元の影の世界に返すのは、満月のタイミングじゃないと無理だ。だけど兄貴を殺せたとして、そこから半月時間がある。その間にもし[レイ]が役割をなくしてしまって消滅したとしたら、お前はもとの影の世界に帰れなくなる」
「なんだ。そんな心配をしてくれてたの?」
「なんだってことはないだろ?」
「僕がどれだけの覚悟でこっちの世界に来たと思ってる?」

 俺はその時、初めてへらへらと笑うことのない、真剣な表情の外村を見た。

「わかった。だけどもし、ぎりぎりまで俺が存在できたとしたら、その時はお前を影の世界にきちんと戻す」

 そう言うと外村はにっこり笑った。



 兄貴は頭のいい人だ。何処までをわかっていて、何処までを演じているんだろう。ドキドキしながら新月を迎えた。開店前のcrucifyには、兄貴しかいなかった。

「[レイ]、遅いじゃないか、呼び出しておいて」
「すみません」

 いつもの、奥のグリーンのソファに座っている。

「どうだ?あの男は上手く人間化できたか?」
「いや、それが」
「どうした?」
「それより、兄貴。今日は、なんで誰もいないんですか?」

 今日に限って、入口でいつも見張っている男も、バーで働くやつらも、誰一人見当たらない。もしかして、俺が逆にはめられた?慌てて周囲を見回すけれど特に何もない。

「慌てるな、[レイ]。ここには俺だけだ。今日は俺を殺しに来たんだろう?」
「え?」
「お前がそんなに頭のきれるやつだと思ってもいなかった」

 そう言うと、手にした酒の瓶を口元に持って行った。ゴクリゴクリと大きく音を立てて兄貴はそれを飲んだ。

「知っている。お前たちが動いていたことは。まさか、俺の作ったすべての[レイ]を消滅させることができるとは思わなかった」
「残念です。ずっと、信じてお手伝いしてきたのに」
「俺も残念だ、こうやって俺を裏切るなんて、な」
「裏切ったのは、兄貴じゃないですか?」
「何を言ってる。お前を消滅させるつもりなんて最初から無い。今からでも、戻ってこないか、こっち側に」
「無理です。俺は人間でも影でもないんで。悪いけど死んでもらいます」

 ニューヨークの[レイ]から預かった銃だ。託されたそれを兄貴に向けた。兄貴は、ずっと俺を見たまま笑顔だった。初めて会った時と同じだ。

「人間になりたいんだ。俺の本体の人間は生きることをやめようとしてる。だったら代わりに、影の俺がこの世界を見たいんだ」

 まだ、完全な人間化なんで誰も成し遂げていなかったころ、10代の終わりだった兄貴は笑顔でこう言った。満月の度に本来の人間が顔を出す、それを影の世界に追いやるために俺は何度となくこの人の手伝いをしてきた。それが俺の、存在する理由だからだ。俺の、仕事だからだ。そして何年もの歳月をかけて、こちらの世界と影の世界を行ったり来たりしながら兄貴は完全なる人間化をするための薬を作った。それがあの、ブツだ。そして影として初めての完全なる人間化を果たした。嬉しかった。純粋に嬉しかった。それを手伝えたのも誇りだった。俺の存在価値を常にそこに見出していた。こっちに来た頃10代の終わりだった兄貴は、とっくに俺の見た目推定年齢22歳ってのを越えていた。いつの間にか、名前ではなく兄貴って呼ぶようになった。

 だけど、終わりだ。兄貴には今日で消えてもらう。

 俺は兄貴に向けた銃の引き金をゆっくりと引いた。



 兄貴によって作られた[レイ]の存在がゼロになっていることは確認済みだった。この世界の人間の3/5はすでに影が人間化したものとなってしまったけれど、そのうちの半分は[レイ]に変化し、その後消滅したことも確認した。人間化した残りの半分は、可哀想だけれど消えてもらう。俺が兄貴を殺した後、全世界の[レイ]が手分けして人間化した影を消した。世界では感染型のウイルスが流行していると報道された。実際には、俺たちの手にかかっただけなのだけれど。

 まだ純粋な人間がもと居た人口の2/5残っている。俺たちのことも見えない、普通の人間だ。これからまた、彼らの子孫が繁栄していけばいい。俺たち[レイ]など必要としない世界を。

 俺の最後の仕事は外村だった。

「よかった、まだ消滅してないよ」

 俺がそう言うと、外村はへらへらと笑った。

「こっちに来た甲斐があった。君にも出会えたしね」

 握手というものを初めてした。外村が手を出してきたからだ。戸惑っていると向こうから手を握ってきた。笑顔で。

 crucifyの裏の路地で、俺は最後の仕事をする。満月の月明かりを見るのもこれが最後だ。大きい、スーパームーンってやつだ。

「じゃあ、元気で」
「ありがとう」

 外村が答えたタイミングで、俺は外村の本体を呼び戻した。そして交代するかのように影の彼はすぅーっと足元に消えていく。それを見守るかのように、俺自身もこの世から消えた。



 もう、たぶん。この世にはもう[レイ]は存在しないはずだ。影のない、人間の形をした俺たち。これからの世界に、復活もしないでほしい。普通に、人間には生きていってほしいからだ。生きるのをやめたいとか、苦しいことから逃げるために命を無駄にしたりだとか、そういうのが無くなることは難しいかもしれないけれど。そんな人間を応援しているもう一人の自分が影として存在することにも気づいてほしい。ひとりじゃない。自分を見守ってくれる人は必ずいる。そんな自分に気づいてやってよ。自分と同じ動きをする影ってやつがいることをさ。

Ray

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  • 小説
  • 短編
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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-10

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