懐かしの文庫本

 ジャンル選択では恋愛にチェックを入れましたが、恋愛要素はごくわずかです。

一、私と本

 両親が郊外に家を建て、引っ越すというので、私はその手伝いに行った。ちょうど、桜が咲き始める頃だった。

 結婚して家を出るとき、私は、自分の物はほぼ全て置いて行った。両親には「捨ててもいいよ」と言っておいたのだが、ほとんどの物が未だにそのままにしてある。あれから十数年も経っているというのに、だ。私はマスクをし、はたきを持って、今は物置と化している、かつての自分の部屋の掃除に取りかかった。

 それが終わると、今度はリビングにある本棚の整理を始めた。この本棚には、家族みんなの本が収めてある。うちは家族全員が本好きなので、みんなが読めるように、各々が、読み終えた本をこの本棚に置いていた。その結果、本は本棚に収まりきらず、その上にも山と積まれている。

 (ほこり)にまみれた本をはたきではたき、ダンボールに詰め込む。これを、後で古本屋が取りに来てくれる手筈(てはず)になっている。どうせ、二束三文にしかならないだろうが。本棚の本を全て片付け終えると、今度は本棚を家の外に出す番だ。「ちょっと手伝って!」と父を呼び、協力して本棚を持ち上げた。

 と、ドンッ! という音がした。何だろう? と見てみると、本棚があった場所に、一冊の文庫本が倒れている。どうやら、本棚と隣のピアノの隙間に挟まっていたようだ。「ちょっと待って!」「何や?」「本が残っててん。拾うから、ちょっと待ってくれへん?」「後にし」「すぐ済むから……。お願いします」

「まったく。しゃあないな」本棚を床に下ろすと、私はその本を拾い上げ、表面に付いた埃を払い落とした。表紙はボロボロになっている。題名を見ても内容は思い出せない。裏表紙の「あらすじ」を読んでも、まだ思い出せない。自分の本ではないのだろう、と思いつつ、パラパラとめくってみた。

「あとがき」を読んで、ようやく思い出した。「まだ、残ってたんや……」そう(つぶや)いて、もう一度表紙を見る。作者名を見ていると、あの頃感じた切ない思いが、胸に込み上げて来る。涙が出そうになった。「おい、もうええか?」父が聞いて来た。「ああ、うん。ええよ」

 私はその本を上着のポケットに突っ込むと、再び本棚に手を掛けた。

二、僕とおじさん

 中学最後の夏休みのこと。僕がリビングで本を読んでいると、「あんた(ひま)やったら、おじさんの手伝いしに行ったって」母さんが突然、僕に向かって言った。「全然暇やないよ。今、本読んでる途中やし……」「そんなん、明日でもできるやろ。引っ越しは今日やねんで」「いや、これ、明日には図書館に返さんと……」

「いいから、行ってき」母さんは無理やり僕から本を取り上げた。これ以上逆らうと、ヒステリーが爆発する。僕は渋々家を出て、おじさん(母さんの弟)の家に向かうため、自転車にまたがった。そう言えば、自転車に乗るのも久し振りだ。――僕は十分ほど自転車をこぎ、おじさんの住む一軒家に着いた。

 ピーンポーン! 玄関のベルを鳴らす。「はーい」しばらくしてドアが開き、おじさんが顔を出した。「ああ、公実(きみざね)くんか。よう来てくれたな。まあ、入ってくれ」「お邪魔しまーす」僕は言われるまま、家に入った。引っ越しの準備中だけあって、家の中は散らかっていた。「僕は、何をしたらええんですか?」

「そうやなぁ、いるもんは粗方(あらかた)ダンボールに詰め込んであるから、公実くんは詰め終わった箱を、ガムテープで梱包(こんぽう)して行ってくれるか?」「うん、分かりました」言われた通り、僕は十数箱ものダンボールを処理して行った。その間、おじさんは最後のダンボールに本を詰め込んでいた。

「終わりましたよ」「こっちも終わったで。じゃ、次はそいつらを玄関の近くまで運ぼか」僕は彼と一緒に箱を持ち上げ、ゆっくりと進んで行った。「こんな作業をしてると、十年ほど前を思い出すわ」とおじさん。「引っ越しの仕事してたんですか?」「いや、けど、似たような作業をやっとったんや」「へぇー」

 僕たちは取り留めのない会話をしながら、作業を進めた。作業が一段落すると、僕はほとんど何もないリビングの中央に腰を下ろし、「ふぅー」と息を()いた。部屋の中には、大きな本棚だけが残っている。もちろんその中に本はない。と、一瞬そう思ったのだが、よく見ると、たった一冊だけ残されている。

 大事そうにビニールパックに入った文庫本だ。貴重な本なのだろうか? 今、おじさんは「電話を掛けて来るわ」と言って別の部屋に行ったので、この部屋にはいない。一冊だけ残っている本に興味を()かれ、僕は本棚に近付いた。一見したところ、古いという以外には、何の変哲もなさそうな本だ。

 カバーがなく、こちらに裏側を向けているので、題名は分からない。僕は表の側を見ようと、その本を手に取った。と、そこへ「之宣(ゆきのぶ)くん来んの、ちょっと遅なるんやて」と言って、おじさんが部屋に入って来た。怒られると思った僕は、慌てて本を元の場所に戻した。しかし、おじさんはちゃんと見ていた。

「ん、公実くん、その本に興味あんのか?」「す、すいません。勝手に触ってしまって」「ああ、ええよ。少しぐらいやったら」「これ、貴重なもんなんですか?」「そうやなぁ、どう言えばええんかなぁ……。その本は、他の人にとっては何の価値もないやろけど、僕にとってだけは、貴重なもんやと言えるかな」

「へぇ……」僕はよっぽど興味深げな顔をしていたに違いない。おじさんはそんな僕の顔色を見て取って、理由を説明し始めた。「その本はな、実は元々僕の本やなかってん。後で来る之宣くんの本やってん。それがな、何で今は僕の手元にあるかと言うとな」おじさんはそこまで言うと、腕時計をチラリと見た。

「長い話になりそうやけど、それでも聞きたいか?」「……うん」僕は(うなず)いた。「之宣くんが来るまでに終わるかなぁ……」おじさんはそう(つぶや)きながら本棚に近付き、本を取り出した。そして、その本にまつわる物語を語り始めた。

三、おじさんと彼

 これは、僕が大学生だった頃の話だ。一年生の夏休み、僕は初めてアルバイトをした。実家通いだったし、まだ小遣いも貰っていたけれど、友達と旅行に行くことになったので、その費用を工面するために始めたのだった。僕が始めたのは一ヶ月限定の深夜バイトで、時給はいい方だったように記憶している。

 それは「トラックの中に積まれた発泡スチロールの箱を、所定の位置まで運び出し、そこで(ふた)を開け、中の冷凍食品を配送される店舗ごとに振り分ける」という仕事だった。その箱一つ一つは重くて、とても一人では持てないため、二人一組になって運ばなくてはならなかった。

 その際社員の人に組まされたのが、彼――竹井さん――だった。そのバイトには様々な年代の、様々な風体の男女が集っていたのだが、その中でも一際異彩を放っていたのが、彼だった。竹井さんは首元の伸び切ったTシャツを着、分厚い眼鏡を掛け、色白で、猫背で、髪が薄く、常に右手の人差し指を噛んでいた。

 いかにも話しかけにくい感じだったのだが、僕は勇気をもって話しかけた。「竹井さん……でしたよね? 『いっせいのーで』で持ち上げましょうか」「……そうですね」「いっせいのーで」僕はそう言って、「……」竹井さんは無言で、中身のいっぱい詰まった発泡スチロールの箱を、持ち上げた。

 彼は無言だったが、顔は歪んでいた。彼のガリガリの白い腕には血管が浮かび上がり、それは今にも破裂しそうなほどだった。(大丈夫かな?)一瞬、僕は心配になったが、実際のところ、いつまでも他人の心配をしているほどの余裕は、僕にもなかった。――それほど、その箱は重かったのだ。

 僕たちは所定の位置まで箱を運ぶと、無言で蓋を開け、中の冷凍食品を仕分けし始めた。冷凍食品が溶けないように、サッサと作業を行わなくてはならないので、僕たちは無言で作業に没頭した。仕分けされた荷物は、一定量溜まると、フォークリフトで冷凍室に運ばれて行く。

 発泡スチロールの箱を三つほど処理し終えたとき、トラックの中の荷物がなくなり、次のトラックが到着するまで、しばし休憩時間になった。「いやあ、しんどいですね」僕は久し振りに竹井さんに話しかけた。「……そうですね」彼は前と同じ返答をした。「今まで、こんな感じの仕事したことあります?」

「……ないですね」「今までどんな仕事されてたんですか?」「……」彼は黙り込んだ。何となく分かった。彼は仕事をしたことがないか、仕事をするのが久し振りか、のどちらかなのだろう。(これ以上は聞かんとこ)僕はそう思っていたのだが、意外にも、彼の方から話し出した。

「……私、三年ほど家に引きこもってたんです」「そうなんですか……」「それまでは大学生やったんですけど、八年経っても卒業できなくてね……」「……失礼ですけど、おいくつですか?」「私、二十九ですけど……」(えっ! 僕と十歳も違わへんのか!)僕は驚いた。どう見ても四十歳前後に見えたからだ。

 それが表情に出たのだろう。「見えませんか……? そうですよね。よく『老けてる』って言われますから」と竹井さんが言った。「……いえ」気まずくなり、会話が途切れた。次のトラックが来るまで、二人の間に会話はなかった。――仕事を始めて四時間ほど経った頃、長めの休憩時間がやって来た。

 僕も竹井さんも、畳敷きの控え室に靴を脱いで上がった。僕たちが入ったときには、すでに十二~三人がいて、用意してあったお茶やお菓子を飲食したり、寝転んで音楽を聴いたり、携帯でメールを打ったりしていた。僕はとりあえず胡坐(あぐら)をかいてお茶を飲むと、お菓子を頬張った。

 竹井さんはお茶だけ飲むと、横になって眼をつぶった。僕は、興味本位から彼に聞いてみたいことが色々あったが(疲れてるんやな……)と思ってソッとしておいた。チャンスを逃した僕は、何も聞けずにその日の仕事を終えた。結局、バイトを始めた週は、彼とは、ほとんど会話らしい会話をせずに過ぎて行った。

 その週末、バイト初の給料日が来た。当時すでに珍しくなっていた手渡しだった(給料は一ヶ月分まとめて受け取ることもできたのだが、僕も竹井さんも、週払いを選択していた)。僕は給料袋を受け取ると、早速中身を確認した。今まで一度に手にした現金の中で一番の大金に、僕の顔は自然にほころんだ。

 チラリと横を見ると、いつもは無愛想な竹井さんの顔も――若干ではあるが――ほころんでいた。が、彼は給料明細を見ると、すぐに憮然とした表情に変わり、ボソッと言った。「まだ足りへんな……」「竹井さん、何か欲しいもんでもあるんですか?」「……ええ、まあ」「良かったら、教えてもらえません?」

「祖母ちゃんがね、病気になっちゃってね、もう、長くないらしいんです。私、この歳になるまで、祖母ちゃんに何も買ってあげたことないんです。やから、祖母ちゃんが死んじゃう前に、欲しがってたマッサージチェアを買ってあげようと思たんです。やから、月払いやなくて、週払いを選んだんですけど……」

「まだ、足りないんですね」「……ええ」「どれぐらい足りないんですか?」「あと、一週間分ぐらいですけど?」竹井さんは眉間に皺を寄せ、「何でそんなことを聞くんや?」と言いたそうな顔をした。「お祖母さんは、かなりお悪いんですか?」今から思えば不躾(ぶしつけ)な質問をしたのだが、彼は正直に答えてくれた。

「ええ。今はまだ、手を貸してあげたら歩けるぐらいなんですけど、『今度発作が起こったら、もう起き上がれないでしょう』って、お医者さんは言うんです。その発作がいつ起こるのかは、お医者さんにも分からないらしいんですけど……」僕は、自分の祖母が亡くなったときのことを、思い出していた。

(そう言えば僕も、何もしてあげられへんかったっけ……)「……これ、使って下さい」僕は給料袋を差し出した。「えっ?」彼は今までに見せたことのない、急激な表情の変化を見せた。「受け取れませんよ……」「貸すだけですから。どうせ、来週にはもらえるんです。そのとき、返してくれたらええんです」

「知り合って間もない人から、お金なんて借りられませんよ」彼は給料袋を僕に突き返した。「お祖母さん、いつ亡くなるか分からへんのでしょう? 亡くなるときはアッと言う間ですよ。僕のお祖母ちゃんは、入院したその日に亡くなりました……。後悔したくはないでしょう?」「だからって……」

「僕もね、お祖母ちゃんには何もしてあげられへんかったんですよ。お祖母ちゃんが入院したって聞いて、病院に駆け付けたときにはもう意識がなくて、そのまま亡くなってしまったんです」僕は給料袋を無理やり竹井さんの手に掴ませると、サッサとその場を立ち去った。

 次の週、バイト先に行くと、竹井さんが門の前で僕を待っていた。「仲西くん、やっぱり、これ返します」彼は僕に気付くと、静かに近寄って来て、給料袋を僕のズボンのポケットに無理やり押し込んだ。僕はポケットから給料袋を取り出すと、さり気なく中身を確認した。少しも手を付けていないようだった。

「お祖母さんは、大丈夫なんですか?」「ええ、幸い安定した状態が続いてます。やから、今週の末までは大丈夫やと思うんです」「そうですか……」その一件以来、僕と彼との仲は急速に接近した。バイトも二週目に入り、仕事に慣れて来たこともあって、休み時間に会話を交わす量が増えて行った。

 その一週間で、僕も彼も身の上話を語り合った。彼は自分がなぜ引きこもりに至ったのかを、一週間かけて詳しく語ってくれた。

 以下に、その詳細を記す。(本来は途切れ途切れなのだが、ここでは、まとめて一文にしてある)。

 ――私は、小さい頃から引っ込みがちな性格でした。やけど、小中高と地元の学校に行っていて、小学校から同じ学校という人も多かったから、友達はいたんです。休みの日にも、無理やり連れ出してくれるような友人がね……。私はそれを(わずら)わしく思ってしまって、たまに居留守を使ったりしてました。

 そういうのが、私にとって実は大事やったんやって、気付きもしないでね……。私は、いつも同じメンバーで遊ぶというのに、飽きてたんです。やから、あえて自宅から遠い大学を選んで受験して、運良く受かりました。下宿しないで通えるギリギリの範囲でした。今にして思えば、それが間違いの元やったんです。

 私は今はこんなやけど、そのときの見た目は普通やったから、近くの席の人から話しかけられたりはしたんです。話しかけられたらそれなりに喋ってました。けど、自分から話しかけることはできませんでした。そのうち「あいつは面白くない」と思われたのか、話しかけてくれる人が、段々いなくなって行きました。

 そんなわけで、一年よりも二年、二年よりも三年と、徐々に、学校に行くのが苦痛になって行ったんです。特に、休み時間なんかがね……。それで、学校を休みがちになって、単位も落としがちになって行きました。それでも、一年生で同じクラスになったメンバー三人ぐらいは、私に話しかけてくれてました。

 二年生のときまでは、それで良かったんです。けど、三年生になると、卒業論文に向けて「少人数クラス」を選択しなければならなくて、彼らとは離れ離れになってしまいました。彼らはそれなりに単位を取ってたし、その当時は携帯電話も普及してなかったから、学校内で会うことも減って行ったんです。

 残念ながら少人数クラスは、今まで同じクラスになったことのないメンバーばっかりやったんです。それで、自分からは何も話しかけられませんでした。一ヶ月ばかり経った頃、教室が変更になったんですが、そのとき学校を休んでいた私は知らないで、以前の教室に行きました。

 そしたら、誰もいないんです。ビックリしました。時間割を確かめても、合ってましたし。仕方なく、私はそのまま帰りました。一回だけの変更やったら良かったんですけど、次の週の同じ時間に同じ教室に行っても、やっぱり誰もいないんです。掲示板に「休講のお知らせ」も貼ってなかったですし……。

 受け持ちの先生の所へ聞きに行ければ良かったんですけど、どうしても行けませんでした。何回かその先生の部屋の前までは行ったんですけど、どうしても入れないんです。結局、以降、少人数クラスに行くことはありませんでした。こうして私は留年し、学校に行かなくなり、家からも出なくなって行ったんです。

 今になって思うんですけど、サークルに入るか、バイトを始めるかしてたら、もしかしたら変わってたかもしれませんね……。けど、当時の私には、サークルに入る勇気もなかったし、バイトを始める勇気もなかったんです。――

 バイト二週目の最終日、竹井さんは給料袋を手に取って中を確認すると、「フゥー」とため息を()いた。眼には涙が浮かんでいる。「竹井さん、これで、お祖母さんにプレゼント買ってあげられますよね」「うん、今日、店に行って注文して来るよ」「僕も一緒に行きましょか?」

「いや、ええよ。これは、私が全部一人でやらなあかんことやと思うから」「そうですか……。じゃあ、また来週会いましょ。……来週も来るんでしょう?」「うん。契約は四週間やからね」彼は右手を差し出して来た。「握手ですか?」「うん」僕は彼と握手を交わした。

 彼の手は汗ばんでいたが、僕はそれを不快には感じなかった。

 アルバイトを始めて三週目の初日、バイト先に行くと、竹井さんは来ていなかった。(やっぱり先週で辞めたんかな?)と思って現場の責任者に聞いてみると、彼は「竹井さんはお祖母さんが亡くなられたので、今日と明日は休むそうです」と答えた。

 竹井さんのプレゼントは間に合ったのだろうか? もし、間に合っていなかったとしたら……。僕は、間に合っていることを心から願った。

 二日後、竹井さんがアルバイト先にやって来た。「おはようございます」僕はどんな声を掛けていいか分からなかったので、挨拶だけをした。「おはようございます」彼もそれだけしか言わなかった。表面上はいつもと変わらない彼だったが、作業中はミスを連発し、社員の人に何回も怒鳴られていた。

 休憩時間になると、僕が聞くよりも前に、彼の方から話し始めた。「祖母ちゃん、ついに死んじゃってね……。プレゼントは間に合いませんでした……。結局、私、祖母ちゃんに何もしてあげられんかった……」竹井さんはバイトが終わり、店が開く時間になると、すぐにプレゼントを買ったそうだ。

 しかし、その商品が家に届くのは、その日の午後になるということだった。それでその前に、お祖母さんが好きだった水木しげるの本を買い、それを持って家に帰ることにした。――ところが、だ。彼が「角を曲がれば家が見える」という所まで差しかかったとき、その角から救急車が現れ、彼の横を擦れ違った。

 彼は慌てて家の方へ走り出した。すると、家の前には父親が立っていて、お祖母さんの病状が急変したことを、告げられたのだと言う。「私はね、しばらくその場で、呆然と突っ立ってしまいました。その後、すぐに病院に向かったんですけど、結局、祖母ちゃんの意識が回復することはなかったんです……」

 畳の部屋で、竹井さんは軽く(うつむ)いて正座している。握った拳が、膝の上で震えていた。「私、祖母ちゃんに何もしてあげられんかった……」彼は再び、同じ言葉を繰り返した。「けど、お祖母さんは、竹井さんが『プレゼントを買うために働き始めた』ってこと、知ってたんでしょ? それやったら」

「いえ、知らんかったと思います。私は、何も言いませんでしたから……」「それでも、『竹井さんが働き始めた』っていうことだけで、お祖母さんは嬉しかったと思いますよ」「……」竹井さんは何も言わなかった。拳を、強く握り締めているだけだった。「お祖母さんの、死に目には会えたんでしょ?」

「ええ、まあ……、私が病院に駆け付けたとき、幸い、まだ息はありました。人工呼吸器はつけてましたけど……」「それやったら、竹井さんが後悔することなんてないんやないですか? 竹井さんは、精一杯のことをやったわけですから」「……けど、祖母ちゃんが悪くなったんは、半年以上前からなんです」

「やから、『そのころからアルバイトを始めていたら……』と思うと、どうしても後悔してしまうんです」「竹井さん、僕はね、お祖母ちゃんの死に目に会えなかったんですよ。二年ほど前かな、病気が分かってね、しばらくして、自宅で寝たきりになってしもたんです」

「お見舞いに行こうとは思てたんですけど、本人が『弱ってる姿を見せたない』って言ってたこともあって、結局、死んじゃうまで行かなかったんです……。病気の後初めて対面したとき、お祖母ちゃんはもう冷たなってました。後悔しました。お祖母ちゃんが嫌がっても『無理にでも会っておくべきやった』って」

「それから一年以上経ったけど、正直、今でも心の奥に(わだかま)りは残ってます。せやけどね、そのことばっかり考えてたら、前に進めへんと思うんです。僕ら生きてるもんは、どんなに悲しいことがあっても、前に進まなあかんと思うんです。それが、天国に行ったお祖母ちゃんが、一番喜ぶ方法やないかと思うんです」

「仲西……くん……。確かに……、そうかも……しれへんね……」竹井さんの眼から、涙が(あふ)れ出す。「まあ、偉そうなこと言っちゃったけど、僕だって、そう思えるようになるまでに一年ほど掛かりましたから、ね」「うん、私、頑張ります。祖母ちゃんが、あの世で喜んでくれるように」

 僕は、竹井さんの肩に手を置いた。「今はとりあえず、後半の仕事を頑張りましょ!」「うん、そうやね」――竹井さんは、ミスすることなく後半の作業を終えた。

 アルバイトの最終日、最後の休憩時間のこと。竹井さんはいつも背負って来ているナップサックから、一冊の文庫本を取り出し、僕に差し出した。「これ、もらってくれませんか?」見ると、本屋のカバーがされたままで、題名は分からなかった。「何です、それ?」「『水木しげるの妖怪文庫』の第一巻です」

「これ、私が祖母ちゃんのために買った本なんですけど、ナップサックに入れっ放しにしてあったんです」「ああ、例の」「ええ。祖母ちゃんは、水木しげるの妖怪の絵が好きでね……。やから、この本が手元にあると、どうしても祖母ちゃんのことが思い出されて、辛いんです。かと言って、捨てるのもね……」

「で、僕にもらって欲しい、と?」「ええ。仲西くんなら、この本を、大事にしてくれるんやないかと思いまして……、迷惑ですかね?」「まあ、大きな本ではないですし、迷惑ではないですけど」「もらってくれますか?」「ほんまにええんですか?」「ええ。もちろん」

「分かりました」僕は、竹井さんから本を受け取ると、言った。「大事に取っておきます。もし、竹井さんが再び手に取りたいと思ったら、いつでも家に来て下さい」――そこで初めて、僕と竹井さんは住所を教え合った。

 それから、もう十年以上経つ。僕と竹井さんはその後も親しく付き合っているが、その本の話題が出たことは、一度もない。でも僕は、未だに本棚の奥にその本を大事に仕舞ってある。そして、たまに出してきて眺めては、自らを戒めるのだ。

 ――ちなみに、『水木しげるの妖怪文庫』(水木しげる著、河出文庫)は全部で四巻あるが、残りの三巻は購入していない。

四、僕と彼

「――というわけやねん」おじさんは文庫本にまつわる因縁を語り終えると、その本を元の場所に戻した。話を聞いた僕の心は、ざわついていた。「それで、竹井さんは今どうしてはるんですか?」僕はいくぶん早口になって、聞いた。「之宣(ゆきのぶ)くんが彼や。今ではちゃんと社会復帰して、結婚して、子供までおるよ」

 そのとき、車が家の前で止まる音がした。「おっ、やつが来たかな?」ピーンポーン! 玄関のベルが鳴る。「はーい」おじさんが出る。「よう来てくれたな。まあ、入ってくれ」「おじゃましまーす」竹井さんが、おじさんの後ろから入って来た。おじさんの昔話とは違って、丸々と肥えている。

「十年も経てば人は変わる」という、いい見本のようだ。「之宣くん、こっちが甥っ子の下川公実(きみざね)くん。公実くん、こっちがさっき話した竹井之宣くん」おじさんは二人を引き合わせた。「始めまして」と竹井さん。「こちらこそ始めまして」と僕。双方の挨拶が終わった途端、おじさんの携帯電話が鳴り出した。

「もしもし、ああ、うん、分かった。すぐ行く」おじさんは電話を終えると、すまなさそうな顔をして、手を合わせた。「スマン、ちょっとした用事ができてもうたんや。ちょっと出かけなあかんから、しばらくの間待っといてくれる?」「どれぐらい?」と竹井さんが聞く。

「そうやなぁ、一時間ぐらいで帰って来れるとは思うねんけど」「ほんなら、僕とこの子とで、荷物を車に積んどこか?」「いや、さすがにそれは悪いわ。僕が戻るまでは何にもせんでええよ。お金渡すから、公実くんと一緒に昼飯でも食うといて」そう言うと、おじさんは竹井さんに二千円札を手渡した。

「分かった。ほんじゃ、ちょうど一時間後にここに戻ってたらええな?」「ああ、頼むで」そう言うと、おじさんは家を出て行った。「公実くん――やったね?」「はい」「ほんなら、今から近くのファミレスにでも行こか?」「はい」僕がそう言ったとき、ゴトン! と音がした。

 その方を見ると、さっきおじさんが元の場所に立て掛けた例の本が、本棚の上で倒れていた。「おっ! あれは……」竹井さんはそう言うと、本棚に歩み寄り、その本を手に取った。「懐かしいなぁ」「それ、元は竹井さんの本やったんですよね?」「えっ! ちゃうよ。始めからきみのおじさんのもんやったよ」

「えっ! じゃあ、さっきのおじさんの話は……?」「公実くんは、おじさんからどんな話を聞いたんや?」僕はさっきおじさんから聞いた話を、かいつまんで竹井さんに話した。「ふーん。そうか、自分の話をするんは照れ臭いもんやから、僕の話だけをした、っちゅうわけか……」「自分の話、って?」

「おっ、興味ありそうな顔してるな?」「ええ、まぁ……」僕は軽く頭をかいた。「せやけど、あいつのおらんとこで、言うてしもてええもんかなぁ……」竹井さんは腕を組み、眼をつぶってしばらく考えていたが、「ええい、お互い様や」と言うと、例の本にまつわる別の物語を語り出したのだった。

五、彼とおじさん

 きみのおじさんが話した中で、僕についてのことはおおむね正しいよ。せやけどね、きみのおじさんが話した自分自身についてのことは、かなりの部分がデタラメやで。彼の話やと、当時「自分は大学に通ってた」ってことになってるけど、ほんまは行ってなかったんやで。大学に籍だけは置いてあったみたいやけどね。

 これは後に彼のお姉さん――きみのお母さんやね――に聞いたから、確かやで。考えてもみてみ? 十年前やったら、彼はもう二十五歳やってんで。一年生なわけないやん。えっ! きみは彼の歳知らんかったんか。せやったら、気付かへんでもしょうがないわな……。

 僕と彼がバイト先で知り合ったいきさつは、ほぼ彼の話した通りやけど、この本についてのことは、全くの作り話やで。僕が祖母ちゃんのために()うたんは、マッサージチェアだけで、本なんて買うてへん。この本は彼が買うたもんなんや。それも、その当時から三年も前にね……。

 彼はバイトで長めの休憩時間に入ると、この本を自分のリュックから取り出して、ずっと読んでたんや。せやけどね、読みたくて読んでるというより、無理して読んでるように見えた。読んでるときの表情が楽しそうやなかったし、読んだ後の表情も、何と言うか、ホッとしたような表情やったからね。

 あれは――何日目やったかは忘れたけど、バイトの最終週のことやったんは確かや。彼はついにこの本を最後まで読み終えて、本を閉じた。するとね、その瞬間、彼の眼ぇから涙が(あふ)れ出したんや。そんときは、本の内容に感動したんやと思たんで、僕はこう聞いた。「仲西くん、その本、そんなにええ本やの?」って。

 ほんならね、彼は涙を手の甲で拭って、言うたんや。「いや、それほどでも……」って。それから、こういったような会話が続いた。――「けど、仲西くん泣いてるやんか」「この本にはね、特別な思いがあるんや」「へぇ~、どんな?」「他の人に言うたら、『何やそんなことか』って笑われるようなことなんや」

「私は笑わへんから、教えてや」「う~ん、あんまり言いたくはないんやけど……」――そこで彼は少しの間迷ってたけど、結局は「せやけど、竹井さんは色々話してくれたから、僕も話すことにするわ」って決断してくれたんや。

 仲西信一の話をまとめると、以下のようになる。

 ――実は仲西信一も、そのアルバイトを始めるまでは、竹井之宣(ゆきのぶ)と同じく、引きこもっていた。当然、そうなった理由は之宣とは多少違っている。信一には、数は少ないながらも、大学に友人がいた。だから、大学に行くこと自体はそんなに嫌ではなかった。では、何が理由で引きこもってしまったのだろうか?

 もちろん、いくつかの理由が複合的に合わさっているのだが、その主な理由は「朝起きられない」ということだった。彼は高校時代以前から、早起きが苦手だった。「早く寝ればいいだけの話」だと言われれば、反論のしようもない。そこをあえて反論すれば「寝ようと思うと寝られなくなる」という理由があった。

 彼は、「明日の朝早いから()よ寝よ」と思って横になったときに限って、なかなか寝付けないのだ。眠るまでに二時間は掛かってしまう。しかし一度眠りに落ちてしまうと、目覚まし時計が鳴っても起きないほど熟睡してしまうのだ。しかも、「一日八時間は眠らないと、一日中眠くて仕方ない」という有様だった。

 それでも高校時代までは、母親が無理やりにでも起こしてくれていたから、何とかなっていたのだが……。大学生になってからは、「もう大人なんやから、自分で起きなさい」ということで、放っておかれたのだ。その結果として起きられず、一時間目の講義にはほとんど出ることができなかった。

 三年生になると、卒業論文に向かっての「少人数クラス」に出席しなければならない。彼は、それにもどうしても遅刻してしまう。大幅な遅刻はほとんどなく、大体が十分ほどのものであり、それぐらいなら途中から出席すれば欠席にはならない(遅刻にはなる)。が、彼は途中から教室に入るのが苦手だった。

 だから、教室の前まで行って、しばらく待った。他に遅れて来る人を待っていたのだ。そして、遅れて来る人がいれば、一緒に教室に入るし、もしいなければ、そのまま帰ってしまっていた。――結果、彼はその単位を落とし、留年することになった。留年するにしても、履修届を出さねばならない。

 それには当然、提出日と提出時間というのが定められており、一分でも遅れれば、受け取ってもらえないことになっていた。提出時間の期限は午後三時だったので、「まあ、大丈夫やろ」と思った彼は、午前三時頃まで起きていた。しかも、目覚まし時計もかけなかった。

 しかし次の日、彼が起きたとき、時計の針はもう午後一時を過ぎていた。彼は急いで支度を済ませ、学校へ向かった。彼の家から学校まで、順当に行っても一時間三十分は掛かる。彼が学校の最寄り駅に着いたとき、残り時間は三十分もなかった。また、運の悪いことに、バスはついさっき出たところだった。

 春休み期間中だったので、バスの本数が少なく、あと二十分近く待たねばならなかった。バスに乗れば十分ほどだが、歩けば三十分は掛かる。冷静に考えれば、バスを待った方が良かったかも知れない。が、彼は居ても立ってもいられなかった。そして、歩いて行く方に賭けた。

 彼は早足で歩いた。歩く速度としては、生涯で一番速かっただろう。しかし、彼が学校の門をくぐったとき、すでに期限は五分過ぎていた。門から教務課までは三分ほど掛かる。八分ぐらいは待ってくれるだろうか? ――実はその前年、彼は提出時間を五分ほど過ぎてから、教務課へ必要書類を提出していた。

(あのときはお情けで受け取ってくれたけど、さすがに二年連続は無理やろな……)勝手にそう判断した彼は、Uターンし、今来た道を戻って行った。絶望感に打ちひしがれた彼は、家に帰り、再度学校から配られた予定表を見て、さらにショックを受けた。提出期限が、三時ではなく、三時三十分だったからだ。

 彼は手帳に書き写すとき、間違えて「三時」と書いてしまっていたのだった。その後、履修届が出されていない件で、家に電話が掛かって来た。母親は驚いて彼を問い質した。彼は「もう学校に行く気はない。退学届を出す」と言い切った。彼は自分自身に絶望していた。ダメ人間過ぎることに落ち込んでいた。

 何もやる気がしなかった彼は、三ヶ月ほど、一歩も外に出ないで過ごした。一方、彼の母親は密かに(彼が渡した退学届ではなく)休学届を出していた。いつか彼が思い直し、学校に戻ることを願って。しかし彼は、その後三年間学校に行くことはなく、アルバイトさえしないで家に引きこもり続けた。

 そんなときだった。彼の祖母が亡くなったのは。彼は人前に出たくはなかった。が、母親に泣き付かれたため、渋々ながらお葬式に出席した。そこでは、家族や親戚以外の多くの人が、祖母のために泣いていた。そのとき、彼は思った。(僕が死んだとき、家族の他に泣いてくれる人が、果たしておるやろか?)と。

 学生時代の友人とは、もう連絡を取ってはいない。もちろん、彼女もいない。(せめて、一人でもええから、僕のために泣いてくれる人を作りたい。いや、作ります!)彼は祖母の棺の前で、固く誓った。

 信一はまだ大学に通っている頃、通学電車の中で、毎日本を読んでいた。主に文庫本だったが、駅前の書店で一月に二冊ぐらい買って、読んでいたのだ。その本は通学電車内専用で、家や学校では絶対に読まなかった。電車に乗っている時間は片道四十分ほどもあったので、順調に行けば、かなりの量読めた。

 だが、混雑している場合は読めないため、進みは決して速くはなかった。四年生の冬、彼は二冊の文庫本を買い、一冊は読み終え、もう一冊は三分の一ほど読んだところで春休みに入った。そのときは、春になったら続きを読むつもりだった。そのまま三年間もカバンに入れっ放しになるとは、思いもしなかった。

 彼は、その本のことを忘れていたわけではない。本など読む気もしなかったかというと、そうでもない。月に一度しかしない外出は、図書館に本を借りに行くためだったのだから……。彼は、読めなかったのだ。実は、その本を何回か手に取ったことはあった。が、すぐにカバンの中へと戻していた。

 その本を手に取ると、自分が失敗したときのことが、次から次へと連鎖的に頭に蘇って来て、落ち込んでしまうからだった。(この本の続きを読めたとき、それは、僕が過去に(とら)われることから決別して、前向きに新しい生活を始められたときや。それまでは無理や)。彼はそう思って来た。

 それから三年。彼の生活は一向に進展しなかった。が、祖母の死があって、ようやく彼は一歩を踏み出し、バイトを始めることができた。(今しかない。今こそ続きを読むときや!)彼はそう決意した。それでも、バイトを始めて一週間は、本を手に取ることしかできなかった。本を開くことはできなかったのだ。

 二週目、ついに彼は本を開く。そして、前の続きから読み始めようとした。が、すでに内容をほとんど忘れていた。仕方なく、彼は最初のページから読み始めた。しかし、最初の数日は全然ダメだった。眼は本の文字を追っているのに、全く頭に入って来ない。本を手に取ると、つい、昔のことを考えてしまうのだ。

 彼が読み進められるようになったのは、その週の後半になってからだった。本に入り込んでいる間は、余計なことは考えずに済んだ。が、区切りのいい所まで読み終えたときには、一瞬、昔のことが頭をよぎり、落ち込みそうになった。そんなとき彼は、眼を上下左右に二~三回動かした。そうすると、気が紛れた。

 三週目、彼は順調に本を読み進めた。残りは五十ページを切った。そして、バイトの最終週、彼はついにその本を読み終えることができた。(よっしゃあ!)彼は心の中でそう叫び、本を閉じると、眼をつぶった。三年前から今日までの瞬間瞬間の映像が、スライドを見るように頭の中を流れて行った。

 彼の頬を温かいものが流れた。(これで、過去に囚われてた僕が、ようやく解放されたんや)。彼はそう実感することができた。

 そんな彼に、バイト先で知り合った竹井之宣が聞いて来た。「仲西くん、その本、そんなにええ本やの?」「いや、それほどでも……」「けど、仲西くん泣いてるやんか」「この本にはね、特別な思いがあるんや」「へぇ~、どんな?」「他の人に言うたら、『何やそんなことか』って笑われるようなことなんや」

「私は笑わへんから、教えてや」「う~ん、あんまり言いたくはないんやけど……」彼は少しの間逡巡したが、すぐに話す決意を固めた。そして、言った。「せやけど、竹井さんは色々話してくれたから、僕も話すことにするわ」と。――

 記憶とは、良くも悪くも自分が生きて来た証なのだ。消し去ることはできない。しかし、それを他人に話すことができるようになったとき、記憶は自分にとっても物語となる。初めて過去のものとなるのだ――と、今の彼は思っている。

 ――そのときの本が、この『夏草の記憶』(トマス・H・クック著、文春文庫)なんや。後に僕は、信一くん――きみのおじさん――からこの本を借りて読んでみた。彼は「それほどでも……」って言うてたけど、僕はええ本やと思たで。まあ、泣きはせんかったけどね。

六、再び僕とおじさん

「――というのがほんまの話や」「へぇ……。おじさんも引きこもってたんですか……。知らんかったなぁ……」「ま、今では社長なんかをやってるあいつも、若い頃は色々あった、っちゅうことやね」竹井さんはビニールパックに入った文庫本を、軽く空中に放り投げては受け取る、という行為を繰り返していた。

「あっ、いかんいかん。もうこんな時間やわ」彼は腕時計の文字盤を僕の方に向けた。おじさんが出て行ってから、三十分以上経っている。「ファミレスに行ってる時間はないな……。公実(きみざね)くん、コンビニの弁当でもええかな?」「ええ」「ほんなら、今から買って来るから、ちょっと待っといてくれる?」「はい」

 竹井さんは例の本を本棚に戻すと、部屋を出て行った。一人部屋に残された僕は、本棚に近付くと、本をジッと見つめた。(おじさんにも、あんな過去があったんやな……)この部屋には何遍も来ているけど、この本を見たことはない。本棚の奥に仕舞っていたのだろうか?

(やっぱり、照れ臭かったんかな……)僕は今までにも増して、おじさんに親近感を抱いていた。――僕が自分の悩みを打ち明けられる年上の人は、おじさんだけだ。しかし、彼は少し遠い場所に引っ越してしまう。これまでのようには会えなくなるだろう。(今のうちに、話しとくべきやろな……)

 僕は頭の中で、おじさんに話す場合のシミュレーションを始めた。

 ――おじさん、僕、竹井さんからあの本のほんまの話、聞いたよ。(そうか、聞いたんか……。あいつ、余計なことを……)おじさんも引きこもってたこと、あるんやてね……。(まあ、ね……)実はね、僕も、最近引きこもっててん。もう、三ヶ月ほど学校に行ってないねん。(へぇ……。どんな理由で?)

 理由? 言うても、笑ったり呆れたりせぇへん?(せぇへんよ、絶対に。約束する)他の人が聞いたら、鼻で笑うようなことやねん。それは、自分でも分かってんねんけど……。(分かるわ。僕もそうやったからね……)ほんなら、話すわ。実はね、僕……。(うん)

 この通り髪長いやろ。これはね、長いのが好きやからとちゃうねん。散髪が嫌いやからやねん……。どう思う?(別に……)僕の両親やクラスメイトたちはね、「いい加減に髪の毛切れよ」ってばっかり言うねん。(ふん。それで) 僕かてね、ほんまは切りたいねん。やけどね、散髪屋に行くのが嫌やねん。

(何で?)やってさ、一度も自分の思たような髪型になったことがないねんもん。(分かるわ、その気持ち)そう? 分かってくれる?(うん)それでもね、去年の冬ごろまでは――嫌々やけど――三ヶ月に一度ぐらいの間隔で行っとってんけど……。(どうしたん? 急に黙り込んじゃって……。泣いてんの?)

 八ヶ月ほど前に行った散髪屋で、散々な目にあったことを思い出して……。悔しくて……。(一体、どういうことがあったん?)……僕が行ったんはね、チェーン展開してる、値段が安い散髪屋やねん。それまで二年ほど、三ヶ月に一回のペースで行ってたんやけど、毎回ちゃう人が僕の担当になっとってん。

 けど、それまでは結構ええ人に当たっとったから良かったんやけど……。そのときに限っては、最低の奴が僕の担当になってん。そいつはひどい奴やった。そいつの顔と名前は、嫌で嫌で仕方がなかったから、思い出しそうになったら、あえて別のことを考えとったら、忘れることができた。

 やけど、今から思えば、名前だけでも覚えといて、本社に電話して、文句の一つでも言うてやればよかったと思うわ……。(そんなにひどい奴やったん?)そうやねん。まずね、そんとき、僕、長くなってきて自分でもちょっと鬱陶(うっとう)しいと思てたから、後ろだけちょっと刈ってから行ってん。

 ほんならね、そいつ、「後ろ自分で刈ったん?」なんて聞きながら、「フン」って鼻で笑いやがったんや。しかもね、「いつ散髪行った?」って聞くから、「三ヶ月前ですけど」って答えると、また「フン」って鼻で笑いながら、「普通は、一月に一回は行くもんやで」なんてぬかしよった。

 僕はそこでもう、いきなり立って、店を出て行きたかったぐらいやったけど、何せ、向こうはハサミを持ってるし、こっちはマントみたいなんを着せられとって自由に身動き取れへんしで、何もできへんかってん。しかもね、腹が立つどころか、呆れるしかないことにね、そいつはね、散髪の腕も二流の奴やってん。

(どんな風に?)あんね、そいつの使うハサミの先がね、僕の頭をツンツン突っ突くねん。しかもね、一度や二度やないよ。何度も何度もなんやで。痛いったらあれへん! やけどね、僕は何も言えへんかった……。もしも僕が注意して相手が逆上したって、この状態やと逃げられへん……って考えてしもてん。

 僕にはね、投げるようにお金を払って出て行くことしかできひんかってん……。ほんまは、お金なんか払いたなかった。あんな技術でお金をもらおうやなんて……、ほんっまに最低の奴やったで! そんとき、僕は決心してん。「あんな嫌な思いをするぐらいやったら、散髪屋には一生行かへん」ってね。

 で、それ以来、僕は髪の毛を伸ばし続けとってん。誰に何と言われようと、ね。(なら、それでええんやないか?)うん、僕もね、基本的にはそう思てんねん。けどね……。僕かてね、学校に好きな子ぐらいおんねん。その子とは今は別のクラスなんやけど、たまに廊下で僕の側を通るとき、クスッって笑うねん。

 それだけやったらまだ良かってんけど、あるとき、クラブの後輩を連れて僕のクラスの前まで来て、僕の方を指差して何か言うてんねん。耳を澄まして聞いてみると、僕の髪型を見て、「まるで、二十年前の髪型やな」って言いながら、笑いあっとってん。ショックやったなぁ、あんときは。

 何せ、好きな子が僕のことで、他の人と笑いあってんねんからね……。それ以来時々、知らへん下級生が僕を見にやって来ては、笑って帰って行くねん。僕はついに遣り切れへんようなって、学校に行くのを()めちゃってん……。(そうやったんか……。でも、それやったら、お母さんに切ってもろたらどうや?)

 昔一度切ってもろたんやけど、その後ちょっと文句言うたら、それ以来切ってくれへんようになってしもてん。(なら、これから僕が切ったるわ)大丈夫なん?(ああ、任しとけ。僕も散髪屋に行くんが嫌いでね、時々自分で切ってるんや)ほんまに?(ああ。これからは、僕が公実くんの髪を切ってあげるわ)

……けど、おじさんは遠くに引越しちゃうやろ?(バスと電車乗って……四十分以上かかるかな。せやけど、土曜日か日曜日になら来れるやろ? 急に来られたらさすがに困るけど、事前に電話しといてくれたら、その日は空けて待っとくよ)おじさん……、ありがとう!(どういたしまして)――

七、僕とおじさん、そして彼

 僕の頭の中でちょうどシミュレーションが終わった頃、ガチャ! 玄関の扉が開いた。見ると、おじさんだった。「おかえりなさい」「ただいま。あれ、之宣(ゆきのぶ)くんは?」「ちょっとコンビニまで行ったよ」「そうかいな」と言いながら、おじさんは靴を脱いで家の中に入って来た。

「おじさん」「ん、何?」「僕、竹井さんから、この本が元からおじさんのもんやったって話、聞いたよ」「そうか、聞いたんか……。あいつ、余計なことを……」そこからの会話は、僕が想定したのとほぼ同じ内容だった。会話が一段落した後、おじさんは言った。「よし、早速今から散髪するか!」

「えっ! でも、これから引越しせなあかんでしょ?」「ええんや。どうせ之宣くんの車で行くんやから。あいつなら、多少は待ってくれるって」「けど、散髪用具も荷造りしちゃったでしょ?」「平気平気、それぐらいやったらすぐに出せるで」「それに、終わった後、掃除すんのが大変でしょ?」

「古新聞を敷いてやったら、後片付けはそんなに大変でもないって。幸い、掃除機は出しっ放しにしてあるから、こぼれたやつは掃除機で吸い取ればええねんし」「それじゃ、頼みます……」おじさんは、一つのダンボールのガムテープを剥がすと、散髪用具を取り出した。

「できる髪型はこんなもんやけど、どれがええ?」おじさんは付属品の髪型カタログを僕に手渡した。僕は、一番長めの髪型を指差して、言った。「これ、お願いします」僕はその場でおじさんに髪を刈ってもらい、僕もまたおじさんの髪を刈った。両者とも、それなりには見られる髪型になった……と思う。

「これで、夏休み明けから学校行けるやろ?」と言って、おじさんはニッコリと笑った。「う、うん」「どうした?」「勉強、付いて行けるかな、って思て」「夏休みが終わるまで、あと二週間はあるやろ? その間、必死に頑張ってやれるだけやってみたらええ。それでだめでも、あきらめたらあかんで」

「学校行ったら先生に相談してみ、普通の先生やったら、何かと力になってくれるって」そして、おじさんは僕の肩に手を乗せた。「困ったことがあったら、いつでも電話して来いよ」「うん」(うなず)いた僕の眼は、潤んでいた。「よし、掃除するか」おじさんは手を叩いて、言った。

 掃除を始めてから、気付いた。「竹井さん、えらい遅いですね」おじさんは笑みを浮かべた。「実はな、僕、あいつと玄関の前で()うてな、本のこときみに話した、って聞いたんや。それでな、きみが僕に何か話したそうやった、それには二人っきりの方がええやろ、って気ぃ使(つこ)て、外で時間潰してくれてるんや」

「そうやったんですか……」ついに、僕の眼から涙が(あふ)れ出した。(何て、何てええ人たちなんや……。僕も大人になったら絶対、おじさんたちみたいな大人になる。ならなあかん!)僕はそう心に誓った。

八、僕と姉さん

 部屋の片付けが一段落すると、僕は腕時計に眼をやった。「十一時か……。まあ、まだ起きてるやろ」僕は姉に電話を掛けた。「もしもし」姉はすぐに出た。「もしもし、姉さん?」声で分かったが、一応確認する。「うん、そうやで」「あの子の反応、どう?」「あいつ、やる気出てきたようやわ――ありがとう」

「どういたしまして。って、ンハハハハ」「何よ? いきなり、何笑ってんの?」「いや、改まってお礼言われると、何か照れ臭くてな」「そうやろな。実は、私もちょっとこそばゆい感じがしとってん」「「ンハハハハ」」僕と姉は同じような笑い方で笑い合った。

 聞いている人によっては嫌がられる、いわゆる「引き笑い」というやつだ。(まったく、嫌な所ほどよう似てる)そう思った僕は、笑うのを()め、気になっていたことを聞いた。「それはそうと、あの本、ほんまは誰の本なん?」「ああ、あれか、あれはな……」「うん」「分からへん」「えっ?」

「あれはな、前に実家の整理しに行ったときに、リビングの本棚の後ろに落ちてた本やねんけど、母さんも父さんも『知らん』って言うし、私も知らんし、あんたも知らんねやろ?」「うん」「多分、誰かは分からんけど、買ったまんま忘れてたんやろなぁ」「それにしては、ボロッちかったけどなぁ」

「古本屋で()うたんとちゃうか?」そう言えば、うちの家族はみんな、古本屋めぐりが好きだった。特に、父と姉は頻繁(ひんぱん)に一緒に出かけては、たくさん本を買い込んでいた。読まずに積んだままになっている本も、数多くあった。しかし、もしかして……。「あるいは、誰かが知らへんふりをしてんのかも」

「まさか。何のためにそんなことせなあかんの?」「そう言われると、困るけど……」僕は、十数秒ほど考え込んだ。「いつまで黙ってんの?」姉の言葉で我に返った僕は、再び話し始めた。「ゴメンゴメン、ちょっと考えとってん。……ところで、あの本の中身は見たん?」「うん、パラパラとやけどな」

「何かなかったん?」「何か、って?」「いや、もしかして、何か重要なメモでも挟んであったんちゃうかなぁ? て思たんやけどなぁ……」「それはなかったな」「じゃあやっぱり、ただ、誰かが買うたんを忘れてるだけか。つまらへんね」「まあ、現実はそんなもんやろ」

 そう、謎めいた物語など、めったにあるものではないのだ。「それにしても姉さん、ようあんなストーリー考えついたもんやな」僕と友人が甥にした話はおおむね真実だが、あの本に関してだけは、全くの作り話なのだ。そして、それを考え出したのが姉なのだった。

「私が小説家を目指してたんは、知ってるやろ?」「知ってるけど、それは、もう十年以上も前の話やろ?」「もうそんななるか……。実はあれはな、一度文学賞に応募して落ちた話を、修正したもんなんや」「へぇ、そうやったん」「まあ、言うたら、廃品利用やね」

「そんな自虐的な言い方せんでもええよ。あのストーリー、結構ようできとったで。……また、書いてみたらどう?」僕は素直な気持ちを吐露(とろ)した。「……」姉は沈黙した。その間、僕も何も話さなかった。しばらくして、姉はようやく話し出した。「そうやね、やるだけやってみよかな。……信一、ありがとう」

「どういたしまして。って、さっきも同じやり取りしたよな」「せやな、ンハハハハ」姉は笑った。「やっぱり照れるな」「せやな、ンハハハハ」僕も笑った。「「ンハハハハ」」僕と姉は再び同じような笑い方で、笑い合った。(まったく、よう似てる)「ほんじゃ、そろそろ切るで」と僕が切り出した。

「おやすみ。姉さん」「ああ、また今度ね。おやすみ」姉はまだ話したそうだったが、僕は会話を打ち切った。姉は自分から掛けて来るときは、用件だけ伝えたらすぐ切るくせに、僕から掛けたときは、用件が終わってもいつまでも話し続けるのだ。(まったく、嫌な所ほどよう似てるわ)

 フッ。僕は苦笑いをすると、風呂に入る準備を始めた。

九、本と私

 私は弟に嘘を()いた。本当は、私はこの本が誰の本だか知っているのだ。弟が返してくれた本を手に取り、(まぶた)を閉じる。と、あのときのことが、昨日のことのように思い出された。

 ――私がこの本を読んだのは、まだ高校生のときのことだから、二十年も前に(さかのぼ)る。

 当時の私は、高校の三年間ずっと図書委員をやっていたほど、大の本好きだった。中でも、特に好きだったのがミステリー小説だった。江戸川乱歩・横溝正史から西村京太郎・赤川次郎まで、三年生の二学期までに、学校の図書室から百冊以上借りて読んでいた。

 が、私が読んだのは専ら日本の作品で、海外作品と言えば、ホームズものとブラウン神父もの、そして、オーギュスト・デュパンが出て来る数作品に限られていた。つまり、私が読んでいたのは、ほぼ短編のみだった。それと言うのも、初めて読んだ海外の長編ミステリーが、ハッキリ言って面白くなかったからだ。

 それは、某有名作家の某名探偵シリーズの一編だったから、(有名シリーズでもこんなもんなんか……)と失望して、その後読むのを避けていたのだ。しかし今、私は日本のものより、海外の長編ミステリーの方を好んで読む。その契機となったのは、高三のとき、推薦入試で秋に早々と大学が決まったことだった。

 そのとき、私は好きな読書に没頭する時間ができたため、それまであまり読んでいなかった、海外の長編ミステリーに手を出してみようと思ったのだ。どの作品が面白いのか分からなかったから、級友や先生に聞いて回ったのだが、彼らはエラリー・クイーンとアガサ・クリスティー以外はあまり知らなかった。

 その二人の代表作なら私でも知っていたが、とりあえず、私は彼らの作品から読み始めることにした(この時期に、エラリー・クイーンでは『Xの悲劇』に始まるドルリー・レーン四部作、クリスティーでは『そして誰もいなくなった』と『オリエント急行の殺人』それに、『アクロイド殺し』を読んだ)。

 ――それから数週間が経ったある月曜日の朝、私はいつものように登校し、靴箱の(ふた)(鍵は付いていない)を開けた。と、そこに一冊の文庫本が入っていた。それは『死者の書』というタイトルで、作者は「ジョナサン・キャロル」という聞いたことのない人物だった。

 私は、(誰かが間違えて入れたんやろな。「落しもの箱」に入れとこ)と思ったが、その前に「あらすじ」と「あとがき」を読んでみた。面白そうだった。いけないことだと分かってはいたが、私はそれをコッソリと自分のカバンに入れ、持ち帰って、読んだ。面白かった。

 そろそろ読み終えるという頃(確か三日後)、再び私の靴箱に一冊の文庫本が入っていた。それは『見知らぬ者の墓』という本で、作者は「マーガレット・ミラー」という女性だった。私はその本も持ち帰って読んだ。これも面白かった。(このときの私はすでに「落としもの箱」に本を入れることを忘れていた)。

 次週の月曜日にも、『奇妙な花嫁』という文庫本が、靴箱に入っていた。作者は「E・S・ガードナー」だ(私も、この名前は聞いたことがあった)。三度目ともなると、さすがに間違いとは思われない。これは私のために入れてくれているのだ。おそらく、私の友人のうちの誰かが。そう思った。

 その後も、『見えないグリーン』(ジョン・スラデック著)『酔いどれ探偵街を行く』(カート・キャノン著)『ウッドストック行最終バス』(コリン・デクスター著)と、作者もジャンルも様々な海外ミステリー小説が、私の靴箱に入れられていた。私は全て家に持ち帰って、読んだ。

 私は持ち帰った本を、左から順番に、自分の部屋の本箱の上に並べていた。ある日、何気なく並んでいる背表紙を眺めていると、あることに気が付いた。作者名の頭文字を順に読んで行くと、キ・ミ・ガ・ス・キ・デ、となるのだ。次に来るのは、おそらく「ス」だろう。

 つまり、キ・ミ・ガ・ス・キ・デ・ス=「きみが好きです」となるわけだ。私は背筋がゾッとしたが、その反面、少しだけ期待感も抱いていた。とにかく、「本を置いているのが誰なのか」がひどく気になった私は、月曜日の朝六時半に登校し、離れた所から靴箱を見張ることにした。

 私の視力はいい方だったが、念のために母親のオペラグラス(歌舞伎の観劇によく使っていた)を無断で持ち出した。朝七時前、私の靴箱に近付く男子生徒が現れた。肉眼では顔までは分からない距離だったため、オペラグラスを覗く。見たことのある顔だ。確かクラスメイトだ。

 ――しかし、名前は出てこない。影の薄い男子だった。正直言って、私は少し失望した。鉢合わせしないように、ちょっと時間を潰してから靴箱に近付き、中を見た。と、予想通り作者の頭文字が「ス」で始まっている文庫本が、入っていた。もはや間違いない。彼は私に、作者名で告白をしているのだ。

 登校する生徒が増えるまで待ち、私は教室に入った。それから、例の彼を眼で探した。教室の隅の方の席で、彼は一人、静かに本を読んでいた。私は、クラスメイト全員の名前をフルネームで言えることが自慢の友人に、彼の名前を聞いた。彼は、「岡嶋文人(おかじまふみと)」という名前の男子だった。

 余談として、「彼はよく早退している。いじめられているのかもしれない」ということも聞いた。――次の日の早朝、私は彼しかいない教室に入ると、これまで靴箱に置かれていた本を、彼の机上にドンッ! と置いた。彼はビクッとした後、私の顔をチラッと見たが、すぐに眼を()らした。

 私はまず「ありがとう。本、面白かったよ」と礼を述べ、次に「けど、ゴメンやけど、私はあんたのこと、好きやないから」とキッパリと言い切った。そして最後に「せやからもう、本、置いてくれんでええよ」と穏やかな口調で言うと、自分の席に向かった。彼は何も言わなかった。

 程なくして、彼は休みがちになり、ついに不登校になった。私の取った態度が原因となったのかどうかは、分からない。が、私の心がチクチク痛んだのは確かだ。結局、彼は卒業式にも出られなかった。卒業後、私は遠くの大学へ進学し、下宿生活を始めた。大学生活は思っていたより忙しく、彼の記憶は薄れて行った。

 ――それから約二年後、私は成人式に出席するため、久し振りに実家に戻った。高校時代の級友と会い、色々話をした。その会話の中で、彼――岡嶋文人――の話が出た。「ねえ、そう言えばさあ、死んだ子おるんやって、知ってた?」「えっ! それって、私たちのクラスメイトで?」

「うん。卒業はしてないみたいやけど。名前、何て言うたかな……」そこで、私は思い至った。「もしかして、岡嶋、っていう子やない?」「そうそう、確かそうやった。よう覚えてたね」「いつ、死んだの?」「つい最近よ」そこで、彼女は声を低めた。「……何でも、自殺したって噂やで」

「へぇ……。そうなんや」私の気持ちは沈んで行った。あのとき、私がもう少し優しい言葉を掛けていたなら、彼は不登校にならずに済んだのかもしれない。そして、自殺することもなかったかもしれないのだ……。そう思うと、後悔の気持ちが胸を激しく突き刺した。

 その後、大学を卒業してから三年ほど実家に住んでいた私は、結婚して家を出るとき、部屋の中を整理整頓した。そのときにこの本――『料理長が多すぎる』(レックス・スタウト著、ハヤカワ・ミステリ文庫)――を見つけたのだ。私は岡嶋くんに全部返したと思っていたけど、一冊だけ残っていたのだ。最後に置かれていた、読んでいない一冊だけが……。

 私は、この本を彼の両親に渡そうかと考えた――が、できなかった。いっそのこと、捨ててしまおうかとも思った――が、それもできなかった。結局、リビングの共用本棚の上に積み、家を出てしまった。私は過去から逃げ出したのだ。――

 私は過去への長い旅路を終え、瞼を開けた。過去の映像は一瞬で消え去り、現在眼に映っているのは、年を経た文庫本のみだった。私は猛省した。思えば私は、嫌なことがあるとすぐに逃げ出す人生を送って来た。夫には悪いが、プロポーズを受け入れたのだって「仕事を辞めたかったから」という理由が大きい。

 一時期小説家を目指していたときも、二~三回賞に応募してダメだったら、あっさり諦めてしまった。こんな私だから、息子が不登校になっても、自分ではいいアドバイスの一つもできなかったのだ。困難な時期を乗り越えた弟とその友人に協力してもらえて、本当に良かった。二人には、感謝の言葉もない。

 ――私はあんなことを言ったけど、確かに好きではなかったけど、岡嶋くんを特別嫌っていたわけではない。時々話すぐらいなら、別に構わなかったのだ。そういう意思を伝えれば良かった。今になって、そう思う。

(過去から逃げ出すことは、もう()めや!)私は本をビニールパックから取り出すと、ページをめくって読み始めた。この本が面白くてもそうでなくても、私は忘れないだろう。この本、そして、岡嶋君のことを。もう二度と。

                                        了

懐かしの文庫本

 最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。

懐かしの文庫本

一冊の文庫本にまつわる物語。それは決して一つではない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一、私と本
  2. 二、僕とおじさん
  3. 三、おじさんと彼
  4. 四、僕と彼
  5. 五、彼とおじさん
  6. 六、再び僕とおじさん
  7. 七、僕とおじさん、そして彼
  8. 八、僕と姉さん
  9. 九、本と私