SS30 ラッキー
私が手にした壺はただの壺じゃなかった。
フラスコ型のその壺は左右にかたかたと震え出し、私の手から飛び出した。
私は何もしていない。ただ息を吹き掛け、”肩”に溜まった砂埃をそっと払っただけだった。
「一体どうなってるの?」尻餅をついた視線の先でそれはふわりと浮いている。
私がじりじり後退すると、小さな口から白い煙が噴き出した。
悲鳴を上げて私は出口を目指したが、舞い上がった埃と煙でまったく視界が利かない。
結局どこかに頭をぶつけ、壁に衝突して止まった私は再び床にへたり込んだ。
私が訪れたのは、顔も知らない遠い親戚から相続で受け継いだ老屋敷。ただし長い間住人不在の建物はそれこそ幽霊屋敷同然で今にも崩れ落ちそうだった。
それでも中を検(あらた)めたのは、栄華を誇った過去の噂を耳にしていたせいだった。
「おやおや……。どうやら用があって呼び出したわけではなさそうですな」
見上げれば、そこにいたのは褐色の肌をした大男。派手な原色の衣装を身に纏い、頭にはターバンを巻いている。
「気を確かに、お嬢さん。何も怖がることはありません」
大柄な体格に似合ったバリトンは執事のように丁寧で、硬直した私の呪縛を解してくれた。少なくとも危害を加えられる感じはしなかった。
「あなたは……、何者なの?」服の汚れを叩きつつ私はゆっくりと立ち上がる。
「魔王です」
「魔王ですって?」バカバカしいと首を振りつつ、それでもふと思い浮かんだお伽噺を口にした。
「まさか、あなたの足元にあるその壺がアラジンの魔法のランプってことかしら」
「おっしゃる通り。お分かりでしたら話しは早い。私があなた様の願いを一つ叶えて差し上げましょう」
私は視線を外さずに踵で爪先を踏み付けた。さらに目だけで出口の位置を確かめる。
「大丈夫、これは夢ではありませんよ」さもおかしいと言わんばかりに、二つの眼が細まった。「すぐにお決まりにならないようでしたら、またお呼び下さい。ただし願い事は一つだけ。やり直しはきかないので慎重にお考えを」
それだけ言い捨て、周囲に煙を抱いたところを私は急いで呼び止めた。
「あなたはこれまでどんな願いを叶えてきたの?」
「そうですな」顎に手をやり、彼の視線は天井へ。「ま、ほとんどが金ですな。病床にあった方は健康を望まれましたし、どうしても一緒になりたいと女性の気持ちを変えてほしいと願った殿方もおられました」
「永遠の命を望んだ者は? 誰かを葬ったことは?」
「その辺りはご想像にお任せしますが、お望みでしたら仰せのままに……」芝居掛かった慇懃な態度で彼はゆるりと腰を折る。
「あなたには仲間がいるのかしら? つまり他にも同じ力を持つ者が存在するのかっていう意味だけど……」
「いいえ、おりません。あなた様は運がよいのです。とても貴重な体験をなさっているわけですよ」
「運がいいか……」私は腕を組んで唸ってしまう。
「どうやらお決まりのようですね?」彼はクロスした両腕を胸に掲げて言葉を待った。
「あなたにはこの世から消えてもらいます」
「は?」完全に意表を突かれらしく、彼の表情が一瞬緩む。「今、何と申されました?」
「消滅してと言ったのよ。あなたの存在は……、危険過ぎる」
「なぜです? どんな願いでも叶えて差し上げるというのに……」
「もし破壊願望のある人物に”地球を滅ぼせ”と乞われたら、あなたは言われるままに実行するんでしょう?
それが今まで現実にならなかったことこそ、運がよかったんじゃないかしら?」
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