忘れさせてください。
忘れたくて忘れたのに、ときどきそれは最悪で運命的な形で思い出してしまうことがあります。
『なんで僕は生まれてきたの?』
「先生、僕ってどうして生まれてきたのかな」
とても不思議な子だった。
小学校の教師をしていたころの話だ。
いつも授業中はぼーっとしていて、話を聞いていないのかと思えばそうでもないし、休み時間になると教室からふらふらと出ていって、校庭の端っこでただ地面を見つめているような子。
たしか、名前をかけるくんと言った。
「かけるくんは、難しいことを聞くんだね」
「難しいことなの?」
「難しいよ。先生だって自分がどうして生まれてきたのかなんてわからないもの。」
「先生はなんでも知ってると思ってた」
かけるくんの家庭は母子家庭で、とても人当たりのいい母親だった。
父親とは離婚し、二人で街に越してきたのだという。
母親はそれはそれは美人で、近所では評判だった。性格さえも美人であったと思う。かけるくんも、幼いながらとてもきれいな顔立ちをしていた。
私は、教師を初めてまだ短く、勤めてからは子供たちによる新鮮な毎日を送っていた。
かけるくんに会ったときはそれはもう、驚かされるばかりで。
「そうかなあ?先生にも先生はたくさんいたけど、そうは思わなかったなあ」
「神様ならなんでもしってる?」
「そうだね、神様がこの世界をつくったから、きっと神様なら知ってるかもね」
「神様は本当にいるの?お母さんが言ってたんだ。もしかしたら神様はいないかもしれないねって」
こんなことを聞いて来ても、かけるくんの目はどこかぼうっとしているように見えた。
ああ、そういえば、私はあの時なんて言ったんだっけ。
神様かあ。今思えばいるかいないかなんて、考えることはなくなった。
確かに子供のころは、神様は本当にいるのか、とか、幽霊は本当にいるのかとか、目に見えないものの正体をさぐろうとしていた気がする。
今になってもそれがなにかなんて、わかってもいないけれど。
あの時、かけるくんにかけた言葉…一体なんだっただろうか。
「鈴木さん、鈴木さん、聞いてる?」
「あっ、は、はい聞いてます」
「どうしたのぼうっとしちゃって。体調でも悪い?」
「い、いえ!ちょっと最近寝不足で…あはは…」
私としたことが。昔のことを思い出していたら話を聞いていなかった。
今日は仕事先に新人が入ってくるからと、その新人さんに挨拶をしに来ているところだった。
私は教師をやめ、今は営業職についている。独り身ではあるが、今の仕事もそれなりに楽しい。
一緒についてきてくれている畑野さんは、10年以上も働いている先輩で、40代になった今でもとてもいきいきと働いている人だ。
ただ、とてもおしゃべりだ。今は喫茶店で新人さんと待ち合わせをしているところだけれど、その待ち時間ずっと畑野さんはしゃべり続けている。ははは…なんて軽く返してはいるが、正直なところ、話のペースが早くてついていけていない。
「あっ、ごめんねちょっと電話が…」
「あ、どうぞ」
「新人くんが来たら先に挨拶しておいてちょうだい。ちょっと行ってくるわね」
どこかで聞いたことのあるメロディが鳴りながら畑野さんの携帯が鳴った。
慌てるようにトイレへ駆け込むのを見届けたあと、ふぅ、と小さく溜息をつく。
「新人かあ…初めてだなあ」
待ち合わせまであと数分、あまり手を付けていないコーヒーはとっくに冷めてしまっている。
おしゃべりな畑野さんのことだから、きっと電話も長いに違いないだろうなあと思うと、どうやら新人にあいさつをするのは私のようだ。
店内で流れるおしゃれな音楽を聞いていると眠気に襲われる。最近寝不足続きだ。
眠気をさまそうとコーヒーに口づけ、窓の外を見つめる。
「雨降りそう…」
「あの、」
「あっ!はい!」
「鈴木さんですか?」
「えっと、はい!新人さん?」
「そうです。よかった。待ち合わせぎりぎりになってしまってすみません」
ぼうっとしていたら近くで声をかけられるまで気づかなかった。
私は慌てて立ち上がり、向かいの席に座ってくださいと頭を下げる。
思ったより若かい男の人だった、背の高い姿に、スーツを綺麗に着こなしている。真面目そうな顔つきだ。
「ええと、今ちょっと一緒に来ていた畑野さんが電話来ちゃって席はずしているけど、話を進めちゃいましょう」
「わかりました。」
「あ、何か飲みます?」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
礼儀のいい人だな、と思った。
けれどどこかぼうっとしているようにも見える。私は鞄から資料を取ろうと鞄を開けた。
中からファイルを取り出すと、その途端、ファイルの中から資料がばらばらと散らばる。
しまった!昨日の間にホチキスで資料を止めてなかったのか!
慌てて散らばった資料を集める。私としたことが、新人の前でこんなこんな失態を見せてしまうとは。
恥ずかしい気持ちですみません、と小さく言いながら急いで1枚1枚をファイルの中へ戻していく。
「手伝います」
「あぁ本当にごめんなさい…私ったら…」
「いいえ、気にしないでください。鈴木先生。」
「……え?」
手が止まった。
鈴木先生?
私のことをそう呼ぶのは何年か前まで持っていた生徒たちだけなのに。
「相変わらず、抜けたところがありますね」
私ははっと顔をあげ、彼の顔を見る。
その目は、どこか、ぼうっとしていた。
「あなたは…」
「申し遅れました。霧島かけるです。先生、10年ぶりですね。」
その口元は、小さく微笑んでいて。
あの頃に見せたこともなかった表情で、私を見ていた。
思わず私はせっかく拾い集めた資料をまたばらばらと落とす。
「かけるくん…?」
「ずっと、会いたかったです」
私はその場を駆け出し走り出した。
喫茶店を勢いよく出る。アスファルトの上を、ヒールで思い切り駆けた。
どこへ走っているのかだなんて知らない。どこへ走りたいかもわからない。
けれど今はあの場所から遠くへ行きたくて仕方がなかった。
不思議な子。かけるくん。
卒業するまでずっと教え子だったかけるくん。
私はかけるくんになんて、会いたくなかったのに。
『神様はいると思えばきっといるよ』
『…僕、神様がいたらお願いするんだ』
『お願い事?なにをお願いするの?』
『先生お嫁さんにしたいって』
忘れさせてください。