空の底
踏み出した足が違和感を覚え、男は立ち止まった。足を退けた先に見慣れた花を見つけて慌ててしゃがみ込む。良かった。踏んだのは葉だけだったようだ。何やってるの、という叱責が聞こえた気がして、男は小さく肩を竦めた。
彼がいたのは、町外れにひっそりと建つ屋敷の前だった。しかし、屋敷とは言っても大きい一戸建てに毛が生えた程度で、建物自体はメインストリート沿いの少し裕福な家と大差ない。まして今では屋敷自体が寂れてしまって、最早活気とは無縁の様相を呈している。男が門に触れ優しく扉を押せば蝶番が鈍く軋んだ。
男がこの屋敷を訪れたのは数十年ぶりだった。今となっては屋敷と同じく盛りを過ぎはじめ後は老いるだけの身だったが、ふと思うことがあっての訪問だった。主がいなくなって久しく、もううち壊されてしまっているのではと半ば諦めかけていたが故に、どんな姿であれ屋敷が目の前に現前していることが男は嬉しかった。
木が腐り壊れた玄関扉は用意に開いた。無数に張り巡らされた蜘蛛の巣の間を身軽に搔い潜り、男は建物の内部を進む。家財という家財は全て売り払われ、昔より広くなった部屋には荒廃と懐古の匂いが漂っていた。
しかし彼はそんな虚ろな空間に目もくれず足早に奥へと進む。
耳に響く「もっと美しく歩いたらどうなの」という声は頭を振って打ち消した。
リビングを抜け、廊下についた扉を開く。タイルを鳴らしていたブーツはやがて再び大地を捉えた。
男の目の前にあったのは、全ての面を硝子で作られた、屋敷より一回り小さい建物だった。
数十年前も、中庭に面してぐるりと囲うように作られている廊下からはいつもこの建物が見えた。土地を買った彼女のたっての願いで作られた建物は、やはりその熱の入れようのおかげか、今でも中庭の中心で日の光を美しく反射している。屋敷と違い扉にはしっかりと鍵が掛けられていたが、男はジャケットの懐から出した鍵で難なく解錠した。
建物の奥から水の流れる音が聞こえる。一本道の両脇に咲き乱れる花々を見つめ、時に優しく触れつつ、男は先へと足を進める。
「カイウユリ、カーネーション、デイジー…」
彼女に半ば無理矢理仕込まれた花の名を呟く。
激しい性格をしている割に、根は花が好きな純粋な少女だったと男は回想する。確か初対面の時もずぶ濡れなのに胸に大事そうに花を抱えていたと、思い出して可笑しくなった。
あんな子どもみたいな女性がメゾンを構えるデザイナーだと、いったい誰が気づくだろうか。嘘だと笑って頬に強烈な平手打ちを喰らったのも今では懐かしい。
「あのときは確か、トルコキキョウだったか…」
期待の新星、モードの申し子として全世界の注目を浴びた女性。当時、脚光に応えるかのように頻繁にコレクションを発表した彼女は、ただただものを生み出す喜びに飢え、支配されていた。「ものをつくるとき、私は生きていると感じるの」と笑った彼女の瞳を男は一生忘れない。何かに憑かれ急かされ、熱に浮かされているかのように、彼女はデザインを生み出し続けた。
今思えば、彼女は恐れていたのかもしれなかった。身に余る重圧と、女であること、そして当時の情勢。誰もが彼女の才能に頭を垂れるが、誰もそれ以外の彼女に目を向けなかったし、向けている余裕などない時代だった。国のすぐ近くで鉄と火薬の匂いが立ち上り、人が向かったときと同じ姿で帰ってくるとは限らなかったあの頃。
あの頃は誰も彼も漠然とした闇を恐れていた。彼女もそれは例外ではなく——いや、寧ろ誰よりも強く感じていたのかもしれない。
彼女に何度も怒鳴られようやく様になった歩き方で、かつてのランウェイを思い起こす。彼女の最後のコレクションのテーマはボタニカルで、あのときも花を至る所にディスプレイした屋敷を使った。戻ってきたバックヤードで目が合うと嬉しそうに笑い、小さく頷いてランウェイの方へと歩いていった彼女の背中を思い出す。身も心も擦り切らせた彼女が生気を宿したのはそれきりだった。
道が開けて、道に一際明るく光が差し込んだ。円形に開けた先には一つの井戸があり、それを囲うように花が溢れていた。彼女が生涯愛した、ただ一つの、彼女のためだけの楽園。彼女が唯一安らいだ場所。
男は懐から小さな袋を取り出した。縛っていた袋から中身を取り出す。掌に小さな鈍色の粉山ができた。
近寄って見下ろした井戸の先は見えない。しかし男には確かに井戸の底に大空が見えた。
誰にも支配され翻弄されない空。彼女の魂が平和に生きる場所であり、自身が行き着く場所。いつか自分が再び、凍った熱となって戻ってくる場所。
井戸の底へと、男は掌を逆さに向けた。鈍色の粉は幻視した大空へと墜ちていった。
空の底
9月8日はMiliの「Nine Point Eight」の日、ということで書いたものです。不完全燃焼な感があるので後日完全版をどこかにあげます。