水仙の花
一
部屋は吸い込まれるほど白い。それは夜の白さだ。都市の闇の背景をじっと見つめていると、ふわりと浮かび上がってくる、放射のような白さ。ホワイトノイズの、白々しく、暖かな白さだ。
見上げた天井には、シーリングファンがからからと回っていた。かすかに胸を衝く風。仄かに中性洗剤の匂いが染み込んでいる。マットレスはかたく、見えないばねがしっとりと私の肩甲骨を突き刺して、私を拒むようで。そんな疼痛に私はいつもどおりの朝が来たことを知った。まだ少しぼやけたままの頭で、ぐるりと視界からファンを転げ落として起き上がれば、体を支える安っぽい金属の骨格がたわんできしきしと音を立てる。そうして、私は真正面のやっぱり白い壁を見つめて、
「「おはよう」」
と、そう、隣のベッドのあの子も言った。
起き上がって少し伸びをすれば、リネンの白い寝間着が肌に擦れた。首を回し、今日も白い立方体がぐるりと私を覆っていることを確認する。そして、視界の片隅に、あの子が映る。同じように純白の寝間着を着た、あの子が映る。回る世界の中で、あの子がくすりと笑ったような、そんな気がした。
私達がいつからこの部屋にいたのか、私は覚えていない。だからきっと、あの子も覚えていないだろう。聞いてみたことはない。でも、奇妙な霊感が私にささやいている。私が知らないことはあの子は知らないだろうし、あの子が知らないことを、私が知ることはないだろうと。
物心ついた時から。私達は二人で、此処に、ずっといたのだ。そして、多分これからも。それを悲しいとは、私は思わなかった。
部屋の真ん中には、やっぱり白い、折りたたみ式のテーブルがあり、そのテーブルにはどこまでも白い、折りたたみ式の椅子が付いている。私達は向かい合わせに座り、白いテーブルの上の白い皿に載った、そんなに白くないトーストを食べ、白いカップにはいった、くろぐろとしたコーヒーを飲む。トーストには派手すぎないオレンジマーマレードがちょうどいい。さくりと噛めば、ぎくりとするほど甘くて苦い。
気づけば目の前のあの子がコーヒーカップを片手に、私を見ている。
どうしたの、と私が問いかければ、いや、君を見ていただけ、とあの子がそっけなく返してくる。けれどその口元が少しはにかんでいることに、私は気づいた。言い訳がましくあの子は、
「早く食べないと、今日の『学習』が始まってしまうわ」と言って、手にとったトーストを一口囓った。
私はコーヒーを飲み、私から少し目をそらしたその顔をじっと見る。その輪郭の中で、最も目を引くのは、その目だ。深く、深い、目だ。きれいだとか、明るいだとか、そんなことばで形容することはできない。ただ、深く。なんの反射も返さず。ただ全てを受け入れるように、周りにある空気を吸い込んでいるようにも思える。宇宙の深淵を覗いてみてもこれほどまでの「深み」を私は覚えるだろうか。そんなことを、私は深海魚のような魯鈍さで考える。そして、私はあの子の目を見つめているはずなのにその色もかたちも、捉えることができずにいた。
朝食が終わる。手を合わせ、お互いにごちそうさま、と図ったかのように同じタイミングで言い合って、どちらからともなく、くすりと笑った。お皿と、カップを持って、真っ白な部屋の、真っ白な壁に取り付けられたダストシュートまで。そろりそろりと食器を運んでいく。前をゆくあの子の後ろ姿。ほつれたあやとりの糸みたいな金色の髪。私と同じ金色の髪。それが、つつけば砂になってしまいそうな細い背中で、大胆に揺れて。六歩ほどの移動にも私は喉が攣りそうになる。
あぁ、一つだけ、多分あの子の知らない事がある。私だけが知っていることがある。きっと、私だけが。
二
いくつかの不自然な自然色の束。
「――つまり、神話というのはある程度の普遍性を持ったものだと言えましょう。ジョゼフ・キャンベルのいわゆる『英雄の旅』論においては、神話的英雄がたどる旅の道程を分析し、その物語が八つの要素によって構成されていることを見出しました。天命を受け、旅を通じて変容し、また自らの旅の出発点へと帰る。このような構造は特にギリシアの英雄叙事詩に顕著であります――
「――さて、この理論において興味深いのは神話のみならず、あらゆる種類の物語がこの『英雄の旅』構造に少なからず当てはまるということでしょう。ギリシアつながりならばオイディプス王の悲劇も、そう解釈することができます。我が国の例を上げるのならば、日本武尊命の神話なども、あるいはこの構成で説明することができるかもしれません。近年の例を見るのであれば、西欧世界の映画において顕著に――
「――また、比較神話学という意味では、起源神話という議論も面白いかと思います。人間というのは、身の回りの自然、物質が『何故』そこにあるのかという命題を解決することに心血を注いでまいりました。近代以降はその傾向がだいぶ薄れつつあるようですが、この好奇心こそ、人間の、そして神話にも通ずる普遍的なことということができましょう。皆様も少しはこのような神話、あるいは民話をご存知かと思われますが。えぇ、例えばフィリピンの神話には貧しい少女の切り落とされた腕が、そのままバナナの実になったという話がございます。度々ギリシアの例を挙げる用で申し訳ないのですが、水仙の花に変わってしまったナルキッソスなどもその例として数えることができるでしょう。このように――」
いくつかの色の反転。不自然な自然色の束。
「――あら、瑛子様ごきげんよう。今、おかえりですか?まぁ、今からお茶に?私がご一緒してもよろしいんですの?光栄ですわ、早速車を呼びますわ。……失礼、お待たせしましたわ。最近、お体の方は大丈夫ですの?いえ、先週の終わりにも学院にいらっしゃらなかったから私、心配で。もちろん、瑛子様がそうおっしゃるのならば……いえ、出すぎた真似をしましたわね――」
色の束。
「――瑛子、今日の学院はどうだった。そろそろ高等科の授業にも慣れてきたのではないかね。そうか、いや、お前が楽しいのが、私の一番の仕合わせなのだよ。北野教授はお元気でいらっしゃるかね。いや、先生の講義は――」
反転。
三
じりりりりりりり、とはらわたを抜き出すようなベルが鳴ると、ようやく私達もこの『学習』の時間から解放される。隣のあの子も鈍色のヘルメットを頭頂部から引き抜いて、こぼれ落ちた黄金色を大きく揺すって、私に微笑んだ。さすがにひどい顔だ。彼女のすらりとした瞼は二重になり、目元にはうっすらとくまさえ浮かんでいた。それでも、鱗粉のように可憐を振りまく彼女の姿に、私は見とれる以外のことができないのだった。
今日の『学習』は思ったよりも長びいたようだった。この『研究所』に窓はなく、時計もないため、時間を知るのは、殆ど不可能と言っても良い。それでも、細長い通路(まるでガスのパイプのような)を抜けて白い部屋に戻ると、すでに机の上に夕食が用意されていたことから、もうずいぶんと遅くなっていることを私は推測することができた。鮭の切り身と、なめこのお味噌汁。そしてまどろむように白いご飯。すっかり冷めていて、そのことに、けれどなんだか安心した。融通が効かないね、『学習』が遅くなるのだったら、ご飯もそれに合わせて出してくれればいいのに、なんて愚痴を言いつつ、私はあの子の向かいに座って、手を合わせる。
「でも、今日の『学習』、なかなか興味深かったね」
ひとりごとのようにつぶやけば、
「神話、ね。世界の説明という機能を持った物語。非常に、興味深く感じたわ」
あの子のひとりごとのようなことばが返ってくる。そんなことが、私には沁みるように嬉しい。
「『物事の原因に説明を求めるのは人間の真理』だっけ」
その声は、若草の黄緑で、私にはない、しなやかさと軽さを持っている。鈴のように乾いてはいない。鐘のように湿っぽくもない。風鈴ほど涼しげでもない。そんな、声だ。私の三半規管に侵入し、じんじんとしているのは、そんな。
「ねぇ、何故、何故私達はここにいるのだろうね」
問は心地よい。それに意味がなく、答えを期待しなければなおさらのこと。
「君が知らないことを、私が知るはずもないでしょう」
それもそうだね、と返せば、あの子は障子紙のように笑う。それを見る私の毛細血管が灯籠のように揺らぐ。
「考えてもわからないことだものね」
一呼吸。芝居がかった間。砂のように手からこぼれ落ちていく一瞬のあの子を、私はたまらなく愛しいと思う。
「何、なら神話でも作ってしまえばいいって言いたいのかしら。私達のここにいる理由を神話にしてしまえばいいって」
「そうよ、なんで分かったの」
「だって私もそう思ったんだもの」
くすくす、と私達は小さくはじけた。あぁ、この心臓の音がもっと大きければいいのに。この呼吸がもっと浅ければいいのに。こころの底から、そう思えた。そして、そう思えたことが不安で、それでも私は仕合わせだった。
あの子が、その細雪のような指先で、顔にかかる黄金の房を、何気なく掻き上げた。
「私達の神話、ねぇ」
「そう、私達だけの神話」
ぱちん、とまたはねた。
あの子が、私の目の前でその深い目をらんらんとさせて、少し小首を傾げている。白くだぼつくシャツの胸元から、引き絞るような鎖骨と、なだらかな胸が見える。私はただ、そこにみずからの意識が宿るのを想像する。
「何か思いつくかな。とびきり素敵なの」
「素敵な神話、ね」
考えている間の沈黙さえも、私には嬉しい。その光のなかで、私達は考えを巡らせる。とびきり神聖な、私達の神話に。
やがてひとつの結論に達して、私は嬉々として手を叩いた。向かいのあの子も、それと同時に私にウインクをした。私のこころのうちに、また浪が打ち寄せた。
「私、思いついた」
「奇遇ね、私もよ」
あぁ、神様。ここまで奇跡をお与えくださるのは、何故です。そんな、冗談のような祈りさえ私は意識の端に浮かべる。
また、あの子が意地の悪そうな顔で笑う。
「君に内容は教えてあげない」
負けじと私も、笑いながら返した。
「教えてくれなくてもいいの。だってきっと、一緒でしょうから」
そういうこと、と彼女はまた私の心臓を痙攣させるように白い歯を見せた。
実のところ、私は本当に、教えたくなかったのだと思う。ことばにしてしまえばなんだかただの夢になってしまいそうで。女神のあの子とそれに寄り添う私の神話は、私の脳髄のうちにひっそりとしまっておこうと。そう思ったのだった。そうすることで、その神話が浸透していき、気づかぬうちにあの子の意識にも埋め込まれる。二人で同じ神話を、私の物語を共有する。そんな子供じみた幻想さえ、私は本気で信じたのだ。
じりりりりりりりりりり
「消灯」
「「おやすみ」」
四
眠れない夜にも、天井は白く、ファンはからから、からからと回っている。規則的な鼓動。それ以上に規則的な、重くみずみずしい呼吸。隣の、白く病的なベッドから聞こえてくるそれは、わくわくするほどにすこやかだった。何日かに一夜、特にこうして『学習』の長引いた日には、瞼を閉じても、眠りはやってこない。朝のサイレンは、鳴ってくれない。そういう日には私のこころは、もう少し長く踊ることになる。
私はするりと、ベッドを抜け出す。その行為は、蛇の滑らかさを私に連想させた。「聖書における蛇は堕落の――」何時かの『学習』を思い出す。「しかし世界各地の民話・神話においては蛇は神として――」
私が蛇ならあの子は何だろう。私を産み、私を育て、私の這うことのできる、大地であろうか。そんな神話もいいかもしれない、と私はふと思う。「地の神は世界各地において、豊穣、愛、繁殖の女神でありました――」
ならば私は。蛇の私は。こころに羽は生えない。竜にはならない。地の底へと沈んでいくのだ。あなたの元へ。
眠るあの子はますます神々しい。輪郭が溶けだした陶器の白は、部屋の白よりも全く冷ややかだ。あまりに人工的すぎる白。しかし人の作り得ない白。そんな幻想が、くすんだベッドのシーツの下にぽっかりと浮かんでいた。
あの子の上掛けを静かに、しかし獰猛に、はねのけると、うすく空気がしなったように思った。私の精神はそれに共鳴するようにして、ぐわらんぐわらんと、氷を入れた水筒を振った時のように激しく唸った。何かは知らない花の匂いがした。幾分か私はいきをとめた。そして、私は金色を見た。ニューロンの一本一本のようなその塊を見た。ベッドシーツの無限に広がる、壮大な銀河のようなその髪を。交じる黒は、彼女の細すぎる躰が創りだす、申し訳程度の、影絵芝居の陰影。掻き抱けば、消えてしまいそうな。そんなみじめなびいどろの躰の。そして、白だ。白。あの子を包む包帯のような薄衣を、私は少しづつずらしてゆく。そこに顕現するのは、あぁ、白だ。比べ物にならないほどの、白だ。臍にかけてなだらかに下ってゆく三次曲線。そこに私は、この世のすべての真実さえ内包されているような気になる。私がここにいる意味。あの子がここにいる意味。何をすればいいのか。何をするのか。何ができるのか。私は、あの子は、私で。
するりと、あの子の顔を見る。シーリングファンに揺れる、うわ言のようなまつげ。ぷっくりと膨らみ、今にも落ちそうな椿の赤。そして、グロテスクに剥がれ落ちそうな華奢な鎖骨のその落ち窪み。それを、そのすべてを私はただ愛したいと思う。そしてそれは、しかたのないことなのだ。ぼんやりと自分に言い聞かせる。海にこがれる。潮と浪と砂と二度とは帰らぬその日にこがれる。空にこがれる。青と雲と気と決して届かぬ高さにこがれる。それと、同じことだ。神聖なるものを慈しむ権利がないのなら、どうしてそれが与えられねばならなかったのだろう。
何かは知らない、花の匂いがする。名前の知らない、花の、匂いがする。
私は服を脱いだ。湧き上がるこのあつさとふるえをなんとよぼう。そんなことをふつふつともはや回らない頭で思った。シーリングファンは、からからと回っている。救いも、救われもしないのに私は胸に釘をうたれた気分になって、立ち尽くした。そのまま、祈るように跪いて、あの子の清水の流れのような肌に、できるだけ厳かな接吻をした。
沈むような感覚を唇で感じて、頭は井戸に落ちてすっと冷えた。熱病は、しかしまだそこにいる。白い。接吻するたびにその白が私を取り込むような気がする。つながったままの私を汚水のように、経血のように、あの子は啜っている。そして、そんなことに、何故か落ち着きはらっている私がいる。
白雪姫はりんごを食べた。蛇は白雪姫を食べた。そういうこと。きっと、そういうこと。
私は服を着て、あの子のブランケットを丁寧に整えて眠る。眠れない夜を眠るために。何も教えてくれない眠りのために。忘れさせてくれない、白い眠りのために。
五
あの子との食事と、『学習』と、幾夜かに一度の眠れぬ夜と。繰り返して私達は行く。変わらぬ日々を、恨めしいとも思わない。でも、私達は知っていた。これは円環ではなく螺旋であって、ねじの回転は、少しづつ、少しづつ。シーリングファンがからからと回っている。
夜の影は黒く。
六
「瑛子様、お体の具合は、どうですの。」
「ありがとう、お陰様で、と言いたいところだけれども、正直に言えば、あまり良くはないわね」
「まぁ。昨日もお休みされたのですし、今日も大事を取ってお休みになられたほうがよろしかったのでは」
「いや、いいのよ。来られるうちに、いえ、来られるときにできるだけ『学院』には来たいのよ。あなたにも会えるし、ね」
「なんというもったいないおことば。私、」
「何を言っているの。私の一番のお友達ですもの。それにね、多分明日からまたしばらく、お医者様のところへと行かなければならないの」
「なんていうことでしょう。それでは、また検査を」
「心配させてしまってごめんなさい。」
「いえ、そんな。私――
「私、瑛子様のために千羽鶴を折りますわ。」
「えっ、今なんて言ったの。せんば、づる。それは、なぁに」
「ご存じないのですか」
「御免なさい、不勉強で」
「いえ、そういうつもりでは」
「もちろんわかってるわよ。ただ、しりたいのよ」
「千羽鶴は、なんと申しましょうか。いわゆる、おまじない、の一種であるのでございましょうけれども、とにかく、折り紙で鶴を千羽折って、それをつなげたものですわ」
「折り鶴を、千羽」
「えぇ、病気の方が良くなるように。そんな、様々な、ことばにならないような願いを込めて一羽一羽、丁寧に丁寧に折って、気持ちを込めて。そういう、おまじないですのよ」
「気持ちを込める……願いをかける……」
「そう、そうすることで、それがきっと本当になると。そう信じるのですわ」
「信じる……
「それってなんだかとても――
「とても素敵ね。」
と、私は笑った。信じることを、信じれるはずもなく、心なく、鼓動なく、私は笑った。
光の束――
「検体C、D両名は、直ちに部屋番号C4-5 に移動して下さい。繰り返します。直ちに部屋番号C4-5に移動して下さい」
唐突に、無機質な館内放送ががなりたてた。我慢を知らない心電図のような声だ。蛍光灯がさめざめと光を零して、私達の『学習室』の純白を際立たせている。私達は顔を見合わせる。あの子の噛みしめるような渋面が視界に飛び込んでくる。
ちょうど、『学習』の終わった後のことだった。こうして、施設から『呼び出し』を受けるのは初めてではない。ジムでの運動を命ぜられたり、血液検査を実施されたり、『呼び出し』の意図は実に多岐にわたっている。
しかし、C4-5号室への『呼び出し』、それは二ヶ月に一度のほどのペースでやってくるのだが、は明らかに運動や検査とは違う、生々しい異質さを持っていた。得も知れない不安のようなもの――それは夜明け、起床ベルが鳴るまでの意識あるまどろみに少しにている――を私は肌に感じる。こぼれ落ちて部屋の壁にへばりついた光は、私の網膜を濁らせ、白い部屋の隅、その鋭角に取り付けられた狼の毛のような灰色のスピーカーから滴る、ひび割れた声の余韻は、私の腹膜を緩やかに麻痺させていた。
私から背けた顔を、あの子は餓死者のようにこわばらせて、白い部屋の真ん中に立ち尽くしていた。ごわんごわんと遠くから地鳴りのような音が聞こえて、なんだかそれを今日はひどく煩わしく思った。あの子は、動こうとはしなかった。それは、私も同じことだった。あの子はまるでジャコメッティの彫刻のように、ただみずからの存在を維持できる程度に、そこに在った。意思を持つような髪の毛は、針金のように鋭く地面を突き刺そうと威嚇しているようにも見えた。ほのかに、中性洗剤と、消毒液の混ざった匂いがしている。私はなんだか、泣きそうになって、しかし、
「行こうか」
と言う、あの子のことばにただ頷いた。
かつりかつり、と二人分の足音が通路に響いていた。そこに、抗議を込めるように、規則的に。C4-5は私達の『指導室』のある棟のちょうど反対側の実験棟に位置する。この研究所内の、少なくとも私達の立ち入りの許可されている数少ないエリアの中でも、飛び抜けてがらんとして、そのことがことさらに私達の生理的嫌悪感を煽った。
空虚さ。爬虫類の腔内の中にいるようなじめじめとした大気。そして、どこからか向けられる見つめ返すことのできない視線は、憎悪に満ちて。その部屋に「呼びだされた」私達は決まりきった死刑宣告を待つ囚人のように、少女らしく、部屋の中心に、阿呆のように突っ立たされるのだ。
あの部屋は許しがたいことに、待つという行為が、あの子と一緒でも、苦痛になりうるということをあの部屋は私にすり込んだ。知りたくもないことを、傷口に、塩を塗るように、丁寧に。
そして、あの部屋は私に慰めさえも与える慈悲を持ってはいない。『呼び出し』が終わり、あの子に縋り付きたい夜に限って、私はすぐに眠りに落ちて、落とされて、そして決まって悪夢を見た。そんなどうしようもなく無慈悲な未来を、しかし、私は受け入れるしかないのだ。
他と見分けの付かない白亜の扉の前で、あの子は立ち止まった。ふるふると、その肩が鳳仙花の種子のはじける前の、そんな震えを帯びた。怖いに決まっている、私でなくてもそれはわかる。芝居をするのでもなく、舞台に上がったままで、見えない観客の視線に怯えねばならないのだ。だからこそ私は、あの子に触れたいと思った。いま、触れなければならないのだと、そう思わされた。
柔らかなリネンが上下する流れに、私は棹をさす。つつっと彼女の肩から、その下流へと、脊椎を伝っていく。そして、辿り着いたあの子の揺らめく手をしっかりと握った。
「大丈夫よ」
と、私は云った。
「私達二人でいれば、きっと大丈夫よ」
赤ん坊をあやすようにそんな慰めを、私は云った。
私の手だって震えている。そのことにあの子が気づかないはずがない。それでも、あの子はこっちを向いて、気丈に笑って、その姿に、私は安心する。そして、私達は重ねた手の重みで、あまりにも軽いそのドアを開けた。
部屋は記憶と寸分違わず、いやに広く、そして、静かだった。私は手をつないだままその部屋の中央にすっくと立った。後ろのほうで、小さくドアが締まり、そしてオートロックの作動するぜんまいを巻くような音がした。私は彼女の手を、できるだけ固く握ったままでいた。
薄く、水蒸気がまとわりつくような圧迫感を覚える。広く何もない部屋が、私達が取るに足りないなにものであるかを教え込もうとする。でも、これならきっと、耐えられる。そう私が思って、握った手をさらに強く握りしめた瞬間だった。
恐ろしく冷たい視線が、正面の壁から、私達を貫いた。壁は白く、その向こう側にいる人物が何者であるか、そもそも本当にそんな人物がいるのかさえ、私にはわからなかったが、ただ、そのひどく鋭利なものが、私達をえぐった。単純に形容するならば、それは純然たる、美しいまでに純化された悪意と嫌悪の塊だった。そのものだった。圧倒的に黒く、それは私達のこころを蝕み、塗りつぶさんとしている。余りにも。
ささくれを毟るような痛みを私は胸の奥から感じる。肺に炭酸水が入り呼吸ができなくなる。足が震える。喉の奥から、死体のような饐えた酸っぱさが、どうしようもなくもなく生々しく上がってくる。髪が燃えるようだ。条虫でもいるように、やけに肌が痒い。この頭を、私は脱いでしまいたくなる。きもちわるい。こわい。いたい。くろい。くろい。くろい。あぁ、
それでも跪くまいとして、私は隣のあの子に縋る。お互いに、支えあう。ふたりとも虫の息だ、地べたを這いまわる、虫の。あの子が私の腕を引き千切らんばかりにつかむので、私もあの子を安心させようと、負けじと跡を残すように強く腕を握りつぶした。
「大丈夫よ、ふたりなら」
きっと大丈夫ではない声がする。震えて、崩れ去っている声が。
「きっと、きっと」
私達は、お互いの躰を抱き合った。二人の引きあう力が、この悪意を弾くように、願いながら。真綿のようなあの子が私の中に流れ込んでくる。恐れはせめて、とかして、混ぜて、沈めてしまえばいい。
しかし、その刹那。耳鳴りがした。神経を引きずり出される。そんな嫌悪が、私達を射抜いた。だめだ、だめだ、二人でも。強制的に捻じ曲げられた思考の中で、糸が切れたように、私達は固く、吹き出た汗で濡れた床にへたり込む。ただ、それでもお互いの躰をはなさぬように、じっと。そうでもしないと、あの子がそこにいることがわからなかった。二人でも、一人の気がして、遠く隔てられて。
視線を感じていた時間は、わずか十五分程度に過ぎなかっただろう。しかしそれが、私には一世紀に思えた。暴風を耐え忍び、意識が朦朧として、みずからの血潮の音さえ聞こえなくなったころ、
ふと、圧迫感が、消えた。悪意から開放された私は、再び、腕の中で痙攣するあの子のぬくもりを感じることができた。ただ、そのことに安心して、私はしばらくそこで何も言わずに、あの子と震えていた。中性洗剤と、消毒液の混じった匂いがした。
「レンビン」
ぼそり、とあの子は私の心臓にことばを放った。突然のことに、私はその単語を理解することができない。死者を弔う祈りをするように、私の腕の中で彼女はまた、つぶやいた。
「何故、あの悪意の中に、憐憫を感じるの。私は」
私には、それがわからなかった。あの子が、わからなかったのだ。
いつまでも、白い部屋に体を引き摺って、帰る。穴に落ちるように、私達は躰をベッドに投げ出す。夜が来る。悪夢が。
黒く。
七
もはや、自分の足で歩くことさえ能わなかった。軽ワゴン車から降ろされ、載せられた車いすは銀色で、つやつやとしていて、一見にこやかな表情で、それでいて私に刃物を突きつけてくる。ぱつりとした布張りの座面は、腰掛けると同時に「お前はもう立つことができないよ」とそんなわかりきったことを、意地の悪い調子で告げてきた。手すりはひやりとするほど冷たく、しかし、私の手のひらから、熱を奪いはしなかった。みずからの境遇について、惨めだとか、そういう気持ちを私が少しでも感じなかったというならば、それは嘘になるだろう。私が背中に背負っていたのは、泥に汚れた諦念と自らへのひどく醜い憐憫だった。
同情は、いりません。それが私の、確固たるポリシーだったはずだ。今も昔も。変わらずにいたはずだった。研究所を出るときに、私は不幸ではないのだと。そう信じることができたあの瞬間に決めたはずだった。
病で伏せることの多かった私に、『学院』で初めて知り合った彼女は何度か「お可哀想に」と云った。そのたびに私は、はねつけるようにそのことばを拒絶した。同情なんていらない、私は、不仕合わせなどではない。望んで、恵まれて、此処にいて、そしてこれ以上を求めることは、誰にも許されていないのだ。
私は自分が好きだった。強く、生きていられた自分が好きだった。それが、今ではなんだろう。私は、心の底で自分に同情している。可哀想な子だと指を指して、自分自身をあざけって、許している。そのことが私には耐え難く悔しかった。
だから、こんな自分なんて、きっといなくなって当然なんだと思った。そしてそう思った自分を、より激しく憎んだ。変われない自分と、変わってしまった自分がぐるぐると回りながらお互いを非難している。噛み付いている。円環の蛇のように。
不幸な自分を。私はただただ、嫌った。
車いすの真新しいタイヤから、ゴムの嫌な匂いがして、私は思わず空を見る。無意味に突き抜けるほど青い天上はしかし、無表情に私を突っぱねた。どうしようもなく。問うてもいないことの、答えを拒否されたような、そんな気分になった。
アスファルトの照り返しをひどく冷たく感じる。遠くから、国道沿いを走る車の音がする。そして、それをかき消す蝉の声が、じじじじ、じじじじ、と私を追い立てた。それは私に、あの頃の、起床ベルの音を思い起こさせた。頭がいたい。私は、不幸じゃ、ない。
その時、はらりと、街路に植わった夾竹桃の木から花が一輪、映画のように私の手の中へ落ちてきた。その薄桃色を私はしずしずと口元へ持って行き、深く深呼吸をする。花は、香りを失っていた。私の嗅覚は、夏にしてはあまりにも冷めた空気で満たされていく。当然のように、呆然として、茫洋として。私はくしゃりとその花を、ためらいなく路上に捨てた。
二ヶ月に一度のこの『視察』もきっと今回が最後になるのだろう。かんらからと背後から押され、研究所への道すがら、そんなことをふと思った。何故、こんなことをしなければならないのかは、終ぞ、わからずじまいだったなぁ、と揺られながら私は薄く息を吐く。はっきりとした意図はわからなくとも、しかし、そこに悪意を感じることはできた。悪意というよりもむしろ、悪趣味を。みずからの過去の分身を『視察』する――本当にただ見つめるだけの――事を定期的にやらせるということは、抑止の意味合いも強いのだろう。お前もかつては此処にいて。そして、いつか彼女等も私もいなくなるのだということを。償いのように。その覚悟と共生していくことを強制されるように。文字通りの十字架の上で釘を差されるのだ。
蝉の声は、固体となって、地面に汚らしく落ちていく。それでも、落下するそれは、ぶつかって、私の頭を垂れさせるには十分で。無駄なのになぁ。きっと私も、わかっていなかったのだから。そう自虐しながら、車いすの轍が蟻を踏み潰すのを静かに見つめていた。
研究所に入り、部外者立入禁止の白すぎる廊下を行く。いくつもの似たようなドアを通り過ぎるたびに、軽蔑と、目眩と、すこやかな吐き気を覚えた。今でも信じられないくらいだ、こんな世界で、生きていけたなんて。記憶にこびりついた純白は、白々しく、あまりにも心地よく、私を苛々とさせた。苛烈に。
背景に塗りこまれたような、中性洗剤と、消毒液の匂いがする。その上から微かに、花の匂いがした。この花の名前を、私は知っている。これは、水仙の、気違いじみた仄かな甘さだ。水仙の、花の、匂いがする。私はそれが意味するところに、小さく身震いをさせられた。
たどり着いた部屋は相変わらずの、心細い蛍光灯が、しとやかに照らしている。前の窓から見えるのは、いやに広い部屋だ。伽藍の洞。鯨の肚。なんとでも呼べばいい。
その中央に、二つの、人影があった。私にそっくりの、二つの人影が。手をつないでいた。
―――――
「もう帰るわ」
「瑛子様。ご気分は」
「少し落ち着いたけど。あなたも莫迦ね、大丈夫なわけ無いでしょう。毎回こんな、悪趣味を」
「そうは言いますが、」
「そうもどうもありはしないのよ、だって、あんなの、
「気持ち悪いわ。
「嫌いよ、生理的に無理だわ」
「ですが、」
「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。耐えられない。ばかみたいじゃない、だってあんな」
「お嬢様」
「芳澤。やっぱり私、私はね、
「自分が嫌いだわ」
「お嬢様」
「ねぇ、芳澤。
「――彼女たちに、花束をあげて頂戴。水仙の花束を、とびきり甘い香りのする、水仙の花束を。
「それが私から送れる最大の悪意であり、
「最高の優しさなのだから。
「さよなら、次の私達、
「大嫌いだったわ、何もかも」
―――――
八
灰色。
べっとりと肌にはりつく寝間着の感覚を一番に感じた。水をかぶった私は、大きすぎる重力のためにベッドから起き上がれずにいた。ひたすらに彷徨っている気がする。夢と現の狭間にそびえる、巨大な砂の城壁の上を綱渡りしている、それが今の私だ。揺らぎ揺らげば、夢は私を誘い、うつつは私を拒絶する。
今の、何にもまして精彩な心象風景。その中心にいたのは、たしかに私であり、ごまかしようもなく、私であり。しかし、その視線のうちにいたのもまた、己の姿に違いなく、そして、隣の君は。あのどちらが、私なのだろう。何故、私が、二人も。知っているはずだ。何故、あの悪意に憐憫が含まれていたのかだって、最初っから。知っていた。気づかないはずがない。気づかないふりを。
気づかないうちに、城壁は蜃気楼と消え、後には何もない。ただ、荒涼とした砂漠が、どこまでも広がっているだけだ。そんな錯覚を、私は覚える。砂嵐が時折私の眼を刺して、盲いた私はみずからが、どこにいるのかもわからなくなる。みずからが、わからなくなる。誰が。どこに行くべきなのか。わかってもいなかったことが。
この砂漠を、私は一人で往かなければならないのだろうか。それとも、君の手をつないで歩くことが許されるのだろうか。そんなことが私に。しっかりと、お互いにつながったままで。それでも、一人で。
一瞬晴れかけた視界を、また猛然と珪素の粒が襲った。それ以上見てはいけない。それ以上考えてはいけないと、私を諭すように。そう思うのは、きっと、世界の優しさや意思なんてものを願う私の、傲慢だ。
名前の知らない花の匂いが、風に乗って流れてくる。いや、私はその名前を知っているはずだ。その意味だって。ますます、風は強い。それでも私は、その花の匂いを知っていて、知ろうとして、風の中、目を開けんとして、そして、そして、
風が凪いだ。
私はまた白い部屋の中だ。覚醒してなお、うなされている気分を引きずっている。仰向けになって天井を見れば、からからと回っていたシーリングファンが、いつの間にか止まっていた。静かに。死んでいた。
私は起き上がる。沈殿して堆積していく部屋の空気が薙ぎ払われて、私の呼吸を軽くする。隣の君は目を閉じて、玉の汗をその額に浮かばせて、聖者のようにうなされていた。その身を包む布に、ぴったりとみずからの姿を映し出しながら。刺さるような喉の白さは、私と同じで、思わず絞め殺したくなる。上下するその胸さえ、私と同じ輪郭を保つ。その上に、シャベルで土を盛って、埋めてしまいたい。同じ。同じ。私と同じ君は、しかし、決定的に私とは違う。いえ、違ってしまっている。そしてそれは、きっと私が悪いのだと思う。そうでなければ、世界が。間違っているのだ。
君のベッドサイドで跪いたまま、私はぐるりと、この水のない水槽を見回した。忌々しいほどに白白としたこの部屋を。どくり、と胸の奥で心がはねた。まるで、心が心臓にあるように。狭まっていくその鼓動に耐えかねて私は、君の絹のような手を握る。私が、染み透らぬように、そっと。想いに膜をしたように。
君に謝らなければいけないのだと、ずっと思っていた。それがきっともうちゃんとした形では言えないことも、けれど私は知っていた。事実として。
あの時と同じ記憶が私を、やすりのように苛んでいる。そう、また同じ、なのだ。
君の体温を指先に感じる。それと同時に、自分が小さく震えていることに気づいた。シーリングファンの回らないこの部屋は、驚くほど静かだ。彼女から知った、「雪の日の朝」のようだなと、まるで他人事のように頭のなかでつぶやく。君は白い。雪のように白い。でも、君はきっと知らないだろう。いや、知ってはいても、わからないだろう。君にも、私にも、そして彼女にも、色彩はない。白は、色ではないのだから。
白は、光なのだ。私達が、失い続けていくことを義務付けられた。失えば、ただ鈍く、濁り、陰り行くだけの。光。
私は、きっともう白くはない。そのことを私は誰よりも知っている。
君の手を離した。哀しく視線は部屋の隅の、白い机へと向いた。むせ返るほどの匂いで、私はそこにあるものを予測していた。ただ、自分にとどめを刺すために、それを確認しなければならない。
はたして、それは私の喉の奥を放火する。叫びたくなるほどの激情が、私の脳幹から脊椎をまっすぐに貫いていった。
真っ白な、水仙の花が、そこに、置かれている。
一本ではない。花束をばらばらにしたように。あちらに水仙。こちらに水仙。水仙の花。白い水仙の花。瑞々しい水仙の花。ぷっくりとして、それでいてぴくりとも動かない水仙の花。汁を垂らす、水仙の花。花。水仙の花。あぁ、振りまかれるあの香り。匂い。わけもなく私を蹂躙して。踏みつけて。刻む。包む。怖いくらいに優しく。水仙の花。それが、机中に散らばって、それは息の根を止めるほど、残酷に。それを、
彼女の、遺言状だと私は思った。
唇はまだ乾いて、細かくちぎれていた。いつの間にか握りしめていた手のひらに爪が喰い込んで、ぽたぽたと、何粒かの血が、私の躰を伝っていた。重力に抗って、私は立ち上がる。大丈夫だ、頭は冷めている。そう自分に言い聞かせながら、精一杯のしっかりとした足取りで、私は歩いて行く。白い机に、手をついた。じわりと、私の手のひらから赤が広がって、花びらの幾つかをまだらに染めた。君ならその光景をなんと呼ぶだろう。ぞっとするほど美しいと言うだろうか。でも、そんなのは間違いだ。だから私は今から、それをめちゃくちゃにするのだ。
驚くほど冷静に、私は、水仙の花たちを血のついた手でかき集めて、胸の中へ抱きしめた。甘く、匂いは私の嗅覚を刺し、骨髄を流し出す。私は狂おしいほどの花束を、白い部屋の片隅の、ダストシュートに捨てた。君が、起きる前に。そっと捨てた。
事が終わって、私はまた君の隣で、懺悔しようと考えあぐねていた。ずっと隣にいて、こんなに長い間隣にいて、君のことでわからないことはなかった。だから、君の思いだって、私は知ってしまっていて、分かってしまっていた。痛いくらいに。口の中を噛んだ。金網の味がした。手のひらの血を舐めると、同じように金網の味がした。
その思いに、応えることはできない。私はその結末を覚えていて、はっきりと予測することが出来るから。けれど、君を嫌いにだとか、そっけなくしたりだとか、そういうことも、私はできない。どうせ失われる君の光を、私は最後の瞬間まで後生大事に見つめていたかったのだ。その相反する二つの身勝手が、当然のように私を罰する。
君の笑顔は愛おしい。君の仕草一つ一つを瓶詰めにして、とっておきたい。その体温を、汗ばんだ手の感覚を。できるものなら、永遠にこの肌で感じていたい。でも、その子供じみた幻想を、私は信じることができない。私は、その快楽の中に、痛みをいつだって感じていたから。心の底で、それに応えることができないから。君の、白い肌の表面だけをなぞって、それでいいと自分を騙して。
もう、だめなのかもしれない。どうしても、彼女を思えば、君にすべてを許すことはできなくて。そのくせもう、このままでは気が狂ってしまいそうな私がいる。とうの昔に、そんな段階は通りすぎているのかもしれないけれど。
霧雨のような君の輪郭を目線でなぞりながら、しかし私は泣くことだってできない。きっと、そういう風に作られてなどいない。そう、無理矢理にそう、思い込もうとする。
心が二つあったら、どんなにか楽だっただろう。心と魂が分かたれていたならば、あるいは。でも、それはかなわぬ願いだった。
そして、叶わぬ願いは、ただの嘘だ。
私はそれをきっと誰よりも知っていて、誰よりも認めたくなくて。
だから、私は。この苦しみを終わらせたいと。そう願って。しまった。
逃げたい。
君の想いから。世界から。
あぁ、この部屋から、研究所から、出たい。と。
その意味を、よくわかっていたはずなのに。
九
白。
生ぬるい記憶の淵に私は浸っている。壁の向こうの、二つの人影。あの子と、あの子によく似た、二つの。あれが、私なのだろうか。それなら何故、私はこんな壁の向こうから、見つめているのだろう。本当にこれは私だろうか。誰が。どれが。一体どの人のことを、私は私と呼んでいるのだろう。
世界が溶けていくような気がする。すべてが白くスープ状になり、私はその中に内包されてゆく。私がなくなっていく。そのことがひどく心地よく、それゆえに私に緩慢な吐き気を催させた。
見通せぬ霧の、その中で、しかし私は、よく見知った温かさに触れた。手の爪の先からじんわりとそれは広がっていく。
一つ一つ、油のように浮いていた思考は、私の中に戻ってくる。私が、私であるための幻想を、私は素直に信じることができる。落ち着く。私は、私の中に落ち着いていく。そうして初めて、私は、私を軽くするその熱が、どうしようもなく震えていることに気付く。
大丈夫、と私は言った。言うことができた。この、白の中でも、二人ならば往けると思ったのだ。迷いながらでも。君が温かさをくれるのなら。私はろうそくになろう。この先の道を照らす、灯台になろう。そんな子供じみた幻想を、私は信じた。
じりりりりりりり、とけたたましく起床のベルが鳴る。白い立方の中に、私の意識は再び放り込まれた。白い天井。白い壁。そして、中性洗剤と、消毒液の匂いが、つんと、いつも以上に鼻についた。
隣で、あの子が、私の手を握って、その深い瞳で私を見ていた。それだけで、私は何も考えられなくなってしまう。どこか遠くから、私はその声を聞いた。
「また、ひどい夢を見たのでしょう」
やつれた声だった。きっと、私と同じ夢を見たのだろう。夢にしては鮮明すぎる、あのグロテスクを、美しき頽廃を見たのだろう。ことばにしなくても。それが、私にはわかる。
ふい、とあの子が目を伏せた。そのまま、なにか考え込んだ後、その考えを振り払うように二、三回、首をふるふると横に振った。そして、なにか身投げするように、
「あれは、夢よ。夢でしかないわ。だから、怖がらなくてもいいの。何も心配することはないの。私はあなたを守りたい。いっしょにいたいもの」
と言った。それは、自分に言い聞かせるようでもあり。そして、何かにひどく怯えているようでもあった。
天井のシーリングファンが止まっている。脆弱な静寂が、この場を支配しようとしていた。
「ねぇ、私達は一緒でしょう」
耐えかねて、あの子が口にした。ここまで取り乱す彼女を見るのは、久しぶりで――むしろ初めてと言っても良かった。私は、繋いだ手をいっそう強く握る。よくわからないぬめりとした感触が、私の手のひらを伝っていく。ひ、とあの子は何かを潰したような声をひねり出して、直後、しまった、というような顔をした。白く。
それを気にする素振りを見せずに。当たり前じゃない、と私は当たり前のように答えた。
「これからだって、すっと一緒よ。大丈夫。悪夢の中だって、私がいるわ」
そう言いながら、私はあの子の見せた弱さに驚いていた。理解ができていなかった。あの『呼び出し』、あの悪夢が、どんな恐怖をあの子に与えたのだろう。私にはわからない何かを。
「そうよ、私達は、一緒で。一緒だと信じるわ」
しかし、私が考えあぐねた隙に、彼女の弱さは、するりと目の前から逃げていった。霧のように。離散していった。そしてそれを、少し残念に思う自分がいた。
さて、とぽつりと呟いて、あの子は私の手を離す。そして、ぱちり、と控えめに自分の頬をはった。そして、繰り返し、繰り返し、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
「今日の『学習』は休みになったわ」
いつもの朝食の席。トーストとマーマレイドのはざまで。バターを神経質に塗りたくりながら、彼女はさも興味が無いように私に言った。
飲んでいたコーヒーを一旦ソーサーに戻して、私は彼女の目を見る。
「じゃあ、今日は少し自由に、時間が使えるということね」
この実験棟において、私達の休日というのは非常に稀だった。土日、祝日にも、私達は常に『学習』することを求められるからだ。わくわくとした気分が滲み出たような私の返答に、あの子は少し目を細めた。
「何をしようかしら。君は、なにか、したいこと、行きたいところはあるの」
マーマレードの瓶を手にしたあの子に聞かれて、私はひとつ深呼吸をして考えこむ。 「あなたの行きたいところなら、私はどこでも」
「いや、君がどこに行きたいか、聞きたいの」
存外に強く問い返されて、私は小さな違和感を抱いた。それが何であるかは、全くわからなかったけれど。それを飲み込んで、私は再び考え込んだ。
「それなら、今日は図書室に出かけましょう。久しぶりに、本が読めるいい機会ですし」
私の提案に、あの子は、あんなに熱心に聞いたくせに、心ここにあらずといったふうに、またふわりと笑った。それがいい、そうしよう、と私の心をさらいながら、あの子はマーマレードのたっぷり載ったトーストにかじりつく。その表情に、仕草に、私は無意識に、ぞくり、とした。
白以外の色彩を失ったかのようなこの研究所において、その図書室は色にあふれて。異彩を放っていた。扉、壁、本棚はそれぞれいつもどおりの真っ白に塗られていても、さすがにそこに収められている本に白いカバーをかけるほど、この研究所の『純白主義』のようなものは徹底していない。すべてが白く塗られていることに、それほどの意味なんてないのだろう。意味も、象徴も。ただ、利便性を追求しただけで。質素を強調しただけで。
白い枠の中に入れられた本の色とりどりの背表紙達は、静謐な中で、今でも踊りだしそうなリズムを備えている。その躍動感は『学習』で見た、マティスの切り絵を彷彿とさせた。こんこんと静まり返った部屋の中の知識たちのむずむずとした色合いはキッチュで、私には何事にも代えがたく嬉しかった。
扉の前には、部屋に置かれていたような白いテーブルと二つの椅子が用意してある。此処にある書籍は原則として、戸外への持ち出しが禁止されているので、そこで読むように、という配慮だろう。その向こうの部屋の奥には、白くせいの高い書架が林のように並んでいて、その上から雲のように、哲学、歴史、と明朝体で刻まれた分類がぶら下がっている。
あの子の手を引きながら、私は森の中を、まるで鹿のような心持ちで縫いながら、何を読むべきか思案する。
私達は、本の趣味さえ似通っていて、どちらも空想小説、所謂フィクションが、とびきり好きだった。ここではないどこか別の世界。そこへ旅するような、他人の人生を追体験するような感覚は、刺激の少ないこの研究所ぐらしにおいて、私達に許された数少ない娯楽だった。
しかしながら、この図書室の蔵書は専門書の類が非常に多く、小説は並び立つ書架の中、ほんのひとつの棚を占めるだけにすぎない。そして、此処に収蔵されている小説は大抵の場合、稀な休みの時間に読むのには、どうも長過ぎるのだった。
そういう事情から、私達は二日三日と連続して休みがない場合(そして、それはさらに稀な事案だ)や、『学習』が早く切り上げられた場合には、画集や詩集などを好んで読んだ(というより、眺めたという方が実際に近いのかもしれないが)。
絵や少ないことばから私達は勝手に物語を想像し、編み上げ、語り合う。それが、ひとつの楽しみにもなった。
「今回はどれぐらい休みがもらえるの」
と、本を選ぶために私は隣をすたすたとついてくるあの子に問いかけた。彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、少し眉をひそめて、
「多分今回の休みは、長くなると思う」
なんて、そんなことを言った。そう、と私はフィクションのコーナーへと舵を切る。のらりくらりと、手をつないだ彼女が私の後をついてくる。
「ねぇ、どうして休みの連絡はあなたにしか伝えられないの」
不躾に、そんなことを私は突然に聞いた。休みの日のことを、私が耳にするのは、いつ もあの子からで、私は常々それを不思議に思っていた。今まで何度も聞こうとして結局は聞くことをためらっていたそれを、遂に言えたのは、あの子の朝の取り乱しようが、私のこころにも、不安の影を落としていたからだろう。
そんな不意打ちもしかし、効果は無いようだった。あの子は表情を変えずに、一拍おき、
「何故でしょうね。私にも、それはよくわからないわ」
とこともなげに言い放った。そしてそのまま、
「もしかしたらこれも、『実験』の一環なのかもしれないわね」
と続けた。
あの子がそういうのならば、そうなのかもしれない。しかし、胸の奥でまだなにか納得出来ない事があった。小さな欠けたびー玉がころころと転がっているようなそんな感覚。引っかかったそれが、あの子をじっと見つめさせていたのだろう。ふぅ、と溜息をつきながらあの子は目をそらして、
「……第一、この研究所でおこることにいちいち理由なんて求めていたって、きりがないわ。それぐらい、君もわかっていることでしょう」
と言い訳のように言った。その妙に疲れたような膨れっ面もまた、非常に可愛いものではあったのだけれど、私はまだ、妙に納得のいかないままでいた。それもそうね、と返したはいいものの、ざらついたこころのままで私はいるのだった。
『実験』と呼ばれているこの日常。その大部分が不可解に満ちあふれているのは、確固たる事実だった。そもそもの『実験』の目的。毎日の『学習』とその内容。二ヶ月に一度の『呼び出し』。白い部屋。ふたりきりの生活。それらはなんの説明もないまま、世界の一部として私達に差し出されている。何故生きているのか。何故生まれてきたのか。そんな考えたって答えの出ないような疑問ばかりが私の頭のなかを渦巻いている。撹拌している。掻き乱して、取り乱している。与えられることのないものを、欲して、嘆いている。子供のように。
それでも。真理を求める人に救いは、答えは与えられなくても。少なくとも希望だけは、与えられるはず。きっと、そういうふうにできているのだ。
古人曰く、溺れる者は藁をも掴む、と。
一向に糸口のつかめぬこの哲学的問いに嫌気が差した私は、その藁を探すのに必死だった。
何気なく眺めていた極彩の帯の中に私は一冊の本を見つけて立ち止まった。その小さな本の題に、何か既視感を感じて、私はそれをまじまじと見る。
頭のなかを、先日聞いた学習の内容が流れ始める。はじめは、清水のごとく、さらさらと、細く。やがてそれは、水量を増し、流れは勢いを増し、滾々と水を湛えた大河の悠然とした濁流となる。
「ねぇ、あなたは、この『実験』が何を知るための『実験』なのか、知りたくは、ないの」
彼女はくるりと、こちらを向いた。私の声は、少し震えていたかもしれない。繋いだ手からは、もはや温かさは感じられない。その代わりに、頬が熱くなっているのが、自分でもわかった。汗のしずくが、額にぷつりと浮き始める。興奮したまま、私はさらに彼女に問いかけた。
「ここにいる理由、それを、私は知りたいと思う。あなたも、同じでしょう」
やはり彼女は、いじらしい困った顔をして、
「そうは言ったってね。私達が、それをどうやって調べるというの。そしてね、何よりあなた、
だんだんと声は大きくなる。吐息は熱くなる。視線は、鋭く。
「わかったところで、それがあなたの、私の、私達の、何になるというの。何を変えてくれるというの。何を――
――何を、あなたは望むの」
と、そうあの子は私に問うた。
私の脳内は、白くなる。私達の世界のように、真っ白に。
そして、真っ白を、捩じ切って、絞りだすように、反射的に、
「ここから、出たい。あなたと一緒に」
と、私は自分の唇がそう動くのを感じた。喉はもう、死にかけの猫のように痙攣している。それを見て、君が薄く、割れそうな笑みを浮かべた。
灰色の。
十
あぁ、この子はなんて愚かで、そして可愛いのだろうと、目の前で、乳離もまだすんでいない子猫のように震えている君を見て私は思う。真実を知ることを渇望しながら、知ってしまうことを、本能的に恐れている。その姿は、大昔の私の姿と重なった。白く、愚かで、可愛い私の姿と重なった。
だから余計に、痛ましく。悩ましい。その純白の純潔を、私は穢したくはないのだ。近いうちに穢されると知っている――己の経験から知っている――からこそ、それを早めたくはないのだ。君に恨まれたくはなく。それでいて、私は、君を見捨てるのだ。そこから、目をそらすのだ。あぁ、それでも。顔がこわばって、うまく、目を閉じることが、私にはできなかった。
「私達がこの『実験』の目的を知ることと、ここを出ることのあいだに、なにか関係があるの」
我ながら意地の悪い質問だとは思う。けれど、私は無知でいなくてはならない。君と同じでなくてはならないのだ。最後の一瞬まで。
虚を突かれたのかもしれない。立ち止まったままで、君の視線は私からはずれ、空中を二、三度撫で回した。そうしたところで、見通しが良くなるわけでもないのに。視界が、綺麗になるわけでもないのに。
「この『実験』の真実について知って、どうするのよ」
私はさらに畳み掛ける。できるかぎり優しい口調で問うたつもりだったのだけれど、君の肩が、緊張でぴくりと拍動した。
それでも、君はきっ、と私の方を向き直り、その眼で私を捉えた。そして、零れ落ちるように、
「……知らなければ、いけないと思ったのよ。理由なんてないわ。それを知らないうちには、なんだか、外に出てはいけない気がしたの。世界と向き合わないうちに、逃げ出してはいけないと……それにね、この『実験』が、私達の生きている世界が何であるかわからなければ、きっと外の世界になんて、私は耐えられない。そう、思うの。だから、」
あなたと胸を張って、手をつないでここから逃げ出すために、この世界のことが知りたいの。君はそう言った。そして、私は君のそういうところが、好きだった。君の頬が紅潮している。私も、自らの温度を確認するために、頬に手を添えた。ずっと握りしめて、汗ばんだ左手は、何も教えてはくれなかったけれど。
「――私も、そう思うわ。あなたは、正しい」
花のような君の笑顔が咲いた。きりきりと、私は締め上げられていく。それでも私は、ごく自然な笑顔を作る。
「では、教えて頂戴。ここから出るための、全てを知るための、方策を」
「それはね、」
と、君は一冊の本を、すぐそこの書架から抜き出した。それを、まるで聖遺物のように捧げ持って、
「これよ!」
と、言った、のだけれど、これは、
私の見間違いでなければ、その手の中には、『折り紙大全』という題の本が、収まっていた。
「は。」
至極当然に、丸く開いた口から、ひどく間の抜けた声が漏れた。
恥じらう乙女のように、もじもじとしながら、君は、なんだか少し俯いて、
「ほら、この間の『学習』で言ってじゃない。折り鶴を千羽、願いを込めながら折れば、願いは叶うって、そういうおまじない。糸口がないなら、やっぱり、神頼みしか、ないと、おもって、ね、ほら」
声はしりすぼみに小さくなる。君の顔はどんどん赤くなる。私の開いた口は塞がらない。
一拍。
「は、」
あははははははは、はは、ははっはっはっははぐはっつはんはっはははひひはははひっは
笑うしかなかった。腹を抱えて、腹の底から、腹がねじ切れるほど、私は笑った。そうして笑うことは、まるで何もかも忘れてしまって、ただ愉快で、仕合わせに日々に流されていく狂人のように笑うのは、本当に久しぶりで、少しそのことが悲しくもあったのだけれど、つい一瞬前の私のように、ぽかんとしている君を、無垢な君を、白く、その白さを誇れる君を、私は巨人の力で、乱暴に、傅くように、抱きしめた。
腕の中に、例えようもない君を感じる。君の肋骨の凹凸。君の胸のふくよかさ。君の肌の頬ずりしたくなるような緻密さ。君の耳のつるりとした曲線。くすぐったい、こがねの髪。ただ、君を感じていた。
花の匂いがする。水仙の花の匂いがする。でも、そんなこと、私にはもうどうでも良かった。
顔を見なくてもわかっている。君は、目を白黒させ、それからきっと、仕合わせを初めて知った神子のような顔でそこに立っているに違いなかった。腕の中で、こわばっていた躰が、その輪郭が、徐々に和らいでいくのに触れて、私も、きっと仕合わせとはこういうことだったのだと、思い出すことが、少なくとも、そう思うことが、できたのだった。
やわらかな躰を抱いたまま、私は君の耳元に、銀細工を磨くようにささやきかける。
「いいわ、折りましょう。祈りましょう。私と君の願いが、叶うように」
何か、私の肩が濡れたような気がした。それに、私は気づかないふりをして、小さく、
ごめん、と卑怯な謝罪をした。
君は目を伏せていた。君にそれが聞こえたかどうかはわからなかった。それでも私はもう少しだけ長く、この体温を感じていたいと思った。
十一
窓のない図書室の机で、どこか聖書じみた黒く分厚い本をページを毟って、私達は折り鶴を折った。何時の日か、この世界を、二人、手をつないで、逃げ出して、さんさんとあまりにも眩しい陽の下を、歩けるように、祈りながら、鶴を折った。あくる日も、そして、あくる日も。四半世紀ほどにも感じる一週間、私達は鶴を折り続けた。
やがて、白い机の上が、白と黒のまだらな鶴の山に覆われるころ。終わりがやってくる。この生活に、生命があったことを証明するために。
白く。
十二
その朝は、煙るように希薄な空気の中にやってきた。目覚めて見上げた天井のシーリングファンは、羽を休めたまま、とまり木の上で安らかに骨になってゆく鸚哥を思い起こさせた。
ここを二人出ることができたら。海にも行けるのだろうか。楽園を求めて、太平洋の島へと飛び立った、あの画家のように。
かき混ぜられないせいで、堆積し続けた空気の層に、幾つもの貝殻や、鰯の頭やら、得体も知れない海の藻屑が挟まって化石になっている様を、私は夢想する。部屋の隅に落ちる陰影は、まるで波にさらされ続けた椰子の木のようにも見えた。何かは知らない、花の匂いがした。楽園の、花も同じ香りがするのだろうか。もし、そうならば。
そのとき。甘く、柔らかに滅亡していく私達の前で、扉がひとつ、開けられた。
入ってきた男は、まるでその朝新調されたばかりのような、黒のフォーマルスーツを着て、指先を絹の手袋で覆っていた。紺色のネクタイが、つややかな素振りでその幾つもの荒波を押し分けてきたかのような勇猛な胸に鎮座している。丸太のような太い首元に載った顔は、しかしそのロシアの数学者の持つ偏執的な幾何の精密さを持った服装とは対照的に、日々の苦しみ、風を受け、石を投げられ、そして血を浴びてきた歴史を如実にその皮膚に刻み込んでいた。悲しみ。そう、この亡霊のような男は悲しみが何であるかを、知っているように見えた。その目は、しかし厚く冷ややかに周囲の風景を反射させるサングラスの奥に彼の表情や感情とともに封印されていた。
反射されている風景の中に、隣り合うベッドから躰を起こしかけた少女が二人写っている。一つのベッドには、あの子が。あきらめと優しさと憎しみとをすべてないまぜにして、夜眠る前の沈めたような表情で座っていて。その隣のベッドには、あの子によく似た、とても良く似た、
「瑛子お嬢様が亡くなった」
真水のような声で、彼は言った。
「これより引き継ぎを行う。ついてきてもらおうか。いや、」
姿勢を正す男。その直立は、どこか旅につかれた民のものを思わせた。
「ついてきていただけますか」
私は、うまく状況が飲み込めずにいた。たしかにこの男をいつか、どこかで見たことがあった。どこでかは思い出せないけれど、この彫像のような姿勢、この苔生した声、その瞳の奥を、私はたしかに知っていた。
つい、と隣のあの子が、ベッドから凛として立ち上がった。私は、動けないままで。己の考えと、未知への恐怖に縛り付けられたままで。そこにいた。
「わかったわ。いや、わかっていたのよ。ずっと、ね――次は、私の番だもの、ね、芳澤さん」
上品に、落ち着いて、そう、あの子は言う。まるで、あの子じゃないみたいに。
「芳澤、で結構でございますよ」
男がそう、白く覆われた手を出して制しながら言った。
あの子が、滑るようにその手の方へと引き寄せられていく。私には、もはや何が起こっているのか、定かでなくなってくる。あの悪夢の肚の中にもう一度飲み込まれてしまったのかとさえ、私は思った。慌てて私も立ち上がり、懸命に腕を伸ばした。ベッドの骨格が軋んだ。待って、どこへ行くの。と、古い城壁の向こうへと叫ぶような声が、他人事のような遠くから発せられた。
かくかくと揺れる視界の中で、それでも、あの子は溜息を付くほど美しく、こちらに振り向く。金色をしならせながら。私に言う。この上なくはっきりと、私に言う。
「私は、一人で行かなくちゃいけないわ」
でも、どうして、と言いかけた私の耳に、あの日のあの子の小さな謝罪が、蘇ってくる。ごめんね、といったのではなかったか、あの子は。それは、このことを言っていたのか。いったい、どうして。耳鳴りが大きくなる。
そして、あの子は背を向ける。この部屋に。『実験』に。悪夢に。この世界に。何より、私に。
きれいな世界が、壊れていく音がする。シーリングファンは、花の匂いは、
「――折り鶴だけは、本当に、信じていたのだけれど。千羽折れなくて、残念だったわ」
そう言って、彼女は、巨像に導かれて、出て行く。私達の、この部屋を。この、白い部屋を。扉が閉まる。
灰色に染めながら。
ぱたり、と。
十三
ちろちろと照らされた廊下を私は芳澤と二人で歩いて行く。
「――『学習』で学んでいただいたことはもちろんのこと、あの『実験』について色々と学んでいただくこともあるかと思います」
「わかっているわよ、芳澤」
「それは何よりでございます、お嬢様」
歩き慣れた通路。リノリウムの音。二度と同じ気持では訪れることのないこの世界を、私は五感に焼き付ける。文字通り。戒めのように。
私は、これから色々の事を知っていくだろう。そして、彼女のように、きっとすり潰されていくことだろう。外の世界は、容赦の無く私を傷つけるだろう。そんな、降伏に近い予感を、私は抱いた。それと同時に、その間、君は何を知っていくだろう、何を思うのだろうなんてことを、かすかな希望として私は呑み込んだ。
花の匂いがする。水仙の花の匂いがする。君は、その意味も知っていくだろう。自分を愛し、他人を蔑ろにし、遂には罰せられた、あの忌まわしい花のことを、君は知っていくだろう。そんな中でも、変わらないで欲しいのだ。君は、僕とは違っていて欲しいのだ。一緒じゃ、きっと、だめ、だから。囚われたままになってしまうから。折り鶴を折ろうと言ってくれた、君は。
その時、光を浴びた。生まれて初めて、光を浴びた。足元には、アスファルトの小道があった。風が吹く。肌に触れる。夾竹桃の並木が、それに合わせてかさかさと音を立てた。少し肌寒い風だ。晩夏を賑わしていた蝉はもういない。代わりに遠くから、名前を知らない山鳥のけーん、という声が震えるように、かすかに聞こえた。もう、きれいなことばはいらなかった。笑おうと思う。君が隣にいなくても。彼女が、隣にいなくても。走って、笑おうと思う。今だけは、自分を、世界を、まだ好きでいると自身を持って言いたかったから。
でもその前に。私は、自分の居た世界に向き合った。白亜の研究所は、思っていたよりも小さく、そして、ひどく病的に見えた。私は言った。今だけは。そう言いたかった。
「さよなら、私。
「大好きよ。」
十四
白く。
うつろに部屋の中で、私は化石化していくようだ。部屋の空気はもう煮こごりのように固まっている。あの子が出て行った扉に私は濁った目を向ける。向け続ける。
何分。何秒。何瞬かが過ぎて。
突然に、扉が開く。
「どうしたの、そんな、すごく怖い顔をして。変な感じね。何かあったの」
そこには、あの子に、いえ、私に、とても良く似た、瓜二つの、病的なまでに白い、一人の少女が立っていて。
そして私は、ひとつの真実を知る。
「検体D、Eの両名は、すみやかに『学習室』へと向かって下さい。」
金属のひび割れた声で、館内放送はがなりたてる。未だにきょとんとした顔を続ける彼女に、私は手を差し出した。
「ねぇ、早く行きましょう。遅れたらいけないものね」
あぁ、その笑顔。
壊れていたはずのファンが、またからからと回り始めているのを私は見た。きっとそういうことなのだろうと納得して、私は彼女の手を引いて、部屋から出て行く。世界は続いていく。善くも悪くもなく。白くも黒くもなく。
何かは知らない、花の匂いがする。
水仙の花
なんか違う感が否めない習作。
あなたは、いくつ『自己』で始まる言葉を知っていますか。という話。
いくらでもつくろうと思えば作れるんですが。
自己犠牲、自己愛、自己嫌悪、自己矛盾、自己満足、自己陶酔……そんなことを考えながら書きました。
様式的目標としては「高橋源一郎に通ず、詩的散文表現」だったんだけど、失敗している気しかしない。
結局百合が書きたかっただけ。かもしれない。それにしては甘くないかもしれない。多分甘くない。
主なモチーフは色、海、人体。
まァ、そんなところで一つ。