「墓場電車」
ホラーを書くのは初めての体験でした。キャラクターを書くのは実に楽しかった。
「墓場電車」
君は何も気づかないのか。ポールはミシェルに言う。ミシェルは黙ったまま、曇ったガラスの窓に落書きをしていた。二人での旅行はほんとうに久し振りだった。ミシェルがポーランドに行きたいと言うから、仕方がなく電車に乗ったのだ。夏の間に仕事の休みを取ったポールに(オフィスは散らかっていて、まだ片付けていない。書類を片付けておかないと、あのムカつくアビーに『何度誘っても書類のバインダーばっかり!』と罵声を浴びせられる)10分後に乗り遅れてきたミシェルは笑って「女はいつも忙しいのよ。日々の疲れが溜まって、時々逃げ出したくなるわ」と言った。
3年前の照り付けるような眩しい夏の光で――当時ミシェルは「こうやってベンチに座るのもたまにはいいわね。長い病も治りそう!」とはしゃいでいた――自身の黒髪とミシェルのブロンドの長い髪がなびくのを二人で感じていた。婚約して半年経つが、ミシェルはポールに真意を伝えるのを恐れているのか、伝えたとしても判らないでしょう、といった諦めの面があったのかは未だに判らない。とにかくミシェルは、なにか考えごとをしてはポールの帰りを待つこともなく姿を消すことが多かった。1人でサンフランシスコ駅近くのバーに寄ったのか、12キロ先の別荘でガーデニングの手入れをしていたのかも、考えてみれば予想できることだ。しかしこうして二人で居る時間というものを、大事にしたいと思ったことはなかった――電車の中では緑色の蛍光灯がチカチカ光っては消え、時速60キロの旅に身を任せていた。
ミシェルは「ノートがあればいいのに。そしたらおかしいマークも巧く書けるわ」と口々に発していた。ポールは「いずれ家に戻れるさ」と言う。ポールの言葉に思わず眉を上げたミシェル。よくよく車内を見渡すと、隅の方にミッチェルが首を傾げて目をうっすらと開けているのが判る。ライズン雑誌を読み耽っては、端を小指で押さえていた。
ミシェルが「穢らわしい!なんて本を読んでるのよニガー!」と喚き声を出す。ポールは銀行員であったが、ライズン雑誌なら知っている。ポーランドで評判の、整形外科の特集を公に押すのが巧い雑誌だ。
「お前さんの鼻筋を削ったら、そこらのロバにも見えるな」ミッチェルが皮肉を言うと、ポールは思わず2ドル札を手渡した。
「どこで使えばいい」とミッチェル。気に食わなさそうにしているミシェルをよそに、ポールは言う。「ダニエルに聞けばいいですよ。降りたら使える」ライズン雑誌を綴じてミッチェルはやれやれといったように首を左右に振った。「あの頭のおかしい男にか?」溜め息をついた。「あいつは単なる駅員だろう。始発もなければ終電もない。つまりこの2ドル札を使う予定もない」
ミシェルはただ黙ったまま窓際の向こうを見ていた。正直に言うと、二人で暮らした半年間の中でしあわせだったときはバラエティ番組を観ていたことだけだ。ミシェルは物置のようなテーブルに肘をつき頬をさすりながら「くそ不味いクラッカー!まるで酸っぱいリンゴ!」と、異臭のする銀色の袋を掲げたのを覚えている。あのときのミシェルはなにを思い詰めていたのか考えるよしもなかった。こうして今考えてみても、やはり理解し難いものもあるが。緑色の蛍光灯が光っては消え、目に痛い。絶え間なくチカチカ光っては消えて、気に障る。ポールは2ドル札をミッチェルに手渡したことを後悔した。「ダニエルは狼に喰われちまったか、ケツを掘られてるかどちらかだろうな」
たしかにミッチェルの言う通りだった。ダニエルは中性的で腹が出ている以外は、キュートな男だ。ダニエルに惹かれる男共は多いらしい。そんな男がこんな薄暗い場所にくすぶっている筈もない。ミシェルが急に小便をしたいと言うので、仕方なく隅の方に肩を寄せてミッチェルの見えない場所に遣った。よくよく窓の向こうを見ては、どうも電車の速度が早くなっていくのを感じた。と同時に、緑の蛍光灯が姿を消し、車内は一気に暗闇に包まれた。「だから言っただろう。俺は乗ることも降りることもできない」とミッチェル。何事もこれから予想できる出来事の中の1つでさえ判断できないだろう、とポールは言ったが、やはりこの大草原の中に3人だけが電車内に居るのは摩訶不思議としか言いようがない。
ポールは「ライズン雑誌のひとコマに、おなじみのアナウンサーがヌードを披露していましたよ」と、冗談を言ったが、これもミッチェルにとってはどうでもいいことの1つらしい。ミッチェルは長い間この電車に居座るのが好きらしいが、飲み食いするものを持っていないのも妙だった。しかし――ポールは単なる『骨細男』と呼んでいた――これは不穏だった。財布からこぼれ落ちた1セント玉を拾い上げようとするが、線路からはみ出そうなスピードで走る電車には負ける。がくがく揺れる車内に、ポールは必死に吊革を掴もうとした。ポーランドへ向かう電車が、ミッチェルの吸う葉巻の匂いで充満し、加速して行く。スカートを上げたミシェルの後ろ姿を見ていないと、意識を保てそうにない。ミシェルは「楽しいわ。まるでメリーゴーランドみたい!」と口にする。前より二倍の速度で走る電車に、三人は左右に体が揺れた。
「ジェットコースターには慣れてるのか」
「乗った経験も忘れましたよ」
ポールは柱に掴まりゲロを吐いた。それを見たミッチェルが
「ポール・スチュワートがホラーみてえに吐きやがったぜ! 銀行員の面しながら、実は臆病者なんだな!」と大声で笑う。
胃の中を空っぽにするまで吐いたあと、「あんただって判らないでしょう。いつこの電車が止まるのか」乾いた声だった。ミシェルの「大丈夫よ。あなたは考え事をしないタイプだから」と、いつもの言葉が出るまでは気持ちが落ち着かなかった。
ライズン雑誌はミッチェルの手から落ち、ポールの黒いショルダーバッグも右肩から床に落ちた。ミシェルからのプレゼントである焦げ茶色の財布の中身が、嫌な音を立てて転げ落ちて行く。電車は加速し続け、止まることを知らない。黒い影をした誰かが斜めに滑って行くのだけは判る。ダニエルか? いや、そうじゃないのかも知れない。灯りはどこかに消え去り黒い眼を光らせてみても、なにも見えなかった。ミシェルの小便の臭いと、ポールのゲロの臭いが混じり合い妙に気分が悪い。黒いスーツの銀行マンは「何か飲むものくらいはあるでしょう。探してきます」と残して、床に這いつくばり小銭を拾いあげようとする。「やめておきなさいよ。せっかくポーランドの清々しい空気が吸えるってところなのに」とミシェル。たしかに今のポールの姿はやつれているどころか無様であった。たぶん、ミッチェルも同じことを思っているだろう。電車内に他のだれも居ない事実だけを知っているのは、ポールだけだろうか? せっかくの旅行なのだからと、ポールは滑るように車掌の居る場所へ向かう。緑色の蛍光灯がやけに眩しく光り、ポールの頭を逆撫でさせた。
ミッチェルが――どうして大洪水時代などと呼ばれる場所へ行きたいと言ったのだろうか。どうせなら今まだ平穏なるベルリンにでも行ったほうが良いのではないだろうか?――うかれ笑いをしたのがどこからともなく聞こえたが、ポールは無視した。なんとか理性を保とうとやっとの思いで1セント玉を拾い上げると、3m先に居る運転手の元へ行った。ポールが重いスライド式のドアを開けると、そこには誰も居なかった。運転席には誰かが書き残したような紙切れがあるだけである。座席に体を寄せ紙切れを見ると『現金稼ぎのクソったれ野郎! お前はなに一つとして気づいちゃいない』と落書きのようなものが記されてある。ポールは腹の底が冷たくなり、冬でもないのに寒気がした。運転席を見渡すと、コークが2本と水だけがあった。食料はクラッカーと誰かが残したトーストだけがある。その切れっ端を破り捨てようとしたが辞めた。再びミシェルとミッチェルの元へと戻ろうとしたが、スライド式のドアに手を挟んだポールは、思わず声を張り上げた。今ならどんなでかい男に殴られたっていい。ボクシングの会場でアウェーの洗礼を受けても構わない。それ程痛かった。
なんとか暗闇の中、床を這ってミシェルにコークを渡そうとした。手を差し伸べたあたたかな感覚がポールの心を少しばかり休めた。「どうしたの、ポール」 一瞬ミシェルが何を言ったのか判らなかった。ライズン雑誌を手にしたのか、ミッチェルは「瓶のコークなんて久々だぜ! ボトルのやつは気が抜けちまって飲めたもんじゃない」と、はしゃぐ。ポールは二人を見て奇妙な感覚がした。この空間の時間と共になにかが変化したような気がしたのだ。暗い電車内の中に居るポールの体に、電気のようなものが走る気配がした。たしかミッチェルはこう言っていた。
『俺は乗ることも降りることもできない』この言葉に何らかの意図があるとすれば――ミシェルとミッチェルの間に起きた事実を、ポールは知らない――ポールはミッチェルの顔をサンフランシスコのバーで知ったということだけだ。そこにダニエルも居ただろうか?
ミッチェルは父親が呑んだくれては帰る毎日を、そこらの寄生虫でも見るようにソファで傍観していたと言う。朝方になると殺風景な部屋の中で朝食を作っては、母親が目を覚ますのを待っていたということも。
「ダニエルを見掛けた。蛍光灯が切れているから彼かどうか知らないけど」 「駅員はいつも定時になると、逃げるように帰るわよ」とミシェル。
ミシェルが作るポトフは毎日のように食べているし、焦げた魚も食べている。近視でもなければ老眼でもない。ポールは――なのに二人は僕の姿が見えているのか。それか瓶の感触が伝わっただけなのか――ミシェルの姿が見えないだけでなく車内の空間さえ知り得る術がなかった。声だけが頼りだ。運転手が居なかったことを伝えると「ダニエルは逃げたのさ。多分乗る前にな」ミッチェルはゲップをしたあと言った。ゲイであるダニエルがここから逃れたくなるのは明確に判る。しかし恐ろしい思いをしたくないからなのか、ただサンフランシスコのネオンが恋しいからだったのかは知らない。ポールは前者だときっぱり言った。フェンネルウォーターをがぶ飲みしているポールを二人はじっと見つめる。険しい表情でミッチェルは言葉にした。ポールは思わず口からウォーターを吹き出した。またも床に水滴という水滴が落ちるのを見て、ミシェルが笑う。「結局俺たちは、ここに残されたってことさ。もしかしたら永遠の旅になるかもしれない。いや、墓場って言ったほうがいいかもな」 君はなにも気づかないのか。ポールがミシェルに言う言葉だった。
「生きているのに?」ポールは唖然とした。どうやら二人は事態を把握しているらしい。互いにせせら笑いをしているのが判ったからだ。ミシェルがポールの頭を撫ぜた。まだ白髪の生えていない若い髪の毛を、優しい手つきで。「あなたは気づかないことが多いからよ。このコークだって、ほんとうに持ってると思う? ダニエルは家族を大事にしているのよ」 ミシェルの持った瓶はたしかに鮮明にポールの目に映っていた。どことなく、この空間と時間のずれが手に取るように判ったのも事実であった。しかしながらあのダニエルが家族を大事にしているとはとうてい理解できなかった。
サンフランシスコの港のバーで男にキスをしているのを見かけたことがある。ミシェルとポールが結婚して一年経ってからの話だ。ミッチェルはそれを『ゲイ結婚』と呼んでいたのを覚えている。子どもは居ないが二人でネオンを見にデートをしたと、人伝てに訊いたこともある。ポールが――馬鹿馬鹿しい。そんな気色悪い話があるものか――ウォーターを空っぽにしたあとミッチェルに問い掛けた。「それじゃあんたは、ここにずっと居るんですか?」 ミッチェルは頷き「おなじことを何度も訊かないことだな。俺はここに乗ったことも降りたこともない。一生をここで終わらすのさ」 ミシェルも頷きポールを不安にさせた。ミッチェル特有の毒づいた発言が心を冷やした。ここで終わらすだって? どうかしてる。 ダニエルも僕の妻もミッチェルも。ジェットコースター同然の電車でポールだけが床に這いつくばっていた。二人は笑みを浮かべて電車の灯りがどこからともなく点いたことを確認する。小さな蛍光灯がミドリムシのように光っていることは目を開けなくても判るが、ポールは安心したどころか、二人の笑顔を見ることで余計に腸が煮えくり返った。気持ちは『いますぐここから降りて、ミシェルと一緒に食事をしたい』ということだけであった。あの幸せなひとときをもう一度味わいたい。なんならミシェルのために新しい洋服を買ってやってもいい。それだけがポールの心を支えていた。床のニスがポールの爪で剥がれ落ちている。ミシェルとミッチェルは対面に座席に座っている。
「ミシェル、家に帰ろう。ここは僕らの居るべき場所じゃない」 ポールは懇願した。ミシェルは首を左右に振って「いいえ、ポール。私はここに残るわ。サリー叔母さんもきっと喜んでくれる」と穏やかな口調で言った。そしてさながら母親のように「なにも気づかないと言ってたけど、ほんとうはあなたがなにも気づいてないのよ」と、ポールが手にしていた紙切れをもぎ取った。左指の爪が割れて赤い血が床に流れる。ポールは歯を食いしばり痛みを紛らわそうと唸った。吹き飛ばされそうな体を押さえているのはポールの肉体だけだ。窓が割れ風が入る。その風の音と共に鼓膜が破れそうだった。自分の顔を見なくても、凍えきっていることは判る。まるで雪山に居るようだ。帰りたい。そう、願った。
「私たちが婚姻届けを出しに行ったときを覚えてる?」 ミシェルは言った。
「そうだな……たしかサンフランシスコの窓口で君とキスしたよ。その証拠は君の薬指にあるだろう」
実のところのサンフランシスコではなかった。ミシェルのあまりに柔らかい表情と当時を思い出す憂いげな表情が、ポールに伝わったからである。ポールは心の底からミシェルを愛している。
ミッチェルはライズン雑誌の、
『整形外科医:患者の瞼にヒアルロン酸を注入した二週間後に死亡させた。外科医は今も留置所送り。患者の賠償金は2万億ドルだが外科医の家族は示談を求める』
という馬鹿げた記事を読んでいた。ポールはミッチェルの笑い声を塞いでミシェルの言葉に耳を傾けた。不穏な雰囲気だったからだ。
「シルバーのリングはとても嬉しかったわ」
その次の言葉は言って欲しくなかった。
「でも婚姻届けを出したのは、ポーランドよ」
ポールは優秀な銀行員であった。職場からの受けもよく働きぶりも良かった。よく女性からモーテルへ行かないかという誘いもあった。断ってはいたものの、内心は誘惑に駆られ1人でトイレに行ったこともある。ほんとうは職場を何より愛し、家庭を顧みない男だったのかも知れない。だが妻を愛していたのは事実だった。ダニエルのことも思い出したが、彼はこの電車に乗りたくないのではなく『家庭に戻りたい』という強い信念があったのかも知れない。サンフランシスコでの出来事でそう感じた。ライズン雑誌を面白おかしく読み耽るミッチェル。この男は父親が居ないものの、その分母親のために新聞配達の仕事を毎日していたそうだ。なにぶん皮肉を言うのはその家庭環境からかも知れない。
「ポール。もう判っているんじゃないのか? お前さんだけは外の空気を吸えるってな」
「僕はミシェルと一緒に帰りたいんですよ。式も挙げていないから」
ポールの言葉を残念そうに聴いていた。ミシェルは薬指の指輪を――そうだ。ポーランドで式を挙げないと、親戚から面目ないと言われるからな――外した。
電車は加速し続けトンネルに入ることもなくただ草原の中を走り続けた。ポールは割れた爪の先をずっと見つめていた。涙のように流れる血がうっすらと床に付着している。「あなたとの生活に疲れたの。 いい加減に判ってちょうだい。だから私はこの紙切れを持ってるのよ!」電車の向こうから入る風がカミソリのように頬に突き刺さる。吹き続ける風にポールは居た堪れないどころか、声も出なかった。ミシェルの切実なる言葉にさえ答える余裕もなかった。ミシェルはよく考え事をしては夫であるポールになに一つとして口には出さなかった。そんな妻のひとつひとつの塵のような切羽詰った感情を受け入れることが出来ないでいたのだ。つまり2人でいる環境が、乾燥しきった雑巾のように徐々にすれ違って行ったのだった。窓ガラスの割れる音がしては、また割れて、次々と台風のような風が吹き込んでくる。凍えるどころではない。体の芯も心も氷と化していた。どんな言葉も浮かばない、何を言ったらいいのかさえ、ポールは出来ないでいた。体が動かないのだ。ミシェルは笑って「どうして運転手が居るだなんて言ったの? そもそも私たちはここには居ないのに」と言った。「お前さんはここに乗らなかったのさ。俺たち二人は逃げたかったから乗らなかった」 ふう、と息をついた。「つまりこの電車は墓場なんだよ。乗らなかったもののここにはいるし、たぶん死ぬまで『墓場暮らし』さ」 真理を理解出来ずにいた。いや、頭では判っているが感情が理解しきれていない。ミシェルが10分後にわざと電車に乗り遅れたと言いたいのか? 乗り遅れたとしてもミシェルの姿は見える。乗り遅れたとしたならば次の電車に乗っている筈だからだ。 ミシェルが言う。「乗り遅れたのはもちろん、そうよ。でも次の電車に乗るためじゃない。『この』電車であなたの愛情を試したかったの」 そういうことだ。ポールはミシェルの気持ちにさえ気付く機会も逃した。ポーランドへ向かう筈の電車は、ポールを置き去りにした。「しかし僕は君を――」
ポールの言葉は風にさえぎられミシェルの心には届かなかった。ミシェルはただ悲しそうな目でポールを見遣っただけである。風のものすごい圧力に負け、割れたガラスの破片が身体中に突き刺さる。黒いスーツは汚れ、自慢の黒い髪も線路横のガードにぶつかり台無しだった。いずれにせよ、そんなことはもうどうでもいい。ミッチェルが座る座席からライズン雑誌が吹き飛んできたのだ。ミッチェルは大声で「次の『墓場暮らし』が来るぞ! お前は無視していい!」と聞こえたが、如何せん耳の鼓膜が破れかかっていて途切れ途切れにしか聞き取ることはできなかった。ぐらぐらする頭に電車の音が近づいている。電車は風のようにポールの体を通り抜けた。ポールは乗らなくてもよかった。ただ後頭部が杭を打ち込まれたようにがんがんするだけだ。遠のく意識がダニエルを思い出させた。
ダニエルは今でも『彼』を大事にしているのだろうか。ポールにはホモの趣味はないが、何故か断片的な記憶が残る。その『彼』を愛しているダニエル以上に、ポールはミシェルを愛することが出来たのだろうか……ガードにぶつけた頭の節々に2人の生活と、記憶が蘇る。ポーランドへ進む『墓場電車』はミシェルを乗せて連れて行ってくれるのだろうか。そしてポールはミシェルのために何かは出来たのだろうか。実際のところ、なに一つ判ってあげられなかったのかも知れない。ポールは生きているのか死んでいるのか、自分でも理解出来なかった。ただポーランドでミシェルと共に結婚式を挙げる夢を見た。ベルリンじゃなくて良かったのかもな――親戚のサリーにはずいぶん世話になった。礼にはミシェルが作るアボガドポトフでいいだろう。きっと喜ぶ。そうだ。ミッチェルもポールたちの結婚式に招待することにしよう。しかしライズン雑誌の整形外科特集をミシェルに見せるのは、辞めておこう。愛する妻の皮肉を書く記事には――ミッチェルの言いたかったことがなにかは思い出せない――ポールが心の底から言いたかった言葉だ。仰向けに寝そべりガードに寄せたポールの頭。目に焼き付くような太陽がポールの顏を照らしている。ガラスの破片が皮膚に突き刺さっている。不思議と痛いとは思わなかった。後頭部から血が滴り落ちる。線路の先はどうなっているのだろうか。もしかしたらミッチェルは、あの電車の中にさえ幸福――幸福という一瞬の出来事に気付いていればの話だが――を感じていたのだろうか。鐘が鳴り響く。古い時計のような色褪せた音。昔サンフランシスコの1つのバーで聴いたようなカントリー・ソング。ポールは、眠るようにガードに横たわっていた。やわらかい風が、若い黒髪を撫ぜてゆくのを感じていた。強ばるような頬を押さえ、青く茂った草原を見つめている。ポールとミシェルは手をつないだ。鐘が鳴り響き――「君とポーランドへ行こう。サリーなら判ってくれる」――やがてポールの頭からは鐘が鳴り止んだことを知るだけになる。
「墓場電車」
終盤のほうでもしかしたらなにか疑問が残るかも知れない。書き手にとって一番嬉しいのは作者の批評ではなく「作品の感想」にほかならない。