あいうえお
「私は君が大嫌いだよ……あーくん」
一日目
静岡県立浦河中学校。この学校は来年から、同じ県立中学校と統合することに決まった。
人数が少ないから、というのが理由だと言われている。もっともらしいことだが、これはあくまで噂。校長が言ったことではない。
僕が統合と聞いたのはつい最近だった。
そして何も思わなかった。何も感じなかった。
別にこんな学校、深い思い入れがあるわけではない。ただ家から近いから通っているだけで義務感があるから通ってるだけで好きではないんだ。それに、統合したって家からの距離は大して変わらない。
悲しくはない。嬉しいわけでもない。
この、約1年5ヵ月。僕は何も変わらなかった。変えてはくれなかった。
今日も僕は変わらない。
10月。
帰りのホームルーム。
僕のクラスの担任はどこかへ出張だということで、今日は副担任が行っていた。
明日の連絡等をしていると、彼は思い出したかのように、プリントを配り始めた。
馴れない手つきでみんなに渡していく。集金の紙だった。
別に毎月配らなくてもいいのに、と思う。
紙を毎回親に渡さなくてはいけない僕の気持ちをかんがえてほしい。
最後に、彼はそう言った。彼の口癖だ。それが最後だったことなんて一度だってない。
「昨日行われた小テストを返します」
…………は?
おいおい勘弁してくれ、僕はもう帰りたいんだ。
お前の来るのが遅いからもう4時になるっていうに、これからテストを返すだって?
これだから、僕はお前が嫌いなんだ。
そう思っているうちに、あいつは僕の名前を呼んだ。仕方なしに席を立ち、取りに行く。男子の方が女子より先で、僕は出席番号が4番と早い。
僕が帰りたいのを察知した三番のやつが僕に笑いかける。
僕はあいつの、あの何もかもを見透かしたような、真っ黒で全てを悟ったような目が嫌いだ。
「……笑うなよ」
僕は彼に小声で言った。
彼はえへへと、意地の悪い笑みを浮かべると席へ座る。
僕はわざとらしく、副担任からテストを片手で受けとる。
副担任は何も反応しなかった。ただ、機械的に僕にテストを渡した。
因みにテストの結果は最悪だった。
僕の一番嫌いな点数。
85点。良いも悪いもない。クソみたいな点数。
「つまらない」
僕は呟いてテストを通学バッグに突っ込んだ。
暫くしてから最後の人が呼ばれた。えっと、彼女は渡部……くちは、という名前だった気がする。黒髪のショートヘアー。おかっぱって言えばいいのだろうか。とりあえず、そんな髪形だった。
彼女は小走り気味に副担任に近づき、奪い取るようにテストを受け取った。そしてまた小走りで席へ戻った。まるで、見られたくないみたいだった。
――――これが、僕と彼女の最初の出会いだった。
一日目 放課後
クラスメイトだからって友達ではない人間は、登校時に通りすがった、腰の曲がった、目付きの悪い老人と大して変わらない。僕との関係性は無きに近く、関心なんて一切ない。
だからこそ、あのとき僕は初めて、彼女を認識した。
別に今まで渡部くちはは不登校とか病気とかで休んでいたわけでもない。ちやんと学校に来ていた。来ていたが、僕はあまり認識していなかった。認識というか……見ていなかった。興味のない存在には、嫌悪感や好意を抱いていない存在には、誰だって、見ない。
彼女はそんなことを考えていた僕の視線に気付きそっと口を開ける。なんだか、音を出している出してないのか分からないような大きさで動かす。
けれど。
それでも僕は彼女が言いたいことはわかった。というか、たとえ僕じゃなくても誰でも分かるだろう。
――――あんなに、嫌そうな目線を自分に向けられたら。
「見ないでよ気持ち悪い」
彼女は間違いなくそう、言った。
一日目 帰路
僕は帰った。
だって4時なんだ。学生は勉強だけが本分で、それが終わったら速やかに帰る。当たり前のことだ。無理に渡部に話しかける理由も、学校に居続ける理由もない。そこら辺の人間と僕は違う。効率的なのが好きなんだ。無駄は嫌い。
そんなわけで僕はジャスコの横を通り、川原を歩く。
誰もいない静かで気持ち悪い川原。夕陽を脇目に見ながら、少し目を細める。眩しいのは嫌いだ、だから早く沈め夕陽。
ふと僕は自分の足元に視線を落とす。そこには空き缶が倒れていた。
僕はわざと踏みつける。そういえば、何だか見たことのない名前のジュースだった。空き缶からはグシャっと、耳障りな音がした。僕はもう一度踏みつけ、前へ勢いよく飛ばす。カランと軽い音がした。別にどこにぶつかろうが関係ない。知らない。
「―――あなた」
綺麗な声がした。透き通った、季節外れの風鈴のような声。
懐かしいとは思わなかった。
別に。
何秒か経ち僕に言ったんだ、と。
僕は気づいて顔を上げてみる。それで、おやと、少しだけ驚いた。
「ここは私の――渡部くちはの場所よ。そして……ストーカーしないで。えっと……あーくん?」
「あと――――見ないでよ気持ち悪い」
酷い言いぐさだ。
そう言って僕はふるふると首を振り、渡部と目を合わせた。
僕の真正面に彼女は腰に手をあて、嫌悪感丸出しの目で僕を睨み付ける。
「私の後を…つけてきたの?」
うん?
なんの話だろうか、彼女は、渡部は何を言っているのだろう。
というか、彼女の声は初めて聞いた気がする。いや、実際は授業の音読とかそこらで聞いたことがある気がするが。とりあえず、初めてだ。そういえば、彼女にはあだ名があった。えっと、むーちゃん……とか。由来は分からないが、確かそんな風に呼ばれてた。
「私の話を無視しないで気持ち悪い」
「うん?無視なんてしてないけど」
「はっ」
渡部は吐き捨てるように、口だけ歪ませて笑った顔をつくった。
「まあいいわ。それで、何故ついてきたの?わ、私の家を調べてイタズラとかするつもりだったの?」
なんなんだろう、この馬鹿は。
「……僕は別にお前をつけてきた訳じゃねーぜ、むーちゃん。ここは僕の通学路だ。お前の場所じゃあない。僕のだ」
「はぁ?えっと………あーくん?何を言ってるの気持ち悪いわよ」
むーちゃんは吐き捨てるように言った。
自分が何を言ったのか覚えてないのだろうか。
僕はむーちゃんと同じことを言ったのだけれど……。
「あと、むーちゃんってのは止めて」
むーちゃんは僕と目線を外し、少し夕陽を見た。沈みかかってる夕陽をだ。
「嫌いなの」
「うん?」
「何度も言わせないで、私はそのあだ名が嫌いなの。それともあーくんは、私の帰宅時間を遅らす為にわざと言ってるの?気持ち悪い」
お前だって僕のことをあだ名で呼ぶくせに何を言ってるんだろう。
それに、口癖が酷い。気持ち悪い、だなんて。
「分かったなら呼ばないで。あーくん」
僕はわざとらしくため息をして、むーちゃんを見る。
「自分にやって欲しいことがあるなら、自分が相手にまずやるもんだぜ。僕もあだ名で呼ばれるのが嫌いなんだ。」
「そう、それは悪かったわね」
むーちゃんは一歩分遠ざかる。
「じゃあ、僕はお前のことを何て呼べばいい?」
「私の事は普通に渡部と呼んで」
「――――あーくん?」
にんまりとむーちゃんは笑った。
……絶対に呼ばねえ。
うん。
実は僕は初対面だが、渡部くちはがむーちゃんが嫌いなのかもしれない。
「うざいよ、むーちゃん」
僕は言った。
今日も僕は変わらない。
あいうえお
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