励ます会
市ヶ谷にある会社の周辺は静まり返っていた。夜も九時を過ぎ、杉村俊一は煮詰まっていた。息が臭いかもしれない。編集長の有泉は階下の自販機で冷たいコーヒーを買ってきて、一個くれた。ゴクンと一口飲んでから、
「あのセンセーも困ったもんだね」
話し出した。ライターの長沼恵介のことである。何かあったのだろうと思っていると、昨夜、イラストレーターの守山から電話があって、多岐恭一と一悶着起こしたというのだ。
「よくやりますねえ。このところ、長沼さんはすさんでいますよ」
「ああ、どうかしている」
そんなことを話しながら、上司と部下はトラブルを楽しんでいるとしか思えない。他の社員は皆帰って二人だけ残った。彼らは新宿のビア・ガーデンで飲んでいるとき、長沼が多岐に無礼なことを口走った。多岐が怒って三流ライター呼ばわりした。守山が仲裁に入ったが、二人とも折れるタイプではなく、喧嘩別れになった。杉村は、長沼に問題があっただろうと推測している。長沼と酒席を共にすると、とかく一触即発になりがちだった。今まで穏やかに飲んだことはほとんどない。
「長沼さんは、集団のイケニエを見出したがる癖があります」
「どういう風に」
「つまりですね」
杉村はそういう性格を分析したくてウズウズしていた。彼は論理的に説明した。顕著なのは複数対少数という対立関係を作ることだ。その晩も長沼は守山を味方にして、やり合うつもりだっただろう。もっとも守山は加勢しなかったに違いない。普段、一対一の場合でも誰某は優秀だの、異才だの、女にもてるだのと誉めそやし、自分の力のように誇示する。本人は気がついていないけれど、大勢の側に加担しているのが見え見えだ。
「よく見ているな」有泉は一応感心した面持ち。
「人を常にマイナス位置に追いやるんです」
「いやらしいな」
物書きが多数の側についているようでは思想が疑われる。むかしは一匹狼的に自立していたけれど、今は堕落して矜持を失っている。長沼は本来は小説家を志していたが、失せてしまったのかもしれない。
「俺に言わせると……」有泉が言う。「破滅型が災いしているな。そういう役割を演じていい気になっているのさ。それに先生はポーズの人なんだ。ポーズが第二の天性になっている。致命的な欠陥だよ」
確かに、演技的な人格の男だと常日頃から思っている。しかし、何よりもターゲットにされるのが癪だった。長沼と飲んでいると、わざわざ電話で友人を呼び出して、二対一でいじる。しかも子供じみていて、よくジャンケンをして、負けたほうが相手を肩に担いで走るという遊びをする。そのやり口を話すと、
「なんだい、それ」有泉はバカバカしそうに笑った。
「そのうち、一矢報いてやりますよ」
「あまり深入りしないほういいぞ」
「できるだけ付き合わないようにしています」
そうは言うものの杉村は酒が好きで、誘惑に負けて、ズルズルべったりに居続けることがあった。かつてアルコール依存症的な要素もあったほどだから。雑談をしているうちに時間が過ぎ、二人とも帰ることにした。
土曜日の午前、家人が病院にいっている間、テレビの番組をザッピングしていたら、オピニオン・リーダーがしきりに喋っている。
「現代人は個人の権威を回復しようと一生懸命です。しかし、蔑ろにされたまま、思うようにいきません。で、欲求不満が募って、それをどこかに吐き出そうとするのですが、対象が定まらず、代わりにスケープゴートを見出すのです」
その一説を聞いたとき、勤め先の新海書房を言い当てているので感心した。会社はポルノチックな漫画雑誌を四冊発行していて、その内容たるや、世の良識人たちが眉をしかめる。主に落ちこぼれが集まり、吐き気を催すような過剰な属性を身に付けている。幼児性や浅ましさや卑しさ、傲慢、虚栄、嘘、はったり等々数えたら切りがない。社会の最底辺の精神構造と言っていい。常にイケニエを求めていて、クォリティーの低い社会だ。こんなところは一日も早く辞めてしまいたい……と考えていたら、いつの間にか妻の咲子が帰ってきた。
「病院の庭は、この間まで咲いていたモッコウバラが終わっちゃったのね」
「……」
「今は、プリムラ、パンジー、ヒューケラ、ラベンダー、クレマチスなんかで一杯なの」
「そりゃ花くらい咲くだろう」
「庭にいた先生の奥さんと立話したの」
「花の話なんか聞きたくないよ」
「奥さんは花屋さんの娘さんだって」
花屋というのは、花弦といって、この界隈の地主である。しゃれた医院と洋風の寄せ棟造りの自宅があり、実家から相当資金を出してもらっているというのだ。
「俺も花屋さんの娘と結婚したいよ」
「あなたは、花に関心がないから、合わないわ」
「人生は花だけじゃない」
「だって、知らな過ぎるもの」
「花がどうしたというんだ」
「少しは勉強したらどうなの」
「俺はいいよ」
二人は要町のマンションで同棲しており、近い将来正式に入籍する予定でいる。といっても妻が区役所に届ければすむことである。無精者の杉村は、ようやく手続きをすることにした。
「出かけてくるよ」
要町駅に向かった。午後二時に多岐に会って資料の本を渡すことになっている。その本は作品を書くために早急に必要だという。待ち合わせ場所は池袋のビルの中にあるドトール。椅子に座ると週刊誌を読んでいた多岐が、
「チベットに関心ないかね」と、いきなり聞いた。
「特にないです」
「俺はこのグラビアを見て、面白い国だと思ったな」
差し出された頁を見ると、鳥葬の様子が写され、無数のハゲワシが群がっている。その中に黄色い布に包まれた遺体を食べやすいようにするため、一人の男がナイフで切り刻んでいる。そして死臭を嗅ぎつけたケモノたちが一斉にわめく――多岐はそういう光景が気に入り、賛嘆している。ハゲワシにお布施をすることで、前世の罪を洗い流すという意味があるという。杉村はその趣旨に感じるものがあった。それに彼は花を一杯飾った日本の葬式を好まなかった。
「私も死んだら、遺骸を動物に提供してもいいですよ」
「ハハハ」多岐は渇いた声で笑った。「この間、長沼さんとやり合ってね」
状況を聞くと、やっぱり馬鹿げた出来事だった。長沼が共通の友人を褒めまくって、彼らと比べたら、お前はだいぶ劣っていると見下した。『そういうあんたは、どうなんだい。たかが三流ライターじゃないか』と一打を浴びせた。『おい、先輩を侮辱するのか』と長沼は怒った。それから醜いバトルの応酬になった。多岐はそのとき、つくづく思ったそうだ。無署名で書くライター稼業から抜け出さなきゃいかん、長沼とドングリの背くらべをやっているのは情けないと。
「人間は社会的に評価されなければ何の意味もないよ」
「新人賞はどうなったのですか」
「それは先のことだ」
「でも、楽しみですね」
それからまたライバルの批判になった。かつて新海書房では長沼が編集長で有泉と多岐は部下だった。当時の長沼は飛ぶ鳥の勢いがあり、ダントツに異彩を放っていた。社員や出入りしている関係者達は眩しいものでも見るように接していた。やがて急速に失速していった。少年時代からの念願であったアフリカ旅行を実現し、一ヵ月間滞在した。だが著書は出さず、くすぶったまま二年半の年月が過ぎた。本を書かなければただの旅行者に過ぎない。回りの者は独自の紀行文学を期待していただけに失望した。今は何をしたいのか分かっていない。あたかも目標喪失症候群に陥った感がある。
「紀行文は諦めて、長編を書くと俺には話していたけどな」
「どうですかねえ」
「書いてくれればいいがねえ」
二人で彼の才能を値踏みしたが、結論は出なかった。
十一月の初旬、阿佐谷に出かけてきた。欅並木から通称欅屋敷を折れて、商店街の路地をどこまでも突き抜けていく。杉村はこの辺りを歩くのが好きだった。むろん阿佐谷そのものに好感を抱いている。母方の曾祖母がこの土地の生まれだからだ。長沼は横着にもOLの小山裕子の部屋で時々原稿を書いた。
垢ぬけした小さな家が密集していて、その一角に白い外壁のコーポ・サンライズがある。ドアホンを押すと、裕子が出迎えてくれた。六畳ほどの部屋に通されると、長沼は小机に向かい、ノートパソコンのキーを叩いていた。
「少し待ってよ。仕上げちゃうから」
「ゆっくり書いてください」
裕子が気を利かせてお茶を入れてくれた。飲みながら部屋の中をちらりと見回した。クローゼットに洋服がずらりと並んでいる。書棚にはファッション関係の雑誌と一緒に『ぐりとぐらのすべて』という本もあった。そして漫画のワンピースの主人公のフイギュアも。二十七の裕子は普通の女の子だなと思った。しかし四十代の妻子のある男と何の展望があるのかと訝かった。小島に立ち寄って一時的に停泊しているだけの関係だ。有泉と多岐は利用しているだけだと冷やかな目で見ている。だが長沼は情欲が強そうには見えない。
十五分ほどすると原稿を仕上げた。それは劇画の原作で、読者に人気があり、長い間連載している。さまざまなエロチックな性怪獣が登場する話である。プリントアウトしたのを読むと、ストーリーはよくできている。次の案を打ち合わせしてから、裕子が缶ビールを運んできた。時間はまだ五時半である。強風が吹いていて、うるさい音が聞こえる。
杉村は酔いたくないのでチビチビと飲んだ。長沼が五百ミリを飲み終わる頃、
「杉村くんは正式に結婚するのかい」
「ええ、近いうちに」
「いい家の方みたいね」
「裕子くんといい勝負だ」
「私なんか、かなわないわ」
裕子は謙遜した。長沼は二缶目の五百ミリを開けた。裕子はイカ、ポテトサラダ、まぐろの刺身などのおつまみを出した。
「資産家の娘なんて、凄いね」
長沼の言い方は嫌味そのものだった。
「それは、オーバーですよ」
「でも、きみの崇拝している多岐くんは批判的だったぞ」
同棲者の実家は何軒かアパートを経営しているに過ぎず、資産家という言葉は当たらない。大げさに解釈した上に打算的だと悪く言う者がいる。こんな迷惑なことはない。
「多岐さんがとやかく言うはずないですよ」
「俺はこの耳で聞いた」と長沼。
「嘘っぽいなあ」
多岐と衝突して三ヵ月以上が過ぎ、仲直りするわけでもなく、平行線のままである。しこりが残っているに違いない。長沼はビールをグイグイと飲み、きみももっと飲めと勧めたが遠慮した。
「あ、そうだ、彼は小説を文芸誌に投稿したらしいな」
秘密になっているが、薄々知っているようだ。この間会ったとき、自信満々だったと杉村はあえて強調した。
「多岐にそんな才能はあるもんか。受賞の見込みはないね。あり得ない」
「そう敵視した言い方をしないでください。多岐さんは大器です、賞くらいは取ります」
「長年書いているから、技術はあるだろう。だけど、時代を打つ新鮮さがない。どこか足りないものがあるんだ」
「違います。必ずマスコミに出るから見ていてください」
「本当にそう思うかい」
「多岐さんの書くものは一流のエンターティメントの形を持っています。それがあれば次々と量産できます。やってくれますよ」
「いくら贔屓にしているからといって、そこまで買い被ることはないだろう」
長沼は不愉快そうな顔をした。戸外では強風がうなり声を立てている。黙って聞いていた裕子が口を挟んだ。
「杉村さんはよほど、多岐さんを尊敬しているのね」
「それはそうだ、ハシリを買って出ているくらいだから」
「ハシリだって。失礼だな」
「だって、そうだろう」
「それより長沼さん、対抗したらどうなの。もともと表現者になるのが目的だったんじゃないですか。でも何もしていない。あなたは今の自分に耐えられないはずだ」
「耐えられない、とは何だ」
長沼は刺々しい目付きをした。
「そんな怖い顔をしないでください。私は長沼さんを奮起させるために言っているんだから」
「生意気だぞ」
「そうよ。長沼さんは杉村さんよりも先輩なのよ」
「ここでは対等です」
「能力的には段違いよ」
裕子が強い口調で決めつけた。外ではあいかわらず強風が荒れ狂い、看板がカタカタ鳴り、路上を金属性のものが転がっていく。杉村は裕子の言葉にカッとなっていた。それで怒りを抑えた口調で、恋人に味方されるようじゃ見苦しいと決めつけてやった。
「恋人の味方だと!」
長沼はパンチを食らったように動揺した。ちょっと会話が途切れてから、矛先を裕子に向けた。
「裕子くん、きみの言い方はなってないぞ。比較するなんて差別じゃないか。こんな卑しい認識の持主とは思わなかったぞ」
「そんなつもりじゃないわ」
裕子はオロオロしている。
「杉村くんに謝れ!」
重苦しい沈黙が流れた。
「杉村さん、ご免なさない」
裕子は鼻をグズグズさせながら泣き出した。杉村はポケットからテッシュペーパーを取り出して渡した。裕子は思いっきりかんだ。
「おい、下品な音を立てるな」長沼の怒りは常軌を逸している。
「鼻ぐらい好きなようにかめばいいですよ」
杉村は裕子の立場に立つしかなかった。長沼はビールの缶が空になったので、ピッチャーの水を一気に飲んだ。気持ちを落ち着かせようとしたのだろう。気まずい雰囲気になり、杉村は言葉に窮した。ひところはオーラを放ち、多岐も有泉も頭が上がらず、誰もかなう者はなかった。それがいつのまにか劣勢に回り、差をつけられるばかりだった。
彼の怒りは裕子ではなく、自分自身に向けられたものだろう。長沼は急に立ち上がると、
「俺は帰る」
ハンガーのジャケットを着ると、裕子と目を合わすことなく出ていく。裕子は後を追った。誰もいなくなると、杉村は大きな音を立ててゲップをした。戸外は風がやんで静けさを取り戻したと思ったら、空缶がガラガラと軽薄な音を立てて転がっていく。十分ほどして裕子が戻ってきた。お茶を入れてくれたので少し雑談をしてから帰った。その途中、あるヒントを得た。
十日後、友人と示し合わせて阿佐谷にやって来た。杉村は期待感で胸をふくらませていた。裕子はすでに駅の建物を背にして立っていた。ほぼ時間通りの午後七時。
ダウンコートの下のすらりとした脚にブーツ。おしゃれな動物が立っているみたいだった。
「奇麗な人だね」
友人の梅田が褒めた。間もなく三人は挨拶を交わした。未知の男女は照れながら名刺を交換した。梅田は高校で日本史の教師をしており、杉浦と同年の三十歳である。喫茶店に入り、飲み物の他に三人分のサンドウィッチを頼んだ。
初対面同士は緊張しているようだ。杉村はできるだけくだけて、進行役を務めた。彼らはポツポツと喋り、徐々に友好的なモードになっていった。
「祖父も教師をしていましたから、先生のお仕事には敬意の念を抱いています」
裕子は身内の話を始めた。
「立派な先生だったでしょうね」
「さあ。教頭で定年退職しました。出世より趣味に情熱を傾けていたみたいです」
「趣味って何なの」杉村が尋ねた。
「野鳥の研究なの」
「いい趣味ですね」梅田が杉村のほうを見て言った。「同じ趣味でも蛇や毒蜥蜴を飼っている奴が近所にいて、問題になったよ。きっかけはアパートの壁面に1・5メートルの蛇が這っているのが見つかって、住民が警察に通報したんだ」
「うわあ、恐ろしいわね」
「変な奴がいるね」
警察官が駆けつけたら、自宅の六畳間に爬虫類を数十匹も飼っていたという。その男は動物愛護法違反で書類送検されたけれど、住民から集中砲火を浴びた。梅田によると、男の家には電話がかかってくるわ、抗議の紙片が郵便受けに入っているわ、人が訪ねてくるわでヒドイ目に遭わされたそうだ。
「住民は怒るだろうよ」
「市民の敵だもん」
「そんな奴の存在は許されないよ」
「迷惑よねえ」
それから海外旅行やライブの話をし、裕子も梅田もはずんでいた。一時間半ほど飲み食いしながら過ごした。
「とっても楽しかったわ」
「また、お目にかかりましょう」
帰るとき、二人は次のデートをほのめかした。それから梅田とスナックに入った。年輪を重ねた店で、ヨーロッパのアンティークな飾り物が何点かあった。雑誌の記事で知り、いつか来てみたいと思っていた。梅田は焼酎のお湯割を飲みながら裕子さんはステキだと言った。傍から見ていてもいい雰囲気で、気が合いそうだった。気が合うというのは、もっとも好ましい関係といっていい。
「今度、単独で誘ってみろよ」
「うん、そうする」
「彼女はあれで婚活を望んでいるよ」
杉村は裕子の長所美点をあげた。容姿はいいし、金銭的に恵まれた家に育った。性格は大らかである。彼女は何よりも現状から抜け出したいと願っている。それには、中年の愛人など切り捨ててもいいのだ。もっとも長沼のことは一切口外しなかった。
年が明け、寒い日が過ぎて春になった。恋人達の進捗具合は折に触れて聞かされた。両人ともずいぶんノンビリしている。うまくいっているようだ。ゴールデンウィークが過ぎたと思ったら、梅雨になった。杉村は正直な話、長沼の反応が知りたくて待ちどおしかった。
杉村は酒を控え、体を鍛えるようにしていた。鍛えるといっても、毎日ウォーキングをするくらいだ。会社の行き帰りを含めて、家の界隈を一万歩歩くように心がけている。時々スクワットもやった。
土曜日の午前中、k町団地の公園と通路を兼ねた所に差しかかると、スマホが鳴り、妻の声がした。
「ニュースよ」
「どうしたんだ」
妻ははしゃいだ声を出した。
「多岐さんのことなの。賞を取ったのよ。今、連絡があったわ」
「すぐ帰る」
杉村は引き返した。彼は興奮気味になって慌ただしげに家に帰ってきた。
翌日も会社に多岐の朗報がもたらされた。社内は騒然として、友人の有泉は俺の予想が当たったと悦に入っている。
何日もしないうちに文芸トポスが送られてきた。多岐恭一の紹介や受賞作が載っている。
《とうとうやったな》
杉村は感歎の声をあげた。同時に羨望の念を覚えずにはいられなかった。選考経過にも目を通した。彼の『初めて斬った』は三百六十編の中から選ばれ、選者たちは大方高い評価をし、中には大物視している作家もいる。多岐の受賞の言葉には次の一文があった。
――四十歳を過ぎ、焦燥感に駆られながら書いてきた。今回はそういう自分に区切りをつけることができた。滅びゆく武士社会の中の個人の抗争がテーマである。今後ますます私の中のマグマが爆発するであろう。遅まきながら飛ぶ時が来た――
作品からは処女作の初々しさが伝わってきた。読み終わってベッドに横たわると、俺はまだヒヨコだな――と溜息をついた。多岐の紹介で入社した杉村だが、会社で重きを置かれているわけではなく、陰の薄い存在でしかない。とりあえず編集者になり、食えるだけの金は稼いでいる。それまで彼はいくつもの職業を渡り歩き、最後は建設現場で働いていた。それを知った多岐が拾いあげてくれた。同郷で大学の先輩でもある。俺が開花するのはまだまだ先のことだ――
《だけどライバルとの明暗は、これでクッキリしたな》
杉村はほくそえんだ。多岐と長沼は何かと正反対だ。多岐は無頼でも折り目正しく、生活は堅実そのもので妻子を困らせることはしない。服装は隙のないほどおしゃれだが、性格的にはどことなく無防備で安心感を与える。遊びの金は惜しみなく使い、年少者と付き合うときはすべて自分で持った。一方の長沼はラフな格好を好み、金銭面では計算高く、自分が損するようなことはしない。
将来を見据えて、着々と礎を築いてきた多岐に対して、長沼は己の資質のままにやり過ごしてきた。年月を経て大きな差がついてしまった。
二、三日、大雨が振り、都内は水浸しになり、床下浸水した家屋もあった。悪天候が収まった頃、会社では今度は長沼の噂になった。
「ショックだったろうな」
「どんな顔をしているのか見てみたいよ」
「かつての逸材も打ちひしがれているだろうな」
「彼の世をすねて世捨人のような感じは好きだけどね」
社員達はこの手の話になると、現金にも活気づいた。長沼を《負》の存在に見たてて言いたい放題だ。そこへイラストレーターの守山も顔を出した。杉村はそれとなく尋ねた。
「長沼さんは、多岐さんと和解する気はないですか」
「プライドが高いから、妥協はしないだろう」
「長沼さんは、心理的に追い込まれたな」
編集長の有泉も薄ら笑いを浮かべた。
「うん、心中は穏やかではないね」と守山。「ほとぼりも覚めただろうから、間に入ってやるつもりだ」
離婚の噂もあるほどである。有泉は長沼の元部下なら守山は親友の間柄だから放っておけない。彼らは批判しながらも慮ってやっている。それは多分に失墜した者への優越感かもしれない。
数日して自宅に梅田から電話がかかってきた。裕子の件である。
「正式に婚約したよ」
「おお、それはよかった。めでたいね」
「ありがとう」
裕子は前の恋人のことを正直に打ち明けてくれた。彼は過去のことに、拘わらないから平気だと言い、それでも気になることがあるようだ。
「どんなこと?」
「前の人って、あそこが大きいほうか」
「見たことないよ」
「俺、比較されるのがイヤなんだ」
「変なことを心配する奴だなあ」杉村は笑い声を立てた。「前の男は、自分から大小については言わなかった。俺の印象では小さいほうじゃないかな。確か、上司の編集長はデカイから、コンプレックスを感じると冗談っぽく話していたから」
「そうか、それならいいけど。ポルノDVDを観ていると、長大な奴ばかり出てくるだろう」
「あれは客を意識して選んでいるからだ。日本人の平均サイズはもっと小さいよ」
「どれくらいかね」
「十四、五センチくらいだよ」
「それだったら、俺はちょっと上だよ」
「安心しな。それに女の体は大きさに関係なく、伸縮するようにできているんだから」
「よけいなことを考えなくていいな」
梅田は快活に笑った。
三年の年月が過ぎた。杉村は会社を退社し、フリーのルポライターに転身した。将来はノンフイクション物を書いてステップアップしていくつもりでいる。多岐恭一は著書を何冊も出し、有泉はインド文学の翻訳に取り組んでいる。守山の活躍は言うまでもない。梅田と裕子も幸せな家庭を築いている。
一人長沼恵介だけは消息が伝わってこない。
杉村は自室で原稿を書きながら、時には長沼のことを思い出すことがあった。彼に対して憎しみに似た感情を抱いており、それがトラウマになっていた。それでいて懐かしい気持ちもあった。そのアンビバレントな気持ちは彼の中にカサブタのように張り着いていた。
長沼に関しては結婚前の裕子がメールをくれた以外に知る由もない。彼はパソコンから古い文面を引っ張り出して読んでみた。
《長沼さんはあれ以来、姿を見せません。この際、はっきりさせたほうがいいので、婚約者のことを手紙で知らせました。すると長沼さんから電話がかかってきて、どんな男性かと聞かれました。杉村さんの学生時代の友人だと話しました。
「えっ!」
長沼さんはその刹那、ギクリとしたように唾を飲み込ました。そして、「あいつか」と呟きました。奥さんと別れた話もしてくれました。
『今朝の新聞に多岐さんの本の広告が出ていたけど、ご覧になったの』
妻に尋ねられた。
『いや、興味がないから』
『大型新人の登場と書いてあったわ』
『マスコミは大げさに書くもんだ』
『あなた、悔しくないの』
『いつか、俺も書くよ』
『期待しているわ』
『今後、俺と会うつもりはないか』
『会わないほうがいいわ』
『そうか、分かった』
こんな風に再現してくれました。奥さんは冷静、というよりも冷淡な様子で去っていったそうです。奥さんはお姉さんのお店(バー)で働いています。
こういう話をしてから、また最初に戻って尋ねました。
「式は挙げるのか」
「そうよ、杉村さんが司会をしてくれるのよ」
「ふ-ん、杉村か。俺、あいつは好きじゃねえ」
「そんなことを言うもんじゃないわ」
こんなやりとりをしたことが書かれてあった。長沼がどうしたと言うんだ、と杉村は反感を甦らせた。二、三日して守山に電話して、近況を話し合ってから、
「長沼さんは元気でやっていますか」と探ってみた。
「マイペースでやっているよ」
「久しぶりに皆で会いたいですね。長沼さんを中心にして、飲み会でもやりませんか」
「それはいいね」
「彼一人を置いてきぼりにするのは、気の毒ですよ」
「可哀相だな」
「じゃあ、ぼくが根回しをします」
「長沼さんには俺が話す」
久しぶりに繁華街に出てきた。街は春先の夕方である。群衆は流れをつくって、ゆったり歩いており、女の笑い声が絶えない。杉村は彼女たちがどうしてこんなに笑うのか、不思議だった。笑いによってコミュニケーションを補完し、また幸福を誇示しているのか。彼には終末的な空虚な、魂が腐敗しているように思えてならない。
大きなパーキングを曲がって、ある会場に向かっていた。そこは天風という高級居酒屋で、かつてのメンバーが三年ぶりに顔を合わせる。会の趣旨は《長沼恵介を励ます会》である。発起人で幹事の杉村は早めにやってきた。和風の部屋にはまだ誰も来ていないので、あぐらをかいて座った。壁にはデフォルメされた黄昏時の東京タワーの油絵が掲げられている。うら寂しい都会の姿に杉村は引かれた。
テーブルには六人分の席が用意されている。長沼はどんな顔をしてやってくるだろうか――杉村はさっきから冷たい好奇心を覚えていた。作品を書いているのだろうか。まだ野心を持続させているのか、などと憶測しているうちにメンバーは次々とやってきて、六人が勢揃いした。皆は「やあ、やあ」と挨拶を交わし、中でもひときわ目立つのが紅一点の梅田裕子である。上品な水色のブラウスにギャザーの寄ったスカートが鮮やかだった。開始時間の六時になったので、杉村は立ち上がり、一同を見回しながら挨拶をした。
「本日は、長沼さんのための会ですが、実は我々は大先輩から激励を受けようというのが狙いです。長沼さんは何といっても寵児です、凄い人です。さらに大作を書こうと志している方です――」
精一杯持ち上げて、短めに挨拶を終えた。次にワインで乾杯となり、有泉に要請した。
「長沼さんの映えある前途を祝して乾杯!」
カンパイ、カンパイ……とはずんだ声と共に六個のグラスが合わさり、軽やかな音を立てた。
「うまいなあ、さすがにシャトーマルゴーだね」
誰かが感に堪えない口調で言うと、皆は口をそろえて、うまい、うまい、と賛同した。この高価な酒はもっとも稼ぎ手の多岐の奢りである。それからふか鰭スープに舌鼓を打つ。料理は牛レバーの即漬けから始まり、スペアリブのローストスパイス風味、雲丹クレソ、海老のニンニク炒めなどが胃袋に収まっていく。どれも選び抜かれた食材である。粛々と食べかつ飲んで、十分、二十分と過ぎていく。
「あんたらと飲むのは何年ぶりだろう」
隣に座っていた長沼が杉村を除いて手で囲むようにした。
「懐かしいよねえ」
「あの頃は若かった」
「今でも若いよ。老け込むのは早い」
有泉達が口々に言う。
「この連中は優秀だ。豪の者たちだ。どこでだろうと抜きん出た仕事をするよ。新海書房は彼らの存在抜きにして考えられないね」
長沼は杉村をちらと見た。
「そうですか」
杉村は仕方なく返事をした。
「ぼくは新海書房の創立時代の頃を思い出すな。またこの三人で仕事をしたいよ。な、そうだろう」
「杉村さん一人を除け者にしたような発言はダメよ」と裕子が諫めた。
「いや、そういうわけじゃないんだ」長沼が笑いながら否定した。「彼は当時はいなかったからさ」
「退嬰的な懐古趣味に過ぎないな」
杉村は薄笑いを浮かべて一人ごちた。多岐が口を挟んだ。
「杉村くんのために擁護しますが、彼はノンフィクション作家として将来有望ですよ」
「そうか、知らなかった。あんた、そっちの方面の才能があったんだな」
「彼の書いたものを読んだけど、ユニークで面白いですよ」と有泉。
「私もファンになったくらいです」裕子までが味方した。
長沼は信じられないという顔つきをしている。それから雪崩を打ったように矛先が主賓に向けられた。みんな、そろそろ酔ってきた。
「まだ何もしていないのは、長沼さんだけだよ」
「かつての才人はどうしたんですか」
「早く成果を見せてください」
「時間が過ぎていくばかりだ」
「もうすぐ五十歳でしょうよ」
長沼は笑みを浮かべて鷹揚に頷いた。揚げナスの胡麻あんかけが運ばれてきた。酒はウイスキー、日本酒、焼酎とそれぞれお好みで飲んだ。鳥レバーのムースもテーブルに並んだ。
「声援、嬉しいね。俺もきみらに負けないでがんばるよ」と長沼が明らかに無理をして言う。
「そうでなきゃ嘘だ」
「それには、二十一世紀を真っ正面から見据える必要があります」
杉村が意見を述べると、長沼は苦笑を浮かべた。
「きみも、そんなことを言うようになったのか」
「親切心よ」と裕子が優しい声。
「タイムラグになっちゃおしまいだからさ」
「節制してもっと本を読まなきゃいかんよな」
「とにかく、いい本を出そうよ」
皆はますます酔い、舌の回転も速くなった。
「そう急かせるなよ」長沼は話題をそらした。「時に裕子くん、子供が一人いるそうだけど、うまくいっているのかね」
「幸せよ。夫は真面目で深酒や女遊びとは無縁だもの」
「今の時代に、そんなにできた男がいるのかね」
「紹介していただいた杉村さんに感謝しているわ」
「きみはアフロデーテとでも言うのか」
「長沼さんの前夫人も幸せそうよ」
「それは守山さんの功績です」多岐がニヤッとした。
「え、きみがどうかしてやったのかい」
長沼が守山を見つめた。
「ぼくの知っているある紳士を杉村さんに話したら、信子さんに引き合わせてあげたらどうかと、強く勧められたんだ。そんな経緯があってね。でも信子さんは再婚してよかったと話していますから、ご安心ください。これも杉村さんのおかげです」
「どうも、要所、要所に杉村くんが登場するようだな」
「多少でも人の役に立てばいいと思っているだけです」
杉村は満面に笑みを浮かべた。
「みんな、いい人生を送っているんだなあ」
長沼の表情は苦々しげに見えた。
「順調です、言うことなしです」
「問題は長沼さんです。我々は期待しています」
「どうか、大型花火をドカンと炸裂させてください」
皆の発言はあたかもが車が暴走しているかのような勢いがあった。長沼は段々とウンザリいう顔つきになってきた。だが他の者はご機嫌になり、いっそう盛り上がった。杉村に至っては目論見が成功しつつあるので、気分をよくした。そして長沼が時々浮かべる暗い表情を見逃さなかった。
二時間はまたたく間に過ぎ、デザートの抹茶の羊羹が出た。裕子の好物らしく、大喜びしている。最後に三本締めしてお開きになった。皆に挨拶をして店を出るとき、長沼に声をかけられた。
「おい、一緒に帰ろう」
杉村はオーケーした。長沼の心の奥を見てみたかった。主導的に歩く長沼の進むままについていくと、
「きみの企画が当たったな」
「どうにか、まとまりました」
「だけど、問題だな」長沼の声に険悪な響きがこもっていた。「あの会はひでえや」
「いや、特に感じませんね」
「あれは、イジメも同然じゃないか」
「あなたを激励する会ですよ」
「何が激励だ」
「ホントです。仲間は、長沼さんを心配しています」
「俺は白けたぞ」
長沼は理屈を言い出し、グチャグチャと切りがない。それを耳を傾ける振りして聞き流した。
「コーヒーを飲んでいかないか」
「時間が遅くなりますよ」
「かまわん」
妙にねっちこい誘い方で、心に秘めたものを感じさせた。通りがかりの喫茶店に立ち寄って、適当な席に座った。背後で学生風二人が新聞を広げながら話し込んでいる。飲物を待っている間、会話が聞こえてきた。
「デトロイト市がひどいことになっているね。街が丸ごと廃墟になっているんだ」
「ああ、前から聞いてるな」
「自動車産業の聖地と言われていたところだけどな」
「らしいな」
「東京だって、いずれはああなるな。というよりも日本そのものがね。経済的に破綻するってことは、国のお金が無くなることを意味するんだ」
「そうなったら、どうなるんだ」
「どんどんと傾いていって、戦後の一九二十年代のレベルまで落ちこんでいくんだって」
「解決策はないのか。資本主義社会打倒ってのはどうかね」
「それもいいなあ。フフフ」
「で、いつ頃、駄目になるんだ」
「三十年先かもしれないし、一週間先かも知れん」
「恐ろしく貧乏になるようだな」
「でも、江戸時代まではいかないと学者は話しているぜ」
「江戸時代までいったら極貧だもんな」
そんな風になるのかと、考え事をしていたら長沼が尋ねた。
「ノンフィクションのほうは、毎日書いているのかい」
「もちろんです」
「よく書けるなあ、俺は書けねえ」
「長編小説はどうなったのですか」
「あれは早々と投げ出した。俺、ハッキリ言ってテーマがないんだ」
「ハハハ。それじゃ、どうしようもないですね」
「内的な衝動が起こらないもんな」
「多岐さんみたいに創造に向いていないのかな」
「ここで、多岐の名前を出すことはないだろう」
「気にしないでください」
「大きなお世話だ」
長沼は気分を害してムッとしている。二十分ほどして外に出た。長沼はどこということなく歩いていく。肌寒くなり、気持ちも冷えてきて、早く帰りたくなった。小さな公園の前に来ると、「ちょっと」と長沼が中に入っていく。
「ジャンケンして、担ぎっこをやろう」
挑戦的な口調で言った。疲れる遊びだが、酔っていた杉村は承諾した。
「いいですよ」
「負けたほうが五メートル担いで走るんだぞ」
「分かっています」杉村も向きになった。
「よし、ジャンケンポン」
杉村はパー、長沼はグーを出した。長沼は杉村の右腕を手にとって肩に乗せ、勢いよく走り出した。中肉中背の四十男の肩は居心地が悪かった。長沼はもっと大変だろう。走り終えると「よいしょ」と地面に下ろした。そしてまた、
「もう一回」と握り拳をつくった。
「ジャンケンポン。勝った!」と杉村がガッツポーズ。「でも、無理しないでください」
「これしきのこと、何でもない」
「四十肩には、しんどいだろうな」
杉村は担がれたまま意地悪げな笑い声を立てた。
「いや大したことはない」
長沼は息を切らしたように苦しげである。走るというよりもヨタヨタして今にも倒れそうである。三度目も彼は負けた。
「長沼さん、そろそろ白旗じゃないの」
「いや、俺はやる」
「止めたほうがいいですよ」
「いや、大丈夫だ」
心なしか泣きそうな声になり、顔が青覚め、表情が歪んでいる。敗者の悲しみの顔つきである。担ぎあげたものの、一メートルほどいったところで体が沈んで半腰になった。するといきなり杉村を草の上に投げ出した。顔の片方が地面に当たり、背中をしたたか打った。
「ううッ」
思わず呻き声をあげた。体の下に植わった竜の髭がひんやりした。一時動けずにいた杉村は、息を整えると、すくッと立ち上がった。
「この野郎、何をしやがる」
両手で襟首ををつかんで思いっきり引っ張った。長沼はつんのめりながら、何とか体制を立て直した。
「皆で寄ってたかって、俺を馬鹿にしやがって」長沼は憎悪を剥き出しにした。
「ただじゃすまないからな」
「意識的にやったわけじゃない」
「皆の気持ちは一致していたぞ」
それだけ言うと長沼は背中を向けて立ち去った。その後ろ姿を見ながら、まあ、いいだろう――杉村は納得した。だが駅に向かいながら背中がズキズキ痛んだ。
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