メトロノーム

メトロノーム

こんな気持ち無くなってしまえばいい。
心ごと全部、誰かに持っていってもらいたい。

泣いても泣いても、多分叫んでも、
もう彼は私の元には戻ってはこない。

きっかけは些細だけど多分彼にとっては重大なことだった。
彼が大事に録画していたハードディスクドライブを初期化して
録っていた番組をすべて消してしまったのだ。

「お前自分がなにしたかわかってんの?」

殴られるかと思うくらいっていうのは大袈裟だけど、
それくらい彼は怒鳴り散らした。
私の容姿なんか今回の件に関係ないのに、
だらしなく太ったこの体まで責められた。

無理もない。
彼の大好きなアイドルの出ていた音楽番組も、
彼女達がちょい役で出ていた新春のドラマスペシャルも、
この回だけは特別なんだととっておいたアニメも、、
シュールな笑いが売りのお笑い芸人の漫才も、
すべて消してしまったのだから。

なにか起こったら終わりだろうな。
そんな空気が2人の間に流れ始めて、
それでも一緒に過ごしたくて、
なんとか毎日持ちこたえていた。
そんな2人に今回の事は別れるには十分すぎる出来事だったと思う。

部屋が暗くなってきたけど電気を点ける元気がない。
夜の気配を帯び始めたこの部屋で、多分私はこれから泣く。
ベッドの上の大きな2つの紙袋に目をやる。
これごと捨ててきたらよかった。
ぼんやりそんなことを思う。
涙はまだ決壊しない。
正直実感があまりなくて涙が出てこない。
2年も付き合ったのに。
たかがハードディスクが原因で別れるなんて、
ほんと、馬鹿みたいだ。

彼にとって私はその程度の女だったってことだ。
鼻の奥がつんとして体がじわじわ涙を流す体勢に入る。
そう。泣きたいのだ。私は。
だけどなぜか涙は出てこない。

さえない髪型でも、優柔不断でも、
アイドルおたくでも、
ちょっとお腹が出ていても、
それでも私は彼が大好きだったのに。
ヘビースモーカーなところも、
すぐその煙草をポイ捨てしてしまうところも、
酒癖がちょっと悪いところも、
気にしないふりをしてやっていこうと努力していたのに。
なんでこんなことになってしまうんだろう。

電気を点けないと時計の針も見えないほど部屋が暗くなっている。
今何時なんだろう。
もう少しすれば真っ暗になって目を開けているのか
つぶっているのかわからない状態になる。
その状態で一人私は悲しく泣くのだ。
大丈夫。
25歳だからまだまだやり直しはきく。
ていうか今年で30に手が届く彼の方がやばいよね。
心にすっと影が差す。
人は自分にとって納得のできないことが起こると、
なんとかそれを納得できるように自分の中で噛み砕こうと頑張る。
それでも無理な時、
今の私みたいに誰か他の人や物事のせいにする。

私は正しいとは思ってはいないけど、
彼もおかしいのではないか。

・・・ほらね。
私の影が動き出す。
あんな中年太り一歩手前の30前の男なんて、
アイドルが大好きでバイクも好きで。
そのことに馬鹿みたいにお金をつぎ込む男なんて、
もうこの先誰も相手にしてくれないと思う。

たかだか録っていた番組を消しただけで別れるなんて、
そんなケツの小さな男に私は興味はない。
大の巨人ファンで、
でもサッカーの日本代表も大好きで、
真剣に何かに打ち込んでいる人は応援したくなるよね。
そんなことを言う彼なんて、
小さな子どもに目がなくて、
道ですれ違うと目じりが下がったりするような、
お年寄りにも優しくて、
動物も大好きな、
そんな男なんて、
大キライだ。

手にはいつのまにかスマートフォンが握られていた。
画面がぼうっと光って私の顔を照らす。
彼の番号を履歴から選び出す。
このままで別れていいわけがない。
だって心にこんなにも彼が残っている。
なんで消したんだと言われて、
言い訳するのもめんどうくさくて
ただごめんごめんと謝っただけで、
私はなにもしていないじゃないか。

彼を失いたくない。
大きな腕にこれから何回でも抱かれたいし包んでもあげたい。
彼の胸に鼻を押し当てて、体臭の少し混じったあの柔軟剤の匂いをかぎたい。
目じりを下げて子どもを見守る彼の横で、
私たちもいつか持てるようになりたいねと
笑いながら言ってあげたい。

無理だろうか。
まだ間に合うのだろうか。

わからないけれど、
行動してみなければ結果はなにもでない。
故意に初期化してしまったのではないことも、
電気も点けずに暗い部屋で一人、
こんなに彼のことを想っていることも、
全部、彼は知らないではないか。
画面を押す指が少し震えている。
ああ、そうだ。
彼に初めて電話をするときも、こんな風に指が震えたっけ。
長い呼び出し音が鳴って、
その間ずっとドキドキしていて、
出たと思ったら留守電で。
ベッドにスマホを投げ出した途端に電話が鳴って。
ドキドキしながら・・・どんなことを話したっけ。
あの時どんな風に2人は始まったっけ。

涙が頬をつたっていく。
あの時どんな会話のやり取りをしたっけ。
どんな風に恋を始めたっけ。
もう思い出さなくてもいいことだから、
思い出せないのだろうか。
忘れなくてはならないと神様が言っているから、
思い出せないのだろうか。
ふいに彼からの着信音が部屋に鳴り響く。
液晶に移った彼の名前を見ると涙は堰を切ったように溢れ出す。
軽く咳払いをして、私は静かに画面の通話ボタンを押す。
止まっていた2人の時間が、また、動き出すようにと願いながら。



メトロノーム

メトロノーム

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-06

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND