晴れて再訪

 隣のマンションの管理人が挨拶に来た。ニコニコ笑いながら目つきはいやらしく光っていた。彼はグリーンハイムの平岡です、よろしくと頭を下げた。
「フローラ境川の新村です」
 形通りのやりとりをした。昨年の暮、前任者が急死し、その後釜である。会話の流れで勤務時間について聞かれた。
「私は九時から五時までです」と新村政夫は答えた。
「えッ、そんなに。大変ですねえ。それは大変だ。ご苦労さまです」
 平岡は右手で敬礼した。敬うというよりも揶揄であり、侮蔑に近いものであった。新村はその《大変》という言葉に強く反感を覚えた。
「慣れっこになっているから、たいしたことないです。お金も稼げるし」
「ぼくは孫に小遣いをやる程度だから、わずかでいいんです」
「けっこうですね」
「定年後は遊びの時間だから」
 平岡のほうも十一階建てで七年古く、週四日で半日である。二人の間に収入の差があって、それを意識しているようだ。彼は笑顔を浮かべているものの、言葉裏にいやに向きになっていた。手当てのことを口にしたのは火に油をそそいだのかもしれない。急いで話題を変えた。
「平岡さんは、お住まいはどちらですか」
「小岩です。バスで通っているけど、近いですよ」
「えっ、小岩なんだ」
「ご存じなの」
「多少、知っている程度です」
 新村にとって小岩は上京して最初に住んだところだから、こだわりがあった。いずれは訪ねるつもりでいる。それだけに機先を制せられた気持ちになった。
 平岡が帰ってから、今度の人はあまり親しみが持てそうもないな、新年早々、幸先が悪いと思った。亡くなった人は元会社員で知性があり、腰の低い、飾らない性格である。いい関係を築いていただけに残念だった。
 半月ほどして帰りに平岡と一緒になり、誘われれるままに船堀駅近くの喫茶店に立ち寄った。そこは軽食もやっている。声をかけられたとき、ぼくの話は面白いよ――語尾を長引かせた。その口調は胡散臭い響きがあった。初対面のとき、デカをやっていたと打ち明けた。警察官ではなく、デカである。ほう……と返事をしたので、感心したように受け取られたのかもしれない。二人共チキンライスを食べて、コーヒーを飲んだ。主に平岡が細君との馴初め、家族構成、趣味のウクレレ、テレビに出た話などした。警察官をしていた父親の勧めで、同じ仕事をするようになった。十六年間勤め、さらにスーパーの警備員二十年というのが主な経歴である。
「カミさんとは、十年離れていて、まだ五十代なんだ」
「若いねえ」
「ぼくと違って、肌なんか、ピチピチしているよ」
「そうだろうね。私なんか……」半拍おいて言った。「妻に先立たれてね」
「なんだい、新村さんは独り者かね。それじゃ寂しいだろう」
「仕事で紛れるよ」
 前は何をしていたかと聞かれ、経歴を話すはめになった。私的なことを話すのが好きではない。過剰に言葉を費やすと、後で自己嫌悪に陥ってしまう。大学を出ると広告会社、官庁の地方局の臨時職員、精密機器メーカーなどいくつかを経て定年退職した。その間に一人娘を育て、マンションを買った。娘の学資、住宅ローン、妻の入院費にかかり、蓄えも少ない。退職金もわずかだから働かざるを得なかった。
 神経を使いたくないので手頃な職業を探した。品川区で面接したとき、午前中は清掃、午後から受付ですと説明を受けると、これはいいぞと心が躍った。ヒマな時間は本が読めると、根拠もなく想像した。物件は船堀にあり、家から近いということで採用された。何よりも現場に上司や同僚がいないのがいい。居住者は平均的な市民が大方で、中には変わり者もいるが、不快感はない。最初の管理人は何やら噂が立ち、嫌われて追い出された。担当の課長からそういうことがないようにと注意を受けた。
「よからぬことがあると、一挙に村社会に変貌しますからね」
「はあ」
 時には匿名の投書があったり、管理会社にクレームがいったりして脅えた。怖いと感じることがあった。
「大体、心得ている住民が揃っているけどね」新村はおおむね好意的に見ている。
「ぼくのところも同じようなものだ」
「低レベルはいやだけど」
「いまどき、そういうのはいないよ」
「知性のない、イケ図々しい、はったりじみた手合いは困る」
「それはそうだ」
 新村は平岡を遠回しに非難したつもりだった。一時間半ほどいても、《面白い話》など何もなくて退屈した。勘定は割勘を主張した。平岡は自分が誘ったから奢ると言ってきかなかった。それじゃ次は私が持つからと妥協した。主張の強い男だ、今後パワーバランスが取れないのではと懸念を抱いた。

 仕事はほとんどモノにし、知らないことはないけれど、負担に感じていることがあった。それは各階の歩廊を清掃する際の高圧洗浄器だ。水を強力噴射するので粉塵は除去できた。だがその後モップで拭いたり、水のかかったドア、埃りのついた窓や桟も雑巾がけしなければならない。これさえなければいいのにと常々思っている。
 三ヵ月ほど過ぎたある日、作業の後、風に当たり、汗を拭いていた。
「大変だねえ」
 不意にプッと吹き出した。平岡である。わざとらしくてムカッとした。平岡はこの「大変だね」を好んで使うようになった。その都度新村はこれくらいは平気だ、なんでもないとか決まり文句を口にした。しかし嫌味がこもっていて悪意さえ感じた。必要以上に連発するのは、給料の差ではないかと見ている。フルタイムと週四日とでは、月々の額は比べものにならない。彼の大変という言葉は神経の隅々まで響いた。一定の間隔で額に水滴を垂らし続けると拷問となり、狂い死にするという。平岡は絶妙なタイミングでリフレインした。卑劣なやり口だ、と憎悪するようになった。
 できるだけ気にしないようにした。ヒマなときは本を読んで過ごした。新村はその他にこれといった趣味はないが、都内を出歩くのが好きだった。かつて住んだり、勤めた土地が多い。再訪するところは何ヵ所もあり、何十年ぶりに見る風景はたとえようもない気分である。例外として、山谷や横浜の寿町を見物したこともある。あのナマなぶっきらぼうな感じは美しいとさえ思った。小岩はある理由で延び延びになっているが、いつか出かけるつもりでいる。ところが、さらに二の足を踏む自体が生じたわけだ。小岩は平岡が住んでいる。こんな一時代前の奴はかなわないと新村は不満だった。前の管理人は距離をわきまえ、深入りするようなことはなかった。平岡はズカズカと入り込んでくる。むかし風に男臭く、言わば男性至上主義者とも言うべき手合いだ。
 両方とも世帯数も五十数戸、住民も似たような階層である。今までライバル意識など考えたこともないが、平岡は妙に鬱陶しい。
 小岩でビルからの転落事故があり、歩道の男性とぶつかり、意識不明の重体だというニュースをテレビで報じていた。そのとき犠牲者が平岡だったら、どんなにいいかと思った。彼はそれほど気に入らなくなっていた。 
日曜日に娘夫婦が子供を連れて訪ねてきた。四歳の孫娘は大きくなった。極上の寿司を取り寄せて、ビールを飲みながら食べた。
「お父さん、ここは一人で広過ぎない?」娘の美奈が室内を見回した。
「広いと言えば広いな」
「猫を飼ったらどうですか」
 娘の亭主が子供に寿司を取ってやる。
「お父さんは犬猫が好きじゃないのよ」
「嫁さんでもらうか」
「そんな女性いるの」
「いるわけないよ」
 夫が大声で笑った。四LDKは広いというよりも侘しいといっていい。妻が亡くなってから家と勤め先を行き来するくらいで、交流も少なくなった。それでも電話で話す少数の友人を確保していて有益な情報を得ている。父は九十五歳まで生きたから、父のDNAを受け継いでいたら後三十一年間は持つ。へたするともっと長生きするかもしれない。だが、いつか病気をして一人で生きていけなくなり、絶望的になるだろう。そのときのことを考えるとゾッとする。パートナーがほしい。阿久津さんさえよければ、ここで一緒に過ごしてもいい。阿久津さんは妻が英会話教室で知り合った友人で、近くに住んでいる。アメリカ映画に出てくる清楚な美人女優に似ている。至近距離で見ると、とても奇麗な人だ。昨年の夏、食べ切れないからとメロンを持ってきた。その際、
「奥さんがいらしたとき、楽しかったですよ」
「妻も阿久津さんと知り合えて、よかったと喜んでいました」
「有り難うございます」
 顔をほころばせた。美人なのに結婚しないので謎に包まれている。どこかに恋人がいるのではと妻に聞いたことがある。セックスくらいはしたいだろうよ、とふざけたら妻はバカねと鼻白んだ。六十一歳になる阿久津さんは年齢に関係なく、色香を放っている。もっと話しかけて親密になろうか――
「お父さん、何を考えているの。頬がゆるんでいるけど」
「ぼんやりしてしまった。それより飲んでよ」と夫婦にビールをついでやった。
「お仕事、うまくいっているの」
「何とかね。ただ、隣の管理人と軋轢があるけどな」
「仲が悪いの」
「そいつ、口癖のように、大変だね、と言うんだ。その度に頭にくるよ」
「別にたいしことじゃないのに」
「それがしつこいんだ。意地悪としか思えない。給料がお父さんのほうが多いから、嫉妬しているんだ。品性の低い奴でね」
「ねぎらったふりをして、イヤガラセを言うのですね」と亭主。
「そう、そうなんだ」
「それは不愉快ですよね」
 一定の理解を得たので、それ以上は口をつぐんだ。身内に話したからといって解決するわけでもない。四歳の孫娘が外にいきたがるので、新村は自分も書斎に引っ込んだ。何年か前にいった練馬のことが浮かんだ。そこは西武池袋線の富士見台で、三年間住んだ。変わり者に見られていたけれど、家主と淡い交流があった。四十年ぶりだが、二階建ての木造アパートは無人で、階下は物置になっていた。木材がびっしり立てかけてあった。二階の端の部屋を見上げながら、洗濯ロープに自分の汚いパンツやランニングシャツが干してあるような気がした。大家の井村さんは建設会社の社長で、その道では格式のある家だった。井村家の住まいは別棟にあり、庭には年配の女が立っていた。その女性は後を継いだ息子の若奥さんである。全体的にたっぷり肉が付いているが、顔つきは面影を残していた。別のところで見たら、分からないだろう。むろん、名乗り出るようなことはしなかった。そのまま通り過ぎてから、再び引き返したらまだ立っていた。それを三度くり返した。アパートの周辺は変貌を遂げながら原型を留めていて舐めるように見入った。帰る道々、笑みがこぼれて困った。道行く人が見たらヘンに思うだろう。
 早く小岩にもいってみたい。上京して最初に住んだモニュメンタルな土地である。大家に嫌われ、追い出されてしまったから苦々しい思いがないではない。あれから年月を経ているから免責されていると考えていい。だが新たな難物が現れた。グリーンハイムの管理人が行く手をはばんでいる――
 いつの間にか眠ってしまい、その間に娘たちが部屋の襖を開けて、挨拶をして帰った。生返事をしながらまた眠りに落ちた。目を覚ましたのは午後四時で、中途半端な時間である。憂鬱この上もなく、なかなか起き上がれない。何を考えてもお先真っ暗だ。老年特有の症状なのか、モヤモヤした、へこんだ気分になった。しばらくして持ち直すと、あの頃の小岩が甦った。
 その商店街のバーは友達と飲みにいったことがあり、値段は手頃だった。ある日、一人で入ってみた。相手になったユリ恵は三十四、五歳。並んでボックスに座ると、ノースリーブの腕とくっついて、十九歳の新村はそれだけで性的な興奮を覚えた。ブヨッとした生々しい感触が今も残っている。
「この辺りに住んでいるの」とユリ恵に聞かれた。
「中野洋服店の二階。そこがアパートなんだ」
「恋人、いる?」
「いないよ」
「私と同じね。昼間、美容院に勤めているの。ここで働いているのは、ボーイフレンドがほしいからなの」
 ユリ恵の言い方は職業上の戦略ではなかった。新村は自分も女友達がほしいと話した。年が離れていてもいいかとユリ恵が顔を見つめた。そんなこと関係ないと見返した。
「それなら、私と付き合ってみる?」
「うん、いいよ」
「今夜、いくら使うつもり」
 ユリ恵はせっかちに新村の体をゆすぶった。沢山遣わせないようにという配慮である。大体の金額をいって胸に手を這わせたら、ここではエッチは駄目と拒んだ。二度目にいったとき、
「今度、あなたのお部屋にお邪魔してもいい?」
 ユリ恵が甘えたような声を出した。
「かまわないよ」
 彼はナフキンに住所の略図を書いて渡してやった。一週間後の日曜日、黄色の花を手にしてやってきた。あれはキバナコスモスかもしれない。大学が始まった頃である。階下と二階に五部屋あり、彼は二階の四畳半に住んでいた。そこで初めてユリ恵を抱いた。二時間ほどして帰るとき、送っていった。途中、江戸川の河原に降りて、丈の高い雑草の茂った所に座った。ユリ恵は恋人気取りで新村の肩に頭をもたげた。
「私、あんたと知り合えて、よかったわ。私のこと、どう思っている」
「好きだよ」
「それだけ。目が奇麗だとか、口もとが可愛いとか、何か言って」
 ユリ恵は若くなく、美しくもなく、全体的にくすんでいた。新村はそういう女に色気を感じた。
「そうだね、ルノアールの絵みたいな体つきが、いいね」
 ユリ恵はぼってりした体型で、肉食系の新村の食指をそそった。話していると小型の白い犬が駆けてきた。どこかで見たことがあると思った。
「レオ、レオ……」
 呼んでいる。声のほうを見ると、数メートル先に女が立っていた。住み込み店員の珠美だった。彼女は新村たちに気がついているが知らぬ振りをしていた。首輪から解き放たれたレオはすぐ目の前にきて尻尾をふった。
「あら、マルチーズね。私もこういう小型犬を飼ってみたいわ」
 新村は気が気でなかった。
「ねえ、あんた、犬は嫌いなの」
「犬よりもあの女がむかつく」
「知っているの」
「店員のバカだ」
 珠美は立ち止まったまま、こちらに近づいて来ようとしない。犬はウロウロしてから戻っていった。ずんぐりした珠美の後ろ姿を目で追いながら、責め苦に遭っているような気持ちになっていた。
「あの女は僻みの固まりみたいな性格だよ」
 新村は憎々しげな顔つきをした。年は二十歳くらいで住人から珠ちゃんと愛称で呼ばれていた。声をかけられると従順そうな笑みを浮かべた。それが世慣れない新村だとぶっすらした。
「人を見て、態度を帰る奴は好かん」
「変な感じの子なのね」
「育ちが悪いんだ。あんな女、どうでもいいから、また遊びに来て」ボロクソである。
「うん、気をつけてね」
握手して別れた。珠美に嫌われると住みづらくなるのは目に見えている。河原で見られて以来、挨拶しても完全無視した。彼女は他の間借り人から信頼を得ているので、新村など何程ほどでもないだろう。ユリ恵は毎日のように訪ねてきて、大抵その日に帰るのだが、泊まっていくこともあった。それは大家や他の住民からしたら許されないことだった。てきめんに回りから非難の目で見られた。
《お盛んだねえ》
《アパート中、評判になっているぜ》
《あのときの声が聞こえるよ》
 住民たちから嫌味を言われた。ある日、大家が来てお話がありますと部屋に上がり込んだ。正座して新村をを見据え、一家の主らしい威厳で対応した。
「最近のあなたの行動は風紀上、好ましくありません。ご存じのように拙宅には小学生の女の子が二人います。申しわけないですが、ここを出ていただきたい」
 女が出入りするようになって半月が経っている。このまま黙って引き下がるのも癪だった。
「急にひどいです」
「ほかの人達も全員が迷惑だと言っています」
 大家は筋の通った論を展開した。どう見ても新村には分がない。たしかに彼はこの集団から浮いている。それを知らないわけではない。小学生のとき、ふと大型トラックの荷台から一人だけ寄ってたかって降り落とされている光景を目撃し、恐れおののいた。それを訳もなく思い描いた。四十数年の年月が過ぎた。夫妻は健在だろうか。ユリ恵は結婚して孫でもいるに違いない。

 エントランスホルの受付に座っていたら、スマホが鳴った。耳に当てると、高校時代の友人だった。お互いの近況を話し合い、健康を気づかった。
「ところで、今の日本、どうなっているんだ」
 新村は気になっていることを持ち出した。友人は政治学者で私大の講師をしている。
「まあな、中国、韓国に対抗できる強い国にしなきゃ、という思いが高まりつつある。日本人は皆負けているという意識を持っているからな」
「俺、思うけど、遅れている国がギャアギャア言うのは人間も同じだな」
「だから、一方的に言わせないで、虚々実々の駆け引きをしながら、対等の関係を築きあげることが大事だ」
「対等になろうとしないのが、開発途上国だろう。隣のマンションの管理人ときたら、遅れているくせに支配的なんだ」
「きみは傍観者的で守勢に回るからだろう。そこに付け込まれるんじゃないのかな」
「当たっているかもしれない」
「抑制して、知的に構えていても何も始まらない」
「そうか、そうか」
 新村は電話の後も考えた。この際、もっと果敢に攻勢をかける必要がある。平岡は毎日判で押したようにフローラ境川の前を通っていく。その時刻にゴミを出していてよくかち合う。ゴミ出しは平岡が通り過ぎてからでも十分に間に合う。そうすれば顔を合わせないですむ。とにかく、「大変だねえ」と言わせないようにしなければ。これだけは絶対にご免だ。実行しだして二週間、顔は一度も合わせていない。こんな風に日時が過ぎていけば自然に遠のいていくだろう。
 ある朝、居住者から猫の死骸が転がっているという連絡があった。まだ仕事前でラジオを聞いていた。汚れたものは早く撤去しなければならない。現場に直行した。新大端通りに面したゴミの集積所に死骸があった。体中に何ヵ所も傷があり、血糊がついている。虐待された様子が伺える。スコップを持ってきた。嘔吐物があると植栽の土をかけてきて見えないようにして処理する。猫もその手だ。その途中、
「お早よう」
 と挨拶された。背後に平岡が立っていた。珍しく声を聞いたような気がした。訳を聞くのでできるだけ冷淡な口調で答えた。
「猫だ」
「血だらけじゃん。凄げえなあ。どうするんだい」
「そりゃ、どうかするさ」
「ご苦労なこった」
 その言い方がカンに触った。《大変》のたぐいである。次にこうだ。
「あんたはいい年をして、よくやるよ」
「お互い様だろう」
「俺は毎日、気楽だよ」
「年金を沢山もらっているから、そんなに働くことはないわけだ。私なんか、わずか二十六万円だからな」
 以前、平岡が年金十九万円という話をしていたが、それを忘れたことにした。新村も実際はそんなにもらっていない。はったりをかましてやっただけだ。
「冷蔵庫やテレビやパソコンを買い替えたりするから、金がかかる」
「それは俺も同じだ」
「だから、一日仕事は助かる」
「俺も悪くないと思うようになった」
「じゃあ、探したらどうだい。あんたはもっと働いたほうがいい。小まめに新聞のチラシを見てりゃ、条件のいい働き口が見つかる」
 平岡が他の所に移ってもらいたい一心だった。
「それがねえ、うちの住民から毎日出て欲しいという要望があるそうだ」「何々、それ、本当かい」
「ああ。どう思うかね」
「そう聞かれてもなあ」
 新村は面白くなさそうに返事をした。顔を見たくないが、一方で同じ苦労を味わわせてやってもいい――という思いもある。猫の死骸を所定の場所に運んでから、管理員室に戻った。一日中平岡が隣に構えているのはプレッシャーにならないか。何にしても彼が出ない日や午前中でいなくなると安堵感を覚えるほどだ。あの気の強そうな傲慢なツラは見たくない。唾棄すべき口癖は言うまでもない。その後も意識して顔を合わせないようにした。時々防犯ビデオで見かけた。ハンチングを被り、元デカだという無意識の誇示は幼稚で見るに忍びない。
 桜が散り、次はアキニレが葉を茂らせている。時節の木々を愛でているわけではない。それどころか嫌悪している。箒で掃くのが厄介だ。路上に三本立っていて、葉を大量にまき散らす。放っておけばいいのに管理会社が言ってくる。掃除をしていたら、グリーンハイムの理事長に話しかけられた。平岡の雇主だ。五十がらみの恰幅のいい男は仕事中に申しわけないと断った。
「あなたの所は歩廊の掃除が行き届いてて、評判なんです。見せていただいていいですか」
「それは有り難うございます。どうぞ、どうぞ」
 新村は快く返事をして、理事長のS氏をエレベーターまで案内した。数分して戻ってくると、
「噂通りです。よくあんなに奇麗になりますねえ」と感心した面持ち。
「使用されているのは何と言うんですか」
「高圧洗浄器です」
 S氏のところでも使ってはどうかと案が出ている。またセキリュティーのためにも管理人は毎日出勤するという規則にするのだそうだ。
「管理人さんの労働量としては、どうですか」
「まったく、問題はありません」
「メリットは相当ですな」
「はい。私が保証しますす」
「多分、採用するでしょう。有り難うございました」
 理事長は丁寧にお礼を口にした。平岡にやらせるとしたらこんな小気味のいい話はない。はっきりって、年配者には楽な仕事ではない。雑用が伴い、時間を取られる。平岡のやり方を傍から見ていると、ぞんざいで手抜きしている。これからはそうはいかない。ならば奴に何が何でもやってほしい――
 グリーンハイムでは急ピッチで計画を進めている。四日後には平岡自身が訪ねてきた。何やら入ったビニール袋を差し出した。用を頼むときは缶コーヒ-ーやジュースを持参した。糖分を控えているのでいつも断るのだが、強引に受け取らされた。
「そんなことしなくてもいいよ」
「これから、何かと世話になるからさ」
 午後から平岡の上司のフロントマンに実地に説明することになっている。気を使っているのか、優越者の態度が影をひそめ、しかも百二十円の飲物ではなく五百円の弁当だ。
「あれは難しいかい」
「いや勝手にやってくれるから、スイスイいくな。私はこの仕事に生き甲斐を感じているよ」と嘘をついた。
「経験者が言うんだから間違いないやね」
「居住者から褒められたり、感謝の言葉をもらったりするから、癒しになる」
「カミさんに話したら、喜んだよ」
 細君は一日働いてもっと稼いでほしいと言うらしい。それが本音というものだ。孫に小遣いをやるというのは嘘に決まっている。見栄っぱりの爺め。
「俺、ものにできるかな」
「あんたのように力のある人にできないわけはない」
 午前中で終わる平岡は帰っていく。午後一でフロントマンがやってきた。四十そこそこの吉田という人で、営業笑いを浮かべて挨拶をした。平岡がご迷惑をかけていますとも。
 さっそく台車を引っ張って九階に上がった。この階は大方共働きで、昼間は皆不在だから迷惑をかけない。新村は電源プラグをコンセントに差し込んでから、ノズルの先を床に近づけて、水を勢いよく撒いた。三メートルほど洗浄してからモップで拭いて、後の処理を説明していたら、そこへS理事長が現れた。
「やっていますな。吉田さん、これでいきましょうや」
「ええ、いいですね、最高じゃないですか」
「手摺もピカピカにしていますなあ」
「毎日、拭きますから。こうしないと上司が月に二度見に来てうるさく言いますから」
 月二度も来ることはないし、毎日拭いているわけでもない。汚れていなかったのは、拭いた直後だったからだ。
「管理組合から色々言われるのは、有難いです。そうでもないと怠けてしまいますからね」と新村はけなげな口調。
「吉田さん、うちでも遠慮なく言ってやってください。無駄に管理費を払っているんじゃないからね」
「はい、厳重に平岡に伝えます」
「管理人さん、一日、何フロア、やっているんですか」
「原則2フロアです。最初は練習のために3フロアでした。いい経験になりました」
 3フロアというのは嘘である。できないことはないが疲労困憊するのは目に見えている。命令されてもお断わりだ。
「うちなんか、汚れているから、始めは3フロアくらいは、こなしてもらったほうがいいね」
 新村はここぞとばかりに理事長を持ち上げた。
「その通りです。理事長さんはよく理解されていますね。事情を知らない人は一日2フロアで十分だと言いますが、甘いですよ。居住者が怒ります。せめて最初の半年間はできるだけやったほうがいいですよ」
「管理人さんの負担が大きくないですか」と吉田は憂慮している。
「いえいえ、これくらいは平気です。フルタイムですから、むしろ時間を持て余します」
「こちらの管理人さんみたいに、ベテランになってもらうには、そうしたほうがいいね」
 何も知らない理事長の言葉は胸がすく思いがした。1フロアだけでも一時間以上は要する。不慣れだともっとかかる。もし平岡が3フロアやるとしたら、四時間はかかる。他の仕事もあるから不可能だ。新村は今は一日1フロアしかやっていないが、それだけでも面倒でならない。規約を改正するように再三要望している。彼の所属する会社はメンテナンスが本来の業務だからできないはずはない。上層部も考えていて懸案事項になっている。しかし平岡の場合、試練を乗り越えていったほうがいい。新村は何としてでも3フロアをやらせたかった。
「平岡さんは、さかんにこの仕事を希望していました。俺だったら、4フロアでも軽くこなすと豪語しているほどです」
「ほう、頼もしいね。私も彼を買っています。吉田さんはどうなの」
「結構です。私どもは万事理事会ペースで進めさせてもらっていますから」「うちもやっと新兵器を取り入れるようになったね」
 理事長はご満悦である。
 梅雨時になると、異常気象で真夏のような暑い日が続いた。
 グリーンハイムではすでに高圧を導入していた。
 一日3フロアは見モノだなと新村は腹の底で喜悦が湧いてきた。時には陣中見舞いにいって冷たいコーヒーを差し入れた。慣れない平岡はシャツもズボンもびしょ濡れになり、顔中に汗をしたたらせていた。
「細かいことがいっぱいだあるな」平岡は不機嫌そうである。
「おい、顔が怒っているぞ」
「だって、胸がドキドキするんだ。前から心臓が悪いんだから」
「それは困ったねえ。気をつけたほうがいいよ」
 毎日、天候が狂ったように暑い。この気候だと年配者には要注意である。都内でも相当数の熱中症患者が搬送されている。
 平岡はこのクソ暑いときに3フロアは厳しいとこぼした。勤務時間をオーバーすることがあり、土曜日なんかはサービス残業するといいう。
「始めたばかりだから、仕方ないよ」
「体はヘトヘトだ」
「理事会や居住者に認めてもらうには、できるだけ沢山やったほうがいいよ」
「お陰で寿命を縮めている」
 それはそうだろう、物理的に無理だから。新村はこのところ洗浄器を中止している。健康を害するようなことはしたくない。しかし、他所様のことは口に出すわけにはいかないから黙っていた。
「水分は取ったほうがいいぞ」
「俺は病院で薬を処方してもらっているけど、十種類以上はある」
「凄いね。でも少々無理してでも、言われた通りのことはしたほうがいいね」と新村は親切ごかしである。
 八月に入るとますます暑さはひどくなり、汗っかきの新村は何度も肌着を取り替えた。居住者と接触するので汗臭いのは禁物である。午前中は早めに掃除をすませて一時間半ほど浮かせている。彼は要領も心得ていた。担当の課長は今では新村を認めていて小言を言うことはなくなった。たまに顔を出すと、零細企業は金がなくてままならなくてね、コストを押さえることばかり考えているよとこぼした。
 その課長がひょっこりと立ち寄り、方針の変更を伝えた。高圧洗浄器の仕事は今後何人かのチームを編成して、一週間に一度巡回することになったと言うのだ。
「私はしなくてもいいのですか」と新村の声は上ずった。
「そういうことです。その代り、他の所に力を入れてやってください」
「助かります。正直言って、あの仕事は苛酷でした」
「新村さんの主張を社長に強く進言しましたよ」
 課長は恩を売った。最大の難関を乗り越えたも同然である。これで体力を温存できて気苦労も少なくなる。何よりもこの件を平岡に知ってもらいたかった。いきなり言うのではなく、時を見計らって伝えてやるつもりである。早くその時の反応が見たかった。新村の顔にニヤリ、ニヤリと笑みがこぼれた。
 二、三日して平岡から電話がかかってきた。
「あのさ、教えてほしいことがあるんだ」
 先日、理事から歩廊があちこと汚れているとクレームがあった。いくらやっても水溜まりができるでけど、どうしたらいいかと言う。そこで水圧が強いからつい適当にやりがちだが、そうではない。水をムラなく均等に撒くことが大事だと話してやった。
「コツがあるんだ」
「そのコツだけど、どうすればいいわけ」
「口ではうまく言えない。こればかりは経験を積んで会得するしかないな」「何度やってもダメなんだ」
「何度でもやるんだな」
「ちくしょう」
 気の短い平岡は腹立たしげに呟いて電話を切った。奴は苦労しているな。この間見たら、小太りだった体が細身になり、顔もやつれた。白髪も増えた。気の毒だが仕方がない。新村も初期の頃は歩廊の汚れを指摘されたことがあり、自己流を矯正し、何とか克服した。だが平岡にコツを教えてやる気にはならない。勝手にすればいい。
 八月の中頃になると、作業員が三名来て、各フロアを清掃するようになった。ただちに古い道具は撤収された。こんなものをは見たくもないし、現場にないほうがいい――解放感を覚え、せいせいした。こうなるとゴミ出しの日を気にすることはなく、むしろ平岡と顔を合わせることが楽しみになった。まさか、
「大変だねえ」
 などと言わないだろう。自分をあれほど苦しめた言葉を思い出すのも苦痛だった。これからは平岡が苦行に耐える番である。さぞ自分で辛い思いをするはずだ。

 巡回班が来るようになって二週間後の帰り、平岡をタワーホール船堀の展望台に誘った。
「東京中が一望できて、山の稜線まで見えるんだ。リフレッシュできる」「いいよ。あんたと話したいことがあるから」
 マンションから駅のほうに向かいながら話した。
「どうだい、体の調子は」
「食欲がない」
「私はどういうわけか、腹が減って仕方がない」
「ふーん」と平岡が不興気な顔つき。
「ところで、そっちは高圧は別の人がやっているのかい」
 先に言われた。
「そうだよ。巡回班がやることになったんだ」
「俺は一人で毎日3フロアだぞ」
 平岡は憮然とした。とりあえず、積年の汚れを落とすことが先決だから止む得ないだろう。新村は自分は最初は2フロアで出発したが、二週間後には1フロアに減らした。今はしなくてもいいことになったと経過を説明した。
「大分前から1フロアなのかい」
「あれ、そう言わなかったかい」
「聞いてないぞ。回数はあんたの経験を参考にしてやってるんだ」
「いや私は関係ない。あんたのほうの理事会で決めることだから」
「余計なことを言うからだよ」
「私のせいにするのかね」
「なんで、一日3フロアもしなきゃいけないんだ!」
 平岡は気色ばんだ。タワーホールについて、エレベーター前に他の客もいるので会話は押さえた。中に入り、上昇している間、新村は手強そうな平岡を恐れた。元警察官の彼は喧嘩のやり方を心得ている。どこを突けば相手の力をそぐか教わったこともある。口が達者なだけでなく、腕力にも長けている。この際、感情を荒だてないほうがいい。エレベーターが止まって屋上に出た。回廊式になっていて、どちらからも景色が見られた。荒川に沿って、首都高中央環状線が貫いていた。見事な直線だった。
「半年もやれば、理事長も考えてくれるよ」
 新村は冷淡に言った。
「やってられるか」
「まあまあ……」
 新村の場合、2週間で研修を終えたけれど、あんたはできだけ長くやったほうがいいよと腹の中で言った。晴れていて、空気がピリッとしていた。展望台から見る風景は素晴らしかった。
「都会で山を見るなんて珍しいよ」
「山なんかどうでもいい」
「こうして見ていると、世俗的なことを忘れるな」
 新村は子供の頃から高い所に登って下界を見るのが好きだった。上京して最初に友達を誘っていったところは東京タワーだった。一巡してからベンチに座ると、新村はホットコーヒーを買ってきて、平岡にも勧めた。が、彼はちょっと口をつけてから、傍らにおいて飲もうともしなかった。
「ああ、いい香りがする」
 新村はしみじみした口調。実際、悪魔的にうまかった。会話は途切れがちなので、切り上げることにした。新村は近くに住んでいながらタワーには一度も来たことがないので十分に満足した。

 今年の夏は猛暑から急激に冷え込み、変な陽気だった。例年よりも仕事が少ないので夏バテしなかった。本が猛烈に読みたくなった。彼は受付に座って熱中した。目下挑戦しているのは永井荷風で、読んでいるのは『ひかげの花』。何故この小説に関心を持ったかと言うと、ヒロインが当時の西船堀の生まれだからである。そのくだりを目にしたときは、
「おッ!」
 と声を立てた。フローラ境川からそんなに遠くない。現在もその区域に西船堀公園という名称が残っている。ヒロインのお千代はその界隈が郷里である。洋装させたら似合いそうなモダンな顔立ち、三十六歳の女盛りで、肉付きのしまった小作りの体つきをしている。都会に憧れて、家を飛び出したのだが、現代の船堀を見たらどう思うか。急行が走り、都心にも副都心にも短時間でいかれる。かつての村も都会の一隅である。
「わたしくしが懐かしいと思うのは見たことのない男親よりも、船堀のおばあんです」という会話が出てきた。
「オッ、また船堀が出てきたぞ」
 さらに最後のほうに、
「わたくしの一番幸福な思出は水の流れているところです」
 回顧している。その一つが江戸川区の中川である。小説は一九三四年の発表で娼婦の世界を描いている。自分が幸福になるには身近に不幸な人を見出すことだいう反市民的な価値観が述べられている。現代人のはしくれの新村は娼婦などに関心はないが、船堀が出てくるので特別な愛着があった。
 お千代から阿久津さんに彼の思念が移った。若くはないけれど、熟年のたるんだ体も受け入れたい。美しい体形よりもリアリズムに性欲を感じるほうだった。抱いてみたいと切に思った。そのうちいつか念願がかなうかもしれない。

 エレベーターに乗り合わせた隣のマンションの顔見知りの女性が友達の家を訪ねてきたとかで、
「この頃、うちの管理人さんったら、怠けてお掃除をしないのよ」非難がましい目付きをした。
「要領を覚えて、ずるくなったのかな」
「そういう噂が立っています」
「そりゃいけません。管理会社に電話して改善してもらうことです」
「何人かがかけているみたいです」
「それがいいですよ」
 そんな評判になっているのは意外だった。それから二、三日してから平岡が植栽を囲んだコンクリートの縁に座りこんでいた。怠けているのではなく、苦しそうに頭を抱えている。どうかしたのかと声をかけた。
「頭がズキズキするんだ。こんな症状は初めてだ」
 不安そうだった。顔は蒼白である。
「119番に電話をしてやろうか」
「薬を飲めば直ると思うよ」
「無理するな。かけてやるよ」
 平岡は管理員室に休みにいった。数分してサイレンの音が聞こえた。新村が救急隊員に彼のいる部屋を手で指し示した。少し間をおいて、中からストレッチャーに横たわった病人が運ばれてきた。救急車に押し込まれるのを見届けてから新村は自分の所に戻った。
 翌日、代理の管理人が来た。病状を聞いたら脳内出血だった。緊急手術をしたらしく、それ以外のことは不明である。恐らく後遺症が残り、仕事はできないだろう。
 しばらくして代理人が正式の管理人に決まった。今度も平岡の前の人のタイプに似ていて、知的な紳士である。高圧は再発を防ぐために一日1フロアのみと聞いた。未経験者によいことである。従来のようなやり方をすることはないだろう。
 その日、仕事を終えて、バス停に待っていた。そこへ理事長のS氏が別のバスから降りて、通りかかった。
「やあ、どうも」とS氏は威勢がいい。
「平岡さんも可哀相なことをしましたね」
「彼は身勝手なところがあるからねえ」
「仕事のし過ぎですか」
「平岡に3フロアもしなくていいと言ったんですが、聞かないですよ」
「責任感が強い人ですからね」
「私は過重な負担をかけたつもりはないです」
「そうでしょう。理事長さんの人柄からいって、考えられません」
「あなたをライバル視していましたね。はっきり言って、ええ格好しいです」
「虚勢を張りますよね」
「けど、裏目に出ました。背負い切れなかったんですよ」
 S理事長は苦笑いを浮かべた。新村も笑みを浮かべた。そこへバスがきた。
 後から聞いた話によると、平岡はふて腐れて住民に挨拶をもしなくなった。これは致命的である。住民から認められなくなったらおしまいでる。新村はもっとも恐れていることだ。幸いにも平岡の体は快方に向かっている。手術に成功し、今では自宅でリハビリに励んでいる。足が不自由で杖を突いているが、命に別条はないという。憎たらしいほど屈強な体をしている。
 新村は居住者に今まで以上に愛想よく接し、また好かない人を拒んだりしないようにした。何よりも敵がいなくなったので、イライラもせずにすんだ。
 晴れた日、バスで小岩にやってきた。十月の下旬というのに生暖かい日である。南口の駅前広場に立ち、放射状に延びた商店街を見ながら何故か照れ臭いような気持ちになった。四十数年前とたいしてい変わっていない。三つの通りのうちどこを通っていけばいいのか迷った。まず左側のサンロードから試みた。歩いていて間もなくここではないことが分かった。その次にフラワーガーデン。この通りも怪しい。結局、最後の昭和通りに薄々記憶が重なった。出入口を突き抜けると、商店街の看板が目に留まり、閃くものがあった。柴又街道を右に向かっていくと、中野洋服点の建物が見えた。立て替えられていて、端正な住まいになっている。店舗ではなくなっていて、表札には中野姓と他の姓とが並んでいた。娘が二人いたから、どちらかが結婚して親と一緒に住んでいるのだろう。立ち止まるわけにはもいかず、中野家を通り過ぎて裏通りに回り、道を隔てた反対側に立った。塀があり、台所が見えた。不審がられないようにまた表通りに出た。男が庭で車のボンネットフードを開けて覗いていた。中折れ帽を被った年配者は家主の中野である。視線が合ったが、四十数年前の店子ということは知る由もない。お互いに老いて面相も変わった。
 江戸川にいこうとして道を間違えた。ガソリンスタンドに立っていた女に聞いたら、反対側に来たようだ。戻っていったら川にぶつかった。土手から河原に降りるとグラウンドがあり、思ったよりも広い。風が吹いているが春のような気候である。ユリ恵と座ったのはこの辺りだろうと、悩ましくなった。妻を亡くして以来、女色とは無縁に過ごしている。誰かふさわしい女性はいないか。阿久津さんはウォーキングの途中、男と寄り添って歩いているのを見た。二人は独自の世界を共有していることが伺えた。諦めるしかないのか。
 帰りに小岩駅の周辺をぶらついたら、大きな古本屋があり、立ち寄って映画の本を五百円で買った。当時は映画館もあり、よく観に行った。店を出たら、ハンチングを被った老人が目の前を歩いている。杖を突いて、足がもつれている。グリーンハイムの元管理人である。一瞬ためらいながら声をかけた。
「なんだ、新村さんかい」平岡は振り返った。「俺はこのザマだ」
「元気そうじゃないか」
「手術の経過がよくてね、無理しなければ大丈夫そうだ」
「そりゃよかった」
「こうなったのも、理事長たちの馬鹿野郎共がこき使いやがったからだ。今も重労働をやっているのかい」
「いや、そんな殺人的なことはさせないさ」
「じゃあ、何フロアだ」
「1フロアだ」
「それだけか。クソーッ」
「今度の管理人さんは、性格の穏やかな、融和的な人柄だね」
「俺は悔しいよ。こんな体になって」
「でも、死ななくてよかった。感謝すべきだ」
「俺もそう思っている」
「大事にしてよ。じゃあまた」
 新村は声をはずませた。忘れかけていた人物との再会というオマケまでついて、小岩訪問の念願を果たした。駅前からバスに乗った。帰宅してソファに横たわると、たちまち睡魔に襲われた。

晴れて再訪

晴れて再訪

悪意を通して人間の愚かさを書きました。よろしくお願いします。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-09-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted