ご招待
〝冠〟の章・振袖
早く大人になりたかった。
法律上、未成年は結婚するのに親の許可が必要だって聞いた。成人しても、ジョーシキ的に考えれば親の許可が必要なのかも知んないけど、法律上は一応問題ないってことらしい。難しいことは分からない。そんなに私は、頭がよくない。
滝を思わせる淡いブルーの振袖は、レンタル品だ。雑誌で見て、その時点で軽く運命を感じて、念の為、店舗で実物を見せてもらい、即決した。それよりも前、成人式が近づいてきた秋の終わりごろ、母がいそいそと和室の天袋から引っ張り出してきた二つの振袖は、薄紅色を基調としたものと、白を基調としたものと、どちらも可憐な色合いだった。女の子らしさを前面に出したデザインがパッと見で気に入らなかったのと、それを着ることは何となく、両親にショーフクしてしまうことのように思えた。だからわざわざ、レンタルにしてやったんだ。それがよっぽど気に入らなかったらしい母は、レンタル代を出しません、とのたまった。上等だと思った。私は五回払いで、五万円のレンタル代を支払うことにした。少ないバイト代のうち、月一万取られるのは正直かなりきつかったけど、ここで折れる訳にはいかない。いかないんだ。
「お前、ホント頑固ってか、プライド高いよな」
呆れたように私の彼、冬二(とうじ)は言った。これからは夫婦として、財布を共にするからか、無駄なお金は使って欲しくないって考えているらしかった。
「どっちにしたって、あれは私には似合わないの」
押し切るように言い捨てると、私はバイトに出た。振り返った時の、冬二の不服そうな顔。それが、私が最後に見た冬二の顔。
「私、このピンクっぽい方にする」
母が着物を引っ張り出してきた時の話。
私の顔色を窺うかのようにしながら、遙香(はるか)が先手を打った。白の方が、辛うじて私に似合うと思ったのかも知れないし、自分が選んでしまえば私も残った方を着るとでも思ったのかも知れない。どちらにしても、それは間違いだ。結果的に、私はどちらも選ばず、レンタルすることを選んだ。
遙香は私の双子の妹だ。顔こそ同じパーツでできているけど、派手好きで喧嘩っ早い私とは対照的で、地味で平和主義の遙香は、昔から私にいらぬ気を遣っては、私を苛々させてきた。この時も私はぎろりと遙香を一瞥して、それから前を向いて言った。
「私、これ着ない。レンタルでいいの見つけてるんだ。それにする」
そう言った理由は、この子へのあてつけって部分もあったのかも知れない。私と母との間で一瞬にして走る、ぴりっとした空気。うざったくもそれを敏感に察知しておきながら、遙香は何もできない。おろおろと、私と母とに視線を何往復もさせるくせに、何も言葉を発さずにいた。そんなこの子が、私はやっぱり嫌いだった。
バイトへは、スクーターで通勤していた。スピードを少しだけ緩めて、なだらかな坂道を下りながら、私はわくわくしていた。誕生日がもうすぐ来る。あと四日で、私は二十歳。その日が来れば、私は冬二と結婚できる。親の許可なしに、結婚できる年齢、つまりは二十歳になるからだ。大人、大人、と節があるようでない歌が、頭の中だけで流れた。
振袖のことと、結婚のことで、親とはもう殆ど絶縁状態だ。今は、親も遙香も場所を知らない、冬二の部屋で私は暮らしている。冬二の親も、私たちの結婚には反対だ。だけど、私たちは知っている。私には冬二しかいないし、冬二には私しかいない。中学で出逢って、付き合って。こないだの夏で私たちは、付き合って六年目を迎えた。数字としては、私たちの人生の三分の一程度だし、他人から見たら簡単な数字に思えるのかも知んないけど、青春真っ只中の中高の時代を切り抜けて、六年間付き合うことは、実は物凄く難しいことなのだ。喧嘩だって何度したか分からないし、お互い浮気もした。だけど、きちんと元サヤに収まりながら、ここまで来た。二人で、たくさんの困難を乗り越えた。時期ショーソーだって友達も含めてみんなが言ったけど、高校を卒業した私たちは、すぐに結婚を意識するようになった。結婚しない理由がないと思い始めた頃、やっぱり冬二も同じ気持ちであってくれたらしく、今年の夏、プロポーズをしてくれた。照れたように、満足に言葉も添えずに指輪を渡してきた冬二を思い出すと、顔がにやけてしまう。
頭の中が冬二のあのはにかんだ顔でいっぱいになった時、私は鋭いブレーキ音を聞いた。ふと我に返った私は、風を切りながら宙を見上げる。はっと我に返ると、見慣れた交差点が見慣れないほど近くに迫っていて、すぐにただ事ではないことを察する。もはや信号も、歩道すらも私は通り過ぎている。信号無視、してしまったのか。馬鹿みたいなことをやらかしてしまったと思いながらも、すぐに音の行方を追って右を向くと、もうトラックそのものの顔が私の視界を占めていた。トラックの運転手の顔さえ、確認できないほど近くに。
間に合わない。そう思った記憶がある。
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嘘、でしょう?
全ての感覚が塞がれたようだった。気が狂いそうな激痛が全身を苛んでいる代わりに、他の感覚はまるで無かった。何も見えないし、瞼を閉じたり開けたりすることもできない。やり方が、分からなくなっていた。
私、モウスグ、シアワセニナレタノニ。
映像が流れた。想像する、と言う能力はまだ残っているらしく、頭の中にまた、冬二が浮かぶ。さっき思い浮かべたばかりのはにかんだ顔や、直前に見た不服そうな顔だけじゃなく、この六年間で見た、色んな表情。記憶のアルバムを次々と高速でめくっているかのように、いくつも。きりがないほど浮かんでは消える。それを見ながら、切に思う。命が途切れていく感覚にどうしようもないほど恐怖しながら、それでも脳はとめどなく、動く。
死ニタクナイ!
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気が付くと、私はあのレンタルの青い振袖を着て、鏡の前にいた。嗅ぎ慣れ過ぎている畳の匂いが、理屈より先に周囲の状況を理解させる。もはや強制的と言っていいほどに。ここは、実家。交差点でもなければ、冬二と住んでいる部屋でもなく、病院でもない。その証拠のように、泣きそうな母が背後にいる。それが鏡越しに見える。
「ごめんね、お母さん」
何が起こっているのか、理屈が追い付かないまま戸惑っていると、自分の身体であるはずなのに、口が、喉が勝手に動いた。
「亜紀(あき)ちゃん、どうしてもこの振袖が良かったみたいだから」
それを言うと、母はたまらなくなったように泣き出した。この声の出し方、鏡の前で作っている、この表情。その作り方。私は思い当たる。またしても理屈を超えたように。ああ、鏡の前にいるこの子は、私じゃない。妹の遙香だ。よく似た顔をしているけど、違う。鏡台の前から立ち上がった時には、私はすべてを理解していた。脳に強制的に書き込まれていくかのように、急激な速度で情報が流れ込んでいた。
死にたくないとそう、強く思った瞬間、声がしたと言う事実だけは覚えている。それがどんな声だったか、どんな口調で私に語りかけたかはまるで覚えていない。だけど、内容は完璧に頭に入っている。
私は死んだ。それは変えられない。だけど、最期に別の誰かに乗り移った状態で、成人式に出る権利だけは与えられた。声はそれだけを伝えていた。だけど、自分が立浪(たつなみ)亜紀だと言うことは誰にも言ってはいけない。言った瞬間、問答無用で権利は奪われる。
誰に乗り移るのか、と言う部分は触れていなかった気がするが、どうやらうってつけの相手に乗り移ることができたらしい。相手は、私とほぼ同じ顔をした、双子の妹。遙香として生きてきた身体の歴史が、私にのしかかってくる。無意識に出る癖や、表情の作り方は、遙香に寄ってしまう。私の意識と、遙香の身体が混在しているのは、ずいぶん据わりが悪かったけど、この機会は本当に有難かった。何故なら、最期にもう一度、冬二に会える。不意に二度と会えなくなるはずだったのに、空から降ってきたかのような不可解な幸運が理屈を超えて私をここに立たせる。人生、何があるか分からない。私が事故った日は、確か私の誕生日の四日前で、年を越してもいなかったのに、遙香がこれを着ていると言うことは、今日は成人式だ。時間が私の認識よりもかなりずれているけど、これは有難い。冬二は、同い年の同級生だから、このまま成人式に行けば、彼に会えるはずだ。
坂の上にある市民会館が迫ると、正午の陽射が中途半端に溶かした雪をかき分けて歩く、同級生たちの姿が目についた。知った顔も、知らない顔もいる。知らない顔の中にはもしかしたら、化粧に気合を入れ過ぎた知り合いがいるのかも知れないけど。それを見ると、ちょっと泣きそうになった。懐かしい気持ちと、それを感じられるのはこれが最後だと言う事実が、喉元にこみ上げてくる。それでも、涙が流れそうなのを必死にこらえた。メイクが崩れたひどい顔を、冬二に見せたくないし、どうせ泣いてしまうなら、冬二の前がいいと考えたからだ。どうせ死んでしまうなら、最終的に今の私が遙香ではなく、私、亜紀であると勘付かれても別にいいと考えていた。せっかくの成人式なのに、それでも控えめな遙香っぽいメイクがちょっと気に食わないけど、こんな機会を貰えていることを思えばさほど気にはならなかった。
私はタクシーを使った。母が渡してきたお金だった。死んで、遙香に乗り移ってしまった今となっては、そんな母の優しさも――たとえそれが遙香に向けられたものだとしても――素直に受け取ることができた。勘当されたのに、先ほどの涙で、きちんと私の死を悼んでくれていたことが分かってしまうと、この状況下で辛く当たることもできなかった。ましてや今、私は遙香な訳だから、この成人式の日にぎくしゃくする理由も無い。両親のことも、遙香のことも気に食わなかったとは言え、既にいなくなった私の勝手で、妙な態度を取る訳にはいかなかった。
◆
会場に着く。
うじゃうじゃと人がいる中で、私は冬二を見つけられないでいた。そのうち、遙香の友達に捕まってしまった。
「あれえ、振袖の色、ピンクって言ってなかったっけ?」
舌打ちしたい気持ちを抑え、先ほど、遙香が母に告げていた理由を教える。友達はしゅんとしてしまい、それ以上口を開くのを躊躇った。
「そっ、か。ごめんね」
聞かないで分かる訳も無いだろうに、友達は謝ってきた。遙香もずいぶん、健気な友達を持ったものだ。
「実は私、冬二さんを探してるの。亜紀ちゃんの、その、遺品を渡したくて。亜紀ちゃんの、彼だった人。見てない?」
彼女たちの健気な沈黙を利用して、私は早口に訊いた。冬二に最後、読んでもらう為に急ピッチで用意した手紙の内容は、ルールに抵触しそうだけど、成人式が終われば、どちらにしろ私は死ぬ。どうせなら、きちんと障害なく彼に思いを伝えたかった。
「あ……ごめん、顔、知らないや」
そう言えばそうだ。私は遙香にすらきちんと冬二を紹介したことが無い。遙香は中学校から別の学校に通っていたし。遙香と同じ学校の友達であろう彼女たちに、冬二の顔が分かる訳がない。
「あ、そうだよね。ごめん。亜紀ちゃんの友達にでも聞いてみる」
もうすぐ、式が始まってしまう。急いで私は、自分の友人を探した。
大勢の成人たちの中から、自分の友人を探し当てるのは結構、骨が折れた。何とか式が始まる前に、冬二を知る友人を見つけ、居場所を聞いた時は、雷が落ちた思いだった。
「冬二は、来ないって言ってたよ。――何で、かは知らないけど」
成人式は二人で行く約束をしていた。もしかしたら、それを思い出してしまうから、行かないことにしたのかも知れない。その可能性を、私はまるで考えていなかった。私が死んで、まだ一ヶ月程度だ。無理もないかも知れない。成人式に参加すると言う目的のもと、私はこの世に呼び戻された訳だけれど、冬二がこの場にいなかったら何も意味がない。私は慌てて会場を後にした。成人式を抜けたことで、ルール違反となり、天国に呼び戻されないよう切に祈りながら。
結果として、成人式を中抜けした私は天国に呼び戻されなかった。まどろっこしいことを考えている暇は、今、ない。
またタクシーを捕まえ、冬二のアパートの住所を告げる。
「お嬢さん、成人式、もう始まるんじゃないのかい?」
運転手が心配する声をよそに、私は焦っていた。いつ、この意識が途切れるか分かったものじゃない。それは、説明されていなかったはずだ。
「いいから急いで下さい」
忘れ物をしたとでも思ってくれたのか、運転手はそれ以上何も言わず、発進してくれた。がしゃがしゃと、溶けかけの雪を踏み均しながら、タクシーはアパートへ向かう。その道の悪さが歯がゆい。暖房が効いている車内と、右半身に照りつける陽射、そして急く気持ちが三点セットで私にいらぬ汗をかかす。それでも私は持っていた実用性のまるでない小さなバッグの取っ手をぎゅうと握りしめながら、到着を待つ。せっかく期限付きで生き返らせてもらっているようなものなのに、意識が途切れないかが心配過ぎて、人生でいちばん生きた心地がしなかった。タクシーなら、あの部屋まで二十分程度かかると解りきっているのが逆に辛かった。一分一秒が変に長い。意味があるかも分からないけど、意識を保つことに必死になりながら、私はその約二十分を待った。信号待ちに、やけにやきもきしたりしながら。
◆
あんなに気になっていたメイクなんてもうどうでも良かった。私はタクシーを降りると、全力疾走でアパートの階段を駆け上った。振袖に、草履で。雪が凍りついた階段は草履じゃなくても歩き難く、何度も何度も躓きながら、歯を食い縛って三階の部屋を目指す。このアパートにエレベーターは無い。冷え切った手すりをそれでもしっかりとつかみ、半ば身を委ねるように一段一段、上っていく。足許で揺れる振袖の端が雪でぬらぬらと濡れ、汚れていく。
帰り慣れた部屋のドア。部屋の前で膝に一度、手をついたけど、すぐに意を決す。冬二、と頭の中で名前を呼ぶ。お願い、出かけないでいて。インターホンを押しもせず、私はいきなりドアを開ける。殆ど金切り声で、冬二の名前を呼びながら。
開かれたドアの奥には、顔を真っ青にした冬二と、殆ど裸の女がいた。
青い振袖に見覚えがあったのだろう、冬二は死んだはずの私が来たと思ったらしく、腰を抜かした。許してくれと後ずさり、最後には失禁した。会ったらすぐに渡そうと思って、予めタクシーの中にいる時にバッグから取り出していた手紙が、思考が止まって脱力した私の指からこぼれ落ち、足下に広がっていた冬二の尿を吸ってしまった。そう言えば私は、六年間も一緒にいて、なおかつ結婚までするつもりだったと言うのに、私は遙香の存在をこの男に教えていなかったなと気付いた時、聞き覚えのある声がした。
『立浪亜紀さんの成人式は、ただ今をもちまして、完全に閉会されました。恐れ入りますが〝成人式へのショウタイ(招待)〟もこれにて終了です』
まるで、銀行のATMのような、機械的なトーンの声が途切れると共に、私の意識はあっさりと奪われていく。最後に目に映っていた、怯えきった情けない冬二の顔と言う現実を嫌悪するかのように、最期に浮かんだのは、滝の映像。滝の目の前には桟橋があって、そこから美しい滝の流れが間近で一望できる。
二人でデートに行って、冬二に初めて「好きだ」とキスをされた場所。当時の冬二の、声変わりしきらない、幼い声を思い出す。微笑ましく思う余裕はあったのに、もう頬を緩ませるような感覚は失われていた。最高に幸せだったあの瞬間。それは青い振袖を即決した時に、浮かんだ映像と全く一緒だった。
〝婚〟の章・Dejavu
鏡を見た時、一瞬、時が戻ったのかと思った。だけど、鏡に映る女の顔は、まるで見慣れないものだった。思わず頬に手を触れる。これが、私?
「お綺麗ですよ」
情けのようにも聞こえる、高いつくりものの女性の声。私も接客業をしていたことがあるから、そういう余所行きの声は分かる。鏡越しに、背後にいるらしい彼女を見ると、情けとは無縁と言わんばかりなほどに、無垢な微笑みをたたえていた。この人はたぶん、ウェディングプランナーさんだ。一度経験しているから分かる。
「ありがとう」
何もかもが終わった今、それがお世辞だろうが本音だろうが、もはや関係ないと思った。そう言って微笑み返すことが、今は何よりも正しい気がした。右から差し込む陽光が、右目に眩しい。どうやら今は夕方だ。夜の挙式なのだろうと他人事のように推測する。あからさまに不可解な状況なのに、声は妙に落ち着いていた。
「マヒロさん」
ウェディングプランナーさんの更に背後から、今度は低い女性の声がした。懐かしい響きだった。その声だけで、涙がこみ上げてくる気がした。たとえ呼ばれている名前が、私の名前じゃないとしても。
「お義母さん」
いつかを思い出すように、私は呼びかけた。私は、この人が好きだった。嫁姑という関係だったのにも関わらず、この人は私に本当に良くしてくれた。結納の席で、やっと私にも娘ができたのね、と言って涙ぐんでいた彼女を見て、良い嫁にならねばと思った。
だけど、ごめんなさい。私は今日、あなたを裏切る。あなたをきっと、深く傷つけてしまう。
「綺麗ね」
声が固かった。そのことが、少しだけ私を救う。
「ありがとうございます。この日を迎えられて、嬉しいです」
無神経に聞こえるように、わざとそう言った。鏡台の前に、座ったままで。
予想通り、お義母さんは一瞬だけ顔を顰め、そしてそれを無理やり押さえつけるかのように、柔和な顔つきに戻した。
「良かったわね」
事情を知る私だからこそ、これが皮肉だと分かる。最後まで、この人は私の味方だと思えて、心強い。
「息子を元気づけてくれて、本当にありがとうね」
続けて、お義母さんが言う。気持ちを切り替えるかのように。私は子どもを産めなかった。この人に孫の顔を見せることができなかった。お義母さんに再婚を望んで欲しくないと思う資格は、私にはない。喩えその原因が、直接私にないとしても。
ここで立ち上がり、私はお義母さんに向き直る。嘘をついたり、取り繕う覚悟はもうとっくにできていた。私も女の端くれ、このあたりの切り替えはさほど難しくない。
「千種(ちぐさ)さんのことは、本当に残念だと思います。私なんかが、代わりになれるとは思えませんけど、傷を負った芳樹(よしき)さんを支えていけたらと思います」
ここはこう言っておくしかないだろう。だけど、私がこれをこの女に言わせていることを思うと、気が狂いそうな思いだった。だって、この女は、私を。
◆
家に何度も無言電話がかかってくるようになったのは、夫の芳樹が会社内で異動してすぐのことだった。
「あなた、いつもかけてくる人でしょう? もういい加減にしてよ」
声を荒げるのは好きではない。だから、もう何度目になるか分からない無言電話に対し、それだけ言って私から切ろうとした。呆れたような声音をわざわざ演じて。だけど、受話器を耳から離そうとした時、微かに声がした。すすり泣くような、女の声だった。げんなりした。何だって言うのだ。本当に。
「泣きたいのはこっちよ」
泣かれる意味がまるで分からず、そう言い捨てて今度こそ電話を切った。
相手が、芳樹の浮気相手だと言う発想はこの時、まるで無かった。
「ごめん、ちい。俺、部屋の鍵を失くしちゃったみたいだ。探したんだけど、どうしても見つからなくて。悪いけど、スペア、作っといてくれない?」
その電話の翌日、芳樹が出勤前にそう告げてきた。私も芳樹も朝は強い。軽口を叩く余裕はあった。
「はぁ? もう、何やってんの。怖いでしょう?」
万が一、鍵が誰かの手に渡っていて、それを悪用でもされたら怖い。無言電話もかかって来ているし。それにしても、芳樹にも無言電話のことは伝えてあると言うのに、何だってこの人はこんなにも危機感がないのか。呆れてしまい、灸を据える気持ちで次の言葉を選んだ。
「物騒だから、鍵ごと変えるよ。交換料は、あなたの来月のお小遣いから引くからね」
私が言葉を続ける間にも、芳樹の眉間には強く皺が寄っていった。
「えぇー!? まじかよ」
私より若いとは言え、眉間に走った皺の深さはある程度の年齢を感じさせるし、声ももう若い人のそれではないのに、言い方は嫌になるほど子どもっぽかった。情けないけど、こちらも母親のような感覚になってしまい、ついぴしゃりと諭しつけるような言い方になった。
「まじです。嫌だったら、見つけてきなさい」
どちらにしても、今日には業者に電話すると思うので、きっと手遅れだが。不貞腐れながら、芳樹は部屋を出て行こうとした。弁当を忘れていたので、呼び止めて渡した。芳樹の好物である春巻きを入れておいたことを告げると、鍵のことはもはや忘れたような笑顔で受け取った。私も私で、ついさっきまであまりに子どもっぽい物言いに嫌になっていたと言うのに、こういうところが、嫌いになれないんだよな、と矛盾した自覚を覚えてしまう。結局、私は良くも悪くもこの人の幼さが好きなのだろうと、後ろめたく実感する。
ネットで調べたら、鍵屋さんに電話がつながるのは十時からみたいだった。お洗濯と軽いお掃除をして、十時過ぎてから電話をした。付け替え工事は三時からになった。それを鑑みて、今日のスケジュールを頭の中で立てる。そう言えばトイレットペーパーがあとワンロールしかなかったのと、柔軟剤がさっき洗濯をした時に切れた。昼間は買い物をして、二時半くらいに帰って来よう。鍵の交換が終わったら、夕食の買い物だ。トイレットペーパーと言う、軽くても嵩張る荷物がある時点で、夕食の食料品を同時に買うのは躊躇われた。近くのスーパーはこのマンションから見ると坂の下にあるので、行き来する回数が増えようとも、荷物は少ない方がいい。
昼に買い物するなら、お昼ご飯は思い切って外で済ませてしまおうかな。確か、スーパーの近くにあるビルのテナントにプロントが入ったはず。イタリアンチェーンのお店なのだが、こないだ新聞折り込みに広告チラシが入っていて、大きく見出しになっていた季節のパスタが美味しそうだった。ちょっと値は張りそうだけど、たまにはいいよね。鍵の交換で、芳樹の小遣いは減らすことにしたから、ちょっと罪悪感沸くけど、無くした芳樹が悪いんだし。私には関係ない。
こんな風に、スケジュールを立てる朝のこの時間が、私は好きだった。それに忠実に過ごすことも含めて。さっそく私は着替えと軽い化粧を済ませて、マンションを出た。パスタの味を想像していた私は、入り口から出てくる自分を覗き見る、穏やかじゃない視線に気付かなかったらしかった。
◆
スーパーに向かって、坂を下っている途中、鞄の中に財布がないことに気付いた。買い物に出ていると言うのに、ずいぶん間が抜けたものだ。一人で無駄に赤面しながら、今来た道を戻る。半分くらい下ってしまったので、マンションまでの上り坂が億劫だったけど、プロントで過ごす時間を少しでも長くしたいなと思って、少しだけ駆け足になった。
部屋のドアの前に来て、あ、と思う。鍵をかけると、ドアの隙間から鉄の塊がドアと壁の断面を横切っているのが僅かに見えるはずだ。それが見えなくて、焦る。財布も忘れて、なおかつ鍵も閉め忘れたのか私は。鍵をなくした芳樹のこともあまり言えたものではない。鍵を出すのを中断してそのままドアを開くと、部屋の奥に女性の後ろ姿が見えて、え、と思う。ドアが開かれた音に反応した彼女は、振り返ったと思うとみるみるうちに青い顔をした。
「誰」
声を荒げるのは好きじゃない。今思えば、金切り声でもあげて、お隣にでも気付いてもらえばよかったのに、と心底後悔する。振り返った女が、女の目の前にあるコルクボードに貼ってあったはずの写真を持っているのが分かった。近付いていくと、それは夫と湯布院に旅行に行った時の写真なのが見えた。
女に近付きながら思い出した。ああ、私は部屋を出た時、きちんと鍵をかけた。ちゃかっ、と鍵がかかった時の音が蘇る。この女が、鍵を開けたんだ。
「あなた誰? 勝手に家に入って、何してるの」
明らかに不審者なので、ある程度の距離は取っておく。聞くと、女は涙目になりながら、怒りがこみ上げたような表情を見せた。何、逆ギレ?
「あなたが、奥さん」
え、と聞き返した直後、女が動いた。テーブルの上にあった、芳樹が普段使っている灰皿をつかみ取ったかと思うと、あっと言う間に距離を詰められた。本能的に女の身体を制そうと手を前に出したが、女はそれを振り切って、灰皿で私の頭を殴った。陶磁器でできた灰皿は、簡単に凶器になり得た。刹那的な激痛を経て、私の意識は遠のいた。
「何を考えてんだ」
顰めたような男の声が混濁を破き、私の意識を呼び戻した。頭が痛くて、それが芳樹の声だと一瞬気付けず、誰、と咄嗟に思った。
「ごめんなさい。奥さんの顔見たら、もう、私……」
女の泣き声がした。その声が続いていた時には、だいぶ意識がはっきりしてきていて、それが昨日、無言電話の奥で聞こえていた声だと思い当たった。
「仕方ない。空き巣の仕業だってことにして」
割り込んだ芳樹の声の言わんとしていることが、初め理解できなかった。あまりにもそれは、明確なのに。
「お前はここにいなかった。いいか、俺たちの関係も、しばらくは絶対バレないように、これまで以上に気をつけなきゃいけない」
芳樹の声は冷静だった。諭して言い聞かすような、固い声。年上の私の前では、絶対に発したことのない声音だった。信じられない。私には、あんなにふわふわと、柔らかい声で話すのに。声の主に即座に気付けなかった理由が、頭の痛みばかりでなかったことにも思い至る。
俺たちの関係。バレないように。そして、無言電話の主であろう謎の女。考えるまでもない。
――浮気だ。
女は芳樹に恋をして、芳樹もそれに応えてしまった。女は暴走して、私の存在が疎ましくなってしまった。無言電話をかけ、更には芳樹から合い鍵を盗んだ。私が外出したのを見計らって、家に侵入した。安いメロドラマみたいだ。本当にそんな女が、この世に存在しただなんて。しかもそれに、よりによって芳樹が引っ掛かってしまうだなんて。
寝てる場合じゃないことにようやく気付く。あまりにも身体が重くて、そんな発想に至らなかった。こいつらは私を、空き巣に殺されたことにするつもりだ。許せない。
肘を立て、意を決して起き上がろうとする。しかし、女が息を飲む声がしたかと思うと、頭にまた先ほどより強い力で、衝撃が走った。女の悲鳴が上がったということは。私を殴ったのは。考えが及ぶ前に、思考が止まる。意識を途切れさせてはいけないと思ったのが、最後の記憶だった。
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「もうちょっと足した方がいいわね」
火をかけた鍋へお醤油を軽く垂らした私に、お義母さんがやんわり窘めるように言った。言われるがまま、もう一度醤油を傾けて、お義母さんの合図と共に弾かれたように注ぐのをやめる。煮え切った頃、二人で味見した筑前煮の味は、驚くほど良かった。満足そうなお義母さんの顔を見て、私は今までにない幸せを覚えていた。これから、私はお義母さんのような、いい奥さんを目指してくんだ。芳樹と二人で、こんな風にお義母さんに色んなことを教えてもらいながら、幸せな家庭を――
不意に、お義母さんの笑顔が途切れ、何も見えなくなる。思い出したように、激しい頭痛が私を襲う。正気じゃいられなかった。痛みばかりがそうさせるのではなく、芳樹が私を裏切ったことのショックで、私は泣いた。声をあげることもできなければ、そもそも涙を流す方法すら、既にこの身体にはもう、宿っていなかったけれど。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ウェディングドレスを纏ったこの女。それは紛れもなく、あの時、私を灰皿で殴った女だった。その女の身体に、私が宿っていること。鏡を見るたび不思議で仕方ないはずなのに、身体は全てその経緯を知っていた。
『結婚式に参加する』権利。それが私にはあって、しかも花嫁として参加できる。私はもう死んでいるのに、何故、そんなことができているのか、その理由や原理はまるで分からない。だけど最後、死ぬ前にそれを体験していいらしい。
だけど、鏡を見るたび思う。この結婚式は、私の結婚式ではない。新たに嫁ぐ女の身体を借りているだけだ。ただ、私の不幸を踏み台にした結婚を、罪深い二人の幸せを、花嫁の目線を借りて見させられるだけなのだ。それを思うと、何とも無駄な権利に思えてくる。私も一度、芳樹と式を挙げている。二度目の結婚式に、未練なんて生まれようもない。
しかし、この身体は私の思い通りに動く。掌を、握ったり開いたりしてわざわざ確かめてみるけど、やはり私の思い通りになる。ただ今まで宿してきた身体と違うと言うだけで、今の私は、この女なのだ。マヒロ。私を殺した、女の名前は、お義母さんがさっき、教えてくれた。私の命と、パートナー、そしてこの優しいお義母さんまでこの女は、奪っていこうとしている。
許せない。
この権利は、自分の正体を他言してしまうと、奪われてしまうらしい。知らされているルールは、それだけだ。それを守りさえすれば、私はこの身体を借りて、何をしてもいいってことだ。
これは、復讐の機会と考えていいのではないだろうか。ずいぶん早い段階から、私はそれに思い至っていた。
お義母さんに挨拶を終えたちょうどその時、ドアがノックされた。
「準備できた?」
その声に、身体が強張る。呼吸の仕方が、途端に分からなくなる。緊張とも恐怖ともつかない、感じたことのない複雑な感情が私を取り巻いた。自分にとどめをさした最愛の夫の声なのだから、仕方ないかも知れない。
「できてるわよ」
私の代わりにお義母さんが応えた。この時ばかりは、お義母さんが憎くなった。もう少し、心の準備をさせてほしかった。
ドアが開く。当然だけど、芳樹だった。だけど、姿を見てしまうと、さほど恐怖は覚えなかった。私の姿を見て、解けるような笑みを見せたからだ。
「すごい。きれいだ」
私は思わず、照れ笑ってしまった。自分に言われた訳じゃないのに。自分を殺したと言う事実が横たわっているにも関わらず、私はまだ、その笑顔に恋をしていた。癖のように自覚する。ああ、芳樹、大好きだ。後ろから殴られたことで、私を殺す時の表情を見ていないことも、きっと功を奏している。そして、思った。
――やっぱり、この人は殺せないや。
復讐を決意した段、復讐するにもどんな復讐をするか。私は考えを巡らせた。自殺する? いや、でももうあんな痛みは味わいたくない。どんな形であれ、撲殺されたあの時の苦しみには匹敵してしまうだろう。私を殺したことをこの場で自白する? この場を借りてするって言うのもなかなかドラマチックだし、いいかも。でも、そうしたら結婚式は否が応でも中断するよな。それと同時に、私の意識が途切れた後は、何もできない。芳樹がうまくごまかしてしまうかも知れない。そして、その次に思ったのが、この身体で芳樹を殺すことだった。そうすれば、マヒロは問答無用で刑務所に入るし(心神喪失を主張して、釈放とかになるかも知れないけど)、私は芳樹に復讐ができる上に、彼と一緒に死ぬことができる。もう、芳樹を誰にも奪われないで済む。お義母さんには、申し訳ないけど。
だけど、考えてしまう。私を殺して、それでもこの二人は結婚したんだ。それくらい、この二人の愛は強い。こんな結ばれ方を許していいのかと言う問題もあるし、いつか私のことがばれてしまえば、引き裂かれてしまう。どう誤魔化したのかは知らないけど、それに怯えて暮らす二人は果たして幸せなのか。でも、芳樹はそれを差し引いた上でこの女と結婚することを選んだのだ。その決心には、ちょっと勝てない気がする。
こんなひどい目に遭っているのに、芳樹が幸せそうにしているのを見ていると、分からなくなってしまった。惚れた方の負け、とはよく言ったものだけど、自分の愛がいかに命懸けだったかを思い知る。
結婚式が終わるころ、芳樹にだけ教えよう。自分の正体と、この気持ちを。別にこの権利に執着する必要もないのだから、折を見て、全部伝えよう。これもある意味、彼に対する復讐だ。
◆
一度経験している結婚式。プログラムは少し違うものの、さほど自分たちの時と変わらないので、真新しい気持ちにはならなかった。この結婚式に参加する権利に、いまいち価値を見出せなかったけど、最期に芳樹とキスができたり、新婚の時みたいに突っつき合ったり、あの幸せだった時の気持ちに酔えることは、素直に喜ばしかった。披露宴まで私は何も仕掛けることなく、この甘いデジャヴに酔った。
披露宴も終盤に差し掛かった。あとは、芳樹と私が各々マヒロの両親に挨拶をするだけだ。泣かなきゃいけないかもな、とか無駄なことを考え、少し緊張する。
芳樹が席を立った。建物の中なのに、隣がいなくなると少し寒い。これは、私の結婚式の時にも体感したことだった。もう少しで、この時間も終わってしまうのかと思うと、少し寂しい。どこの誰か、神様なのか知らないけど、この権利をくれたことに感謝したい。
「本日は皆様、お忙しい中、私ども二人の為にお集まりいただき、誠にありがとうございます」
二回目だからなのか、私との時より、スピーチがすらすらと言えている。若干、早口なのが気になるけど。
「宴もたけなわですが、皆様にどうしてもお伝えしなくてはならないことがあります」
何かサプライズでも用意しているのだろうか。この身体に宿ってから、何も聞かされていないので、ちょっと焦った。
「三年前、私の妻である千種がこの世を去りました。部屋が荒らされていたことから、空き巣による犯行だと考えられ、現在も捜査して頂いております」
ここで、私のことを話すの? こんなめでたい席で。暗い雰囲気になるから、やめた方がいいだろうに。こういう場合、一般的に私のことをどう扱うべきなのか、とかはよく知らないけど、タイミング的に今ではないような気がした。かと言って、他に話題に出すタイミングがあるのかと問われれば、わからないが。
それにしても、私が死んでから三年も経っているのか。私としてはついさっきのことのようだけど。まあ、私は死者だし、普通の感覚からは逸してしまっているんだろうな。
「しかし、真実は違います」
そうそう、空き巣なんかじゃないんだよ、と一瞬、本気で肯いていた。
私はここでようやく顔を上げて、芳樹の顔を見た。その横顔は、今まで見たことがないくらい真摯で、私が好きだった甘さが無かった。
「私はここに自白します。妻、千種を殺害したのは、本日の新婦・マヒロであること。そして、臆病な私は、それを知りながら今まで隠してきたことを」
ぴんと静まり返った刹那を経て、一気に会場がざわつき始める。視線が、私や芳樹を行ったり来たりしている。私自身は悪いことなんて何もしていないはずなのに、本能のような感覚で、自分の身が危うくなるような錯覚に陥る。思わず、嫌だ、やめてほしいと、切に願った。
「あの日、昼に彼女から連絡があり、事情を聞いた私は家に戻りました。そうしたら妻が倒れていて」
ざわめきが収まらない中、私の想いに反して芳樹は喋り続けた。続けていないと、気持ちが折れてしまう。そう信じ切っているかのようだった。
この人は最後の最後、私を裏切るまいと考えてくれたんだ、とゆるゆると実感がこみ上げてくる。場違いに、涙がこみ上げてきた。頬を湯のように熱を含んだ涙が伝う。
――だけど。
「どうすべきか考えていたら、妻はまだ生きていて、起き上がろうとしました。そんな妻を、彼女はもう一度殴って、とどめを刺しました」
涙が急激に引いていき、身体のどこかが凍りつくかのように冷えた。そのひと言で、気付いてしまう。気付きたくなんてないのに、思考は止まってくれない。あの時、死がそれを止めてくれたのに、今回はそうもいかなかった。
こんなにも生きた心地がしないのに。
最後に、私にとどめを刺したのは、芳樹だ。この目で見た訳じゃないけど、知っている。私は死の直前、マヒロが声をあげるのを聞いている。驚いたような声音は、私から少し距離が置いたところから聞こえた。あの時、彼女は殴っていない。でも、それを証明できるのは、私しかいない。もうこの世にいないとされている、私しか。空き巣の仕業と言うシナリオを提案したのも、そう言えば芳樹だった。どうして、それを忘れていたんだろう。覚えていれば、この人が愛なんかより、利己主義に動く人であることも気付けたかも知れなかったのに。
この人は、マヒロに殺人の罪をなすりつけようとしている。自分の罪が、殺人幇助(ほうじょ)の罪だけになるように。裏付けるように、芳樹の声が続いた。
「私は、事件が起こる前から、彼女と関係を持っていました。それを盾に彼女は僕を脅しました。妻を喪ったことでパニックになった私は、正常な判断ができずに……」
激しい頭の痛みに苛まれながら聞いた芳樹の冷静な声を、皮肉のように思い出してしまうと、私の方こそパニックになった。もう、聞きたくない。
気付けば私は、テーブルナイフを持ち出し、芳樹の腰にその刃を喰い込ませていた。さっきまで、柔らかいフィレ肉すら歯切れ悪くきこきことしか切れなかったくせに、ナイフはずいぶん簡単に、芳樹が着ているモーニングと、腰の肉を突き破った。純白のモーニングに、昏(くら)い緋が滲む。
芳樹が何故、このタイミングで自白をしたかは分からない。もしかしたら、何か二人の間でトラブルでもあったのかも知れない。共犯だった訳だし、お互いに脅すことができたのは確かだ。もしかしたら本当に、マヒロに脅されていたのかも知れない。だけど。この人が、私の命に対して、背を向けて逃げていこうとしている。私はそれを、許すわけにはいかない。
全身が知り尽くしている体温と匂いをゼロ距離で感じながら、私は歯を食い縛る。知らぬ間にまた流れていた、真逆の想いから由来する涙が、唇を伝い、唾液と混ざっていく。唇を甘く噛む。悔しかった。これでは、マヒロを庇うようなものではないか。私はせっかく権利を行使しているのに、復讐もできなければ、芳樹の幸せを見届けることもできなかった。
◆
『飯星(いいぼし)芳樹さんの結婚式は、ただ今をもちまして、完全に中断されました。恐れ入りますが〝結婚式へのショウタイ(招待)〟もこれにて終了です』
声がして、意識が途切れたのは、それからすぐのことだった。その場に倒れた芳樹が、助かったかどうかは分からない。私が死んだ経緯が、きちんと明るみになったのかどうかも、何も分からなかった。
「誰か! 救急車!」
最後に聞いたのは、悲痛なお義母さんの叫び声。息子と嫁を刺殺した女に憎しみをぶつける為に、警察を呼ぶのではなく、息子の命が助かる為の、救急車。その声に、その日いちばん強い既視感があった。記憶にないはずなのに、私は覚えている。
私の第一発見者は、きっとお義母さんだ。完璧な味の筑前煮あたりをタッパーに詰めたものを持って、部屋を訪ねたら私が死んでいた。多分その時、同じように、お義母さんは叫んでくれたんだと思う。救急車、と。
推測でしか、ないけど。
〝葬〟の章・見えなかった影が響く夜
大丈夫。誰も泣かない。傷つけることなんて、有り得ない。歯止めも何も無かったお陰で、俺は迷わず死ぬことができたんだから。
俺は鏡を見ない。見る必要性を感じない。今、自分が誰なのかなんて、興味がない。重要なのは、自分の葬式を文字通り、拝みに行けると言うことだけ。未練がある訳じゃないが、せっかく最後に与えられた権利なのだから、使ってやろうと思っただけだ。
まるで見覚えのない、古びた公団アパートを一歩出ると、冷たい空気が容赦なく身を縮ませる。寒い。余計なことばかり考えそうになる頭に、実感が分け入ってくる。冷えきった空気が、水のようにコートの繊維をかいくぐってくるのが分かる。このコートは、水を弾くような素材であるはずなのに。
バスに乗り、国道沿いにある最寄りのバス停で下車した。滑りやすいと注意のあるバス通りよりも遙かに滑りやすい坂道を、焦れるような気持ちで上っていく。会場は坂の頂上に在った。ここで合っているのか不安になるくらい、門の前は人気(ひとけ)が無かったが、大きな看板が主張のようにそこにある。ほんのり苦笑して、中に入っていった。
受付で名前を書く時に少し迷った。結局、適当に偽名を書き、内ポケットに入っていた香典を置いてさっさと中に入る。この度はご愁傷様です。と言うのも忘れなかった。その時、俺は一度も葬式に出席したことがないことを思い出す。また笑い出したい気持ちに駆られたが、それでは不自然どころか不謹慎に写るので、うっと堪えた。
弔問客は疎らだった。疎らな上に、知った顔は殆ど見当たらない。しかし、これは予想通りだった。バイト先のコンビニの店長と同僚が何人か来ていて、知り合いはそれくらいだった。俺の通夜なのに、たぶんここにいる連中の殆どは、ババアの知り合いだろう。
ババアは奥にいた。受付ではなく。その顔は泣き疲れているようにも見えなくもない。しかし、本当にそうなのか、それとも息子の葬儀という不意に訪れた大イベントに疲弊しているだけなのかは、判別できなかった。
祭壇の近くに寄ると、遺影に映った自分が、制服姿なのに気付いた。制服は中学の時のものではない。高校のものだ。つい、いいのかこれ、と思ってしまう。
俺は高校を中退している。高校では、アルバイト先で暴力事件を起こした馬鹿が過去にいたせいで、入学した年からアルバイトが禁止されてしまっていた。しかし、ババアの収入だけでは生活はままならなかったし、しかもババアはきちんと食費を俺に渡さなかったから、アルバイトは辞められそうにもなかった。ずっと学校には黙って、コンビニでアルバイトしていたが、あろうことか担任がコンビニに立ち寄ったことであっけなく露呈した。注意や停学を食らいながら、しかし、生きることを思えば辞められなかった。後日、担任や教頭とも何度かやり取りをし、転校を薦められたりなんかもしたが、結局、学校側は杓子定規に俺を退学処分とした。だから、十七歳で死んだ俺のもとに、担任教師やクラスメートといった参列者はいない。
なのに遺影だけは制服姿。またも笑い出しそうになった、その時だった。
後方で、人が慌てふためいたような空気の揺れを感じたので、振り返る。噂をすれば、と思う。遺影に映る俺と同じ制服を着た男子が入ってきたのが見えた。
高校生はあまり喪服なんて用意していないし、相場は制服で間違いないが、濃い緑色のブレザーは、どこか場違いな印象がある。
制服に目がいっていたせいで、それが誰か確認するのを忘れていたのに気づき、改めて顔を見た。
……あれ、こいつ誰だっけ。
顔を見て、知ってる、とは思うけれども、名前が出てこない。同じ制服を着ているのだから、同じ高校の誰かなのだとは思う。だけど、わざわざ葬式に顔を出すような人間が、高校にいただろうか。もはや自慢だけど、高校に友達と呼べる友達はいなかった。少なくとも、葬儀に来るだろうと思えるような奴は、一人も。
考えているうちに、そいつは俺の前に躍り出て、遺影の前に立った。それを見届けた俺は、興味がなくなって入り口の方に向かって移動した。
がしゃん、という音がしたのはそのすぐ後だった。
よく見てなかったので、そいつが何をしでかしたのかは分からなかった。そいつの身体が陰になって、パッと見もよく見えない。何事かと駆けつけたババアが、短い悲鳴を上げた。
それを契機に、そいつは振り向いて出て行こうとした。近くにいた俺がたじろぐぐらい、そいつは顔を歪ませていた。ちょっと! というババアのヒステリックな声に目もくれず、恐ろしい形相のまま俺を通り過ぎて、会場を後にした。
何あれ。ババアの取り巻きの中からそんな声を聞き、俺はのろのろと祭壇にもう一度、目を向けた。遺影が割れて、倒れているのが見えた。それを見て、何かを投げつけたんだろうなと、ぼんやり思った。俺は恨まれていたんだろうか。おもむろに遺影に近付くと、そいつが遺影に投げつけたであろうものが爪先に当たった。
これは。
それを見て、はっきりと思い当たる記憶があった。そうだ、あいつは……。
俺は投げつけられたそれを持ち出し、出てったそいつを追いかけた。
◆
「待てよ!」
中学の時のことだ。もの凄い形相で、そいつは俺の前を通り過ぎて行った。彼の走る先に目をやると、シルバーの、名前の分からない車が遠くに走っていくのが見えた。諦めたのか、そいつは俺の少し先で足を止め、今度は小さく掠れた声でもう一度、待てよ、と言った。見ると、そいつは俺が通う中学のクラスメートだった。クラスメート、と言ってもひと言も話したことはない。友達ではないし、名前もその時、パッとは出てこなかった。
「おい」
何となく、声をかけてしまった。ただ事ではない雰囲気があったし、首を突っ込まない方がいいようなニオイがぷんぷんしていたのに、俺はそいつに手を伸ばして、言葉を発してしまった。しかし、そいつは俺の声には振り向かず、その場で膝から崩れ落ち、地面を叩きながら大声で泣き出してしまった。空気がビリビリと揺れる感じがするくらい、腹の底から声を上げていた。
無関係であるとは言いにくいほど、俺はそいつに近付いてしまっていた。他人の目も気になったので、俺は何とかそいつを立たせ、近くの公園に連れて行った。
名前の思い出せないクラスメートは大声こそそこまで長い時間あげていなかったものの、しくしくと長いこと泣き続けていた。俺より身体が大きいのに、前屈みになったその姿勢は、中学生にすら見えないくらい、頼りなく映った。
日が傾き、空が夜に近付いた頃、ようやくそいつの涙は止まった。俺の存在にはずっと気付いていたとは思うけど、こちらを見なかった。というか、見ないようにしているのが読み取れた。気まずいんだろうな、と横顔を見ていると、すぐに読み取れた。
「何……だったんだ」
俺も気まずかったけど、このまま途方に暮れている訳にもいかないなと思って、勇気を出して聞いてみた。
「車なんて、走って追いかけても、追いつく訳、ないよな」
怒り出すかな、と思いながら、それでも訊いてみる。追いつかなければいけない事情があったから追いかけていたことくらい、俺にだって分かっていた。
「……うん」
がらがらに掠れていて、返事をしたんだなって言うのがぎりぎり分かるくらいの声が返ってくる。きちんとそっちを見ていなかったら、それが人間の声だって思えなかっただろうな、と余計に思ってみる。
「……あいつ、俺のおじさんなんだけど、兄ちゃんの通帳、持って逃げちゃったんだ。学校から帰ったら、あいつが俺らの部屋から出てきて、通帳持ってるのが見えたから、取り返そうとしたんだけど……」
ああ、こいつがそうか。それを聞いた俺は、まずそう思った。
『関口(せきぐち)ってさ、知ってる? あいつ、母ちゃんが借金苦で自殺して、今アニキと二人で住んでるらしいよ』
こっちは聞きたくもないのに、そいつはまるで自慢話のように、さして仲良くない俺にその話をした。そもそも、俺は関口が誰か知らなかった。まだ、中学生活が始まってすぐの頃で、四〇人近くいるクラスメートの顔と名前がまだ全然一致していない頃だったから、仕方がない。と言っても、もう五月には入っていたとは思うけど。
「で、車に乗られちゃって、まんまと逃げられちゃった訳か」
あっさりと俺がそう言うと、関口はまた泣き出しそうな顔をしたので、咄嗟に謝る。心から。ああ、ごめん。
「どうしよう、兄ちゃんになんて言えばいいんだよ……」
多分もう泣いてはいないみたいだけど、関口は両手に顔を伏せてしまった。外はもう薄暗い。こいつの兄がどんな仕事をしているかなんて、全く知らないけど、定時上がりだとしたら、もうそろそろ家に帰ってきてしまう時間かもな、とぼんやり思った。やっぱり、明らかに首を突っ込むべきじゃない話だった。何で声なんてかけてしまったんだろう。ああもう。本当に面倒臭い。
思ううちに横で関口が何か言ったので、自然と顔がそちらを向いた。多分、何でだよ、と言ったんだと思う。
「何で俺らばっかり。不公平だ」
涙はもう流れていないようだったけど、泣き顔のように関口は顔を歪ませていた。その顔を見ていると、何故か異様に腹が立った。言ったってしょうがないのには気付いていたけど、それでも言った。
「バッカじゃねえの」
驚いたように関口が顔を上げる。俺は目を反らしていたけど、ぎりぎりその顔は視界に入っている。
「公平なんて、この世の中には、無ぇよ」
どうしてだろう、ぐわっと身体が熱くなって、自分が怒っている気がしているのに、声はため息のように弱々しくなる。
「お前に、何が分かんだよ」
その弱々しさにつけ込むように、関口は声を挟む。だけど、関口は関口で、また泣きそうな声になっていた。
「お前の兄ちゃん、ちゃんと働いてんだろ? メシ食わしてくれてんだろ? それで十分じゃねえか。兄ちゃんがいるお前は、幸せだよ」
さっきからずっと、関口の顔を見ることもできない自分に腹が立っていた。俺はこいつなんかより、よっぽど弱い。その自覚があった。今はもう、俺の方が泣きそうだった。こいつには、信頼できる、自分を委ねることができる人間がいる。それが羨ましくて、妬ましかった。それこそ涙が出そうなくらいに。そんな奴が俺より不幸みたいな顔していることが、腹立たしくて仕方なかった。
しかし、そんなのがこいつに伝わるはずもない。関口の目はいよいよ険しくなり、俺の首元に手を伸ばしてきた。いつもの習慣のせいで、それに一瞬早く気付いてしまい、俺は素早く身を引いた。それでも関口の手は俺の制服を捕まえてしまったので、すぐに制服のボタンが飛んでしまった。関口が加減しなかったせいで、学ランどころか中のワイシャツのボタンまで飛んでしまった。後で縫わないとな。うちに糸と針なんてものはあっただろうか。そう思った瞬間、関口の力が急に和らいだ。予想外だったので関口の顔の方を向く。関口は驚いたように固まっていた。首筋に風を感じたことで、関口がどこに目を奪われているかは、すぐに思い当たった。
ババアに首を絞められたのは、その前の日だったと思う。酒に酔い潰れて寝ているババアの傍らに、財布が置いてあった。俺は腹が減っていた。当然のように手を伸ばす。これさえあれば、とりあえず今日は飯が食えるはずだ。
俺が飯を食えるかどうかは、ババアの気分で決まる。ここ数ヶ月、あの女には男ができて安定し、機嫌が良かったから、コンスタントに金を貰えて、飯が買えた。そのお陰で、俺は二キロ太った。しかし、それも長くは続かなかったようだ。つい一週間前、帰ってくるなり、泣きながら暴れ出し、あの馬面が、あんなもんこっちが願い下げだ畜生と悪態をついたことで、フラれたんだな、というのが分かった。それを見て、反射的に、まずい、とも思う。俺の悪い予感は嫌になるくらい的中する。ババアはやっぱり俺に当たり散らした。鬼のような形相で、お前のせいで、お前のせいでと繰り返していた。そこから推測すれば、何となくこうなった原因が分かる。多分、付き合っていた男は、それまでこの女にガキがいると知らなかったのだろう。何かの拍子に男がそれを知って嫌がられた。そんな筋書きだろう。これまでも、何度かあったパターンだ。俺が直接の原因なのだから、怒りの矛先は当然、俺になる。もう、飯はもとい、金など降りてくるはずがない。それどころか、俺の顔を見るたび、頭に血が昇ったように、殴り、蹴り、首を絞めてくる。腹が減って、力が出ないせいで、まるで抵抗ができず、ここ数日で俺は何度か死を身近に感じていた。
俺が財布に触れた瞬間、ババアの目が見開かれ、腕を掴まれた。畜生。思っている間に、気付いたらもうババアが俺に馬乗りになっていた。やばい、今度ばかりは殺されるかも知れない。ババアの手が、俺の首の根を圧迫する。息ができない。死ぬ。今度こそ、死ぬ。何度もこんな風に首を絞められ、どうして今まで助かってきたのか、曖昧になった。苦しい。死ぬ。視界がぼやけてきた時、喉にかかっていた負荷が急に解かれた。二度瞬きをしたら、ぼやけていた視界がくっきりと甦り、ババアが口に手を当てているのが見えた。指の隙間から、薄黄色の液体が漏れ、ぼた、ぼた、と顔にかかる。臭(くせ)ぇ。アルコールと、吐瀉物のあの何とも言えない匂いが雪崩れ込むように嗅覚を刺激し、俺も気持ち悪くなって嗚咽し、咳き込んだ。その前に首を絞められていたから、咳き込むのはどちらにしろ避けられない。ババアがトイレに走ったのをいいことに、俺はふらふらになりながらも、テーブルにあった財布を手に取り、玄関まで夢中で走った。すぐにババアが追いかけてきたのが分かったので、適当に札を抜き取って振り返り、姿を見せたババアに財布を思いきり投げつけ、スニーカーを踏むように履いて、部屋を後にした。
関口の目に映っているのは、ババアに首を絞められた痕だろう。今朝、鏡で見たら、首に指の痕が赤く走っていた。ババアの細い指の痕がくっきりと出ていて、それはまるで赤い両翼のようだった。学ランとワイシャツの襟のお陰でうまいこと隠せていたけど、関口がボタンを飛ばしてくれたお陰で、それが露わになったのだろう。その証のように、首元が寒い。飛んだ学ランのボタンが目に見える場所に転がっていたので、拾い上げる。プラスチックでできた留め具はパッと見、見当たらない。しょうがないので、一番下のボタンを上に付けて留めた。
「これやったのな、俺の実の母親。父親はいないし、お前みたいに兄弟とか、親戚もいない。分かるだろ。お前と比べても、俺のがよっぽど不公平だ」
関口の顔がまた泣きそうに歪み、俯いた。涙が落ちたのが見えた。
「その調子。俺を哀れんで、自分のがましだと思え。不公平だとか甘いこと言ってねえで、兄ちゃんと一緒に、しっかり生きろこの野郎」
うう、と声が漏れた。関口が何故、泣いているのか。哀れんでいるのか、それとも不意な不幸比べで負けて悔しいのか。どっちでもいい。もう、興味がない。
ベンチに置いておいた、コンビニの袋を探る。袋に入っているのは、あの時巻き上げた金で買った、今日の晩飯だった。中に、缶のココアが入っているのを思い出していた。関口が長いこと泣いていたせいで、すっかりぬるい。
「ほら」
泣いて俯いている関口に差し出す。手を出さない関口の胸に無理やり押し付ける。ああ、これがまだちゃんと熱くて、且つコーヒーとかだったら、何かサマになってたのにな。ぬるいココアって。かっこわる。と無駄なことを思う。
「それ飲んで、帰れよ」
たぶん、それ以来関口とは話していない。俺ももう興味が無かったし、向こうから話しかけて来ることも無かった。
◆
関口が投げつけた缶のココアは、まだ暖かかった。素手で持てるくらいには冷めていたけど、たぶんまだホットとして飲める。走って出てったし、雪道だから追いつけるか不安だったが、関口は雪道をとぼとぼ、しかも滑らないように気にしながら歩いていて、拍子抜けした。
「おい」
あの時と同じように、声をかけた。あの時とは違い、関口はすぐに振り返った。しかし、俺の持ったココアを見ると、逃げそうになったので、瞬時に腕を取る。怒られると思ったのだろう、あんなことをしでかしたくせに、その顔は後ろめたさで泣きそうだった。
「来い」
坂を下りたバス通りに、デパートがあった。あそこの地下には、フードコートがあるはず。ちょっと騒がしいかも知れないが、他に場所も思いつかなかった。
「何であんなことしたんだ」
説教を垂れるつもりはなかったが、どうしてもこう言う訊き方になってしまう。しょぼくれた関口は口を引き結んでいる。うまいこと尋問する方法なんて心得てないから、弱ってしまう。でも、こんなに強い感情をぶつけられなきゃならない理由くらいは、せっかくだから聞いておきたかった。
「また、世の中は不公平だって思うようなことでもあったのか?」
つい、口をついて出てしまった。関口のことなんて他に情報がないから、言葉に困って言ってしまった。だんまりを決め込んでいた関口は、結局はこのひと言を機に、口を開いてくれたけど、これは少々面倒臭くなりそうだ。
「え!? 何で、それは」
混乱しているらしく、どう訊いたらいいのか分からなくなったみたいだった。その隙に、言い訳を考えた。
「ああ……その、なんだ。あいつから、聞いたことあんだよ。投げたのが、これだったし、もしかしてと思ったけど、やっぱそうだったのか」
カフェオレがあるテーブルの隅に置いたココアの缶は、それだけで随分よそよそしそうだった。それを指した。
「違いますよ! 別に、不公平って思ったからって訳じゃないです」
そう言われることがよほど不服なのか、関口は強く否定した。
「じゃあ何だよ。自殺するようなあいつに、何の恨みがあるんだよ」
自殺した人は可哀想みたいな思想が、自分の中にあることに嫌気がさす。理由を問う為と割り切れる程、俺もまだ大人になりきれていない。
「……その、不公平って話、南出(みなみで)君はどこまで話してましたか? あの時、南出君、家族がお母さんしかいなくて、そのお母さんにも虐待されてるって。自分よりはマシだから頑張れみたいに言ってたんですけど」
「ああ、覚えてる……じゃない、ぜんぶ聞いてるよ」
何とも面倒な煩わしい手順だと思った。別の人間に憑依するって言う妙なシステムが憎たらしい。
「僕、その時、死にたいくらい辛かったんですけど、南出君がそう言ってくれたお陰で、ずいぶん助かったんです。あの後、何とか生活は立ち直って、今も何とかやれてますし。でも、南出君にああ言われてなかったら、僕、弾みで自殺したり、どっか逃げたりしてたかも知れません」
確かに、貯金を奪われたのは痛手だっただろうが、結局はそれだけで、働き手がいて、二人暮らしなのであれば、やっていけないことは無かっただろう。女手一つな上に、典型的なネグレクト家庭にいた俺だって、何とか高校に一旦入れるくらいの余裕はあったのだ。あのババアのもとで、高校に入れたのは、完全にババアの世間体と見栄によるものではあったが。また、その証拠に、関口は普通に学校に通い、経済的に困窮している様子はさほど表立っては見えなかった。噂にはなっていたけど。
「あれ以降も、辛いこととか、死にたいこととかいっぱいありましたけど、南出君のことを思い出して、頑張れました。なのに」
ぶすっと下を向いたまま、関口は鋭い視線をテーブルに刺す。罪のないテーブルに注がれた視線は、関口が長く瞬きをしたことで、やるせなさそうに消えていった。
「自殺、しちゃうなんて」
言うと関口は、天を仰ぐように上を向き、閉じたままの目を覆ってしまった。
「……南出君に、何があったかは知りませんけど、僕は生きててほしかった」
生きててほしかった。そんなことを言われるなんて、思いもよらなかった。嬉しいと思う余裕はなく、すっかり忘れ去っていた目の前のカフェオレに逃げる。
カフェオレはすっかり冷めていた。返す言葉が無くて、口を付けると、予想外の冷たさに思わずカップを置いてしまう。火傷を予見して、液体の入っていない上の部分を持ったのが馬鹿みたいだった。
「……どうして、死んじゃったんでしょう」
目を抑えたままの、関口の指の隙間が、きらきらと光り始めた。涙が、溢れてきているみたいだった。誰も、泣かないと思っていたのに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
未明、俺は誰もいない部屋の中で、包丁を持ち出した。身体がひどく重い。わけも無く振り返った先には、汚れた床。ひと吹きすれば、ふるふると揺れそうな白い液体が、依然、生々しく床に残っている。
俺も今年で十七になり、酒と男に狂ってきたババアも、簡単には男の寄りつかない年齢になってきた。俺としては、こんな不安定な女を、相手にしてきた男が途切れなかったのがずっと不思議だったが。少なくとも一人一人と長く続かなかった理由は、それで間違いないと思う。
きっかけはババアの一声だった。
「おい」
最初、聞き間違いだと思った。あのババアが、俺をきちんと認識して、声をかけてくることなんて、それまで考えられなかったから。
「おら、雄吾(ゆうご)」
名前を呼ばれて、ようやく俺は振り返った。でも、雄吾と呼ばれるのも、実際全く耳に馴染まない。南出という苗字はさほどメジャーでない為に、バイト先はおろか、学校でもファーストネームで呼ばれることは皆無だった。そして、名前を覚えていたことにも、皮肉だが少し驚いている。
「こっち」
雑に手招きし、俺を呼び寄せる。悪い予感はしていた。だからと言って暴れられても困るので、とりあえず従った。しかし、やっぱりこの女の言うことは従って正解ということはない。手が届く範囲まで近寄ったと思ったら、乱暴に手を取られ、体ごと引き寄せられた。
「お前、もう女知ってんのか」
ため息が漏れる。最近、帰りが早いなとは思った。仕事終わりでさっさと家に帰ってきて、酒を飲むから、邪魔臭くてしょうがなかった。男、いないんだなと思って、笑ってやりたい気持ちになっていると、やっぱり殴られる。かわしたり、かわせなかったりする。最近はそのパターンが多かった。しかし、老けてきたせいか、最近は暴力を振るう力が弱くなったし、俺もある程度は抑えられるようになったので、首に赤い翼が浮いたり、あちこち痣が出来たりすることは無くなった。とは言え、ババアと顔を合わす時間がこれ以上長くなるのなら、そろそろ家を出ようと考え、金を貯め始めていたところだった。
だけど、どうしていつも、こんなにも早く末期になるのかこの女は。こっちはそれを避ける為に今、金を貯めている最中だって言うのに。それとも、それに目敏く勘付いたのだろうか。考えているうちに、ババアの手が、みだりに触っちゃいけない場所に伸びていったので、無理やり手を振り解いて離れた。
「どうせ母親とも思ってないんだろ。教えてやんよ」
年老いた女特有の、渇いた手の感触。気味が悪い。触れられた場所に、未だそれが貼り付いているかのような違和感があった。
「ババアが。老け込んで男に相手にされなくなっただけだろ。哀れだな」
「てめえ、誰に口聞いてんだっ」
ああもう。こうなるとこの女は止まらない。母親とも思っていないと自分から悟っておきながら、こうである。身体が殴られる、若しくは首を絞められる準備を始めていた。しかし、今日はもう違う。途中から、どんな風に抵抗すればいいのか分からなかった。押し倒され、近くにあったタオルを口に詰められたと思ったら、着ていたシャツを頭のところまで引き上げられる。もがいている間に、別の布か何かで手首を縛られた。どうやら上半身は低いテーブルの下にずらされ、身動きが取れない。がん、がんと頭をテーブルの裏や足に打つ。そこから後はもう、最悪なことばかりが起きた。シャツが視界を遮ったことで、何が起きていたかは、正確には分からなかった。
舌を使い、何とかタオルを口内から追い出しながら、手首を少しずつ動かして手枷を解く。先に手枷が解け、シャツを下ろし、タオルを取り出す。テーブルの下から這うようにして抜け出したその時、携帯カメラのレンズと目が合った。カシャカシャカシャカシャカシャ。そうとしか形容できないシャッター音が流れるように鳴る。連続撮影機能が作動した携帯電話をもぎ取ろうとする俺の動きに合わせて、ババアは逃げた。押し倒される段から感じていたが、やることに無駄がなさすぎる。この女は余所でもこんなことをやってきたのかも知れない。慌てて立ち上がると、今度はずり下ろされた下着が足枷となり、バランスを崩す。ババアは笑いながら、またシャッターを切る。
その後すぐ、ババアは部屋から出て行った。体勢を整えたのは、扉が閉まる音がして、そこから更にしばらく時間が経ってからだった。もう、追いかけたところで姿は見えないだろう。
無人の部屋で、俺は考えた。あの画像をネタにあのババアは、俺に何をさせるつもりなのだろう。夜の相手だけで済めばいい。恐らく、それだけではないはずだ。それ以上の思考は身体が拒絶した。膝を抱き、周りにある全てのものに恐怖を覚える。例えば、さっきまで口に詰められていたばばくさい柄のハンドタオルや、ババアが見せつけるように置いていった道具たち。道具は特に初めて見るものばかりだったが、視界に入った瞬間、それがどう使われるものなのか、既に俺は、俺の身体は知っていた。
長い夜だった。あれから、死のうと思うまでにはさほど時間はかからなかったが、それでも長かった。ようやくのろのろと立ち上がると、立ち眩みがした。戸棚に手を付きながら、台所まで移動する。包丁を抜き出し、刃先を見つめる。疲れた。もう、いい。あの画像がネット上に流れたりしようが、死ぬことでババアに負けることになろうが、どうだっていい。
今まで生きてきた、大したことのない人生がそれでもぽろぽろと浮かんでくる。思い返した上でも、やはり別に惜しくはない。
大丈夫。誰も泣かない。傷つけることなんて、有り得ない。歯止めも何も無かったお陰で、俺は迷わず死ぬことができたんだ。
痛みに歯を食いしばりながら、包丁の先を首に数センチ刺し、そのまま勢いよく引いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ひと目も憚らずに泣き始めてしまった関口を前に、俺は戸惑いを隠せず、気持ちの居所を探していた。その涙が、自殺した自分をどうしようもなく責めてくる。
でも、仕方ないじゃないか。俺には何もなかった。あの時、確かに。死を悼んでくれる人間がこんなところにいるなんて、知らなかった。
それに。
「……そう思うなら、どうして、あいつが学校、辞めた時点で何にもしてやらなかったんだよ」
別に責めたって何にもならないことは、分かっていたけれど。もう俺は死んでるし。辞めた高校に未練はない。死者という意味でもそうだし、生者としても。生きている時は、高校を辞めさせられたことで、ババアから学校に通わせてもらっている引け目みたいなものが無くなった。バイトだけに時間を費やせるようになったお陰で、家を出る貯蓄もできるようになったし。
それでも辞める直前、高校を辞めてからの生活を想像できない頃は必死だった。まだババアの許から巣立つことを夢見ていた俺は、高校くらいは出て、自由を得て、少しでもいい暮らしができるように、なんてことを考えていた。自立できたら、父親を探すことまで無邪気に夢想していた。父親のことは、ババアからはまるで何も訊かされなかったし(と言うか話題に出せば忌まわしい記憶なのか、即、殴られた)、少なくともババアよりはマシな人格だろうと考えていた。あのキチガイを捨てられるだけの常識はあったんだし。
だから、いくらつまらなくても学校は辞めたくなかった。ババアが通わせているうちは、それを利用するだけ利用してやりたかったし、ずっと人並みの生活と自由に憧れていた。生きているうちは、こっ恥ずかしくてそんな言葉では表現できなかったが。だからこそ最後まで抵抗し、教頭にまで話をつけようとしたのだ。結局、叶わなかったけど。
こいつとのつながりは、あの日を除けば学校の外に及ぶことはなかった。今まさに、自分がかつて着ていた制服が、守りきれなかった己の立場が目の前にある。見ていると、どうしても報われなかった労力と、喪失にまみれた徒労感が蘇ってしまう。こいつは、心の支えにしていたと言う俺が、高校を辞めたと言うのに何のアクションも起こさなかった。こいつが何がしかのアクションを起こしてくれさえすれば。どんな結果になっても関係なく、俺は死ななかった可能性がある。引き止めるものが、一つでもあったならば。死んでしまった今になって、こんなことを言われても困る。
だって、もう俺は死んでしまったのだ。
思っていると、関口が困るかと思いきや、即座に反論してきた。
「そんなこと、あなたに言われたくないです」
あまりにも予想していなかった反論に、俺は顔を上げる。
「……は?」
「だって南出くん、お父さんはいないって言ってましたよ? 息子放ったらかしてどこで何やってたんですか。南出くんはずっと、お母さんに暴力を振るわれてたって言うのに」
話が見えない。反論ができないのではなく、状況がつかめなくてフリーズし、言葉が出てこなかった。
「……あれ? 違いました?」
俺は他人に憑依している。すっかり混乱してしまったせいで、それを思い出すのにもかなり時間がかかった。
――そう言えば、俺は今、誰に憑依しているのか、知らない。
俺は鏡を見なかった。自分が憑依している人間が一体誰なのか、興味がなかったせいで考えもしなかった。悲しむ人間なんていないと決めつけて、葬式に来る人間についても全く興味が湧かなかった。憑依しているかどうかを抜きにして、どうして、俺は気付かなかったんだろう。この人が、葬式に来る可能性に。
「ちょっと、すまん」
俺は、戸惑う関口を置いて、席を立った。トイレは、どこだ。鏡は。
◆
関口がそう思い込むのも無理はない。
トイレの鏡に映った男の姿を見た俺は、涙に暮れながらそう思った。そこには、二十年後の自分の姿かと見紛えるような、中年の姿がある。間違いない。この人は、俺の父親だ。
いつも男と別れると、フラれようが自分がフろうが関係なく、相手を罵り、猛り狂い、喚くババアが、俺にきつくあたっていた理由がよく解る。俺の顔を見たら、この人がよぎるのはもはやしょうがない。それくらい、俺はこの人に似ていた。
でも、と俺は思い、歯を食い縛る。どうしてわざわざ俺はこの人に憑依しなくてはならなかったのだろう。数は少ないけど、他にも参列者はいた。関口だって良かったはず。なのに、どうしてよりにもよってこの人なんだ。俺が憑依して、この人の意識を借りてしまったら。訊きたいことなんて、山ほどあるのに。恨みなのか、喜びなのか、もう自分の裡を占めている感情の名前が分からない。しかし、身体は大袈裟に思えるくらい泣き崩れていた。一つ言えることは、この人に何も訊けないことへの、大きな歯痒さ、無念さが俺を正気じゃなくさせている。この人に憑依したことで、分かったことは、どこに住んでいたかくらい。バス一本で来られるくらい、近くに住んでいた。探そうと思えば、きっと簡単に見つけられたし、会いにも行けた。解ったのは、ただ、それだけだった。
『南出雄吾さんの葬式は、ただ今をもちまして、完全に閉会されました。恐れ入りますが〝葬式へのショウタイ(招待)〟もこれにて終了です』
トイレでうずくまったまま、俺はその声を聞いた。父について、殆ど何も知ることができなかった無念はいつしか薄れ、父は通夜に来ようとしてくれていたことに感謝する。そこにババアがいるのに。悼んでくれようとした。それは確かだから。
それに、父の他にも、関口も俺の為に涙を流してくれた。俺が死んだことを、悔やんでくれた。それだけで、充分だった。
自殺したことを、猛烈に後悔した。自殺したことで父に会えたことも、皮肉の極みだと思う。悔しいことには変わりない。だけど、その記憶を抱いて死ねることに、俺は感謝しながら、意識を手放した。
ありがとう。
〝祭〟の章・ロケンロ
あんなに激しく身体を襲っていた虚脱感とか激痛が、気付けば嘘みてぇに消えてやがった。最後の記憶を辿ろうとすると、小野澤(おのざわ)さん、小野澤さん、と耳慣れない本名を連呼しやがる、医者の声が意思に反してリフレインされる。違(ちげ)ぇ、と言ってやりたかったが、そんな余裕は無かった。そりゃあそうだ。俺ぁ、死にかけだったんだ。
雲海が開けたみてぇに冴えた頭は、きちんとすべてを理解していた。俺は死んだ。死んだが、俺の追悼ライブに参加できる。誰かは知らないが、出演してくれる後輩の誰かに憑依して。最期に、歌えるんだ。ロックシンガー冥利に尽きる死に様だと思った。
俺は脳梗塞らしかった。
病院って場所は辛気臭くて嫌(きれ)ェだったしよ、ちっとぐれぇ身体がおかしかろうが、俺は仕事を続けた。そんなことは、今までも何回かあったし、乗り越えてきた。だから、手は抜かず、年間、二百ステージはこなした。有難(ありがて)ェことにライブは毎回、ずっと昔から聴いてくれてる古参ファンから、若ェ奴も足を運んでくれて、毎年やる年末の武道館公演も毎回ソールドアウトだった。だが、そんな仕事の仕方が祟ったみてェで、ぶっ倒れて強制送還された時にはもう、手遅れだったらしい。ろくたら意識も無ェ状態で俺は、ずいぶんあっさり逝っちまったようだ。お陰で、病院の記憶は殆ど無ェ。俺にはそれが救いだった。だが、匂いだけは覚えてる。薬品っぽい、あの辛気臭ェ匂いは、死によるものなのか脳梗塞による痛みなのか分からない苦しみの中に混じるように、常について回っていたように思う。無念だった。だって、俺だぜ? 俺ともあろうもんが、病気にやられて、ベッドに縛り付けられたまま、死んじまうなんて。死の潮が満ちていくたびに俺は恐怖に駆られていた。畜生。声にすらならないそれを、俺は自分の内側に溜め込んだまま、死んでいった。
だから、最後に歌えると知った俺は、飛び付くようにその声に従った。何をしてよくて、何をしてはならないのか。結局、きちんと訊かなくても気付いたらそのへんは脳みそに焼きついたように、刷り込まれていた。最期に歌って、死ねる。シンガー冥利に尽きる。こんな権利を貰えたのは、俺くれェしかいないんじゃねェか。流石にこんな話、聞いたこと無ェ。まあ、俺が憑依しているってことは、他人に口外しちゃいけねェらしいから、分からねェけど。
喜びを噛みしめながら、目を開く。最初は信じられなかった。取り返しのつかない闇を無理やり飲み下せられているように、ずいぶん苦しんだからか、俺は死んだっつう自覚が強かった。だから、未だに自分が生きていることが、気持ち悪かった。夢でも見ているんじゃねェか。死ぬ間際に見ている、ただの夢なんじゃねェか。だけど、自分にある感覚は、どこまでも生きている時に馴染みのあったそれだった。
――しかし。
何かがおかしい。頭で理解するより、ただならぬ違和感が、身体のあちこちにあった。どういうことだ。何が起きているんだ。
幸か不幸か、目覚めたのは楽屋で、近くに鏡があった。目の周りにばさばさとよぎる、長い睫毛。すーすーしやがるひざ下。胸から肩にかけて常にある締めつけるような感覚。そこに向かうまでに、そのほか視界に映る手や足、身につけている装飾品を見て、何となく予感はしていた。鏡台の前に手をつき、顔を上げる。そこに映っていたのは、紛れも無く。
女だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
自分の身体じゃねェってことは、同時に自分の声じゃねェし、自分らしい歌い方もできねェんだろう。それは、何となく覚悟していた。だけど、こんなのは無ェだろう。追悼ライブに出演してくれんのは有難ェ話だが、よりによって女の身体で歌わなきゃいけねェだと? 勘弁してくれよ。
「萌乃(もえの)さーん!」
軽い、男の声がした。マネージャー。脳みそが語りかけてくるように、思い当たる。どうやら、この女の知識や経験もある程度、俺に引き継がれているらしい。
「は、はーい」
女の身体になったことなんてもちろんないし、女のシナを作るようなことも今まで無かった。当然だ。俺はそんな役回りをやらされるタイプのシンガーじゃねェ。だから、思いがけず慣れないことをしてしまう。高い声を意識して出したら、ふざけたように高い声が出た。そうだ。元々、今は女の身体なんだから、普通に喋ったって女の声なんだ。馬鹿か。
案の定、マネージャーは小首を傾げながら楽屋に入ってきた。
「何すか今の。気持ち悪かったっすよ」
ずいぶんと傍若無人なマネージャーだ。タレント相手にこんな態度をするのか? 今時のマネージャーは。俺のマネージャーもそうだし、俺が若い時もこんな態度は考えられなかった。
「うるさい!」
反射的に今度は完全に自分自身のトーンでがなってしまった。極端から極端に走ってしまった。
やっちまったなと思って、立ち尽くしているマネージャーを見上げると、さほど怯えてはいないようで、そいつはきょとんとしていた。
「……何だよ、今日はずいぶん、ナーバスになってるね」
何だ、この馴れ馴れしい感じは。いくら何でもおかしいだろう。何様なんだこいつは。
「まあ、昔から好きだったもんな、龍崎(りゅうざき)さん。でも大丈夫、お前なら歌えるよ。おれの奥さんだから」
呼ばれ慣れていた自分の名前に反応してしまいそうになりながらも、そのひと言と、頭を撫でると言う歯の浮くような行為で、合点がいく。なるほど、それでこんな馴れ馴れしいのかこいつは。たまにいる。タレントとマネージャーが夫婦と言うのは、昔こそあまり考えられなかったが、最近はない例じゃない。
この男の行動は、傍から見てしまうと少し気恥ずかしいが、肩の荷がすっと下りたような気がしてくるから不思議だった。まるでそれは、癖のようにほっとする。そうか、きっと、これはこの夫婦のまじないのようなものなのだろう。この小娘がステージの前なんかに落ち着かない時があると、マネージャーであり夫であるこの男が、こうやって落ち着かせる。こういうのは、シンガーによくある。タレントの精神状態をきちんとコントロールすると言うのもマネージャーの仕事のうちだ。最後の俺のマネージャーも、そのあたりはきちんとやってくれた。まあ俺は、ライブ前にナーバスになるなんてことは無かったがな。まあ今は別に、この小娘がナーバスになってると言う訳ではねェけど、少なくともこの男はそう取ったようだ。
「ありがとう。あなた」
素直に礼を言っておく。感謝の言葉は大事だ。仕事の上でも、喩え夫婦と言う間柄でも。
しかし、それを聞いたマネージャーは目を瞬かせ、また小首を傾げたが、すぐに調子を取り戻したかのように目を輝かせる。
「わ、あなただって。なになにどうしたの?」
また失敗した。いや、それにしてもこの夫婦の距離感がいまいちよく解らん。そう言えば最初、こいつは敬語で喋ってなかったか? 自分の嫁に対して。
「これも龍崎マジック? 何か、別人みたいだね」
何気なく言われたこれに、俺は緊張した。うまいこと取り繕わなければ。バレたら歌えなくなっちまう。まあしかし、ナーバスになっていると思われたんなら、それを利用するしかねェか。俺は俯き、言った。
「ごめん」
一人にしてと続けようと思ったら、ドアがノックされた。
「二島(ふたしま)さーん、ここですか?」
一瞬、この女の芸名かと思ったが、だとしたら楽屋であるここ以外のどこにいるんだって話になる。俺が返事をしないうちに、さっさと目の前の男が返事をした。こいつのことだったようだ。
「遅いですよ。日下(くさか)さん、そろそろ出番ですって。何やってるんですか」
ああ、申し訳ありません。男が仕事の顔つきに戻った。仕事ができない訳じゃないらしい。若ぇくせに悪くない面構えだった。
それはいいとして、もう出番なのか? そんなぎりぎりのタイミングだったとは。一人にしてと言わずに済んだことに、心底安心する。だが、胸のざわつきは収まらない。こんなにすぐさま本番がやってくるとは思わなかった。
「すんません。さ、行きましょう萌乃さん」
マネージャーとしての顔と、旦那としての顔を使い分けているのだと、この時ようやく俺は気付いた。
まあまあでかい会場らしい。楽屋からステージまでが割と遠い。どうりで急かされる訳だ。年間、二百ステージ踏んでいた俺だったが、この会場は来た覚えがなかった。まあ、俺が歌うステージは地方ごとにだいたい決まっているから、そこから外れた場所なのだろう。俺のファンが訪れ慣れていない会場なのかよと不満に思ったが、別に俺が出る訳じゃないから来てくれているのは俺のファンばかりじゃないのかも知れない。
そう言えば、何を歌えばいいんだ? リハーサルから目覚めた訳じゃないから、何も段取りを知らない。マネージャーが先導してくれるから、ステージまでは行けるが、その後はどうすればいいのだ? 最期に歌う曲だ。俺にとっては重要だ。歌わせてくれるだけ感謝しなくてはならないと思うが、それなりにこだわりがある。きっとこの女の選曲なのだろうが、一体なんだ。
結局、何を歌えばいいかわからないまま、舞台袖に着いてしまった。自分の曲をイントロドンする羽目になるのかと思って不安に思っていたら、何てことはない、暗がりの中、袖の壁に今日のセットリストとそれを歌うアーティストの一覧が貼ってあった。この女の名前はモエノ、だったか。あと、スタッフにクサカさんと呼ばれていた気がする。今、ステージで歌っている歌声は知っている。沼居(ぬまい)だ。俺より三年後輩で、よく飲みに行っていたミュージシャンだった。楽曲提供してもらったこともある。たぶん、出番は次だ。そいつの名前を探した方が早い。……あった、日下萌乃、これか。と言うか、まだ始まったばかりじゃねえか。この女の出番は二番目。あいつが一曲目を歌ってくれたと言う訳か。それはそうと、曲は何だ。俺が最期に、歌う曲は。
「何やってんすか、萌乃さん。そろそろですよ」
マネージャーの声に、反応できない。見慣れ親しんだ曲目の羅列、その中の一曲に、ただ目を奪われる。
「……萌乃さん?」
さっきのやり取りを思うと、ずいぶん白々しく聞こえる。聞こえてはいるのに、何も返す言葉が出てこなかった。
◆
昔話をする。少し長ェが、年寄りの話なんだ。勘弁してくれ。
当然と言えば当然なのかも知れないが、俺にも売れない時期があった。下積みってやつだな。ドサ回りと呼ばれる外営業で、歌って回っていた頃の話だ。
「早くオガポン出せこの野郎、いつまで歌ってやがる!」
肴に出されていたのであろう、カシューナッツが飛んでくる。まだ時代は、そういう威勢だけがいい奴が持て囃されていた時代で、そういう偉そうな態度を取っている方がねーちゃんに受けが良かった。このステージでは、オガポン前園(まえぞの)と言うマジシャンがほぼ毎日出ていて、それで客を引き寄せていた。
俺だって、好きで歌っている訳じゃない。オガポンのヤローが、盛大に遅刻していやがっただけだ。看板であるオガポンはマジシャンには似つかわしくないくらい天狗なヤローで、こうして遅刻しては俺みたいな駆け出しや若手に時間稼ぎをさせるのだった。
カシューナッツは最悪なことにマイクに当たり、大袈裟なハウリングが起こる。咄嗟に会場中が迷惑そうに耳を塞ぐ。俺が悪ィ訳じゃねェのに、会場中から鋭い視線が俺に集中した。そいつがいきがったり、ついでに言うとオガポンが天狗になったりするのがお門違いに思えるほど、このキャバレーは、時代を過ぎて廃れかけていた。マイクや機材なんかももはやちゃちなもんだった。管理もずさんで、ポンコツマイクはハウったままとめどない。お陰で強制的に曲が終わる。悲鳴のようなハウリングをいち早く止める為、マイクのスイッチをぶつり、と切る。それが歌のステージを終わらせるサインになり、俺もちょっとほっとしたにも関わらず、袖から出されたハンドシグナルは、〝もう一曲〟。袖の奥の方に、悠々とメイクを調えていやがるオガポンが垣間見える。もう、殆ど仕上がっているメイクを調えている様子だった。あれを完璧なものにする為の時間を、どうやら俺が稼がなくてはならないようだ。これほどまでに客がオガポンの登場を待ち望んでいると言うのに、あんな見るからに手の込んだメイクをして出てきても、客は騒ぐばかりでそこのところに全くツッコミを入れない。世の中は不公平だと、くだらないがその時は心底思った。
マイクを再度入れたらまたハウると思ったのか、新たなワイヤーマイクが袖から転がってくる。これを拾い上げたら、きっと客はブーイングだろう。俺がまだ歌うのだと客にも伝わってしまう。
俺もまだ若かった。この状況に、抑えが利かなくなった。当時、今じゃ考えられないが、その時期流行っていた爽やかな好青年のイメージを俺は事務所に押しつけられ、全然売れやしないのにそれを保たされたまま、こういう場末営業に回されていた。この時も、薄緑色のベストを着せられ、それはそれは好青年的なイメージの恰好をしていた。人のよさそうな笑顔を意識して保ちながら、爽やかな歌を気持ちよさげに歌う。正直、反吐が出る思いだった。その鬱憤も、いよいよ我慢利かないところまで溜まっていたのかも知れない。俺はもはや手持無沙汰になったオフのマイクを、床に叩きつける。オンになっていないのに、がいん、と鉄の重い音が、フロアに響く。騒がしかったフロア内が、しんと静まり返る。
その沈黙を好機として、俺はひらりとワイヤーマイクを拾い上げる。素早くオンにし、マイクに叫ぶ。尤も、俺もまだチキンだったから、目をきつく閉じ、ぶるぶる震えながらだったが。
「るっせえ!! 新人に時間稼がせて暢気にメイクしてやがる馬鹿より、俺の歌を聴きやがれ!!」
客と、裏方もろとも呆気に取られてくれたお陰で、俺はア・カペラで歌い始めることができた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「俺が有名になって、好き勝手言えるようになったら、お前の曲、歌ってやるからな」
俺が病院の匂いが嫌ェなのは、それを嗅ぐと、床に臥せ、力ない目で無理して笑う弟の顔を思い出すからだ。
弟は、アマチュアの作曲家だった。詞も書けるし、俺ほどじゃねぇが歌もそこそこ歌える。今で言うシンガーソングライターってやつか。どこに持っていっても何の音沙汰も無かったが、ロックを下地にした弟の楽曲は歌手をやることになった俺からしても、なかなか良かった。俺には歌うことに関しては誰にも負けねぇが、楽曲を作り上げる能力は乏しかった。幼い頃から、俺は歌手を、弟は作曲家を目指していたのだ。弟が作った楽曲を俺が紅白で歌う。それが、俺たちの夢だった。
その頃の俺たちは、各々、職業としての夢は何とかかなえたものの、恐ろしく半端な状態だった。弟はアマチュアのまま、プロの歌手に楽曲提供をできるような状態にはなれず、俺も俺でプロとして歌手デビューはできたものの、ドサ回り営業をしなきゃならんような売れない歌手だった。
ある時、弟が言った。
「兄ちゃん、俺、一回、今までのすべてを賭けて、根詰めて最高の一曲を作ってみようと思うんだ」
できるまでにテレビに出まくるような人気歌手になってよ。そう言った弟の目は結構、本気だった。無理言うなよと俺が力なく言うと、ふざけるなよと言わんばかりに、鼻息を荒くしてきた。
「次の新曲、あれすごくいい曲じゃん。あれなら、ヒットも狙える。あの曲聴いて、俺も頑張らなきゃなって思ったんだよ。あんなレベルの曲を兄ちゃんは貰えるようになったんだから、俺もそれなりの曲作んないと」
喋れば喋るほど、弟の目はギラギラ輝きを携えていく。弟の気迫に気圧されながら、俺は密かにため息を漏らす。
俺、あの感じ、嫌なんだよなあ。
そうなのだ。いくらいい曲で、喩えヒットしたとしても、今のスタイルだったら俺は素直に喜べないと思う。何ていうか、俺はもっとかっこ良くやりたいのだ。何が好青年だ。今は確かに、フォークソングが幅を利かせていて、俺も顔は悪くねェらしいし、爽やかなイメージで売り出す方がいいのかも知れない。だけど、俺の夢は、もといお前の夢は、お前が作っているようなロックテイストの曲を歌うことだろう? この路線で売れてしまったのでは、それも難しいんじゃねぇか?
大胆に路線を変えようとして、失敗した歌手はこの時代、特に多かった。事務所の先輩は、一時期流行ったテクノを楽曲に取り入れて大胆にアレンジメントしてみたって言うのに、大コケした。元のイメージが強すぎたせいで、聴いている側がついて来られなかったのだ。しかし、それを間近で見せられていても尚、このスタイルのまま、安易に売れたいとはどうしても思えなかったのだ。おばちゃんたちにいい顔してちやほやされるより、同世代の若者たちに強く訴えられる、ロックテイストの楽曲をやりたかった。なのに、事務所はそれを許してくれない。許す許さないの前に、そんな楽曲は作曲能力も実績もない俺の下に降りてこない。
俺が内心やる気じゃないからなのか、このスタイルは二番煎じ感が否めないからなのか、楽曲は悪くないはずなのに、やっぱり俺は売れなかった。いい曲だけど、愛着を持てない。自分自身に問題があるのがよく解る。だからドサ回りから抜け出せないのだ。
それは、やる気の起きないドサ回りから帰ってきた夜のことだった。その前夜までは、弟の部屋からちろちろと聴こえてきていたギターの旋律が聞こえない。はて、今日はもう寝てしまったのだろうか。それとも楽曲が完成した? だとしたら早く聴かせて欲しい。気になった俺は、弟の部屋を覗いた。
「おい……っ!」
弟は作曲に使うギターを抱えたまま突っ伏していた。何枚も書き直したと見られる楽譜が、机から踊り狂ったように床に散乱していた。
「肺がん、ですな。転移もひどい。まだ若いのに可哀想だが、息子さんは……」
偉そうに髭を蓄えた医者は、やるせなさそうに告げた。そのくせ、って訳じゃねェが医者はそれ以上、はっきりとしたことを言っちゃくれない。母さんが、わっと泣き出してしまう。俺は医者を責め立てることもできず、母さんの肩を抱くだけで、精いっぱいだった。あいつはもうじき、死ぬ。
弟が目を覚ましたのは、それから三度だけだった。うち二回は俺も立ち会えたけど、最後に目を覚ました時、俺はあいつの傍に居なかった。テレビに出て、気に食わねえ歌を、弟が危篤だとは想像できないような笑顔で、歌い上げていた。念願のテレビ出演だったにも関わらず、ちっとも嬉しくなかった。
「やっと出れるんじゃないか。きちんと歌わなかったら化けて出てやるからな」
声はか細く弱々しいのに、内容は殊勝なのか弱気なのか分からないあいつの言葉が、それでも最後に背中を押した。そのお陰なのか、調子が良かった。ちょっと苦しかったファルセットは綺麗に出たし、やっぱりそれなりにでかい会場で歌うと、響きが自分に返ってきて、気持ちがいいのだ。後に初めて武道館で歌った時に、それを深く思い知らされた。
生放送を終えて病室に戻ると、すうすうと寝息を立てている弟の横で、すっかり看病に疲れちまった様子の母さんが寝ないで待っていた。
「おめでとう。良かったじゃないか」
それを言う為に、こんな時間まで寝ずに待っていた訳ではないだろうに、俺の顔を見た母さんの第一声はそれだった。
「調子はどうだ」
この段になってしまうと、もはや初のテレビ出演の余韻も失せきり、俺の関心は弟へと完全にすり替わっていた。この辺りの切り替えの早さは、俺の専売特許だと今でも思っている。
「実は、さっきまで意識があったんだよ。そこのテレビで、お前さんを観てた」
当時まだ、カラーテレビが導入されていなかった古い病院のモノクロテレビは、もう電源を消されていた。弟の意識と同じように。
「もう、ダメかも知れないね。こいつ、お前さんが歌い終わったのを見届けたら、思い遺すこと、無いみたいな、ほっとした顔してさ……」
「やめろや」
喋りながら俯いた母さんの勘は正しかった。
数日後、すうすうと立てていた寝息は微かとも言える嘔吐で破け、弟は息をしなくなった。まるで、やる気がなくなったかのように。見切りをつけた楽譜を丸めてゴミ箱に投げ捨てるかのように、弟は逝った。俺や母さんが慌てふためく暇も無いくらい、あっさりと。
二十三歳だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大した広くもねェ廃れかけのキャバレーに、俺の声だけがごうごうと響きわたる。誰の声も、音も聞こえない。厳密に言やあ、本当は音があったのかも知れねェが、俺は自分の身の裡からごろごろと無骨に湧き上がる音を身体で感じ取ることで精いっぱいで、今となっては思い返すこともできない。
人前で、あんな声を出して歌ったのは、その時が初めてだった。
後に〝龍崎スタイル〟と呼ばれるようになる、がなり散らしたような歌い方。この時に気付いた。俺は、喉の震えが大きく感じられれば感じられるほど声が伸びるし、何より俺自身が、射精の瞬間が間延びするかのように気持ちいい。
一度ヤケになっちまうと、そこからは夢中で歌えた。笑顔や、カドの取れた声を意識せずに歌うこと。デビューしてから、そんな歌い方をしたのは初めてだった。
弟の遺品の中で、一つきちんと整理されていないものがあった。
弟は几帳面で、楽譜はわざわざこっちで片付けなくても整然と片付けられているはずなのに、その楽曲だけは楽譜がバラバラだった。整理した母さんに訊いたら、何てことはない、それは弟が倒れた時に散乱していた楽譜だった。ギターを抱え込んだまま倒れていた姿を、まるでさっきのことのように思い出す。バラバラになっていたのは、音楽をよく知らない母さんが落ちている楽譜を適当にただ揃えただけだから、っつうことのようだった。当然、途中までしか無ェんだろうと思っていると、それはきちんと一曲の楽曲として成立していた。どこぞのシューベルトとは違い、弟はきっちり自分の仕事に一区切りつけてあの世へ逝ったらしい。そこでようやく俺は思い出す。入院する前、弟が何と言っていたか。
夢中で、楽譜を読み、捲る。俺もいっぱしのシンガーだ。楽譜を読んで、メロディーを頭の中で組み立てるくらいのことは造作もない。歌詞もきちんと紡がれているその楽曲を、気付けば俺は口ずさんでいた。
拍手と、それ以上の歓声の海の中に、俺はいた。
デビューしてから、こんなことは初めてだった。今までは歌えることだけを讃えた、乾いた拍手の音だけを俺は聞いてきた。もちろん、それだけでも俺は満足だった。うまく歌ってやればやるほど、それだけで傲慢な俺はそれなりに満ち足りた気になっていた。しかし、違う。俺の歌で、場が盛り上がり、沸いている。そのことが、こんなにも気持ちいいだなんて。頭数は多くないとは言え、声の重なりが、ある意味怒号のように俺を包む。ヒューヒューと景気のいい口笛の音までもアクセントのように飛ぶ。何だこれは。未知の反応に俺は、戸惑いを隠せなかった。俺は完全に自分の為だけに一曲歌ってしまった。事務所のことも、客のことも度外視して。だから、その歓声に妙に驚いてしまったせいで我に返り、軽く自己嫌悪と後悔に苛まれてしまい、なお混乱する。
もっと歌え。その声を聞いて更に困惑したのをやけにはっきり覚えている。
ドサ周りをしていて、そんなことを言われたのは初めてだったし、またそれよりもこんな声で歌える持ち歌は今歌った一曲以外に、ない。しかし、その声に賛同し、別にステージを去った訳でもないのにアンコールのようなものが沸き上がる。
戸惑った俺は、ついつい舞台袖を覗き込んでしまう。普通は、ちら、と観客にあまり悟られないくらいの感じで見なきゃいけねえ決まりがあるのに。出されたハンドシグナルは、信じられないことに先ほどと同じ〝もう一曲〟。しかし持ち歌はない。あんな歌い方をした後で、先ほど打ち切られた曲を歌う訳にはいかない。しだいに思考が冷静に回り出す。その時、ハンドシグナルを出す支配人の後ろで、笑顔のメイクなのに渋い顔をしているオガポンが目につく。それを見たら、ふ、と頬が緩み、妙に和んでしまった。落ち着きを取り戻した俺は客席を向き、歌声に寄せた、事務所が作成したキャラクターとは露ほども重ならない高らかな声で宣言する。思い出す。俺がやりたい音楽、スタイルはこれだ。これだった。
「さあさ皆さん! お待たせいたしました! オガポン前園の登場です!」
がっかりした、と言うのを微塵も隠さない観客の声を尻目に退き、ぎろりと笑顔のメイクのまま俺を睨みつけるオガポンを無視して舞台裏に悠々と俺は歩いていった。背後から、ブーイングが聞こえた。空気も読まずに出てきたことなのか、メイクのことを咎められたのか、それとも両方か。オガポンがブーイングを受けているのを聞いたのは、それが初めてだった。
だけど、そんなことはどうでも良かった。時間稼ぎを終えた俺は、宙を向いて語りかける。ありがとう、助かったよ、龍(りゅう)。
半ばヤケクソで歌ったその一曲は、弟の龍の遺作だった。
「俺が有名になって、好き勝手言えるようになったら、お前の曲、歌ってやるからな」
弟に向けてそれを言ったのは、あいつが倒れて、入院してから最初に目を覚ました時だ。それを聞いた弟の顔は安堵に緩み、間もなく意識は闇に落ちていった。
有名にもなっていないし、好き勝手言える立場などでは全くない。だけど、用意している曲も無く、事務所に押しつけられていた路線も拒まれた俺に選択の余地は無かった。愛でるように読み込んだ弟の遺作。いつしか空で口ずさむことができるようになっていたその曲を、もはや弟の遺志すらも半ば度外視した自分なりの解釈で歌った。画一的と評したこの世の中を憂うあいつの歌詞を、気持ちいいまでに溌剌とした声で歌うのは居たたまれず、がなるように、責め立てるように歌った。
いつしかそれが〝龍崎スタイル〟として確立し、少しずつだが世間に浸透していった。キャバレーでの顛末を見ていた事務所スタッフが上に報告し、路線変更が成されると、俺は売れた。新たなスタイルに合わせて芸名をも変えてしまうと、提供されてくる楽曲もロックを下地としたものが占め、俺のスタイルを飾り立て、演出していった。
結果として、弟の曲はシングルリリースされなかった。俺の強い希望が中途半端に通り、フルアルバムの中にひっそりと佇むように置かれたその曲を歌う機会は、あれ以来殆ど無かった。キャバレーで称賛されたのはあくまでも俺の歌唱スタイルで、弟の曲ではないと事務所は判断したようだった。あれ以来、あのキャバレーに営業に行くことはなく、あのステージの何が良かったか、あの場所で俺を観た客たちが、俺の何を評価したのかは確認できていない。答えを明確に知る者も、もはや今となってはいない。だけど、俺は知っている。いや、どちらかと言うと、信じていると言う感覚に近いかもしれない。
俺を拍手の海に放り込んだのは、弟だ。
◆
長くて悪かった。あまりに長かったから忘れてんじゃねェか? 今、俺は死にかけで何の因果か女にその魂を宿している。
「萌乃さんってば」
マネージャーの更なる声で、ようやく俺ははっとする。
「大丈夫ですか? もう、だからもっとメジャーな曲にしておけばよかったのに。自分で決めたんだから、ちゃんと歌いきって下さいよ。ほらほら、沼居さんがハケてくる。スタンバイ、早く」
「ちょっと、待て」
咄嗟に取り繕うのも忘れて、マネージャーを強く制する。俺は暗闇に溶けかけている天井を見上げる。瞬きせずに、十秒、凝視する。ここまで俺をのし上げてくれた弟のことだけを、考えた。
こいつらに儀式があるように、俺にも儀式はある。誰にも言っていない密やかなものだが、ライブの出番前、俺は必ずこれを欠かさないできた。
あれだけ不憫なタイミングで逝った弟は、必ず上にいる。そうじゃないと、フェアじゃない。最期なんだ、それくらいはさせてくれよ。
「今の」
聞き慣れた声がした。いつも、俺のツアーに必ずついてきてくれていたベテランのスタッフだ。声だけで分かる。俺がいつも、本番前にこれをしていたことを、彼は知っている。
「出ます」
これをしてしまったら、俺はもうステージに直行しなくてはならない。それも含めて、この流れが俺の儀式だった。
女は人気歌手のようだった。出て行ったら、待ってましたと言わんばかりの歓声がする。こいつ目当てに来てやがる観客も少なくはなさそうだった。くそ暑いほど眩しいスポットライトを浴びて、これこれ、と思う。俺のいるべき場所は、ここだ。ずいぶん久々のような気がするが、感覚はそうでもない。ツアー中に倒れたからだろうか。それとも、この女がステージ慣れしているだけなのだろうか。分からないが、意識をも眩ませそうな光に目が慣れると、その奥に見える観客の笑顔に、会場以上に自分のボルテージが上がっていくのが分かった。
お手並み拝見だ、と思う。自分が歌うのに。
イントロが鳴る。俄かには信じられない。こんな大きなステージで、弟の曲が流れる日が来るなんて。心の底からこの女に感謝する。弟の曲を選んでくれて、好きになってくれて、本当にありがとう。
弟の曲は、サビから始まる。いきなりシャウトしなくてはならない。緊張しながらも、第一声が大事な曲なので、外さないように声を置きにかかる。第一声を、放った。
あの時代を嘆いた弟の叫びが、冗談かと思うくらい、キンキンと高い声で発露されていく。ああ、下手だ。がなりたいのに、この声じゃ無理だ。いつかのキャバレーのような声は出せないが、どんな声を出して歌えばいいのか、模索しながら歌うこと自体は、あの時と同じだ。
涙が滲む。歌には影響しない。さらさらと、ただ目から零れ落ちていくばかりで、こみ上げてくるものはない。まだ二曲目の、盛り上げ時から泣いている俺に、観客たちは小首を傾げていたが、許してくれ、年寄りなんだ。涙もろくなるほどには、俺は往生した。弟のメッセージを、聴いてくれ。俺だからこそ、伝えられるあいつの想い。この女でも感じ取れたんだから、分かってくれるだろ? お前らも。
歌い終わると、恐ろしくでけぇ蛇口をひねったような歓声が俺を包む。普段の俺でも、こんな歓声は滅多に頂けない。ちょっと嫉妬する。俺は涙を拭いながら、客に頭を下げた。俺の最期のステージ。悪くなかった。客に、そしてこの女にも感謝をする。胸の裡で、語りかける。お前、歌は下手だが、良い声してんぜ。旦那と仲良く、頑張んな。
ステージ裏に戻ると、先ほどのスタッフが、息せき切って駆け寄ってきて俺に呼びかけた。
「あの」
その声を聞いた途端、全ての音がシャットアウトされた。途切れずにいた歓声が、ぴしゃりと襖を閉めたかのように事切れた。何もかも音が聞こえない中、つまらなそうな声だけが一つ、反響するように聞こえた。
『小野澤虎鉄(こてつ)さんの鎮魂祭の途中ですが、あなたのショウタイ(正体)に気付いた方が現れてしまった為、恐れ入りますが〝鎮魂祭へのショウタイ(招待)〟を中止致します』
あの曲を歌えただけで、充分だ。龍。今、そっちに行くぜ。
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