Ξ

クダラレイタロウ

タイトルの読み方は『クシー』です。本編にも説明がありますが念のため。

   十三歳

 新しい教室の中は、少し寒かった。誰かが窓を開けているみたいだ。
目を閉じて空気を吸いこむと、思った以上に春の匂いが強かった。淡い光が黒い制服を着た身体に穏やかにかかっているのを感じながら、僕はゆっくりと目を開ける。この匂いから導かれて接続されていく感情が、次々とあふれ出す。期待と不安。それぞれの腕に身体を撫でまわされているような感覚に陥る。覚悟を決めて、黒板に貼られた模造紙を見る。出席番号順に席が割り振られている。今日は始業式。僕は中学二年生になった。クラス替えがある。新しいメンバーと、一年の時から引き続き同じクラスになるメンバーがミックスされて、あいうえお順に並べられている。
 自分の名前を見つけて、僕は考えるより先に自分の座る席のあたりを見た。ああ。またか。デジャヴですらない、強烈に思い当たる記憶。あの時の感覚が、一瞬にしてささくれができたかのようによみがえる。ちょっとした刺激で皮が破けて、血が滲んでしまいそうになる危うさが、そこにはある。あの時と全く同じ、位置関係。僕にとっては、何一つ嬉しくない偶然だった。
 僕は教壇の上にかかった壁掛け時計を見上げる。どうせ、自分の席以外のところに居場所なんてない。足取りは重いけど、それでも。僕は席について、予鈴と、始業式の開式をひたすら待つ。それしかない。今、確認した時間だけ。僕は息を殺して祈らなきゃならない。式の時間まで何事もなく、静かに。
 僕は足音すらも自重しながら、指定されていた自分の席まで歩き出す。シンボルエンカウントの敵にぶつかってしまわないように、慎重に歩を進めなくてはならないRPGのゲームが思い起こされた。



   九歳

 小学校時代の、いちばんの親友といえば、誰か。
癪だけど、僕の場合は吉野(よしの)智康(ともやす)を挙げなければならないだろう。強く、強く思い浮かぶもう一つの顔を、打ち消してでも。あいつとは一緒にいた年数も長いから。周りからもきっと、そう認識されている。
 あいつとは、くだらない示し合わせによって出会うことになる。ロボパケがいちばん強いのは誰か。僕と吉野で、それを決したのだ。
 ロボパケとは『ロボットパケット』の略称で、僕らが小学校一年生の時に発売されたゲームだ。二頭身の小さなロボットをレベル上げとカスタマイズをして、箱庭の中で戦わせる。それを繰り返し、ゲーム内でワールドチャンピオンを目指すオーソドックスなものだ。登場するロボットは百体近くあって、五体でレギュラーパーティを組める。カスタマイズの自由度も高いので、プレイヤーごとに違うバリエーションが生まれる。ロボットRPGに分類され、今も続編やリバイバルが出ているくらいの人気タイトルである。僕らの世代は、男女問わず、みんなが買ってもらってやっていたゲームだ。くだらないけど、当時は買ってもらえないせいで、仲間外れにされる子なんかも出てきてしまったほどだった。
 僕はこのゲームが大好きだった。関連ゲームも相当出ていて、そこまではチェックしきれないけど、本編については誕生日やお小遣いをうまく利用して、すべて揃えている。たぶん、いちばん好きなゲームタイトルだ。
 発売されてから、買ってもらったのが早かったせいもあって、僕は他の子より先に進んでいたし、レベルも高かった。携帯ゲーム機で遊ぶソフトだったけど、有線ケーブルを使えば友だち同士で対戦もできた。自慢じゃないけど、僕は負け知らずだった。他のゲームとは一線を画すくらいの勢いでハマっていて、プレイ時間も僕以上の子はなかなかいなかったし、子どもなりにいろいろ研究しながらこのゲームを楽しんでいた。当時の人気はなかなかのもので、アニメ化もされたし、対戦番組なんかも組まれた。その対戦番組はやはり全国の小学生の中でも、強い子たちが出演して戦うんだけど、僕はその対戦やそれぞれのパーティを分析したり、批評したりすることができるくらいには知識があった。流石に同じように出演してってレベルにはなれなかったけど。テレビ出演なんて恥ずかしいから、したいとも思わないし。前哨戦である予選大会なんかも、きっと頼んでも親は連れていってはくれなかったはずだ。ロボパケを通じて、割と凝り性だってことが自覚できたし、周りからもそういうキャラ付けをされるようになった。
 他のゲームはそんなに強くなかったけど、このゲームだけは僕にとって譲れなかった。強いと自負する子がいれば、そんなに仲良くない子だったとしても対戦を持ちかけ、負かしたりしていた。力押しで勝っているような子がいれば、成敗したい気持ちになってしまって、割と頭を使った戦い方をして勝ち、泣かせたこともある。同じ学年の子のお兄ちゃんとか、年上の人にも勝ってしまうレベルだった。
 そんなことをやっていたら、やっぱり僕はロボパケが強い子、という認識になった。それまで負けたこともなければ、対戦でピンチになったこともなかった。
 しかし、吉野智康が対戦したがっていると聞いた時は、まずいかもと思った。
 吉野はゲームに関係なく、有名な子どもだった。明るくて人懐っこく、足が速くスポーツ万能で、勉強もできて、身体も他の子より大きくて。顔もかっこいいからよくモテて、という完璧超人なんて呼ばれ方をしていた子だった。そんな吉野は隙がなく、ゲームも強かった。僕みたいに、特にロボパケが得意って訳じゃなく、ゲームだったら何をやらせてもうまいタイプだった。ロボパケも、殆ど負けたことがないと聞いていた。
 本当に、そういう意味で有名な子だったから、噂の印象だけであいつになら負けてしまうかもと本気で思った。僕は対戦を避けていたけど、そのうち本人に捕まってしまった。友達の家に遊びに行って、一緒に遊んでいたら、それを聞きつけてやってきたのだ。その友達がとあるカスタマイズパーツがどうしても取れないというので、手伝っていた時のことだった。だから、僕もロボパケのソフトは持っていっていた。僕はそれまで知らなかったけど、その友達は吉野とも仲が良かったらしい。
「お前が中園(なかぞの)か。よし、勝負しようぜ」
 僕からすれば、だまし討ちを食らったようなものだった。初めて喋るのに、いきなり肩を組まれ、そう持ちかけられた。でも、僕みたいにごり押しで勝ってるような奴だから絶対に負かしてやる、みたいなぎらぎらした感じではなかった。きらきらと純粋に戦ってみたいっていう感じの目だった。さすがは人気者、と思った記憶がある。
「わかった」
 僕は覚悟を決めた。遅かれ早かれ、こうなる気はしていた。片っ端から対戦を持ちかけておいて、こいつだけ避ける訳にはいかない。僕にもプライドがあった。ロボパケ限定だけど。隣で見ていた友だちは軽く興奮していた。
 結果は僕の圧勝だった。今まで人伝に聞いた吉野のキャラクターから考えて、どんなパーティで、どんな戦い方をしてくるものか、ある程度予想してかかったら、それは見事に的中した。吉野はやっぱり正攻法の戦い方をしてきた。正々堂々、というのを地で行くタイプだったから。ある程度だけど、相手の戦い方に合わせて対応できるパーティを僕は組んでいた。吉野みたいなタイプはいちばん多いプレイスタイルなので、対策はしやすかった。冷静に、カウンターを狙いながら迎撃していたら、僕の副将ロボットがウィンニングランする横で、吉野の大将ロボットは箱庭の中でフィールドに頬をつけていた。
 僕は初めて負けてしまうんじゃないかと思って内心、はらはらしていたので、ほっと息をついた。すると、急に背中に衝撃が走った。何度も。吉野が背中をばんばん叩いてきたのだ。
「すげぇ!」
 それが吉野の第一声だった。吉野にした戦い方は今まで、ずるいだの、汚いだのと言われてきた戦い方なので、似たようなことを言われるかもなと思っていた。驚いて吉野の目を見ると、負けたあとなのに、戦う前と同じ輝きをたたえていた。
「お前、すげぇよ。あの、俺の攻撃をあれして、俺がダメージくらうやつ、どうやったらできんだ」
 当時、小学二年になったばかりの吉野には、カウンターという概念がまだ無かったらしい。
「あー! それ俺も聞きたい!」
 横で対戦を覗き込んでいた友だちも身を乗り出してきた。カウンターはタイミングにコツがあって、ちょっと練習が必要なので、その日は二人にカウンターのコマンドを教えた。友だちはなかなかうまくできなかったけど、やはりゲームの筋が良いようで、吉野はその日のうちにカウンターのやり方を覚えていた。
「また対戦しようぜ。カウンター? だっけ、今回それも覚えたし、今度は絶対負けねえ」
 吉野と仲良くなったのはこれがきっかけだった。友だちが少なくて、大人しい奴とか、極端な場合は嫌われ者くらいしか友だちになれなかった僕が、吉野みたいな人気者と仲良くなれるなんて思っていなかったから、内心かなり嬉しかった。
 結局、吉野はロボパケで僕に勝てたことはない。カウンターをしてくるくらいでは、僕は負けない。カウンターを完封する術も僕は身に付けていた。吉野は毎回、悔しがりながらも「やっぱつえーな。裕貴は」と明るく諦観していた。他のゲームでは、僕の方がほとんど勝てなかったけど。

 ロボパケを通じて仲良くなり、僕らはそれからしょっちゅう遊ぶようになった。ロボパケはまだまだその時流行っていたし、ブームが去らないうちに続編が出たのだ。二人で競争するようにプレイして、お互いの家を頻繁に行き来しているうちに、僕は吉野にとっていちばんの友だちになった。僕もこんなにべったりと遊ぶ子は今までいなかったので、僕にとってもそれは同じだ。特に、新しいロボパケは、二対二の共闘ができるようになって、僕と吉野で組んで、他の子たちと戦ったのが大きい。チームワークを二人で深めていくと、僕らはやっぱり負け知らずになった。元来のプレイスタイルがお互い真逆だったので、戦略も立てやすく、チームバランスが取りやすかった。本当にいいコンビだったと我ながら思う。吉野は基本的には何も考えずに特攻するし、僕は慎重に敵の攻撃を受け流しながら、ゆっくり攻めていくタイプだったから、僕らの二段階の攻撃に大抵のチームはあっという間にダメージを受けすぎてしまい、あっという間に倒れていった。年齢が上がって洗練されてきたのか、強い子もけっこう多く、ピンチに見舞われることもあった。そういう時も、一緒に集中して共闘し、勝利を勝ち取った。僕と吉野は、そうやって絆を築いていった。

 しかし、大人気だったロボパケも、所詮は子どもの中のブームに過ぎなかったらしい。過ぎ去るのも早かった。凝り性の僕はブームが過ぎてもロボパケを追求し続けていた。しかし、周りはもうすっかり熱が冷めて、他のゲームや漫画、アニメに関心が移っていった。三年も後半になってくると、ロボパケの話を出すのは憚られるレベルになった。まだあんなガキっぽいのやってんの? それより今はアレでしょ、知らないの?
 吉野に関してもそれは同じで、それとなく別のゲームを勧められるようになった。吉野の家に行けば、他のゲームをやる。ロボパケは起動すらしない。持っていったけど、かばんから出すこともなければ、持ってきたことを告げることもなく帰ったこともある。吉野の家でやるゲームは、ロボパケの関連ゲームだったこともあったけど、本編じゃないから僕は持っていないことがほとんどだった。普通に僕が負けて、ちょっと興ざめみたいになった。僕は割と、楽しかったのに。
 四年生になる前の春休み、その時になって初めて見つけた攻撃方法の話を吉野にした。しかし、まともに吉野は耳を貸さなかった。
「いいよもうロボパケは。つまんない。俺もうあれ飽きた」
 吉野がうんざりしたように言う。強い口調だった。確かに、ずっと同じゲームの話ばかりはしんどいのかもしれないと、大いに僕はあの時反省した。だけど、あの時の僕にはそれしかなかった。どうしようもなく、戸惑った。

 そうする間に、人気者の吉野はどんどん僕以外の友だちを増やしていった。僕も、吉野を通じて友だちになった子もちまちまいながら、それでも吉野ばかりと遊んでいた。吉野も僕と遊ぶ頻度は多いみたいだけど、やっぱり僕と合わない子もけっこういて、遊びに誘っても断られたりすることも増えていった。クラスが同じだと、他の友だちと仲良くしている場面をきっちりと目の当たりにする。ロボパケにばかり傾倒してしまう僕なんて、そのうち、疎遠になって遊んでもらえなくなってしまうんじゃないか。吉野のような人気者なら、僕なんかもともと相応しくなかったのかもしれない。寂しさと不安が胸の中に生まれていた。
 この時はまだ、そんな風に感じていた。



   十三歳

 吉野の席はいちばん後ろの窓際だった。吉野自身は、窓の縁に腰を下ろし、窓を背にカーテンに身を預けている。椅子の背もたれに行儀悪く長い足を乗せて、ガハハと粗野な笑い声をあげている。今となっては、軽い威圧感すら感じる。
 ――あまり長く見ていてはいけない。見ていることを、気付かれてはいけない。絶対に。
 そう思い至った僕は吉野の背後、窓の外に目を向ける。まだ午前の、八時台の空が注ぐ光はカドのとれた明るさだった。それを浴びたらきっと気持ちいいはず。だけど、今その光を背中に浴びている吉野はきっと、そんなことにはきっと気付いていないだろう。吉野の左隣、僕の席から見れば右隣の席に座る、彼の親友との談笑に、吉野は夢中になっている。この二人は、本当にずっと仲が良い。その事実だけで、ため息が漏れてしまいそうだった。
 あの時は、僕が座る前から話しかけてきていたことを思い出す。五年生になったばかりの僕はちょっとだけ無理をしながら、それでも無難にあいつらの声に応じていた。胸の中に渦巻いていた失望をひた隠しにしながら。

 だけど、今回はきっと違う。僕は目も合わさないまま、挨拶もせず、自分の席に座る。そのまま、まるでそこに見えない壁でもあるかのように、ひと言も言葉を交わさずに過ごす。そうでないと、困る。もしいたずらにこいつらが声をかけてこようものなら、僕は努めてそれを無視して相手にしないようにしなければならない。ここからいなくなった存在のことを思えば、それは当然のことだった。今までだって、ずっとそうしてきた。相手が怒っても、僕の立場が悪くなるようなことがあったとしても、絶対にそうしなければならなかった。
 視線をそらし、僕は静かに席についた。前を向き、さっきも見た時計をまた見る。このままの状態で、僕は何分待てばいいのか。改めてもう一度、予鈴まで、先生が来るまでの時間を計算する。一度、たまらない気持ちになってぎゅっと目を閉じた。



   十歳

 ここいらで、桝(ます)天馬(てんま)の話をしなくてはならない。
 僕の心が折れだしたのは、四年生も後半に差し掛かる頃だった。
 友だちの友だち。違うクラスの子にもどんどん手を広げていった吉野が、最終的にいちばん仲良くなった友だち。それが、桝天馬だ。どうもかなり仲良くなったみたいだと人づてに聞いて、僕は露骨にげえっと思った。あいつだけは、嫌だ。ひと言も話したことはないけど、合わないのは明白だった。というか、関わりたくないレベルだった。
 桝天馬は有名だった。文武両道で人気者の吉野もかなり有名な子どもだったけど、桝天馬はその上を行く。それはそれは、悪い意味で。
 女の先生を泣かしたとかはまだかわいい方で、いつもいじめの主犯格として名前が挙がるし、ピンポンダッシュとか万引きとか、割とシャレにならない話がいっぱいあった。下校路を歩いていた綺麗な女の人のスカートの中にいきなり潜り込んで、ストッキングを噛みちぎって逃げたって話が、さすがにどこまでが本当か分からない話だけど、いちばん最低で、ぜったい関わりたくないと思ったエピソードだった。三、四年生の時の僕らのクラスは荒れてるって位置づけだったけど、桝がいないからまだマシって言われたりもしていた。
吉野からも、桝と一緒に帰ってた時に、顔がおもしろい下級生がいるのを桝が見つけたから、二人でからかってたらそいつが泣いて逃げた、なんていうひどいエピソードを楽しそうに語られて、前よりもっと印象が悪くなった。上級生二人にそんな理由で絡まれたら、僕だって何よりショックだし不安な気持ちになるし、逃げだしたくもなる。本気で注意するのも面倒になって、可哀想だよ、とだけ言って聞き流した。
そんな桝天馬と、吉野はどんどん仲良くなっていってしまった。あんまりにも仲良くなってしまったので、すごく嫌だったけど一緒に遊ぶはめになった。嫌な予感は的中し、僕は泣かされた。レースゲームを一緒にやっていたんだけど、吉野がやっぱりうまくてずっと一位、もともと僕はそのゲームが苦手で負けまくってたんだけど、吉野が桝を強制的にコースアウトさせて、桝が走り出そうとしたところを僕がテキトーに投げたアイテムが当たってすぐにまたスピンさせてしまったのだ。自分がやられたら、ちょっと頭にくるやつだ。僕も狙ったわけではなかったけど、嫌な予感がするなあと思いながら桝を抜いてゴールしたら、こめかみに衝撃が走った。桝にコントローラーを投げつけられたのだ。あまりの衝撃と痛みに僕は泣き叫び、自分の家のコントローラーを投げつけられた吉野は怒り(なにげに僕が攻撃されたことに怒ったんじゃなかったのがショックで余計に泣いていたのは、腹が立つから今でも吉野には内緒にしている)、僕がアイテムをわざとぶつけたと決めつけ、僕が悪いと桝は声を荒げ、最悪な雰囲気になった。僕は怖くなったので、そのままコブを押さえながら家に帰った。家に着く頃にはかなり落ち着いていたけど、明らかに泣いたアトがあり、コブができてる状態の僕を見て、お母さんが心配して事情を聞いてきたけど、チクッたなんて話になったら、それこそまた何されるか分からないって思って、遊んでて転んで頭をぶつけたって嘘をついた。
そんなことがあったのに、桝と吉野は仲がいいままだった。吉野が仲介して、何となく仲直りみたいなこともさせられた。さすがに桝がしたことの方がひどいし、吉野もそれははっきり桝に言ってはくれたみたいで、桝も謝ってはきた。桝が気に食わないとは言え、謝られてしまったら許さない方が悪者になるのは分かりきっていたので、表面上、許してはやった。
だけど、やっぱりこれはどうなんだろうと、考えるようになった。僕にも吉野が絡まない友達ができ、吉野と約束していると伝えると、悲しそうな顔をしてくれるような子も出てきてくれた時期だった。もう四年生も後半に差し掛かっていた。運よく、一年生から四年生まで吉野と同じクラスだったけど、今度こそ離れてしまうかもしれない。
まだ分からないけど、新しいクラスで友達ができたら、吉野のことを切ったって平気なのかもしれない。そんな風に少しずつ、吉野から気持ちは離れていっていた。
未だにはっきりは分からないけど、吉野も僕の気持ちに気付いていたのかもしれない。ある時、
「また、同じクラスになれたらいいな」
と同意を求めてきた。そうだね、と吉野を見もしないで僕は答えておいた。
まあ、新しいクラスで、吉野がいるいないに関わらず、新しく友達ができるかどうかなんて、分からない。今のうちから、吉野を本格的に切ってしまうのは僕も不安だった。四年生にもなると、自分のキャラクターやクラスでの位置づけも何となく分かってくる。人気者の吉野や、自由すぎる桝はそんなこと考えもしないかもしれないけど、僕みたいな友だちが限られる立ち位置なら、友だちとの関係なんかも打算をしていかないと、いじめのターゲットにされたり、孤立したりしかねない。まだどうなるか何も分からない四年生の最後で、いたずらにこの人気者の吉野がまだ自分になびいてくれてるのを、僕の独りよがりな感情に任せて拒むのは、いくら何でも賢くない。
だけど、今思えば、我慢なんてぜんぜんしなくて良かった。たぶん、僕の今までの人生の中でいちばんの親友に、新しいクラスで出会うことになるからだ。



   十三歳

 クラスのメンバーをざっと見ても、今のところわざわざ席のところまで行って話ができるような相手はいなかった。隣の二人からできるだけ離れたかったけど、こればかりは仕方ない。教室外でわざわざ予鈴を待つことができるほど、僕は目立つことをこれ以上、自分に強いることができなかった。自分がどんどん孤立していく感覚。立つ瀬が削れ、特定の誰かに追いつめられている訳でもないのに、勝手に自分の居場所が急速に無くなっていく感覚は、今でも忘れられない。僕は、絶対になくしてはいけない居場所を、ある日突然、失った。何も分からないまま、何の説明もないまま。僕が意地になって守ろうと背にしていたものは、気がついたら跡形もなく無くなっていた。そのこと自体に後悔はしていないけど、あの感覚は僕の心を震わせる。とても平気ではいられなくなる。僕はそれをよく理解している。
 席についてひと息つくと、隣で話し声が、笑い声が唐突にやむ。嫌な予感がしていた。
「ちょっと、ごめん」
 急に真面目くさった声がした。隣の隣、吉野の声だった。そちらを見やらなくても分かる。あん? と桝が小さく訊ねたけど、その声に吉野は何も返さなかった。
 自分の真横に、大柄な影がよぎる。僕はそちらに顔を向けられない。胸がどくん、と跳ね上がる。たったそれだけなのに、まるでナイフか何かで刺されたみたいだった。視界の端に吉野が机をわしづかんだ手が見える。僕はそれでも信じない。僕に今さら、用なんて何もない。あってもらっちゃ、困るんだ。
「裕貴(ゆうき)」
 名前を呼ばれる。ふざけたところのない、神妙な声だった。それでも僕は前を向いたまま、動かない。相手にするつもりはない。今この瞬間も、これからも。それが、どんな結果を生もうとも。
 こいつは、僕の大切なものを壊したから。絶対に、許せない。
 反応しない僕に、吉野がくじけそうに息を飲む気配があった。机を掴む吉野が手に力が入ったのを感じる。もともと安定せずがたがたしている机が、わずかに揺れて音を立てた。もう、諦めてほしい。吉野。お前と話すことなんて、何もないんだよ。
「おい、聞こえねえのか」
 吉野の背後から、威圧的な声がする。僕の隣の席からだ。その声は、張り上げたような大袈裟な声ではないけど、威圧的な声音だった。それをわざと作って、半ば面白がっているんだ。まるで、火のないところに、煙を起こしたがるかのような。こいつは、桝はそういう奴だ。
 こんな助け舟を受けるなんて、まるで女子みたいだと思って鼻白んだ。少なくとも、吉野や桝みたいな個性には似合わない。くだらない、ずいぶん男らしくないやり方だと思った。
 しかし、そこで思いがけない言葉が出た。
「……桝。お前はちょっと、黙ってろ」
 それを受けた桝が、戸惑うような気配がする。そんなことを言われるとは思ってなかったんだと思う。それ以上続く言葉は、何もなかった。
 僕が前を向いてるんだから、前に回り込めばいいのに。吉野は横に立ったまま、続けた。どこか迷いがあるような、今にもくじけてしまいそうな声をそのままに。その声音に、心が揺れてしまいそうになるのを、僕はこらえていた。
「帰り、ちょっと用がある。待っててもらえないか。渡さなきゃいけないものがあるんだ」
 吉野みたいな活発なタイプの人間なら、馴れ馴れしく話しかけて来たっていいはずなのに。普段の彼のキャラクターから考えると、この画はまわりから見たらちょっと奇異に映るかもしれないと、要らない心配をしてしまう。でもそれでは、僕がもっとまともに相手にしないことを、こいつは知っているんだ。それが僕には、癪だった。
 だから、これは演技かもしれない。いざ待ってみたら、ろくなことが起こらないのかもしれない。いくら何でも二年になった初日から、最悪なことが起きるのは避けたい。待たなくても、最悪な事態に繋がる可能性はないとは言えないけど、それでも僕は関わりたくなかった。
絶対に、待ってやるもんか。これは、僕の意地だった。
「……あの時のことも、謝りたい」
 僕はそこで弾かれたように顔を上げてしまう。そんな安易な言葉だけで、信用すべきではないのかもしれないのに。
 視線の先、吉野の顔は、嫌でもほぼ毎日見ていたはずなのに、僕には新鮮に映った。昔、ずっと一緒に遊んでいた、幼馴染みだったけど、それは今までに見たことのない表情だった。
 僕みたいな、友だちも満足に作れない奴が、好きだと自称する女子が常にいる、かっこいい人気者の吉野にこんな顔をさせている。ひたすら仲が良い時はいいんだけど、面倒なことで吉野と関わると、自分の意志とは反して、面倒なステージにあげられているような気になる。目立ちたくないのに。そう思ってしまう。



   十歳

 そして僕らは、五年生の始業式の朝を迎えた。三年生の始業式とは比べ物にならないくらいの緊張感だった。あの時は、吉野と一緒になれるかな、くらいしか考えていなかったのだから、当然だ。こんなに複雑な気持ちに包まれながら、僕は以前よりもうワンフロア、多く階段を昇る。僕らの小学校は、上級生になればなるほど、教室が上階になる。登校時は面倒だけど、集会がある時は楽だ。体育館が最上階だから。
 階段を昇りきると、四年生の時に学級委員をやっていた子が立っていた。彼は僕が昇ってきたのに気付くと、まるで義務のように話しかけてきた。
「四年生の時の組の教室を……って、中園か。おはよう。中園は俺と同じ一組だよ。そこの教室に入ったらいいよ」
 ものすごく機械的にてきぱき案内してくれたのは、石野くんという子だ。僕らの学年で、学級委員といえばこの子だ。誰よりもしっかりしていて、頭もいい。クラスは初めて一緒になる。だけど、四年生の時にこの子の双子のお姉ちゃんであるエミちゃんと同じクラスで、仲が良かったので、何回か話したことがある。
「あ……ありがとう」
 矢継ぎ早に言われてついつい挨拶を忘れてしまった。何となく、楽しみを奪われたような気もしたけど、僕が一緒のクラスだってチェックしてくれていたのが嬉しくて、僕は笑みを返した。
「学級委員って、こんなことまでやるの?」
 大変そうだと思って聞いた。いまいち、何をしてるのかよく分からなかったけど。
「ばかだな。新学期なんだからまだ学級委員じゃないよ」
「ああそうか」
 石野くんがあまりにも学級委員をずっとやってるから、そもそもの常識がぶっ飛んでしまっていた。言っても学級委員を任命するのは三年生からだから、二年だけだけど。
「わけわかんないんだけど、四年生の時のクラスの教室前に、どこのクラスになったかが書いてあるんだよ」
 僕は首を傾げる。
「中園は四年の時、二組だったろ? で、俺は一組だ。今回は二人とも一組なんだけど、中園の名前は二組の教室前に書いてあるんだ。四年の時に二組だったからって」
 三年生の時は、自分がこれから入る組の教室の前に、自分の名前があった。二組の中に自分の名前があるのを見逃して、何回も見直しちゃった記憶がある。
「そうなんだ。見るとこが決まってるのは分かりやすいけど、でもシステム分からないと、クラスの面子が変わってないみたいに思っちゃうね」
「だろ? 俺らが来た時もう、ちょっとした混乱が起きててさ。俺がこうして階段のとこで案内してるってわけ」
 ら、ってことは双子揃って一緒に登校したってことなんだろうなと、まず思う。石野くんとサシで話すとすごくクールでカタい感じなんだけど、二人でいたり、エミちゃんの話が出ると、ちょっとそれが和らぐ。普段がカタいからなのかよく分からないんだけど、それが石野くんの場合、ものすごくおもしろい。
「なんか、さすがだね」
「誰かがやらないと、たぶんまともに教室に収まらないと思って」
 正直なところ、なんで石野くんがそれをやってるかより、桝や吉野はどこなのか聞きたいけど、わざわざ石野くんに聞くことじゃないし、一緒になってないなら、知らないかもしれない。
「覚えててくれてありがとう」
 改めてお礼を言う。
「ナカゾーと離れたってエンが言ってたから……覚えてた」
 石野くんが話してるうちに僕がちょっと吹き出してしまった。僕が面白がるのを石野くんは知ってるから、じろっと視線が刺さる。エンっていうのは、姉のエミちゃんのことだ。この姉弟はお互いをニックネームで呼び合う。何だかそれが、ちょっとかわいいんだ。エンちゃんことエミちゃんはニックネームをつけるのが好きらしく、僕のことも名字からもじったナカゾーっていう呼び方をする。ニックネームをつけられたことがほぼなかった僕は、普通に嬉しかった。
 僕とは逆で、ちょっと嫌そうな顔をしてる石野くんに、僕はたたみかける。
「ご苦労様。るんるん」
 こんなにクールな感じに思えるのに、エミちゃんには石野くんが朗らかでるんるんしてるように見えるらしい。特に小さい頃はそうだったとエミちゃんは豪語する。きっと、石野くんの名前がルイだからっていうのも大きいからだと思うけど。
「その呼び方、教室ではやめてね」
 引きつった笑顔の石野くんにたいそう和んだ僕は、教室に入っていった。

「おう、裕貴(ゆうき)!」
 石野くんで和んでいたのに、教室に入ってすぐ声をかけられ、僕は目の前の光景に一気に緊張する。僕を呼びかけるのは、窓際の二人。逆光で一人は顔が見えないが、声と体格で分かった。呼びかけたのは、吉野だ。
「お前の席、ここだぞ」
 吉野が歩み寄ってくる。いちばん後ろの席だ。黒板を見たら、あいうえお順で席が決められているようだ。
「正直、三人とも同じクラスになるなんて思わなかった」
 吉野はいつも以上にハイテンションだった。自分の隣の席の名前に、釘付けになる。桝。桝天馬。
「よろしくな」
 桝は立ち上がらないままこちらを振り返って言った。僕は辛うじて微笑んで、よろしくと返した。
 これは、ラッキーなんだろうか。桝はともかく、吉野とも離れることを考えていた僕には、微妙な結果だった。こいつらがいなかったら、たぶん石野くんとかと仲良くする算段を立ててたと思うから。石野くんはフラットに、僕が一方的にロボパケの話をまくし立てちゃったとしても、ふんふん聞いてくれると思うし。
 分からないが、六年間もずっと同じクラスなのだから、吉野とは少なくとも離れられない運命なのかも、とちょっと思った。


 二回目で勝手も分かりきっている、クラス替えがある始業式が終わり、担任も決まった。
興奮醒めやらない吉野は、お昼ご飯もまだなのに、僕らを家に招こうとした。なのに桝は二つ返事で行くと返事していた。
 吉野の家は僕の家から見て、少し遠い。小学生の足で、よくあんな足繁く通っていたなと今は思う。僕と吉野は、家から学校まで十分も歩けば着くけど、方向は真逆だ。僕の家から直接、吉野の家まで行くなら、二十分近くかかる。
「僕はやめとくかな。お母さんも待ってるし」
 これでこの日、行かないで済むならそれがいちばんだった。桝もいるし。親が待ってるのは本当だった。始業式の日で早く帰ることは分かってるから、昼食を用意してくれてるんだ。
 そんなの、考えたらすぐ分かると思うんだけど。桝がにやにやしながら、こっちを見て言ってきた。
「え、お前母ちゃん待ってるから帰んの? なに、甘えに?」
 あまりに予想だにしない物言いだったから、僕は呆気に取られてしまって、何も言葉が出てこなかった。それをいいことに桝は、だっせえとケラケラ笑い出してしまった。顔にぼおっと火がともるような感覚が、あった。
「昼飯あるってことだよな」
 意識的にそうしたつもりは無いんだろうけど、その言葉がいいフォローになってくれた。僕は落ち着きを取り戻し、桝に向き直る。
「あ、うん、そう。ごめんね」
 そう声をかけると、桝は吉野が乗らなかったのが不服だったのか、ふんと鼻を鳴らした。
「別に、俺はお前に来てほしいわけじゃねーし」
 絶対、合わない。こいつとは。吉野とはどうなるか分からないけど、こいつとはできるだけ関わりたくない。
 僕はそのままひと言も声をかけずに、吉野の家とは逆方向の、自分の家に向かって走り出した。


「あ、ナカゾーだ!」
 この名前で呼ぶのはあの子しかいない。振り返ると、小さな交差点の向こうでエミちゃんが大きく手を振っている。さっきの桝の態度でちょっといらいらギスギスしてたけど、そうやって屈託のない笑顔で手を振るエミちゃんと、その隣にいる石野くんに僕の心はふうっと息をついたように落ち着く。
 手を振り返すと、急にエミちゃんが走り出そうとする。危ない、と思った。真横から自転車が来ていて、エミちゃんはそれに気付いていないのだ。自転車のおじさんは二人の存在には気付いてて、スピードは落としていたみたいだけど、まさかいきなり走り出すとは思ってなかったらしくて、慌てるのが見えた。
 だけど、結局エミちゃんはその場から殆ど動かなかった。自転車に気付いてた石野くんが、とっさにエミちゃんの腕を引く。バランスを崩しかけたエミちゃんを支えて、おじさんに謝っていた。大人だ。
 まだびっくりしているエミちゃんの代わりに、僕が引き返して二人に歩み寄った。その間に、エミちゃんが通り過ぎていく自転車に気付いた。
「もう。気を付けてっていってるでしょ」
 説教モードの石野くんにまあまあ、と声をかける。
「おはよう、エミちゃん」
 エミちゃんは石野くんのお説教モードから逃げるように僕に顔を向ける。
「おはよ、ナカゾー。クラス分かれちゃったねえ」
 本当にさみしそうにしてくれるのが嬉しかった。余計な感情を挟まずに語り合えるエミちゃんと離れるのは、僕だって寂しかった。
「ホントねー、エミちゃんは三組だったっけ?」
 クラス発表の用紙は石野くんが教えてくれたから見ていないけど、始業式で最後に体育館に入ってくる三組の列の中にエミちゃんがいるのを見かけた気がする。
「そうそう、ハゲ学級」
 一瞬、何のことか分からなくて、一拍遅れてから僕はぶっと吹き出してしまった。言われてみれば三組の担任になった先生の頭は、さみしい。閑古鳥さえ寄りつかない。それをにべもなくハゲ学級って言えてしまえるエミちゃんが、僕は大好きだ。
「中園、笑いすぎだよ」
 石野くんが、すっかり歩が緩んでしまっている僕らをさりげなく先導しようとする。だけど僕は、というか僕らは何となくこのまま歩き出すのは気が引けて、石野くんに目配せする。
 石野くんはすぐに気付いてくれて、隣で自分は空気ですと言わんばかりに目を伏せている子の肩に、自分の手を置いた。
「あ、ああごめん。この子は入文(いれふみ)。この子も一組だよ」
 何となくエミちゃんと二人で盛り上がっちゃったけど、石野くんたちはもともと三人で歩いていた。僕と話すのは初めてだからだろう、エミちゃんと盛り上がっている間、彼は口にばってんしたようにずっと黙っていた。
「こっちはナカゾー、じゃなかった中園くん。あたしと四年まで同じクラスだったの」
エミちゃんの言う中園くん、というのがあまりにも今さらでコレジャナイ感がすごい。
「あ……よろしく」
 この時は、ちょっと人見知りがちな子なんだろうなと思った。何となくそんな雰囲気があったから。さすがに五年生ともなると、一回も同じクラスになったことがないとしても、全く顔の知らない子というのはいない。何人かは、顔は知ってても名前は知らなかったり、顔と名前が一致してなかったり。入文くんは、前者にあたる。
「よろしく!」
 僕も割と人見知りなところはあるけど、気の置けない二人を介していることもあって、気が大きくいられた。石野くんと仲が良いみたいだし、これから同じクラスなんであれば、これから仲良くなることもあるかもしれない。
 というか、この二人と仲良くなってしまって、吉野たちからうまくフェードアウトできないだろうか。そんな考えまで、この時点でよぎっていた。入文くんはまだどんな子かはっきり分からないし、僕と気が合うかまではさっぱり読めないけど。
 だけど、今まで話せていなかった子と、始業式の日から話せるなんて、いい滑り出しかもしれないと思った。
結局、入文くんはこれから、僕がいちばん仲良くなった友だちだったから、ものすごくラッキーなことだったんだけど。


 実はこの日、既に僕らはものすごく距離を詰めることになる。
 漫才みたいな石野姉弟の会話に僕はゲラゲラ笑い、入文くんは控えめに石野くんに同意したり、かと思えばエミちゃんに的確なツッコミを入れたりしていた。入文くんはけっこう、ツッコミが的確で面白いことが分かった。
 それはいいんだけど、話の流れの中で、ちょっと僕らは困ったことになる。
「入文くんは家、どこなの?」
 もう少しで石野姉弟と道が分かれるかなってところで僕が聞いた。きっとそこで僕が一人、分かれることになるんだろうなと思い込んでいたので、割と軽い気持ちで質問した。
 すると、姉弟が思い至ったように、あっという顔をした。ちょっと、気まずそうに。入文くんはそれに気付かない様子で、答える。
「町スパの裏だよ」
 町スパは僕の家からも近い。短い坂を下りたらすぐだ。とどのつまり銭湯なんだけど、わざわざこましゃくれた名前にしてるって、お父さんが鼻で笑っていたのを思い出す。でもお風呂が壊れたことがあったから、一度は家族総出でお世話になった。
 町スパの裏は、アパートだ。場所はすぐに想像がついたのは良かったけど、問題はそこまでの道のりだ。
「そっか、近いなあ」
 僕も微妙な気持ちになりながら答えた。姉弟は僕が質問したことで、すぐに思い出したんだと思う。入文くんと帰る時、入文くんは僕と帰った時と同じ道で分かれることを。
 そうなのだ。今、初めて話して十分も経ってないけど、僕らは姉弟と分かれて、二人で帰ることになる。
 何となく微妙な空気になったのを入文くんは気付いただろうか。分からなかった。どちらにしたって、この姉弟と分かれるコーナーはあと二、三分ってところだった。

 結局、微妙な空気を残したまま、姉弟と分かれるコーナーに差し掛かった。エミちゃんはいつも通り、笑顔で手を振ってくれた。石野くんもそれに倣ったけど、明らかに心配そうだった。
 まあ、言ってもここから僕の家までも十分ってところだ。一緒なのはせいぜい五分だ。その証拠に、視界の端に既に町スパの看板になっている緑色の「ゆ」の文字が見えていた。
「面白いよね、あの姉弟」
 他に共通の話題が見出せていなかったので、今別れた二人の話をする。
「うん。そういえば、なんでるんるんなの?」
 さっき一回、ふざけて僕が石野くんをそう呼んだんだけど、入文くんは石野くんの方が仲よしだからか、ほとんど初耳だったらしい。
「ああ、何でだろう。エミちゃんがたまに呼ぶんだよね。理由までは分かんないや」
 この時点ではまだ、由来を聞いたことがなかったから、そう答えた。というか、入文からこう聞かれたことが、彼らに由来を訊ねるきっかけだった。
言ってから、これだと話が続かないかも、と歯噛みした。
「ルイだからかなあ。涙と書いてルイってのも、すごい名前だよね」
 エミちゃんは「笑美」って書くから、双子で相対するものにしたのは分かる。確かにすごい名前かもしれない。使っている漢字がちょっとネガティブなイメージがあるし、それを男の子の方につけるっていうのも、珍しいとは思う。
「そうかもね。でも、入文くんもそうだけどさ。ら行が入る名前って、かっこいいと思うな」
 僕は自分が割とありふれた名前なので、そういうちょっと羨ましいんだ。僕の名前は、お母さんが好きなタレントの名前から取っていて、漢字はお父さんとおじいちゃんが一文字ずつ決めてくれたらしい。お父さんは「貴行(たかいき)」って名前なので自分の名前から一文字取ったのと、おじいちゃんは「ゆう」というお題を与えられて、じゃあ「裕福」の「裕」でってことにしたらしい。あなたが「裕貴」なのは正真正銘、私たちの子どもなんだってことを証明しているのよって、お母さんが得意げにピントのずれたことを言っていた。
「そうなの? 僕の名前って五文字もあるから覚えにくいらしくて、よく名前忘れられるよ。入文の名前って何だっけ、とか言われてさ。非難したら入文は入文だしとか言われるし」
 ほぼ初対面の僕ですら、きちんと覚えているのに、と思って僕はびっくりした。
「ええ、ひどいね」
 でしょう、と困ったように入文くんが応える。
「そうなの。ブラックアクシーム状態っていうかさ。だから中園くんくらい、呼びやすい名前の方が、きっといいんだよ」
 そうなのかなあと思いつつ、僕は別のところがやっぱりすごく気になった。何故ならブラックアクシームはロボパケのキャラクターだからだ。
「ブラックアクシーム状態って?」
 だけど、そんな言葉があるのは知らない。
「あ、今勝手に作ったけど。あのキャラってアニメでオノ坊って愛称つけられちゃって、なかなかブラックアクシームって正式名称を知らない人多いじゃん」
 そんなことで、さらっと言葉を作ってしまえる入文くんがちょっとかっこよかった。
「確かにそうだねえ……確かにあれって、かわいそうかも。っていうか、入文くんもロボパケやるんだね」
 僕は何とかここからロボパケの話ができないかとつい、思ってしまった。だけど考えているうちに、入文くんがそのまま続けてしまった。
「うん。あれってホントかわいそうなマシンだよね。主人公がアニメでああやって、斧つけて戦わせるからみんなそれマネするけどさ。鈍足だって言ってみんな使わなくなるじゃん。実際、斧の代わりにシールドと実弾兵器つけて距離取ってちくちくやるとすごい強いのに」
「え……」
 僕が大好きなロボパケの話なのに、僕は思わず口を噤んでしまった。得意な話題のはずなのに。不用意に出てきた言葉を口にしたら、恥をかく。そんな気がした。
「あのマシン、防御値すごいカスタマイズできるじゃん。装甲かためたら、案外無敵だよね」
 そんなこと、知らない。ついつい、そうなの? と返したくなるが、自分のプライドが許さない。だけど、分かる。自分がプレイしている内容より、数段レベルが高い。最近では話題に出すのも憚られるようになってきていて、僕もやきもきしてしまっているのに入文くんは、こんなにばんばんロボパケの話ができるなんて。
 確かに、オノ坊ことブラックアクシームは、かなりスピードが遅く、パワータイプのマシンだ。斧の攻撃は当たれば強い。だけど、入文くんが言う通り、鈍足なので相手の間合いに辿り着くまでに時間がかかったり、間合いに入っても外せば結構すぐピンチに陥る。もともと、アニメで使われているような人気のマシンは、僕みたいにハマってる子からすれば敬遠したくなるので、ちょっと使って、やっぱり斧をつけて使いにくいからってんで、すぐ倉庫行きになってしまった。
 その上で、あんな見るからに格闘タイプのマシンに、実弾兵器を積むなんて発想が、僕には無かった。弾数を込めるともっと鈍足になってしまうし。アニメでのイメージが強いのもあったけど、そもそも実弾より近接の剣や斧で大ダメージを与えて倒す方が爽快だし、リスクが高い分、スリリングだ。五体のパーティも、僕はほとんど近接武器でカスタマイズして揃えている。ブラックアクシームほどのパワーはないが、その分素早く動ける斧使いとか、正統派で能力バランスがいい剣使いとか、変わり種だけどクリティカルで恐ろしいダメージが出せる槍使いとか。射撃武器も使わない訳じゃないけど、メインじゃない。相手から距離を取られた時用に、あくまでサブで付けているくらいだ。ビームだろうが実弾だろうが、そこは一緒くたにしてしまっている。
 もしかして、入文くんと話していたら、僕はもっとロボパケに詳しく、そして強くなれるんじゃないか。
「そう、だね。あのさ入文くん。昼過ぎって忙しい?」
 町スパはいよいよ目の前だ。入文くんのアパートは、きっとあれだろう。もうすぐ入文くんとは別れることになる。
「うん? いや、何もないよ」
 入文くんは僕の心の動きなんて全く気にも留めていない様子で、こちらを振り向いた。
「ねえ、お昼ご飯食べたらさ、僕とロボパケで対戦しない? 僕の家でも、入文くんちでもいいからさ」
 入文くんは驚いたみたいだけど、すぐに返答があった。
「ああ、うん。いいよ。うち、貧乏であまりゲームは買ってもらえてないからさ、やりすぎてて変に強くなりすぎてるかもしれないけど」
 理由は違えど、僕だってやりすぎなくらい、あのゲームはやり込んでいる。今もまだまだプレイしているくらいだ。発想とかはすごいのかもしれないけど、実際に対戦してみたらどうなのか。それを確かめたかった。久しぶりに、血が騒ぐ。
「嬉しいな。今となっては対戦してくれる子なんていないよ」
 入文くんがぎこちなく微笑んだのを見て、僕も何だか無性に嬉しかった。

 結果は僕の惨敗だった。話し合って、僕が入文くんの家に行った。ケーブルを使って、僕と入文くんの携帯ゲーム端末をつなぎ、対戦する。入文くんは迎撃が完璧だった。僕が繰り出す攻撃の方が、はるかに迫力があって、普通ならもっとダメージが通るはずなのに、いまいちいつもの数字が出ない。回避がうまいのだ。よけきれずに被弾しても、装甲がそこそこ厚いみたいで、なかなかダメージが通らない。入文くんの装甲が厚い分、スピードは僕が圧倒していた。だけど、自分の動きに注意を払わなくていい分、入文くんは最低限の動きで、僕の動きに集中しながら、地道に攻撃を命中させてきた。全体的に特攻型で、装甲は薄い僕もよけるのは得意なつもりだったけど、見たこともない追尾武器や、比較的命中しやすい実弾武器に追い詰められて、いつも以上にガンガン攻撃が当たり、気付いた頃には瀕死になっていた。間合いに入ったと思ったら見たこともないような変則的なカウンターを決められたり、チェーンという鎖の武器を僕のマシンに引っ掛けられ支点にされて、入文くんのマシンは遠くへ飛んで行ってしまったり。そして、また僕が近付こうとする間に、ガンガン実弾を当てられてしまう。
衝撃だった。他のみんなも洗練されていた、いちばんのブームの時でさえも僕は誰にも負けなかったのに。なのに、全く歯が立たなかった。
入文くんに正直にそれを話した。全盛期の時でも、負けたことはなかったと。
「ああ、昔は僕、負けまくってたよ。マイナーな弱っちいロボットに変なカスタマイズばっかりしてたから、レベル上げとかカスタマイズの時間が足んなかったもん。共闘でもお前は使い物にならないって言われてたなあ。みんな特攻しすぎるから、射撃兵器で後方支援しようとしても、ばんばん味方に当たるんだよねえ」
 頭をかきながら、暢気に入文くんが言う。実際の装備や、カスタマイズの履歴などを見せてもらうと、なるほど時間がかかりそうなことばかりやっているのがよく分かった。バトルフィールドである箱庭の収集までやってある。こんなのものすごく時間がかかるし、根気がいる。そんな時間があるなら、自分の手持ちロボットのカスタマイズやレベル上げに時間をかけた方が、勝率は上がる。普通に進めてゲームクリアまで行っても、五つか六つ程度で終わることがほとんどだ。箱庭一覧のページで、ページスクロールする人なんて、僕は今まで見たことがない。端から端までこのゲームを楽しんでいるんだなということがひしひしと伝わるセーブデータだった。
「他の子が強くなっていったら、焦らない?」
 僕は何度もそれで焦った。続編が出た時なんかは、吉野に追い抜かれそうになって、焦ってレベル上げを切り上げ、シナリオを進めた時もあった。
「そういう時もあったけど、僕はゲーム下手で遅いしね。諦めてたかなあ。それにみんなみたいにガンガン進めて早くクリアしちゃったら、やるゲームがない日々に入っちゃうから、ゆっくりやる癖があるんだよね」
 見せてもらったら、確かにゲームは数えるほどしかなかった。テレビゲームがそもそも、入文くんの家には無かった。ソフトどころか、据え置きのハードが一切ない。ロボパケをやる携帯ゲーム端末自体も、お母さんがパチンコで当ててきたものらしい。
「ゲームってそれまで本当に何にも買ってもらえなかったから、当ててきてくれた時は、すっごい嬉しかったなあ」
 そもそもお母さんがパチンコをやるっていうのが僕にはカルチャーショックだった。僕のお母さんはパチンコとか、賭け事の一切を嫌っていて、たまにお父さんが息抜きにパチンコへ行ったという話を聞くと、その日は一日じゅう不機嫌になる。ああなっちゃダメよ、と僕に耳打ちしてきたりする。
 だけど、それを語る入文くんの顔を見ていると、まあいいかと思えてくるのだった。吉野みたいに女の子が一発でときめくような、きらきらした造作のきれいな笑顔とはまた違うけど、入文くんのひたすら穏やかで素朴な笑顔は、例えば犬や猫のような動物が微笑むような具合だった。うまく言えないけど、それを見るだけで、色んなことがどうでもよくなる感じがあった。
 僕が入文くんときちんと友だちになりたいと思ったきっかけはその笑顔だったかもしれない。ロボパケを究めたい気持ちも当然あったから、もっとロボパケについていっぱいいろんなことを聞きたいというのが先立ったけど、その笑顔はどこまでも純朴で、いい子なのがすぐに伝わってきた。
 僕があんなにも短期間で、この子のことを信頼したのは、きっとそれが根底にあったからだ。この子は、僕を裏切らない。僕がどうとかじゃなくて、裏切るとかそんな発想自体がない。きっと、そういう子だ。



   十三歳

 渡したいもの。
受験のこともそろそろ真剣に考えなきゃいけないなんていう、この誰の目にもまばゆい春にはまったくそぐわない話を新しい担任の先生がしている最中、僕はそれが何なのか、ずっと考えていた。
 吉野と話したのは久しぶりだった。意識的に避けてきたから。めいっぱい努力して。孤立してしまって心許ない時だったとしても。かなり無理のあるシチュエーションで不自然に無視をしたことだってあった。
吉野とは同じ中学にそのまま入ったけど、さすがにそこでは別のクラスになった。桝とも。僕にとって、それがどれだけ救いだったか。中学からは、小学校では隣の校区の扱いだった子たちも一緒になる。彼らの小学校の子たちは、住まいで通う中学校を二分されてしまう。だけど僕には羨ましい環境だった。僕の小学校の子たちは全員、そのまま同じ中学になる。親が引越をしたり、飛び抜けて成績がよければ別の中学に通うこともあるけど、いても学年に一人か二人だ。全員もれなく同じ中学に通う学年もざらで、僕らもその例に漏れなかった。残念ながら、僕はそんなに飛び抜けて勉強ができるわけじゃない。そんな子は、ロボパケにどっぷりハマりこむ時間さえない。お受験真っ盛りな都会じゃないので、校区以外で中学校を選ばないといけないほど、この町の高校受験はハードじゃない。
 小学校までの人間関係を諦めなければならなかった僕にとって、別校区だった子たちは最後の希望だった。四十人になったクラスの中の、十人。もともと、友だちのハードルが他の子より高い僕にとっては、選択肢が少なすぎるきらいがあった。結果として、普通に話せるようになった子が、一人。後で同じ小学校だった子に吹き込まれるよりは、と思い、ある程度、話せるようになってから事情はぜんぶ話した。その子は特に気にしないでくれた。だけど、そう気が合うわけじゃなかったし、その子は小学校からの友だちもいたから、ずっと一緒とかはムリそうだった。
 結局、特別仲のいい子もできないまま、一年が過ぎた。だけど、あの頃と比べたら、ずいぶんマシだった。
 誰もが、自分を避ける。黙殺される。いじめられることすら、ない。無視されることもいじめのカテゴリに入ることが多いけど、僕が無視されるのは、関わりたくないという、はっきりとした意志があった。気が狂いそうだった、六年生の半年間。あんな環境に陥ることなんて、全く想像していなかった。



   十歳

 始業式からすぐ、席替えがあった。吉野は不満げだったけど、僕は内心、すごく嬉しかった。るんるんこと石野くんと同じ班になり、席もななめ同士と近かった。休み時間、入文くんが来てくれるのだ。三人で話すのは新鮮だったし、吉野やその友達といるよりずっと楽しかった。吉野とだと、ちょっとついていけないくらいハイテンションになる時があるので、たまに無理をしないといけない。桝がいるって時点で、僕はかなり無理してるけど。だけど割と他の友だちといる時でもそれは一緒だった。明るくて楽しい子が自然と吉野の周りには集まるので、何となく僕はその中だと浮いてしまうところがどうしてもあったのだ。席替えをした後は、吉野とも桝とも席は遠かった。
 学校外で遊ぶ話になるのも、四月のうちに出た。そもそも始業式の日に、入文くんの家に行っている訳だから、そこのハードルはお互いに低かった。
「そんなすぐ仲良くなると思わなかった」
 始業式の日に家に行ったことを告げると、石野くんが目を丸くしてそう言った。確かに、入文くんはかなり大人しいタイプだ。石野くんと僕といる時ですら、口数が少ない。石野くんの中でも、やっぱり僕は吉野と一緒にいるイメージだったらしく、吉野があれだけ明るくわんぱくだから、僕のことも似たようなものだろうと思っていたらしい。
 五月のうちに、改めて石野くんと入文くんのアパートにも行ったし、僕の家にも二人を招いた。最後に、石野くんのマンションにもお呼ばれして、エミちゃんと四人で遊んだりもした。
 その他にも、がっつりロボパケがしたいとなれば、石野くんには申し訳ないから、二人で遊んだりもしていた。そうすると、自然と吉野たちと遊ぶ回数は減った。吉野は吉野で、今のクラスでの新しい友だちもできたようだし、いざとなれば桝と二人でも遊んでいるようだった。
 だけど、他の子と約束があるという理由で数回連続して断ることになった時には不満げだった。
「ふーん。最近、ぜんぜん来てくんないじゃん」
「そう? こないだだって行ったし、ぜんぜんってことなくない?」
 つい前の週に遊びに行っているタイミングだった。でも、前はほぼ毎日だった。頻度が減ったのは確かだ。だけど、面倒だからそれには触れない。
「まあ、お互い様じゃない? 吉野にも僕の知らない友だちもいっぱいいるじゃん」
 桝やその子たちから比べたら、僕なんて別に楽しくないでしょ? という言葉は何となく面倒臭くなりそうだから、言わないでおいた。僕に粘着する意味がよく分からないのがこの時の本音だったけど。
「だから、来いって言ってるのに」
 吉野が口を尖らせる。他の友だちに僕を紹介して、僕も混ぜてみんなで遊びたいらしい。教室にいる時も、最近はほとんど吉野のところに行かないから、その機会はなかなか作れない。僕に、入文くんや石野くんみたいな存在がいなかったら、きっと吉野の思い通りにすんなり遊びに行ったり、紹介させてもらえたりしたのかもしれない。
 吉野は、石野くんが苦手っぽい。成績の面でライバル視してるっぽいけど、石野くんの方が明らかにできる。代わりに、石野くんは体育がぜんぜんだめだ。
「まあ、今日はどっちにしても無理だから。じゃあね」
 全く相手にしていないかのように、さっさと踵を返してしまう。吉野の視線は感じなかったから安心していた。その時、吉野が見ていたのは遠くで僕を待っていた入文くんだったことに、僕はこの時、気付いていなかった。

 この時が、いちばん楽しかった。すごく、すごく短かったけど、入文くんも、石野姉弟もいたこの時期がいちばん。この時の記憶が無かったら、僕はとてもじゃないけど今までを乗り切れなかった。



    十一歳

 それが崩れ出したのは、六月。時期を計算するたびに、本当に短かったんだと思い起こすたびに痛感する。あの頃を、あの春と形容してもいいくらいだなんて。年齢を重ねるごとに時が経つのは早くなると聞くけど、あの春だけはそれ以前よりも妙に僕の中では緩慢で、濃密だ。
「夏休み中に、引っ越すことになった」
 石野くんが告げた住所は、県さえも越えていた。電車での所要時間を聞いて、小学生だった僕らには果てしなく遠いところであることが窺えた。
 その日、同じ告白を本当に仲のいい子に告げに行ったらしく、エミちゃんは不在だった。
「……そっか」
 寂しいけど、こればっかりはしょうがない。石野くんのお父さんが異動となり、それに伴い、家を買ってそこに住むのが、引っ越し、それと転校する理由らしい。
「手紙を書くよ」
 僕が言うと、石野くんが僅かに微笑んだ。
「――ありがとう、エンも喜ぶよ」
 僕はそこで違和感を覚えた。言葉の内容とは裏腹に、石野くんの声はどこか緊張していた。何故か、妙に雰囲気も重い。僕の声なんて、まるで届いていないのではと疑ってしまうほどに。
 そういえば、入文くんが喋っていない。僕が言ったみたいなことは、僕より長くいる入文くんから出てきてもおかしくないのに。僕は入文くんを振り向いた。
 入文くんは、僕が振り向いてもそれに反応しなかった。俯いているのに、目は開かれたまま、焦点が合っていないように見えた。
「入文」
 石野くんが呼ぶ。その声に、ようやく入文くんが顔を上げる。すぐに返事はなかった。石野くんもまだ緊張した様子が解けないまま、入文くんを見ている。
「――なに」
 言葉が出て、初めて気付く。入文くんは傷ついている。仕方のないことなのに。どうしようもなくこの子は傷ついている。普段は石野くんと競るくらい冷静で、穏やかなのに。心が波立っているのが僕の目にも明らかだった。
「中園もいるしさ。達者にやれよ」
 声をかけられながら、入文くんは視線を外し、また俯いてしまう。泣き出してしまうんじゃないかと、僕ははらはらした。本当に泣き出していたらそれはそれで驚くけど、入文くんの顔を見ていたら、僕まで緊張してきた。
 だけど、仕方のないことなのかもしれない。例えば僕と吉野だったとして、吉野が桝なんかと仲良くならずに、ずっと僕とばかり仲良くて、うまくいっていたとしたら。たとえ今回みたいに仕方ない理由で離れてしまうんだとしても、僕も耐えられないかもしれない。
「……分かってるよ」
 入文くんはちょっとムキになったように、強い口調でそれを言う。でもちょっとそれは理不尽じゃないかと思う。ここからいなくなってしまうのは、石野くんのせいじゃない。石野くんだってつらいはず。仲良しなのに、そこを汲んであげられないのだろうか。

 帰り道で、ついそのことを僕は入文くんに指摘してしまった。
 当然だけど、家がすごい近いので、石野くんのマンションからの帰り道は、僕と入文くんはほとんど家まで一緒だ。
「……元気出そうよ、入文くん。そんな顔してたら、石野くんだって転校してから気になっちゃうよ」
 何だかこんなに子どもっぽい入文くんを見るのは初めてだったから、僕も戸惑いが隠せない。
「そんなの、分かってる」
 石野くん本人に言ったのより、更に刺々しかった。僕もちょっとむきになる。
「だったら」
「うるさいなあ。何にも知らないくせに」
 入文くんは半泣きだった。そのまま走り出してしまう。何が悪かったのかまるで分からず、僕は入文くんを追うことはできないまま、せっかく同じ道のりだったはずなのに、とぼとぼと一人で帰路についた。


 しかし事情はすぐに明らかになる。
 僕はその日、学校に行ってから熱を出してしまった。前日に雨を浴びたせいで、風邪を引いてしまったのかもしれない。夏休みはもうすぐで、石野くんが引っ越してしまう前に、めいっぱい遊びたいのに、と歯痒い気持ちになった。
 保健室には先客がいた。ベッドに入ろうとすると、声をかけられた。
「……ナカゾー」
 呼び方で誰だか分かったけど、明らかに声に元気がないから、心配になった。
「どうしたの、具合悪いの?」
 自分も具合悪そうなのに、エミちゃんは僕を心配してくれた。
「うん。熱出ちゃって。そっちは?」
「うーんと」
 困ったように寝たままのエミちゃんが視線をそらした。
「私も、そんなとこ」
 きちんと嘘をつく元気も無さそうだった。僕も熱でくらくらしていたので、それ以上追及する気にはならなかった――きっと正直に話してもらったとしても、当時なら理解できなかったと思う。
僕らは横向きになって、声をひそめて、ゆっくりと会話をした。―引越の話、石野くんから聞いたよ。寂しくなるね。 ―うん。あたしも寂しい。 ―もう、どうしようもないんだもんね? ―そりゃあね。こないだチエッティとノンノに言ったら、超泣いてくれてね、あたしも泣いちゃった。 ―そっか。
女の子はそうやって寂しがって泣き合えるからいいよな、と思う。男子どうしではなかなかできない。どうしても強がってしまうし、あまり寂しがるのも申し訳なく感じてしまう。こないだの入文くんみたいな態度は、女子どうしなら違和感なく受け入れられたのだろうか。
「そうだ。ナカゾー」
 エミちゃんはちょっと考えて、それで意を決したように僕の目をまっすぐ見た。具合が悪そうなのに、その目だけは力を取り戻したかのように、強い。
「るんは男の子だから、うまく言えないと思うから、あたしが言うね。ふーみんのこと、くれぐれもよろしくね。ぜったい、裏切らないであげて」
 ふーみんとは入文くんのことだ。男子は基本的に、苗字からもじることが多いみたいだ。
「ああ、うん」
 僕はよく分からないまま頷く。しかし、やっぱりこんな風に言われるなら、何かあるのかもしれない。入文くん、それに石野くんのあの雰囲気からして、事情があるのではと考えてしまわざるを得なかった。
「それは大丈夫だけどさ。でも、どうして?」
 二ヶ月以上一緒にいて、確かに入文くんはクラスの中で、他に仲いい子はいないみたいだった。ほとんど石野くんにべったりで、石野くんが学級委員の活動とかでいなかったら、僕のところに来ていた。そして、僕もそのタイミングで吉野とかといたりすると、決まって入文くんは一人で過ごしていた。僕が吉野から離れて席に戻ると、やってきた時もあった。
「るんから聞いたんだけど。ナカゾーって、桝とも仲いいんだってね」
 仲がいいという風に見られてしまうのか。実際には苦手なんだけど。
「吉野と、仲がいいからね」
 養護の先生もいるし、変なことはあまり言えない。熱もある状態だったから、強い口調で否定する元気もなかった。
「そっか。実はね、三、四年の時、るんとふーみんと、桝も同じクラスだったんだけどさ」
 そこでエミちゃんがベッドから身を乗り出し、手招きをする。耳打ちをしたいらしい。僕は何とか身を乗り出す。
「わ、本当に熱あるんだね」
 僕の耳を覆おうとして、ほっぺたに触れた手がびっくりしたみたいだった。気を取り直して、僕の耳の周りに両手で輪っかを作り、囁いた。
(桝がふーみんをいじめてたの)
 体勢が辛かったみたいで、そそくさとベッドに戻っていく。小声にだけして、エミちゃんが続ける。
(でね、るんが見かねてふーみんに話しかけて、それで友だちになったの。るんなら学級委員だし、真面目だし、友だちも割と多いからいじめられたりとかはないし、桝もチクられるかもって思ってやめたみたい。だから)
 話が見えてくる。そしてこの状態で、これから石野くんがクラスからいなくなる。と言うことは。
(あの子を孤立させないでほしいの。桝だったらナカゾーをもっと引きこんで、ふーみんを孤立させるくらいのこと、しようとするかもしれない)
 傍から見れば、面倒な役回りを押しつけられたように思うかもしれない。だけど、もう既に僕の気持ちは入文くんの方にある。桝自身が嫌いだし、今まで表面上仲がよいように振る舞っていたとはいえ、もうどちらかを選ぶしかないとすれば、入文くんを選ぶつもりだ。石野くんが転校してしまうということが分かっても、その気持ちは変わらなかった。二人だけになってしまったとしても、僕はあの子を選ぶ。
(分かった。絶対に孤立させない)
 誓ってもいいとさえ思った。
「お願いね」
 疲れたのか、それを言ってエミちゃんは眠ってしまった。ませたところのあるエミちゃんの、あどけない寝顔を見て、僕はこの子のことが女の子としてもちょっと好きだったなと唐突に気付く。転校してしまうのだから、今さらすぎだったけど。

 そして、エミちゃんには気持ちを告げないまま、石野くんとは改めて入文くんとの話をしないまま、僕らは引っ越していく石野姉弟を見送った。別れ際になってしまうと、僕もちょっと泣いてしまった。その隣で、チエッティこと片倉(かたくら)さんや、ノンノこと今内(いまうち)さんが大泣きしていたから、何となく僕と入文くんで慰める感じになったけど。正直、ほとんど話したことのない子たちだったから、複雑だった。

「……こないだは、ごめん」
 片倉さんたちと別れた後、入文くんに謝られた。これからは二人ぼっちだ。他の子たちともつるむにしても、この子にとって僕はいちばんでなくてはならない。
「仕方ないよ。いちばん仲、よかったんだしさ」
 流石にエミちゃんから桝のことを聞いたとは言えなかった。
 きっと吉野はまだしも、桝と仲良くしているように見られてしまったら、この子は僕に壁を作って孤独になってしまう。夏休みが明けて、桝がどう出るか分からないけど、何かあった時は僕がこの子を守らなければ。
 その意味があるのかどうか、はっきりしない誓いは、それでも僕を強くさせた。



   十三歳

 始業式なんて、あっという間だ。
 帰って、寝よう。昨帰って、寝よう。昨日は夜更かしをしすぎた。ドハマりしている漫画があって、この春休みは生活がぐっちゃぐちゃだった。夜も朝もなく、読みふけった。
お昼を食べる元気が残っているかは、微妙なところだ。寝たとして、何時に起きることになるだろう。夕方? 夜になってしまえば、そのまま晩ご飯を食べてしまえばいい。中途半端に昼すぎや夕方に起きてしまうと、お腹をすかせてしまいそうだ。さてどうしたものか。
 もう帰っていいのに、みんな新しいクラスになったことで、同じクラスになった奴と話したり、離れてしまった奴に会いに行ったりと、忙しそうだった。僕だけが、そうじゃない。吉野を切り抜ける為にもさっさと帰ってしまおう。眠気がまだ残っていて、頭がどうしてもぼんやりする。制服をとっとと脱いで、布団の中へ戻りたい。
 教室を出て、さっさと玄関へ向かう。まだ慣れない下駄箱の位置。やっぱり一年のところに行きかけたけど、すぐに思い直す。こっちじゃない。
 下駄箱の位置も当然変わっている。出席番号を確認して、脱いだ中靴を入れる。まだほとんど埋まっていなかったから、自分の場所を探すのに苦労した。新しい靴箱の位置は、クラスがはっきりしないと分からないようになっているから、外靴は今日だけビニール袋に入れて持ち歩くように言われていた。外靴を取り出した袋を畳んでかばんに押し込む。
「裕貴」
 外靴を履いている途中で、声がかかる。ああ、もう。振り向きたくもない。僕はそのまま靴を履いてしまう。立ち上がろうとしたところで、肩を掴まれる。
 振り向くと、吉野が中靴を脱ぎ捨てて、外靴を袋から取り出そうとしていた。僕はそれだけを確認して走り出す。もう、話すことなんてない。
「あっ……おいっ! 裕貴!」
 無理やり振り切る。明日も来なきゃいけないのに。僕も吉野も、何をそんなに焦っているんだろう。これから、気が遠くなるほど同じ教室に通わなくちゃならないんだ。僕も逃げきれるわけがない。だけど逃げる。明日だって、明後日だっていいはずなのに、吉野は僕に追いすがる。
 ぜんぶ、分かっているはずなのに。でもだからこその、意思表示を。それを、しなくてはならなかった。吉野の事情は知らないけど、少なくとも僕はそうだった。これからずっと、避け続けなければならない。



   十一歳

 石野くんがいなくなった二学期、入文くんは僕のところに来るようになった。空いた石野くんの席は撤去され、改めて席替えをした。吉野や桝、入文くんとも近くなることはなかった。だけど、入文くんと吉野の席が近いので、僕からは入文くんの席に行くのは抵抗があった。ちょっと申し訳ないなと思うけれども、入文くんが来てくれるのに甘えていた。休み時間のほとんどは彼と過ごし、できるだけ桝は避ける。桝を避けることで、吉野と話す機会も更に減った。

 事件が起きたのは、秋に入ってからだった。
 桝の家に泥棒が入った。盗まれたのは、ワイン。この事件をきっかけに知ったんだけど、桝の家はそこそこお金持ちらしい。桝の両親はワイン通で、桝が成人した時に開けようと、桝の生まれ年のワインを用意し、自宅で保管していたらしい。桝家には簡単なワインセラーがあって、他にも高いワインはあったのに、その一本だけが盗まれた。
 窃盗では珍しいけど、この事件はメディアでも話題となった。その昔、その家の人が最も大切にしているものを奪う空き巣がいたという。僕らが生まれる前くらいから、ぽつぽつと何県かを跨いで連続で起きていた事件らしい。犯人は捕まらないまま、まるでお遊びに飽きたかのように、それらしき事件は途切れたらしい。桝の両親が、桝の為に大事に取っていたワインだけを盗む。手口も似ていたようで、あの空き巣犯の再来ではないかという話が出たそうだ。
 一つだけ違うのは、今回は空き巣ではなかったということだ。尤も、犯人は空き巣のつもりだったのかもしれないけれども。平日の昼、桝の母親も仕事をしているので、桝の家は本来、誰もいない。しかし、その日はたまたま桝が熱を出して学校を休んでいた。桝は二階の自室で眠っていた。窓と、ワインセラーのガラス部分を切り取った犯人はほとんど音を立てずに犯行に及ぶ。しかし、トイレに立った桝が階段を下りてくる音を聞いて、犯人は急いで現場を後にする。その音を、桝は聞いたんだそうだ。桝は閉まっていたはずの窓が開いているのに気づき、しかもよく見ればその窓が丸く切り取られている。桝は母親に連絡を取り、警察に知らされる運びとなった。
 結局、犯人はすぐに見つからず、ワインも戻ってこなかったという。
 被害者が桝の家で、桝が家にいる時のことということで、クラス内ではしばらくその話で持ちきりになった。冬休みの自由研究で、桝本人に許可を取って、事件について調べる子までいた。僕ら二人の間では、不自然なほどその話題が出なかったので、エミちゃんの話は本当だったんだなと僕は改めて認識した。入文くんが口を閉ざす理由が他にあるなんて、僕は全くこの時点では予想していなかった。



   十三歳

 吉野は相変わらず、足が速い。玄関から校門までの間、広いグラウンドがある。校門に辿り着くまでもなく、僕は吉野にとっ捕まった。
「待てよ、なんで逃げんだよ」
「やだ、離してよ」
 僕は激しく抵抗した。何がどうあっても、僕はこいつと話をしたくなかった。
 強く腕を引かれ、僕はバランスを崩す。砂だらけの地面に僕は背中を強く打つ。倒れた僕を、吉野が押さえつける。大きな身体が、僕が太刀打ちできないような強い力で、僕から自由を奪う。ああ、母さんに怒られる。黒い制服の背中一面に、べったりと砂粒がついたのを感じる。
「今さら、何だよ」
 クラスも違ったし、僕がはっきりと拒絶していたからかもしれないけど、吉野からも話しかけてくることはもう最近は殆ど無かった。
「いいから、まずは落ち着け。話を、聞けよ」
 ああ、でもこいつは変わっていない。僕に対して、命令口調がデフォルトになっている感じ。昔、まだ吉野と仲のいい時に、他の子から言われたことがある。お前、吉野の子分なの? 子分扱いされてるってよく聞くけど。言われるまで全くそんな意識はなかったけど、そんなことを言われて一度意識してしまうと、なるほどそう思われても仕方ないなと思えた。その理由がこれだ。吉野が僕に何かを言う時、~してほしいって言い方をしない。自分の希望を言うような言い方をしないんだ。~しろ、とか、やれ、とか。常に命令口調。もともとそういう奴なんだと思ったけど、桝や他の友だちに対して、~してほしいって言っているのを聞いて、愕然とした。ちょうど、五年生になって石野くんや入文くんに気持ちが傾いていた時のことだったから、僕はなおのこと吉野から気持ちが離れた。
これ以上抵抗しても、逃げられそうにはない。制服を更に汚したり、怪我をしたりするのもばからしい。フェイントをかけて、隙を見て逃げようとしても、きっとまた追いつかれる。僕は、覚悟を決めざるを得なかった。
 どうしても、嫌なのに。



   十一歳

 ひとまず、石野くんがいなくなった後、桝はとりたてて入文くんに余計なことはしなかった。石野くんが友だちになった時点で興ざめし、飽きてしまったのかもしれない。だけど、突拍子もないあいつのことだから、不安の種はいつまでも消えなかった。
 しかし、六年生になってすぐ、その不安は増すことになる。
 六年に上がり、クラスはそのままだけど、また席替えがあった。僕と入文くんは晴れて隣同士になった。班も一緒。入文くんが僕の席までわざわざ来なくてもいい。席に着いたまま話ができる。しかし、僕の後ろに桝が来てしまった。同じ班だ。僕、桝、入文くん。この班の男子はこの三人になってしまい、気まずいことこの上ない。席が決まってすぐ、入文くんの様子を窺うと、やはりかなり不安そうな顔をしていた。
僕が声をかけると、慌てたように態度や表情を改める。何でもないかのように。平気そうに振る舞う。それを見ていると、エミちゃんから事情を聞いていることを歯がゆくも明かせなかった。
 僕個人として問題なのは、この席の並びだと、吉野がこっちに来てしまうということ。吉野とはまた席が離れている。僕と桝が固まっているなら、あいつがこっちまで来て、桝と、更に僕を巻き込んで話そうとするだろう。下手をすれば、事情を知らずに入文くんを巻き込んでしまいかねない。巻き込まなかったにしても、僕を引きこもうとしている時点で、入文くんに僕が桝ともそれなりに話すことが分かってしまうかもしれない。幸い、班と言っても僕のクラスでは形だけのようなところがあるので、席替えの後、話し合いみたいなものはしなくてもよかったから、ひとまずはバレた様子はない。その日もいつも通り、一緒に帰った。そして、いつも通り不自然に桝の話題は出なかった。同じ班になったのに。僕も怖くて振ることができなかった。


 だけど、遂に僕らのあいだで、その話題が出た。割と、最悪なタイミングで。

 それは父母会の日だった。始業式が終わってから一週間くらいだった。今回の父母会は、一時間目から六時間目の、どの時間を参観してもらってもいいというものだった。一緒に帰る算段をする親子が多かったみたいで、お昼以降、特に六時間目に父兄がごった返した。僕のお母さんはパートが昼からあるから、人が少ない一時間目とかに来て、満足したようにさっさと帰ったけど。入文くんのお母さんは例に漏れず、お昼から来た。入文くんのお母さんは、家にお邪魔した時に、何度か会ったことがあったから、すぐわかった。相変わらずおっぱいが大きくて、目のやり場に困る。僕はいつも、ちょっとだけどきどきしてしまう。
 帰りの会を終えて、それぞれお母さんが子供のところに行く。入文くんはぜんぜんお母さんに似ていない。入文くんのお母さんはメリハリのあるはっきりとした、ちょっときついくらいの顔立ちだ。入文くんのあの素朴な感じは、お父さん似ってことだろうか。入文くんちは母子家庭だから、お父さんに関しては入文くん自身も会った記憶がないらしい。だから、確かめようがないのだけれど。
 二人を見比べていると、入文くんのお母さんが突然、ちょっとだけバランスを崩しそうになった。
「あっ、ごめんなさい」
 僕と入文くんが覗き込むと、どうやら桝が吉野とはしゃいでいて、勢い余って入文くんのお母さんにぶつかってしまったらしい。とっさに謝ったのは、そばにいた桝のお母さんだ。桝本人、じゃなかった。
 だけど入文くんのお母さんは気を悪くした様子もなく、にこりと笑って応える。
「あら桝さん。いえいえいいんですよ。元気なお子さんで羨ましいです。うちの子も天馬君くらい元気だといいんですけど」
 桝のお母さんとは顔見知りのようだ。三年生の時もクラスが一緒だったみたいだから、その時に話したことがあるのかもしれない。桝の名前も憶えているくらいだから、お母さんどうしは意外と仲がいいのかもしれない。
「いいえ~、かえって。穏やかでいい子じゃないですか。こんなにわんぱくだと大変で大変で」
 がっつりお母さん同士のマシンガントークが始まる。
「ほら天馬。なにぼおっと突っ立ってるの。ちゃんと謝りなさい」
 次々とテンポよく繰り出される会話の最中、桝は何故か驚いたような表情で入文くんのお母さんの顔を凝視していた。桝のお母さんが頭を掴んで下げさせるまで、きちんとした謝罪は無かった。
 お母さんたちが本格的に話し込み始めたところで、入文くんは俯いていたかと思ったら、そっと席を立ち、教室の外に出ていってしまった。親どうしは仲がいいけど、自分は。そんな風に考えて、居た堪れなくなったのかもしれない。僕にも一切、入文くんの話をしないくらいだから、お母さんにも何も話していないのかもしれない。
 入文くんはかばんを机の上に残したままだから、またここに戻ってくるつもりはあるんだと思う。僕もかばんをそのまま机に残し、入文くんを追った。

 廊下に出ても、親子やお喋りするお母さんたちがけっこういた。入文くんは人の少ない階段のところにいた。
「入文くん」
 振り向いた入文くんは、やっぱり元気がなかった。
「中園くんもさ、桝と仲いいんだよね」
 勝手に一人ではらはらしていたけど、とっくに入文くんは気付いていたみたいだ。その上で仲良くしてくれていたのだと思うと、いたたまれなかった。
「吉野が、仲いいから」
 吉野と仲がいいことは話したことがあるから、まずはそれを伝えた。僕の声を受けた入文くんは僕から視線を外し、床を見る。母親もうまくやっているし、クラスで唯一、仲がいい僕も、桝自身と交流がある。自分だけが。そんな心の動きが見えてしまって、胸がぎゅっとした。
 たまらなくなって、僕は告白した。
「だけど僕、嫌いだよ。あいつのこと。吉野のせいで、たまに付き合わされるけど。僕は入文くんと一緒にいた方が。その方が、ずっと」
 楽しい。友達でいたいのは、君だ。桝ともそれなりに会話をすると気付いていて、何も言ってこなかった入文くんに、どこまで言えば安心してもらえるだろう。その兆候が見えるまでは言葉を尽くしたかった。手放したくなくて、思った以上にするすると本音が出てしまった。
 だけど。僕の声はそこで遮られてしまう。
「おい。それ、本当なのか」
 聞き慣れた声に肩が跳ね上がる。背中に冷たいものが、流星のようにまっすぐ流れていく感覚があったのに、顔がかあっと熱くなる。
 いつからいたんだろう。全く気付かなかった。
振り返ると、そこには吉野がいた。振り返ったまま、何も言葉を返せないでいると、吉野がつかつかと歩み寄ってきた。
「裕貴。答えろよ」
 吉野は怒っていた。咎められる筋合いなど、本当はない。ずいぶん長いこと友だちだったのに、そんなことも気付いてくれていなかったのかと、むしろこちらが罵りたい気持ちだってあった。
 だけど、僕は逃げた。何も答えず教室に戻り、自分のかばんだけ引ったくり、遠回りだけど吉野や入文くんがいない逆方面の階段から降りて、家に走って帰った。
 吉野と、入文くん二人を、あの場に残して。



    十二歳

「誕生日おめでとう」
 父母会の翌日、登校途中に入文くんと会った。ちょっとだけ気まずかったけど、入文くんはおはようの代わりに誕生日を祝ってくれ、プレゼントも手渡してくれた。
「ありがとう」
 その後、僕らは互いに謝った。僕から切り出して、あんな風に突然逃げ出して、帰ってしまったことを詫びた。入文くんも、余計なことを聞いてしまったと詫びた。しっかり謝ってくれた代わりに、あの話の続きはさせてもらえず、何となくはぐらかされてしまった。逆にその謝罪が、僕に壁を作ったようにも思えて、もっとたくさん弁解したかったんだけど、させてもらえなかった。
 だけど、桝にはいやいや付き合っているとざっくり分かってもらえた上で、これからも友だちでいてもらえるのなら、それに越したことはない。今回のことで距離ができてしまったとしても、いくらでもこれからそれは埋めていけるはずだ。吉野に聞かれてしまったのは完全に予想外だったけど、このまま入文くんとうまくやっていけるなら、桝はもちろん、吉野のことだって切ってしまってもいいと、ここに来てようやく僕も腹を括れそうだった。

 教室に着いた時点で、僕は違和感を覚えた。うまく言えないけど、嫌な雰囲気があった。なんだろうこれは。
 だけどすぐに気付いた。クラスの何人か、不穏な視線を入文くんに送っている。入文くんに気付かれないように盗み見ているようだ。視線を向けられているのが僕じゃないから、みんな僕がそれを見ていることにすぐには気付かない。僕と目が合うと、普通に笑って挨拶したり、気まずそうに目を背けたり、反応はさまざまだった。入文くんが、この雰囲気に気付いているのかは謎だった。何でこんな感じになっているんだろう。
 僕らがおずおずと席に着くと、既に席についていた桝が声をあげた。
「なあ、何かクサくね?」
 桝に変に接触してはいけないと思うから、僕は振り向かない。入文くんも当然ながら、振り向かない。誰かを糾弾しかねない雰囲気だったから、なおさら。僕の後ろに座る女の子が反応した気配があった。
「なんだこれ……」
 くんくんと、鼻を利かせるような気配がする。僕らは黙って、一時間目の教科書の用意をする。
「あっ、分かった」
 桝が話す内容だけは、耳が拾う。
「ハンザイシャのにおいだっ!」
 意味が分からない。いったい何の話だろう。明らかにくだらなさそうだなとしらじらしい気持ちで聞き流す。
 しかし、背後の席で思いのほか強い反応があった。
「ちょっと……!」
 それはシャレにならないとでも言いたげな、そんな声音だった。僕はわけがわからないまま、予鈴を待った。
 どこか不可解な空気に違和感を抱きながら、その日の授業は終わった。入文くんは委員会があって、今日は一緒に帰れなかった。一緒に掃除当番を終え、入文くんと別れた。
 そのまま一人で帰ろうと思った。廊下に出ると、吉野がいたけど昨日のこともあって気まずく、特に挨拶もせずに通り過ぎようとした。きっと吉野が待っているのは、まだ教室内にいる桝だろうし。
「待てよ」
 吉野は、足早に通り過ぎようとした僕の腕を取って捕まえた。振り向くと、ちょうど桝が教室から出てくるところだった。桝がこちらを見て、不敵に微笑んだ。
「掃除お疲れ、中園ちゃん。いいこと教えてやるからさ、ちっと付き合いなよ」
 桝はほとんど掃除をサボっていた。箒やチョークの粉落としで遊んだり。入文くんや、同じ班の女子の委員会の時間も迫っているから、正直、迷惑だった。面倒だから誰も注意しなかったけど。やっぱりちょっと気まずいのか、吉野はそれ以上何も言わず、僕の手を引いた。

「お前、もう入文とつるむの、やめた方がいいぞ」
 階段の下、掃除用具が入ったロッカーのところに呼び出された僕はそこで初めて、教室があんな空気になっている原因を聞かされた。
「うちに入った泥棒、入文のかーさんなんだよね」
 得意げに桝はそう断言したけど、そう決めてかかる理由は大したことなかった。
「泥棒が逃げた後に、嗅いだことない匂いがしたんさ。昨日、入文のかーさんから同じ匂いがしたんだよね」
 言葉に羽根が生えたかのように、すらすらと述べる桝は妙に自信満々だった。
「たったそれだけで? たまたま同じ香水とか、シャンプーを使ってただけとかかもしんないじゃん」
 僕はせせら笑うように言った。真偽がどちらに転んだとして、そんな話、聞きたくなかった。
「そうかもね。でも、昨日それうちのかーちゃんに言って、一緒に帰りに警察寄ったんだけど、警察の人は興味津々に俺の話聞いてくれたよ」
 この話をきっと、僕らが来る前にもしていたんだろう。みんな、それを信じた。ハンザイシャの匂いって言うのは、入文くんのことを言っていたのだろうか。もし桝の言うことが本当だとしても、入文君本人は犯罪者ってわけじゃないだろうに。
「……最近お前、俺らのところ来ないけどさ、あいつとずっと一緒にいるんだろ?」
 最近も何も、初めから僕は行きたくなかった。その元凶である桝が目の前にいるから言えなかったけど。面倒くさいし、怖いから。こんな、隅に追いつめられている時にわざわざ煽るようなことはあまり言えない。
「やめとけよ。あんな奴といるの」
 改めて吉野が言った。あんな奴。ほとんど話したことがないくせに、何が分かるって言うんだろう。不思議でならなかった。強いて言えば、もともと吉野がライバル視していた石野くんの友だちっていうのは知っているだろうから、それだけで印象はよくないのかもしれない。もしかして、三、四年の時の話を何か、桝に吹き込まれているのかもしれない。その可能性に気付いて、はっとする。
 半年間、何も無かったから忘れていた。僕は桝を見る。そうだ、昔こいつは。
 三年の時、石野くんに阻まれて、桝からすれば興ざめだったはずだ。ターゲットにしていた獲物を取り上げられた。そして、その取り上げた張本人が転校して、いなくなった。こいつはまた、ターゲットを孤立させたいが為に、でたらめを言っているんじゃないか。あまりにも卑劣な手だけど、桝ならやりかねない。にやにや笑いを浮かべている顔を見て、確信する。
「馬鹿じゃないの? 昨日だって、桝のお母さんと普通に喋ってたじゃん。実際に逮捕されたわけでもないのに、そんなの信じられるわけない」
 吉野は桝のでたらめを信じているだけなのか、実は全て知っていて加担しているのか。それも含めて、考えたくなかった。
「話はそれだけ? だったらもう、帰る」
 僕は吉野の肩をおしのけて、下駄箱へ向かおうとする。
「待てって。俺たち、親友だろ? 親友の言うことが聞けないってのか」
 流石にこれには僕もいらっとした。親友の言うこと? 親友っていうのは何でも相手のことを鵜呑みにする存在じゃない。間違ってると思ったら、きちんとそれを包み隠さず言って、きちんと喧嘩して正しい方を一緒に探すのが親友だ。お前の言うそれは、ただの子分だ。
 ああ、そうか。やっぱりこいつは、僕を。
 僕を、子分だと思っていたんだ。子分が、思い通りになる奴がいなくなるのが、嫌なだけなんだ。
「うるさい!」
 声を荒げる。吉野相手には初めてのことだったかもしれない。吉野がひるんだ。
「誕生日も覚えてないで、何が親友だ馬鹿!」
 入文くんは今日会って、開口一番でおめでとうって、言ってくれた。プレゼントまでくれた。昨日のことがあって気まずかったことを差し引いても、こいつからはそんな言葉は今の今まで全く出てこなかった。こいつは自分の都合ばかり、押しつけてきていた。
 怒りで涙が出そうだった。吉野は目を見開いて固まっていた。僕がそのまま走り出しても、今度こそ引き留めようとはしなかった。追っても来なかった。


 それから、僕は今まで以上に露骨に吉野や桝を避けた。桝のところに来る吉野に、あてつけのように入文くんと楽しそうにするところを見せつけた。吉野が来るのを待ってから、誕生日プレゼントのお礼を言ったり、吉野が今ハマっているらしいゲームをこき下ろしたりと大人げないことをいっぱいした。
 だけど、クラス全体の雰囲気はどんどん日を追うごとに悪くなっていった。みんな、入文くんに対する態度がぎこちなくなるところから始まり、少しずつおざなりになっていき、最後には無視するとか、露骨な態度に出始める。個人差は当然あるけれど、泥棒の話がある前から見れば、みんな態度が変わってしまっていた。
 そしてある時から、何となくクラスの中で特定の単語を耳がよく拾うようになった。単語、と呼べるものなのか判断に困ったけど、どこか固有名詞めいた言い方をされていた。
「さっき〝ミ〟がさ……」
「マジ〝ミ〟ありえなくない?」
 その、話す時につっかえそうになる言い方をわざわざ使う感じ。たいてい、何か悪口を言うような、ひそひそと感じ悪い言い方でそれは聞こえてきた。
 何となく予感があったので、ハンザイシャの匂い、に妙に反応していた、後ろの席の子にずばり聞いてみた。入文くんが図書当番でいない、昼休みの時間を狙って。
「ねえ、〝ミ〟って、なぁに?」
 彼女は、その時周りにいた女友だちと顔を見合わせる。くすくすと、嫌な含み笑いを三人でする。その上で、何でもない、と答えてきた。
この子は僕の後ろの席だから、入文くんといつも仲良くしているところを見ている。だから、たぶんこれは僕か、入文くんのことを指している。
「なんか、みんな言ってるの聞くんだけど、僕知らないんだよね。他で恥かいちゃいそうだから、教えてよ」
 既に恥をかいているような予感は大いにあったけど、僕はやんわりと詰め寄った。
「入文のことだよ」
 横から急に声が割り込んできた。声の主は、珍しく自分の席にいた桝だった。
「あいつハンザイシャ〝くさい〟から」
 こないだ僕がこきおろした、吉野がハマっているゲームに出てくる記号[ξ(クシー)]が〝クサイ〟という読み方があるという話で、吉野と桝が盛り上がっていたことがある。もともと、そのゲームの中では、メインの敵となる[x(エックス)]の他に、もう一つ別に現れる謎の大きな敵の組織をそう呼ぶらしい。僕らの席の後ろでやるから、嫌でも聞こえた。そこから連想されたものらしい。さらに、そこにひねりを入れて、大文字にすると[Ξ]となり、それが片仮名の〝ミ〟に似ているから、ミ。
 桝はまるで自慢するように、大声でそれを僕に教えてきた。また嫌な気配を感じて周りを見ると、教室にいるクラスメイトの殆どが、こちらを見ていた。注目を浴びてしまっているのは、桝が大声で話すから、と言う理由だけじゃないのが分かる。その視線に、ものすごく嫌なものを感じる。犯罪者の子どもと仲良くしている僕に対する、半分は哀れみのような、半分は非難のような視線。人によっては、哀れみが馬鹿にするようなニュアンスにすり替わっているような視線もあった。それはとにかく明確さに欠ける微妙な感情が僕に向けられていて、だけどそれらは明らかに、入文くんに対する悪意が根底にあるものだった。
 僕は絶望した。ここにいる全員。桝の言うことを鵜呑みにしたってことか。そういうことなのか。何の確証もない、ただの匂いの記憶だけなのに。昔、桝がいじめていた過去を知っている奴だって、何人かはいるはず。気持ちが悪かった。ただひたすら、気持ちが悪かった。
 どうしてこんなことになってしまったのか。入文くんのお母さんは、本当にそんなことをする人なんだろうか。家に遊びに行っても、あんまり会えることもないし、見た目の印象くらいしかないから、分からなかった。そんな風には見えなかったとは思うけど、子どもにすら犯人だと疑われるような人が、こんなに長いこと捕まらないでいられるとも思えない。少なくとも、犯罪者かもしれない人に育てられた入文くんは、あんなにもいい子なのに。入文くんの穏やかさを普段から見ている僕からすれば、犯罪者うんぬんという話は、ただただ違和感しかない。
 ここに来て強感するのは、石野くんの不在だった。真面目で頭がいい彼は人望がある。当然、友だちも多い。彼がいて、彼が桝の言うことを信じなかったとしたら。彼なら僕以上に入文くんとのつきあいも長いから、お母さんがどんな人か、泥棒をするような人なのかそうでないか、少なくとも僕よりは正しく判断できるはず。石野くんがいたら、こんなことにはなっていなかったんじゃないか。せめてそばにいるのが、僕だけじゃなかったら。

 その考えに行き着いてしまうと、いてもたってもいられなくなってしまった。
 石野くんの連絡先は、前にもらった手紙で教えてもらっている。放課後、塾に行っているだろうなとは思ったけど、帰ってくる時間は分からなかった。いないのを承知で、電話をした。
 石野くんのお母さんが出た。面識はあったので、少し話をして、夜帰ってきてから折り返してもらえるよう頼んだ。遅くなるかもしれないから、自分の親にも、かかってくる予定があることを伝えておいた。
 かかってきたのは九時前だった。子機転送してもらって、自分の部屋まで子機を持っていく。さすがに親に聞かせたい話ではない。あの事件はかなり話題になったから、僕の両親も知っている。親にまでつきあいをやめろと言われてしまうのが怖かった。
「――もしもし」
 こんな時間に友だちに電話することなんて初めてだったから、ちょっと緊張した。
『もしもし、久しぶりだね。どうしたの急に』
 声を聞いただけなのに、その場に崩れ落ちそうな気持ちになった。まだ自分の部屋にたどり着いていなかったから、歩くのをやめないように努力した。
『……何かあったの』
 すぐに返事ができなかった僕を石野くんはすぐに察してくれたようで、先回りして聞いてくれた。ぽつぽつと、事情を話す。
『そうか。いてやれなくて、ごめん』
 仕方のないことなのに、今さら頼る僕がだめなのに、石野くんは謝った。
僕は半泣きで、石野くんに見えるはずもないのに、大げさに何度も首を振る。
「こっちこそ、ごめん」
 事情が事情ってことで、エミちゃんも電話の近くに同席してもらう。エミちゃんは電話口にひとまず出てこなかったけど、こちらの状況に対して怒っている様子があった。
「それで、聞きたかったのは、入文くんのお母さんのことなんだ」
 こんなことを聞くのは酷かもしれない。だけど、大事なことだった。今、こっちにいなかったとしても、石野涙の名前はきっと今でも通用する。石野くんがひと言、そんな人じゃないと、そう言ってくれれば。桝のあんなぼんやりした話でも通用したのだから、同じように石野くんがそう言っていると吹聴して回れば、少しはクラスの風向きも良くなるかもしれないと、そう考えていた。
もし仮に入文くんのお母さんが泥棒だったとしても、それこそニュースで騒がれていた連続空き巣犯だったとしても、そのこと自体は入文くん本人の罪ではない。僕自身はもう、入文くんと最後まで友だちでいようと思っている。そこはこの姉弟に誓って、貫き通したい気持ちが固まっていた。
「僕、遊びに行ってもなかなか会えないから。入文くんのお母さんは、そんな泥棒なんてしそうにないよね?」
 エミちゃんに同席してもらったのも、これを聞きたいが為だった。女のことは、女に聞く。聞いておいた方が後々、面倒が少ない。これは僕のお父さんの持論だった。お母さんを結婚相手に選んだのも、お母さんが周りの女の人から評判が良かったところが大きいと言っていた。それを聞いたお母さんは失礼な話だと拗ねていたけど。女の子の目線として、あのお母さんはどうか。そこは可能なら聞いておきたかった。
『――正直、俺らもあんまり会ったことはない』
 期待に沿えなくてごめん、と石野くんが続ける。
『ただ、俺らの印象としては、気さくな、普通のお母さんって感じだ。あそこは父親がいないから、苦労している感じはあったが』
 言いにくいが、金銭的にも。と苦しげに締め括る。すると、エミちゃんの怒ったような声が聞こえた。受話器を奪い取るような音がして、エミちゃんが電話口に出てくる。
『ナカゾー、大丈夫だよ。心配しないで。確かに私ら、あまり話したりしたことはないけど、お母さんがそんな泥棒なんかだったら、ふーみんがあんな感じなワケないって』
 エミちゃんの殊勝な声が、ひどく頼もしく心に響いた。そこに、寄りかかってしまいたい。
『だってふーみんってさ、すごいよ。他の男子ってさ、るんるんがまさにそうなんだけど、友だちがいると、変にお母さんにそっけなくなるでしょ? マザコンとか、甘えてるって思われたくないのか知らないけど。ふーみんって、それがなかった。もうお母さん大好きって感じで、お母さんのダメなところも、困るんだよなあって言いながら、それでも嬉しそうに話すの。きちんとした人がまっすぐな気持ちで育てないと、あんな素直な男の子はできあがらないよ』
 おい、ちょっと待て。そう石野くんが抗議する声が電話越しに聴こえたけど、それも遮ってエミちゃんが続ける。
『ただ、あれだけニュースとかで騒がれても捕まんない犯罪者だから、隠すのはうまいと思う。ライオンが猫を大事に育てるみたいに、子育てが上手な一面もあるのかも知んない。だからあまり勝手なこと言えないけど、私はナカゾーに信じてほしい。もし捕まるなんてことになったら、それこそふーみんは家族までいなくなっちゃう。私にはるんるんがいるから両親なんてどうでもいいけど、あの子からしたら、家族はお母さんだけだしさ。ナカゾーが、あの子の心の支えになってあげられないかな』
 考えてみれば、そうだ。もし、桝の言うことが正しいんだとして。入文くんのお母さんが捕まったら、入文くんは家族を失うのだ。今のところ不在であるお父さんとどういう状況で離別したのかは聞いたことがないからよく分からないけど、お父さんが引き取ることにならないなら、完全に両親がいない生活になってしまう。誰のところに預けられることになるか分からないけど、それでもその人たちは自分の親ではない。そんな状態で、入文くんは誰を心の支えにするのか。いくら端からはかわいそうで、ひどい人なら犯罪者の子って言う目で見られてしまう中でも、入文くんはその後を生きていかなくちゃならない。どんなに辛くても、自分には友だちがいるって、そう思ってくれれば、少しはいいかもしれない。僕が頷いて聞いていると、電話はまた、石野くんに戻る。
『中園がそうやってあいつを信じてやれるなら、本当に俺としては助かる。あいつは素直でいいやつだけど、やっぱりちょっと弱いところがある。信用できる奴が一人でも多く、近くにいた方がいい。こっちの都合でいなくなっておいておこがましい話だけど、できることなら近くで、何があってもあいつを信じ抜いてやってほしい』
 最後に、石野くんが親しかった、同じクラスの子たちの名前がいくつか挙げられた。そいつらは俺から連絡を入れて、話をしておくと言ってくれた。エミちゃんも、何人か仲がよくて、連絡先も分かっている子がいるから、連絡を取ってくれるらしい。積極的に関わらせたり、味方につけさせたりするまでは難しいかもしれないが、いじめみたいなことには加担させないように言ってみてくれるらしい。頼もしい話だった。
 親がうるさいから、そろそろ切らなきゃいけないというので、そろそろ電話を終えなければならなかったけど、僕はもうじゅうぶんだった。心の底から感謝していた。ありがとう、と伝えた。
 石野くんに連絡を取ったことで、事態はほんの少しだけ好転した。僕が吹聴するまでもなく、本人たちが動いてくれたようだ。説得してくれたのか、エミちゃんの友だちの子が、何か入文くんをこそこそと〝ミ〟という呼び名を使って、好きなことを言おうとした子のことを、注意してくれた。また、石野くんの友だちだった子で、たまに僕らに話しかけてくれる子が二人できた。分かりやすいいじめの構図になっていたとはいえ、桝はれっきとした被害者だ。大っぴらには難しいみたいだったけど、普通に接してくれている。それだけでも、相当心強かった。
 しかし、やっぱり全体としてはどこか入文くんを孤立させたいような動きはあった。やっぱり、桝を中心に。吉野と決裂したことで、僕を引きこもうとするようなやり方をしてくることは無くなった。代わりに、僕も共犯者だの、犯罪信者だの陰で相当ひどい言われ方をしているようだった。直接、面と向かってひどいことを言われたり、されたりすることもあった。もう、いじめに近いものがあった。
 かと言って、事件が進展する様子もなかった。桝が情報提供しただけでは、決定打にならなかったのか、入文くんのお母さんは捕まらないままだった。エミちゃんの友だちの女の子が、
「やっぱり嘘なんじゃない? 桝ってもともと、ホラ吹きなとこあったでしょ」
 と言ってくれて、その周りの女の子も何となくそういう印象に流れてくれたところもあるようだった。
 そうやって、だましだましでも良いから、それで卒業まで乗り切れば。入文くんのお母さんが捕まらずに時間が経過すればするほど、事件は風化するし、入文くんの風当たりは弱くなって、どんどん桝の証言は信憑性をなくす。時間の経過があればあるほど、僕らの勝ちにつながっていくのだ。


   十三歳

 僕と吉野はきっと、どちらにしても友だち同士でいることは難しかったんだと思う。男子はざっくり言えば、オタク系か、ヤンキー系に分類されるかのどちらかだ。この二つは趣味もばっちり分かれることになるし、遊び方なんかも変わってくるから、友だちで居続けることは難しい。僕は前者、吉野は後者だ。あんなことが無くっても、きっと自然消滅していただろう。所詮、はじめから期間限定の友情だったんだ。今となっては、僕らが二人で歩いているってことが不自然に感じる。周りから見ても、きっとそうだと思う。
 だから人目を避けたくて、人があまり来そうにない、森の中の小さな公園に寄った。今や廃墟になっている集合住宅に住む子どもたちの為に市が作って、公園だけ残っているらしい。しかし、いつしか集合住宅には人も住まなくなった。集合住宅も公園も、市は持て余してしまっていて、管理はほぼ手つかずで、最初は視界の開けたところにあったらしいのに、今や草木が高く生い茂り、公園のほとんどが影になってしまっている。
「で、何なの。今さら」
 僕はベンチに座って学ランを脱ぎ、砂だらけになった箇所を払ったり叩いたり、擦り合わせたりながら聞く。正直、ちょっと眠いので早くしてほしい。僕からすれば、話すことなんて、用件以外には何もない。
「まずこれ。見ろ」
 何故この状況で、命令口調がとけないのか。もはや理解できない。
「何、これ」
 それは小さなメモだった。開くと、中には携帯電話の電話番号と、アドレスらしきものが書かれていた。
「それ、入文の連絡先」
「はあ?」
 思いもしない名前が出て、僕は顔を上げる。
「今まで言ってなかったけど、俺、今あいつと同じ塾なんだ」
 言っている意味が分からなかった。だって、入文くんは。
「俺が中学入ってからさ、恵泉入れられてんだ。隣の市の」
 それは何となく、噂で聞いていた。吉野の両親は、それまでは割と自由にさせていたけど、思った以上に吉野がやんちゃするので、中学からは入塾もさせて、がっちり勉強させるようになったらしい。少しでも学力が高くなるように、また遊ぶ暇を与えない為に、わざわざ隣の市の有名塾に入れられたのだと。噂と言うか、後半の件は、親から聞いた。恵泉はここ最近、みるみる実績を上げてきた予備校と一体型の塾なのだが、まだうちの市には一軒もない。幸い、隣の市まで電車でいけば駅前にあるので、うちの市でも何人かはそこに通わされていた。
「そこに入文がいた。苗字、違ったけどな」
「苗字が? なんで?」
「それは自分で聞けよ。友だちだろ?」
 自然な会話でもちょっと馬鹿にしたようなニュアンスがあるのは、こいつの癖なのかもしれない。昔からだ。
 そもそも、塾に普通に通っているって、どういうことだろう。それ自体が、おかしい。そこまで考えて、ぴんときた。
 吉野は、僕の連絡先を知らない。そもそも、僕の連絡先を知っている同級生なんて、一人か二人しかいない。防犯を理由に親が持たせた携帯電話。僕は未だに着信音すらきちんと知らない。塾にも今のところ通っておらず、まっすぐ家に帰るので、親からもかかってくることはない。僕がいつも通りの時間に帰らなかったらかけるつもりっぽいけど、残念ながらほぼまっすぐ帰っている。部活にも入る気力はなく、帰宅部だ。
 それはいいとして、何にぴんときたかというと、きっと僕の連絡先を使って、何かを仕掛けようとしているんだと思う。例えば、このアドレスが桝のだったとする。僕が発信したら、きっとそれは向こうで取っておける。悪用しようとしているんだ。そう思った。
 書かれている字は角ばっていて、当時、入文くんが書いていた字に似てはいた。しかし、ありえない。街とかで偶然会うとかならまだしも、塾に通っている? あまりにもいろいろなことを飛び越えている気がする。いたずらだと思う方が、よほど自然だ。僕は警戒した。もう、傷つきたくなかった。
「……吉野が一回ここにかけてよ」
「は?」
 僕なら何でも言うことを聞くと、今でも思っているんだろうか。わけがわからないという顔をする。
「本当に入文のなのか、分かんないし」
「いや、あいつ、俺が登録するのは、嫌がってるから」
 何故かしどろもどろになっている。やっぱり、罠だ。
「そんなの、後からどうにでもなるだろ。僕が責任持って番号を消すよ。かけられないなら、今度こそ帰る」
 正直、もし吉野が言っていることが本当だったとして、声を聞いても分かるか自信がない。最後に会った時、入文くんはまだ声変わりを済ませていなかった。もしもう声変わりをしているとして、それも電話越しの声で、僕は判断できるだろうか。そのことにうすうす気づいていたけど、それでも僕はそう提案した。
それくらい僕は吉野のことを信用していない。入文くんは、行方不明扱いになっていたはずなのだから。普通に塾なんかで再会することがあるわけがない。



    十二歳

終わりは突然やってきた。独りよがりだったかもしれないけど、僕が必死に守ってきた一線は、何もかもふいになってしまった。

 入文くんが僕の家に遊びに来ている時のことだった。
「もう、ここに来るのは最後にするね」
 入文くんがそろそろ家に帰る時間って時に、急にそんなことを言い出した。また携帯ゲーム機をケーブルでつないで一緒にゲームをやっていたんだけど、入文くんの突然の発言に僕が操作を一切やめてしまったことでゲームオーバーになり、コンテニュー画面に切り替わった。
「学校でも無視してくれていい。これ以上、中園くんに迷惑かけられないよ」
 吉野のように、名前で呼び捨てにしてほしかったけど、入文くんはそっちで慣れちゃったと言って、終ぞ名前で呼んでくれることはなかった。まあ、僕も名前で呼ぼうとしなかったのもあって、何となくなあなあで終わってしまった。
「父母会の時、吉野くんにお前のせいで中園くんとうまくいかなくなったって言われて。それから何度も、あいつは俺のだから返せって言われるんだ。本当、好かれてるんだね。中園くんって」
「違うよ。あいつは子分が欲しいだけなんだ。今までだって、僕が気付かないのをいいことに、あいつは僕を子分扱いしてたんだから」
 今なら、吉野と桝が嫌いで、もう友だちになんか戻れないってことはいくらでも説明できる。桝に至っては、そもそも友だちと認めたことなんてない。
「そうだったら、あんなに何回も言ってこないと思うけど」
 そんなに何度も、吉野は入文くんに接触しているのか。
「そうじゃない。きっと桝と一緒になって、入文くんを孤立させたいんだ」
 こんな直接的な言い方をしたのは初めてだった。入文くんの顔が見れなくて、僕は俯いたまま続けた。
「ねえ、入文くん。知ってるかもしれないけど、三年生の時の桝との話はもう僕、知ってる。桝は、石野くんがいなくなったから、また同じことをしようとしてるんだ」
 僕がそれを言っても、驚いた風はなかった。何だかんだ、筒抜けなのかもしれないなあと思う。どうやって知ったのかよく分からないけど。
 だけど、声を受けた入文くんはふう、と息をついた。やれやれ、とでも言いたいみたいに。
「……桝の家に泥棒が入ったっていう夜ね。僕んちの台所で、ぶどうみたいな匂いがしたよ」
 何のことなのか、まるで分からなかった。気付いてもよさそうなものだったけど、僕はわけがわからず次の言葉を待った。
「きっと盗んだワインを、シンクに流したんだろうね」
「ちょっと、待って」
 鈍感な僕は、ここまで言われてようやく気付いた。まさか、そんな。
「そんな匂い、普段はしないから覚えていたんだ。それで、騒ぎになって僕はそれを思い出した。いちばん最初にお母さんを疑ったのは、桝じゃなくて実の息子の僕だよ」
 僕が黙ってしまったのをいいことに、入文くんはたたみかける。僕に話そうとずっと思ってて、言い方や話の順番をある程度練ってきていたのかもしれない。だから、実の息子なんて強い言葉を使ってきていたんではないだろうか。身を切るような言葉の絞り出し方だった。ひと呼吸おいて、入文くんは固く目を閉じて、またも続ける。
「僕は弱かった。情けなかった。疑いながら、お母さんが捕まったらと思うと、夜も眠れなかった。だけど、捕まる様子が無かった。だから、黙ってしまったんだよ。もしかしたら、本当に違うのかもしれないし」
 どこか自棄になったかのように、入文くんが続ける。
「そのうち、きっと思い過ごしだって、どんどん思うようになった。だけどこないだ、中園くんが桝たちと話しているのを聞いて、やっぱりそうだったんだって」
「え……聞い、てたの? 委員会だったんじゃ……」
 委員会って言っても、確認作業だけで早く終わってたんだ。驚いて僕が聞くと、入文くんはにべもなくそう答えた。
「僕、今までずっと逃げてきたけど、自首してほしいって言おうって今度こそ思ってる。お母さんは罪を償うべきだ」
 逃げてきた、というのはお母さんのことではなくて、現実を直視しなかった自分を指しているみたいだ。
「どういうつもりでいるかは知らないけど、僕の言うことなら聞くかもしれない」
 悪いことをしたら、叱ってくれる存在。それが僕の思う〝お母さん〟だ。その立場が、逆転してしまっている。それがどんな気分なのか、まったく想像がつかなかった。
 僕は入文くんとは種類の違う覚悟を決めて、訊ねる。
「……それは分かったけど、どうして僕んちに来ないことになるのさ」
 言うと、入文くんは少し驚いたように僕を見て、そして少し俯いて笑った。
「中園くんは優しいね。ふつう、嫌なんじゃないの? 親が犯罪者の友だちなんて」
 どこか達観した口ぶりで、入文くんが続ける。
「うちのお母さん、昔からちょっと変わってるとこあるから、保育園に入っている時、別の子のお母さんに嫌われて。その子とは僕、仲がよかったつもりだったのに、一緒に遊んだり、話したりさせてもらえなくなったよ……僕のお母さんのこと聞いたら、中園くんのお父さんお母さんはどう思うだろうね」
 ぎくっとする。石野くんに電話する時、話している内容を聞かれないように僕は注意を払ったのを思い出して、後ろめたい気持ちになる。
昔、精神病を患って、近所を徘徊して子どもに絡んだり、お菓子を配って歩いたりするようになってしまったお母さんを持つ同級生がいた。顔を覚えた子がターゲットになりやすいとかで、別に仲良くなかったのに、その子とあまり関わらないようにお母さんから釘を刺されたことがある。そんなことも余計に思い出してしまって、それらがぐさぐさと僕にサーチライトを当ててきているような感覚があった。
「……関係ないよ。そもそも、入文くんは何にもしていないじゃないか。泥棒したのは、お母さんかもしれないけど。例えば、お母さんとおんなじように泥棒とか、入文くんがそんな悪い子じゃないってことは僕、よく知ってるつもりだよ」
 そもそも入文くんが無視されたり、陰でミ、とか変な名前で呼ばれること自体が間違っているんだ。うまく言葉にできなかったけど、どうか伝わってほしくて、ゆっくり言葉を尽くして話す。
「……賢くないよ。今のままじゃ、中園くんの立場も無くなる。僕の味方してくれるのはありがたいけど、どっちにしたって、遅かれ早かれお母さんが捕まったとしたら、僕もここにはいられなくなるんだよ。なのに中園くんを孤立させるなんて、僕も嫌だ」
 残酷なほど、入文くんは冷静だった。寄りかかれる人がいなくなってしまうのに。その上で、僕まで切り捨てようとしている。
 それとも、僕なんかがいなくなったって、味方しなくたって、もう何も変わらないってことなんだろうか。考えてみれば、お母さんがいなくなるかもしれないんだ。友だちがそれに代われるなんて考え方が、そもそもおこがましいのかもしれない。
 だって、入文くんはお母さんが大好きなんだ。
 エミちゃんが言っていた二つのことが、どうしても成立しないことが分かってしまう。お母さんのことが好きなことに素直に向き合える、そんな入文くんの心の支えに、友だちの僕がなる。あまりにも無理がある。無力感が、繊細な色彩を黒一色に塗りつぶしていくようだった。
「中園くんとは、僕だってずっと仲良くしてたい。中園くんが言う通り、僕は悪いことはしてないかもしれない。だけど、ふつうはそういうものなんだって。犯罪者を家族に持ったら、その家族も白い目で見られる」
 まるで前にもそういうことがあったみたいに、大人びた言い方をする入文くんが、すごく遠くにいるような気がした。どんなに手を伸ばしてもつかめない星のように。もともとこの子はそういうところがあった。桝と仲がいいと思っていて、遠慮があったからと思うけど、何となくこの子からはいつも距離を感じていた。性格は素直で子どもっぽいくせに、物言いは大人っぽくて、変な遠慮がある。だから僕も踏み込めないところがあって、苗字のくん付けをお互いにやめられないでいたんだ。だけど、この日に関してはそれが顕著だった。
「吉野のところに戻りなよ。そうすれば、孤立させられたり、変にいじめられたりとかは、きっと無くなるよ」
 言い終わると、入文くんが時計を見上げる。もう、帰る時間だ。僕は焦った。もう二度と、今日帰ってしまったら、入文くんはもう二度とここには来ない。
 入文くんの言葉を受けて、吉野の顔を思い浮かべる。思い出はたくさんある。だけど、今思い浮かんでしまうのは、ここ最近の、僕を従わせようとする高圧的な態度や視線だった。
「嫌だ。やっぱり、嫌だよ。吉野のところに戻るのも、入文くんから離れるのも」
 僕は頑なに、首を振る。その先は、ほとんど言葉を交わすこともなく、時間が来た。
後悔するよ、と。
帰り際、入文くんはそう言い残して帰っていった。それが入文くんを見た、最後の姿だった。


 翌日、入文くんは欠席だった。もうそれだけで嫌な予感がしていた。
 しかも担任は、たいてい欠席した児童がいたら、理由を言ったりするはずなのに何も言わないまま朝の会を終えてしまった。。単に忘れたようにも見えたし、敢えて触れなかったようにも思えて、気が気がじゃなかった。
 だからかもしれないけど、その日の一時間目が音楽の授業だったことを強烈なほどに覚えている。
 音楽の教科書を持って、みんなが音楽室に移動を始める。
「中園。ちょっと」
 僕も入文くんの欠席の理由を聞きたかったので、そそくさと先生のところに行く。理由はどうあれ、あまり他の子にそれを意識させたくなくて、僕は必要以上に先生との距離を詰めた。
「なんですか?」
 素直に、それもすごい近くまで来た僕に気圧されたような空気があったけど、それには触れずに先生が僕に問いかけた。
「入文がいないけど、休んでる理由、何か知らないか。連絡がないんだけど」
 僕も知らないし、むしろ僕もそれを先生に聞きたかったことを伝えた。
「そっか。お前仲がいいから知ってるかと思って。無断欠席なんてするんだな、あいつ。昨日、具合悪そうだったりとか、してないか?」
 全く知らない様子なので、僕は拍子抜けしてしまった。明かされないその理由に、いらいらもした。
「ありません。僕を口で言い負かすくらい、元気でしたよ」
 内容は口が裂けても言えないけど。久しぶりに一対一で会話したけど、先生が、教室のあの不穏な感じに気付いていた様子はなかった。
「へえ、そうか。何かそれは、意外だな」
 言い負かされた僕も意外だった。色んな意味で。
「分かった。先生が電話入れておく。お前はもう行きなさい」
 結局、先生は電話した結果を僕に話してくれなかったし、帰るまで何も知らされることはなく、もやもやした状態のまま僕は一人、下校した。欠席した入文に対して、夜逃げしたんじゃね、と囁き合う声を聞いてしまい、更に気持ちは曇った。

「裕貴。ちょっと」
 その日学校から帰った後、部屋で漫画を読んでいた僕を、お母さんが呼んだ。
 漫画を読んでみていたけど、ちっとも内容なんて入ってこなかった。呼び鈴が鳴ったのは聞こえていたけど、誰が来ていたかまでは確認していなかった。お母さんに促されるまま居間へ行くと、全く面識のないスーツ姿の男の人二人が、居間のソファに座り込んでいた。まだ出されたばかりと見える、お茶が湯気を立てていた。
「君が中園くんだね」
 警戒した僕はその場から動けなかったけど、お母さんに引っ張られて、お母さんと一緒に向かいのソファに座る。不安になって、お母さんを見ていると、お母さんも不安そうに説明した。
「このお兄さんたちは、刑事さんよ。あんたに聞きたいことがあるんだって」
 お母さんが言うと、二人いるうちの、どっちかって言うと優しそうな方のおじさんが慌てた様子で訂正した。
「あ、わたしは児童相談所の者です」
 刑事さんに、児童相談所の人。僕はもっと不安になって、目の前の二人を覗き見る。
「なん、ですか」
 何で警察が僕のところに来るんだろう。身近で警察とかが絡む話と言えば、桝の家の泥棒の話くらいだった。やっぱり、それが絡んだ話だろうか、それとも……。
「入文怜太郎(れいたろう)くん。知ってるよね」
 児童相談所の人が言った。何となく、予想していた名前が出た。嫌な予感はきっと当たってしまう。何が起こるかまでは、まだ完全には予測できない分、ひどく気分が悪かった。
 グレーのスーツの長い足を持て余した、どっちかって言うとちょっと怖いお兄さんが、何となく後ろめたくなってしまいそうなくらいまっすぐ、僕を見てくる。こっちが本物の刑事さんってことだろう。
僕の返事を待たず、そのお兄さんが続ける。刑事さんの放つ低い声が、いつもの僕らの家、この居間を、一気に異質な空間へリープさせていくような感覚があった。
「彼のお母さんが今朝、自首をしてきた。同じクラスの、桝くんのお家の空き巣の件を自供している」
 ゆっくりと、息を飲む。僕が視線を落としたのを見て、お母さんがこちらを見た気配を感じる。僕が驚いていないことに、驚いているような。やっぱりそうだったのかと、僕はもろにそういう顔をしてしまった自覚が、少しだけどある。
「……実は、聞きたいのはそのことじゃないんだ」
 優しそうなおじさんが、やさしく語りかける。知らされていなかった僕が言うのも何だけど、次に聞かされる事実の方が衝撃的であることなんて、まるで分かっていない様子であったことが、後から考えると腹立たしい。
「お母さんが自首を選んだってことは、わたしたちとしてはご子息の怜太郎くんを保護しなくちゃいけないんだけど……実は家に行ってもいないし、学校にも行っていないし、見つからないんだ」
 僕は顔を上げる。
「どこにも、いないんですか……?」
 嘘、だと信じたい。体じゅうから色んな感覚が消え失せていく気がした。昨日、普通にうちに遊びに来て。話した内容は普段とは違ったとはいえ、普通に帰っていった。そんな入文くんが今日になって、行方不明?
「怜太郎くんは中園くんと仲がいいと聞いたんだけど、昨日、怜太郎君はここに遊びに来たのかな?」
 あいかわらず抑揚のない低い声で訊いてくるお兄さんの恐怖から逃れたくて、僕は弾かれたようにすぐに頷いてしまう。二人はそれを見て顔を見合わせたと思ったら、何故か二人とも頷いた。
「もう少し、詳しく聞かせてくれるかな」
 何となく、失敗したような気がした。

 だけど結局、怖くて全て話してしまった。
 まずは普通にゲームして遊んでいたこと。だけど帰り際、入文くんがもうここには来ないと言ったこと。その理由が、入文くんのお母さんが泥棒だと疑われていることで、入文くんがクラスで微妙な立ち位置になってしまっていて、僕もそれに巻き込まれそうだからだということ。更には、入文くん本人もお母さんを疑っていて、帰った後お母さんを自首するように説得しようと思うと、話していたこと。特に説得のところの話は、いやに詳しく聞かれた。
「早く、入文くんを探してください」
 入文くんが見つからない、と軽い言葉でこの人たちは濁したけど、僕の話を詳しく聞くあたり、行方不明に近い状況なんだと悟る。僕のところにいないのはもう分かってもらっているなら、すぐに他のところをあたって探しに行ってはくれないか。入文くんと入文くんのお母さんの間でそんなことが起こるっていうのは全く想像がつかないけど、自首を迫るなんていうシチュエーションは、迫る側の身に何か起こってしまっていそうな気がしてならない。
「探すよ。つらかったろうに、話してくれてありがとう」
 相変わらず感情に乏しい声で、大きなお兄さんが言う。感情がとっ散らかってしまっている中、余計な心配をかけてもらうよりは、これくらいおざなりな方が良かった。立ち上がると、本当に大きくて圧倒される。圧倒されるのに、いや、圧倒されるからこそ、見上げたまま、お兄さんに乞う。
「入文くんを、よろしくお願いします」
 僕が言うと、お兄さんはちょっと驚いたみたいだったけど、わかったよとだけ言って僕の家を後にした。

 ――でも、結局、入文くんは見つからなかった。生死すらも分からないまま、ただ時だけが過ぎていった。
 入文くんのお母さんは自分に息子なんていないと供述していると、どこかで聞いた。事件のことは割とはっきり何でも話しているらしい。結局、入文くんのお母さんは数年前の連続空き巣犯ってわけじゃないらしい。自分はその模倣犯だと語っているんだそうだ。
なのに、入文くんのことになると口を閉ざす。閉ざすというか、何を聞いても、いない、の一点張り。二人で生活した跡もあるし、入文くんの私物なんかもかなり部屋には残っているらしいのに。しかし驚くことに、実際に戸籍にも入文くんはいないことになっているらしかった。出生届を出していないだけなのか、それとも何か別に事情があるのか。そこは全く語らないようで、警察ですらも、親子の真実を暴くことができなかったそうだ。だけど、あんなに懐いていた入文くんの存在を否定したという時点で、結局ほとんど印象に残っていなかった入文くんのお母さんに対して僕は、憎悪のような感情が湧いた。あのお母さんにとって入文くんは、その程度の存在だったのか。僕にとっては、とても大切な存在だったのに。そしてそんな入文くんは、自分がクラスの中での立場が最悪なものになってしまうことを知りながらも、健気にお母さんに罪を償ってほしいと願っていたのに。入文くんの存在を示す物的証拠、証言もたくさんあるのに何故か記録上、彼がそこにいたことになっていない。そんな不可思議な状況に陥っていたらしい。ついには入文くん自身が幻だったかのような扱いになってしまった。
 入文くんのことばかり考えてしまい、僕はほとんど眠れなくなったし、ご飯も食べられなかった。安否が分からないことがひどく僕の心を不安にさせたし、最後に会ったのが僕だったのならば、何かできたのではという思いが嫌でも膨らんでしまう。学校は休みがちになってしまった。平気になるまで、本当に時間がかかった。
 その間、よく吉野が家に来ていたみたいだけど、お母さんに会いたくないと言って帰ってもらった。本当に一度も、会わなかった。入文くんを追い込んだあいつとは、ひと言たりとも話したくなかった。



   十三歳

 しょうがねえなあ。今度こそ帰ろうとする僕を引き留めながら、吉野が電話をかける。
「まだあっちは春休みだったはずだけど……出るか分かんねえぞ」
 春休みなのかどうか。嘘にしては、無駄に手が込んでいるようだ。一瞬そう思ったけど、だけど、ありえない。
 普通に塾に通えるような状況なら、どうして僕に何の連絡もしてくれなかったのか。あんなに、あんなに心配したのに。
 黙ると、公園ののどかな空気に、微かな電話のコール音が混ざる。吉野も不安そうだった。もし本当だったとしても、ここで繋がらなかったら、何の証明にもならない。僕をこのまま帰すことになる。
 正直に言えば、少しだけ期待している。また彼と話せるなら、それに越したことはない。あれだけ会いたかったのだから。



   十二歳

 入文くんは見つからないまま、時間ばかりが過ぎていく。両親は最初こそ優しかったけど、一向に学校に行こうとしない僕に痺れを切らし、最後には怒鳴りつけ、半ば強引に学校へ向かわせた。
 登校するのは、結局そんなに難しいことじゃなかった。どうせもう、友だちなんていやしない。教室に入ると、みんな驚いていたけど、かと言って話しかけてきたりすることもない。何となく、腫れ物のような扱いをされた。僕がこんな状態になっても、誰も同情なんてしてくれない。誰も共感もしない。僕はそんな教室の様子を、観察し続けた。
 僕のことを気に留めていなければ、みんな楽しそうだった。僕が行けなかった修学旅行なんかも経て、新しいグループができていたり、カップルなんかもできていたりしていた。みんな普通だった。何事もなかったかのようだった。事件の被害者だった、桝ですらそうだ。考えてみたら、桝からすれば事件が無事解決して、後は大人たちが処理するだけなのだから、もう何も心配することはない。そういうことなんだろう。みんな、気兼ねなくあの事件、そして入文くんを忘れられる。だって、解決したんだから。そうだ。先生ですら、そんな感じだった。何事もなかったかのように笑っていたし、僕がいない間に、クラスの中で一つの新しい空気がきちんと形成されているようだった。疎外感が、強くのしかかってくる。
 僕は暴れた。何がきっかけだったのか、もうそれは覚えていない。持ってきた筆記具や鞄を投げつけて、授業をぶち壊した。席が近かったからだろう、よりによって桝に取り押さえられ、僕は保健室に連行される。僕は泣いて、迎えに来た親の腕さえ拒む。僕の胸にあるのは、誰にも理解してもらえないという絶望感だった。
 クラスメイトが一人、いなくなっているんだ。事件は解決なんて、していない。さんざん犯罪者扱いして、みんなは入文くんがいなくなって、せいせいしているくらいの気持ちなんだろう。どこかに引き取られたり、施設に入れられたりしたわけじゃなく、行方不明なんだって言うのに。ざまあみろって思っている子だっているかもしれない。
 でも、それは当然だ。事件から時間も経過している。クラスメイトの母親が窃盗で逮捕されて、そしてその当のクラスメイトは行方不明になった。衝撃は大きかったとしても、いつまでもそんなことを引きずっていられない。引きずったって、自分たちでは何もできない。入文くんを、見つけられるわけじゃない。修学旅行だってあったし、みんなにはそんなことにかまけていられない事情や生活がある。僕が勝手に、それに対して激しくはがゆさを感じてしまっている。ただ、それだけだった。
 一度暴れてしまうと、腫れ物扱いはさらにあからさまになった。誰も僕に、積極的に関わろうとしない。吉野が時折気にかけてきたり、桝が茶化してきたりすることはあったけど、他の子が全く乗ってこないし、何より僕が相手にしないから、どちらも空回りして頓挫していた。それに関してはちょっと滑稽に思えて、ざまあみろと思った。
 僕もしだいに流されていくようになったけど、入文くんのことはずっと心に深くとどめたまま、他のみんなはそんな僕を敬遠したまま。入文くんは、一向に見つからないまま。そこから何も進歩することなく、僕らは卒業を迎えた。



   十三歳

 ……だから、吉野がこんなことを言い出すまで、事態は何も動くことが無かったのだ。入文くんがいなくなって、そろそろ丸々二年経とうかという今。入文くんが見つかったというなら、僕のところまで情報が来たっていい。僕が一瞬だけ不登校になって、それで学校で暴れた原因は両親も心得ているから、入文くんの安否が確認できたなら、真っ先に僕に教えるはずだ。僕は何も聞いていない。塾に通えるような環境に落ち着いていながら、僕に情報が入ってこないなど、本当ならありえない。
 だから、吉野も嘘をつくならもう少しまともな嘘をついてほしかった。もし本当なら、どうして僕より先に吉野がその事実を知ることになるんだ。それに、どこかで見つかっていたとして、たまたま入った塾にいたなんて、そんな都合がいいことを信じられるわけがない。

 コール音が途切れ、吉野の顔つきが変わる。聞き取りにくかったけど、電話の相手がもしもし、と言ったのが聞こえた。知らない番号からかかってきたようにも聞こえる、警戒するような雰囲気があった。
「……早くにすまん。吉野だ」
 相手が何か言った。内容までは聞き取れなかった。
「ああ、分かってる。すまん。だけど、裕貴の言いつけでかけてるんだよ。許してくれ。警戒して、連絡先を受け取ってくれないんだ」
 何が、言いつけだ。苛立ちが増す。電話の相手は、お互いにこんな猿芝居をして、何がしたいって言うんだろう。僕はそこまで聞いて、視線をそらす。早く終わらないだろうか。本格的に眠くなってきた。早く解放してほしい。
「ああそうだ。今、目の前にいるから、代わらせてほしい。いいか?」
 相手が了承した雰囲気があった。軽々と電話を代わることさえも了承する。どんな茶番を聞かされるのか。相手が誰なのか当ててやりたい。眠かったけど、むしろそんな気分になっていた。
「もしもし」
 僕は全く気負わずに電話に出た。言うことによっては、電話を地面に投げつけてやろうかなどと考えていた。
『――ああ、もしもし? あの、中園くん、ですか』
 泣きそうな相手の声に、僕はたじろぐ。まさか、そんなわけがない。
 その時、ふと思いついたことがあった。声変わりしているかどうか分からないから、僕はまだ電話の声を聞いただけでは確信が持てない。相手がもし本人であったとしても、試してみたくなった。
「オノ坊の、正式名称は?」
 別にそれは、入文くんだけが覚えているとは限らない。僕と、入文くんにしか分からない、もっと別の質問もあったのかもしれない。だけど、今思いついてしまったのはこれだった。ブームが去って久しいロボパケは、吉野の取り巻きで詳しい人間はきっといないだろうとは思った。
 試されていることに気付いたのか、少しだけ息を飲んだような雰囲気があった。それでもすぐに返答はあった。
『――ブラックアクシーム』
「……。ブラックアクシームって、どうしたら、強いんだっけ」
 それを答えてくれただけでも、確信に近かったけど、更に訊く。やっぱり声変わりはしていて、当時より声が低い。だけど、話し方や雰囲気はまるで変わっていない。
『斧の代わりに、シールドと実弾兵器つけて距離を取る。箱庭では、動かないで迎撃しながら防御する』
 初めて話した時のことが、まざまざと蘇る。
『だけど、最新作とかでは、トマホークっていう投てきの斧も出てきたから、装甲を改良して防御力をあげれば、そういう斧でもじゅうぶん強い』
 相変わらず詳しい。最新作は去年発売されて、やっぱり小学生には爆発的なブームになっているみたいだけど、中学生にはあまり人気がなかった。中学に入ってから、僕もゲームをやる気にはあまりなれず、まだソフトを買ってもいない。やっぱり、入文くんを思い出してしまうし。ハードの携帯ゲーム端末も新しいものでないとプレイできないから、それごと買ってもらう必要がある。入文くんは、ちゃんと最新作もチェックしているのか。入文くんが、前みたいにゲームをやりこめるだけの環境に置かれていることに、感動を覚えた。
 もう、疑うことはない。電話の相手は。
「本当に、入文くん、なんだね」
 僕の声に、目の前の吉野が安心したように、僕の隣に腰を下ろした。何故か、エナメルのスポーツバッグを開き始めた。
『うん。そう。心配かけたよね。ごめん』
 本当だよ。そう返すのがやっとだった。涙が止まらない。ちゃんと生きていてくれた。ほあっと、ため息が漏れる。身体から力が抜けるのと共に、色んなものが身体から抜け出ていくような感覚があった。まるで、呪いでも解けたかのように。
 電話中だっていうのに、隣でガサガサやっていた吉野が、何か手提げ袋を僕の膝の上に置く。僕が吉野を見やると、吉野が僕の方に顔を向けて、声を張る。
「入文ィ。今、渡したぞ」
 わけが分からないまま僕が黙ると、慌てたように入文くんが言う。
『ああ、それ。あの……誕生日プレゼント。来週、でしょ?』
 目が痛いのに、さらに目が開いていく。膝の上にある袋の中身に、釘付けになる。白い包みが、二つ入っているのが見えた。
「……片方は入文、もう片方は俺からな。受け取れよ」
 吉野は前を向いたまま、言う。決してこっちを見ない。
『それ、去年渡せなかったんだって』
 笑いをこらえたように入文くんが補足した。それが聞こえたらしく、吉野がむきになった顔でこっちを向いた。電話を奪われてしまう。
「オマエ! それ、言うなって言っただろ!」
 連絡先を登録されるのを嫌がっているんじゃなかったのか。何か、仲良さげだ。そのことに強烈な違和感を覚えながらも、中身が気になってきてしまう。
「……開けていい?」
 吉野が一回こっちを見たけど、またすぐに目をそらしてしまう。目どころか、顔ごと向こうを向いてしまった。
「開けていいかって。裕貴が――いいってよ」
 吉野が横顔だけでそれを告げる。粗野な対応に、ちょっと意地悪な気持ちが湧いてきてしまう。
「吉野にも、聞いてるんだけど」
 勝手にしろ、とずいぶんな返答を受けて、僕は手提げ袋の中から二つのうちの一つを取り出す。
 眠気と、吉野への緊張感が急速に飛んでいく。それに伴って、僕は木々の間を縫って到達した春のささやかな陽射が届いているのを、この時になってようやく背中に感じた。正午を過ぎた頃の太陽は、その光をだんだん強くしてきている。滲むような涙を軽く拭って、袋の中から包みを取り出す。どっちが、どっちのなんだろう。それをどうやって、目の前の吉野に聞いてやろうか。そんなことを考える余裕もやっと出てきた。
 入文くんが無事でよかった。本当に、良かった。塾にも通えて、僕にプレゼントを買えるような、そんな普通の中学生の環境下で、彼は生きることができている。入文くんの状況が分からないことに、彼自身や、見つけられない警察であるとか、全くそれを明かさない入文くんのお母さんのことなんかを憎んだりもした。すぐに知らされなかったことに納得がいかない部分もやっぱりあるけど、そのことが無性に嬉しかった。
二人には、何で今まで黙っていたのか、何でこんなことになったのか。それはこれから、ゆっくり、嫌味たっぷりに聞いてやろう。僕にはその権利があるはずだ。

Ξ

Ξ

男子どうしの面倒くさい友情の話です。 女子も面倒くさいですが、男子も脳内構造が単純だからこそ面倒くさい時はあるのです。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 青年向け
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