酔郷に浮かぶ月
たまに、夜空に目を向けてみてガッカリすることがあります。都市部に近いとどうしても、明る過ぎて夜空がつまらなくなっています。そんな思いを認めてみました。
耳を澄ませれば虫の音が聞こえる。マツムシ、コオロギ、スズムシ……私には聞き分ける事ができなかった。しかし、確かに秋の虫たちである。
風にそよぐ草の音が聞こえる。ススキ、フジバカマ、アザミ……私には聞き分ける事が適わなかった。しかし、秋の草花だと感じる。
風に雲は流れ、衛星が顔を出した。今宵は満月である。雲間から覗いた月の美しさに思わず手を伸ばす。
カランと音が聞こえた。
私は涼しげな高音に誘われ、重い瞼を上げた。
視線の先にはグラス。丸い氷が琥珀色の液体に浮かんでいた。私はしばらく、氷を眺めてから呟いた。
「掴んでしまえば、こんなものか」
抗議をするように氷はグラスを鳴らした。
「お客様、何か仰いましたか?」と正面から声を掛けられた。私が顔を上げるとバーテンダーがいた。
私は彼の姿を確認することで、やっと自分のいる場所に思い至った。
何故か、この日は真直ぐ帰る気が起きなかった。だから、ぶらぶらと当て所なく彷徨っていた。駅前のシャッター商店街を抜けた先、寂れたビル街の一角。薄暗く濁ったような空間に皓皓と灯る看板『BAR-CAVE OF LIBERTY-』その明かりに誘われるまま、地下へと降る階段へ歩みを進めた。地階に至ると周囲のコンクリート製の壁に不釣合いな重厚な木製の扉が目に入る。照明にピンポイントで照らされた場所には店名が焼印で押されていた。
扉が放つ存在感は親しげなものではなく、扉に手をかけるのを少し戸惑ってしまう。しかし、店の前まで来て引き返すのも情けがない。私は平静を装い、さも何度も来たことがあるかのように振る舞い扉を開いた。もっとも、客観的にもそう見えたかどうかは分からない。
店内の照明は極力廃され、客の座る場所とバーカウンター内だけが明るかった。それも、他の場所と比べての話ではある。調度品の類から受ける印象は西洋。バーであるので当然と言えば当然である。ただ、どうしようもなく違和感が漂っていた。それは、音である。ジャズでもクラッシクでもない。虫の音であり、風と草花の囁きであった。
席に着くと私は、バカルディーをロックで注文した。一杯二杯と呑み進めて行く内に酔郷に至ったのである。
「なんでもない……いや、何だってこの店のBGMはこんな感じなのかな?」
私の質問を受けて彼は、考える素振りもなく一言答えた。
「今日は十五夜ですから」
なるほど。私は頷くと質問を続けた。
「でも、この店に中秋の名月はないようだけど?」
「月は必要ないでしょう」
私は首を傾げた。
「でも、君は今日が月見の日だから、このBGMを流していると言ったじゃないか。それなのに月がないのは、片手落ちだ。違う?」
彼は幽かに笑うと口を開いた。
「この街の夜空を思い浮かべてみて下さい」
私は彼に言われる通りにした。
「空気の澱みとか以前に、明るいでしょう?」
確かにそうだ夜は明るい。幹線道路のある方角など夜空が仄かに赤く染まっている。
「そんな夜空に浮かぶ月が、本当に名月でしょうか? 実物の月ですら名月と言えないのに、私が用意した月などが名月の代わりになるはずがないでしょう。だから、ここに月はないのです」
私は悲しい気持ちになってきた。
「それじゃあ、もう月見はできないのかな?」
彼は先程より力強く笑った。私は縋るように彼の次の言葉を待つ。
「そんなことはありません。今日は十五夜のために店を設えたのですから、もちろん月見はできます」
私は相槌を打つと話を促した。
「雨月の楽しみ方と同じです。このような地下であっても、お客様の心に名月は浮かぶのです」
私は手に握ったままのグラスを呷った。喉を焼く酒精が胃に落ち着くが早いか、意識は再び酔郷に至った。
私の目前には、豊かなススキの原。虫たちの奏でる楽は涼やかに響く。夜空には満天の星々を従えて、円かに月は輝いていた。月の光を浴びて、私は恍惚と幸福感に捕らわれた。
時間の経過は分からなかった。
私は気がつくと戻ってきていた。その証拠にバーテンダーが目の前にいる。
私は幾分かガッカリしが、気分は良かった。会計を済ませ、バーテンダーの見送りの言葉を背に店を後にした。
外へ出ると夜空を見上げた。ビルの陰に隠れているのか月は見えない。
だが、それでいいと、私は思った。
酔郷に浮かぶ月
きちんと夜空を見ようと思えば、人がいない所にいかなければなりません。私が、直近で見た素晴らしい夜空は伊豆半島を旅していた時ですね。また、あのような夜空を肉眼でみたいものですが、なかなか機会がありません。もし、機会があるなら逃さないことをお勧めします。