ツバサ無き者
【レモン・イヤホン・ミュール】
スタンドから見上げた空がやけに地球の丸さを実感させた。何がどうとうまく説明できないが、今日の空は「そう言えば地球は丸かったのだ。」と思い出させる。
アップの後に体を冷やさないために着込んだジャージとベンチコートが重くて、今すぐにでも身一つで駆け出してしまいたくなる。それは逃げ出したい衝動なのか、戦いたい衝動なのか。
わからないまま、それでも私に逃げる選択肢はない。
「頑張ってね。」
明るい笑顔を向けられて、私も笑顔を作って見せる。タッパーを抱えた姉が私の前に立ちはだかった。煌びやかなストーンが施された派手なミュールと引き締まった足首を見つめる。
そんな足に悪そうな靴を履いて。
不満を顔に出さないように、差し出されたタッパーの中のレモンのはちみつ漬けを口に運ぶ。はちみつの甘さと、レモンの皮の苦みが舌を伝って体に染みる。ちっとも酸っぱくないレモンは、まるで今の姉のようだった。
時刻を確認して「集中するから」とイヤホンを耳に突っ込んだ。プレーヤーを操作してアップテンポの洋楽を再生する。言葉の意味は解らないが、そのおかげで集中力が高まる。
私はいつも、姉の背中を追いかけていた。
スポーツ一家に生まれ、自分が何者かを知るよりも先に、地面を駆け回っていた。中学に入って姉が始めた走り高跳びを勧められて、私もハイジャンプを始めた。成長期でぐんぐん記録を伸ばす姉の背中を追い続けて、それでも、年々塗り替えられる姉の記録を一度も上回ることができなかった。
姉は高校最後の大会で高校生女子の最高記録に並ぶ結果を残し、将来を有望視されながらもすべてのスカウトを断って、普通の短大に進学した。陸上からは完全に足を洗って、現役時代には足を痛めるからと絶対に履かなかった、踵の高い靴を履くようになった。
誰よりの高く跳べたのに、世界だって目指せたのに、姉は自分から羽ばたくのをやめた。
私は絶対にそんな格好の悪い選択はしない。姉よりも、誰よりも高く跳んで、世界を舞台に戦うんだ。
「そろそろ召集だ。」
イヤホンの隙間から滑り込んできたコーチの声に、気持ちが昂る。
スタンドからフィールドに降りて、バーとその向こうのマットを見据えた。他の競技者たちに交じって、助走の歩数を測る。競技が始まって、選手が順にバーを飛び越える。
ゼッケンの番号を呼ばれて、私も助走の位置に着いた。軽く右手を挙げて、競技開始の合図をする。
いつも、私が跳ぼうとするバーの前には、あの日の姉がいる。高校最後の大会の、誰よりも輝いていた姉の姿。そして、私が呼吸を整える間に、目の前のバーを易々と跳び越えていく。でも、私だって負けない。私の背中にはツバサはないけれど。
私は地面を強く蹴って、丸い空を仰いだ。
ツバサ無き者