鼻歌泥棒
その華麗で美しい他人の鼻歌が、ブラックビーンズの秘曲『黒いドレスの女』の続きを奏でた時、トイレットペーパーは芯だけとなった。
僕は今しがた盗まれたのだ。
鼻歌泥棒
「こっから東京まで片道なんぼかかるんや」
僕の頭の中から、三角関数が流しそうめんのようにしたらしたらと流れていく。先生が黒板にかなかなと書く数式が古代の暗号のように僕を洞穴へ追い詰めていく。もともと分かっちゃいない方程式など持たぬが吉。スマートフォンの画面をするりとスライドさせながら僕は下北沢という文字を上から下から何度も読み返す。
「京都駅から新幹線乗って、二時間くらいでだいたい壱万三千円くらいちゃうか。なんでや」
古代の暗号をクラスいち早く解読し授業に暇を持て余しているであろう中島は僕の後ろからスマートフォンを覗き込もうと前のめりになる。それをやめろやいと肩を回し、足し算と引き算を駆使して往復の交通費とその出処を頭のなかに絞り出していた。
あの負のオーラを纏った人しか寄り付かないコンビニに、ゴールデンウィークという休養期間を捧げなければならないだろう、それでも僕は東京へ行きたいのである。なんとしてでも。
「何しに行くねん東京に、俺も行ったろか?」
中島と東京に行くなど御免である。親戚が東京にいるこいつは僕よりずっと詳しいし何かと頼りになりそうではあるが、入ってこられては困る僕だけの音楽世界である。コンサートのために東京の下北沢にあるCDショップに並ぶのだ。枚数限定のチケットを入手するために。
「先生、トイレにいかせてください」
先生の返事を待つ前に立ち上がる。僕はこのクラスでは頻尿ということで名高い。中島がしつこくワケを尋ねるので僕はそそくさと三角関数の世界から抜け出した。誰も居ない廊下で飛び交う風を浴びているうちに僕の頭のなかでショーが始まった。
*
白い便座に座りながら僕の拳が空を切る。
「君は黒いドレスを脱いでゆく、私は目が離せない――――」
弁当を食べてすっかり調子のいい鼻歌はコーラスパートも見事にカバーしており曲は大一番にさしかかる。
今はなきロックバンド、ブラックビーンズ。ファンの間では知られざる名曲と言われる『春の微笑み』を生演奏で聞けるチャンスが迫っている。コンサートは60〜70年台の音楽愛好家達によって結成されたコピーバンドの集まりだ。演目はビートルズ、イーグルス、ローリング・ストーンズなど世界に名を轟かせたバンドの名曲が並ぶ。そんな大御所の中にブラックビーンズが割って入ったというのはこのうえなくめでたい事である。チケットを持った人だけが参加できるライブ。今からが待ち遠しくてたまらない。自分よりずっとその魅力を知る人達の世界に飛び込んで行けるのだ。
ずっと一人で受動的だったファンという世界に扉が開かれるような気がした。
「――豊満な芳香に棘のある去り際よ、時間が経てば何時の間にか――」
鼻歌の途中で流水音が響き渡った。ラックビーンズのステージは一時騒然となる。こんな時間男子トイレに自分以外の人間が用を足しに来ている事など予想していなかった僕は、慌てて便座から腰を上げる。残り少ないトイレットペーパーをカラカラと巻き上げると同時に羞恥心が襲う。
「――縮んでしまう夢の時間、柔らかい肌は冷たくなった」
「――えっ?」
その華麗で美しい他人の鼻歌は、秘曲『黒いドレスの女』の続きを奏でたのだ。ペーパーは芯だけとなり僕は戦慄した。
「だれや」
バタンとドアを開け履きかけた制服のズボンを翻す。そこに人影はなかった。ぞっとした。毛虫が背中を這うような感覚。無論、お尻を拭う貴重な紙が切れた事に恐怖を感じた訳ではない。
廊下に出てみるが人の気配はなく、しんとしている。
僕は今しがた盗まれたのだ。平和ぼけした校内ではおそらく自分しか知らないだろうと思っていた。しかも『黒いドレスの女』はボーナストラックである。
「許さんで」
まんまと曲のスポットを持っていかれた僕は右手に残された芯を強く握りしめた。
こうして僕は鼻歌を盗まれたのである。
鼻歌泥棒