ここで一番好きな風景 前編

5、6年前に書いた作品なんで、時代背景や、作中に出てくる流行物の設定が少々古いです。f^^;
web小説としては、ちょいと長いんで、とりあえず前編、中編、後編に分けて発表していきます。
興味を持たれた方、最後までお付き合いいただけたら幸いです。m(_ _)m

   プロローグ
 夕暮れに染まったプラットホームの黄色い線の向こうには、本線と並んで使われなくなった線路が見える。その線路を、黄金色に色づいたススキが覆い隠すように生い茂っている。その向こうには、緑色の低いフェンスがあり、それを越えるとオレンジ色に染まった住宅街の屋根が並ぶ。遠くに見えるサンシャインが夕陽に照らし出されてキラキラと輝いていた。
 夏の終わりを告げる涼しげな風が吹き抜けて、ススキが優しい音を奏でた。
 大地の直ぐ向こうに空が広がる不思議な風景。
 JR板橋駅の端っこのホームから見える、俺が世界(ここ)で一番好きな風景。
「まもなく一番線に……」
 不意に、電車の到着を告げるチャイムとアナウンスが駅構内に響き渡った。すぐに上りの埼京線が到着して、電車は轟音と共に俺が一番好きな風景を遮る。到着した電車の中からは、スーツ姿の大人達に混じって、まばらに制服姿の高校生達が降りてくる。俺はその中から彼女の姿を見出そうとする。しかし、見付からない。
 当然、居るわけもない……
 柱に寄りかかってしゃがみ込む俺を気にする者など誰一人としていない。
 もしかしたら、俺の事など見えていないのかもしれない。
 もしかしたら、俺はここには居ないのかもしれない……
 また、夏の終わりを告げる涼しげな風が吹き抜けた。次の電車を待って線路は佇んでいる。使われなくなった線路は、相変わらずススキの中に揺れて覆い隠されている。
 長い夏の日の追憶。世界は、全てはそこにあって……

「ねえ、YOU!」
 その言葉が、彼女が始めて俺に振り向いた最初の言葉だった。
 それは、ほんの気まぐれの言葉。

   1
 バイトを終えた俺は、いつものように混雑を避けて乗った先頭車両から板橋駅を降りる。拍子に、昨日、足に作った傷から鈍い痛みが走ったが、気にしない。心地良いくらいだ。
 俺は立ち止まって柱に寄り掛かり、世界(ここ)で一番好きな風景を眺める。
 夕方五時三十分、時間帯的に俺の一番好きな風景は到着する電車にやたらと遮られたが、それでもいつもの事だったから俺は気にする事もなく、ただ眺めていた。
 一番好きな風景には近づいてはいけない。近づいたら、それはきっと崩れてしまう。
 子供の頃、何かの雑誌で見た湖がとても綺麗で、俺は親にせがんで連れて行ってもらった思い出がある。しかし、行ってみたらそこは俺が抱いていたイメージとはまるで違い、全然楽しくなかった。好きなものには近づいてはいけない、という事を俺は学んだ。だから俺は近づかない。この風景にも近づこうとは思わない。もっとも、近づきたくても、あのプラットホームを飛び降りる勇気など俺には無い。だから、あのプラットホームは神様が俺に引いた境界線のように思える。その境界線に再び電車が到着する。十数人の乗客が降りてくる。無表情な乗客達の中に紛れていたその子に俺は目を惹かれた。夏服のセーラー服を着た、髪の長い十六、七の子だった。別に特別な表情をしていた訳でもないし、特に好みだった訳でもない。他の乗客達と同じように無表情だったし、ブスじゃなかったが特別美人という訳でもなかった。ただ、本当に何となくだった。
 その子は降りて少し進むと立ち止まり、電車が過ぎ去ると俺と同じ方向を遠い目をして眺め始めた。この子もこの風景が好きなのかな?、と思うと、何だか連帯感に似たようなものが俺の中で芽生えた。しかし、その子は直ぐにその場を立ち去ろうとしたのだった。次に芽生えたのは危機感だった。ここで話しかけなければ、この子とは一生会えないような気がした。
「あの……落としましたよ、足跡」
 俺は高校以来、初めてナンパというやつに踏み切った。が、引っ掛け文句がちょっと古すぎたみたいだ。彼女は振り向く様子もなく出口へと歩き続ける。これでも三、四年前だったら大抵の女の子は笑いながら振り向いていた。でもまあ、元々ナンパは上手い方じゃなかったし、コウジに付き合っていただけだったし……
 俺はヤケクソになった。そして、あの言葉をどっかの芸能事務所の名物社長を真似た口調で呼び掛けた。
「ねえ、YOU!」
 と、その途端、彼女は振り返った。彼女は、目の前に見える大きなビジネスホテルのガラス窓に照り返された光に照らされ、長い髪は七月の風になびいて、凄く綺麗だった。だが、その表情は驚きの顔を作っていた。
 彼女は俺に言った。
「どこかで会った事あったっけ?」
「えっ?」と、俺の方が驚いてしまった。
「だって今、ユウ!、って呼んだでしょ?」
 思わず訳の分からない表情を作ってしまった俺に、彼女は自分を指差しながら言った。
「ユウ、正確にはユウキ。私の名前」
 なんだか凄い感覚だ。
「ごめんね、私、全然思い出せないんだけど、名前言ってくれたら思い出すかも」
 とにかく俺は彼女と話を続けようと、口からデマカセ、というよりは思い付いた事をとにかく口に出した。結果、それがデマカセなのだが……
「別に、君とは初対面だよ」
「えっ?、じゃあどうして分かったの?」
「顔を見たら、何となくね」
「マジで!、超凄くない?。もしかして霊能者とか?」
「そんなんじゃないよ」
 答えながら俺はおかしくなってきて、つい笑い出してしまった。彼女、ユウキはキョトンとしている。俺は笑いながら本題を言った。
「ところで、もしヒマならこれからどっか遊びに行かない?」
 ユウキは更にキョトンとして答えた。
「もしかして、これってナンパだったの?」
「気付いてなかったの?。ユウって呼び掛ける前に声掛けてたのに」
「ごめん、聞いてなかった」
「足跡落としましたよって」
 すると彼女は、ぷっ、と噴き出して「なにそれ?」と楽しそうに笑った。それからユウキは、そのままの笑顔で言うのだった。
「いいよ、遊び行っても。でも、その前に名前教えて。私は初対面の人の名前を当てる特技なんて持ってないから」
 俺は今まで自分の名前を気に入った事なんて無い。それ以前に、気に入ってるとか気に入ってないとかじゃなく、自分はこういう名前の人間なんだ、という認識だけ。
「杉村ナオヤって言うんだ」
 しかし、ユウキは俺の目を見詰めて言った。
「へえ、カッコイイ名前だね」
 そんな事を言われたのは初めてだった。

   2
 遊びに選んだ場所はカラオケボックス。ナンパした女の子を誘う定番の場所。ただ、二人で行ってもつまらなかったから俺は友人の上原コウジを呼び出した。
「見た目は怖いかもしれないけど、中身はイイ奴だから」
 と、前置きを置いたところで上原コウジが現れた。丁度、駅前のパチンコ屋に居たらしく、携帯に電話をしてから約三分で、この板橋駅前噴水広場にやってきた。
「ようナオヤ、お前がナンパなんて珍しいな」
 そう言って動かすコウジの口元は、唇からぶら下がった数珠繋ぎの小さな三つのリングがチャラチャラと音をたてていた。その他にも鼻に二つのピアス、金粉を塗ったんじゃないかと思わせるような髪の毛の色と合わせるように右に三つ、左に四つの金のリング。特に痛そうなのは眉毛の辺りの星の形をしたやつ。上原コウジ、趣味、ピアッシング。でも、体には一つも穴は開いてない。前に俺が「ヘソピーとかはしないの?」と訊くと「ヘソってのは体の中心なんだぞ。そんな所に穴なんか開けたら病気になっちまう」と言っていた。
 で、このピアスだらけの顔に加えて真っ黄色という目にも眩しい原色のシャツと、八十年代のパンクロッカーを思い起こさせる鋲だらけの袖無し革ジャンという風貌。夏の日差しなど、ものともしない堂々たるその姿には尊敬すらおぼえる。小学校からの幼馴染みでなければ、半径十メートル以内には決して近寄りたくないタイプだ。しかし、意外にもユウキは物怖じ一つせずコウジに口を開いた。
「どーも、ナンパなんて滅多にしない人にナンパされちゃった綾乃ユウキです」
 ニコニコとしながら言う彼女からは、子供の無邪気さのようなものが伺えた。そんな様子の彼女に気を良くしたように、コウジもニコニコしながら返事をする。
「どーも、ナンパなんて滅多にしない人に、女子高生ナンパしたから一緒に遊ぼうぜって、出てる台を捨てさせられてまで呼び出されちゃった上原コウジです」
 ユウキは楽しそうにクスクスと笑った。
「なあナオヤ、一つ訊くけど、女の子ってユウちゃん一人なの?」
 俺に向き直ってコウジが言った。当然の質問だ。男二人なら、やはり女の子も二人欲しい。そんな事は分かっている。だが……
「それがさ、俺もユウちゃんに、誰か友達呼べば?、て言ったんだけど……」
「私、友達って呼べる人いなくって」
 ユウキは照れ笑いを浮かべながら俺の言葉を繋いだ。すると、その表情と言葉がコウジにはモロにツボに入ったらしく大笑いした。この上原コウジという男、普段はムスッとしているクセに実は笑いのツボが非常に広くて、本当によく笑う男なのだ。ユウキは、そんなに面白い事言ったかな?、とでも言いたげな顔でキョトンとした。
「コウジ、笑い過ぎ」
 俺は苦笑しながら言ったが、コウジは「わりぃわりぃ」と言いながらも笑うのを止めない。そして、好きなだけ笑った後、少し笑顔の余韻を残したまま言った。
「まあ、友達が居ねえんじゃしょうがねえな。それじゃ、俺が友達を紹介してやるよ。変わり者だけどイイ奴だから」
 変わり者、という言葉に俺は直ぐに思い当たって口を開いた。
「もしかして、イズミちゃん呼ぶの…?」
「そうだけど、何か問題でもあるか?」
「別に、そういうわけじゃないけどさ……」
 内山イズミ、十八歳。まあ、これと言って問題があるわけじゃないが、人畜無害な性格か?、と訊かれれば答えは間違いなくノーだ。
「なに?、怖い人なの…?」
 ユウキは俺の服を引っ張り、不安そうに俺を見上げてそう訊いてきた。
「別に怖くはないけど……」
「怖いよ」
 コウジは、俺が少しでも安心させようと笑顔を作っていった言葉にそんな言葉を被せ、いとも簡単にぶち壊した。
「えー、怖い人は苦手だなぁ……」
 怖い人が得意って言うのも、聞いた事ないが……
「大丈夫だよ。そんなやたらと人に危害を加えるようなヤツじゃないから」
 そう答えながらコウジは携帯を開き、電話を掛け始めた。
「おう、もし、久し振りだな」
 その途端、受話器越しの声がこっちにまで聞こえて来るくらいの大きな声が響いた。
「コウジから掛けてくれるなんて超ウレシイー!」
「携帯でデッケエ声出すな!、耳がイテーだろバカ!」
 コウジは一際大きな声で怒鳴る。周りの人達は何かと思い、こちらに視線を向けるが、もちろんコウジは気にする様子もなく、ユウキが一人、クスクスと楽しそうに小さく笑っていた。
「早速なんだけどよ、今からカラオケ行くんだけど、男二人に女一人なんだよ。だからオマエも来いよ」
 するとまた「行く!行く!」と、大きな声が聞こえてきた。
「だからデッケエ声出すなって言ってんだろうがバカ!。じゃあ『123(ワンツースリー)』で待ってんかんな」
 それだけ言ってコウジは携帯を閉じると、
「……ったく、相変わらず頭おかしいな、アイツわ……」
 と文句を言った。そんな様子のコウジに、ユウキはニコニコとして言う。
「なんだか楽しそうな人だね」
 コウジは苦笑して答える。
「楽しすぎてブン殴りたくなるぜ」
 それから「じゃあ行こうぜ」と言って、コウジは斜め前に見える小さな茶色の雑居ビルへと向かい始めた。一階はローソンになっていて、二階の窓からは『カラオケ』と書かれた大きな看板が掲げてある。この二つは、俺とコウジが高校生の頃からのヒマツブシの場所だった。

   3
 コンビニの入り口の横の狭い階段を上ると、『カラオケ・123』と書かれたガラスの自動ドアは直ぐに見える。その向こうには、丸メガネを掛けた四十代くらいの男がヒマそうに雑誌をめくりながらカウンターに座っていた。扉を潜るなりコウジは、その男に声を掛ける。
「マスター、飲み放題コース四人分ね」
「おっ、いらっしゃい」
 マスターは俺とコウジに気さくな笑顔を浮かべた。もちろん、このマスターとも高校生の頃からの付き合いだ。
 コウジはカウンターに凭れ掛かって言う。
「今日はヒマそうじゃん。部屋、空いてるでしょ?」
「空いてるけどさ……」
 マスターはそう言いながらユウキに目を向け、それからコウジに言った。
「制服着た高校生に酒は出せないよ」
 するとコウジは「着てなかったらいいのかよ」と、笑い出した。マスターも「それはそれでな」と笑う。二人のこんなやり取りは、高校生の頃からの事だったが、やっぱり俺は見る度に笑ってしまう。
 ふと見ると、ユウキも楽しそうに笑っていた。本当に心の底から笑っているような笑顔だった。

「あとからイズミも来るから」
 コウジがマスターにそう告げてから、俺達は指定された部屋へと向かった。
 店がヒマな事もあってか、マスターは天井からミラーボールがぶら下がっているこの店で一番広い部屋を用意してくれた。すると、馴染みの俺とコウジには、こんな事は珍しくもなかったが、初めてのユウキだけは違ったようだ。
「おおっ!、おっきい!、私、こんな部屋入るの初めてだよ」
 ユウキは嬉しそうに声を上げ、ソファの上へと飛び乗った。そんな高校生らしい反応に俺とコウジは顔を見合わせて笑う。何だか、昔の自分達を見ているようだった。
 そうして俺はユウキの隣に、コウジは対面に座る。と、同時くらいにノックする音が聞こえ、マスターがグラスに入った生ビールを三つとファンタをトレーに乗せて入ってきた。背後に派手なピンク色の人影を引き連れて……
「イズミちゃん来たぞ」
 マスターがそう言う前に、派手なピンク色の人影、イズミちゃんはマスターの背後から飛び出し、いきなりコウジに抱きついた。
「コウジ!、久し振り!」
 派手な化粧と、スリッドの入った派手なピンク色のドレス。長い栗色の髪をアップさせて後頭部で大きく巻いている。いわゆるアゲ嬢とか言う格好。それが内山イズミだった。
「なんだオマエ、今日出勤だったのか?」
「うん。もちろんサボったけどね」
「そりゃいいけどよ、変身は店に入ってからにしろって前にも言ったろ」
「だから、この恰好の方が出勤途中でバカオヤジが声掛けてきてキャッチしやすいからいいんだって」
「オメエ、前はメンドクセエって言ってたじゃねえか」
「きゃー、イズミの言った言葉、覚えてくれてたんだ、超ウレシイ!」
 そう声を上げてイズミちゃんはまたコウジに抱きつき、頬擦りした。コウジはいつものように迷惑そうな顔をする。こんな二人の関係を見慣れている俺とマスターは苦笑を浮かべた。唯一人、ユウキだけがキョトンとしている。
 マスターがドリンクを配り終わって部屋を出た後、未だコウジに抱きついたままのイズミちゃんは「ナオヤ君も久し振り」と、俺にニッコリ笑った。俺は少しだけ笑って答える。イズミちゃんがユウキに気付いたのは、その後だった。
「あれ?、なんだコウジ、後輩が居るなら居るって言ってよ」
 そう言われてコウジは、ハッとした顔でユウキに向かって言った。
「あそっか、その制服、リョウセイ女子か!」
 と、その途端、ユウキが声を上げた。
「えっ?、イズミって……もしかして内山イズミ先輩ですか!」
「そだよ。アタシ、あの学校じゃ有名人だから知ってるでしょ?」
「知ってるどころじゃないですよ!、先輩の伝説、未だに学校で語られてますよ!」
 ユウキは興奮してそう言う。コウジは「伝説ってなんだよ!」と言って笑い転げた。そして、俺も思い出した。一年前にコウジがイズミちゃんを俺に紹介して、初めて三人で遊び、イズミちゃんが話したことを。
 あの日は、イズミちゃんにとって最悪の日だった。二年の一学期の終わりの日。イズミちゃんは、担任の男性教師をホウキでタコ殴りにして退学になった日だった。
「あの頃はイズミも若かったからねぇ……」
 イズミちゃんは演技染みた口調でシミジミと言う。俺とユウキは、そんな口調に笑った。
 気が付けば、仲間三人にゲスト一人という雰囲気だったこの部屋は、いつの間にか仲間四人になっていた。

   4
「そんじゃ、一番、上原コウジ、自己紹介始めます!」
 カラオケ大会を始める前に自己紹介大会を提案したのはコウジだった。ユウキが初対面だったからだ。この男は見かけによらず意外に人に気を使う性格なのだ。
「上原コウジ、二十歳、趣味はパチンコとナンパ、最愛の人は杉村ナオヤです!」
「バカ……」
 俺は呆れて頭を抱えた。隣りではユウキが笑い転げていた。
「なにそれ?、隣りに彼女が居るのに?」
「こいつは、ただのエッチ友達。俺が本当に愛しているのはナオヤ一人だよ」
 コウジがそんな事をあんまりマジメな顔をして言うものだから、その途端、ユウキは「はっ?」と真顔になった。当然と言えば当然だ。コウジは笑顔で言う。
「俺、バイセクシャルだから」
「えっ!、ウソっ?、私そういう人、初めて見た。あっ、じゃあ二人はそういうカンケイだったんだ」
 そこだけは、断固否定させてもらう。
「そんなわけないだろ。俺は至ってノーマルだよ」
「そーなんだよ。ナオヤのヤツ、俺が何度口説いてもオチないんだよ」
「オチてたまるか」
 俺は苦笑しながらコウジに中指を立てた。
 ……とは言っても、コウジの『バイセクシャル』は前からの口癖みたいなもので、彼氏とか何とかって話を俺はコウジの口から一度として聞いたことが無い。
「はいはーい!、次、イズミがいきまーす!」
 はしゃぎながらイズミちゃんは立ち上がると、前に出てマイクを握り締めた。と、同時にスピーカーから音楽が流れ始める。いつのまにか曲を入れていたらしい。
「内山イズミ、十八歳、職業はキャバ嬢、最愛の人は上原コウジです」
 始まった曲は、椎名林檎の『闇に降る雨』だった。イズミちゃんが一番よく歌う曲だ。歌い始めると、ユウキが「うまーい!」と素直に驚いた。確かに上手い。初めて聴く人は大抵驚く。容姿も整っているし、これで『アノ性格』さえ無ければ芸能界でもやっていけそうな気がする。
「ユウちゃん、もっと褒めてやって。アイツ喜ぶから」
 コウジにそう言われ、ユウキはやんややんやと騒いだ。イズミちゃんは歌いながら嬉しそうにユウキに手を振った。
 そうして歌い終わったイズミちゃんは、マイクを俺に手渡した。
「ナオヤ君の番ね。自己紹介した後、何か一曲歌うんだよ」
 とは言われても、すぐに歌いたい曲が見付からない……
「えーと、杉村ナオヤです。二十歳で、フリーターやってます。彼女はいません。歌は……あとで歌います」
「つまんなーい」
 愛想笑いで言った俺に、すかさずそんな声を上げたのはイズミちゃんだった。すると、それに乗っかってユウキも「そうだそうだ」と声を上げた。
「だって、コウジだってまだだしさ、俺もあとでいいよ」
 そんな言い訳をすると、コウジも「男は後でいいんだよ」と助け舟を出してくれた。しかし、イズミちゃんは口を尖らしてユウキに言う。
「男ってさ、女をカラオケに誘っといて、後でいい、とかゼッタイ言うんだよねぇ」
 ユウキも首を何度も縦に振りながら「あっ、それって言えてますね」と、賛同する。ユウキとイズミちゃんが意気投合してくれたのはいいが……
 俺とコウジは、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「それじゃあ、歌わない人を待っててもしょうがないので私がいきまーす」
 ユウキは、空いていたもう一本のマイクを手に取って元気良く立ち上がった。
「綾乃ユウキ、リョウセイ女子高校二年、来月で十七歳になります。イケメンがいたら紹介してください」
 彼氏、いないんだ……
 何となく気になりながら、俺はユウキの横顔を見詰める。ユウキは、せっせとカラオケのリモコンのタッチパネルを押している。入った曲は、なんと椎名林檎の『ここでキスして』
「この曲、イズミだって負けないよ」
 イズミちゃんは、ケラケラ笑いながらマイクを手にして、ユウキと一緒に歌いだした。すると、イズミちゃんはもとより、ユウキもかなり上手く「なんだよ、俺とナオヤが次に歌いづれぇじゃねえかよ」と、コウジはビールを呑み、大きく笑う。
 俺も小さく笑った。
 結局、俺とコウジは何曲かしか歌わず、最後までユウキとイズミちゃん二人のカラオケ大会となってしまった。

 夕方の四時半に始まったカラオケは、午後七時でお開きとなった。二時間半なんて半端な時間で終了した理由は、イズミちゃんの携帯が鳴り響いたせいだった。
「ごめんねー。週末の欠勤はカンベンしてくれって店長、泣きそうな声で言うからさ」
 前にコウジに聞いた話だと、イズミちゃんの勤めるキャバクラは、イズミちゃんがいないと商売にならないらしい。
「これからみんなで朝まで飲み歩こうと思ってたのにさぁ……」
 イズミちゃんは顔を俯かせ、その目は座っていた。ふてくされてる、なんて程度のものじゃない。陰鬱と言ってもいい。しかし、こんな事は別に珍しい事でもなかったし、まだマシな方でもあった。少しでもカンに触る事があると、イズミちゃんはこういった状態になる。『アノ性格』とは、そういう事だ。そしてコウジは、口に出さないまでもこういう時のイズミちゃんを必ず心配する。
「……って、ことだからよ。俺はイズミと同伴してくっから」
 やっぱりコイツはイイ奴なんだと思う。
「ナオヤ、お前はちゃんとユウちゃんを家まで送ってけよ」
「わかってるよ」
 俺は笑顔で答えた。
 コウジは腕に巻きついてくるイズミちゃんを鬱陶しそうな顔で見ながら、イズミちゃんはちょっと振り返って俺とユウキに小さく手を振りながら、二人は板橋駅に消えていった。
 俺はユウキに振り返り、言った。
「さて、それじゃあ家まで送ってくよ」
「ありがとう」
「でも、道順だけはちゃんと教えてな。さすがに初対面の人間の住んでる所までは俺もわからないからさ」
 ユウキは楽しそうに笑った。

   5
 夜空に瞬き始めた星は片手で数えられるほどしかないから、灯り始めた街灯は、大きすぎる星のようだった。そんな人工的な明かりの下を、俺とユウキは静まり返った住宅街を歩いていた。何年か前から作られ始めた分譲住宅地。そこがユウキの家がある場所だった。ただこの場所、板橋駅からは、かなり離れている。ほとんど隣町と言ってもいい。夜といってもやはり夏だ。久し振りに二十分以上も歩いた俺の体はじんわり汗ばみ、かなりの不快感をもたらしていた。
「なんで自転車じゃないの?」
 俺は思わずウンザリした顔で尋ねた。しかし、ユウキは涼しい顔で答える。
「だって、駅前の駐輪場は空いてないし、そこら辺に停めたら直ぐ持っていかれちゃうし」
 まあ、確かにそうだ。
「でもね、慣れちゃえば何てことないんだよ。それに私、歩くの好きだし」
 彼女は、屈託の無い子供のような微笑みを浮かべた。俺も釣られて小さな笑顔を返す。何となく不快感が和らいだ。
 それからユウキは、思い出したように、また口を開いた。
「でもさ、本当にイズミさん大丈夫かな?」
 イズミちゃんの性格の話は、ここに来るまでの間に話していた。コウジがついてるから大丈夫とも話しておいたのだが、やはり気になるらしい。
「あんなの、しょっちゅうだから大丈夫だよ。コウジも慣れてるしね」
「そっかぁ……でも、コウジ君も、もったいないよね。イズミさんみたいな綺麗な人と、どうしてちゃんと付き合わないんだろう?」
「まあ、アイツも色々と考えてるところがあるんだろう」
「ナオヤ君の事とか?」
 ユウキは上目遣いに、ちょっと笑みを含ませてそんな事を言う。俺は、思わず困ってしまった。
「さあねぇ……アイツもマジなんだか何なんだか……でも、マジで言われても困るけどさ」
 ユウキは吹き出し、俺も自分で言いながら思わず笑ってしまった。
「だけど、イズミちゃんは、いつもあんなに綺麗な訳じゃないよ。普段はジャージのスッピンで近所ウロウロしてんだからさ。前にコウジに『お前、眉毛書かねーと妖怪みてーだから何とかしろ』って怒られてたもん」
 すると、ユウキは綺麗に微笑んで言った。
「仲が良いんだね」
「そうだな、二人は……」
「違うよ。ナオヤ君とコウジ君とイズミさん。私も、そんな仲間が欲しかったな、と思ってさ」
 そうか。友達いないとか言っていたっけ……
「その……さ、学校に気の合う子とかいないの?。一人くらいは居ると思うんだけど……まさか、イジメられてるとか……ないよね?」
 大きなお世話なのでは、と思いつつも、どうしても気になって、俺は口ごもりながらも聞いてしまった。だが、ユウキは小さな笑いを含ませながら答えた。
「本当に友達がいないわけじゃないよ。学校に行けば話し相手くらい居るし、メールなんかも結構してるしね」
「じゃあ、なんで…」
「今は遊び友達がいないだけ。みんな結構忙しいんだよ。良い大学入るんだって言って、今から受験勉強始めてる子もいるし、部活に入ってる子とかは、二年なると忙しいしね。私は、勉強はダメだし、部活とかも興味が持てなくてさ」
 彼女は、大きすぎる星のような街灯の光を、遠い目で追いかける。
「一年の頃は楽しかったんだ。仲の良いグループとかあってさ、渋谷とか池袋に買い物に出かけたり、カラオケ行ったり、他の高校の男子と遊んだりしてさ」
 そして、ちょっと笑い、俺を見詰めて言う。
「でも、二年になって気が付いたら、彼氏も出来ていないどころか、遊び友達すらいなくなってしまいましたとさ」
 何だか、切なかった。まるで、自分の事を言われているような気がした。ちょっと前までは、遊ぶといったら六人七人集まって遊んでいたものだが、高校を卒業して気が付けば、周りはみんな自分の事で精一杯。今、遊ぶ相手と言えばコウジくらいしかいない。でも、コウジとだって、今日みたいに遊んだのは一ヶ月ぶりくらいだ。
 彼女の浮かべた笑顔は、とても皮肉っぽくて寂しげで、俺は、胸の辺りをチクチクと針で刺されるような感覚を覚えたが、同時に親近感もわいた。
 ふと、ユウキは立ち止まった。
「ここが私の家」
 どこにでもあるような、小じんまりとした二階建ての白い家だった。家の窓からは、薄暗い明かりが漏れている。その家を背にして、ユウキは今までで一番明るい笑顔を浮かべて俺に言った。
「今日は楽しかった」
「そりゃ良かった」
 俺も精一杯明るい笑顔を浮かべて答えた。
「今日は、声を掛けてくれてありがとう。凄く嬉しかったんだ。誰でも良かったって言ったらナオヤ君に失礼だけど、誰かに声を掛けてもらいたくってしょうがなかったんだ」
「じゃあ、また声掛けるよ」
「うん」と、彼女は子供みたいに頷いた。
 それから彼女は、学生カバンの中から携帯を取り出して言った。
「それじゃあ携帯番号、交換しようよ。忘れてたでしょ?」
 図星だ……
「ナオヤ君って、ナンパとか慣れてなさそうだもんね。『足跡落としましたよ』なんてセリフ、私初めて聞いたよ」
 ユウキは、俺をからかった口調で面白そうに笑いながら言う。俺は、返す言葉も見付からず、ただ苦笑を浮かべた。

   6
 七月も、もう終わろうとしていた。
 俺の好きな風景は、色づく前の涼しげな緑色のススキに染まっていて、梅雨明けと同時に始まった茹だるような暑さを一時忘れさせてくれる。その場所で、俺とユウキの付き合いは続いていた。
 待ち合わせ場所は、いつもそこだった。そこから食事に行ったり、映画を見に行ったり、買い物に付き合ったりしていた。コウジとイズミちゃんが混ざる事もたまにあったが、二人で会うことの方が多かった。しかし、彼氏彼女という意識はお互いに無かった。きっと、お互いが友達に飢えていたのだと思う。
 意外に生きている事が楽しく感じられた。
 家に居る時以外は、だが……

「ナオヤ、今日うなぎが安かったから買ってきたの。一緒に食べるでしょ」
 夕方六時。自室のドアの向こうから、仕事から帰って来た母親の声が聞こえてきた。やけに明るいニコニコした声だった。俺はベッドに座って雑誌を見ながら無感情に答える。
「いらない」
 ドアが開けられ、母親が立っていた。表情が曇っていた。いや、曇っていたなんてもんじゃない。不機嫌が塊になって影になって突っ立っているようだった。
「また、あの綾乃って子と会うの?」
 一度だけユウキを家に連れてきた事があり、ユウキの存在は母親も知っていた。
「また、って言うほど会ってないよ。付き合ってるわけじゃないし。ただ、今日は一緒に食事に行く約束があるだけだよ」
「ふーん。じゃあいいわよ。お母さんは一人で寂しく食べるから。それにしても、高校生の女の子を夜に出歩かせるなんて、あの子の親は何考えてるのかしらね」
 母親は、ドアを閉める轟音と共に居間へと去って行った。
 どうにも耐え難い衝動が俺の体を貫く。
 握った拳が汗ばんでいた。
「ダメだ……ダメだ……ダメだ……」
 呟く言葉とは裏腹に、俺の右手は机に飾っていたコーラのビンを手にして、右足のふくらはぎを何度も何度も何度も殴りつけていた。
 俺には五歳年上の兄貴がいる。その兄貴がよく言っていた。あの人は子離れの出来ない人だと。中二の時、部屋に置いといた友達からもらったアダルトDVDを捨てられ、
「こんな物を見てるから頭が悪くなるのよ!」
 と、ヒステリックに怒鳴られたのをよく覚えている。
 十五の時、父親が脳溢血で死んだ。保険金があったから、このマンションの住宅ローンに追われるような事も無かったが、母親のそれは更に酷くなっていったように思える。俺がトイレに行っている隙に、携帯のアドレスやメールを見られる事など日常茶飯事になった。俺や兄貴が彼女を連れてきても良い顔をした事など一度も無い。そんな母親に嫌気が差し、兄貴は去年家を出た。その晩、母親は泣きながら俺の手を握って俺に言った。
「お母さんの事を本当に思ってくれているのはナオヤだけよ」
 どうしようもない嫌悪感と、捨てきれない感情が交差して、気が狂ってしまった方がマシだと思った。
 右のふくらはぎに薄い青色が滲み出てきて、麻酔でも打ったかのように感覚が無くなり始めた頃、コーラのビンを持った俺の右手は動きを止めた。痛みが、心地良い…
 こんな自傷癖が始まったのは、いつからだったかも覚えていない。つい最近のような気もするし、随分と前からのような気もする。何度となく繰り返す内に忘れてしまった。衝動的に起こる事もあれば、黒くモヤモヤしたものが泥のように溜まって、気が付けばやっている時もある。大抵は足を殴りつけている。以前、頭をタンスに打ち付けた事があるが、脳震盪(のうしんとう)を起こして病院に運ばれて以来やっていない。母親には転んだと言って誤魔化した。その時も母親が原因だったが、言うつもりもなかった。腕はあまりやらない。傷跡がコウジに見付かると怒られるからだ。
 痛みのある内は、嫌な事、鬱陶しい事を忘れられた。更に何かあっても我慢できる。
 ユウキと出会ってからは、大分おさまっていた。こんな事をするのは一週間ぶりだ。
 なんだか、少しでも早くユウキの顔が見たくなった。
 待ち合わせの時間にはまだ少し早かったが、俺はびっこを引きながら、いつもの待ち合わせ場所である一番好きな風景へと向かった。

   7
 大地のすぐ向こうで空が広がっている板橋駅のホームの端っこで、遠くに見えるサンシャインを眺めながら俺はユウキを待っていた。
 陽はもう殆ど沈み、月が輝いている。本当だったら、とっくに池袋に着いて、ユウキが食べたがっていた噂のラーメン屋に向かっている頃だ。
 ユウキが時間に遅れる事などしょっちゅうだった。十分十五分遅れたところで、もう気にもならない。しかし、今日は違った。約束の時間は六時半。俺は携帯を開く。これで三回目だ。デジタルは、七時八分を知らせていた。その時、携帯が鳴った。着信はユウキからだった。俺は慌てて通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。
「ユウキ、どうしたんだよ?」
 だが、ユウキは何も答えなかった。携帯の向こうから伝わってくる重い沈黙は、昼寝してて寝坊したようなレベルの問題ではない事をすぐに知らせた。
「何か、あったのか?」
「ごめんね、ナオヤ。迎えに来て……」
 ユウキの声は、明らかに泣いていた。
「家か?、家でいいのか?」
「うん……」
「待ってろよ。すぐに行くから」
 それだけ答えて俺は携帯を閉じると、足の痛みも忘れて全速力で駆け出した。

 何があったのか、俺にはさっぱり検討がつかなかった。昨日の夜、電話していた時は、あれだけ笑いながら話していたのに……
 何を言えばいい?
 何を聞けばいい?
 もし、泣くばかりで何も答えなかったら……
 ふと、俺の脳裏をイズミちゃんの顔が横切った。
「そうだ、イズミちゃんだ」
 あれ以来、ユウキとイズミちゃんは電話やメールでよく話していた。ユウキの高校の友達を一人も知らない俺にとって、何か聞ける可能性があるのはイズミちゃんだけだった。
 俺は小走りしながらも携帯を開き、イズミちゃんのアドレスを選ぶ。
「もっしぃー。ナオヤ君から電話してくるなんて珍しいじゃん」
 携帯からは、直ぐにイズミちゃんの明るい声が聞こえてきた。俺は余計な事は言わず、単刀直入に聞いた。
「さっき、ユウキが泣きながら電話掛けてきたんだ。何か知らない?」
 すると、向こうでイズミちゃんは押し黙った。俺は強い口調で急かした。
「何か知ってるなら早く教えて!」
 だが、イズミちゃんから返ってきた言葉は、突拍子も無いものだった。
「前から聞こうと思ってたんだけどさ、ナオヤ君はユウキの事、どう思ってんの?」
 俺は思わず立ち止まってしまった。
「どうって……友達だよ」
「だったら、その友達の線、絶対に越えちゃダメだよ」
「はっ?」
「イズミ、まだガキだけどさ、キャバ嬢とかやり始めてから世の中っていうものが見えてきてさ、結構割り切れるようにはなったの。だからユウキの事だって…」
 その余りに回りくどい言い方に、俺はイラ立ちを抑え切れなかった。
「そんなことはどうでもいいよ。知ってるなら教えろよ」
 携帯電話の向こうから、溜め息のような息遣いが聞こえてきた後、イズミちゃんは淡々とした口調で語り始めた。
「少し前にさ、リョウセイ時代の友達と遊んだんだ。その子は、まだマジメに高校通ってる子でさ、その時にユウキのこと思い出して、一コ下だし、知ってるかと思って聞いてみたんだ。イズミは二年なって直ぐに退学なっちゃったから知らなかったけど、綾乃ユウキって言ったらウソツキ女で有名だったらしいんだよね。それでね、みんなにシカトくらって、学校なんか、もう辞めてるはずだって」
 真っ白になった。真っ白い頭の中を、何か恐ろしいモノから必死に逃げ回るように、ただパニックになった。
「ちょっと待ってよ!、絶対、誰かと間違えてんだよ!。だってユウキは俺に、みんな部活や受験勉強初めたから遊ぶ相手が居なくってって話してたんだよ!」
「ナオヤ君、リョウセイ女子のレベル分かってる?。イズミみたいなバカでも受かっちゃうような高校だよ。どの部活だってダラダラだし、テスト勉強すら直前までやらないような子達ばっか集まってるようなとこで、大学なんて目指すような奴が居るわけないじゃん」
「でも、制服着てたし……」
「だからさ、そこが一番ヤバイんだよ。学校辞めてんのに制服着てウロウロしてるってさ、もうウソとか、そういうレベルじゃないじゃん。ユウキに何があるかまではイズミ知らないけどさ、マジでそんな事やってんだったら明らかにオカシイよ」
 俺の脳ミソは、もう返す言葉を作ってはくれなかった。
 イズミちゃんの声が、優しくなった。
「ナオヤ君の悪い癖、コウジから聞いてるよ。だから、言おうかどうか、イズミ、マジで超迷ってたんだ。こんなこと知ったらナオヤ君、ゼッタイ普通じゃいられなくなると思って。でも、コウジは言った方がいいって。今のナオヤがそんな女とくっついたら、もっとヤバイからって。最初はコウジ、お前が言えないなら俺が言ってやるって言ってたんだけど、ユウキの話、友達に聞いて直ぐに言わなかったイズミにも責任が……」
「あのさ」
 俺は、イズミちゃんの言葉を切った。
「さっきはイラ立ってごめんね。ありがとう」
「ナオヤ君、あの子の言う事、信じちゃダメだかんね!」
 声を荒げて言うイズミちゃんを無視して、俺は携帯を閉じた。
 再びユウキの家に駆け出す。あの泣き声だけは嘘じゃないと信じたかった。

   8
 どこにでもあるような、二階建ての白い家。
 周りの家と同じように、この家の窓からも生活の灯りが漏れている。
 ユウキが生まれ育った家。
 俺には、イズミちゃんが言っていたような『綾乃ユウキ』が住むような家には、到底信じられなかった。
 インターホンを押す。微かに、俺の指先は震えていた。しかし、何の応答も無かった。もう一度押してみたが、やはり無い。俺は、もしかしたらインターホンが壊れているのかもしれないと思い、悪いとは思いながらも玄関先の小さな門を開けて中に入り、玄関ドアをノックした。
「ごめんくださーい」
 少し耳を澄ませると、家の中からは小さく床を踏む音が聞こえてきた。俺は、誰か出てくるのかと思い待った。しかし、一分以上誰も出てくる気配は無かった。
 俺は、また外に出て、今度は二階を見上げた。まだ入った事は無いが、前に教えてもらったユウキの部屋だ。明かりが消えていた。俺は直ぐにユウキの携帯にかける。と、意外にもユウキはワンコールで出た。しかし、もっと意外だったのは……
「ごめんナオヤ、もしかして、もう着いちゃったりしてる?」
 やたらと明るい声。さっきの泣き声など嘘みたいだった。イズミちゃんの話が、俺の頭を駆け巡った。
「ちょっと買い物思い出してさ、急いで行くね」
「なあ、ユウキ」
 俺は、今にも詰まりそうな声を振り絞って言った。
「今、どこ歩いてるんだ?。俺も、そっち向かうから」
「んーとね、動物公園わかる?。その辺りなんだけど」
「入口で待ってて。直ぐに行く」
 それだけ言って俺は携帯を閉じる。
 嫌な予感が頭を過ぎる。
 体中をミミズが這い回っているような嫌悪感が、全身をくまなく駆け巡った。
 抑えきれない衝動が貫く。
「あああああーっ!」
 俺は思い切り叫び、何のためらいも無く自分の側頭部を電信柱に打ち付けた。頭をやったのはタンスの時以来だ。
 一瞬、目の前が床用ワックスをぶちまけられたように真っ白になり、危うく脳震盪を起こしかけた。しかし、電信柱に凭れ掛かって座り込むと、徐々に回復していった。
 嫌悪感と衝動は、痛みと共に消え失せた。
 俺は、動物公園へと急いだ。

 薄暗い明かりが照らす公園の入口で、ユウキはローソンのレジ袋を両手で持って立っていた。タウカンの白いTシャツと、ピンク色のジャージという近所仕様の格好だった。長い髪は、飾り気の無い銀色のヘアピンで後ろにまとめている。
 俺の姿を見るなり、ユウキは嬉しそうな笑顔を浮かべて手を振った。
「ごめんね。呼び出しといて待たせちゃって」
「気にしなくていいよ」
 俺は作り笑いを浮かべた。
「どうする?。時間も遅くなっちゃったし、今から池袋行くのもかったるくない?。どっか近くに食べにでも行く?、迷惑料代わりにおごっちゃうよ」
 何事も無かったように、明るい笑顔を浮かべるユウキ。目が真っ赤になって、まぶたが腫れている。明らかに泣きはらした顔だ。自分では気がついてないのか?
『ウソツキ女』
 イズミちゃんの言った言葉が、やたらと頭の中を駆け巡る。
「とりあえずさ、どっか座ろうよ」
 俺は、ユウキの手を引いて公園の中へと入り、近くにあったベンチに腰掛ける。目の前に見える柵に囲まれた小さな人工池のほとりで、フラミンゴが片足で立ったまま寝ている姿が見えた。
「この公園ってさ、小っちゃい頃よく遊びに来たよ。ヤギに餌やったり、モルモット抱っこしたりさ、ポニーにも、よく乗った。あとさ、あのフラミンゴ。なんで屋根も無いのに逃げちゃわないんだろうって、スゴイ不思議だった」
 楽しそうに話すユウキ。
 俺は、俯いたまま口を開いた。
「なあ、ユウキ……」
「なに?」
「お前、さっき泣いてたよな?」
 俺は少し顔を上げ、ユウキを見詰めた。ユウキは、一瞬言葉を詰まらせたようだったが、直ぐにまた顔と明るい声で答えた。
「ああ、あれね。あれはね、映画見てたの」
「映画…?」
「そう。これ言うの超ハズカシイんだけど、あのね、友達からスッゴイ泣けるからって言われた映画のDVDがあってさ、それ借りて見てたの。したらもう、涙止まんないの。でね、ちょっと時計見たら、待ち合わせ時間とっくに過ぎてんじゃん。超ヤバイ!、とか思ってさ、ナオヤに電話したんだけど、もう涙止まんなくって」
 ユウキは一人で大笑いする。
「もしかして心配かけちゃった?、ホント、ごめんね」
 ユウキは、両手を合わせて俺に謝った。
 哀しかった。
 イラ立ちとか、そんなものはマッハの勢いで飛び越した。
 なんて見え透いたウソ……
 俺は、再び俯き、静かにユウキに告げた。
「俺、ユウキの家に来る前に、イズミちゃんと電話してたんだ。イズミちゃん、全部知ってたよ。お前が高校生だった時の話……」
 それでも俺は、否定する言葉を聞きたかった。
 それでも俺は、分からない顔をしてもらいたかった。
 ユウキは黙っていたから、俺は、ふとユウキに目をやった。
 ユウキは、両手で顔を覆い、声も無く、涙を流し続けていた。
「ユウキ……」
「いつかはバレるってわかってた……でも、楽しかったから……」
 泣き続けるユウキに、俺は何と声を掛けていいかわからなかった。自分の胸を引き裂きたい感情に駆られながらも、俺は、ただユウキを見詰める事しか出来なかった。
 すると、不意にユウキは立ち上がり、背中を向けて俺に言った。
「ごめんなさい、ウソツキ女で。もう連絡もしないから……」
 俺から逃げるように駆け出すユウキ。俺は、咄嗟にユウキの腕を掴んで引き止めた。
「ちょっと待ちなよ。俺、何も納得出来てないよ」
 何か聞いたところで、納得なんて出来ないのかもしれない。それでも構わなかった。初めて声を掛けたあの日、ユウキに惹かれたのは紛れも無い事実だったから。
『好きなものに近付いてはいけない』
 だから俺は友達でいた。でも、少しずつ近付いていたみたいだ。
 その結果が、これだったのか?
 信じたくなかった。
「なあユウキ。俺、わかってあげられないかもしれないけど、これだけは約束出来るよ。お前を軽蔑するような事だけは絶対無いって」
 掴んだ腕から力が無くなる。
 ユウキはまた俺の隣りに戻ってきた。
 涙を拭いながら言うユウキの声は、とても小さいものだった。
「どこから……話せばいいのかな……」
「どこからでもかまわないし、話したくなければ、無理して話す必要も無いよ。ただ俺は、今までこれだけ一緒に遊んできたのに、明日からは赤の他人になりましょう、っていうのが耐えられないだけだから」
 ユウキは、俯いたままジッと地面を見詰めている。ユウキの細くて小さい体が、もっと小さく見える。俺は、ユウキが話し出すのを待った。
 そんな時だった。不意に、俺の頬を冷たいものが流れた。俺は何かと思い、それを手で拭う。血だった。
「ちょっと、なにそれ!」
 気付いたユウキは、俯けていた頭を跳ね上げて声を上げた。
「ここに来る時に転んだんだ……」
 電信柱に頭を打ち付けた後、血が出ていた事は気付いていた。だから、ハンカチを傷口に当てて少し休み、血が止まったのを見計らってここに来たのだが、完全には止まってなかったみたいだ。
「大した事ないよ……」
「そんなわけないじゃん!」
 ユウキは、声を荒げて立ち上がり「ちょっと見せて」と、頭の傷を見る。そして、厳しい顔で俺を見下ろして言う。
「どういう転び方すれば、こんな傷が出来るの?。もしかして誰かにやられたの?」
「そんなわけないだろ」
「それとさ、聞きたかったんだけど、ナオヤ、さっきから歩き方おかしいよね?。初めて会った時もそうだったし、スゴイ気になってたんだけど」
「これも、転んだんだよ……」
「ナオヤってそんなにしょっちゅう転ぶの?、違うでしょ?。ちょっと足、見せてみなよ」
「大丈夫だよ」
「いいから見せろ」
 ユウキは、無理やり俺の右足の裾を捲った。青黒い大きなアザが広がる俺のふくらはぎが露わになる。公園の薄暗い電灯に照らされて、それは深く暗い穴のように見えた。ユウキは、それをジッと見詰め、それからすくっと立ち上がった。
「私、その頭の傷の薬と足のやつ、直ぐに買ってくるから、ナオヤはここで待っててよ。絶対待っててよ」
「大丈夫だよ。それよりも……」
「私の心配より自分の心配しろよ、バカっ」
 そんな捨てゼリフを残し、ユウキは走って公園を後にした。
 まいった……
 考えてみれば、俺だってユウキの事をとやかく言える立場の人間じゃない。今更そんなことに気付くなんて……
 頬を、今度は暖かいものが伝った。

 二十分くらいして、ユウキは息を切らせながら帰って来た。そして俺を見るなり、
「まだ血出てんじゃん。自分で押さえるかなんかしなよ、バカっ」
 と、怒りながら手に持っていたドラッグストアの袋から脱脂綿を取り出し、それを近くにあった水飲み場で湿らせて俺の頭の傷に当てた。
「傷、深いけど擦りむいてるだけで切れてはいないみたいだから、冷やしておけば血は止まると思う。ちょっと自分で押さえといて」
 俺は、言われるままに湿った脱脂綿の上から傷を押さえる。冷たくて気持ちが良かった。その間、ユウキは今度は湿布を取り出し、それを右のふくらはぎのアザに張って手早く包帯で止める。それが終わると、頭の血を綺麗に拭って消毒液を取り出して傷に吹き掛け、新しい脱脂綿を傷に当てた後、黒いヘアバンドを取り出し、それで脱脂綿を押さえた。
「はい、終了」
 ユウキは、さくらんぼみたいな小さな笑顔を俺に向けた。俺も、薄く笑みを浮かべる。
「なんだか、慣れてるんだな」
 ユウキは、出たゴミをドラッグストアの袋に片付けながら答える。
「慣れてるわけじゃないけど、保健体育は得意だったから」
「ああ、保健体育か……」
 すると、ユウキは動きを止めて、俺をジッと見詰めると、からかった笑みで言った。
「今、エッチなこと考えたでしょ?」
「はあ?」
 俺は思わず声が裏返った。
 それから、俺達は笑い合った。

  9
 公園を照らす薄暗い電灯に、何かを求めるように羽虫がたかっている。
 目の前に見えるフラミンゴは、相変わらず人工池のほとりで片足のまま静かに眠っていた。まるでピンク色した花瓶みたいだ。
 向こうの広場の方から、男女混ざり合ったハシャグ声が、電波の悪いラジオみたいに遠く聞こえてくる。ついさっき、俺とユウキに興味深そうな視線を送って通り過ぎていった夜遊びの中学生達の声だろう。
 それ以外は静かなもので、車道も遠くにあるせいか車が走り去る音も聞こえない。
 だから、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「あのさ……」
「あのね……」
 どっちからともなく声を出し、声が重なり合った。
「ユウキから話しなよ」
「そっちが先でいいよ」
 ラチがあかない。
 お互い、誰かに気安く言えないようなものを抱え込んでいる事は、俺もユウキもわかっていた。さっき笑い合った後は、随分と気は楽になったのだが、それからは口を針と糸で縫われてしまったかのように開かない。ユウキも、チラリと俺の方を見ては視線が合うと俯いてしまい、やはり何も言わない。そうして、やっと縫われた口を無理矢理にこじ開けたのだが、タイミングが合ってしまった。
 余計、喋りづらくなった。
 ノドの辺りがチクチクした。
 そんな時、
「なんかさ!」
 不意にユウキが声を上げた。試合前の野球部員が、気合いを入れる為に出すような感じに聞こえた。
「あの、あのね、さっきも言ったけどさ、私、どこから話していいか分からないんだよね。色々ありすぎちゃって。ナオヤも色々あるみたいだし、私の気持ち、分かるでしょ?。だからね、どこから話そうか?」
 言ってる事が支離滅裂で、まるで小学生が話しているみたいだった。今は気持ちが落ち着きすぎて、逆に整理がつかないのだろう。
 俺と一緒だ。
「そうだな……よくわからないけど、とりあえずさ、俺から話すよ」
「ナオヤはいいよ。私は、ナオヤに迷惑かけちゃったから話す義務があるけど、ナオヤは……」
「俺さ……」と言って、俺はかまわず話を続けた。
「ガキの頃から、母親にはカワイイカワイイって言われて育ってきてさ、でも、この歳になってまでそう思われてたりすると、もうそれは、殺したくなるくらいウザイだけで、でも、殺す事も出来ないから、自分を傷つけて、自分を殺し続けてきたんだ……」
 ユウキは、俯いたまま小さく頷いて、ピンク色のジャージの裾から出している素足につっかけた青いミュールを眺めながら言った。
「そういう気持ちは、私にもわかるよ。私も、何度お父さんを殺そうと思ったかわからない。だけど、私のそばに居てくれる、たった一人の肉親だから……」
「母親、いなかったんだ……」
「いるよ、継母がね。一つ下に妹も居る。継母の連れ子。本当のお母さんは、他に男作って出て行っちゃった。お父さんは再婚する時、時間が経てば本当の家族になれるよ、て話してくれたけど、三年経った今も、一つ屋根の下で他人同士が暮らしてる」
「他人同士か。俺も兄貴が居るけど、一年前に出て行ったら他人同士になっちゃったよ。それも、全部母親のせいなんだ。でも、その内に母親以外の事でも、俺の中には真っ黒い廃棄物みたいなものが溜まり始めてさ、気が付けば、自分の足や腕や体を殴りつけてた。この頭の傷は、ユウキの家の前で、ユウキに電話した時だよ。泣いていたはずなのに、笑って話してるから。イズミちゃんの話がさ、頭から離れなかった……」
 ユウキを責めるつもりは無かった。ただ、全てをありのままに正直に話したかっただけだった。でも、ユウキは小さな声で「ごめんね」とあやまった。
「私さ、知ってるだろうけど、ウソツキ女なんだ。高校に入学して、家庭環境の事を聞かれた時についたウソが最初だったように思う。『お母さんは継母だけど、本当のお母さんみたいです』『妹のマミとは血は繋がってないけど、優しくて本当に良い子です』『お父さんはいつも家族の事を考えてくれている最高のお父さんだと思っています』もちろん全部ウソ。お母さんが男作って出ていったのだって、お父さんの浮気が原因なのに、再婚して二年も経たない内に、もう他に女が出来てた。継母とは、いつもそれでケンカになって、だけど、あの継母は情に縛られて別れる事も出来ないで、お父さんが家に居ない時は、お前の父親は救いようの無いロクデナシだって、私、いつも言われてる。妹のマミは、アンタのオヤジに私の人生はメチャクチャにされたって言って、年上の私より先に家を出て行っちゃった」
「出て行ったって…まだ十五、六だろ?」
「体売りながら男の家、転々としてるみたい。前に偶然コンビニで会って、そう話してた。不思議だったのは、一緒に暮らしてた時より、お互い素直に話せたこと。最後には、ユウキさんもあんな家には見切りつけて早く出た方がいいって、心配までしてくれた。彼女は彼女なりのやり方で、それなりの幸せ、っていうのを感じてるみたい。幸せを探せる事に幸せを感じているのかな……わからないけど……」
「早く出た方がいい、か。俺の兄貴と似たようなこと言ってるな……」
 残された人間の事なんて何も考えてないから、心配も出来るのだろう。それが悪い事だとは言わない。結局、自分の事は自分で何とかするしかないのだから。
「まるで、他人事だ……」
「そう……タニンゴト……」
 ユウキの言葉は、独り言のように聞こえた。
 それから、俺達の間には深い沈黙がゆっくりと落ちてきた。
 フラミンゴは、相変わらず片足で寝ている。
 夜遊びの中学生達の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 電灯にたかる虫の羽音だけが、やけに響いていた。

   10
 長いことフラミンゴの目の前に居たから、今の俺の頭の中は、以前テレビで見たフラミンゴの映像が離れなかった。動物番組だったか、CMだったか、よくは思い出せないけど、やたらと印象に残っているピンク色。
 大きな翼を広げ、アフリカの上空を飛ぶフラミンゴの群。青い空がピンク色に染まっている。あれだけ優雅に大空を羽ばたくのに、地に足をつけた途端、なぜだか不安定な片足になる。
 まるで、ユウキみたいだと思った。
 食べる事と、喋る事と、笑う事が大好きなユウキ。
 世間一般が思い描く明るい女の子を絵に描いたような少女。
 でも、それは『ウソ』という名の翼。翼をたたんだ途端、とても不安定な片足になる。
 ユウキは、細く白い腕を力いっぱい俺の首に回し、長い髪を大きな枕の上にクジャクみたいに広げている。俺の腰の動きに合わせて、小さい乳房が俺の胸で揺れていた。今にも途切れそうな、か細くあえぐ声と吐息が、いつまでも鼓膜に残った。
 音を立てて揺れるベッドの下には、お互いに脱ぎ散らかした服と下着。俺のナイキのバッシュに、ユウキの青いミュール。
 巣鴨の、とあるラブホテルの一室。
 そこで俺は、ユウキを抱いた。

 巣鴨なんて場所に辿り着く前……
 夜遊びの中学生達の声も消えた沈黙の公園で、お互い発する言葉も無く、ユウキは俯いたまま組んだ足をぶらぶらさせ、俺はそれを眺めていた。
 青色のミュールが、ユウキの素足の先でふらふらとぶら下がっている。靴だけが迷子になっているような、そんな感じ。
 その感じは、俺を居た堪れない気持ちにさせた。
「少し歩こうか……」
 ユウキを見詰めて俺は言った。ユウキも俺を見詰め、声無く頷いた。
 どこ行く当ても無いどころか、右も左も選ばず、俺達はただ歩き続けた。商店街とか、住宅街とか、近所の高校の裏とか、国道で流れる車のヘッドライトを眺めながらとか。
 無秩序に流れてくるメロディのような町の喧騒。
 酔っ払いの笑い声。
 街角にたむろする男女の話し声。
 色々な風景と音が入ってきて、俺達はそれに溶け込んだ。肩を並べ、近付き過ぎず、離れ過ぎず、お互いがちょうどいい距離から好きな風景を眺めるように。
「これさ、ナオヤに知ってもらいたくって、さっき買ったんだ……」
 歩きながらユウキは、右手にぶら下げていたローソンのレジ袋に手を入れる。
 ユウキの細い指にからまるように挟まれていたのは、ムラサキ色の安全カミソリ。
 一瞬、立ち止まってしまった俺に、ユウキは寂しそうな笑顔を浮かべて言うのだった。
「してないよ、リストカットなんて。そんな勇気、私には無いもん」
 ユウキは、フタで閉じられたカミソリの刃の部分をゆっくりと親指で撫でる。まるで、マスコット人形でも弄んでいるような仕草だった。
「初めはしようかと思ったけど、やっぱり出来なかった。だから、こうやって首筋や手首に当てるの。当てるだけ。それで、自分を殺すの……」

 今、俺に抱かれているユウキは、俺の首に回した腕に更に力を込め、強く唇を求めてくる。

「一つのウソが、どんどん大きくなっていくの。ウソにウソを重ねて、その上にまたウソを重ねる。その内に、どれが本当の事かわからなくなってきちゃって、全部本当の事のように思えてくる。だけどね、どんどん自分が歪んで見えてきて、耐え切れなくなった時に、カミソリを買ってきて当てるの。そうやって一度死んで、リセットすんだ。だから、私の机の引き出しは、カミソリに埋め尽くされてる……」

 唇を離す。
 強く吐かれた吐息が、俺の耳をくすぐる。

「ウソをつくと凄く楽になったから、その内にさ、行ってもいない海外旅行の話をしたり、居もしない彼氏の話とかするようになっちゃって……そんなの、バレるに決まってるよね。みんなにウソツキ女って呼ばれるようになって、シカトされて、居ずらくなって高校やめちゃった。でも、本当はやめたくなかったから、今でも同じ時間に起きて、制服着て、同じ時間に家を出て、同じ時間に帰って来てる。渋谷とか池袋ウロウロして、自分は学校をサボってるだけだって言い聞かせて、自分にもウソをつき続けてる。ウソで固めなきゃ、もうやってられなかったから……」

 腰を持ち上げて、のけぞるユウキ。
 また、強い吐息が俺の耳をくすぐる。
 なんだか、泣いているように見えたその顔は、幻のようだった。今じゃ、あの泣いていた声だって、幻のように思える……

「あれは、いつものこと。お父さんと継母がケンカして、お父さんが女に逃げて行って、継母がいつものように物投げながら私を罵って……それだけ……いつものこと……」
「つらいな……」
 ユウキの横顔に、そう呟いた俺。
「慣れたよ……」
 どこも見ないで、呟いたユウキ。
 その言葉が、俺に言う最後のウソであってほしいと願った。

   11
「つかれたー」
 ユウキはパンツだけの格好でベッドに大の字になり、そんな声を上げた。
「あれだけ歩いた後にエッチなんてするもんじゃないね。この疲労感、マジ、シャレになんない。あっ、ナオヤ、クーラー強めて。マジ、超暑い」
 ベッドに腰掛けてセブンスターを吸っていた俺は、言われた通りリモコンを手にとって最高の十八度まで下げる。安いラブホテルの安い部屋に設置された安物のクーラーは、最低温度に設定すると同時に、呑み過ぎたオヤジのうなり声のような音を立て始める。
 火照った体に冷風が当たって心地良かったが、このままトランクス一枚で三分も当たっていたら汗まで凍りつきそうな感じがした。それほどに冷たい、十八度の風。
 しかしユウキは「涼しい……」と、恍惚の表情で呟きながら、おかまいなしに裸をさらけ出している。
 懸命に部屋の気温を十八度まで下げようとするクーラーの冷風。
 一分も経つと寒くなってきた俺は、暖かい物が欲しくなり、部屋のテーブルに備え付けてあった緑茶のティパックでお茶を入れようと立ち上がった。
「ユウキも飲むか?」
 言いながらカップにティパックを入れて振り返る。
 と、ユウキは静かな寝息を立てていた。
 ベッドの枕元にはめ込まれた緑色のデジタル時計は、21時56分を表示している。
 一般的に見て、十六歳の女の子が眠りに落ちてしまう時間じゃない。よほど疲れていたのだろう。
 ダブルベッドにパンツ姿のまま、大の字になって眠りに落ちてしまったユウキ。無防備な姿と寝顔は、まるで小さな子供みたいだ。おまけにパンツの柄まで、クマのキャラクターが散りばめられた子供が履いてそうなパンツだったから、尚更にそう見える。
「ナオヤとこんな風になるなんて思ってもなかったから……もっとカッコイイ勝負パンツとかあったのに……」
 部屋に入って、キスをして、俺がユウキの服を脱がし始めた時に、ユウキが言った言葉。ちょっと、ふてくされたような顔をして、恥ずかしそうな声で言った言葉。
 ユウキが全てを話し終えた後は、これといった会話も無く、どこまでもどこまでも俺達は歩き続けていた。
「ちょっと疲れたね。休まない?」
 地蔵通り商店街を抜けて、三田線の巣鴨の駅が遠くに見えた頃、ユウキはそう言ったのだった。言われなければ、俺はきっとユウキを連れたまま朝まで歩き続けていたかもしれない。
 何も考えずに歩いていた。
 考える事をしたくなかった。
 前を向いて歩いているようで向いてはなく、どこかを見ているようで、どこも見てなんてない。
 ユウキも同じだったと思う。
 休める場所を探して突き当たった場所が、このホテルだった。
「ここでいいか?」とも俺は聞かなかった。ただ、自然に俺の右手はユウキの左手を握っていた。ユウキの左手は、とても自然に俺の右手を握り返してきた。
 香りなんてほとんどしないお茶を、椅子に腰掛けて俺はゆっくりと口に運ぶ。薄緑色が、カップの中で波紋を広げる。美味しいとか不味いとか、そんな事すら思わせない程の薄い味。思わず笑いそうになる。
 俺は、リモコンを取ってクーラーを弱める。
 ユウキの小さな体。
 小さな手足。
 小さな胸。
 ちょっと広いおでこ。そのおでこをそっと撫でた後、俺は静かにユウキに布団を掛けてやった。寝返りをうったユウキは、何を言ってるかもわからないような小さな寝言を呟く。
 そんな寝姿は、俺が今まで見てきたユウキの中で、一番幸せそうに見えた。
 椅子に戻って、テーブルに置いていた味気ないお茶を俺はまた口に運ぶ。
 味も香りも無い、ただ暖かいだけのお茶。
 余計に自分の感情が際立って見えてくる。
 俺は、ハッキリとユウキを愛おしいと感じていた。

ここで一番好きな風景 前編

最後まで読んでいただきありがとうございました。m(_ _)m
中編へと続きます。

ここで一番好きな風景 前編

心の葛藤を自分の体を傷付けることで晴らす青年、ナオヤ。 そんな彼を癒してくれる唯一つの場所は、JR板橋駅のホームの端から見える空と地上が混ざり合う風景。 その場所でナオヤは、女子高生のユウキと出会う。 見かけたユウキに声をかけるナオヤ。だが、一目惚れというわけではなかった。 それは、ほんの気まぐれ・・・ しかしその気まぐれは、ユウキの心に深く響く。深い傷を負った心に・・・ お互いに心に傷を持った男女が織り成す青春群像ラブストーリー。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-01-11

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著作権法内での利用のみを許可します。

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